キス

 

「一日のうちに、一回だけでいいから、キスさせてほしい」

 

そうやって言いだしたのは、デミアだ。

 

別居後の長くなったモーテル暮らしにも嫌気が差してきた頃、ゲープは、来いよと誘った部下の笑顔に、ほっとするような気持ちで応じた。

だが、荷物を運び込む段取りをつける前に、デミアは口籠もるようにしながら、ゲープが薄々そうじゃないかと疑っていた気持ちを打ち明けた。

「あのさ、ゲープ、俺、お前が好きなんだ。……でも、一緒に住むからって何かを無理強いするつもりはねぇから」

その言葉の前半は実のところ意外でもなんでもなかったが、後半部分は驚くことに本当に約束が順守された。

ゲープは、GFの切れないデミアを、口がうまくて、手の早い男だとばかり思っていた。だから、内心、気を付けなければとすら思っていたのだ。

勿論、この3番隊員がチームの古参メンバーであることもあり、デミアが意外と真面目な奴であることは、ゲープだって知っていたが、実は、とても慎重に相手の気持ちを慮ることのできる奴なのだということは、全く想像すらしたことがなかった。

実際、告白されたところで、まだゲープは、妻との離婚も正式なものではなく、いや、それよりも、自分の部下で、男のデミア相手に、即座に気持ちを切り替えられるわけでもなく、保留という実に都合のいい態度をとったわけだが、デミアは、そっかとにやりと笑った。勇気がいったはずの告白を曖昧に濁したというのに、その笑顔には傷ついた様子は微塵もなく、要するにデミアは、自分の返事がどんなものであろうとも、覆させるだけの自信と経験があるわけだと、ゲープは若造の思い上がりを内心苦々しく思っていた。

だが、慣れた相手との気疲れのない同居生活は日々全く何事もなく過ぎて行き、ゲープが、こいつは本当に俺と寝たいと思っているのか?と疑いを抱きはじめるには十分な時間が過ぎた。

朝の時間がない時など、先を争うようにしてシャワーに飛び込み、全裸で髪を洗うのだ。家の中に話題の合う相手がいれば、わざわざ外へは遊びにいかない。おまけに、ソファーは狭くて寝心地も悪く、デミアのベッドは大きく、クッションも良かった。

二人は同じベッドで寝るのだ。それなのに、ゲープの待遇は、友人だ。

だが、ゲープがあの告白を疑い出した頃、酷く言いだしにくそうな顔をしながら、夕食後のビールを手渡しながら、デミアはゲープの表情を窺った。

「あのさ、一日のうちに、一回だけでいいから、キスさせてくれねぇかな? 勿論、ダメなら、ダメって言ってくれていい。言われたからって、お前にこの部屋から出て行けなんて言う気は全くねぇし」

デミアが、茶色い大きな目で、ちらりとねだる目付きをして見上げてきた時、ゲープは、急に納得した。時々、感情のコントロールを失いがちなこの男のこの態度に、たくさんいたデミアのGFたちは、つい過ちを許してしまってきたのだろう。

見ていたテレビの画面から目を離して、ソファーの背もたれに頭を預けた。考える振りをしたが、答えは出ている。

たかが、キスだ。とうとうデミアが言いだした。

「いいぞ」

目をつむったら、一瞬だけ、やわらかなものがゲープの唇に触れて行った。ゲープに何が触れたのか特定するために間もなかった。

デミアは、照れくさそうに頭を掻いている。

「へへ。ゲープ、嫌じゃなかったか?」

「別に」

 

そして、デミアは、本当に毎日一回だけ、キスを求めてくるようになった。

朝、起きたばかり、仕事から帰った玄関口で、ひいきのサッカーチームが勝った瞬間。だがその時は、ばしばしと背中をたたき合っていた相手にそのまま噛みつくようなキスをしたのはゲープの方だ。そして、また二人で、大声で叫んでシュートプレーヤーの名をたたえ合った。

一番たくさんキスをした場所は、ベッドの中だ。

お休みを言う前に、短く口を押し付け合うというのが、いつの間にか、二人のキスの定番のスタイルになっていた。

ゲープも、いつ今日の分のキスをすませればいいのかと緊張しなくてもよくなって、少しばかりほっとした。

だが、キス以上の行為を絶対にしてこない男は、ベッドのなかでのキスだと子供っぽい真似をする。

ゲープにすら、時にこいつは色気があるなと感じさせる動物的な勘の良さを体に備えた男は、きっとうまいに違いない舌を絡めるようなキスを決してしてこないが、むーっと唇を突き出したままいつまでもキスをやめようとしない。

「……いつまでつづけるつもりなんだ?」

唇の粘膜ふれ合わせたまま、馬鹿みたいだとゲープがもごもご聞けば、やはり、絶対に唇を離さないまま、デミアも、もごもごとどれだけ長くても一回は一回だと、さも嬉しそうに返してきた。

枕に半分沈んだ黒い頭は、その位置を変えない。

「もう寝るだけで、なんもすることねぇんだし、いいだろ?」

お前、眠たきゃ寝りゃいいじゃんと、唇を触れ合わせたまま瞼に触ってデミアは言うが、残念ながら、こんな風に唇を押し付け合ったまま、寝られるような無神経さを持ち合わせているのは、デミアだけだ。

自分の息がデミアに掛かるのが気になり、臭くはないかと悩んで、できるだけ呼吸を鼻からするように努力してみたり、反対にデミアから掛かる鼻息を擽ったく思ってみたり、ゲープはいろいろ細かいことを気にしながら、じっと部下の気が済むのを待っているというのに、しばらくすれば、デミアの息が寝息だ。

そうなるとうっすらと口が開き、唇の表面の乾いた部分だけでなく、粘膜の濡れたまでゲープの唇は触れることになる。

呑気なデミアの寝息を顔へと感じながら、じっとゲープはデミアの顔を見つめていると、本当にこいつは、俺とセックスしたいという気があるのだろうか?と、眉が寄るのだ。

 

ゲープは一生懸命歯を磨いていた。

「寝るぞー」

だらしなくパジャマのボタンをまだ開けたまま、うろつくデミアがバスルームを覗き込む。

「わかった。もう、寝る」

歯ブラシを咥えたまま、もごもごと返事をすると、デミアが笑った。

「ここ、ここ」

自分の左顎に触るデミアが、面白そうに目を細めていて、ゲープは慌てて泡の溢れる顎を拭った。

デミアが笑ったままで、ゲープは顔を顰める。

「なんだよ。まだ、ついてんのか?」

本当は、熱心に歯を磨いているところをゲープは、デミアに見つかりたくはなかった。だから誤魔化す。

「少し歯が痛いんだ。虫歯になると面倒だからな」

にやにやとデミアは笑っている。ゲープは、蹴っ飛ばしてやりたい。

「さっさと、先に寝ろ」

「ゲープもすぐ来るか?」

「ああ」

 

また、今日もキスしたまま二人は寝る。

キスしたままでも臭くない息に、ゲープは少し安心しているが、けれど、やはり、眉間には皺が寄っている。

デミアは幸せそうに口を開いて寝ている。

口をくっつけたまま眠るその呑気な顔を見ていると、いらぬ決断をゲープは下しそうになる。

 

……いっそ、もうデミアにやらせてやったほうが、楽なんじゃないか?

 

END