ダメだって、わかってた。7
カメラの中に入ったイライジャと、アスティンは、帽子を取ったが、椅子に座ったまま順番を待っていたオーランドは、野球帽を被ったままだった。
中つ国の住人であるはずの、オーランドが野球帽を被っていることは、どう見たって、異様な扮装だろうに、監督は何の違和感も感じていないようだった。
PJは、イライジャに向かって、いろいろな角度で顔を上げる様、自分で示して見せながら、照明に向かっても、指示を出した。
照明スタッフが、イライジャたちにライトの光を当てたまま、長いコードを引きずって、移動を始めた。
彼らも、オーランドと同じ野球帽を被っていた。
オーランドから見れば、室内の撮影なのに、彼らの赤い帽子は、おかしかった。
撮影を見守りながら、オーランドは、自分のいつもの格好が、そんなに優雅なエルフとかけ離れていただろうかと、ちらりと思った。
オーランドは、この野球帽を被せられた一瞬、なんてミスマッチなんだと、思わず心の中で舌打ちしたのだ。
レゴラスのノーブルなメイクと長い金髪に、この現代的な帽子は酷く似合っていなかった。
だから、オーランドは、自分のこの格好を見ただけで、PJが、この悪戯に気付くに違いないと思った。
挨拶と同時に笑い出すかと思った。
オーランドは、普段、邪魔な髪を押さえるために、バンダナ程度は使っていた。
あの姿も、確かにちょっと違和感があったが、野球帽ほどではなかった。
サムの麦藁帽だって、今日の撮影では、必要なかった。
PJの目につくところを、赤い野球帽を被ったオークの一団だって歩いていくのだ。
どう考えたって、おかしいとオーランドは思った。
彼らは、何度もPJの様子を伺いに来ていた。
多分、別で撮影しているヴィゴの偵察隊だ。
スタントチームと、ヴィゴはとても仲がいい。
屋内の撮影を3シーンほど撮り終え、オーランドたちも、屋外へ出た。
まだ、PJは何も言い出さない。
賭けの勝敗に最初から脱落したオーランドは、イライジャとアスティンの飲み物を運ばされていた。
両手を塞がれ、オーランドの飲み物は、運ぶ余地がない。
草を踏み分けながら、セットに向かってオーランドたちは歩いた。
「ねぇ、なんで、PJ。気付かないのかな?」
監督の後ろを歩く、イライジャがこっそりとオーランドに耳打ちした。
そのついでに、飲み物も奪っていく。
嫌がらせのために、何度も、何度も、飲み物を要求するイライジャに、オーランドの眉間の皺が深くなっていた。
必ずイライジャはオーランドに飲み物を返すのだ。
「ねぇ、なんでだと思う?PJ、見えてないのかな?」
「リジ、そんなに、のどか乾くんなら、自分で持ってればいいだろ」
5度目になって、とうとうオーランドはイライジャに文句を言った。
「何、言ってんの?オーリ。こんなのわざとに決まってるじゃん。賭けに負けたんだもん。この位は当然だろ」
イライジャは、透明な青い目にとっておきの意地の悪い表情をのせていた。
アスティンを肘でつつき、飲み物を要求するよう、そそのかした。
「それよりさ、PJだって。おっかしいよね。俺、普段は、帽子なんか被んないし、自分以外のみんなが、帽子被ってるっての、PJってば、変だと思わないのかな?」
太陽は、もう、頂点に近いところにいた。
外を歩くスタッフたちは、漏れなく帽子を被っていた。
いくら、日差しが強いとは言え、PJの髪だけが、風に吹かれていた。
少しは、違和感を感じてもいい。
先頭を歩くPJは、大きな声で隣に立つ、赤い野球帽の脚本家と打ち合わせしていた。
全く、普段と変わるところはない。
いつものとおり、熱心で、そして、大変にこやかだ。
この辺りで、PJが気付かなければ、イライジャも、負けだった。
イライジャの指が、無意識に口へと運ばれた。
「リジ」
強く、アスティンが、イライジャの名を呼んだ。
はっと手を口から離したイライジャは、ばつの悪い顔をして、アスティンに笑った。
「リジ。今は、我慢するんだ。これから、岩場を登るんだろ。ばい菌が入る」
アスティンは、イライジャの悪癖である爪噛みを注意した。
一緒に並んでいたオーランドには、イライジャの様子からも、アスティンの様子からも、この注意がはじめてのものではないことがすぐにわかった。
お互いに遠慮が無い。
イライジャは、上からのもの言いで、注意されたことに、少しの不満を表明していたし、アスティンは、そんな不満など簡単に受け流していた。
オーランドの見る限り、アスティンは、まるで、イライジャの兄だった。
そうでなければ、父親だ。
アスティンは、普段の生活も、役作りに使うタイプの役者だという話だったから、強い絆で結ばれたフロドとサムの役柄上、仕方のないことかもしれなかった。
だが、あまり現場の経験がないオーランドにとって、カメラのないところでも、カメラの前と同じように、接されるのは、おかしな感じだった。
しかし、イライジャは、上手にアスティンを受け流していた。
イライジャは現実にまで、役を持ち込まないタイプなのに、平然とアスティンを受け止めていた。
さすがに、二人とも子役からこの世界で生きているとでも、言えばいいのか、お互いに、自分のやり方を曲げず、だが、妥協しあうところは妥協して、なんとも上手い関係を築いていた。
