僕が小さかった頃、祖母の家の壁に飾られていた鉤針編みの刺繍によく見とれていた。それは第2次大戦の暗い日々の中、オンタリオ南部の農場で、様々な美しい色彩の糸を鈎針で正確に編み上げ、白い麻布の上に巧みに織り込んで、祖母が作り上げたものだった。片側の隅に、金色のランタンを腕に掲げた、茶色のローブに包まれた人物が描かれ、その横にイギリス王ジョージ六世が1939年に行ったラジオ演説の一説から取った数行の詩が、緻密に縫い取られていた。それはこういう風に始まっていた。
「私は歳の門に立つ者にこう言った。『未知の場所を安全に歩んでいけるように、我に灯りを与えたまえ』と。
そのイメージと言葉はそれ以来、ずっと僕について回っていた。特に過去を振り返り、未来を決断するための時間が、「歳の門」という考えに結びつくように思えた。今、2007年に何が起こるのかわからないし、僕が「未知の場所を安全に進んでいけるのか」もわからない。でも2006年は振り返ると、非常に実りある年だったように思える。(ちょうど20年前、僕はこの「歳の門」に腰を下ろし、「なぜ1986年は素晴らしい年だったのか」というリストを作っていたことを思い出す。その時でさえ、自分の恵まれている点を数え上げられるほどの思慮を持っていたと思えるのは、いいことだ。今、僕はより多くの思慮を身につけられたと思う)
ちょうど去年の今頃、(以前のレポートの話をもう1度振り返るために)バンドメイトたちと僕はいくつかの新しい曲を作ってみようと話し始めた。AlexとGeddyはともにGeddyのホームスタジオで一緒に演奏し、新しいアイデアを、方向性を決めたり編集されたりすることなく、流れるに任せている間に、三千マイル離れたカリフォルニアで、僕は彼らに送るための新しい歌詞の草稿を書き始めた。
3月に、僕たち3人は僕のケベックの別宅に集まり、AlexとGeddyはそれまでに作った6曲を、僕に聞かせてくれた。 僕らは皆、その方向性に対して大いにポジティヴな気分になり、一緒にまとまって作業をする時間が必要だと言う点で、意見が一致した。5月に、僕らはトロントの小さなスタジオをに拠点を移し、今までに書いた曲を磨き上げ、さらにいくつかの曲を書いた。
以前書いたとおり、6月には僕はロサンジェルスで友人であるMatt Scannellのレコーディングに、3曲ドラマーとして参加した。それは僕にとって挑戦しがいのある、そして刺激的な経験だった。そしてDrum Workshopの友人たちが僕のために作ってくれた新しいドラムキットは、マットとのプロジェクトのレコーディング用に使われるためのもので、「西海岸用キット」だったのだけれど、とても良い響きで鳴ってくれたので、新しいRushのアルバムに使うために、そのまま東海岸へ送られることになった。
その月の後半に、僕はモーターサイクリストとして長い間挑戦してきた、Thousand-in-One――1日に千マイル走るという試みを、愛車R1200GSに乗ってロスからケベックまでの三千マイルの道のりを4日で踏破する旅の途中、達成することが出来た。(そう、僕は急いでいたんだ)
明らかにのんびりした旅ではなかったけれど、それでも旅の体験としてはなかなか強力なものだった。それはあたかも北アメリカの様々な地域の――カリフォルニア、ネヴァダ、アリゾナ、ユタ、コロラド、ネブラスカ、アイオワ、イリノイ、ウィスコンシン、ミシガン、オンタリオ、そしてケベックと――短い間に、つぎつぎとその全景写真を見ているかのような印象を与えてくれたからだ。
