犬と片思い

 

抱きしめられて、落ち着く体温と匂いがある。

 

「どうしたんです、ジャック?」

嫌味も覚悟の上、ドアを閉めるなり抱きしめた上司の体が容易く腕の中に納まり、それどころか、ジャックが重くもたれ掛かるように煙草の匂いをさせる体を預けてきて、受け止める年下の声には不審が混じった。

だが、問いかけられたジャックはチェイスの不審を知りながらも、何か言ってやるのが嫌で、黙ったままチェイスに体を預けた。体ごと包むように抱きしめてくるチェイスの胸は、普段とあまりに違う上司の様子を心配しているのか緊張に少し固くなったものの、ドクドクと規則正しい鼓動を続けていて心地いい。黒い綿のジャンパー越しのチェイスの体温が、少し自分より高いのは、こいつが若いせいかもしれないと、ジャックはチェイスの首筋へと鼻を突っ込み嗅ぎ慣れた匂いを吸い込んだ。

「どうしました、ジャック? 体の調子が悪かったんですか? 我慢してたんですか?」

だが、チェイスは、慣れない上司の態度に慌て、年上の体を心配げに支えながら部屋の奥へ近づこうと努力していた。

体温を測るためか首筋へと手が当てられ、だが、熱があるわけでもない体の様子に、チェイスは困ったように上司の金髪を撫でる。

「ジャック。とりあえず座りますか? 吐きそう? それとも、」

告白の相手が簡単に腕の中へと納まることに、まるでロマンティックな原因を思いつきもせず、口やかましく心配するチェイスの動揺がジャックの心を優しく擽りはしたが、けれど心の大半では最早そんな鈍感さに身勝手な苛立ちを感じている。こうしていても黙って抱きしめていてくれたらとちらりと思ったものの、しかしそれは、高望みのし過ぎかとジャックは苦く自嘲する。

しかし、口元に皺を刻むように苦く笑った上司の顔を誤解したチェイスは、無理やりジャックをソファーに腰掛けさせようとした。

ジャックは、チェイスの胸を軽く叩いて体を離し、実際そうしておきながら、急に態度を変えた上司に驚いた顔の部下を、指先で招いた。

「チェイス」

まだ顔に心配だの札を貼り付けたまま年下が間近まで近づくと、ジャックはドアの鍵すらかけていないというのに自分から顔を寄せて、ぎこちなく音を立てて短いキスをした。すぐに離れた薄い唇をチェイスは追えなかった。それどころか、

「えっ!」

ジャックと最も親密な関係にある部下はキスした口元を隠すように押さえた。

「ジャック!」

恋人という間柄であるはずの自分からのキスをまるで嫌がったような態度のチェイスを、ジャックは眉間に皺を寄せ睨む。

「だって、ジャック! 今、あなた、俺にキスしました!」

「ああ、したな。だから、何だ? お前とした約束は、お前からのキス限定なのか? 俺がしちゃいけないのか?」

「いいえ! いいえ、そういうわけじゃ!」

背中を向けたジャックを、チェイスは慌てて追い、腕の中に捕らえようとした。だが、もうすっかり機嫌を悪くし表情を固くしたジャックはチェイスを置いて、部屋の奥へと進み始める。ジャックはテレビのスイッチを入れながらリビングを横切り、犬のように後追いする部下を冷たく振り返る。

「チェイス、何が飲みたい?」

「ジャック、飲み物はいいです。……その、手を繋いでもいいですか?」

チェイスは、やかましい音を立て始めたテレビの前までくると、先にソファーへと腰を下ろしながら、勤務中には無縁のオドオドとした態度で、そっとジャックの手を引いた。チェイスの手は汗ばんでいる。

二人きりになればいつだって緊張する部下の手は、柔らかくジャックの手を掴んだ。

だが、それは、ジャックの望みに比べあまりにも遠慮がちだ。

「あの、……ジャック」

窺う目をして見上げてきたチェイスに、ジャックはちらりとテレビへと目を反らした後、顔も見ずに隣へと腰を下ろした。

つけただけのテレビは、もうかなり前に、一度だけ見たドラマの続きをやっていた。かわいらしかった少女に、知らぬ間に恋人が出来ていたらしい。

固い表情でソファーに座るチェイスの手は、ジャックの手を握ったままだった。だが、それ以上の行動は起こさない。それでもチェイスは、汗をかいた手でジャックの手を繋ぎとめたまま、勝手にチャンネルを変えた。緊張していたはずのチェイスの目が、時間の経過とともに、ゲームに夢中になり、ゴールを狙うFWの動きを追いだす。

 

ボールがカットバックされ、ジャックは、不自然にならないよう足を組む仕草にまぎれて握られた手を離そうとした。

すると、チェイスは指に力を入れ、それを阻止する。

「手は繋いでくれる約束でしょう?」

言うチェイスの顔にあったのは、ぎこちない真摯さだった。何度見ようと、その顔が気に入らないジャックは、小さく舌打ちの音をさせた。

やはりそれに傷ついた表情をしたチェイスは無理をした顔で小さく笑うと、手を握ったまま選手たちが走る画面へと顔を戻す。審判は、上手く転んだ振りをした選手がファールにあったのだとジャッジミスをした。時計はもうすぐ9時を指そうとしている。

