ヘイデン君と、ユアン様 4
ユアンは、ヘイデンを運転手にして町のパスタ屋へとしけこんだ時の「あの」自転車に乗っていた。たくさんの荷物を運ぶことを目的とした不恰好なあの自転車だ。高級車だって、愛するバイクだって、何台も所有する彼が、それに乗らなければならない理由はなかった。しいて言えば、撮影が待ちになってしまったユアンは、暇だった。そして、ふと、目に付いたあの自転車に乗りたくなったのだ。
あっちにもこっちにも山済みになっているセットの残骸や、いろいろな撮影道具を器用によけながら、広いといえば、確かに飛行機の格納庫ほどの広さがあるのだが、人も、物も溢れた場所で、ユアンは自転車を乗り回す。
ユアンは、あっちにもこっちにも声をかけながら、楽しげに古臭い自転車を漕いでいる。二人が出かけた後、さらに、重いものでも運ぶ使役にあったのか、自転車は、ギイギイ音まで立てていた。
そんなのに乗りながら、楽しそうなユアンに声をかけられ、現場のスタッフは、苦笑するしかない。
「怪我しないようにしてよ」
「邪魔だよ。ユアン、もっと広い、あっちで乗ってくれ」
ユアンが、自転車に乗ることに決めたのは、ほんの気まぐれだった。
しかし、その気まぐれに、不幸なスタッフが巻き込まれた。
そこは、調度、建物のセットが立ち、そこは街角の曲がり角とかわない場所だ。
大きな荷物をかごに入れ、ユアンと同じタイプの自転車にのった若いスタッフが、自転車でその角に差し掛かった。
スタッフは、前が見えにくかった。そして、ユアンは、余所見をしていた。
「あっ、危ない!」
交通事故だ。
スタッフが、ふらふらと自転車に乗っている主役に気付き、声をかけたときには遅かった。
二人との低速であったこと、スタッフが、自分の持てる限りの力でもって、ブレーキをかけたこと。ユアンが、ぶつかる直前には、自分とスタッフとの間には、何事もなく済ませられるだけの距離がないことに気付いたのが幸いだったのかどうなのか。
スタッフは、どんっという衝撃のあと、その場で、ぎゅっと目を瞑ったまま、自転車を跨いだ状態で足をついて立っていることが出来た。
しかし、ユアンといえば、後ろにひっくり返った。
ユアンは、自分のほうに、余分の過失があることを知っていた。いくら暇だったとはいえ、忙しく仕事で走り回っているスタッフが溢れるこんな場所で遊んでいた自分が悪い。
ユアンは、スタッフに気付くと同時に、力いっぱいブレーキをかけた。それでも、古い型のそれが、思い通りに車輪を止まらせないとわかると、せめて、荷物を運搬中のスタッフに思い切りぶつからないようにしようと決意した。
スタントもこなす若いユアンだったから、できたのだろう。
ユアンは、相手の前輪に自転車がぶつかっている最中に、自転車のサドルをぎゅっと掴んで、自転車の前輪を直角に曲げた。勿論、バランスが崩れる。そこで、ひらりと自転車から、飛び降りたユアンは、しかし、その自転車ごと、後ろへと倒れこんだ。
重い自転車が、ユアンの上にのしかかっている。尻餅をついたユアンは、大また開きだ。それも、たいそう豪快に。
「大丈夫ですか?」
「平気。平気」
思い切り尻餅をつき、ひっくり返ったカエルのように足を宙にむけて折り曲げているユアンは、自転車の下から応えていた。声は普通だが、ユアンの目は、自分の失態に呆然と撮影所の高い天井を見上げている。
くそう。やたらと、天井が高いな。と、どうでもいいことに当っている。
「立てますか?」
スタッフは慌てて、自転車のスタンドを立て、ユアンに近づく。
「平気だって。そっちこと、怪我はなかったか?」
「はい!」
こんな場合だというのに、主役に直接声をかけられ顔を真っ赤にしているスタッフに声を返しながらも、ユアンはなかなか立ち上がれずにいた。自転車が重かった。いや、本当をいうと、立ち上がれなかったのだ。ユアンは、みっともなくひっくり返った自分がものすごく恥ずかしかった。ユアンは、もっと格好良く倒れこむつもりだったのだ。コケたとはいえ、颯爽と。ひらりと自転車を飛び降り、着地する自分。さすが、アクション俳優。
しかし、自転車が重すぎた。
ユアンの思い通りに体が動かなかった。
「怪我はありませんか?」
怪我はないが、自転車の下敷きになったまま、立ち上がれずにいる自分がユアンは恥ずかしい。サドルだって、掴んだままだ。
「お〜い。ユアン、どうした?」
「何? 転んだのか? だから、こんなところで遊ぶなと言っただろう!」
騒ぎに、スタッフたちが声をかける。
この最悪な現場に、誰も、寄ってこないことをユアンは願っていたが、しかし、このスタジオにいる人間は、親切で善良な人間ばかりだった。走り寄る足音が聞こえ、いまだ抜け出せずにいる自転車の下から、ユアンは、神を呪う。
スタッフたちは、主役の怪我の状態を確かめることも含め、ぞろぞろと事故現場の検証に現れ始めた。
