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新人類患者が行く 治療の歩み |
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新人類患者の特徴、ニュータイプ患者 | ||
その昔、私達は、「新人類」と呼ばれた。協調性のないオタクで、他人の評価や世間を気にしない。「慣習的な残業」より「自分の趣味」を優先する割合が多数を超えた世代。感情に乏しく、何でもゲーム感覚で冷めているオタクと、年上世代を嘆かせた世代。そんな世代もすでに中年になってしまったが、その典型である私は、たかだか「病気」くらいで、今までのライフスタイルを変えるのは承服しかねた。 シラけて、腑抜けているのが特長である新人類患者は、ガンになったからと言って、人生を省みてしみじみと涙する感情豊かな人間には急になれないし、敢然と病気に立ち向かって闘う強い人間にも急にはなれない。「病気になった可哀想な私」とか「辛い闘病生活を、頑張って病気に立ち向かって行く」とか、どう考えてもピンと来ないし、スタイルではない。人間は、そんなに急には変われない。どこか他人事のような冷めた目で、ゲームをクリアするような感覚で、常に人生を進んで来たので、今後もきっとそのままなのだ。先輩患者から、「泣きたい時には、もう思いっきり泣いていいのよ」としんみり言われても、「そりゃ、泣いたら治るという客観的なデータでもあるなら、いくらでも泣くけど…」と、つい現実的になってしまうのが特徴だ。また、「辛いけど、頑張って、戦っていきましょうね!」と力強く励まされても、オタクが好戦的になれるのは、精々ゲームの中だけなので、何をどう戦って良いのやら途方に暮れてしまう。ある意味、可愛くない患者だが、現実的で客観的でもある。自分が興味を持った事象にだけマニアックなので、そのベクトルが「自分の病気」に向かえば、研究熱心な患者になれる。 新人類、ガンになる 境界線がはっきりしない巨大シコリは、何年も良性だと言われ続けていた。海外在住中に総合医に2回、日本でも婦人科検診ついでに数回触診を受けたが、「経過を見ましょう」で終わったそれが、2003年の秋には、激しい痛みを伴うようになっていた。2004年1月。乳首の陥没、乳房の変形という典型的な「乳がん症状」が出没してから初めて訪れた専門医で、いきなりクラスVと判定された。大きな塊と、対角線上に小さなシコリが1つ。ゴツゴツ触れるリンパ転移が2箇所あった。 「先進国」である日本では、治療のスタンダードは確立されており、どこの病院の患者となっても、結果は同じだと思っていた。ところが、術前及び術後の補助療法、それこそ抗がん剤の選択から手術法に至るまで異なるのが現状であった。それは、ガンになった事よりショックだった。人生には、「変えられないサダメ」と、「変えられるサダメ」がある。乳ガンになったのは、変えられないサダメなので受け入れるしかない。しかし、主治医と病院選びによって、その後のサダメはかなり変えられる。その選択が、その後の患者人生を左右し、QOLに天と地ほどの差が生じると言っても過言ではない。ソレイユを通じて、セカンドオピニオンの重要性、そして主治医選びの重要性を教えられ、良い先生にご縁があった事は本当に幸いだった。 新人類、治療開始 最初の病院は、「家から近いから、通院時間が節約できる」という理由で選んだ病院。「全摘、レベル3までリンパ郭清、術後CEF」との事だった。独身労働者にとって、最重要事項は「仕事」だ。「仕事」がなければ、オタクの生きがいである「趣味」もできないどころか、「生活」もできないし、治療すらできなくなってしまう。命は大事だけれど、仕事も大事なのだ。ガンの事より、どうやって仕事を休もうか、どうやって自分のアシスタント達にその間の仕事を引き継ごうか、そちらが心配で途方に暮れてしまった。しかし、先生から「リストラ流行りの最近では、手術も含め、2週間休んで仕事に復帰している人もいる」と聞いて、「その程度なら、何とかなる」と、手術の予約をし、仕事を休む段取りを付けた。 当初、「切ったら終わり」なのだろうと思っていた自分のガンは、インターネットや本などで調べると、かなり進行したものであると判った。「死期が近いのなら、別にわざわざ手術なんてしなくてもいいじゃん?」