そしてずっと高速を通って――ただマイルを稼ぐだけにあるようなインターステーツを、しかも南西部の砂漠地帯を照らす初夏の凄まじい暑さの中を来たにもかかわらず、それでも荘厳な美しさに出会える時間が、しばしばあった。Mojave砂漠(いつもそうだが)、ユタからコロラドまでのインターステート70号線(たぶんこの国を通るインターステーツの中で、最も景色の良い区間だろう)、そして大草原(グレート・プレーン)さえも。旅人の中には、この国のこの場所(大草原)を退屈だと思う人もいるかもしれないが、僕は決してそう思ったことはない。ハイウェイは平坦で、まっすぐ伸びている、たしかに、でもぐるりと取り囲んでどこまでも続く緑の農場地帯は、あたかも、西部地方の砂漠や山々で幕を開け、ミシガンやオンタリオ北部の森や岩の断崖で幕を閉じる、この大陸横断のロードショウの中の、インターミッションとなっているように思える。このような旅では、平原地帯はありがたい牧歌的な幕間となってくれるのだ。
Des Moinesではヴィンテージ・トラクターのイヴェントが開かれているようで、ピカピカ光る古いInternationalやJohn Deere, Allis-Chalmers, Case, Ford, Massey-Ferguson,Minneapolis-Molineのトラクターを積んで反対側車線を走る平台型トラックやトレイラーを見るたびに、なんとなく嬉しくなった。(僕は農場と農機具に囲まれて育ったからね。農機具の販売もやっていたし。まあ、それはともかく…)
9月に、AlexとGeddyと僕は再びトロントのスタジオで共同作業を始めた。5月に仕上げた曲に良い手ごたえを感じ、それをもっとより良いものにしようという決意を持って。その時にも作業はスムーズにはかどり、僕らは自信と全力を傾けることが出来たという感触を得ることが出来た。そして僕たちはもう数曲作り上げ、皆が(新しい曲たちを)気に入った。
過去において、僕たちはいつも共同プロデューサーを見つけることが、欠かせない重要なことだった。僕たちの作業を客観的に見る手助けをしてくれる人、そしてたぶん、もっと重要なこと――ソングライティングやアレンジ、演奏において、僕らの背を押して、もう少し遠くまで行かせてくれる誰かが。今回、僕らは考えられる可能な共同作業者たちに打診し、何人かの候補者たちの作品を聞き、これは有望だと思う人たちに連絡を取り始めた。
その間に、カリフォルニアに住む、ある若いプロジューサー・エンジニアが、僕らが新しい作品に取り掛かっていることを聞き、マネージャーを通して僕らのオフィスに連絡を取り、自分の作品をいくつか送ってきたのだった。彼の名前はNick Raskulinecz――しばらくの間、彼の名前をきちんと綴ったり発音できなかったが、僕らは送られてきたものを気に入った。
ニックは非常に成功したFoo Fightersの作品でよく知られているが、その前にも彼自身、長い歴史を持つミュージシャンであり、エンジニアであり、プロデューサーだった。彼はテネシー州ノックスビルの生まれで、もっぱら西部でスタジオからスタジオを渡り歩いて仕事をしていた。Nickに会った時、僕らは皆彼の若々しい、野放図な情熱が気に入った。しかし36歳にして、彼はすでに音楽とレコーディングに関して強力な地盤となりえるだけの経験を培っていた。彼が新しい曲について述べたコメントと提案に僕らは皆同意し、それに対する彼の興奮ぶりが非常に気に入ったので、彼と契約を交わすことにしたのだった。
10月頃には、トロントでの日々は時々肌寒く、じめじめとして陰鬱になり、冷たい雨と、時々の魔法にかかったような秋の日差しの中、日を追うごとに、日の暮れるのが早くなっていった。Nickは湖に面した小さなスタジオに合流し、ともに僕らはアレンジや個々のパートの改良を続けていた。僕らはそれまでに10曲を仕上げ、11曲目になる典型的な「mental-instrumentals」の作業に取り掛かっていた。Nickは押さえの利かないエアドラマーで、僕のドラムパートに対する意見を言う時、腕を豪快に振り回し、口でそのフレーズを言い表そうとした。
bloppida-bloppida-batu-batu-whirrrrr-blop――booujze (訳注:発音してみてください…)
