ハワイの落書き 15
*29(将来的三角関係の続き)
狭いロッカールームは、なぜかいつも気温が低い。
各自部屋の割り当てがあり、女性はともかく、自分達がここで着替える必要はあまりなく、久々の場所で着替えながら、がらにもなくダニーは緊張している。
これから言おうとしていることに、口の中が干上がりそうだった。何度か大きく息を吸い、背中を向けて手早く着替えているチンに話しかける。
「なぁ、チン」
「なんだ?」
「あんたの裸を見せてくれって言ったら、見せてくれるか?」
言って、ダニーは叫びだしたくなる。自分が正気だとは思えない。何を言っているんだと思うのに、しかし、これを言い出すために、ダニーはホノルル警察が警官用に契約しているジムの利用許可までわざわざ取った。ロッカールームで二人きり、チンと着替えてジムに行くという、ただそれだけのためにだ。
「……ダニー?」
チンの声が強張っている。
「色々、あんたが言いたい事はわかる。俺だって自分がおかしいこと頼んでるのもわかってる。スティーヴの留守に、また無茶言って付け込んでるってのも知ってる! でも、あの馬鹿がいる時に、あんたにこんなこと頼めるか!? 俺のちっちゃいハートに、こんな勇気が湧いてくるのは、あいつのいねぇ時しかねぇんだよ!」
友人の結婚式のために本土に飛んでいるスティーヴは、明日帰って来る。ダニーだって、もっと早くこの要求を言い出し、すっきりしたかったのだが思い切りがつかず、このぎりぎりまで結局、言い出せなかった。
何が悪いって、スティーヴを送りに出た、チンがあきらかにやったという艶っぽい疲れ顔で戻って来たのがいけない。スティーヴが簡単にやってみせることを、自分ができないと思っているのは、間違いなんじゃないのかという気がしてきていた。
そこをまず、はっきりさせておこうとダニーは決断したのだ。
全部脱げと要求するダニーに、チンがためらうだろうというのは、勿論予測できた。
スポーツ用のTシャツに袖を通そうした姿勢のまま振り返ったチンは、困った顔をしている。
その姿をばっちりダニーは視界に収めた。
「よし、乳首には何の反応もなし。っていうか、乳首までなら、何回か見たことあるもんな。そんなんで反応してたら、俺、犯罪者だってのな!」
自分で要求したことに、キレかかっているのか、小さいね、かわいいねと、乳首の形状を言いたてるダニーに、チンは恥ずかしくなり思わずTシャツで胸を隠す。するとダニーが顔を覆って、わざとらしく開いた指の間からチンを見た。
「やめてくれよ、チン。そうやって隠されると余計にやらしいんだって、健全に行こう! そのトレパン、もう、ずるっと脱いじゃってよ! あんたのペニス見て、俺がやっぱり無理だわって思えば、それでもう終わりなんだから」
むちゃくちゃなことを言うダニーは、まだ、指の間から、チンを見つめている。はすっぱな軽口より、ずっと真剣な目が、チンの肩の盛り上がりを見つめて行き、引き締まった腹や腰のラインを舐めていった。
息をつめているダニーの緊張に、チンまで思わず緊張する。
旅立つ前にスティーヴの言った浮気はあり得なかったが、こういう事態はあり得たわけかと、普通の発想を軽々と越えて行くダニーの想定外の行動力に、チンは茫然とする思いだ。頭のどこかでは、さすが、スティーヴの相棒だという声がしていた。
「ほら、脱いで、脱いで。さっさと済まそうぜ、チン」
「無理だ、……脱げない」
わざわざチンは見えないよう背中を向けて着替えていたのだ。
「スティーヴへの操立てか?……いいねぇ、泣かせるねぇ」
「……違う」
ダニーの唇が機嫌悪く突き出されてきている。顔を覆っていた手は下ろされた。
「俺があんたに触ることを心配してる? 神様に誓ったっていい。あんたに触ったりしない。約束する」
「違うんだ」
チンは、湧き上がる気持ちを振り払うように、短い髪をかきあげた。胸のうちに溢れる羞恥に身を焼かれる思いだ。とにかくこういうのがチンは苦手だった。
「……その、足に、……跡が残ってる」
「噛み跡?」
真顔で問われ、思わず、恥ずかしさも忘れ、チンはまじまじとダニーの顔を見つめた。
「は? ただのキスマークか? あの野獣がやることってたら、思わず噛み跡かと思っただけじゃん」
「……ダニー、お前、スティーヴのこと誤解してるぞ」
思わず微妙な空気が二人の間に流れ、それを壊すように、パチンとダニーが手を合わせ叩く。
「じゃぁさ、さぁさぁ、チン、脱いでくれ。キスマークくらい、どんと来いだ! そんなの俺にだって付けた経験くらいある」
「お前にとっては、そうでも、俺は恥ずかしいんだ!」
