監禁とドキドキ
デミアが人の話を聞かないのがいけないのだ。
仕事から帰り、鞄から汚れものを出しながら、ゲープはなんとなく思い出した先日出がけにあった愛らしい遅刻事件(リッシーによる監禁事件)について、デミア相手に話をして聞かせていた。だが、デミアはまるで聞いていなかった。
いや、返事はしていた。
しかし、上の空状態でのうん、うんという軽い頷きは、かなり怒りを誘うものなのだとゲープに感じさせた。
デミアは、鞄の中身を出す手すら止まったままで、テレビのサッカー中継に食い入っている。ゲープが突然話題を変えても、気付いた様子もなく、ああ、と、同じ返事をする。荷物を出す手の止まった鞄から、汚れものを取り出し、一緒に運んでやろうとも、サンキューとは言ったものの、ゲープが何を運んだのかすら、たぶんデミアは気づいていない。
ゲームは、ゴール前で大きくボールが弾んだ。
もみ合っていた選手たちが散り散りに走り出す。ボールはセンターまで帰り、ゲープは頃合いだと、指を鳴らした。
「デミア」
2度鳴らし、やっと、デミアがはっとしたように振り返る。
「デミア、悪いが、寝室に他に洗うものがないか見てきてくれ」
「……えっ、今か?」
「そう」
デミアはゲームの中継に未練し、それは十分にわかっていたが、ゲープはにこりと笑いながらじっと目を見つめ、促す威圧を強めた。
「悪いな、デミア」
「……ああ、わかった」
ゲープにとって、意外なのは、デミアは職場でよりも、家の方がゲープの命令によく従うことだ。任務の最中には、時に危ぶみたくなるはねっかえりな部分が、家ではなりを潜める。いまだってテレビにちらちらと視線を送り未練気な様子ながらも、素直に寝室へと向かう。
「あっちには、洗った方がいいものなんてなかったと思うぞ?」
「後で出てきたら面倒だろ? 見てきてくれ、デミア」
「じゃぁ、ゲープ、ゲームが急展開しないよう、見ててくれよ」
寝室のドアを開けて中に入るデミアに向かってゲープは腕を組み、笑顔で頷いてみせた。しかし、もちろん気に障るテレビは、ドアが閉まった途端、消した。デミアの声がする。
「なんだ? 音、小さくしたのか?」
「ああ、ちょっとうるさいだろ?」
そして、そっとドアに近づき、鍵をかけたのだ。
部屋の中のデミアに、まだ、閉じ込められたことに気づいた様子はなかった。ごそごそとベッドの掛け布団までめくって、洗濯物が残っていないか調べているようだ。
自分が愛娘にされて、かなり情けない気持ちにさせられた寝室での『監禁』を、人の話に上の空で返事をするデミアに罰として体験させてやろうと思っただけのゲープは、しかし、カチリと音を立て鍵が閉まった瞬間から、予想外にも胸が落ち着かない気持ちになるのに驚いた。
まるで、子供のころに、大きな羽の蝶を手の中に囲い込んだ時のドキドキと興奮する心にも似て、自分の心が、大切なものを逃がすことなく閉じ込めているのだという充足で、気持ちの悪い甘さで満たされるのだ。
後ろめたさに、ゲープはドアノブを握ったまま、高鳴る胸の鼓動を落ち着かせようと、大きく呼吸を繰り返す必要まであった。
しかし、落ち着かない。それどころか、鍵を握る手には、興奮のために、じわりと汗までかき始めた。
この痺れるような甘さを、まさか、あの時、あの末の娘が味わったのかとゲープは舌打ちしたくなった。だが、あの子はまだ5つだと自分に言い聞かる。
「……くそっ」
ドアに背を預け、ゲープは、これはデミアの罪に対する正当な罰なのだと思いなおそうとした。
しかし、背を預けたドアの中に、デミアを閉じ込めているのだと思えば、鼓動の音は小さくならない。
これで奴は、急にかかってきた電話で飲みに出ることもできない。町で、女の尻に振り返ることもしない。
この寝室で大人しくしていられたら、仕事には行かせてやるし、飯は、ちゃんと時間どおりに運んでやる。
ふと思いついたそんな意地の悪いルールが、酷くゲープを満足させる。
だが、実際にはデミアが、こんなドアなど、蹴りの一つで開けることができる精鋭部隊の人間なのだと、ゲープも十分承知だ。
「ないみたいだぞ」
隣室のテレビの前にいるはずのゲープに大きな声で言うデミアが、ドアに近づいた。
「ゲープ。ゲームどうなってる?」
しかし、鍵をかけられたドアノブは回らない。不審がるデミアは、せわしなくドアノブを回そうとする。
「あれ?」
何度も回されるドアノブの音を聞くたび、ゲープには、激しい羞恥心がこみ上げていった。
