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マーカス・ガーヴェイとハイレ・セラシエ

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マーカス・ガーヴェイ

上の写真右側の男が、マーカス・ガーヴェイである。
彼は皇帝ハイレ・セラシエの登場を予言した男として現在でもボブ・マーリーと並ぶヒーローとしてジャマイカでは称えられている。
ガーヴェイは1887年ボブ・マーリーが生まれたのと同じセント・アンの地で生を受けている。
14歳でキングストンへ出て、ジャーナリズムを志したガーヴェイはロンドンに渡った時にアフリカの本当の歴史を知り、その後黒人民族自決運動に力を注いでいった。
キングストンへ戻ったガーヴェイは、1914年に「全黒人地位改善協会(UNIA)」を設立。2年後には組織をニューヨークに移し、ハーレムで機関紙「ニグロ・ワールド」を発行した。
そういった活動を通して、ガーヴェイの考えは確実にアメリカのアフリカン・アメリカンの黒人たちの間に浸透していき、彼は救世主として崇められていった。
彼の演説は、わかりやすく、反復のテクニックを用いて、聴衆の心をおおいに沸き立たせたのである。
彼は、アフリカに黒人独自の国家を建国することを夢見、蒸気船会社「ブラック・スター・ライン」を設立し、アメリカの彼の信者たちに株を売ることで富を築いていった。
彼の信者は増え続け、1922年ごろには最大で600万人もの会員がUNIAにはいたのである。
しかし、その後は会社の倒産と郵送詐欺、脱税といった憂き目に会い1925年には投獄されてしまう。2年後にパナマに流刑となったガーヴェイはキングストンに戻り再び説教を始めたのであった。

解放の時の予言

説教活動を続けていく中で彼は色々と予言めいた発言をしている。1960年までに新世界の黒人全員がアフリカに帰還すると言ったりもした。
その中でも最も有名な予言は1927年に放った予言である。曰く「アフリカを見よ、今に黒人が王座につくだろう。その時こそ解放の時だ」と。
そして、1930年に黒人が皇帝の座に本当についたのである。
この王の出現こそが、ガーヴェーが予言した言葉そのものであった。多くのジャマイカ人が彼をメシアと思い込んだのは想像にがたくない。ガーヴェー主義を受けついだ者たちが、この即位をきっかけに運動をジャマイカ全土に広め、その運動は揺るぎ無いものとなっていった。
一方ガーヴェイは1940年にロンドンでアフリカの地を一度も踏むことなくこの世を去っている。

ハイレ・セラシエ

上の写真左側の男が、ハイレ・セラシエである。
エチオピアのサヘカ・セラシエ王の曾孫であるラス・タファリは、1930年に皇帝の座につくことになった。彼こそが「三位一体の力」を意味するハイレ・セラシエであり、「王の王」、「ユダ族の獅子王」がその名に加えられ、伝説のソロモン王の血統と自称したのである。
ジャマイカのラスタファリアンたちはガーヴェイの予言が的中したことに興奮し、ラスタファリアニズムは1930年から1933年にかけて開花し始める。そして、ラスタファリアンたちにとってハイレ・セラシエは唯一絶対の神となったのである。
1955年に皇帝のハイレ・セラシエが商船の建造に専念し、500エーカーの皇帝の私有地を西側の黒人のために用意しているという情報が流れた時には、ラスタファリアンたちは狂喜乱舞し、母国への帰還が現実のものになると信じて疑わなかった。この報道のおかげで、ラスタファリ運動のメンバーはあっという間に2倍に膨れ上がったのである。
しかし、母国アフリカへの帰還は現実には起こらなかった。
1960年には、ジャマイカ政府がアフリカ諸国にラスタファリアンを含む使節団を送り、ジャマイカ人の入植の準備を進めると言った提案も出された。この提案を当時の首相であるノーマン・マンリー首相が積極的に進めるように努力し、小規模ながら、ジャマイカ人がアフリカへ送られた。そのため、ラスタファリアンたちの間で再び母国帰還の機運が高まっていった。しかしながら、その試みは失敗に終わってしまう。

ハイレ・セラシエの来訪

1966年4月21日、皇帝ハイレ・セラシエがジャマイカを訪れた。皇帝の来訪はラスタファリアンとは無関係であったが、ラスタファリアンたちは興奮を押さえることはできなかった。皇帝はジャマイカでの彼に対する称賛のあまりの大きさに対しては、夢にも思っていなかったようで、意気を高揚させているようであった。
この来訪時に、皇帝は主なラスタファリアンに、「ラスタファリアンがジャマイカ人民を解放するまで、エチオピアへの移住は控えるように」という私信を送ったといわれている。この新しいイデオロギーが若いラスタファリアンの間で、この運動の社会内での定着化のための手段として活用された。そして、4月21日はラスタファリアンの特別な聖日として祝うようになった。  皇帝の来訪によって、ラスタファリ運動はジャマイカ社会内で大きく知れ渡ることになり、徐々に社会に根づいていった。

ハイレ・セラシエの退位と死

1970年代初期において、エチオピアをはじめとするアフリカ諸国では生活水準の低い一般市民が、食糧不足によって次々と餓死していった。それとは対照的に、王族、家臣、貴族といった支配階級者たちは裕福な暮らしをしていた。
一般市民の生活水準の改善に何の手立てもしない支配階級者たちに対して、その不満が高まり、1974年11月12日軍部の戦闘的な兵士を中心に武力闘争が起こり、大臣や皇帝の側近が逮捕されていった。そして、ついには皇帝であるハイレ・セラシエまでもが逮捕され、1975年8月28日に83歳で亡くなった。ハイレ・セラシエが亡くなった後、皇太子のアスファ・ウォッセンがハイレ・セラシエ2世として皇帝に即位するはずであったが、軍部が権力を握り、エチオピアを支配するようになったため、結局それは実現しなかった。
生き神と信じていたハイレ・セラシエが亡くなったことで、一時ラスタファリアンたちは混乱状態に陥ったが、彼らにとって肉体の死という現象は重要ではなく、彼の死後は霊的なものとしてハイレ・セラシエは生きていると信じているようである。
彼らにとって皇帝の死は精神的領域で神および王としての任務を果たすために現世から移り去っただけのことになるのである。精霊となった皇帝はラスタファリアンにとっては、より近づきやすい存在となり、彼の名を唱えるだけで、彼の霊気を感じ、その力に触れることができるとラスタファリアンたちは信じている。


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