という気分になった。おまけに、自分の受けようとしている治療法が、「もしかしたら、時代遅れでショボいのかも?」と考えると、焦りを感じた。 2つ目の病院は、中村会長とN先生よりセカンドオピニオンを取るべしとのご助言をいただき、自分で選んだ、これまた自宅から近いO病院だった。「とりあえず術前でAC、様子を見てその後の方針を決める」と言われた。ACは非常に強い薬と聞いていたので、「抗がん剤の帝王」のようで格好良いとイメージしていた。また、術前抗がん剤は、患者が自分で経過観察に参加できる実験のようで楽しそうだった。そして、そこで、即、ACを開始した。抗がん剤が効かない場合もあるとの説明を受けたが、まあその場合はそれが自分のサダメなのだから仕方ないと納得もできた。 ACでは、脱毛、爪の変色、ムカつき、倦怠感、便秘、血管痛、骨髄抑制などの一般的な副作用があった。それでも、まあ死にたくなるような辛さという感じでもなく、午前中に点滴して、午後に仕事に通えた。先生が、「アメリカでは、患者は、仕事の最中に抜け出して点滴を受け、そのまま自分で車を運転して仕事に戻っている」と話してくれた。アメリカ人にできて、自分にできない事などある訳がない。…という根拠のない信念が、その元気さの一因だったかもしれない。また、その前に、プラセボ(偽薬効果)ならぬノセボ(偽薬副作用効果)もあるという論文を読んで、人間とは、ある程度、思い込みだけで良くも悪くもなる単純な動物なのだと認識していた。気分だけで具合悪くなるのは損なので、多少の不快感は「気のせい…」でスルーするようにした。 O病院の先生は明るくアバウトで、副作用は「発熱」だけは危ないが、あとは神経質にならなくても良いというスタンスだった。しかし、私が消化器官の潰瘍を経験したことがあると聞くと、抗がん剤の前にしっかり胃カメラで十二指腸と胃を検査してくれた。十二指腸潰瘍は全治しており、誰もがあるような軽い胃炎程度だったので問題はなかった。抗がん剤治療では、消化器官の病気は要注意らしい。アバウトな先生だが、きちんと大事なところは抑えてくれていたので、信頼できた。 そのAC1回目で、境界線が判らなかったシコリがくっきりと浮き出し、痛みも消えた。柔らかくゴムのようだったのに、硬くゴツゴツしてきた。脇のリンパのシコリは消えなかったものの、乳房内にあった小さなしこりの1つは消えてしまった。効果が実感できた。久保副会長にお会いしたのは、その頃だった。ガンを大事に育て上げてしまった私の経過を聞くと、K病院のT先生を紹介してくれた。 新人類、転院する その頃には、新人類のオタクぶりを発揮して、「乳がんオタク」になっていた。AC+Tの組み合わせが最も高い効奏率のデータがあるとの情報を得ていた。O病院ではACは使うが、AC+タキサンには懐疑的。T先生からは、ACの後はタキサン系で徹底的に叩くと説明を受けた。どうせやるなら、一番パワフルな抗がん剤でとことんやって欲しいと願うのが患者心理というものだろう。そこで、T先生に今後の治療をお願いすることにした。しかし、その頃は、T先生をよく知らなかった事、そして、K病院が自宅からも職場からも遠かった事から、通うのが面倒臭く感じていた。 K病院では、患者にACではなくCEFをやっていると知って、AとCだけの自分は損をしたような気分だった。CAFを採用している病院もあるらしいから、自分にもFを加えてもらえないだろうか?と密かに願っていたのだが、言うのを忘れてACの継続になった。その2回目に白血球が余り下がらなかったので、3回目からACの量を増やそうとT先生が提案した。アメリカでの投与量に比較して、日本の薬量のケチぶりに非常に不満を抱いていたので、増量は嬉しかった。しかし、結局、白血球が思ったより復活しなかったために、そのプランはお流れになってしまった。 2回目の白血球の低下が著しかったため、3回目からは抗生物質のオゼックスが出された。白血球が底値になる一週間、発熱しかけた時のお守りとして手元に置いておけば良いというものだった。時々胃が痛くなるので、ガスターももらった。これも、胃が痛い時に飲めばいいという感じで、アバウトに服用していた。白血球が底値になる一週間、これはACでもタキソテールでも同じだったが、確かに抵抗力の弱くなった体には色々な事が起こった。