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スティングと熱帯雨林

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ジャン・ピエール・デュティルーのアプローチ

1987年のカンヌ映画祭に遊びに来ていたスティングにベルギー出身のジャン・ピエール・デュティルーは、自分が進めている熱帯雨林の窮状を収めたドキュメンタリー映画のスポークスマンになってもらえないかと積極的に売り込んだ。が、その時はスティングはそれほど興味を示さず、デュティルーをうっとうしくさえ思っていた。
しかし、執拗なまでに粘るデュティルーは、ブラジルのリオデジャネイロにツアーで滞在中のスティングの首をついに縦に振らせることに成功する。
この時期のスティングは、母と父を相次いで無くしていたために、彼はジャングルに行くことで何か社会の役に立つ事ができるのではないかと思い、ジャングルに行くことに同意したのである。

熱帯雨林のアマゾンの中へ

デュティルーは飛行機でジャングルへ入る許可を取ると、早速スティング、スティングの恋人トゥルーディーと共にシングー地域のカヤポ族の村へと向かった。
かつては1000万人はいたと言われているアマゾンの原住民だが、西洋人の侵略によりこの当時ですでに30数万人にまでその人口は減っていた。
スティングら一行は現地に辿り着くと、ラオニ酋長らのカヤポ族の人々が迎えに姿を現し、その奇怪な風貌にスティングは驚きを隠すことはできなかった。
スティングは滞在中に野性植物から作られたドラッグを体験し、恍惚感を覚え自由な精神を感じることができたのである。
数日間の滞在中に手厚いもてなしを受け、未知の体験を楽しんだスティングは、この神秘に満ちた熱帯雨林を守るために何かしなくてはならないという衝動に駆られてこの地を後にした。
ジャングルから戻ったスティングは周りの人間にことごとく熱帯雨林の話をし、スティングが熱帯雨林の保護に熱心になっていると言う報道はあっという間に広がっていった。
しかし、このスティングの行動に快く思っていない人たちも大勢いた。地元の地主や企業などジャングルを開発しようと考えている輩である。彼らはスティングに脅迫したり、抹殺まで企てるといった噂までまことしやかに流れていた。だが、結果的にはスティングの行動は多くの人に尊重され、さらにスティングは熱帯雨林保護に熱を入れていった。

熱帯雨林救済活動

スティングは、熱帯雨林を守るための救済基金を創設する必要があると考え、まず手始めにカヤポ族のラオニ酋長を伴って世界にこの窮状を訴えようとした。そして、最終的には原住民の住む熱帯雨林地域を国立公園に指定することが出来ないかと考えていた。
1989年初頭から『SAVE THE RAINFOREST ツアー』と銘打って、スティングたちは世界各地を飛び回り、雑誌のインタヴューや大々的なキャンペーンを行い、半年間で100万ドル以上の寄付金を集めた。
彼らはフランスのミッテラン大統領や、ローマ法王などにも会見することができた。が、それらの会見がいつもうまく行ったわけではなく、ラオニ酋長が会見時に腹を立ててスティングがなだめるといったこともあった。
このキャンペーンで、スティングらは日本にも訪れている。ラオニ酋長は風貌の似ている日本人に親しみを感じ、熱を上げる女性もいたためか、特に日本を気に入ったようであった。その時に立ち上がった機関が『熱帯森林保護団体=RFJ (RAINFOREST FOUNDATION JAPAN)』である。
しかし、このキャンペーンに否定的な意見を持つ人々も少なからずいた。スティングのような部外者にこの問題に干渉されるのが苛立たしいと感じているブラジル人や、元々、熱帯雨林保護に入れ込むスティングに懐疑的であった音楽業界の人たちである。
活動の中で、問題も色々と起こっていた。
スティングとデュティルーが共同で進めていた『ジャングル・ストーリーズ』という本の前払い金をデュティルーが一人で受けていたため、そのことで二人はもめていた。
また、熱帯雨林救済基金のブラジル支部の運営が早い段階でうまくいかなくなってしまっていた。それでもスティングは辛抱強く基金の運営を閉鎖させることは無かった。
それでも、1年間で250万ドル以上の寄付金を集め、1991年11月26日ついにブラジル政府は、シングーインディオ国立公園としてカヤポ族居住区を含む18万平方km(日本の国土の約半分)の森林地域を保護区として承認した。


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