小熊物語 2(前半)

 

「あー、痛て」

室内訓練場からの帰り道、廊下の隅で小熊が口を押さえて小さく呻く。

「どうした? 切ったのか?」

心配顔で足を止めたゲープは、ポテポテと床を歩く小熊をひょいっと持ち上げた。ゲープがあーんと大きく口をあければ、つられたように小熊も口を開く。

「馬鹿なことをしてるからだ」

ゲープの顔が苦い。ゲープはデミアの発案を認めていないのだ。

デミア発案によるフランクとの合体技、『投げちゃえ、投げちゃえ』は、小熊になったデミアの体重が軽いのをいいことに、体格のいい新人に力いっぱい小熊を2階部分へと投げるという馬鹿馬鹿しい大技だが、とうとう今日、二人は、その技を完成させていた。小熊は心外だと鼻の上へと皺を寄せる。

「なんでだよ。折角俺、このサイズなんだぜ。はしごやロープもなしに、2階から侵入できたら、作戦の遂行がすげぇ楽だと思わねぇ?」

「小熊を投げるのなんて虐待っぽくって嫌だっていうフランクをどつきまわして協力させるのは楽な作業か?」

「あいつは、変なところが繊細っていうか」

「危ないからだろ」

ブツブツ言いながら大きく開かれた小熊の口の中を覗き込んだゲープは顔を硬くした。

「おい、デミア、お前、口の中、血だらけだぞ……?」

「やっぱりか? 痛いんだよ」

大きく口を開けたままの小熊の目はうるうるだ。

「何回ぶつけたんだ!」

医務室へと急ごうとしたゲープをデミアは止める。

「違う。ゲープ。まっ、確かに、一回や二回はぶつけたけどな、これは、口内炎だ。クマになってから、買い物ひとつに出かけるのも一苦労でさ、碌なもの食えなくて」

ゲープは愕然とした。デミアが小熊になってから、もう半月以上経っている。そのことに気付かなかった自分がゲープはたまらなく恥ずかしかった。

「……腹が減っているのか? デミア?」

おずおずとゲープが聞く。

小熊はぺっと口の中の唾を手のひらへと吐き出し、それが赤いに眉を寄せる。

「いや、それは平気。ただ、インスタントや、宅配はもう嫌だな。当分。仕方がないんだけどさ」

 

 

シュルラウ家が入居しているアパートメントの階段を、ゲープについて昇る小熊の足はとまどいがちだった。

「平気か、ゲープ?……マヤに俺のこと、言ってあったのか?」

「いや、さっき、電話で伝えた。信じてないみたいだったが、お前を見れば、信じるほかないだろ」

さすがにゲープも少し硬い表情で、自宅のドアを開ける。

すると、めずらしく早い父親の帰宅を玄関で待っていたらしいリッシーが、ゲープに飛びついてくる。

「おかえり、パパ!」

幼い娘はひとしきり父親に甘え、そして、父親の足元にいるクマに気付く。

「パパ……それ?」

「ああ、うん。リッシー。これはデミアだよ。デミアはちょっと病気になってね」

娘の髪へと鼻を埋め、その幸せな匂いを吸い込んでいたゲープは、困った顔で説明をした。リッシーは理解できないという顔のままだったが、パパに抱っこされている安心感からか、艶々の黒い小熊への好奇心からおずおずと手を伸ばす。

「……ガウゥゥ!」

デミアが吠えた。

「キャァ!!」

リッシーはゲープにしがみき、少しでも熊から逃げ出そうと必死になってパパの体をよじ登る。娘を強く抱きしめてやりながら、ゲープは部下を叱った。

「こら、デミア!」

へへっと、小熊は笑った。

「リッシー、そんなに簡単に動物へと手を出したら、噛み付かれるぞ」

リッシーの目が大きく開かれる。声に聞き覚えがあるのだ。表情にも。

「……デミア? デミアだ!」

今度、リッシーはパパの抱っこからもがくようにして懸命に逃れ、小さな体をかがめると、自分より小さい小熊をマジマジと見つめる。

「……どうしたの?」

リッシーはじっと小熊の目を見つめ、デミアのことを心配している。

「うん? わかんね」

そんな会話を交わすシュルラウ家の下の娘の背後では、大きな音がした。

マヤが、手に持っていた皿を落としたまま、大きく目を見開いている。口を隠す両手が辛うじて悲鳴を押しとどめているようだが、今にも叫びだしそうだ。

「マヤ、落ち着いてくれ」

ゲープは床に飛び散った破片を避けながら、妻へと近づいた。マヤを抱きしめ、小熊のいる玄関から遠ざける。

「さっき、電話で言っただろう? 信じられないのは無理ないが、あれはデミアなんだ。あいつ、ちょっとクマになっちまって、それで、碌なものを食ってないっていうから、何か食わしてやりたくて」