「ああ、もう面倒くさいね、チンは。あんた俺の見たじゃん。それも勃ってるとこ。あんたも見せて、それでおあいこ。しょうがねぇな。じゃぁ、俺もここでもう一回脱ぐ?」
ダニーがベルトに手をかけ、チンは慌ててそれを止めた。
「ロッカールームで二人して脱いで見せ合ってるなんて、しゃれにならないからやめろ」
「じゃぁ、さっさとあんただけ脱いでよ。ほら、チン、簡単なことだろ」
ダニーは急き立てる。
ノーマルなはずの同僚の前で、じっと見つめられたまま脱ぐのは、酷く勇気のいる行為だった。
トレパンを下ろすチンは、じわじわと湧き上がる羞恥をねじ伏せるのに、何度も大きく息をする必要があった。
勿論、性器は勃起状態じゃない。
だが、太腿の、それも付け根のあたりばかりに、まだはっきりと赤い跡がいくつも残っている。
「……すげぇ、執着。……エロいねぇ」
意図の透けて見えるキスマークのいやらしさは、チンも身に染みており、あんなにスティーヴに絞り取られたはずなのに、不在の間に二度も手がそこに伸びてしまった。
ダニーは、じっとチンの性器を見つめている。
何度も首をひねり、腕を組み、考え込むように、顔を寄せ、もう一度じっと見つめる。
「チンってさぁ、頭、それ、癖毛だったんだな。下もおんなじ具合に巻いてるし」
だからなんだ?と、きつく問いただしたいほど腹立たしいが、恥ずかしさのあまり、口をきく気にもなれない。
「俺の方がちょっとデカイよな? でも、あれか? 東洋系って勃つと硬いんだっけ? 結構いい仕事するらしいじゃん。でも、でかさは、やっぱ、俺の方が上?」
項垂れ表皮に皺を寄せた性器をじっと見ながら、ダニーは喋り続けている。
「お、こんなことに、ほくろがあるじゃん。スティーヴは知ってる? チンは知ってた?」
見上げてきたダニーは、肩を竦めて息を吐くと、やっとチンにトレパンを上げてもいいと言った。
チンは、ようやく身体の力を抜いて、下着ごとトレパンを引きあげた。
「……気が済んだか? それで、結果は? 合格?」
うんうん、合格と、ダニーは、勃ってない自分の股間を見ながらにやにやと笑った。それに気が抜け、つられてやれやれとチンも苦笑したのだ。
そうしたら、いきなり腕を引かれた。
ぎゅっと両手で顎を掴まれ、キスされた。情熱的に合わされた唇は、何度も角度を変えて、チンに押し当てられる。
「なにをっ!」
「わかんねぇけど、……全然っ! わかんねぇけど! 俺は、今、すげぇ、あんたにキスしたいんだよ!」
いきなり、逆切れしたダニーは、追い詰められヒステリーぎりぎりの状態で、夢中でキスする。
ダニーの混乱は痛々しいほどで、そのくせ熱のこもった真摯なキスは、チンの心までかき回した。
指を絡め、唇を押しつけながら、ダニーが呟く。
「俺は、あんたなんかに、誘惑されたりしない。……俺にはモンキーがいるし、レイチェルとはよりを戻すつもりだし、あんたは、スティーヴの恋人だ。ヤバいだろ」
離したくないと、きつく、指が絡む。
唇が押し当てられる。
「わけわかんねぇよ……。俺、あんたが好きなの? ……なぁ?」
気が済むまでキスしたダニーは、不貞腐れた顔で、じゃぁと言うと、勝手に帰って行った。
チンは、茫然としたまま、服に着替えている。
結局使わなかったTシャツとトレパンはロッカーの中に逆戻りだ。
ロッカーをバタンと閉めて、チンはそこに額を押しつけた。
「なぁ……スティーヴ、早く帰ってこいよ……」
(終)
*30
「そんなの、コノが膝に乗って、ごめんねってちょっとキスしてあげれば、すぐ解決でしょう」
昼休み、一緒に本部で昼を食べていたコノとロリの話に、思わずチンは読んでいた新聞から目を上げた。もうコノだって、大人なのだ。わかっているが、コノに関することには、チンは過敏に反応してしまう。
「いやよ。そんなの」
大事な従姉妹が、不適切な提案に、至極まっとうな返答を返して、年長者はほっとした。
二人は、自分達の話に夢中で、チンの眉が潜められていることに気が付いていない。
女同士の男が口を挟むべきでないおしゃべりだ。いや、チンだって、口出しなんてしようものなら、集中砲火でどんな目にあわされるかわかったものじゃないとわかっている。
「でも、喧嘩してるんでしょう?」
「向こうが勝手に怒ってるだけ。まだ知り合って二週間よ。なんで、私がそんな相手の膝にのってご機嫌とりなんてしなくちゃいけないわけ?」
「え? だって、コノの顔に仲直りしたいって書いてあるから」
勝ち誇ったようににこりと笑うロリは、久々のいい男だって言ってたじゃないと、おもわず口を噤んでしまったコノをからかっている。
「それは、そうと、コノ、その彼のお膝に乗る前に、ちょっとうちのボスの膝に乗ってきてよ。何、怒ってるの? ご機嫌なおしてって、そのかわいい顔でお愛想してきて。あっちも彼女と喧嘩でもしたのかしら? 朝からずっと機嫌悪くて迷惑よね」
