グルーミング。

 

珍しく職場の上がりが一緒になった人が、そのままトニーの部屋までついてきた。

だが、トニーは、曖昧な情報に振り回され、数日振りで自宅までたどり着いたのであり、ジャックの顔を見ているのは嫌ではなかったが、ジャックが望んでいるだろうやり方で持て成せる自信などなかった。

汗の染みたシャツを着替えたいと思いながら、首元を緩め、袖の釦を外しただけで、トニーは冷蔵庫から飲み物を取り出そうとドアを開ける。

「……ああ、そうか。すみません。ジャック、あなた何、飲みます?」

ジャックがいることなど、今だって見えていて分かっているというのに、トニーの頭には、自分のミネラルウォーターを出すことしか思い浮かばす、まずそうした自分を、本当に疲れているなと、ため息を吐き出す。

結局、冷蔵庫からは何も取り出さずに、酒瓶を取り出すため、キッチンの棚を開けるため立ち上がったトニーをジャックは眺めている。

「トニー、お前、職場で最後に鏡を見たのは、昨日の朝あたりか?」

ジャックの好みにあう酒を探してラベルを確かめていたトニーは、手を止めて自分の顎を撫でた。

「俺、そんなに酷いですか?」

指先には、硬い髭が触れている。

「……聞くまでもなく、みっともないですね。実は、かなり腹を立てながら仕事してたんです」

「知ってる」

ジャックが言う。

「お前、かなり本気で怒ってたな」

しかし、大方の人間はトニーが腹を立てていたことに気付いていなかったはずだ。

 

ジャックはそれ以上その話題に踏み込んでこず、ふいっとテレビへと視線を戻した。

トニーは、疲れで頭痛を訴え続けている頭の中でジャックが抱える案件の進展具合を確認した。ジャックのチームは一人増えた。

「ジャック、あなたのとこの、……使えそうなんですね?」

「まぁな」

顔を戻したジャックは、すこし驚いた顔をした後に満足そうな表情を見せた。

トニーの頭には、真摯なきつい眼差しをした若い男の顔がすぐ頭に浮かんだが、疲れている今、その印象はトニーにとって重荷だった。今度は、トニーが自分で持ち出した話題を避け、するともう全てのことが面倒になったトニーは、もう一度冷蔵庫を開けるとビールを取り出す。

「旨いつまみもありませんので、これで許してください」

珍しくもてなしの努力を放棄したトニーが大きく音を立てて尻からソファーに座ると、冷えた壜を受け取ったジャックが、柔らかに目を細める。

ビールをテーブルの上に置いた手が、トニーに伸ばされた。髭の伸びた顎を触っていく。

「……髭、そんなにおかしいんですか?」

「おかしくはないが、めずらしくてな。トニー」

ジャックは、口元に笑みを浮かべた。

「まぁ、あなたは、それほど目立たないし、」

殆ど反射的な義務感でトニーは恋人の顔に手を伸ばし、自分とは違い柔らかなジャックの無精ひげに触れると、不意にジャックの唇がその指にキスをした。眠そうに瞼の緩んでいたトニーの目が、さすがに見開かれる。

ジャックの唇は、何度かトニーの指に柔らかな接触を繰り返し、ゆっくりともう一度笑みを浮かべた。

「疲れているみたいだな。……トニー?」

「……ええ、……まぁ」

驚きと、積極的な請求の心理的圧迫により息を飲むようにしてトニーは返事を返したが、しかし、ジャックは、トニーの返答の内容など気にもしていないようだった。

ソファーから腰を上げた人は、伸び上がると、固い髭を生やすトニーへと顔を近づけ、頬へとキスをする。

しかし、お返しにとトニーがジャックの顔を捕まえ、キスをしようとすると拒まれる。

「……ジャック?」

 

「トニー、悪いな。少し詰めてくれ」

立ち上がったジャックは、テーブルを回り、トニーの前に立った。しかし、詰めようにもトニーが腰掛けているのは一人掛けのソファーで、ジャックの座る余地などない。

それでも、前に立つジャックはそこから退く様子もなく、仕方なくトニーが少し後ろへと尻をずらすと、ジャックは開いた場所へと膝をつき、トニーの上へと乗り上げてきた。

「ジャック?」

膝に乗る恋人の重みを受け止めながら、トニーがジャックの顔を見上げると、穏やかな眼差しと共に、僅かに開いた薄い唇が近づいてきていた。唇からは舌先が覗き、つられてトニーは自分も緩く口を開く。

