赤いバラ
ジェームズは、全ての用意を整え終わり、寝乱れたベッドに戻って来た。
ベッドの中には、金色の髪が埋まっていた。
差し込む朝日に光って、金色が縁取る寝顔は、幸福を絵にした絵画のようだった。
ベッドの端に腰掛けたジェームズは、ゆったりと身体を曲げて、くしゃくしゃになった金髪にキスをした。
寝返りを打つ頭を緩く撫でる。
髪は、指の間から零れ落ちていく滑らかさだ。
「おはよう。アレック。かわいい君をゆっくり寝かしておいてやりたいんだがね。君の今日のスケジュールは、朝から、会議に出席のはずだろう?」
ジェームズは、形のいい耳に甘く囁く。
とっくに目覚めているはずの金髪は、まだ、寝たふりを続ける。
ジェームズは、一人楽しげに笑う。
ダブルオーの名を持つアレックの演技は、さすがに堂に入っていた。
ジェームズでなければ、本当にアレックが眠っていると思ったに違いない。
寝息のリズムまでが一定だ。
天使の顔をした男が、寝顔で誘惑した。
ジェームズは、優しい目をして、寝顔を見つめる。
「いけない子だな…アレックは」
心優しい小心者は、アレックの寝顔を満足行くまで眺めた後、静かにドアから出て行くのだろう。
そして、少しの図々しい者達は、この滑らかな肩にキスを始めるのかもしれない。
だが、ジェームズは、アレックが目を開ける気になるまで、ゆっくりと頭を撫でつづけた。
そして、ジェームズのこの態度こそが、正解だった。
気の遠くなるような快楽を散々貪りつくしたアレックは、体温の高い唇などで撫で回されたくは無かった。
しかし、同じものを共有し、満足し合えた間柄なら、一人ベッドに残りたくも無いと感じていた。
穏やかな官能を伴った接触に満足したアレックが目を開けた。
緑の目が、ジェームズを見る。
「……間に合う?」
挨拶もなく、アレックはジェームズに要求だけを突き出した。
「間に合わせるとも、スイートハニー」
ジェームズが鷹揚に笑うと、アレックは、無感動な目で顔を見つめた後、そのままベッドから出ていった。
ジェームズは、アレックのボディーラインの完璧さを目で堪能した。
バスルームに消えるすらりと長い足に、小さな跡が散っていた。
夕べのアレックは、ジェームズの上で、悩ましげに身体をくねらせていた。
白い肌が、次第に上気し、薄い唇が空気を求めて、開いた。
きつく腰を締める太腿の滑らかさは、その顔を下から満足と共に眺めるジェームズに触れさせず済ますことなど許さなかった。
ジェームズのペニスを貪欲に飲み込み、締め上げてくる小さな穴を、ジェームズは、何度も乱暴に突き上げた。
その度、アレックの顎が反り返った。
官能に潤んだ切れ長の緑が、ジェームズの与える刺激に満足げな視線を残した。
金の髪から、汗の匂いがしていた。
その匂いまでもが、ジェームズを誘惑した。
ジェームズは、アレックの細い足首を掴んだ。
支配者然と、ジェームズを見下ろしていたアレックの身体をベッドへと転がし、上から押さえ込むように冷たい緑を見下ろした。
「ジェームズ…」
アレックがキスを求める。
ジェームズは、柔らかい唇を堪能する。
体の中に抱き込んで、深く、深くペニスを埋めて身動きも取れなくくらい奥まで押し込んでも、アレックは、幸せそうなため息を落とした。
アレックが歩くたび、昨日、ジェームズが残した跡が見えた。
太腿の上の方だ。
ジムで着替えても、ぎりぎり見えない。
アレックは、恐ろしく気位が高いくせに、不思議と、身体に跡を残されることを嫌がらなかった。
どう見ても、セクシャルな跡だとしか思えない跡を残されても平気でいた。
そのせいで、服で隠しきれないこれ見よがしな部分に、キスの跡を見せていることがよくあった。
夕べ、アレックの身体を使って他者への牽制を表明しようとしている誰かの主張を、ジェームズは笑いながらなぞった。
本当に攻め立てなければならない相手は、他人ではない。
氷の美貌をしたアレックだ。
キスの跡を残したまま、他人のベッドに上がることの出来るアレック。
誰を攻撃するよりも先に、アレックを攻め立て、攻め落とし、甘く口付けて欲しいと願わせなければならない。
なんと言っても、アレックが一番手ごわいのだ。
