カスパー・ラインドルの受難
チームの2番と3番に仮眠室へと呼び出され、一体何だと不審な気持ちになりながらもカスパーはドアノブを掴んだ。ドアには、“入るな。コニー”という張り紙があり、これを見ればまた、自分がなにに巻き込まれようとしているのか、カスパーはドアを開けるのが嫌になりつつあった。
時に、緊急を要する出動もあり、警察局の仮眠室には鍵が取り付けられていない。
しかし、コニーという署名の入った張り紙だけは、鍵のない仮眠室にドアロックの役割を果たした。
過去、顔立ちの良さが評判となったチーム50のサブリーダーは、仮眠室で同僚のある一部分を再起不能にし、警察局の人間でありながら警察沙汰を起こしたという華々しい伝説があり、それ以来、コニーが仮眠室に入るなと書けば、もう誰もドアを開けてはいけないのだった。たが、それから3年は経つ現在も、ドアが開けられない本当の理由は、いつの間にか美貌よりも陰険そうだという評判のほうが高くなったコニーに逆らえば何をされるかわからないと皆が恐れているせいだ。
しかし、誰も入ることのできない呪いの紙が貼り付けられたドアをカスパーは開けなければならない。
呼ばれたのだからして、張り紙があろうとも自分は入らなくてもいいということにはならないだろうと小さくため息を落として、一応カスパーはノックしてみる。
「カスパーだろ? 入って来いよ」
楽しげな声でドアの内側から返事を返したのは、チーム50の3番隊員だった。
本気で二人に呼び出されたのだとわかったカスパーの気は更に重くなった。ドアノブを掴んだまま、ドアを押せずにいる。
訓練生時代からの腐れ縁だというコニーとデミアは、チーム内で一番小競り合いが多い二人なのだが、カスパーが見るところ、実に仲がいい。いや、毎日ささいなことで口げんかを繰り返す本人たちは、決して自分たちの仲を認めはしないだろうが、どちらかが困った状態に陥ったとき、誰よりも先にその窮状に気付き、まっさきに手を伸ばしあう。
「本当に入っていいのか? 張り紙があるぞ?」
ドアの前で埒もない抵抗をするカスパーは、実のところ、デミアの人の一歩先を行く発想も、粘り強く作戦を遂行するコニー性格も、すこしばかり苦手だった。作戦行動中ならは頼りになる二人だが、次の出動を控え、訓練に精を出す毎日に、そんな二人の思いつきで呼び出されたのかと思えば、考えただけでぞっとする。
けれどカスパーが、二人の属するチームの下位隊員である以上、呼ばれたら逃げるわけにはいかなかった。カスパーがドアノブをねじり、開けようとすると、その前に中から扉が開けられた。
ドアの影からひょこりと顔を出すデミアが、人好きのする笑顔でカスパーを迎え入れる。
「早く入れよ」
仮眠室の中には、2段になったベッドが3セット詰め込まれており、部屋の中はほぼ、ベッドだけで一杯の状態だった。その一つに繋ぎを上半身だけ脱ぎ、袖を腰に巻いて留めているチーム50のサブリーダーは腰掛けている。
「用事は?」
用心深く、カスパーが廊下との境界線を跨ぐ前に質問しても、デミアは笑っただけだ。
「入ってから」
バタリと閉められたドアによって、仮眠室の密閉感は一気に増した。緊急時のため、消灯を許さない部屋の照明は廊下のものより、かなり明度が低い。やわらかな黄色い照明の下で、カスパーが立ち止まっていると、後ろからデミアが手を伸ばし、カスパーの肩を抱いた。
「なぁ、カスパー」
デミアは、近頃、作戦中どころか、訓練の最中にすら、コニーの目がカスパーをよく追っているのに気付いていた。
コニーとカスパーがチームの4番、5番だった頃から、コニーは思わぬ面倒見のよさをみせ、カスパーを構う傾向があったが、今は、もう、チームのサブリーダーであり、だから、まだ、1番も5番もグランドを走っているというのに、その中のカスパーだけをじっと目で追っているのは、おかしい。
先に走り終えたデミアは、汗を拭いながら、コニーをからかってやろうと、グランドの中央に近づく。
「マム、俺のタイムどう?」
「え?」
思いもかけない呼びかけをされたらしく、素直に顔へと驚きの表情をのせたまま、コニーが振り向いた。手元のストップウォッチを見ているが、タイムを言えずにいる。
「コニーは、カスパーから子離れできないみたいだから、さ」
