ダメだって、わかってた。17
翌日からのヴィゴは、予告どおりショーンを避けなかった。
スタジオに入り、一人、撮影を待っているショーンを見かけたヴィゴはまだ遠いというのに手を振った。
「ショーン!」
大きなヴィゴの声が、スタジオに反響する。
しかし、確実に聞こえているはずのショーンが、ヴィゴを無視した。
手を振ったヴィゴに対して、わざとらしく、つんと澄まし顔で余所を見た。
その態度のあまりのわざとらしさに苦笑するヴィゴを、周りのスタッフが笑った。
「ヴィゴ、何をして、ショーンを怒らせたんだ」
「早く、謝って来いよ。友達がいなくなっちまうぞ」
ショーンの行動は、あまりにもわざとらし過ぎて、周りの人間に気を遣わせるどころか、笑いの元となった。
ここの人間には、どこの現場にもあるよそよそしさを、とっくに追い出したアットホームな絆が出来上がっていた。
ヴィゴは、また新しくなったというスクリプトを受け取りながら、口を曲げた。
「俺の友達が、ショーン、一人みたいなことを言うな」
まるで強がりのようなヴィゴの言葉に、遠くショーンのいるところの周りを固めているスタッフまでもに、ささやかな笑いが伝わっていく。
向こうを取り囲んでいるスタッフも、ショーンをからかっているようだった。
勿論、ヴィゴにも辛口のからかいが降りかかる。
「だって、ヴィゴ。ショーンくらいだぞ。そのあんたの研究熱心なところに付き合ってくれるの」
「そうだよ。ヴィゴに付き合ってたら、身が持たないってのに」
ヴィゴはにやりと笑いを返した。
「労働条件についての話合いなら、俺じゃなく、プロデューサーたちにどうぞ」
澄まし顔で笑う王様の背を笑いが後押しする。
マントを翻し近づいたヴィゴに、ショーンは背中を見せた。
あまりにもわざとらしく、ショーンは机の上にコピーされたスクリプトを置き、のぞき込んだ。
ゴンドールの名誉ある執政の格好をして、あまり子供じみたショーンの態度に口元を覆って、笑いに耐えているスタッフまでいた。
「おはよう。ショーン」
ヴィゴはまず、礼儀正しく声を掛けた。
勿論、ショーンは頷きすらしない。
ヴィゴは、一歩近づき、広い背中を両手に治めた。
「ダーリン。昨夜はきっと電話が貰えると思ったのに、俺、寝ずに待ってたんだぜ?」
嘘ばかりだ。
ヴィゴは、ショーンの帰った後、飲みに出かけた。
電話が鳴ったとしても出られる訳がない。
背中を抱くようにもたれかかったヴィゴを、ショーンは、振り落とそうともがいた。
うなり声を上げたが、口は閉じたままだ。
「なぁ、ショーン、昨日何回、ヴィゴの馬鹿野郎って言った?」
陽気なヴィゴの声が、ショーンをからかった。
ショーンが最小限に口を動かした。
口を開けるのが惜しいとばかりに、小さく動かし、しかも、早口だ。
「ヴィゴ、お前と話すことなんて、ない」
「そう? そんなさみしいこと言うなよ。俺たち親友だろ?」
ヴィゴのためにコーヒーを運んで来てくれたスタッフが、笑った。
「久しぶりだわ。二人がそういうけんかしてるの見るの」
変なところで頑固な英国人は、ヴィゴと馴染む間での間、何度か怒り、ヴィゴを無視するという態度に出ていた。
まるで、今日はそのころの情景だ。
「近頃、ヴィゴ、ボードゲームに夢中で、ショーン、置き去りだったもんね」
さみしかったでしょ?言外に言う、彼女に、ショーンは苦笑いを向けた。
ショーンは、「他人」に対して、とても礼儀正しい。
背中に纏わりつく、ヴィゴの腹に肘を入れようとタイミングを計っていても、彼女の気を惹くだけに十分な笑いを顔に浮かべ、距離を取る。
彼女へと意識の逸れたショーンの髪をかき上げ、ヴィゴは、耳の後ろへとキスをした。
「なぁ、ショーン、機嫌を直せよ」