周りに群がるライバルを相手にするのなど、その後で十分だ。
あのクールビューティーは、自分の体が広告塔として使われていると知っていて、それをしたがる他者の気持ちを軽く無視していた。
ジェームズだって、アレックをほんの少し、満足させることが出来たから、夕べのベッドに誘われたに過ぎない。
「ジェームズ、コーヒーは来てるか?」
「勿論」
金の髪を拭きながら、アレックが、ジェームズに近づいた。
カップを手渡すジェームズに、アレックは、ご褒美のキスをする。
アレックの匂いと絡まったシャンプーの香りが、コーヒーの薫りを凌駕した。
「アレックス、君の唇が、世界中で一番、柔らかな唇だ」
アレックは、濡れた唇のままカップを受け取った。
ジェームズは、触れ合うだけの口付けをもう一度求めた。
アレックが口付ける。
顔の表情は殆ど変わらなかったが、機嫌の良さそうな目をしていた。
ジェームズは唇の端を引き上げながら、行儀良くキスを受けた。
「今朝、一番幸福な男は俺だな。スウィーティ」
余分にキスを貰ったジェームズはリップサービスを怠らない。
立ったままコーヒーを啜るアレックが、切れ長の目でジェームズを見て、にやりとした。
「じゃぁ、その幸せを俺にもわけてくれ」
ジェームズが頷く。
「残り12分だ。Mは会議に遅れるのを嫌う。時間までに、俺をMI6まで、連れて行け」
通常、このホテルから、MI6までは、20分は掛かった。
並みの男には、アレックの願いを叶えることなどできなかった。
その上、アレックはまだ、着替えてもいなかった。
だが、ジェームズ・ボンドは、それを可能にする男だ。
残り二分を時計に表示させながら、アレックとジェームズが、MI6の廊下を歩く。
二人ともどこにも慌てた表情は無い。
足取りは、一定で、すれ違う総務の女性に対し、魅力的な笑顔まで浮かべていた。
白衣の男が二人に近づく。
「Q、俺がどこにいるのか知りたいのなら、直接聞いてくれ」
アレックが挨拶より先に、ポケットから、特殊装備課課長のヴィゴ・モーテンセンに小さな物体を放った。
放ったほうも、平然とした顔をしていたが、受け止めた方も、いつもと変わらぬ顔をしていた。
廊下ですれ違う一瞬の出来事だ。
ヴィゴが軽く頷く。
そこにジェームズが割り込んだ。
「Q、電波の指向性をもう少し絞り込んだほうがいい。その発信機の電波は拡散しやすい。おかげで、アレックに逃げられそうになった」
勿論、逃がさなかったジェームズが、余裕の顔で笑い、ヴィゴの肩を叩いた。
にこやかな笑いを浮かべていたヴィゴの顔の中で、目が細められ、眉がつり上がった。
ジェームズの顔は変わらぬ笑みだ。
「Q、そのサイズと、重量はとてもいい」
先を歩いているアレックが振り返る事無く、ヴィゴに声をかけた。
ヴィゴの目の色が和らぐ。
「でも、Q、電波の距離が足りた?軽量化にばかり気を取られたんじゃないのか?夕べだって、ぎりぎりあんたの家から、電波の届く範囲くらいだろう?」
ジェームズは、ヴィゴににやりと笑った。
ヴィゴも負けずに笑い返す。
「おかげさまでね。昨日はこの建物に居残ってたんで、君の気遣いが無くても、ばっちりアレックの居場所を掴んでいたさ。ついでに、言わせてもらうなら、あんたが、いつものRホテルに車を乗り入れたのもわかっていた。新しい発信機の位置はわかるか?」
「機能性重視でデザインの悪い、ミラーの出っ張り?」
発明マニアのQは、ミラーの面積を利用し、そこにディスプレイをはめ込んでいた。
普段はミラーが映すのと変わらない情景を映し出している。
その精巧な映像は、助手席でうっとりとジェームズの顔を眺める女性に、ミラーと違うことなど見抜かせない。
だが、ジェームズの言うデザインの悪いスイッチを押せば、そこは、軍事衛星と繋がる情報を映し出した。
瞬時に、一ミリの狂いも無い地図の上に、本部が捕らえている敵の所在地をディスプレイした。
食にさえ、邪魔されなければ、世界一有能なナビシステムだ。
そして、そのスイッチが持つ僅かな隙間に、発信機を埋め込むことなど、Qにとってはお手の物だった。
スタンドプレーの多いジェームズの居場所を、誰よりもMI6が知りたがった。
