感情的でない様々な事柄
知事の秘書と打ち合わせを済ませてから本部に顔を出したため、いつもより遅い出勤となったスティーヴは、メンバーと顔を合わせるなり、口を開こうとすると、その前に近付いてきたチンに遮られた。
「おはよう、ボス…………好きだ」
おはようまではわかる。ボスも、自分のことを呼ばれたのだとわかる。
だが、好きだという言葉は、朝のこれから仕事が始まる時間にも、仲間内で一番常識人であるチンにも、いかにも不似合いだ。
呆気にとられ、目を見開くスティーヴは、目の前のチンは勿論のこと、どういうことなのかと周りのメンバーを見回すが、ダニーは、椅子に腰かけたまま、にやにやと笑い、コノは、気の毒そうにチンを見つめるばかりだ。
顔を真っ赤にして目を伏せるチンは自分の発言をなかったことになかったことにしたがっているのがありありとわかる、スティーヴの視線の中から、今すぐ消えてしまいたいと言った風情で肩を窄めている。
「……ああ、ありがとう、チン、……その、どうした?」
説明を求めて、両手を広げ、促してみても、チンは俯むいた顔が上げられないらしい。
「ほら、よかったじゃん。ボスがありがとうだってさ、好意を伝え合うって素晴らしいね」
ダニーがいかにも楽しげに口を突っ込み、やはり、チンの自主的な行動というわけではないわけかと、偉そうにふんぞり返って椅子に腰かける相棒に、スティーヴは何なんだと顎をしゃくって問いただした。
だが、ダニーは、にやにやと笑って身の置き所も無さ気なチンの様子を楽しんでいるだけで口を開かず、代わりにコノが同情的に眉を寄せ、髪をかきあげる。
「どうもね、昨日、チンはダニーにポーカーで負けたみたいで、今日中に3回、私たちに好きだって言わなきゃいけないらしいの」
肩を竦めたチンの従姉妹は、年上のチンを心配げに見つめている。
「賭けだったんだから、しょうがねぇだろ。それでも、10回の約束を5回に、しかもまだ譲歩して3回にまで減らしてやったんだぞ? 俺だってチンに優しくしてやってる。それにだ、コノ、お前もチンに好きだって言われて、嬉しがってたじゃん」
「そりゃぁ、嬉しかったんだもん」
「と、いうわけなんだ。……すまないんだが、ボス、今日は付き合ってくれ」
チンが、情けなく目尻を下げて、頼んできて、スティーヴは、困惑にしながらも頷いた。
しかし、いつまでも、こんな仲間内のジョークに付きあってはいられない。
気持ちを切り替え、腹に力を入れる。
「じゃぁ、まぁ……、今日の変更事項なんだが」
「スティーヴ……その、」
昼を食べようと大きく口を開いた時だった。
午前中も散々、情けなさそうな目付きで、スティーヴに隙ができるのを窺っていたチンが、ドアを開けて部屋の中に入って来る。後ろには、ポケットに手を突っ込んで胸を張るダニーだ。
「よ、相棒」
「……なんだよ。ダニー」
渋い顔をしたスティーヴに構いもせず、ダニーは大きく腕を広げる。
「何って、勿論、じゃーん。告白タイム! チンに任せとくと、いつまで経っても言えないから、連れて来た。ほら、チン、言っちゃって。今、言っとかないと、お前、絶対に3回も今日中に言えないから」
チンは、ハムとサラミのサンドイッチを手に、口を開けたままのスティーヴに申し訳なさそうに目を向ける。
「その、……スティーヴ、あの」
ダニーよりも、もっと入り口に近いところで立ち止まり、言いにくそうに、口籠るチンからは、昼食の邪魔をしたことや、好意を押し付ける真似をすることに対する申し訳なさが十分に感じとれた。元々、スティーヴは、部下としても仲間としてもチンの好意を疑ったことなどない。確かに大げさに好意をアピールしたりはしてみせないが、チンは仲間のバックアップによく勤め、口数だって多くはないものの、的確に情報を振り分け、潤滑剤的な役割としてチーム内に安定をもたらしている。