走り終えたばかりで胸を喘がせながら言ったデミアは、思わず吹いてしまった。他チームも大勢走るグランドに立ちながら、コニーはしまったという顔を隠せず、やっと取り繕ったように、冷たくデミアを見据えたのだ。
「何を馬鹿なことを言ってる?」
デミアは、結構正直なこの悪友が嫌いではない。冷静さを装うコニーの隣に立ち、デミアはストップウォッチを覗き込む。
「割合いいペースだったな。で、コニーはどうしたいんだ? フランクが邪魔なのか?」
「邪魔なわけないだろ。フランクはよく頑張っているし、カスパーもよく面倒を見ている」
ゲープがゴールだと手を上げてコースアウトし、コニーはストップウォッチを押した。
「なんだよ。このタイム。ゲープ。手、抜いて走ってんな。でも、それじゃぁ、コニー、お前、カスパーのこと独り占めできなくて寂しいんだろ?」
コニーがぎろりと睨んできて、デミアはニヤニヤと笑った。
「お前たち蜜月だったもんな」
「そんなんじゃない」
コニーは否定し、グランドの土へと視線を落とした。新人への訓練のためフランクにのみ、コース3周分の過重がかけられており、カスパーはそれに付き合い、ペースをとってやっている。二人は後、半周でゴールだ。
実際、コニーの言葉通り、コニーとカスパーの間に蜜月の存在などありはしなかった。
勿論、デミアもそんなことは承知していた。
カスパーがチーム50に加わると、コニーが一方的に、無口で動作に無駄の少ないカスパーのことを気に入り、彼だけでこなせることまであれこれと手を貸し、独占していただけに過ぎないのだ。デミアは、コニーの過干渉に、よくカスパーが我慢しいてると、少し感心していたのだ。
「でも、ママは、カスパーがフランクにばかりかまけてるのが、気に入らないんだ」
デミアはぽんっとコニーの肩を叩いた。
「で、どうするんだ? 痛い目みさせてわからせる相手は、フランクにするか? それとも、カスパー?」
笑ったデミアは、実際にそれを行う気はそれほどなくて、だから、グランドに寝転がってしまったゲープにマッサージでもしてやろうと、コニーの側を離れようとしていた。
しかし、背中を声が追う。
「……カスパーだ」
フランクがゴールし、へたばった新人の腕をカスパーは引っ張ってやりながら、コニーに近づこうとしていた。
「マジかよ、お前?」
デミアは、5番を引きずりながらあまり疲れた様子もみせず近づく4番と、口元に涼しげな笑みを迎えて下位隊員を待つ2番の顔を見比べた。
カスパーが汗を拭いながら、コニーに聞く。
「コニー、フランクのタイムは?」
「……悪くない」
「マジだな。お前」
デミアは、肩をすくめた。
「言い出したんだ。協力しろ。デミア」
デミアは、悪友からの久々の悪戯の誘いに、へいへいと返事を返した。
肩を抱く振りで、カスパーの背後から腕を上げたデミアは、そのまま首を捕えた。
咄嗟にカスパーの肘がデミアの腹へと突き出されたが、デミアは、その腕も捕まえ捻り上げると、自チームの4番隊員を拘束する。カスパーはもがいたが、チーム上位隊員たちは、一両日の長があるから、上位なのであり、まるで予期できなかった急襲をされたカスパーは、デミアに急所をがっちりと押さえられ、逃れることができない。
「カスパー」
ベッドから立ち上がったコニーは、困ったような表情で瞳を揺らしながらカスパーに近づいた。そして、そのまま拳を4番隊員の腹へと決める。
「……お前さぁ、言うのもなんだけど、ちったぁ遠慮したらどうだ? 自分とこの4番相手に、気絶するほど拳入れるか? 今晩、カスパー、メシ食えねぇぞ?」
カスパーはかなり頑固なところがあるから、そうそう簡単には説得できないぞと言ったのは確かにデミアだったが、じゃぁと、コニーが立てた計画には、デミアですら、ありえねぇ!と、チームのサブリーダーの顔をまじまじと覗きこんだ。しかし、コニーの顔は、いつもどおりの真面目さで説明を続けており、デミアは、自分がコニーに気に入られなくてよかったと、本気で胸を撫で下ろした。
説得の場所は、コニーだけが立ち入り禁止にできる仮眠室で、しかも、その用意として、コニーは結束バンドを一本盗ってこいと言った。
デミアは、手際よくカスパーの腕を後ろ手に留めながら、哀れなチームの4番隊員にこっそり同情した。