ジャックは画面を眺めながら、チェイスの肩へと頭を乗せた。

だがその行動はやはり普段のジャックらしくなく、チェイスが心配そうな視線を向ける。

「……ジャック、やっぱり、どこか体の調子が悪いわけじゃ?」

「どこも悪くない」

驚いた顔のチェイスは、やっと嬉しげ笑った。

「今日は疲れました?」

チェイスの手が繋いだジャックの指を労わるように優しく撫でる。

 

「……あの、ジャック、今日の分のキスがもう終わりなのは寂しいんですけど、……でも、あなたからキスしてもらえて、すごく嬉しかったです」

 

 

「それは、あなたが決めることですから、好きにして下さってかまわないんですけど」

ジャックは、トニーの「けど」が嫌いだと思った。トニーは、小さな微笑を口元に浮かべ、いくつかファイルの乗ったデスク越しに面白そうな目をしてジャックを眺めている。

「でも、わざわざ外す必要があるんですか? あなたたちすごく上手くいってるじゃないですか。僕の判断だったら、チェイスをチームから外したりはしないですね」

トニーの言っていることは至極まともで、まともだからこそ、ジャックは手ひどくこの年下の上司に噛み付きたくなった。

権限が渡され、わざわざ相談する必要もないことを報告しに、ジャックはわざわざ階段を昇り、トニーのオフィスのドアを開けた。

「これから、上手くいかなくなるんだ。だから、あいつは外す」

「僕は、チームの減員で、仕事量の増えることを納得してくれてるんでしたら、あなたの動きやすいようにしてもらえばいいです」

トニーは書類に視線を戻しながら、でも、僕が言い出したならともかく、あなたが言い出して自分がチームを外されたんだとわかったら、チェイスの士気は一気に落ち込むでしょうねと親切にも付け足した。

そして、実行されないだろう報告を終えたジャックの足が、聞きたくも無いはずの嫌味の間もまだドアに向かわないことを確認した後、ゆっくりと顔を上げる。

「で、本当に、僕に話したいことは何なんです? ジャック」

ジャックは唇を歪めて、視線を床へと落とした。

ジャックは、トニーがいつだってこうだから不満が募るのだ。

 

 

三月以上も前に、職を捨てるまでの覚悟で告白をしてきたチェイスに驚いきはしたものの、ジャックはチェイスが求めてきた手を繋ぐことと、一度のデートに付き一回のキスと、苦笑交じりに許したのだ。

勿論、ジャックは驚きはした。けれど過去に何度か不本意な関係を強要された経験のあるジャックには、チェイスの真摯さは受け入れることが可能だった。

チェイスは、部下ながら一緒に居て心地いい相手だ。だから、約束はしたものの、それが守られるはずなどないとジャックは思っていた。いや、初めてジャックは、こういった場合の約束が守られなければいいと思った。

しかし、チェイスは、生真面目にも約束を守っている。昨日だって、チェイスはジャックが仕掛けたキスを一回とカウントし、ドアを潜るときには少し切なげに笑っただけで帰っていった。

 ジャックにはそんなチェイスが信じられない。ジャックは、恋人の体臭が感じられるほど近くに体温があるならば、もっと違うことがしたくなる。ジャックは、夜、一人のベッドで、チェイスが自分でペニスを扱いている姿を想像したことすらある。しかし、チェイスのキスは、いつだって軽く唇に触れるだけで、繋ぐ手も、それだけだ。

「俺が間違ってるか?」

 

「チェイスには、無理だったんじゃないですか? やめたらどうです?」

僅かな間だったが、今のチェイスとよりずっと親密な関係にあった年下の上司は、面白がっているような顔で苦い顔で問いかけたジャックを見ていた。

「無理……なのか?」

その疑問をジャックはチェイスの告白以来ずっと自分に問いかけてきた。チェイスの言う「好き」は、多分、ジャックが望むものとは違うものなのではないかと、近頃ジャックは思いはじめてもいる。いや、それはいい訳だった。ただ、あの時の情熱を、ジャックはチェイスに維持させることができなかったのに違いない。だから、チェイスは、いつまでたっても一線を越えようとしない。

ジャックはガラス張りのしきりに近づき、階下で忙しく立ち働いているチェイスを眺めた。

よくチェイスは、ジャックに触れたがる。けれど手を繋ぐだけだ。

「どうでしょうね? 僕はあなたのせいで、自分がモラルってものを簡単に乗越えられる人間だったんだって認識させてもらいましたけど」

でも、どうかな? まぁ、確かに僕も、あなた以外の男とは寝たいと一度も思ったことないですしね。チェイスの好意がそのまま衝動とイコールで結びつかなくても、おかしいことじゃないと思いますけど。

自分が驚くほど簡単に超えてしまった性モラルに対して、それでも悩んだ覚えのあるトニーはジャックの後ろに立って、真面目な顔つきで歩き回るチェイスを見下ろした。そこは、トニーのオフィスに設置されたカメラのちょうど真下なため死角だ。そこを選んで立ったジャックの心理を、ほぼ正確にトニーは読み取ることができる。