すかさず、ショーンが肘をヴィゴの腹に決めた。
「うっ」
ヴィゴはショーンの背中に覆い被さった。
冷たいショーンの声が肩越しに落ちてくる。
「背中で吐くなよ」
ヴィゴは、長い前髪の間から、情けない顔をして笑いかけた。
「……やっとこっちを見たな。おはよう。ショーン」
ヴィゴはショーンの肘が決まった腹を撫でた。
実際は、分厚い衣装で、それほど痛くはない。
「ショーン、痛いか? って、聞いてくれないのか?」
「ヴィゴの悪戯は、毎度身体を張ってるな」
ショーンの目に微かな笑いが浮かんだ。
「この位で、許してくれるか? ショーン?」
ヴィゴが髪をかき上げた。
「何のことだ?」
昨日の事だよ。と、ヴィゴは、目で語った。
ショーンの目がまた尖った。
顔にまったく許す気がないと書いてあった。
なんともかわいらしいショーンの態度に、ヴィゴの目は優しく緩んでしまう。
「まったく、ショーンときたら」
ヴィゴは、昨日と同じ台詞を口にし、ショーンの背中にキスをして、ショーンに顔を顰めさせた。
ヴィゴは、わざとらしいくらい丁重にショーンに椅子を勧め、自分が淹れてもらったコーヒーを譲った。
スタッフの笑いに囲まれながら、王が執政に下僕のごとく尽くす。
ショーンは足を組んで、スクリプトを掴み、また、ヴィゴを無視しはじめた。
そこで、ヴィゴは、ショーンのコピーをのぞき込んだ。
途端に、顔を顰める。
「これ、また変わるぞ。見て見ろ、ここ。ここんとこ前、俺、撮ったんだよ。この動きじゃ、俺との映像と合わない」
仕事のこととなれば、ショーンは乗ってくる。
「そうなのか?」
ショーンがヴィゴを見上げた。
「俺が撮り直しか? ああ、あの時も、散々時間がかかったのに」
ヴィゴは小さくため息を吐いた。
ばりばりと頭を掻いたヴィゴにショーンが顔を顰める。
「……コーヒー」
ショーンが手元へとコーヒーを引き寄せた。
「ああ、悪い」
ヴィゴは、自然とショーンの隣に腰を下ろした。
そして、極自然に、額をくっつけるように寄せて、ショーンのスクリプトを覗いた。
「なぁ、ショーン。撮る前に、一度聞いてくれないか? 本当にこれで決定なのかって」
「いいが……、聞いたところで、無駄だと思うぞ。こんなスタジオで撮る分なら、PJは、俺の分だって撮り直すって言い出すだろうよ」
紙を指で弾いたショーンは、そこで、ヴィゴの髪が自分の頬に触れているのに気付き、ヴィゴを押しやった。
「ヴィゴ」
じろりと、ヴィゴを睨んだ。
ヴィゴが舌を出す。
ショーンは、小さくため息を吐きだし、ヴィゴに聞いた。
「ヴィゴ、あんた、今日、このスタジオなのか?」
ショーンは、昨日、あれほど冷たかったくせに、いきなり態度を変えた友人に接する態度を決めなければならなかった。
自分の甘えを全く加味していないショーンは、ヴィゴが受けるべき罰をいくつか頭の中で考えた。
だが、同じだと言う答えを期待していたショーンを裏切り、ヴィゴは言った。
「違う」
「じゃぁ、何しに来たんだ」
ショーンには、ヴィゴがここにいる理由が分からなかった。
昨日までは、ショーンが別スタジオまで追いかけてすら、ヴィゴと話をすることが適わなかった。
なのに、今日は声を掛け、側にいる。
ヴィゴは、思わせぶりな笑顔で答えた。
「こっちでスクリプトを貰ってくれって言われたんだ」
「……へぇ」
ヴィゴの答えをどう受け止めるべきか、ショーンが考えている内に、机の側を通り抜けるスタッフが、ヴィゴに、手を振った。
「ヴィゴ、後で、俺とやろう」
にやりと笑った顔は自分の勝ちを宣言していた。
ヴィゴのボードゲームは、このスタジオで、時間待ちをしているエキストラまでもがやっていた。