目やにが増加したり、手足に汗疹のようなものができたり、下り物が増えたり、風邪っぽくなったり、猛烈にだるく熱っぽくなったり、一々気にしていられない程、色々な事が起こった。数回の抗がん剤経験で、何となく「怪しい期間」というのが判るようになってくる。その一週間に、適当にオゼックスを服用していた。感染症にならずに済んだのは、おそらくこの薬のお陰かもしれない。 さて、AC1回目は効果を実感できたのだが、2回目以降はそれほどでもなかった。4回目を終了した際のエコーでの測定は「数値的に変化なし」との事だったが、先生と私の感覚的には「良くなっている気がする」だったので、それでOKとした。数値として出なくても、経験豊かな先生のフィーリングは確かだろうと思ったし、少なくとも「シコリが大きくなっていない」なら、多少の効果はあるという事だ。世の中は上手い事ばかりではない。CR(著効)が25%あったとしても、自分が常にそこに入れるラッキー組とは限らない。治療に際しては、常に現実的で、かつ少々ズボラ程度がいいと思う。予期せぬ出来事に一々過敏に反応したり、過剰な期待の反動による失望を繰り返したりしていると、ムダに疲れ果ててしまう。 タキソテールの副作用は、手足の痺れ、倦怠感、皮剥け、爪のボコボコ、味覚異常、骨髄抑制などだった。おまけに足がパンパンにムクんでしまって、体重が10キロ近く増えてしまった。体が重いせいか、貧血のせいか、階段を上ると息切れがした。ほんの一階分さえ、休み休みでないと上り切れない。しかも、眉毛も睫毛も抜け落ちてしまい、爬虫類のような顔になってしまった。眉毛はともかく、「睫毛のない女」ではさすがに職場で怪しまれるかもしれないので、メイクで誤魔化す事にした。そのメイクの時間が余分にかかるため、朝10分早起きせねばならなくなった。その他、社会人の女として爪がボコンボコンで紫色なのはかなりマズいので、軽くヤスリをかけ、カバーするためのマネキュアも必須になった。先生は「ACと比べると、タキソテールは全然ラク」と教えてくれていたが、ACが殆ど苦でなかった私にとって、「爬虫類顔、デブ化、汚い爪」の方が社会人として遥かに我慢ならなかった。しかし、まあ、確かに仕事や生命に差し障りないので、一過性症状として余り気にしないようにしたが、回りにバレないように工夫した。 抗がん剤も回数を重ね、骨髄抑制による白血球低下がひどくなると、先生はあらかじめ予防のような形で頻繁にノイトロジン注射を入れてくれた。例えば、月曜日に点滴で、木曜日か土曜日に注射しておくと、月曜日にもう一回注射しただけで、次回の点滴までに白血球は回復できるという具合で、きっちり3週間ごとに抗がん剤を続けられた。このように、白血球底値に先手を打っていたからか、一度の発熱も緊急入院もなく抗がん剤治療を終了できた。 先生が真剣に治療に取り組んでくれているのに、患者がそれにベストな体調を提供しないのは、とても失礼なような気がした。抗がん剤を開始してから、毎日、寄り道せず帰宅し、夜10時には寝る生活を心がけていた。外出後には殺菌ソープで手洗いし、うがいを欠かさない。会社にも、殺菌ソープとうがい薬を完備した。電車などでは、風邪をひいている人から離れる。早寝早起き。週末は自宅で休養。栄養価の高い良質な食事を摂る。飼い猫に触った後には手を洗うなど、「日常生活」を維持しながら、考えられる限りの対策を続けた。最初は「修行僧みたい」とか「小学生みたい」と、かなりウンザリしていたが、抗がん剤治療中の7ヶ月、仕事を体調不良で休んだ事は一度もなかった。風邪すら一度もひかなかったので、ある意味、普段より健康的であったと言える。 新人類、先生を観察する T先生と接するうちに、先生は一見アバウトのようだが、ツボは抑えていると気づいた。 抗がん剤治療中に訴えた副作用やら痛みに、先生は、「抗がん剤中は、そういうものです」「不潔にしないように」程度で、殆ど興味を示さなかった。そこで、症状を訴える都度、先生の反応を観察してみた。(1)シコリが大きくなってしまう事、(2)発熱すること…これに関する訴えや質問、特に(1)に関しては敏感に反応した。普段は飄々としているのに、慌てた様子すら見えた。要するに、その他細々した私の訴えに興味を示さないのは、別に「先生が冷たい」とか「患者の訴えに耳を貸してくれない」ではなくて、それらが早急な対応を必要とする深刻な症状ではなく、治療方針に何ら変化をもたらさないからなのだと判ってきた。