年代 | チベットの歴史 |
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ソンツェン・ガムポが吐蕃王朝を立て、隣国の中国とネパールから友好のしるしとして王家の娘を嫁に迎え入れる。 | |
当時強大だったモンゴルが、チベットにも侵攻。チベットはモンゴルの支配を受け入れる。 この時にモンゴルの支配者たちは、チベット仏教の教えに感銘し、モンゴル人の間にチベット仏教の教えが浸透していった。 モンゴルは現在もチベット仏教の信者の多い国になっている。 | |
チベット指導者のノナム・ギャンツォがモンゴルのアルタン・ハンから「ダライ・ラマ」の称号を授かる。 以来、代々のダライ・ラマ法王がチベットを統治していく。 中国全土を支配していた清朝はチベットのラサに大使を置き、清朝の皇帝もチベット仏教を信仰した。 以来、チベットと中国は「お寺と檀家」の関係で繋がりを持っていた。 | |
インドを支配していたがチベットの独立を宣言するも、イギリス、中国はこれを認めなかった。 | |
インドを支配していたイギリスがチベットとの国境ラインでチベットの領土をインドの領土とするように認めさせる。(いわゆる、マクマホン・ライン) | |
中華人民共和国の成立と共に、欧米からのチベットの解放を名目に人民解放軍がチベットを侵攻。 | |
中国政府はチベット政府に「平和解放」協定に無理やり調印をさせ、チベットを自治区に編入する。 | |
ラサに駐屯中の中国軍側から、ダライ・ラマ14世に劇を見に来るようにと命令を受けた事がきっかけとなり、法王の誘拐を憂慮したチベット人たちと中国軍とが衝突。 何千ものチベット人が殺され、法王はインドに亡命を図り、北インドのダラムサラに亡命政府を作る。 | |
文化大革命の開始と同時にチベット各地でお寺などの文化遺産が徹底的に破壊され、高価なものなどは中国に持ち去られた。 | |
チベット第2の高僧である、パンチェン・ラマが死亡。 | |
ラサでチベット独立を要求する大規模なデモが行われ、中国側とチベット人との間に武力衝突が起こり、ラサに戒厳令がだされる。 武力弾圧を続ける中国政府に対し、非暴力主義を掲げ、平和的に独立を要求してきたダライ・ラマ14世に対して、国際的な評価がなされ、ノーベル平和賞が渡される。 | |
パンチェン・ラマの転生者をめぐり、ダライ・ラマ政権と中国政府が対立し、それぞれが違う人物をパンチェン・ラマ12世と認定する。 | |
ダライ・ラマ、パンチェン・ラマに次ぐ第3位の高僧であるカルマパ17世が、信仰の自由が中国国内では認められないなどの理由により、インドのダライ・ラマ政権へ事実上の亡命をする。 | |
事実上の亡命をしていたカルマパ17世が、インド政府より難民としての在留資格を与えられる。 |