今すぐドアを開けるか、さもなければ、もっともらしい理由を言い放つ必要があることはわかっていた。
監禁することに、後ろ暗いよろこびを感じたのだということを、死んでもデミアには気づかれたくない。けれど、手は強く鍵を握ったまま動かない。
頭に血が上り、息が苦しくなっていく。
「ゲープ? おい、ゲープ?」
まさか、閉じ込められているとは思わず、建てつけが悪くなったのかと、ドアをガタガタ揺すったデミアは、揺れの少なさから、ドアに背で押さえるゲープの存在に気づいたようだ。ようやく声に本気が混ざる。
「おい?」
強くドアを揺すっていた力が、驚きでなくなった。
そして、場は沈黙した。
コンコンコンと、3回ドアがノックされ、情けないような、あきれたような声がした。
「なんだよ。どうして鍵かけるんだ? 何の遊びだ、ゲープ?」
その声音に、ゲープは、デミアはわかっていないのだと、肩の辺りに詰めていた力が抜けた。しかし、このまま開ける気になれなければ、理由を明かさなければならなくなるのも時間の問題だと、羞恥に熱い体を汗が伝う。
返事を返さないと、今度、デミアは軽く1度ノックする。
「俺、試合の続きがみたいんだけど?」
そして、もう一度、3度のノック。
デミアがするのは、無線が使えない時の、内部に生存者ありの合図だ。
ゲープは、もう、このドアを開けるべきなのだということはわかっていた。
不自然ではあるが、今なら、ちょっとした冗談でこの閉じ込めは終わる。
デミアに向かって帰る早々テレビに夢中になるのはやめて、人の話を聞けと、ちょっと説教がましいことをいえば、ゲープが優位に立ったまま、この事件は終わった。
「どうしたんだよ。冷蔵庫のサラミを食っちまったこと、気づいて怒ってるのか?」
開くはずのないドアのノブを回しながら、デミアは、少し本気になった情けない声を出している。
「昼間のことなら、いくらお前がリーダーでも、俺にも意見くらいは言う権利があるんだぞ?」
状況を好転させようと、出方を変えてくる。
「あーもう、……わかった。なぁ、明日の昼飯はおごってやる。それで機嫌なおしてくれよ」
しかし、結局、すぐ食べ物で機嫌をとろうとするところが、馬鹿馬鹿しいまでに男だと、ゲープは思った。いや、ゲープだって同じ状況になれば、まったく同じことをしたはずだ。
しかし、それでは、苛立ちを誘うだけなのだと、思いもかけずゲープは知った。
何も理解しようとしていないデミアに対してちりちりとした怒りを感じ、けれど、同時にゲープは、そんなデミアを今、自分は自由にできる立場にあるのだと強く興奮してしまうのだ。干上がる喉にごくりと唾を飲み込む。
「デミア、お前を閉じ込めた」
低い声は、かすれてしまった。
「だからぁ、ゲープ、何、怒ってるんだよ?」
のんきな声を出しながらも、デミアが外の様子を窺っているのがわかる。
宣言はしたものの、ゲープは次の言葉が選べない。
ゲープはどうしても激しくなる自分の息の音だけを聞いていた。
デミアの方が先に口を開いた。
「ゲープ。監禁なんかされると、俺、興奮するんだけど?」
からかいで慌てさせるつもりのデミアの声に、ゲープは思わずかっとなった。
「デミア、もうお前をここから出さない! 本気だ!」
怒鳴りながら振り返り、思い切りドアを叩いていた。
「興奮でもなんでもしてろ! もうお前は二度と、女の尻や胸に、振り返って口笛を吹いたりできないんだからな!」
「は!?」
思い知ったか!と怒鳴りながら、ゲープは自分の頭をドアに打ちつけ破壊してしまいたい衝動に囚われていた。
かわりにもう一つ、ドアを思い切り殴る。
言ってしまったことがたまらなく恥ずかしかった。デミアを独占したかったのだと思い知るのは情けなかった。
扉の向こうからは、沈黙しか返らない。
居たたまれないまま、ゲープは力なく繰り返すしかなかった。
「ここは、開けない。少なくとも、俺の気が済むまでは開けない。……お前は、そこで大人しくしてろ」
「……ちょっ! ゲープ! マジか? なぁ、おい、お前、俺を本気で監禁」
「するつもりだ! うるさい、黙ってろ! くそっ、少しは俺に協力しろ。俺を馬鹿にするな!」
デミアは慌てた。
怒鳴れば、怒鳴るほど頭に血がのぼり、ゲープは、ぐるぐるとドアの前を歩きまわる。
「ゲープ、マジでサラミのことでもなく、昼間の件でもねぇのかよ!」
「うるさいっ! デミア! もう、しゃべるな!」
ゲープはもう一度強くドアを叩いた。