今も、名すら持たないサウロンの手下たちが、銀の玉の転がり具合に、大きな声で叫んでいる。
ショーンだって、参加した。
壁に貼られた対戦表は、もう名が書ききない。
「悪い、今日は、無理だ。遠足なんだ。ちょっと沼まで行って来る」
ひらひらと手を振り返すヴィゴに、コードの束を抱えたスタッフが肩をすくめた。
だが、それだけで、それ以上には何故、ヴィゴがここにいるのか聞いてこない。
ヴィゴは、どこにでもいたし、それ以上に、ショーンの側にいることなど、当たり前過ぎることだった。
だだ、ショーンだけが、ヴィゴの行動に引っ掛かる。
ショーンは、コーヒーに口を付けた。
「ヴィゴ。スクリプトくらい、届けて貰えただろう?」
ヴィゴは、甘く、甘く、笑った。
「そんなのショーンの顔が見たかったからに決まっているだろう?」
反射的に、ショーンは、机の下のヴィゴの足を蹴った。
足をさすったヴィゴがショーンからコーヒーを取り上げ、自分で口を付けた。
「ショーン。実は、今日の会見はこれだけ時間しか割けないんだ。ショーンが俺に言いたいことって無いか?」
ショーンにも、ヴィゴが言いたことが分かった。
昨日の言葉通り、ヴィゴは、ショーンにスタジオで相談をさせようとしていた。
このヴィゴの言葉に、ショーンは態度で文句を言った。
ショーンは、タバコを取り出し、口にくわえた。
ライターを出し、ゆっくりと火を付けた。
ヴィゴの視線に見守られたまま、煙を吐き出すまでに十分に時間を掛けた。
煙と一緒に低い声はせいぜい冷たく答えた。
「ないな」
苛立たしげな目をした執政は、昨日自分が受けた不当な待遇をきっちり根に持っていた。
「そうか」
ヴィゴは、にやにやと笑った。
「わかった。ショーン。じゃぁ、また、明日」
ヴィゴは、手に持ったコーヒーもそのままにするりと席を立った。
ショーンの目が一瞬ヴィゴを追った。
「うん?」
ヴィゴがショーンの頬を撫でると、ショーンは反対側を向く。
ヴィゴは、今朝早くに言い渡された今後の自分のスケジュールを知っていた。
それによれば、今後しばらく、ショーンに顔を合わせられるの等、ほんの僅か時間だった。
撮影の現場が合わないため、ヴィゴが避けようとしなくても、本当に、ショーンに会うことができない。
ヴィゴは、本当にわざわざ、ショーンの様子を見に来たのだった。
ショーンの表情を読みとり、不安定な状態の彼があとどのくらい持つか、知るために。
現在の恋愛をうまく存続させるため、ショーンを突き放す必要があることをヴィゴは知っていた。
だが、そうするには、ヴィゴはショーンを大事に思いすぎていた。
オーランドに任せ、へし折れてしまうかもしれないショーンを、ヴィゴは見放してしまうことができない。
そこまで、ヴィゴは、オーランドを信頼できない。
ヴィゴが、席を立って、スタジオを出て行こうとすると、仲のよいホビット二人組と、オーランドが入れ替わりにスタジオに顔を出した。
「おはよう」
ヴィゴは声を掛け、出口に向かう。
「おはよう。ヴィゴ」
「今日もしけた面してんね」
軽口のホビットに、ヴィゴは笑顔を返した。
隣に立つエルフは、特別うれしそうな笑顔をヴィゴに見せた。
「おはよう。ヴィゴ。……あの、ありがとう」
その声のあまりの幸福そうな様子が、ヴィゴの足を止めた。
わざわざ戻ってきたヴィゴは一つ、エルフの頭を叩いた。
青い目が、年下を睨み付けた。
「オーリ、今晩、俺の電話に出ろ。何時になるかわからんが、絶対だ」
「……わかった」
「オーリに指導が入った!」
「何したんだよ?オーリ!」
はやし立てる声を聞きながら、ヴィゴは、待たせてある車へと早足で歩いた。
続く
覚えてるとの言葉、うれしかったです。
ありがとうv