最後の音はバスドラムとクラッシュシンバルとのコンビネーションを現した擬音だ。(もちろん) そしてそれがまもなく、Nickの、そう、ニックネームになった。「Booujze」
(このスペルは、かなりの議論の末の産物だ)
僕らはまた、マスターエンジニアとしてRich Chyckiを迎えた。彼はAlexとともにR30 DVDのミックスも手がけていて、僕ら皆、今までで最も良いライヴの音を得ることが出来たと思っている。そうして、 Lorne (Gump) WheatonとRuss Ryanを機材のメンテ担当に加え(訳注:LorneはRushのドラムテク、Russはベーステクです)11月にはこの素晴らしいメンバーで、ニューヨーク州Catskill山脈にある Allaire Studiosに拠点を移して、本格的なレコーディングに入ったのだった。
★サイトには、Catskill山脈の風景写真が入っています★
これが、もとは裕福なピッツバーグの一家の夏の別荘だった、その場所からの眺めだ。この放浪するアディロンダック族式の、木材と石で1920年に建築されたカントリーハウスは山の頂上に位置し、北に向かってこの長い谷間と曲がりくねった川、そしてはるかに見える丸い頂上に望んでいる。東に向かっては、広大なハドソンヴァレーが開けていた。
ある晴れた11月の朝、Gumpとちょうどここを訪れていた写真家のAndrew、それに僕は森を抜け、風変わりな物見の塔まで歩いていった。僕らはそこに立ち、茶色と緑に彩られた木々の茂る丘陵がはるか彼方まで広がっている様を眺めた。空は青いガラスのようで、その色を映して、眼下には輝く湖があった。(Ashokan Reservoir――ニューヨーク市の水道システムの一部だ) そして僕はこの地域の自然の歴史を、いくつか披露した。
(ついていないね、友よ。僕は弟のDannyが母に彼が書いたものを送って、こんな感想を言われたのを思い出すよ。「そうね。とても良いわね――眠れない時には」最近、父と母はブロードバンドを導入したから、僕はこう書いたよ。きっと僕の本についても、似たような念を持つんだろうって)
それでも、自然科学はより興味深いものになれるし、もっとダイナミックにもなれる。正しく何かを見れたなら、そして見たものを理解することを学べたなら。GumpとAndrewと僕のまわりをぐるりと、氷河に洗われた山々がとりまき、それは南北に伸びたがAppalachian山脈――地球上で最も古いといわれる山々だ――と同じ様相を呈している。でもCatskillは『地質上は何の関連もない」と考えられている。事実、この丘陵が織り成す風景は、実は山々などではなく、南西部のメサのように、岩の堆積によって生じた残渣が高台となり、土や木々に覆われたものに過ぎないのだ。数百万年もの間、古代の海に堆積した地層や河の三角州が東に連なる広大なAcadian山系と交じり合い、かつてはヒマラヤと同じくらい高く、鋭く聳え立っていた。その壮大な山々が崩れ1万フィートの高さを持つ丘陵地帯となり、そして凝縮されて砂石と泥板岩の層になり、その間に水はそのよりやわらかな部分を侵食し続けていたのだ
そしてもし地質学上の時間がめまいを起こさせるほどのものでないとしたら、地質学者たちの理論を聞いてみるといい。この山々は数十億年間で、少なくとも3度の隆起と沈降を繰り返しているそうだ。それに比べれば、僕らが大事にしているほんのちょっとした時間が――この「歳の門」のような――本当にあっという間のものだと思える。実際、そうなんだ。
20年前、僕はそんな気持ちをこめて、「Time Stand Still」を書いた。そして10年後にもう1度、「Dog Years」を書いた。
I’d rather be a tortoise from Galapagos
Or a span of geological time
Than be living in these dog years . . .
