男の名はボンド 〜パトリックは死なない編〜
暗い闇が男たちにのしかかっていた。
周りにあるのは、物言わぬ墓石と、パトリックが撃ち殺した仲間の死体だ。
エリザベス・バロウスに撃たれたパトリックの仲間と、パトリックが撃ったエリザベスも、少し遠く、うめき声を上げていた。
ネイサンは、形勢が逆転した今、娘を誘拐した憎い相手をきつくにらんだ。
男は、ふてぶてしくも、ネイサンを睨み返してきた。
緑の目が、ネイサンのためらいを探していた。
ネイサンは、銃口をパトリックのこめかみへと当てた。
墓場の土へと顔を付けた男は、小さく、息を吸い込んだ。
「これに、それほどの価値があるのか?」
ネイサンは、宝石をもてあそびながら残忍な誘拐犯に聞いた。
パトリックの緑色の目が、じっと宝石を追い続けた。
「何を?」
「お前の命をだ」
「勿論」
怯えの隠せない震える口元とは別に、パトリックの声は、どこか甘ったるかった。
パトリックの視線は、宝石から離れない。
「俺のだ」
ネイサンは、指輪を墓穴の中へと投げ捨てた。
ネイサンにとって、その石は、命をかけるほどのものではなかった。
特に、娘の命を懸けるほどのものでは、決してない。
パトリックの目は、石の行方を追いかけた。
ネイサンは、これまで散々苦渋を舐めさせられた相手を、思い切りけり落とした。
「そんなに大事ならば、拾って来い」
ネイサンは、無情に言った。
パトリックは、墓穴の中へと転がり落ちた。
ネイサンは、無様に転がるパトリックを見下ろし、銃を向けた。
パトリックは、うめき声を上げた。
ネイサンは、パトリックを狙った。
しかし、撃てなかった。
ネイサンは、パトリックに撃たれたエリザベスを助けるべく、痛む体をかばいながら歩き出した。
その背を、銃が撃った。
銃弾は、墓穴から撃ち込まれた。
パトリックだった。
とっさに転がり、弾を避けたネイサンは、どこまでも貪欲なパトリックが、永遠に無欲でいられるようにしてやる必要があると思った。
躊躇いもなく発射される銃弾を避けながら、ネイサンは、方法を探した。
ネイサンが、見上げた先には、墓穴を補強するためになのか、吊り上げられたままになっている木材があった。
銃弾は、しつこくネイサンを狙う。
ネイサンは、銃弾を避けながら、木材を吊る滑車に手を伸ばした。
重みある木材は、ものすごい音を立てて、墓穴の中へと落ちていった。
怯えたようなパトリックの声が聞こえた。
途中、木材は、墓穴を補強していた木枠を壊した。
木枠は、すぐに、みしみしと音を立てだした。
ただ、木枠によって、支えられていたに過ぎない大量の土砂が音を立て、壊れた部分から墓穴へとあふれ出した。
勢いのある土がごうっと音を立て流れていく。
パトリックは、押し寄せてくる土砂に、いつか自分が追いやった仲間の死の瞬間を体感した。
圧倒的で、抵抗など出来るものではない、物量が自分に向かって襲い掛かってきた。
その瞬間、どこかで、聞いた曲が流れてきた。
曲は、デンデケ・デンデーンデンデンデン・デンデケ・デンデーンデンデンデンという耳になじんだあのテーマ曲だった。
緊迫した墓場の雰囲気とは、まるであわない華やかさだ。
ネイサンは、あまりの驚きに、大きく眼を開け、辺りを見回した。
すると、そこに、風を切るような勢いで、一台のパラグライダーが舞い降りた。
真っ黒のパラグライダーは、ほかのどこでもなく、ネイサンの目の前で、ふわりと着陸した。
パラグライダーから降り立った黒いスパイスーツに身を包んだ男は、すばやく、近くにあった木の根元へと鏃のような物が先端についた銃を打ち込んだ。
プシュンっと、打ち出された鏃には、ロープが続いていた。
男は、銃を張り出していた木の枝へと投げ上げ、落ちてきたものを、難なく受け取る。
呆然と見ているネイサンの前で、どこかで見た男はにやりと笑うと、墓穴の中へと、するすると降りて行った。