いくら抗がん剤に鈍い体質かもしれないと言っても、色々な症状が出た。しかし、先生が気にしないのだから、これは別に命に関わらない症状なのだ…と、「気のせい」「思い込み」「あくまで一過性」などと、適当に考えて軽く流すようにした。まあ、人間も中年に差し掛かると、別に抗がん剤のせいでもなく、「単なる老化」という事もあるだろうし、「健康な人でも、疲れればこうなる」という事も十分考えられるのだ。そして、それらの症状の殆どは本当に先生の言う通り、白血球が上がったり、抗がん剤を終了したりすると解消した。 先生が敏感だったもう一点は、白血球、特に好中球の値だった。AC3回目の予定日に、白血球が2900、好中球が1400という状態になった。点滴で、白血球の目安は3000、好中球の目安は1500らしい。せっかく通院してきたのだし、100くらい誤差でOKな感じもする。しかし、先生はかなり悩んで「微妙ですが、やめときましょう」と、点滴を一週間延期した。次の週には5300まで戻ったので、問題なく点滴ができた。他の患者仲間に聞くと、2900−1400など、楽勝で投与の数値だったそうである。これも、たぶん患者の元々の白血球の数の状況や、自宅療養ではなくフルタイム労働者な私の状況と照らし合わせての判断ではないかと推測している。微妙にテーラーメイドかもしれない。 それ以外、ナマモノを食べるなとか、人ごみを避けろとか、一般的に注意すべきと書かれているような事に、先生は全く頓着しなかった。確かに、普通の労働者に、細々した決まりをすべて守るのは不可能だ。ナマモノを避けようとしても、接待で嬉しそうに食べなければいけない事態に陥る事もあるし、「白血球が下がる時には、人ごみに出るな」、などと言われたら、毎日の通勤自体が無理になる。そして、些細なことが気になり始めると、気分もどんどん病人臭くなってしまうので、これくらいのアバウトさが丁度良かった。 しかし、海外出張だけは、しっかりと禁止された。飛行機という乾燥して密封された空間に長時間いて、もしそこに風邪をひいた乗客でも存在すれば、一発で感染してしまうから。また、私の場合は、月単位の長期出張になるので、出張先での治療継続の困難さとその間のストレスが良くないだろうとも言われた。そう考えると飛行機の中にSARSなどの患者がいたら、もっと恐ろしいのではなかろうか?しかも、現地で急に発熱とかしたら、相当面倒では?と思い、出張はしばらく延期にした。また、お酒もビール一杯くらいならいいが、大酒飲みは駄目とのことなので、なるべく節酒&禁酒もした。アバウトな先生が駄目と言う事は、本当に駄目なのだろうと肝に銘じて言いつけを守った。 それ以外は、何も禁止事項はなかった。抗がん剤治療中に転職もした。丁度ACが終わりかけた頃、新しい仕事のオファーがあった。残り少ない寿命のサダメなら、益々心の思うままに生きるべきだから転職したい、と考えた。しかし、一応抗がん剤治療中の転職には少々の不安もあった。先生に相談すると、「キャリアアップになるなら、諦める事なんて全くない」と、背中を押してくれた。抗がん剤治療中だから、病人なのだからと、柄にもなく消極的になりかけた所で、その一言は「水戸黄門の印籠」のような効果があった。そして、カツラで面接に行き、採用された。現在も、職場には一切プライベートな事を持ち込みたくないので、治療にはフレックスや有休を使ってフルタイムで働けている。同僚は、誰も病気に気づいていない。 新人類、手術する ACの後のタキソテール4回は、かなり効果があった。タキサン系を試さない病院であったら、おそらく温存手術は不可能だったろうと思われる。しかし、一点だけ、ささやかな希望があった。AC4回+タキソテール4回だけではなく、とことん様々な抗がん剤をやって欲しかった。ついでにホルモン治療も加えたりして、胸に腫瘍がある間に、何が効果あるのか、もっと色々実験したかった。熱意を持って、先生にそう訴えるのを忘れていた。そして、AC4回+タキソテール4回の後、手術になった。 手術は、全身麻酔だったので、さっぱり判らないうちに始まって、そして終わってしまった。本当に先生が執刀したかどうかも、自分で確認していないので実は怪しい。しかも、先生は忙しいのか殆ど病棟に来ないらしく、入院中に2、3回会っただけだった。