しかし、ユアンは、格好よくなかった自分のショックから抜け出せず、まだ、立ち上がれずにいた。心は焦るのだが、あまりな自分の失態に、体が呆然として、笑っているときのように、力が入らない。
「おやまぁ、豪快にコケて」
「怪我はないか?」
なんとか、ユアンが、そのショックを、「今日は、たまたま運が悪かっただけ」と、やり過ごし、立ち上がる頃には、ユアンの回りには、人垣が出来ていた。
「平気か?」
平気ではない。
「怪我はないか?」
ないない。どうせ、尻は柔らかいさ。
「ぜんぜん平気」
にやりとユアンは笑って見せた。
だが、みんなに、自分のみっともない姿を見られたことは、ユアンにとって、とてもショックだった。自転車にのしかかられたまま、道路にひっくりかえったカエルみたいに、ユアンは呆然としていたのだ。高々、自転車から飛び降りるという作業がこなせなかった。いや、いっそ、スタッフの自転車に轢かれて、腹の上に車輪の跡くらいついていれば、笑いだって取れたのに。
ユアンは、激しく傷ついていた。転んだとき、自転車のベルにぶつけたらしく、ほんの少しできたかすり傷ができていた。だが、そんな傷なんかよりも、プライドが、ずっと、ずっと軋んでいたのだ。
ヘイデンは、ユアンの傷口を舐めさせられていた。
年若い俳優は、セットの裏で、小さな子猫のように、ぺろぺろと舌を伸ばし、ユアンの傷口を舐めている。
別段、ヘイデンがやりたいと言ったわけではない。それどこか、ヘイデンは、ばい菌がはいるからと、ご辞退申し上げたのだが、ユアンが許さなかった。ヘイデンは、小さな傷口を舐めている。
「……ユアン」
「ん?」
ヘイデンに片手を渡し、むすっとした顔で、その仕事を眺めていたユアンは、年下の声に、ヘイデンの顔を見た。
「そろそろ終わりにしませんか?」
「まだだ、まだ、治ってない」
口の周りを濡らし、情けない顔で見上げてくる年下に、ユアンは、きっぱりと終わりを否定する。
人間の傷口は、舐めたからって治らない。そんなことは、ユアンだって百も承知だ。だが、今は、ユアンは、この年若い俳優を顎で使い、傷口をたっぷりと舐めてもらう必要があった。
この情けなくも愛情深い顔をしたヘイデンに。それは、もう、熱心に長いこと。
普段なら、悪意を感じさせるほど整った顔をしている若い俳優は、今、ユアンの命令に従うため、子猫のように舌を伸ばしている。
きっと、舌だって、疲れてきているだろう。
「なぁ、……ヘイデン、今晩、うち、来る?」
暖かく湿ったヘイデンの舌の感触に、ユアンの中で訴えるものがあった。
こうやって舐められてもっと気持ちのいいところがある。
「いいんですか?」
提示されたご褒美に、ぱぁっと、太陽が差し込むように、ヘイデンの顔に笑顔が広がった。
「おう。そのかわり、もっと気合いれて舐めろ。すぐ直せ。今すぐ、この傷を治せ」
ヘイデンの舌が、ユアンの傷口を舐めれば、実は、ユアンにぴりっとした痛みを与えていた。しかし、ユアンが、本当にヘイデンの舌で治療してもらっているのは、手に出来た傷ではなく、格好悪い自分をみんなに見せてしまったというショックなのだ。
だから、この際、小さな痛みは、何の問題にもならない。
「いくら舐めたって、治りませんって」
ヘイデンは、仕方がないなぁ。と、いう顔で笑いながら、また、舌を伸ばした。
そっと、繊細にユアンの傷口を舐めてゆく。
ユアンは、ヘイデンほどの男に、大事にされるに足る男なのだという確認がしたかった。
見てみろ。ヘイデンなんか、この俺のためにミルクを舐める小さな猫みたいに、舌をぺろぺろさせている。この男が、こんな真似をする相手は、俺だけだ。
カエルのようにひっくり返ろうが、俺だけ。
そういや、今晩、あのポーズでエッチするの、いいかもな。
十分、ヘイデンに尽くさせ、満足したユアンは、ヘイデンから手を取り上げ、唾液で濡れたそこが嫌だというように、つよく手を振り回した。
「よっしゃ。じゃぁ。8時な。お前、なんか、美味しいもの見繕って来い」
ヘイデンは、傍若無人な年上の態度に情けなく笑ったまま、ユアンに質問した。
「食べに出ないんで?」
「いちゃいちゃする時間が減るだろ?」
どうやら過分にもらえそうな褒美に目を輝かせたヘイデンをユアンは笑ってセットの裏から出て行った。
そして、ユアンは、苛立ちとともに壁にもたせ掛けておいた「あの」自転車を、また、跨ぐのだ。
「おい、ユアン、それで、コケたんだろう? 大丈夫なのか?」
「はぁ? 俺がこの愛車でコケだって? そんなのガセネタじゃねぇの?」
大きく蛇行したユアンが、うそぶく。
ぶるんぶるんと、バイクのエンジンを吹かす音を真似、一瞬だけのウィリーを披露する。
「危なねぇって、ユアン!」
ユアン様は、懲りない。そして、ユアン様は、いつだって元気だ。
なぜなら、ユアン様の恋人は優しいのだから、多少ユアン様がへこむようなことがあっても、すぐ立ち直るのだ。
END