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バングラデシュ難民救済コンサート

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インド音楽傾倒のきっかけは「ノルウェーの森」

ジョージがインド音楽に傾倒して行く最初のきっかけはビートルズ時代にジョンの曲である「ノルウェーの森」でインドの楽器であるシタールを初めて使用したことだった。ジョンの提案で演奏することになったシタールだが、この時はまだ上手く使いこなすことができず、自分なりに納得できるまで相当に練習を重ねたようだ。ジョージの努力の結果、このシタールの音色が曲をより情緒豊かなものにしているのは間違いないだろう。
1966年にビートルズとしてのライブ活動を休止することが決まると、ジョージは妻のパティと一緒にインドへ飛び、シタールの第一人者であるラビィ・シャンカールの元で1ヶ月におよぶ修行をつむ。
それ以降、ジョージはインド音楽はもとより、東洋思想などにも傾倒していき、やがてはビートルズの他のメンバーにもその影響は波及していった。

ビートルズのメンバーとインド思想

ジョージのインド志向は彼の作曲した「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」などに顕著だが、インド音楽そのものがジョンやポールの作曲に影響を及ぼすことはあまりなかった。しかし、サイケデリックの花が開き、物質社会に対する閉塞感が渦巻いていたこの時期には、メンバーもインド的な思想におおいに興味を抱き、67年8月24日にジョージの誘いでマハリシ・マヘシ・ヨギの超越瞑想の会に参加し、翌日には瞑想の入門コースを受け、最終的に68年2月にメンバー全員がインドのリシケシュへ瞑想の旅に赴くことになった。
リンゴは11日、ポールは1ヶ月ほどインドに滞在し、ジョンは導師マハリシがミア・ファローに手を出したという疑惑に幻滅して4月12日にインドを離れた。ジョージは導師の不祥事疑惑にマハリシとは決別するも彼の教義が悪いとは考えておらず、その後も瞑想を続けインド東洋思想に対する信念が崩れることはなかった。

ビートルズ解散からソロ活動へ

ビートルズが解散すると、いち早くソロ活動を成功させたのはジョンでもポールでもなく、ジョージだった。ビートルズ時代にジョージの曲が多く取り上げられることがなかったためか、ここぞとばかりに渾身の3枚組アルバム『オール・シングス・マストパス』をリリース。シングル「マイ・スウィート・ロード」とあわせて全米、全英で1位を獲得。「マイ・スウィート・ロード」は後に盗作問題に巻き込まれ、最終的に「潜在意識における盗用」なる判決を言い渡されてしまったが、この時期のジョージの音楽活動は充実していたことに間違いはない。

バングラデシュ難民救済コンサート

1971年に東パキスタンと西パキスタンが対立し、内戦が勃発。パキスタンとはイギリスからの独立時から対立していたインドが東パキスタンを支援して第三次インド・パキスタン戦争に発展していった。この戦争で東パキスタンはバングラデシュ人民共和国として独立するが、戦争で多くの人たちが難民となっていった。
インド音楽との関係からラヴィ・シャンカールを師と仰ぐようになったジョージだが、父がバングラデシュ出身であるラヴィからバングラデシュの惨状を聞かされ、何か助けることが出来ないかといった話を持ちかけられた。
ジョージは何のためらいもなく、チャリティ・コンサートを開くことを決意し、当時としてはまったく前例を見ない大規模な難民救済コンサートの実現に東奔西走することになる。
たった2週間あまりの準備期間で会場を押さえ、多数のミュージシャンに出演の依頼をし、宣伝して収益を上げなければならない。
まず、ビートルズの元メンバーに声をかけたのは当然だろう。しかし、正式に解散してから間もないためか、いい返事を得ることができたのはリンゴだけだった。しかし、親友であるエリック・クラプトンや、ビートルズ時代にセッションに参加していたビリー・プレストンは出演を約束してくれた。ソロ活動の中で培った交友関係の広さから、その他にもレオン・ラッセル、ジム・ケルトナー、クラウス・フォアマンらがこのジョージの取り組みに賛同し出演が決定し、ミュージシャンは総勢25名にのぼった。
ジョージはボブ・ディランにも熱心に出演を依頼していた。社会的にも影響力のあるボブ・ディランが出演するかしないかでは、このコンサートの価値が大きく変わる事をジョージは判っていたのだろう。
7月27日にラヴィと共にニューヨークで記者会見を開き、翌28日にはシングル「バングラ・デシュ」を緊急リリースし、8月1日にニューヨークはマジソン・スクエア・ガーデンで「バングラデシュ難民救済コンサート」は実現した。
ラヴィの「バングラ・デューン」で幕を開け、ジョージがソロの曲とビートルズの代表曲「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィップス」、「サムシング」などを歌い、ボブ・ディランは「風に吹かれて」、「ミスター・タンブリン・マン」などを熱唱し、最後に「バングラ・デシュ」を出演者全員で歌いコンサートは幕を閉じた。
ショーは昼と夜の部の2回行われ、4万人もの人を集めることができたこのコンサートは大成功を収めた。
この模様は3枚組のアルバムとして71年12月に発売され、翌年3月には映画としても公開された。
しかし、初めての大規模なチャリティ・コンサートであっただけに、コンサート自体の成功とは裏腹に問題も数多く残された。

現実に残された問題点の数々

バングラデシュを救うために企画されたコンサートにもかかわらず、チャリティ事業として事前に届出をしていなかったため、アメリカの国税当局からまず税金を払うようにと言われてしまった。
それでもコンサートの売上げは、25万ドルに及び、その売上げはバングラデシュ孤児救済基金としてユニセフ(国際児童救済基金)に寄附された。
アルバムも発売10日間で450万ドルの収益を挙げ、1,500万ドルを越える売上げがあったが、イギリスでも税務当局がアルバムや映画の収益をジョージの個人所得と見なし、税金の対象とされてしまった。この企画が寄付を前提にしているので、税金を軽減するようジョージが必死に交渉するも実らず、結局ジョージは100万ポンドもの税金を払うはめになってしまった。
さらに追い討ちをかけるように、マネージメントを握っていたアラン・クラインが売上げを私的に使っていたことが判明してしまった。
このコンサートがどれだけの額を寄付できたのかとなると、1,000万ドル以上とも言われているのだが、本当のところはいまだによくわかっていないようである。
それでも初めて行われた大規模なチャリティ公演という意味において、このコンサートの意義はおおいに評価されるべきだろう。
ジョージの訃報に際し、ブレア英首相は「彼は偉大な音楽家、芸術家だっただけでなく、多くの慈善活動に精力を割いた。世界中の人々が彼の死を深く悲しむだろう」とコメントしているが、この慈善活動の意味するところは、バングラデシュのコンサートも意味しているのだろう。


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