「いいや、ジェームズ。今度のはハンドルの中に仕込ませて貰った。もし発信機を取り外したかったら、ハンドルごと捨ててくれ。ただし、どの規格サイズもあの車には合わないがね」
アレックは、先を歩いている。
ジェームズは苦笑して、Qに向かって軽く手を上げると先を急いだ。
まだ、一人、会議室にたどり着くまでの間に、アレックを待ち構えているものがいる。
「おはよう。オーリ」
アレックと言い合いになっていたMの秘書、オーランド・ブルームにジェームズは甘い声をかけた。
オーランドは、ジェームズを無視した。
魅力的な黒い瞳は、アレックばかりを見つめていた。
唇を尖らせ、だって、と、アレックに食ってかかっていた。
「だって、アレック…」
「だってじゃない。オーリ。俺が時間に間に合うことなど、分かっていただろう?ジェームズが一緒だって、お前だって、知ってたんだろう?」
アレックは、オーランドの髪を撫でた。
冷たい顔をしているというのに、手の動きはとてもやわらかい。
オーランドは、その手だけで、最初の勢いを半分以下に封じ込められている。
アレックが、オーランドに視線を合わせた。
「俺、一人の時は、時間厳守の呼び出しコールを何度してくれようが構わないが、こいつが一緒の時は、止めるんだ。そういう無駄なことをしているとお前の価値が下がるぞ」
オーランドの返事を待たず、アレックは、MI6部長であるMのドアをノックした。
オーランドの後ろに掛かっている時計は、10秒前だ。
Mの機嫌を損ねない調度いいタイミングといえた。
「オーリ。女性をお待たせしないという私のポリシーは、まだ理解して貰えない?」
ジェームズは、ドア越しに聞こえるMの入室許可を聞きながら、オーランドに笑いかけた。
オーランドは、ジェームズと視線を合わせない。
「なんで、ジェームズなのさ。今度は何で?何がアレックの気に入ったのさ?」
ドアを開けながら、アレックは、笑った。
「こいつほど、面白い男が、ここにいるか?」
アレックが、部屋に入る前に、Mの方が、先にドアから顔を出した。
「行きましょう。アレック。でも、会議室までの移動時間があるの。できれば、もう少しだけ、早く来て頂戴。それから、オーリ、受付は、人を引き止める場所じゃないわ。アレックはいつでも時間ぎりぎりなんだから、ここで引き止めるのを遠慮してくれると嬉しいわ」
Mは魅力的な皺で、ぴしゃりとオーランドを叱った。
この国を支える頭脳は、美しい皺を持つ女性の頭に納まっていた。
「いってらっしゃいませ」
オーランドは、いつもどおり、折り目正しく、Mを見送った。
女王陛下の近い位置に立つ、上司からの叱責にも、必要な分だけの反省しかしない。
そして、それ以上のことなど、Mも求めない。
ジェームズが、二人の後姿に声をかけた。
「相変らず麗しいお姿で。今日の会議室は、お二人のご降臨で、さぞ目の保養でしょう。うらやましい限りだ」
甘い声が、冷たい顔をした二人の背中を追う。
ここに務める大半の女性は、その声だけで、ジェームズに心を奪われていた。
「ジェームズ。ここへ、時間どおりにアレックをつれてきたあなたには感謝するけど、あなたは、この間のレポートを出して頂戴」
無表情のMは、廊下を曲がる。
続いて、廊下を曲がるアレックの顔にも表情は無い。
氷の美貌だ。
笑わないMと、アレックは、触ると凍傷になりそうな鋭い美貌をしていた。
なまじ二人とも整った顔をしているのが、また、災いした。
あの目でじっと見つめられ、会議をするメンバーの不幸と、幸福をジェームズは笑った。
その笑いをオーランドが見咎めた。
「あんたって、そんなにおもしろかったか?」
今日、初めて、オーランドの黒い目が、じっとジェームズを見た。
ジェームズの存在を胡散臭いだけだと、オーランドの目が言っていた。
「アレックの感性では、そうなるみたいだな」
ジェームズは肩を竦めた。
オーランドが、ジェームズをしげしげと見る。
「どの辺りをアレックがおもしろいと思っているのか、分かっているのか?」
率直なオーランドの質問は、ジェームズをおもしろがらせた。
「分からない?オーリ?アレックは、いつも俺のこと、笑ってばかりいるじゃないか」
ジェームズは、オーランドの机に寄りかかり、にやりと笑った。
