伯爵様とカスパー様 1
本格的に振り出した雨に、傘を広げながら、警察局を出たカスパーは、自分の車に向かおうとし、随分前に出たはずのコニーがその脇に立つのに気付いた。
コニーは何か地面にあるものを見つめているらしい。
傘を差しかける位置の不自然さにカスパーは気付いていたが、近づいてみれば、コニーの背中はまるで傘の中に入っておらず、ずぶぬれだった。
アスファルト舗装の割れ目から力強く生きる雑草たちは、久々の雨に緑を濃くしているが、人には強すぎる雨だ。
「どうした?」
背中に声をかければ、コニーは驚いたようにびくりと肩を震わせ傘ごと振り返った。
恥ずかしいところを見られたとでも言うように、バツの悪そうなその顔は、仕事中にはみることの出来ない感情をのせた素直なものだった。濡れた前髪から雫を垂らし、コニーは気まずげに目をそらす。
小さく唇を動かしながらも、躊躇ってなかなか口を開こうとしないコニーの足元から、小さな鳴き声がしていた。
ミィミィと幼く鳴く声は、コニーの足元にあるダンボールの箱からだ。
コニーの肩越しにダンボールの中を覗いたカスパーは、その中に小さな子猫を見つけた。
手のひらに乗りそうなそれは、ちゃんと息をしているのかどうかが不安になるほど小さい。
雨に濡れ、震えながら、か弱い声で鳴いている。
「猫か?」
「……ああ」
駐車場に置かれた子猫のためにコニーが足を止めるのだと、一体どれだけこの警察局の人間が知っているだろう。コニーの傘は、この子猫が雨に当たらぬよう、傾けられていた。だが、ただじっと子猫を見るコニーの目は、これをどうしたらいいのかわからないようだった。
子猫のために差し出された傘の中立ち尽くすコニーが腕にかけるスーツの上着は、すっかり濡れている。
コニーがロッカールームを後にしてから、カスパーがここに来るまでには、30分は経っていた。
その間、ただじっと子猫を見つめていたのだと信じてもいいほどには、コニーは不器用で、優しい。
今も整った横顔は、カスパーの視線を避けるように憮然と強張っている。
しかし、ミィミィと、消え入りそうな小さな声で、鳴く子猫は決して雨に濡れない。
カスパーははぁっと、ため息を吐き出すと、コニーの肩へと手を置いた。
「コニー、この猫、どうする気なんだ?」
「……」
コニーはけぶるような目でカスパーを見上げる。
降る雨は、傘の骨を伝い子猫に掛からぬよう落ちていく。
カスパーは、無防備に背中をぬらすコニーへと傘を差しかけてやった。
普段は見せないどこか頼りない目で見上げてくるコニーと目が合う。
緑は、この子猫を見捨てることは出来ないが、しかし、優しくしてやる方法も分からないとでも言っているようだ。
カスパーは、思わずもう一度ため息を吐き出した。
しかし、そのため息は、雨の中、不器用に捨てられた子猫へと傘を差し出し続ける同僚のやっかいごとを引き受け、自分が子猫を引き受けることにした諦めのため息などではなかった。
カスパーのため息は、ただでさえ、疲れた今日一日が更にこの出来事で疲れたと言いたげに、吐き出されたものだ。
静かに、カスパーは、足元の子猫とコニーを視界に納めている。
淡々とカスパーは告げる。
「……コニー、捨てヒマラヤンはなかなかいない」
作戦中の追い詰められた場面で良く見せるように、コニーの目が泳いだ。
精密に整った顔が冷静そうに見せるが、チーム内で最初に動揺をあらわにするのは、いつだってこのコニーだ。
間に合わせのダンボールに入れられた子猫は、あきらかに血統書がついているだろうと思しき、麗しい容姿なのだ。
生後それほど経っていないだろう震える小さな体はか弱そうではあるが、爪に、瞳、毛艶からしても、栄養状態だって腕の良いブリーダーによって完璧な状態で飼育されてきたことがひと目でわかる。
どこでコニーが調達してきたのか、ダンボール箱の中で震える子猫を抱き上げたカスパーは、顔を強張らせたまま瞳を泳がせるコニーを見下ろした。
人に慣れた子猫はミィミィとカスパーの懐に潜り込もうと頭を摺り寄せる。
最初の動揺を切り抜け、目から動揺が消えると、今度コニーは、自分の作戦をこの地点からのリカバリでも狙うように瞳の表情を強くしたり、弱くしたりしだした。
土壇場に弱いくせに、土壇場で一番粘り強く次策をひねり出し、実行しようとするのものコニーだ。
色を傘の位置はずれたままで、仕方なく、カスパーは、子猫にもコニーにも雨が当たらぬよう傘を差しかける。
今朝、着替えの途中で、フランクが、捨てられていた子猫を彼女が拾ってきて夕べから大変なんだと話題にしたのだ。
「捨てられてた子猫を彼女が拾ってきてさ、猫はほんと言えば迷惑なんだけど、捨てられてたのを見捨てずに拾ってくる彼女に、ちょっと惚れ直した」
デミアは、お前に物足りなくて、彼女ペットでも飼おうって気になったんじゃないのか?と、フランクをからかったが、カスパーは、少しむっとした顔の新人の肩を叩いて素直に褒めた。
「フランクの彼女は優しくて、いい女だな」
しかし、さすがのコニーも、この子猫作戦を修正するのには、無理がありすぎると諦めたようだ。
軽く息を吐き出すと、軽く肩を竦めてみせた。
濡れた前髪をかき上げると、繊細にさえ演出されていた表情をすっかり捨て去っている。もう傘は自分が濡れないための角度に変わっている。
少しつまらなさそうにした、全く悪びれない顔がカスパーを見上げる。
伯爵様はカスパーに猫を抱かせたまま、さも当たり前のことを言うように仰る。
「カスパー、この猫、貰ってもらえるように、ポスターを作って局内に貼るから、手伝え」
「……わかった」
カスパーは、コニーのこういうところが好きだった。
END