******************************************************

チベットの歴史

******************************************************

チベットの歴史といっても、これが結構難しい。
なぜなら、チベット人が主張する歴史と中国人が主張する歴史がまったく違ったものであるからだ。
まあ、だから今でも問題が続いているのであるが。
とりあえず、チベットの歴史をまとめてみた。

年代チベットの歴史
7世紀
ソンツェン・ガムポが吐蕃王朝を立て、隣国の中国とネパールから友好のしるしとして王家の娘を嫁に迎え入れる。
1277
当時強大だったモンゴルが、チベットにも侵攻。チベットはモンゴルの支配を受け入れる。
この時にモンゴルの支配者たちは、チベット仏教の教えに感銘し、モンゴル人の間にチベット仏教の教えが浸透していった。
モンゴルは現在もチベット仏教の信者の多い国になっている。
1642
チベット指導者のノナム・ギャンツォがモンゴルのアルタン・ハンから「ダライ・ラマ」の称号を授かる。
以来、代々のダライ・ラマ法王がチベットを統治していく。
中国全土を支配していた清朝はチベットのラサに大使を置き、清朝の皇帝もチベット仏教を信仰した。
以来、チベットと中国は「お寺と檀家」の関係で繋がりを持っていた。
1911
インドを支配していたがチベットの独立を宣言するも、イギリス、中国はこれを認めなかった。
1913
インドを支配していたイギリスがチベットとの国境ラインでチベットの領土をインドの領土とするように認めさせる。(いわゆる、マクマホン・ライン)
1949
中華人民共和国の成立と共に、欧米からのチベットの解放を名目に人民解放軍がチベットを侵攻。
1951
中国政府はチベット政府に「平和解放」協定に無理やり調印をさせ、チベットを自治区に編入する。
1959
ラサに駐屯中の中国軍側から、ダライ・ラマ14世に劇を見に来るようにと命令を受けた事がきっかけとなり、法王の誘拐を憂慮したチベット人たちと中国軍とが衝突。
何千ものチベット人が殺され、法王はインドに亡命を図り、北インドのダラムサラに亡命政府を作る。
1966
文化大革命の開始と同時にチベット各地でお寺などの文化遺産が徹底的に破壊され、高価なものなどは中国に持ち去られた。
1989
チベット第2の高僧である、パンチェン・ラマが死亡。
1989
ラサでチベット独立を要求する大規模なデモが行われ、中国側とチベット人との間に武力衝突が起こり、ラサに戒厳令がだされる。
武力弾圧を続ける中国政府に対し、非暴力主義を掲げ、平和的に独立を要求してきたダライ・ラマ14世に対して、国際的な評価がなされ、ノーベル平和賞が渡される。
1995
パンチェン・ラマの転生者をめぐり、ダライ・ラマ政権と中国政府が対立し、それぞれが違う人物をパンチェン・ラマ12世と認定する。
2000
ダライ・ラマ、パンチェン・ラマに次ぐ第3位の高僧であるカルマパ17世が、信仰の自由が中国国内では認められないなどの理由により、インドのダライ・ラマ政権へ事実上の亡命をする。
2001
事実上の亡命をしていたカルマパ17世が、インド政府より難民としての在留資格を与えられる。

チベットの歴史の流れは大体このような感じになるが、 これに対して中国側は「元々チベットは中国の一部であるので、チベットの独立などあり得ない。」との立場を主張している。
何を根拠に言っているかというと、元朝や清朝の時代にチベットは中国の支配化にあったということらしいが、元も清もそれぞれ、モンゴル族、満州族が建国したものであり、現在の中華人民共和国を建国した漢民族がチベットを支配した歴史はないのである。
いずれにしても、現在の状況がチベット人のためになっていないのであれば、チベットが独立した国家であれ、中国の一部であれ、双方の話し合いの元でお互いによりよい道を探していって欲しいものである。


このページのトップに戻る

チベット問題に戻る

home