「リッシー! リッシー! こっちへ!」

しゃべる小熊の姿が視界から消えると、マヤは、必死になって娘の安全を求めた。

「大丈夫だって、ママ! クマちゃん、デミアだから!」

リッシーは気まずそうな顔の小熊の手を握る。

「マヤ、大丈夫。落ち着いて。リッシーに危険は無い。あいつはデミアだ。いつもここに遊びに来て、リッシーの迎えにだって行ってくれてたデミアだから」

 

 

結局マヤは、小熊がデミアだということを受け入れはしたが、食事の用意をするどころではなく、家族と小熊のためにゲープがキッチンに立った。野菜が食いたいというデミアの望みを叶えるため、ゲープは腕を振るったわけだが、できることが高々しれているため、テーブルに並んだものは、生野菜を毟っただけのサラダと、カレーだ。口内炎で苦しむ小熊のためのメニューが香辛料の効いたカレーという辺りが、ゲープなのだが。

それでも、家族と共にテーブルについたデミアは嬉しそうにスプーンを口へと運ぶ。グラスの氷がカラカラと気持ちの涼しげな音をさせる。

「すげぇ、嬉しい。ゲープ」

「いやいや」

照れくさそうに笑うシュルラル家の主の隣席には、ソフィアの姿があった。夕食の声に、不機嫌な顔で自室から出てきたソフィアは小熊になったデミアの姿に一瞬目を丸くしたものの、ずっとクールな様子を装い、スプーンを運ぶ最中に、時折デミアを盗み見るだけだ。マヤはまだ、怖々とデミアを窺い、なかなか食事も進まない。

「ねぇ。デミア、後で私と遊ぼ」

ただ、リッシーだけは、パパのカレーにも小熊にも大満足だった。しかし、早々にスプーンを置いたソフィアが席を立ち、小熊を抱き上げ、連れ去る。

「えっ?」

「ソフィア!」

ゲープの叱責を、上の娘は無視という形で撥ねつけた。珍しいソフィアからの接触に驚きはしたものの、小熊は階段の上がり際で、気軽にゲープに手を振る。

「ご指名だからちょっと行ってくる。ほら、俺、若い子に大人気だし」

小熊が若い女性に大人気なのは、警察局の建物の中で十分ゲープも確認済みだった。山ほどの甘い菓子が小熊には届けられ、それは持て余すほどで、そのため、ゲープは小熊が食べるものに困っているなどということが全く想像できなかったのだ。

ソフィアは一度も父親を振り返ることなく小熊を抱えて階段を昇っていく。その態度にゲープは、娘の後を追って注意を与えたかったが、現実問題として下の娘が、姉に先に撮られてしまって拗ねてしまっており、不安そうな目の妻を安心させなければならなかった。

駆け上がる娘の足音を父親の声が追う。

「ソフィア! ドアを閉めるなよ!」

 

「何が、ドアを閉めるなよ!」

勘違いな心配ばかりする父親に怒りながらバタンとドアを閉めたソフィアは、小熊をにらみつけた。

「クマよ。クマ、クマ相手に何がドア閉めるな、なのよ!パパって、バカじゃない!?」

「ほら、やっぱ、俺って、魅力的だし?」

おどけた小熊をゲープの娘は、視線で威圧しベッドへと腰掛けるよう示した。ソフィアの父親に良く似た腕の組み具合といい、少しあがった顎の角度といい、それはなかなかの迫力で、デミアはすごすごとソフィアのベッドに腰掛け、シュルラウ家のお嬢様がお座りになるのを待つ。

ソフィアは、勢い良くベッドへと腰掛け、小さな音楽再生機を取り出した。イアホンの片方を自分の耳に嵌め、もう片方を無造作に隣へと座っている小熊へと差し出す。デミアは、やはり普段と違うソフィアの様子に違和感を覚えながら、耳へとイアホンを押し込んだ。

小熊と少女はベッドに座り音楽を聴く。

音はデミアの好みより軽めだ。最近良く聞く、アイドル系のロックバンドだった。小熊はちらちらとソフィアを見上げながら、辛抱強く音楽を聴いた。10分も経った頃だ。ソフィアの唇が動く。