僕はガラパゴスの亀になるか
地質学の時代に測って生きてみたい
こんな犬の年月を生きるよりも……
僕は半透明な空を指差し、GumpとAndrewに言った。
「想像してごらんよ。最後の氷河期時代には、この氷は一マイル分くらいの厚さがあったことだろう」
その氷の層は1万年以上も前に緩やかに、徐々に溶けていき、その溶け出した水の激しい流れが壮大なハドソンヴァレーを形作ったのだ。僕らの周りのむき出しの地面や若い木々たちや(どれも樹齢50年を過ぎているようには見えない。何度も東部から伐採され続けてきた歴史の証明だ)集まって生い茂っている常緑樹、湿った林の中に、巨大な離れ岩が見える。その「不安定な塊」は氷河が後退するに連れて落ちてきたものなのだ。
その時には、GumpとAndrewは居眠りを初め、(そして「リップ・ヴァン・ウィンクル」はCatskillの中に沈んでいった)僕らは清々しい空気の中、森を抜けて歩いて戻っていった。
貴族風の小塔のあるGlen Toucheの所有地にある建物は、見事に統制された立派な環境の、最先端の居住式スタジオ2つに作り変えられていた。その敷地は50エーカーの林に覆われ、そこに通じる単車線の道は、あたかも山(mesa)に向かって何マイルも上りながらループしているようだった。ある霧の立ちこめた午後、GumpとRussと僕はスタジオの窓から、一頭の雌鹿と2頭の小鹿が茶色の葉っぱに覆われた斜面をゆっくりと下っていくのを見ていた。この建物のマネージャー、Colbyは僕たちに、この秋には、長い冬眠に備えるための餌を探している黒熊を、たくさん見たと言っていた。
この近くにあるBearsvilleという名前は、正直、そこから来たんだろうと思える。1996年の1月(実際は、96年の猛吹雪の中を、と言うべきか)、僕らはBearsvilleスタジオで「Test for Echo」をレコーディングした。(残念なことに、今はもう閉鎖されている) 2005年の夏に、僕は「Anatomy of a Drum Solo DVD」の撮影のために、Allaireで数日を過ごした。そしてずっと霧と雨で視界が悪かったにもかかわらず、この場所がとても気に入ったのだった。
建物の中では、レコーディングルーム(「Great Hall」と呼ばれている)が、大きな魅力だった。広々として、まるで教会のような広い木張りのフロアーとギャラリー、高い梁の天井、二つの巨大な石の暖炉、そして丈の高い窓から入ってくる自然光が織り成す淡い彩りに包まれた場所だった。それはドラム(の演奏)には素晴らしい音響環境で、さらに付属施設も居心地がよく快適で、食事も素晴らしかった。それで僕は思い切って他の二人に、ここAllaireを勧めてみた。彼らが僕と同じようにここを気に入ってくれると良いと願いながら。
そして、彼らは気に入ってくれた。まるで70年代後半や80年代に、ケベックのLe Studioで過ごした日々のように、地方の隔離された場所に引きこもり、そこでは仕事をする他にやることはほとんどないので、音楽を作ることに没頭したり、一緒にぶらぶらと過ごしたりすることも出来た。(その頃は、スポーツといえばバレーボールだったけれど、ここではあまりスポーツをやる時間はなかった。食べることや飲むことをスポーツとみなせば別だけれど。それならやった)
RichとNickはこの広い部屋で僕のドラムセットにどうやってマイキングをするか、ニックがL.A.のスタジオから送らせた彼自身のヴィンテージマイクをどこに置くかということも含めて、いろいろと試していた。最初の夜遅く、全員が到着してから、LorneとRussは僕ら3人とNickの即席ジャム・セッションに間に合わせるために、アンプをかき集めてこなければならなかった。(Booujzeは驚異のエア・ミュージシャンなだけでなく、炎のようなリズムギタリストでもあるんだ。本当に)
その頃には、全曲、ラフな形でだが、立案(map)が出来ていた。僕らはそれぞれのパートをトロントに持ち帰り、改良していたからだ。それでも、旅人は実際の旅は、必ずしも地図どおりに行かないことを知っている。僕らは出来る限り完璧に、パワフルに、そして音楽的な演奏を達成しなければならない、なぜかといえば、それは永久に残るものだから。最初の作業は、新しいドラムとベースのパートをデモの上からレコーディングし、そしてもちろんそれら(デモ)を、打ち破ってみせなければならないことだった。(僕にとってレコーディング演奏とは「これを打ち負かせるか?」ということに他ならない。一時の間はできる。でも出来なくなった時には、もう終わりだと思っている)