カスパーの体をベッドの鉄柵へと凭れ掛けると、デミアは、少し離れる。
コニーは、カスパーが暴れないよう足の上へと座り込み、カスパーの顔をぴたぴたと叩く。
「カスパー……カスパー」
気付いたカスパーは、まず状況を把握しようと辺りを見回した。そして、自分の上に乗るコニーを怒鳴ろうとする。
「しっ!」
コニーはカスパーの口を押さえた。デミアは、強い怒りを瞳に浮かべているカスパーを見下ろし、肩をすくめる。
「悪いな。カスパー。コニー、お前が遊んでくれないもんだから、機嫌が悪いんだってさ」
拘束から逃れようともがくカスパーは、やはりチーム50の隊員の一人で、口まで押さえていたのでは暴れるカスパーはコニーの手にあまり、とうとう枕カバーを使っての猿轡までされた。
猿轡をする際も、二人がかりで押さえ込んでやっとできたわけなのだが、不意打ちでもない今、カスパーの抵抗は相当なもので、張り紙の封鎖効力が一体いつまで持つものだろうかと、デミアは不安になりつつある。
2番と3番隊員が、自チームの下位隊員を結束バンドに、猿轡で拘束だ。別部署の人間にみつかったら、ただごとではすまない。
「迷惑か、カスパー?」
コニーが、猿轡されたカスパーの乱れた前髪をかき上げてやりながら、睨んでいる瞳を覗き込む。
当たり前だろと、心の中で突っ込むデミアは、やはり簡単にはいかなかったかスパーの捕獲に、伯爵様の考えたプランBや、プランCについても、心の中で検討しなおしてみた。そして思ったのは、コニーは、いつだって冷静にいくつものプランを立ててくるが、結局、目的達成への執着心というか、粘着な部分が、プランAの結束バンドのように、計画には必ず顔を出し、やはりコニーは恐ろしいということだった。
デミアは、強く睨んでいるカスパーと、それをものともせずに、ただ自分の困惑だけで、瞳を揺らしているコニーを見下ろしていた。
すると、不意に伯爵様が命令する。
「デミア、向こうを向いてろ。耳も塞げ」
しかし、一体どうやって、コニーがカスパーを説得するつもりなのか、興味のあるデミアは、背中を向けながらも、気配を探った。
すると、コニーは、ゴソゴソとカスパーの服を探っているようだ。嫌だ。嫌だと、猿轡の下でカスパーがもがいている。
好奇心が押さえきれず振り返ったデミアは、思わず声を上げた。
「お前! そういう手を使うか!?」
コニーがしようとしているのは、いわゆる最終手段だ。
色仕掛けともいう。
嫌がるカスパーの頭を腕の中に抱え込み猿轡の布越しにキスをしながら、ジッパーを下ろしたツナギの中へと手を入れている。動きがあるのは、主に股間部分で、つまり、デミアはコニーのこの行動のせいで、カスパーレイプ犯の共犯とされようとしていた。
暗めの照明の下、カスパーを懸命に求め、キスを繰り返すコニーの様子には艶かしいものがあった。思わず場に飲まれようとしていたデミアだったが、カスパーが嫌だと顔を振って拒否を示すのに、やっと我を取り戻す。
「おい、やめとけって、コニー。カスパー、嫌がってるだろ!」
「何でも、嫌なんだ。カスパーは」
肩を掴んでコニーを止めようとすれば、睨み上げてきて、その本気さ加減にデミアは目を見開いた。
コニーはデミアの手を振り払い、カスパーに頬ずりするため顔を寄せる。
「違うぞ。それ、コニー。カスパー、本気で嫌がってるだろ」
「邪魔するな」
強く言ったコニーの手は、カスパーの股間で積極的に蠢いていた。背をベッドの鉄柵に押し付けられて逃げられない4番隊員の首筋へと2番隊員は唇を押し当てている。唇から時々顔をだす舌が、猿轡されたカスパーの唇を舐め、その動きがエロい。
確かに、デミアも、コニーには得がたい色気があることは認めていて、色仕掛けにでれば、大抵のことは上手くいきそうな気がしていた。
だが、しかし。
カスパーは嫌がっている。
「……コニー、それは、マジやばい」
「うるさい。デミア。こいつはいつでも、嫌がるんだ。……俺に恥ずかしい思いをさせるのが好きなんだ!」
言い捨てたコニーは、目元を真っ赤にしたまま、きれいな顔をほとんど泣きそうなほど悔しげに歪め、恥ずかしげもなく体をカスパーへと擦り付けており、デミアは、親友の告白に、顎が落ちる思いをした。
「コニー! 開けるぞ!」
ドンドンと力強くドアを叩く音がし、声をかけるのとほぼ同時に、張り紙などものともしないゲープがガチャリとドアを押し開いた。