オーランドが知る限り、アレックがジェームズを笑っているところなど、見たことがなかった。
アレックは大抵無表情だ。
「彼は、俺が言う、どの言葉もおかしくてしかたがないのさ。美人だという誉め言葉も、スイートも、ダーリンも、全部、彼にとっては、笑いのキーワードなんだよ。だから、毎日、俺がそうやって言うのを、待ってるんだ。ただ、笑うためだけにだよ?」
オーランドは、一瞬無防備な顔になって、目を見開いた。
そんな顔は、キュートだ。
例え、ジェームズには出来ない甘え技でアレックをベッドに引きずり込む悪魔だとしても。
「あんた、まじめにアレックを口説いてたんじゃないの?」
オーランドが、聞いた。
「口説いてるのさ。そうやって、沢山笑わせてやると、アレックは、ご褒美にベッドへの招待状をくれるからね」
余裕たっぷりの態度で、昨日ののろけまで披露するジェームズに、オーランドは、盛大に顔を顰めた。
受話器を取り上げ、Mがいない間に済ます予定の仕事をこれ見よがしに始める。
「ええ、ありがとうございます。それでですね…ええ、はい。ありがとうございます…」
相手からの必要以上に過度な挨拶で、なかなか用件に入れないのが、オーランドの欠点の一つだ。
どこにでも、自分に許される持ち時間が分かっていない馬鹿がいる。
オーランドは、そんな馬鹿に好かれやすい。
「オーリ、会議が終ったら、俺にも連絡を」
ジェームズは、無駄を承知でオーランドに向かって、お願いを口にした。
オーランドが、聞く価値も無いレストランへの招待を聞き流しながら、受話器を手で塞ぐ。
「そういうお願いは、総務の女の子に頼みな。あの子達が、部屋を片付けに入ったときまで、アレックが会議室にいるかどうかは知らないけど」
オーランドは舌を出す。
ジェームズは、背中を見せながら、手をひらひらと振った。
「Qに頼むよ。さっき、アレックに発信機を仕掛けてたからね。彼は」
アレックは、衛星の写真に説明を加えている会議室の暗闇で、そっと顔を伏せていた。
話は聞いていた。
写真は、最初に見たときに頭に入った。
もう、見る必要はない。
アレックは、眠っている振りで隠している顔を緩ませていた。
今日のジェームズも面白かった。
朝から、ムードたっぷりの甘い声で、かわいいなんてアレックを呼ぶのだ。
思わず、笑い出して、寝たふりを続けられなくなるところだった。
極秘のはずのアレックのスケジュールを完璧に押さえていた。
どこの誰をたらしこんだのだ。
世界で一番柔らかな唇をしているのは、赤ん坊だ。
決して、アレックではない。
アレックは自分の唇を触った。
真顔で、アレックをスイートハニーなどと呼ぶのは、ジェームズだけだ。
幸せな感性をしているとしか思えない。
だが、自称、一番幸せな男は、アレックのために、100キロを越えたスピードで、信号無視をするようなはめにはならないだろう。
ご降臨やら、目の保養やら、どうしたら、そんなことを思いついて話せるのか、アレックはジェームズの脳みそが正常かどうか一度検査するべきだと思っていた。
「アレック。夕べは、十分に眠れなかった?」
Mが、上品に、アレックを責めた。
「退出を許可してくださるんですか?M?」
アレックは、顔を上げて、Mに笑いかけた。
会議に飽き飽きしていた。
席を立つ、アレックを多くの視線が追う。
一つの咎めたてる視線。そして、残りのアレックの退出を惜しむ視線。
「話はわかりました。質問もありません。そちらにご意見があれば、呼び出しに応じます。きっと私のデスクに赤いバラが置かれていると思いますので、恥かしいそれを処分するためにも退出をさせていただきます」
小さな私語。舌打ち。ため息。
アレックの赤いバラ発言は、会議場にいる全員にある男の顔を思い出させ、様々な反応を引き出した。
Mだけが、笑った。
仕方がないと肩を竦めた。
「じゃぁ、後で、その彼と一緒に私のオフィスへ。バラは、私もいらないわ。文書課にでも飾っておいて貰うことね」
アレックは、嬉しそうに笑って、会議室を後にした。
アレックは、Mもジェームズの言葉を笑っているのを知っていた。
ジェームズの言葉は、氷の美貌をも溶かす。
END