大いなるBooujzeはここにおいて本領を発揮し、僕をなだめすかし、導き、そして鼓舞してより理不尽なドラムパートやフィルをやらせようとした。“Bloppida-bloppida-batu-batu-whirrrrr-blop――booujze”だ。汗まみれになって、痛む身体で、僕はコントロールルームに入り、プレイバックを聞いた。そして能力ぎりぎりのプレイにまで自分自身が追いやられているのを聞き取った。いや、ぎりぎり超えているかもしれない。(そうじゃないかもしれないが)僕はその奔放さと、それが上手くはまった時の興奮に、笑いがこみ上げてくるのを押さえきれなかった。
Geddyも聞いていた。そして彼はゆっくりと頭を振り、笑みを浮かべて言った。
「やあ、これってコメディだな!」
今度はBooujzeはGeddyのベースプレイを未知の領域に押しやろうと、自分のアイディアを伝えるために、一緒にエア・ベースをプレイしながら、駆り立てていた。Geddyと僕はすぐに、自分たちは世界一おかしなリズムセクションだと判定を下し、このアルバムを「Don't Try This at Home(家ではやろうとするんじゃない)」と呼ぶべきだと思った。
それより前、トロントで、僕らはある曲の複雑な、シンコペートしたセクションに取り掛かっていた。このパートを覚えるのに、何時間も要した代物なのだが、Nickは僕に向かっていった。
「この上からソロが出来ると思うかい?」
ハッ! なんて質問だ!もちろんその上からソロをかぶせることが出来るさ。そうしたいとも! でもそんな提案を思い切って自分自身でしようとは思わなかっただけだ。Nickがそうやって僕の背中を押す時、彼は言う。「ヘイ、あなたがそれを出来るかどうか僕にはわからないなんて、言うつもりはないんだ」もちろん、それは一種の挑戦だ。僕らは皆、その「やれるさ」精神に駆り立てられ、Allaireでのセッションでもそのムードは続いた。向こう見ずに、自信を持って、決然として、鼓舞されて、挑むように、燃え上がって、大胆に、そして興奮に満たされて。
僕は最後のドラムトラックを終えたあと、RichとNickに向かって言った。
「こんなに楽しくレコーディングができたことも、こんなに結果に満足がもてたことも、今までになかった」(これまでで一番という意味です。今まで全然満足できなかったというわけではなくて←余計な訳注)
そして最後のベースとドラムのトラックが終わった時、スタジオを予約しておいた2週間が終わった。でも他の二人はそのままそこに居続けた。別々のレコーディングルームが二つ利用できたので、Alexはギタートラックとオーバータブ作業をRichとともに一つの部屋で行い、GeddyとBooujzeは別の部屋でヴォーカルの作業を行っていた。
僕はここを離れたくなかったが、もう今後の予定と約束を組んでしまっていた。お気に入りの詩の中でRobert Frostが言っていたように「雪の降る夕方に、森の中に立ち寄った」僕には守るべき約束があった(最近僕はRobert Frostの墓標について考えている。「私は世界中と痴話喧嘩をしている」なぜなら、これはいくつかの新しい曲においての視点に反映させているから。2度ほど、僕は自分の「痴話喧嘩」について表現するために、典型的な「関係についての歌」を書いたから。僕の痴話げんかとは一人の人ではなくて、あまりにもおろかで自分と相容れない考えを持つ、もっと多くの人々との口論なんだ)
ともかく、最初の計画では、Allaireで2週間を過ごしたあと、AlexとGeddyはトロントへ帰って、家でギターとヴォーカルの作業をする予定だったのだ。寂しく思うだろうということ自体は別に気にしないが、でもこんなに幸福な、実り多い時間を過ごし、この素晴らしい場所で自分たちが作り上げたものへの興奮と同志愛をきっと懐かしく思うことを知りながらAllaireをあとにするのは、また別物だ。(でも僕はまた来週、戻ってくる予定さ)
重要なことは、このプロジェクトに注ぎ込んだすべてのエネルギー、興奮、活力だ。そして、どうやらレコーディングは今年の末には終わりそうな感触がする。予定より相当早い。僕たちは新年の初めにファイナル・ミックスに入る予定だ。でもそれから先のことはまだ何も確約をとってはいない。疑いなく、Rayは彼自身のプランを考えているだろう。だが僕らはただ、今はまだそれから先を考える段階にはないだけだ。僕らは今では皆、何も、『そうあって当然』とはみなせないし、本当に確実なことなんて、何もないということを知っている。ニュースにしても、天気にしても、スポーツにしてもそうだ。
歳の門に立つ者に、言った。「未知の場所を安全に歩んでいけるように、我に灯りを与えたまえ』と。
そう、彼らはイーストに言っただろう。「そんな灯りなど、ない」と。でもこのとんでもなく複雑に交錯したこの世界に生きるほとんどの人々のように、僕らはその灯りを持っているふりをして、進んでいくのだろう。
「Bloppida-bloppida-batu-batu-whirrrrr-blo――booujze」