土砂は、パトリックに襲いかかろうとしていた。
パトリックは、墓穴からよじ登ろうとあがいていた。
だが、パニックに陥っているパトリックは、転倒した。
墓穴の中は、襲い来る土石流の勢いが、息苦しいほどだった。
パトリックは、死を覚悟した。
「おまたせ。ハニー」
ジェームズは、切ない目をして、唇を噛むパトリックの前にひらりと降り立った。
パトリックは、息を呑んだ。
「ああ、ごめんよ。今は、説明している暇がないんだ。ちょっとだけ、我慢していてくれるかな?」
ジェームズは、もはや背中に襲い掛からんばかりになっている土石流を前にしても、パトリックを丁寧に抱きかかえた。
パトリックは、声も出ない様子で、ジェームズを見ていることしかできなかった。
「安心して、ハニー」
ジェームズが、銃の引き金を引くと、銃は、勢いよくロープを巻き上げ始めた。
キリキリキリキリという音を立て、二人の体は、宙へと吊り上げられていく。
ジェームズの腕が、パトリックの重みに全くゆるぎなく、体を抱いていた。
パトリックは、土煙を上げ、轟音を立てる墓穴を脱出した。
パトリックの足元で、墓穴はただの地面へと変化していた。
あと、一瞬遅かったら、パトリックは生き埋めになるところだった。
ネイサンは、目ばかりでなく、口も大きく開けて、木からぶら下がるジェームズと、パトリックを見ていた。
ジェームズは、パトリックを片腕で抱いたまま、ひらりと地面へと降り立った。
間抜け面を自覚する余裕も無いネイサンに向かって、ジェームズは、笑いを浮かべた。
「お忙しいところ、お邪魔して、失礼。ですが、大事な大事な人が、酷い目にあっていたものですから」
ジェームズの片腕は、パトリックの腰をしっかりと抱いていた。
いつの間に拾ったのか、ジェームズは、パトリックが命を懸けた宝石を持っていた。
パトリックの目が、宝石を追うのを、あやすような顔で微笑む。
「こちらは、いただいてよろしかったんですよね?お宅のお嬢さんには、まだ、早いおもちゃだ」
ジェームズは、パトリックに宝石を握らせた。
パトリックは、目を輝かせた。
「俺に?・・・いいのか?」
唇が、薄く開いたままになっていた。
ジェームズは、甘やかすような目でパトリックを見た。
パトリックは、自分に起きたことがわからず、ただ、宝石と、ジェームズの顔を何度も見比べた。
ジェームズは、宝石を握るパトリックの指へと口付けた。
「君のものだ。さぁ、帰ろうか。助けるのが遅れてごめんよ。怖かっただろう?」
ジェームズは、100年も前からの恋人を見つめるように熱くパトリックを見た。
ここにきて、やっと、パトリックも、この事態のおかしさについて、動揺した。
「・・・・・・・・あ・・・あの、あんたは・・・」
しかし、ジェームズは、甘くパトリックに微笑むだけだ。
「後で、じっくり話をしようか。ハニー」
「でも、俺・・・あの・・・」
ジェームズに腰を抱かれ、おどおどとするパトリックに、ジェームズは、優しく笑いかけた。
そして、ネイサンを振り返った。
「では、ごきげんよう。ネイサン先生。傷は、早めに病院に行かれたほうが、よろしいですよ。いくら、あなたがお医者様でも、外科は、専門外でしょう?」
スパイスーツに身を包んだ男は、軽やかに笑うと、腰の引けているパトリックを抱いたまま、墓場を抜けていった。
車が置いてあったのか、ブオンという大型のエンジン音が暗闇にこだました。
ネイサンは、いつのまにか、あのテーマ曲が消えていることに、気付いた。
ネイサンは、とても疲れていた。
だが、うめき声を上げ続けているエリザベスを助けるべく、重い足を引きずるように歩いた。
ネイサンは、早く、娘に会いたかった。
END
INDEX
ボンちゃんネタは、どうしようもなく、私を幸福にしてくれます(笑)
文章だとどのくらい笑えるのかわかりませんが、想像の時はおなかが痛くなるほど笑ってしまった。