キス
「チン、起きろよ、昼休みは終わったぞ」
肩を叩かれたと理解した瞬間に目の前に広がっていたはずの黒くて何もない安寧な場所から、光りまぶしい現実に連れ戻された。
目の前に笑うスティーヴの顔がある。
チンは、自分が大きく目を開けていることはわかったし、広がる景色からここがファイブ・オーの本部の中の自室であることも認識できた。だが、わかるだけで、いまだ眠りの余韻を残す脳も身体も、何の反応も返せない。
これが夢なのか、現実なのかもまだはっきりと識別できず、けれど夢ならいいと思った。
夢ならこれから、スティーヴにキスしても許される。
しかし、
「午前中、外回りばっかりやらせたから、疲れたか?」
肩に手を置いて、大きなスティーヴの目が自分の表情を探るのに、チンはやっと瞬きをした。
すると、動かないと思っていた全身の筋肉が動きだし、滑らかに声が出る。
「俺、寝てた?」
停止状態だった脳が動き始めて、最初に感じたのは、残念だ、だ。これは現実だ。初めてこんなにもスティーヴの気配を身近に感じられる夢が見られたのかと思ったのに、現実じゃ、スティーヴに触ることもできないし、彼に好きだと告白して、その後が都合よく進むなんてこともあり得ない。
寝ぼけるチンを笑いはしていたが、まだスティーヴの目は、心配げに、注意深くチンの調子を探っていた。
「寝てたから起こしたんだろ。午後一で、ミーティングの約束だったろ。来ないから呼びに来た」
厳しさと、それを緩和する甘さまで絶妙なバランスでブレンドされた背の高いハンサムなボスに、きれいな女の子だというわけでもないのに、親身な目付きでじっと5秒以上も見つめられる、面映ゆさはチンを幸福にした。
どうやら眠りながらも肩に力を入れていたようで、目の覚めた今になって、がくりと肩が落ちるのに、苦労性だなとチンは自分で自分が少しおかしかった。
いきなり笑ったチンが不思議だったのか、スティーヴは怪訝そうな顔をする。
様子を探るために目を眇めるそんな顔をしていても、ハンサムだなんていうのはずるいよなと思いながらも、チンはもうしばらく、こんな近い距離で見つめていられることなんて殆どない整った顔を見つめていたかったが、しかし、ボス自らに起こしに来させておきながら、いつまでも寝ぼけた頭の考える余韻に浸っていられる図太さの持ち合わせがなかった。
慌てて立ちあがろうとして、身体にまだ残る眠気に足を取られて、ふらついた。
咄嗟に、手を伸ばしてきたスティーヴに強く腕を掴まれ支えられている。
「おい、大丈夫なのか?」
不肖を恥じるべきだったが、足が縺れた恥ずかしさより、思いもかけず、スティーヴの逞しい身体に触れられたことの方が嬉しかった。咄嗟のことで、支えるためにチンの腕を掴んだスティーヴの手が痛いほど、力強い。
ありがとうと返そうと、チンは、スティーヴの顔を見上げた。
「ボスなのに、スティーヴが呼びに来てくれたのか?」
「俺じゃない方がよかったのか?」
すぐさまの切り返しに、チンは目を細め笑う。
「まさか。ボス自ら気に掛けてもらえて、起こしに来てもらえるなんて、俺も大したものだなと嬉しく思ってるよ」
もし、これが現実じゃなく、夢の続きだったら、機嫌を悪くしているスティーヴにすかさずキスして、そんなことあるわけないだろと抱き締めてやる。
だが、残念ながら、これは現実だから、場がなごむように切り返すしかなかった。
チンが両足のバランスをしっかり取れるようだと感じとったスティーヴが、そっと手を離す。
「チン、お前、身体の調子は」
「大丈夫。ちょっと昼寝のつもりが、恥ずかしいよ。顔を洗ってから行ってもいいか?」
ああ、いいぞという言葉に背中を見送られながら、トイレに向かうチンは、ぶり返しのように身体に戻って来た軽いだるさと、眠気の余韻に浸っていた。
トイレに向かいながら、記憶を楽しむ。
目を開けた時、側にあったスティーヴの唇にキスすればよかった。
開けたばかりの目をもう一度瞑り、少し顔を近づけさえすれば、あんなに顔は近かったのだ。すぐキスはできたはずだ。そんなことをいきなり部下がするなんてことは、スティーヴだって予想していないはずで、成功していた確率は高い。
スティーヴの唇を覆っていたら、どんな感触だったんだろう。
あの時すぐそのことに気付いて、実行していたら、ずっとチンが望んでいたことは叶った。
ただし、と、勿論、チンも思う。
ただし。
もしそんなことをしでかしたとしたら、彼の父親の部下だったという特別枠でファイブ・オーに招き入れられた職を失うことになるわけだけどなと、トイレのドアを開けると、蛇口を捻り、顔を洗った。
冷たい水に肌に触れ、少し頭がしっかりとし、濡れた顔が鏡に映れば、チンは現実を受け入れるしかなくなる。
鏡の中に映る自分の顔は小さく笑っている。
「誰が、お前のこと好きになるんだって?」
チンは、鏡の自分から少し視線を反らし気味にしながら、肩を竦めた。
鏡に映る顔は、取り立てて目立つところのない男の顔だ。
憧れを得られるほどの精悍さは持ち得ず、勿論、綺麗だと人を引き付けられるほどの恵みは受けていない。
それにだ、と、チンは、鏡の中の顔を見つめる。
お前は年だ。
なのにどうして、ハンサムで女にもてるスティーヴが、5つ以上も年上の、しかも取り立てて目を惹くところもない男に、好意を持つなんていうバカげた妄想を抱いて幸せな妄想をしていられるんだ?