「ああ、わかった。十分伝わった」
はっきり、好きだと言葉にして伝えることを、チンが苦手としているのは、困惑に硬い唇を見ているだけでも十分わかる。
「ダメでしょ。そうやって、チンのこと甘やかしちゃ」
スティーヴの許しに、ほっと肩から力を抜いたチンとは対照的に、ダニーは肩を怒らせる。
「ダニー、お前、趣味が悪いぞ」
スティーヴは、もう終わりだと、がぶりとサンドイッチに齧りついた。
「コノもお前もさ、チンから、好きだって言われるの嬉しい癖に、どうしてそんな風に遠慮しちゃうのかな?」
「罰ゲームとは言え、男に好きだなんて言うのは、言いづらいに決まってるだろ」
口の端についたソースを舐め取りながら、チームのボスはじろりとダニーを睨む。
「ダニー、お前だって俺に好きだなんて言えるか?」
途端にダニーは両手を振りまわし、発狂せんばかりの大げさな拒否だ。
「あんた、言って欲しいの? この俺に? スティーヴ・マクギャレット少佐がこの俺に告白なんかされちゃいたいわけ?」
「別に、お前に好きだって言われたいわけじゃない。罰ゲームなんてもので、そういうことを言うのは、気のめいる作業だって言いたいだけだ」
顔を顰め、諌めるスティーヴへと、馬鹿にしたような軽い頷きを繰り返すとダニーは腕を胸の前で組んで、チンを振り返る。
「だってさ、チン。スティーヴは、あんたに好きって言ってもらいたくないって言ってるけど、俺は気を変えるつもりはないよ?」
嫌味な言い方が気に入らず、スティーヴが顔を顰めているというのに、ダニーは顎をしゃくってチンに促す。
するとチンは覚悟を決めたように一歩を踏み出した。賭けに負けたのだとは言え、律儀すぎると、力の入ったストイックな肩に、スティーヴは呆れる。
これだけ面白いイベントだ。いかさまの可能性だって疑った方がいい。
やはりかなりな決意が必要らしく、緊張に硬いチンの黒い目が潤んで、じっと見つめてくるのに、スティーヴまで、思わずサンドイッチを食べる手が止まってしまった。それを、ダニーがにやにやとみているのが気に食わない。
「……あの、スティーヴ。いつもよくしてくれて、ありがとう。……好きだから」
面と向かって、感謝と好意を伝えられる衝撃に、スティーヴは一瞬、息を飲む。
言いにくいことを、努力し、口にしたチンに、なんらかの好意を示そうと、スティーヴが口を開きかける前に、ダニーが大きく拍手して遮った。
「よく言えました! あと一回だからな。さ、次は、コノだ。コノ相手なら、気が楽だろ。なっ、嫌なことを先に済ませとくといいって、お前も思っただろ?」
そそくさとダニーは、自分より背の高いチンの肩を抱く。スティーヴの耳は、勿論聞き捨てならない相棒の暴言を聞きとっていた。
「……ダニー……。お前っ、嫌なことって!」
別に、ダニーは、チンをいじめて楽しんでいるつもりはない。確かに、できるだけ冷静でいようと自身を律しているチンが、困った顔をして、口籠ったりしている様子を見ていたり、そんなチンに好意を伝えられた仲間たちがオタオタと、何らかのリアクションを返そうとしているのを笑ったりしているのは楽しかったが、そういう理由で、こんなことを思いついたわけじゃないのだ。
チンには、仲間たちに隠そうとしている秘密がある。
目を瞑った後、つまり、視界が塞がれた後、誰かの気配が側にあることを極端に恐れている。
殴られ、意識を失っている間に、チンが首に爆弾の首飾りを付けられたあの事件の後からだ。
そして、どうしてそれを、ダニーが知っているかと言えば、チンが目を瞑った後にも、一緒にいることがあるからだ。