イライジャは、両手を大きく広げて、手を振り回した。
すこし、拗ねた目をしてアスティンを睨んだ。
「俺、噛んでないよ。噛まないってば。昨日、約束したじゃん」
「無理。無理。俺は、もう、噛んでるところ目撃した」
「嘘だ。だって、今日、ずっと我慢してたんだよ」
アスティンは、イライジャに苦笑した。
「我慢してることが、もう、ストレスなんじゃないのか?カットって言われた瞬間に、手が口にいってたぞ」
アスティンは、とうもろこしでも食べるように、自分の爪を噛む真似をした。
「えー?だって…」
アスティンは、イライジャの手を取って、一番新しい噛み跡を示した。
「ほら、ここ。リジのお陰で、思わぬことに詳しくなった。これだよ。ここ、爪がささくれ立ってるだろ。こういうの見ると、また、噛みたくなるんだろ?下手に教えて、噛むとだめだと思って黙ってたんだ」
イライジャの爪は、普通の半分しかない。
イライジャは、示された指を見て、眉を寄せた。
確かに、爪は、ささくれ立ち、新しく削られた痕跡があった。
「…ああ、もう、失敗に終った」
何度目の失敗かに、イライジャが情けない声を出すと、アスティンが、笑った。
「リジ、我慢してないで、PJに、今日は何か、おかしくないって、聞いてこい。結果が出るのを待ってるってのが、いらいらする原因だろう?これ以上、我慢して爪が減ったら、お前の指から爪が無くなるぞ」
オーランドは、ずるい賭けの結末に、唇を突き出した。
アスティンは、オーランドに手を伸ばし、飲み物を受け取った。
意地悪くも、一口飲むと、すぐさま、オーランドに容器を戻した。
自分の行為を後悔するように、じっと顔を顰めて爪を見ていたイライジャが、アスティンの行為を笑った。
アスティンは、イライジャだけに笑った。
「どうせ、外の現場で、ヴィゴ達と合流だ。そこで、ばれるのが、一番面白いだろう?」
アスティンは、イライジャの背中を叩いた。
イライジャは親指を立て、白い歯を見せた。
外のセットでは、巨大な岩場を前にして、にやにや顔のヴィゴが待ち構えていた。
顔の半分が、口かと思うほど、ヴィゴの笑顔は強烈だ。
「おはよう!」
ヴィゴは、大きな声で言った。
のしのしと先頭を歩いているPJを抱きしめそうなほど、熱烈な歓迎ぶりだ。
ヴィゴは、赤い野球帽を被っていた。
黒に近い野伏の格好に恐ろしく似合っていない。
その様子を見ているのに、PJは、気楽な声で、おはようと返した。
ヴィゴの笑みが深まった。
ヴィゴは、ひどくご機嫌だ。
口と、目の周りに、笑いジワが寄っていた。
自分の仕掛けた悪戯が、進行中なのだ。
そりゃぁ、ご機嫌だろう。
腰の剣をカチャカチャと言わせながら、ヴィゴは、PJに近付いた。
「今日も天気が良くて、なにより!」
PJの肩を叩くヴィゴは、うさんくささが、いつもの倍だ。
イライジャが、オーランド見上げた。
わざとらしいため息つきだ。
「王様さぁ、オーリと張るくらい、あの野球帽、似合わないね」
イライジャだって、フロドに、黒の皮帽は、似合わなかった。
キャストの中で、違和感なく、帽子を被っているのは、麦藁のアスティンだけだ。
オーランドは、さらりと酷いことを言うイライジャに、眉を寄せて見下ろした。
「リジだって、変だ」
「俺は、格好いい」
イライジャは、胸を張る。
埒も無い言い合いをやめ、オーランドは、この現場にいるはずの最愛の恋人を探した。
少し離れた日よけの下で、ショーンは、穏やかに笑いながら、ヴィゴを見ていた。
ショーンは、ヴィゴのティンガローハットを被っていた。
イライジャが、ショーンの姿を見つけた。
「ショーンは、結構、似合ってるんじゃない?なんての?ミスマッチぶりが、なんともキュートっていうか」
「まぁ、野球帽よりは、マシだよな。ヴィゴのだろ?あれ」
アスティンが、わざわざ指摘しなくてもいいことを言った。
「何言ってるのさ、二人とも。似合ってないって。全然、似合ってない。ショーンも変!」
オーランドの意見は、無視された。
憎らしいホビット二人は、オーランドよりは、ずっとマシだと、頷きあう。
オーランドたちに批評されているとも知らないショーンは、楽しそうな顔をして、ヴィゴの悪戯に参加していた。
目を細めて、にやにや顔のヴィゴの動向をうかがっていた。
無意識なのか、ティンガローハットを何度も触っている。
「あーぁ、ショーンまで嬉しそうな顔しちゃって」
イライジャが、自分の帽子を被り直しながら言った。
隣で、アスティンが、肩を竦めて同意する。
オーランドは、ショーンの頭からヴィゴのティンガローハットを叩き落としてやりたかった。
許されるはずもないが、ついでに、キスの一発もかましてやりたい。
ショーンは、のんき過ぎた。
誰だって、ヴィゴのだと言い当てるあの帽子を被っているなんて、今朝まで恋人のベッドにいたくせにおかしかった。
オーランドは、まるで、ショーンにヴィゴの名を書かれたようだと、いらいらとした。
だが、ショーンはそんなことわかっていない。
ショーンは、PJと話しながら、やたらと帽子を触るヴィゴを見て、隣に立つスタッフと笑っていた。