しかし、その想像をする時、チンは幸せな気持ちを味わうことができた。
もし、自分に勇気が湧き、スティーヴに気持ちを伝えることができて、しかも、すんなりとその気持ちが受け入れられたら。スティーヴのあの引き締まった身体に抱き締められることができたら。
誰がどんな好みかなんてわからない。あり得ないとわかっているが、もしかしたら、スティーヴは地味な容姿の年上が好きかもしれない。髪は黒い方が好きみたいだ。男だっていけるかもしれない。
チンは、もう充分に嫌いになっている自分を、これ以上貶めないため、おしかったよな、キスしたかったなと、敢えて軽く鏡の中の自分に笑いかけた。
「なぁ、おい」
もう一度顔を洗うため、身をかがめていると、突然、戸口から声をかけられて、びっしょりと濡れた顔のままチンは振り返った。
「気分でも悪いのか?」
「ダニー?」
「あんたの様子見て来いって、スティーヴが」
心配そうに見つめてくるダニーは、チンに向かって空の手を広げてみせる。
「顔、拭いたら? 水も滴るいい男だけど、あんた、髪も顔もびちょびちょ」
つまり、俺は拭くものを持ってないけどねってことかと、苦笑したチンが自分のハンカチで顔を拭いている間に、中に入って来たダニーは、チンのすぐ側にまで近付き、水気の取れた顔に触る。
「調子が悪いのか?」
心配げに覗き込んでくる青い目が近い。
「違うよ。ただ単に、昼寝してて寝過ごしただけ。心配掛けた? ごめん」
「平気ならいいけどさ、……なぁ、あんたが今、色っぽい顔してるのは、まだ寝ぼけてるせいなわけ?」
ダニーはチンの頬を指先で撫でていた。心配そうに頬へと触る指先に、チンは目を細める。
「俺の顔が色っぽいの?」
それはうれしいねと笑いかけながら、だとしたら、それは、スティーヴのことを考えていたせいだとチンの胸のうちで笑った。
ダニーは、唇を近付けてくる。
職場であろうと、人目がなければOKという倫理意識の低さは、ダニーの悪いところだ。
そして、そんなダニーを受け入れてしまっているチンはもっと悪い。
嫌がられないでキスしたかった。気軽にスキンシップをしても許してくれる相手に側にいてほしかった。
ダニーもチンも、友人として互いのことは好きだが、キスしあっていても実際のところそれだけの関係だ。
飲みに行った時の、悪ふざけを、寂しさのまま引きずっている。
「チン、口開けて。そう、あーんってするの。ちょっと、俺に口ん中舐めさせてよ」
顎に指をかけられてされるふざけた望みにも、チンは大人しくいうことをきいて、口を開ける。
お互いフリーの今、気を使うこともなくじゃれあっていられるのは、気持ちがいい。
いつも通りダニーの舌が柔らかく触れてきて、そのちょっかいに、チンは自分の方から舌を絡めていった。
チンの様子にダニーが笑う。そして、またチンの顔を撫でる。
何故だか、ダニーはチンの顔の作りを気に入ってくれていて、それもチンには心地いい。
「あんたが戻って来ないって怒ってる、怖いボスんとこ戻る気ある?」
「勿論」
俯いて画面を見ながら、コノとしゃべっていたスティーヴが顔を上げた。
「チン、もういいのか?」
「平気っていうか、悪かったよ。今度から昼寝の時にも目覚ましをかけるようにする」
チンの軽い切り返しに、気遣わしげな目付きで顔を上げていたコノの表情が緩み、ダニーがチンの隣に立って、本格的な打ち合わせが始まった。
その最中に、ポケットに手を突っ込んだままのダニーの肘が、チンを突いた。
珍しいミスを犯したチンの体調が気になるのか、打ち合わせの最中にもスティーヴが様子を窺うように何度も目を上げていた。
そのたびに、チンは、嬉しさを押し隠して、小さく笑顔を返していたのだ。
ダニーは、チンの耳へと顔を寄せ、小声で囁く。
「あのさ、あんまり堂々と浮気しないでくれる?」
えっと、画面から顔を上げたチンを、ダニーはまじまじと見つめてくる。
「さっきから見ててさ、なんかさ、俺、あいつにチンを取られるのなんて、絶対嫌だって思っちゃったんだけど、これが、恋かなぁ? 俺、あんたに恋しちゃったのかな」
真面目な顔をして、いきなりとんでもないことを言い出したダニーに、思わずチンは笑いそうだ。
「ダニー?」
「笑うの? 真面目な俺の気持ちを笑っちゃうの?」
「お前らさ、仲いいのはいいけど、今は、こっちに集中。ほら、チン、次のリストを出せ」
気の逸れた二人に、すぐさまスティーヴの叱責が飛ぶ。
だが、まだダニーはチンの耳元でささやく。
「チン、あいつ、あんたに気があるよ。知ってた? で、俺が彼氏の浮気を許さないタイプだってのも知ってた?」
あまりに衝撃の内容で、つい本気で、ダニーの顔に見入ってしまったチンは、思わず出すリストを間違えた。
「チン!」
「あ、悪い。すぐ」
「チン、その態度かわいいけど、特に気に留めておかなきゃならないのは、あいつがあんたに気があるってのじゃなくて、俺が浮気を許さないっていう方だから。それ、間違えないように」
(終)
もういっそ、チンさんはスティもダノもぱくんと食べちゃばいいと思う。