だからこそ、トニーとジャックは上手くいき、そして、すぐ別れた。

「よく働いてる。ジャックの教えが行き届いてますね」

「……なぁ、お前も、もう俺としたくない……か?」

性的な嗜好はノーマルなはずくせに、ジャックはよく同性を惹きつける。

トニーとの関係も、トニーの無理強いから始まった。けれど、そのジャックが、今は、自分からチェイスのことを欲しがっている。しかも、3月も焦らされたまま、手も足もだせずにいる。

元恋人である上司は、ジャックの耳元で囁いた。

「酷いこと聞きますね」

トニーは部屋を囲むガラスを流れ、それを透明にしている電流を止めるスイッチを押した。

「したいですよ。……ジャック」

 

自分と関係があった頃には、してくれなんて態度を一度もみせたことのないジャックが、トニーの手を助けるように、忙しなく自分でベルトを緩めた。

トニーにしてみれば、ジャックとチェイスの関係は馬鹿ばかしいとしかいい様がない。

だが、わざわざ助言してやる程には、トニーも親切ではない。

トニーはジャックを背中から抱きしめ、欲求を募らせているものを下着の中からつかみ出す。

「ジャック、さっきまで見てたんだから、チェイスの顔を思い出せるでしょう? 彼だと思って楽しめばいい。もしかしたら、部屋を不透過にしたから、チェイス、不審に思って見上げてるかもしれませんよ?」

こんな職場でなどという危ない橋は普段のトニーなら決して渡ろうとは思わなかった。けれど、ジャックには、トニーにモラルをかなぐり捨てさせる部分があった。

トニーにペニスを握られ扱かれたジャックは、早くも息を上げ始めていた。

はっ、はっと息を吐き出す唇は薄く、決して色気があるようには見えないというのに、トニーはその口を快感の形に開けたままにしておきたくなるのだ。そればかりでなく、可能ならば自分のペニスをねじ込んで、苦しそうに見上げてくるジャックの目を見下ろしてみたい。

鍛えられた太い腰も、へこんだ臍へと続く濃い陰毛も、決していままでトニーの欲望を刺激しはしなかったというのに、ジャックのものだけは違った。

下腹部を覆うジャックの体毛をざりざりと撫で回し、もっと直接的な欲求を満たしてほしがっているジャックをトニーは焦らす。

階下に異変を悟られないよう、大きく腕を開いて、ガラス面にではなく、細い柱へと手を付くジャックが肩越しに振り返った。何度も瞬きをする目は、いくつもの願いをトニーへと伝えたが、ジャックの口ははっきりとそれを口にしなかった。

ジャックのこの口の重さが、チェイスとの関係を進めさせない要因の一つだと、勿論トニーは気付いている。セックスに関する事柄に対して、酷くジャックは口が重いのだ。だが、察しろと言ったところで、かなり年の離れたチェイスにとって、尊敬する上司であるジャックが自分と同じ欲望を抱いてくれていると簡単には思い込めないだろう。

しかし、このジャックの重い口に、いきたいと言わせるのが好きだったトニーは、勿論、ジャックにもちゃんと肉体的欲求のあることを知っており、トニーは、シャツが隠すジャックの尻へと手を伸ばした。

捲り上げたシャツの下から盛り上がった二つの山の間へと手を差し入れて、汗をかいているのか少し湿った感触の股の間を手のひら全体で撫で擦る。

快感を望んでいるくせに、ジャックの腰がビクリと前へと逃げる。

「ねぇ、ジャック、もしかして、ゴムなんか、持ってたりしますか?」

質問にはちらりと落とされたジャックの目が、正直に太腿で絡まっているズボンを見て、トニーは苦笑した。

「かなり、飢えてますね。僕はチェイスに怨まれまるな」

「……アイツは、きっと……使う気なんてない」

「そうですか? でも、ジャックは使うチャンスを待ってるから持ってるんでしょう?」

勃ったペニスをトニーに扱かれながら、尻を突き出す格好でオフィスに立っているというのに、ジャックはトニーに問いかける。

「……なぁ、チェイスは」

慰めで求められるセックスなんて、最低の気分になって当然だとトニーは自分を笑った。

「知りません。知りませんけど、僕は指だけしか入れてあげませんからね。ジャック」

 

 

「あの……ジャック……」

側にいると、どうしようもなく、落ち着く体温と匂いがあるのだ。

「ああ、キスか。チェイス、おやすみ」

告白もした。キスもした。今だって、チェイスの手はジャックの手を握る。

けれど、不器用な二人は、欲しがりながらもなかなか噛みあわない。

不意にジャックは、たまらなく腹立たしくなりチェイスが軽く触れてきた唇を、思い切り噛んだ。

「痛っ!」

チェイスは傷ついた目をして、ジャックを眺める。

ジャックはそんな顔をするチェイスを突き放すように見つめながら、まばらに髭の生えた口元を苦くゆがめる。

「帰るんだろ? チェイス」

 

 

                 END

 

 

大事にしたい人と、精一杯誘ってるつもりの人(笑)