スナックを摘まみながらの、ロリの発言は、ひそかにチンを驚かせた。確かにスティーヴは朝から、酷く機嫌が悪いのだが、よくそれをスティーヴは押えていたし、怒りの対象ではないロリに、スティーヴがきついことを言ったわけでもなんでもない。現にコノは、へぇ、ボス、機嫌悪かったの?と、不思議そうな顔だ。
「ボス、機嫌、最悪よね? チンなんか何回も無視されてたし、ね?」
ロリに、突然話を振られ、チンは困ったように肩を竦めて笑った。
「……まぁ、多少、機嫌が悪そうではあるね」
昨夜、チンとスティーヴは、激しい喧嘩をしたのだ。内容は酷くくだらない。
泊まって行けといったスティーヴに、今日は帰るとチンが答えた。ただ、それだけだ。
だが、なんで家に帰りたいんだと機嫌悪くスティーヴはしつこく絡み、チンは、居心地のいいスティーヴの家に居続けるのが不安になるんだとは言いたくなかった。だから、見たいテレビがあると言った。
馬鹿みたいだが、そこからは、テレビと俺とどっちが大事だになり、バイクや車と遊んでる方が俺といるより楽しいもんな!という詰りが始まり、俺がテレビを見るのを、いつもお前が嫌がるから悪いんだろうとチンが言い返せば、日曜の買い物に付き合ってやらないぞと、怒鳴ったスティーヴはさらにその上、チンのレストア用に友達に頼んでいたバイクの部品をキャンセルすると言い出した。本当に子供の喧嘩だった。それを形の大きな男二人でやるせいで、事が大げさになる。大声で怒鳴り合い、叩きつけるように音を立てドアを閉め、車に向かうチンに、窓からスティーヴがまだ怒鳴る。
「お前なんか、嫌いだ、チン!」
「ああ、それで、結構!」
最低な喧嘩はしたが、勿論、チンは仲直りの必要を感じている。
酷く愛してくれているスティーヴに感じる必要もない不安を感じていて事態をこじらせているのは自分の方だ。だが、あんなスーパーシールズに愛されて、平然としていられるほど、チンは自信家じゃなかった。年だっていくつも離れている。容姿もキャリアも、極めて平凡な自分は、いつ飽きられたって不思議じゃない。悪い夢から覚めたように、いきなりスティーヴが正気に戻る日がこないとも限らない。なのに、そんなスティーヴを相手に、おとついは、ベッドの上で四つん這いに身を伏せたまま自分の手で尻を開いて、ここをもっと入れてくれとねだった。離れて過ごす時間をきちんと確保しておかなければ、自分の気持ちを冷静に保つことなど、チンには無理だった。
今朝からのスティーヴは、ロリの言うようにあからさまな無視をチンにしたわけではなかったが、打ち合わせ中に、仲直りを試みようと何度か試みたアイコンタクトは、冷たくすました上司顔で、退けられた。
近所の学校の鐘の音が始業開始の合図の代わりのファイブ・オーでは、昼休みが終わり、それぞれが自分の仕事に戻って行った。
チンも、午前中に引き続き、報告書の作成とデーターの整理に戻ったが、まだ、スティーヴの機嫌は直らない。チンの部屋の前を通っていっても、目もくれようとしない。
年下のボスの子供じみたそんな態度は、かわいらしく感じられたが、やはり、チンを傷つけた。
肉体派と思わせて、面倒な書類の作成も、自分で難なくこなすのがスティーヴの有能さであり、同時にボスの仕事の手伝いをしたがっている部下を困らせるところだった。
一人残って、書類を片付けているボスを手伝う名目で、チンはスティーヴに近付きたいが、次々に資料を打ち出すスティーヴは助けなど必要としていない。
それでも、チンは、終業時間が終わり人気のなくなった本部のボスの部屋のドアを開けた。
「……なんだ?」
まだ、機嫌を損ねているのがありありとわかる顔で、冷たくスティーヴはチンを見つめる。
チンは、前置きも取り繕いもなしに、机を回ってスティーヴへと近付き、彼の座る椅子をくるりと回すと、その膝の上へ自分の尻を乗せた。恥ずかしかったが、首に両手を回し、顔を近付け口づける。
「許してほしい、スティーヴ」
唇を離した後、額を合わせ、そうねだると、スティーヴはチンの腰をしっかりと抱きはしたが、悔しそうにはぁっとため息を吐きながら、大きくのけ反る。
「……くそっ! あんた、どんな手使ってくるんだよ!」
「仲直り出来た?」
また同じ面子が顔をそろえた昼休み、サンドイッチを食べながら、ロリは、にやにやとコノを見ている。
「……したわよ、悪い?」
でも、膝になんて乗ってないんだからねと言うコノに、そうした自分が、恥ずかしくなり女性二人のコーヒーと食後のデザートを用意するために、チンはそっと席を立った。
(終)