強制した沈黙は、しかし、ゲープを苦しくさせていくだけだった。
部屋の中からは、コトリとも音はせず、いっそドアの前から離れようと思うのだが、ゲープの足は、大事なものを閉じ込めた部屋の前から離れたがらない。
ゲープは、手を伸ばし、ドアの感触を確かめる。
ここにデミアがいるのだと思えば、気味の悪い、しかし確かな幸福感がひたひたとゲープの体を甘く満たした。
みっともないと思いつつ、息を殺して何度もドアの中を確かめてしまう。
ドアの中にいるデミアは、突然のことに、呆然としていた。
サッカーのゲームの行方が気になっていたのが、そんなのは、もうはるか前のことのようだ。
与えられた多くもない情報は、何度つなぎなおそうと、ゲープがわざと、自分をここに閉じ込めたという結論に達した。現に今も、そっとノブを回そうとも、それは回らない。
ゲープの足音はドアの前から離れない。
苛立つ彼は、何度も舌打ちをする。
しかし、ドアに耳を押し付け、外の様子を伺うデミアには、興奮が混ざるゲープの速い息の音が聞こえていた。
ゲープはそうしたくて自分の意思で、『監禁』したのだ。
息苦しそうなゲープは、小さな声で自分を罵る。
「おいっ、デミア! お前、謝れ!」
不道徳すぎる現状に、しかしとてつもない幸福感を感じ、その甘さにじわじわと体を侵食されはじめていたデミアは、やけくそともいえるゲープの怒鳴り声に、思わず笑ってしまった。
回らないドアノブ握ったまま、ぷっと吹き出した声を聞きつけたゲープは、どんっと大きくドアを叩く。
「出してやらないって言ってるんだ! 笑ってなんかいるな! 俺に、こんなバカな真似をさせて、お前!」
ゲープは本気になって怒鳴っているが、その顔は真っ赤に決まっている。馬鹿なことをしでかしたと、歯ぎしりだってしているだろう。
正直にいえば、こんな扉など蹴破り、デミアは、ゲープに、そんなに俺のこと好きなのか?と、問い詰めて、はっきりとした返事が貰いたくてうずうずしていた。そのくらいのことは、こんな目にあっているのだ。当然のことだ。
しかし、懸命にも、デミアはそうしなかった。
ゲープが怒鳴って息を荒くするだけで、デミアの体は幸せで重くなる。
「一生、お前はこの部屋で監禁だ! ……いや、そんなのは……、っ、お前なんか、この部屋で朽ち果てろ!」
「くそっ! ……本当に俺はバカだ!」
とうとうぐすりと鼻をすする音がした。ゲープは悔しいのか地団太を踏む。
この幸福感をどうすればいいのか、デミアはふうっと長くため息を吐きだした。
しかし、それを聞きつけたゲープが、びくりと強張る気配がする。
デミアは白いドアへと顔を寄せた。
「なぁ……すっげぇ、お前にキスしたい。ゲープ……なぁ、ここから出してくれないってなら、それでもいいから。お互いドア越しにキスするだけでもいいから。……頼むから、お前もドアにキスしてくれ」
「お前っ、何をっ!」
思わずゲープは目を見開いて間近のドアを見つめしまった。たっぷり一分は見ていたはずだ。
しかし、それは、ゲープにとって、とても都合のいい提案だった。
ゲープも、実は、自分が手に入れたものを味わいたくてしかたなかったのだ。
「ゲープ。お前に監禁されてるってだけで、興奮するんだって、さっき言ったろ? それ、本当なんだって。すっげぇ、興奮して」
けれど、じかに何かする勇気はない。
「なぁ、ゲープ。キスしてくれよ。少しでいいから。少しだけでいいから。……すっげぇ、お前とキスしたい」
引き寄せられるように、ゲープはドアに近づいていた。
「絶対、俺が、お前のこと閉じ込めて蹴り殺されるのが先だと思ってたのに、お前が、こんな……。こんなことが起こるなんて……」
デミアが必死に口説くから、許してやるのだ。
「……3・2・1でだ。デミア」
低い、かすれたような声で言いながら、ゲープははやる気持ちを抑えていた。
デミアが、ごくりと喉を鳴らした。
二人は同時に息を詰める。
「3……2……」
「……悪ぃ、ゲープ。この部屋の鍵をしばらく、絶対にあけないでくれ!」
デミアが何でそんなことを言い出したのかが、ゲープはわかった。同じ兆しをゲープも持っている。
なんだか、まるでそれを指摘されたかのように恥ずかしくて、思わずゲープは、思い切り、平手でドアを叩いていた。
「ゲープ! 怒るな、ゲープ! くそっ! 仕方ねぇだろ! お前にこんなことされて!」
情けない喚き声を聞きながら、ゲープもバスルームへと向かった。
END