翌日から歩き回れ、ドレーンは8日目に抜け、その翌日には退院していた。 傷も脇も確かに違和感はあるが、痛みはなく、翌週には仕事に戻った。その後、病理結果を見せてもらったが、第一回目の手術で、実に13.0X9.0X2.5も切り取っていたのだと知って、非常に驚いた。なぜなら、乳房は上部が抉れたようになっているし、一回りほど小さくなった?という感じはあるものの、普通のブラをすれば外からは全く判らないからだ。しかも、痛みがないので、脇から「寄せて上げて」もできる。とてもそんなに大きく切ったようには見えない。正直言って、自分の腫瘍の大きさから、温存されたとしても左右がアンバランスで、かなりマヌケになってしまうと確信していた。だったら、全摘してもらって、後から加納姉妹のように格好良い胸を付けてもらえばいいと安易に考えていた。先生は「そこは、プロですから(温存で大丈夫)」と笑っていたが、私は疑心暗鬼でいた。しかし、術後一ヶ月たって、改めて「温存手術」のありがたさを感じる事ができた。 さて、一回目の手術後、乳房に小さな乳首が残されていた。治療の最中に、乳管に沿ってガン細胞が出口を求めて飛び出そうとして、乳首の一部がポコンと膨らんでしまった。先生が、そこだけくりぬき、どうにか回りの乳首を生かして残そうとしてくれた結果だった。しかし、検査の結局、やはり、その部分が断片陽性になってしまった。自分の症状は、色々な先生方のコメントを見たら、「乳首に近いと温存はできない」「腫瘍が大きいと温存はできない」と、温存できない症例の典型だった。しかも、乳首に近いどころか、乳首その物にガン細胞が飛び出て来ていたのだ。通常は問答無用で切除されていた乳首のサダメを、どうにか残せないか模索してくれたが故の結果だった。例えそのような状況であっても、患者にとっての確率は「残る」か「残らない」の2つしかなく、常に50:50なのだから、少しの可能性でも模索してくれる先生が、やはりありがたい。患者本人が「ダメだ、こりゃ」と諦めた胸も乳首も、先生は諦めなかった。普通なら逆だろう。主治医は、患者以上に患者の胸に情熱を傾けてくれる先生にすべきだと思う。 そして、その断片陽性を残したまま放射線に進むか、追加手術を受けて切除するかの選択があった。追加手術がまた陽性になれば、さらに追加手術をする事になる。かなり面倒くさい。追加手術は、再発リスクを少し下げることができるらしい。しかし、断片陽性でもリスクは大差ないとして、放射線に進む病院もあるとの情報を得ていた。そして、先生を観察すると、断片が陽性であったのが非常に悔しそうで、「手術してもいいですし、そのままでもいいです。本人の選択ですね」と口では言いながら、「おかしいな。あと、ほんの1ミリくらいだったのになあ、チェッ」という、プロとして、そして手術職人として納得できないという心の声とオーラを感じた。これは、手術に相当の自信があるに違いない。リスクは下がるし、先生にも「プロ仕事」を全うし情熱を燃焼して欲しいし、何より日帰り手術なので仕事を中抜けでもOKそうなので、追加手術に決めた。 追加手術では、残った乳首とその回りの皮膚の一部が切り取られた。部分麻酔だったので、様子が何となく判った。しかし、手術を見たかったのに、顔の前に布がかかっていて視界が遮られたのは、ちょっと不満足だった。今回は、先生の声がしたので、一応いる事は確認できた。しかし、先生は途中から登場し、切るデザインを決めて、切り取ったら途中退出。実質労働時間は5分だった。あとは、ひたすらB先生とS先生が縫ってくれ、手術は正味30分弱で終わった。 それは、ある偉い漫画家の逸話を思い出させた。漫画家の某大先生は、人物も背景も全く描かず、アシスタント達がすべてを描いて準備し、実際に大先生が登場して描くのは「黒目の部分」だけ、らしい。そうなると、もう完全分業だ。病院でも、偉い先生は手術の肝心な部分しか手を出さないに違いない。「T先生、綺麗に縫ってくれてありがとう、全然痛くもないし、さすが凄腕…」と最初の手術後に感謝感激していたのだが、それは大きな誤解だった。縫合の綺麗さは、本当は、B先生とS先生にこそ感謝しなければならなかったのだ。 そして、その後、先生は海外学会に出かけてしまったらしい。いつも忙しく、フットワークの軽い先生だ。