セックスの後、ダニーが同じベッドで眠るのを、苦手に思い、眠れず、うなされまでするくせに、チンは、ダニーにベッドから出ていけとは言い出さない。
朝、疲れ切った顔で目覚めても、お前がしつこいからと、目を緩めて笑うのだ。
それが、ダニーを悔しがらせる。
昼間に、警察のバックアップとして同行した立てこもり事件も無事解決を得た夕方、落ち着いた本部の中で、意を決したように、チンが立ち上がり、ダニーは、書類を捲りながら、その行方を目の端で追った。
ため息を吐出したかのように、チンは肩を上下させたあと、勢いよくドアを開け、コノに近付く。
顔を上げたコノは、もう、何が始まるのかを予想していて、触っていたパソコンから手を離し、嬉しそうに表情を緩ませた。
しきりに首の後ろを触って照れている従兄弟を、励ますように見つめるコノは、笑いながらダニーのいる部屋を指差す。多分、見てるわよとでも言ったコノに、チンは、ダニーに向かって顔を顰めて見せ、それから、くるりと背を向けた。
その後、蕩けるようにコノが笑って、幸せそうなその表情を見ているだけで、チンの口元が動いていたのを確認できなくとも、チンが好きだと伝えたのがわかる。
ダメ押しに、コノがかわいらしく、胸の前でハートを作り、ダニーにウィンクしてみせる。
コノは、照れ屋な従兄弟が口を使って自分に好意を伝える今日のイベントに賛成なのだ。
ダニーも、親指を立てサムズアップし、返事を返した。
あとは、ダニーの相棒であるスティーヴに、最後の告白をすれば、チンのペナルティは終りだ。
そのまま勢いで、スティーヴのところにも行くかと思ったのに、気疲れしたのか、うなだれたチンが肩を落として自室に引き上げ、ダニーは、やれやれと肩を揺すって笑う。
嫌悪も、好意も、チンは言葉を使って相手に伝えるのが苦手だ。
勿論、仕事上、きつい言葉を使うことはいくらでもあるが、プライベートでは、感情的な言葉を使うことを全般的に苦手としている。
特に、拒否の言葉がダメだ。
だったら、まず、好意的な感情からでも、言葉にして相手に伝えることに慣れればいいと、ダニーは、ぐったりと椅子に座るチンを目で追った。
チンの面白いところは、ひどく真面目で、約束したことは必ず守ろうとするところだ。
ぐったりと、今、椅子に座ったばかりだというのに、時計を見上げ、終業時刻までの残り時間が少ないことを確認すると、また席を立とうとする。
しかし、気持ちがくじけたのか、また座り込んでしまい、ダニーはそんな恋人の様子に、目尻を下げていたのだ。
書かなければならない報告書はいくつもあり、それはつまり、ファイブ・オーが解決に手を貸している事件がいくつもあるからだという事実に他ならないのだが、ダニーは、つい、チンから目を離していた。
気付くと、チンは部屋を空けており、ダニーは、どこ行ったと、きょろきょろと周りを見回した後、自分がトイレに立つ決断をした。
そして、ふらふらと本部の中を歩いているうちに、なんで、こんなことになっているんだと、頭を抱えたくなるような場面に遭遇している。
廊下の影に、隠れるようにして長身のスティーヴを身の置き所もなさそうに見上げるチンがいる。
今時の小学生だってもう少しスマートな告白の仕方をするだろうと思うのに、ダニーよりも年上のチンは、何度も恥ずかしげに目を伏せ、口籠り、見下ろすスティーヴは励ますかのような目付きでチンの言葉を待っている。
なんていうか、もう、これは、本物の告白の場にも、遭遇したような尻のむず痒さだと、たった一言の好きだという言葉をためらい、口籠るチンの様子に笑いを禁じえないダニーだったが、勇気を出したチンがやっとその言葉を口にした途端、顔が引き攣る事態が発生した。
ダニーの相棒が、こともあろうに長い腕を伸ばして、部下でもある年上のチンを優しく抱きしめ、俺もあんたが好きだと言い返しやがったのだ。