「……小熊なんかにならないでよ。バカ」

「や、悪い。でも、選んでなったわけじゃなくて」

デミアの照れを、ソフィアは冷たい視線で一喝した。そして、また暫く小熊に緊張を強いる沈黙が続いた後、ソフィアは前を向いていた顔をぷいっと背けた。イアホンのコードがソフィアの側へと引っ張られ、小熊は慌ててコードを追う。力の入ったソフィアの肩が小熊の目の前にある。

「……デミア、パパと、ママさ、私の前で喧嘩するの。どのくらい私が嫌な思いをしてるかなんてきっとわかってない」

デミアは、力の入った少女の肩をじっと見つめるだけで、触れることはしなかった。

もしかしたらソフィアは、小さな熊を抱きしめたいと思っていたかもしれないが、小熊は、その後ゲープが様子を覗きに来るまで約1時間も不自然に傾いた姿勢のままソフィアとベッドに座り、一緒に音楽を聴いていた。

 

 

 

 

 

ゲープの機嫌が悪いことが、チーム50の悩みだった。

ゲープのカレーをご馳走になり、そのまま家へと泊めてもらった小熊が、ベッドを別にする夫婦の夫とともに、ソファーの上で目覚めた朝からは、一週間ばかり経っている。

ちなみに、狭いソファーで、小熊は、ゲープの枕にされている状態で目が覚めた。

「なぁ、なんだ? あのヒステリー」

大きな声では言えないが、隊長の機嫌は大層悪く、吹き出す汗を拭うフランクはたまらず背中に張り付く小熊にこっそり問いかけた。

小熊は黒い大きな目を反らしがちだ。

 

酷い口内炎を患った小熊はチーム50のメンバー相手に、大々的に食事に困っていることを公表し、フランクからキャンプ用の携帯コンロを、そしてコニーには子供用の料理ナイフをプレゼントさせていた。おかげで、フランクには昼休みにスーパーへと食料品を買いに出るというちょっと恥ずかしい仕事が増えたが、小熊の食生活は完璧で、口内炎も治っている。

ちなみに、あれほど無口だというのに意外と人脈の広いカスパーは、小熊サイズになったデミアのために、車両整備課に、レース用のキッズバイクを小熊用に整備させ、警察車両専用のナンバープレートを取得し、おまけに、備品管理課に、最低限小熊の命を守るため、ヘルメットと防弾チョッキを改造させた。

そのカスパーと、隣に立つコニーも、へたばりそうに荒い息を吐き出しながら、眉を顰めている。

「……デミア、ゲープはどうかしたのか?」

チーム50の面々はグランドをいつもよりハイペースに普段の倍は走らされ、その上、とったタイムを、怒鳴られた。

荒い息で汗を拭うコニーに尋ねられ、汗でシャツの張り付くフランクの背中に乗る小熊はますます目を反らす。ぎろりとコニーは小熊を睨む。

「デミア、原因が分かっているなら、対処しろ」

フランクは小熊と機嫌の悪いサブリーダーの間に立たされ、困り顔だ。

暗くなる空を見上げ、なんとかその場での自分の気配を消そうとしているフランクだったが、大きな体はやはりいい小熊の隠れ場所だ。

「……対処できねぇこともある」

小熊がフランクの背中に隠れるせいで、コニーの視線がフランクへと突き刺さる。

「とりあえず、ゲープをお前んちで飲ませろ」

「なぁ、そうしてくれよ。お前んちで飲んだ後、大抵、ゲープ機嫌直ってるし」

フランクも、背中の小熊に頼み込む。

4つ足で駆ければ小熊は、以前のランニングタイムなど軽がるとクリアーし、さっさと周回を終えてゲープの側で懐こうとしていたのだが、機嫌の悪いゲープは、ちょうど目の前を走りぬけようとしてたフランクに小熊を押し付けた。

小熊が背中に増えようと、大した重量ではないが、背中にかわいい小熊を背負ってのランニングは、女性たちの注目をやたらと集め、フランクは恥ずかしかったのだ。

「うちで飲んでも、今回は無理」

デミアは、首を振る。

「無理でも、連れてけ。ゲープを何とかしろ」

 

髪を汗で額に張り付かせているぎろりと冷たくコニーに睨まれたところで、今回のゲープをなんとかしてやることなど、今のデミアにはできないのだ。

 

 

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変なところで切れててごめんなさい。