「中から不審な音がするって」
目を見開いた隊長が、何か怒鳴りだす前に、デミアはその口を両手で覆う。
「ゲープ。深呼吸、ほら、吐いて、吸って、吐いて、吸って」
だが、仮眠室のドアの内側で自チームの隊員が、チームの下位隊員に猿轡を噛ませ、結束バンドで拘束した上、馬乗りになっていれば、冷静でいられるはずなどない。
デミアがドアを閉めるのと、ゲープが怒鳴るのは同時だった。
「お前ら、何をしている!!」
顔を白くして怒鳴るゲープの目には、服装を乱されたカスパーがどのくらいいたいけに映っているのか、デミアは気が遠くなりそうだった。突然のゲープの乱入に、コニーは、状況を掌握しきれず、目を泳がせている。
咄嗟の状況に悪友が弱いのは、長年の付き合いからデミアは十分学習済みだったので、仕方なく自ら口を開く。
「……何って、えっと、愛情の確認か?」
本当に、カスパーがコニーと出来ていて、ただ単に、カスパーの焦らしに自分まで巻き込まれたのかどうか、デミアにも自信はなかった。だが、痛いほどコニーがカスパーを手放したくないのだということだけは、理解できた。
仕方なく、親友のためデミアは、無理やり事態を収束させる。
「な、そうだろ、コニー?」
デミアが強く言えば、カスパーに馬乗りになったままのコニーが呆然とした顔だったが、釣られたように頷く。
さすがにカスパーは頷くとは思えず、デミアは、ゲープに気付かれないよう、できるだけすばやくカスパーを蹴っ飛ばす。
「だよな、カスパー」
最悪の状況で更に蹴飛ばされたチームの4番隊員にも、このままの状況では事態が悪化する一方だとの自覚があったようだ。いい子で頷く。
だが勿論、そんなことでゲープが納得するはずはなく、隊長はきつく隊員たちを睨んでいた。
「この状況でか?」
カスパーは、後ろ手に拘束され、猿轡を噛まされ、その上、服装が乱れていた。ちょっとやそっとじゃ、言い逃れのできない状態だ。悪戯とするにも行き過ぎだ。
デミアは、今度ははっきりゲープにわかるようにカスパーを蹴飛ばした。
デミアは、上からカスパーを覗き込むようにして聞く。
「カスパー、お前、コニーのこと、好きなんだよな? だから、ちょっとこれは行き過ぎたけど、でも困った状況じゃないよな?」
脅されているというには弱い状態で、かすかに4番隊員は頷いた。
その腿の上にいる、チームのサブリーダーの顔に何かが灯る。
急に生き生きとした目になったコニーは、慌ててカスパーの上から退き、そのため、カスパーはコニーによって引っ張り出されていた大事なものを皆の目に晒すことになった。
「……負けたか?」
思わず言ったデミアは、やたらとコニーが浮かれているのに、やはり、勝手にコニーがカスパーと自分の関係を特別だと思い込でいるだけではないかと危ぶんだ。
訓練校で一緒になって以来、コニー絡みの鞘当はいくらでも見てきたが、コニーが自ら身を乗り出すことは一度もなくて、今、コニーが本気だということはわかる。けれど、カスパーはどうなのか。無口な上に感情に波の少ないカスパーは、はっきり言ってわかりにくい。それに、コニーもある意味わかりにくい。
例えば、飲んだ帰りにカスパーとキスをしただとか。
寡黙な4番隊員に夢中のコニーは、普段下手にガードが固い分、それを恋愛感情だと捕えただとか。
けれど、それだけだったら、ゲープとデミアの間は、結婚してきっと子供だっている。
チーム50の隊長はキス魔なのだ。
結束バンドを切って貰ったカスパーは、猿轡を毟り取った。
ゲープがもう一度、カスパーに詰問する。
「ふざけていたで、いいのか?」
「いいです」
それで、全てを飲み込んだゲープは、平等に、一発ずつ、各隊員の腹に拳を決めた。
本日、二発目が腹に決まって、さすがに床にうずくまったまま立てないカスパーの背中をデミアは擦ってやっていた。
コニーはやはり首謀者だと目をつけられて、ゲープに引き摺られていった。
「もう、あんな張り紙通用しないと思えよ。コニー」
「悪かった。ゲープ。……もうしない」
デミアは、カスパーに同情している。
「カスパー、お前、すげぇのに惚れられたな」
「……ほっといてくれ……」
カスパー・ラインドルは、もれなく、チームの1番から3番が苦手になった。
END