しかし、ジャックの舌が求めたのは、トニーの唇ではなかった。間抜けに開かれたトニーの唇を避けたジャックの舌は、短い髭がみっしりと生えた顎をペロリと舐める。

「ジャック……?」

伏せられたジャックの睫の長さに気を取られながらも、トニーは怪訝な気持ちのまま、恋人の名を呼んだ。

返事は無い。

ジャックは、もう一度、トニーの顎へとそっと触れてくる。

ジャックが柔らかく何度も唇が押し当てキスをするので、トニーは恋人に応えるべく、ジャックの唇へキスを返そうと顔を上げた。しかし、またもやジャックは逃げ、トニーのキスはジャックに届かない。

ジャックは、不思議そうな顔をするトニーを面白そうに見下ろしていた。

「疲れているんだろ? 無理しなくていいんだぞ? トニー」

「……それは、キスはしたくないって言ってますか?」

「したくないわけじゃぁない。でもな、トニー、お前、今日はそれよりももう少し楽しそうだ」

何がどう楽しそうなのかトニーには分からなかった。

が、トニーは、膝の上へと恋人に乗り上げられたまま、もう努力することを放棄してしまった。

ジャックはトニーの頬や顎にばかり唇を寄せ、たまに唇の端まで舐めるが、トニーがその唇を追いかけようとすると、逃げてしまう。

そのうち、ジャックは唇ではなく、主に舌でトニーの顎や頬に触れだし、舌先で舐められるくすぐったい感触は、トニーをくすくすと笑わせた。

トニーは、目を瞑り、自分の膝の上にいるジャックの腰へと腕を回している。

ジャックは、トニーの髪をまさぐるようにしながら、舌先で硬い髭に触れている。

「ジャック、まるで動物のグルーミングみたいだ」

 

しばらくそんなことを続けていると、ジャックの声がトニーの耳元で囁いた。

「……実は、帰るまで剃らなきゃいいって思ってた」

トニーは思いがけないことを聞いた気がして、思わず目を開けた。

「ジャック、……まさか、気に入ってるんですか?」

至近距離から見つめているというのに、伏せられない視線が、じっとトニーをみつめている。

「……めずらしいなと、思った。お前は身だしなみに気を使うから」

離れないジャックの体温が、トニーの疲れを少しずつ癒してくれていた。

「ジャック、瞬きを忘れてますよ」

 

トニーはジャックの睫を舐めた。途端に何度もジャックの長い睫が動く。

顔を赤くしたままの落ち着かないその瞬きは、トニーが愛するジャックの仕草の一つだ。

照れ隠しのためか、ジャックは軽くではあったもののいきなりトニーに額をぶつけてきた。まさか、そんなことをされると思わず、構えていなかったトニーがソファーの背もたれへと仰け反ると、ジャックの口がトニーの顎を捕える。

歯を使って、がぶりと噛み付いた恋人に、トニーは降参と手を上げた。

「ねぇ、俺にもジャックのこと舐めさせてください」

 

トニーがジャックの頬に舌で触れると、ジャックが首をすくめた。

トニーは、ジャックの無精ひげを舐める。最初はひるんでいたジャックも、もう一度トニーの髭を舐め始めた。

「くすぐったいの、知ってますか? ジャック?」

「じゃぁ、お前がやめろ」

トニーは、ジャックにキスしようとする。

しかし、それは、また逃げられた。

「わかりました。じゃぁ、もう少し、このままじゃれあって、あなたの気がすんだら、ベッドではキスをさせてください。約束ですよ?」

ジャックは頷かなかった。

だが、耳を赤くしたままトニーの髭を舐める人の舌の動きが熱心になったので、トニーはそれを了承だと受け取り、彼の顎に生えた髭に舌先で触れた。

 

END

 

実験 この二人のグルーミングに和むか?

結果 どうやら、トニーはジャックに上手く乗せられたらしい。