長身痩躯のハンサムは、自分の魅力がどれほどのものか、十分承知していて、軽く首を曲げると、チンの目を覗き込み、罰ゲーム、お疲れさんと笑う。まだ、チンを抱きしめたままだ。
力強い腕が本部の中で自分を抱く事態は、チンの清潔な目元からは落ち着きを奪い、チンは、どぎまぎと何度も瞬きしている。
スティーヴは、力の入ったチンの肩をぽんっと叩き、抱いていた腕を離すと、俺もあんたに好きだって3回分言っておこうかとおどけ、本当に続けざまに、告白した。
「ダニーは、変な奴だけど、たまにはいいことを思いつくな。俺も言うよ。チン、いつもあんたの働きには、感謝してるんだ。あんたのことが好きだし、一緒に働けて、うれしく思ってる」
幾ら、廊下の暗がりでひっそりと行われていようとも、真摯に告げられるスティーヴのその告白が、性衝動と直結してるなんてことは、さすがにダニーも思いつかないが、たまらなくハンサムなボスに、優しげな目付きで微笑まれたまま、好意的な胸の内を明かされ、チンの気持が揺れないと思っていられるほど、肝が据わっているわけではない。
第一、チンを口説き落としたのはダニーで、チンは、ほだされただけだ。
残念ながら、好きな相手に振られるという経験がダニーにはある。
絶対に、これ以上、二人きりにするのは、まずいと、両手を身体の前で組んで、腰をくねらせながら、二人に近付いた。顔が引きつっているが、なんとか笑顔を乗せる。
「お二人さん、告白タイムはその位にしてくれるかな? 俺、しょんべんしたくて、そこのトイレにちょっとばかり入りたいなぁなんて思ってるんだけど、二人があんまりにも恥ずかしいから、もう、入りにくくってさぁ。漏らしたら、どっちが責任取ってくれる?」
昨日も泊まったダニーを、今晩もまたベッドに入れることに、チンは難色を示したのだが、ダニーは強引に押し切って、チンの家についてきていた。
それどころか、ベッドの中の今、ダニーは、チンを背中からぎゅっと抱きしめ、一ミリの隙間もない状態だ。
「なぁ……チン」
しかし、よほど、今日、疲れたのか、ダニーが呼びかけても、チンは返事もかえさず、もう、うとうとし始めている。
ダニーの方が、相棒にもしその気があったりしたら、チンを守りきれるのかどうかと、もんもんと寝られぬ夜を過ごしているというのに、しばらくすれば、チンは完全に眠りに落ち、今日は、うなされもせず、ぐっすりと眠っている。
離さないとばかりに抱き締めたままでいるのが、申し訳のない気持ちになって、ダニーがチンの身体の下から腕を抜き、少し身体を離した。
だが、しばらくして、チンが苦しそうに唸りだす。
驚いたダニーが、慌てて抱き締め直し、ぴたりと身体を寄せると、眠ったままでも側にいるのが恋人だとわかるのか顔つきは穏やかになっていく。
「なに、なに? 俺にぎゅっと抱きしめられちゃってる方が、チンは安眠できるわけ?」
癖のある恋人の髪に鼻を埋めて、にんまりと笑うダニーは、幸福と敗北の両方を甘く味わっていた。
愛しさがじんわり身体を満たし、チンが好きでたまらないと眠る項に口づける。
拒否の言葉を吐かずともすむ、チンのおだやかな性格にあった方法で、二人の関係を維持していくことの可能なやり方が、突然目の前に転がり出てきて、ダニーは、機転が利いていると、チンに無理強いし、頭の冴えを褒め称えていた今日の自分が恥ずかしい。
だが、同時に、抱きしめられた腕の中でなら、眠れるチンがたまらなく愛しい。
「あんたさ、今日、あんだけ、皆に好きって言っときながら、俺に言うの忘れてるってわかってる?」
足を絡ませ、もっとチンの身体を自分へと引き寄せた。
「代わりに俺が言っといてやるからな、……チン、大好きだからな、おやすみ。いい夢みろよ」
(終)