でも、先生の患者もフットワーク軽く、手術後、気分爽快で仕事に戻ったら、ちょっと出血してしまった。翌日、また気分爽快だったので仕事していたら、再度出血してしまい、しかも熱心にリハビリ体操をしていたら傷が微妙に痛くなってしまって、大失敗だった。その週末安静にしていたら治ったが、やはり術後くらい少しはおとなしくすべきだと思った。しかし、それは、安静にする必要性を全く感じないほど、手術も追加手術も体に負担でもなく痛みもなかったという証なのだ。 さて、2度目の手術は断片が陰性だったが、切除部分にやはりガン細胞が残っていた。大成功。追加手術をして良かったと思った。今度こそ、次の治療に進める。次は放射線だ。 新人類、ハイリスクど真ん中 最初の手術で摘出された腫瘍は、術前抗がん剤で縮小してもなお7.0X2.8X2.0というビッグサイズで、リンパ転移は5/8。顔つきも悪い。表皮に浸潤もある。客観的に見て、再発&転移リスクは限りなく高い。術前なしで手術して、リンパが5/8の患者は、当然術後に抗がん剤をやるだろう。やはり、自分も術前だけではなく、術後にも抗がん剤をやりたいと願うのが筋だろう。きっと、もうどこかに転移の種がばら撒かれているに違いないので、気味が悪い。骨転移を予防するために、骨転移の治療薬を使った実験のデータもどこかで見たので、自分にも予防として使って欲しい。幸い、ホルモンはプラスなので、ホルモン剤もどんどんやりたい。と、強欲な気分になる。 術後にも再度抗がん剤とホルモン治療をと、先生は提示してくれた。抗がん剤はゼローダ。放射線と一緒に抗がん剤もどんどん始めたかったのだが、焦る事はないと却下されてしまった。骨転移治療薬の予防使用については、もうちょっと文献を確認してから聞いてみようかと思う。 ところで、転院してラッキーだった点の一つは、T先生率いる乳腺外科スタッフが抗がん剤に非常に詳しく、積極的に色々な新しい治療法を取り入れている点だ。例えば、再発&転移防止に先手を打つためにゼローダなどの再発乳がん用の薬を使おうと考えてくれている点もそうだし、CEFのFの部分をゼローダに代用して使い、非常に効果が出たという知人もいる。再発、転移を繰り返している知人も、従来の抗がん剤だけに留まらず、別のガンで実績があった抗がん剤の可能性を次々と模索してもらっている。単に試験されているという感じではなく、自分の体に合った効果のある薬を積極的に探してもらっているという印象だ。それができるのは、何があってもきちんとフォローできる体制があるから、そして自信があるからではないかと感じる。このスタッフが付いている限り、将来「あなたには、もう薬はありません」などと言われる事はないと思える。 データはあっても、対象が人間という「ナマモノ」なので、何が効くのか、やってみなければ判らない部分もあるだろう。皆に効いても、自分には効かないかもしれない。その逆に、殆ど誰にも効かなくても、もしかしたら自分には効くかもしれない。患者としては、そこに可能性さえあるなら、どんどん新しい事にトライしたい。今、その薬を使う事で、再発や転移が一ヶ月でも、一年でも伸ばせたなら、その間に新しい薬や治療法が開発されるかもしれない。しかも、そこで根治できて、再発も転移もしないかもしれない。もし、すべてが裏目に出てしまっても、それで自分が将来の患者のための一石になれるかもしれず、それはそれで意義のある事のように思える。医学だけでなく、科学のすべてが、そのようにして進歩をしてきたのだから。 新人類、女性進出を歓迎する あと一点、非常に良かったのは、T先生を補佐するB先生が女性だったと言う点だ。これは、同じ病院の患者達の多くも同意している。T先生は、学会などで世界中を飛び回っている。そのため、結構留守がちだ。すると、その間はB先生が代診してくれる。このB先生が細やかで素晴らしい先生なので、患者達は、T先生に訴えるのを躊躇する女性特有の悩みなどを安心して相談できる。そして、乳腺科にはこのB先生を含め合計三人も女医さんがいて、全員がキビキビと明るく優しいので、入院中も本当に安心できた。この男女混合チーム体制は、乳がん患者にとって、同性からの細やかなフォローが期待でき、非常にありがたいと思う。ホルモン治療による悩みや、更年期の悩み、子宮関連の悩みなど、非常に女性的な悩みを抱える患者も多い。