レゲエといえばジャマイカ、ジャマイカといえばレゲエと言えるほどこの2つは切っても切れない関係になっている。
キングストンを聖地として訪れるレゲエ好きは数知れない。
そんなジャマイカとはどんな国なのか? あまり日本では知られていないボブ・マーリーの故郷ジャマイカについて紹介してみたいと思う。
現在のジャマイカ
ジャマイカの総面積は11,424 km2で日本の秋田県とほぼ同じ大きさになる。カリブ海の中では3番目に大きい島になる。人口は247万人(1996年国連)、首都はキングストンで、約70万人の人が暮らしている。90%を超えるジャマイカ人はアフリカ系の黒人であり、彼らの祖先は植民地時代にアフリカから奴隷としてジャマイカに連れてこられた人たちである。公用語は英語が使われているが、英語の訛りのようなパトワ語が広く一般的には話されている。宗教はプロテスタント系のキリスト教が中心である。
政治体制は立憲君主制を敷いていて、国家元首は英領植民地時代の名残から英国女王のエリザベス2世である。議会は二院制で上院21名、下院60名の81名で構成されていて、その任期は5年。全国は3つの郡と14の境区に分けられている。選挙権は18歳以上のジャマイカ国民または、1年以上ジャマイカに滞在している英連邦市民に与えられる。
政局は2大政党制で人民国家党(PNP)とジャマイカ労働党(JLP)があり、現在の首相は人民国家党のパーシヴァル・J・パターソン氏が就いている。
主要産業は観光業の他に、農業としてコーヒーや砂糖が、鉱業としてボーキサイトが上げられるが、国としては決して豊かとは言えない。
失業率は16%で、日本とは比べ物にはならないほど失業者が溢れている。通貨はジャマイカドルが使われているが(1米ドル = 約36ジャマイカドル)観光地では米ドルも使うことができる。
ジャマイカの食生活
ジャマイカ名物の食べ物といったらアキー&ソルトフィッシュとジャークチキンがすぐに思い浮かぶだろう。この2つの食べ物はジャマイカ国内の色々な所で食べることができる。
ジャマイカの朝食として有名なアキー&ソルトフィッシュとはジャマイカの至る所で見ることができる真っ赤な木の実のアキーと塩漬けのタラを煮込んだもののこと。アキーはよく熟すと実が割れて中から黒い種が出てくるが、それまでは有毒なため食べることができない。そのため、必ず火を通してから食べるのだが、これを食べるのはジャマイカの人たちだけ。10月から11月に実が熟れるのだが、缶詰の製品のおかげで今では1年中食べることができる。
もう一つ忘れてはならないのが、ジャークチキン。ジャマイカのファースト・フード的な感じの食べ物で、チキンにジャーク・ソースと呼ばれるスパイスの効いた汁を浸し、焼くだけといういたってシンプルな味の食べ物である。人が集まるような所では必ずといっていいほどジャークチキンの屋台が出ているぐらいジャマイカではポピュラーな食べ物である。
ジャマイカらしい飲み物といえばレッド・ストライプのビールが挙がるだろう。ジャマイカで最もポピュラーなビールでどこででも手に入る。その他にもグレープフルーツ・ジュースのティンや、生姜が原料になっているシャンディなどがジャマイカを代表する飲み物といえるだろう。
ガンジャについて
ガンジャとは要するにマリファナのこと。
ジャマイカではガンジャを多くの一般庶民が吸っているというイメージが持たれているためか、ジャマイカに行けばガンジャを堂々と吸うことができると考えている人が多いようだが、ジャマイカ国内でももちろんガンジャは法律で禁止されている。
しかし、ガンジャはタバコよりも安いため、かなりの人が吸っているのも事実である。
もちろんボブ・マーリーもガンジャを愛好していた一人である。彼らが信仰するラスタの教義の中ではガンジャは聖なる物であるとされているのがその理由である。
マリファナのことをなぜガンジャと呼ぶのかというと、イギリス統治下のジャマイカにおける黒人開放の後、次の入植者としてインド人が入ってきたのだが、その際、連れてこられたインド人の中にインドよりガンジャの種を持ち込んだものがいたため、それが現在のジャマイカのガンジャのルーツとなっているようである。
もとよりインドでは大麻のことをガンジャと呼び(これはインド文化圏であるカンボジア、タイでも同様)、遠くはアフリカでも大麻はガンジャと呼ばれている。語源については定かではないが、名称としての歴史は相当古いようである。
この言葉がそのまま、ジャマイカに持ち込まれ広まったと現在は考えられている。
ジャマイカのガンジャはCannabis sativaとなり、インドで通常栽培されている品種(特にインド南部)と同様のもの。ただ、ジャマイカにおいては選抜された系統のガンジャをさらに受粉させずにシンセミアにするといったテクニックで効力を大幅に上げている。
ジャマイカの歴史
1494年5月4日にコロンブスがジャマイカ島を発見する前には、6〜11世紀に南アメリカから移住してきたとされているアラワク・インディアンが住んでいた。彼らはおよそ10万人いたといわれている。
1509年にスペインがジャマイカの植民地化を始めると、スペイン人は原住民のアラワク・インディアンを奴隷として使い、彼らの持ち込んだ疫病のためにアラワク・インディアンは絶滅してしまう。そこでスペイン人たちは大量の黒人をアフリカから連れ込んで奴隷として働かせる。彼らアフリカ系の黒人がジャマイカ人のルーツとなっているわけである。
1655年になると、英国の力が台頭してスペインに代わりにジャマイカを占領1670年のマドリード条約で正式に英国領としての統治が始まる。
18世紀になると、奴隷制度に反対する運動がいたるところで勃発し、1807年英国議会によってアフリカ、ジャマイカ間の奴隷貿易が廃止される。奴隷制度が廃止されるまでに、100万人以上のアフリカ人がジャマイカに連れてこられた。
この頃、マルーンと呼ばれる黒人奴隷解放活動家たちが、丘陵地域を要塞として反乱を起こし、1663年に英国は和平交渉を持ちかけた。結局1738年と39年にマルーンは英国と条約を結び、自由を勝ち取るが、この条約は彼らにとっては、ひきあわないものであった。
1831年にはサム・シャープによる「クリスマスの反乱」が起こり、その反乱は各地に広がっていった。そのため、英国では1834年に奴隷制度廃止法案が英国議会で可決され、6歳以下の黒人の子供は自由となった。その後、1838年8月1日に従弟制度も廃止され、完全な自由をジャマイカ人は手にすることができたのである。
1865年にはポール・ボウグルが指揮をとった「モラント・ベイの反乱」が起き、1865年12月22日にジャマイカは英国の直轄植民地になる。
そして、1962年8月6日にジャマイカは正式に独立を果たすことになる。