女性的で奥ゆかしい患者は、異性には話し難い場合もあるかもしれない。今後、乳腺外科への、女性のより一層の進出を歓迎したい。あと、婦人科にも、女性の進出をよろしくお願いします。 新人類、仕事を続ける 仕事を持っている新しい患者、特に30代、40代の患者に声を大にして言いたい。乳がんは、通院治療ができる運の良いガンの一つだ。だから、病気を理由に、何も諦める事はない。例えば、20代であったなら仕事を諦めて療養しても、まだそれほど社会に自分を投資していないから、新しくまた一からやり直せるかもしれない。50代、60代なら、職場でそれなりに足場を築き、もう自分の地位が安定しているだろうから、少しくらい休んでも致命的にはならないかもしれない。また、そこそこ蓄えもあるだろうから、早めの隠居生活で第二の人生でもいいかもしれない。しかし、これが30代、40代だと話は別だ。簡単に捨てるには惜しい程度、仕事に自分を注ぎ込んできた。かと言って、まだ「盤石なキャリア」を積み、「安泰した地位」を築いた、という程度にまでには至っていない。仕事を諦めるにも隠居するにも、どちらにも中途半端なのだ。だから諦めてはいけない。自分が今まで築いて来たものを捨ててはいけない。確かに、体も大事だけれど、今までずっと仕事が好きで打ち込んできた人間がそれを手放したら、そこには何も残らない。特に独身者の場合、社会との繋がりの基盤すら無くしてしまうかもしれない。また、女性は、一度辞めたら再就職が難しい年齢になっている。仕事がなければ、治療費すら稼げなくなってしまう。 ガンだけではなく、誰もがいずれは死に至る。また、糖尿病や高血圧、生まれつきの疾患を抱えながら、事故の後遺症に苦しみながらも普通の社会生活を営む人はたくさんいる。乳がんも、ある程度はそれが可能なガンではなかろうか。社会的にも、そして患者本人たちからも、ガンだけが「死にいたる病」としてやけに暗く深刻に受け止められているように見えるが、別にそんなに特別ではないと思う。「死に至らない人」などいないし、実は「死に至らない病」の方が少数派なのではないか、とさえ思う。そんな「ガン」ごときに、自分の生活をかき乱されたくないし、今後も、自分の欲しい物を何一つ諦める気はない…というような自分勝手で強欲な新人類患者が増えたら、ガンの特別扱い化もなくなってくるかもしれない。 新人類、オタクの限界と今後の展望 オタク患者は勉強が好きだ。参考書を沢山買い集める受験生のように色々と文献を漁って、安心したり、不安になったりする。そんなオタク患者にとって、いや、どんな患者にとっても最も重要なのは、そのような知識でも、病気に打ち勝つ精神力でもない、まず主治医選びだ。そして、その主治医との信頼関係だ。病気や治療に関して勉強する姿勢はもちろん大事だし、基本的な体調を管理することは患者本人にしかできない。しかし、いくらインターネットや専門書などで論文やデータを見て患者がオタクぶりを発揮しても、知識量と経験量では専門家である医師には絶対に適わない。客観的なデータも大切だ。しかし、経験則に基づく「プロの勘」のようなものが、どのような仕事にもある。殆どの場合、それは、まだ客観的データ化がされていなかったり、それを立証する手法が確立されていなかったりする。そして、その「勘」は「治療」の「実技」を通してしか習得されず、患者体験からは決して習得されることはない。データ活用は当然のこと、そこにプラスして「実技から得たプロとしての勘」との融合の面で信頼できる主治医と出会えたら、後は信頼することだ。 いずれ転移や再発の日が来ても、どんな事態になっても、私はオタクぶりを発揮して文献を漁り、データを集め、自分の不明な点を尋ね、今後やりたい事を伝えて、後の決定は安心して先生に任せる。そして、選択された治療を存分に受けられるよう、ベストな体調を整えておく。この状態に至ったのは、ある意味で、患者冥利に尽きるかもしれない。 そうして、今日も新人類患者は行く。いつまでも、マイペースを続けて行くつもりで。将来、何か予定外にダメになったら、その状況に応じて、その時考えればいいやと、その日暮らしでお気楽に。ガン以外の事故や病気で死んだら、せっかくの治療が無駄になってマヌケだからと、十分に注意しながら。 |
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