The Dance of Light and Darkness : 光と闇の舞踏 第五部 水の国アンリール  カルアル海峡は、フェイカンとアンリールを隔てる海である。海峡というだけあって、対岸はかなり遠くにではあるが、見えていた。両国の間には、物資の行き来はあるものの、人の往来はほとんどないらしい。フェイカン側の国境の町カルサを抜ける時、一行はその国境警備兵に告げられた。 「向こうから迎えの船が来るまで、二カーロンくらいかかるだろう。ここの門を抜けた先の波止場で、待っているといい」  その口調はロッカデール側から入国した時よりいくぶん和らいでいるようだが、それでもその底に、抑えきれない微かな軽蔑や排斥の感情が入っているようだ。神殿からの『おごりを捨てよ』というお達しを、さすがにそれに従わなかった時の罰を見て、飲み込まざるを得なかったようだが、長年染み付いた思いは、そう短時間には変わりはしないのだろう。ディーたち一行十一人は程度の差こそあれ、その思いを感じたような表情で、お互いに顔を見合わせていた。  駆動生物たちは国が変わると使えないので、感謝の言葉をかけてフェイカンの店に委託し、代わりにアンリールで同じような生物と引き換えられる札を三枚もらった。通貨に関しては「アンリール側で交換してくれ」とのことだった。  駆動生物がいないので、みなで綱をつけて車を引っ張り、波止場で待つこと二カーロン以上たって、対岸から船がやってきた。船と言っても、平たい板のようで、三頭の水色をした流線型の生き物が、それを引っ張っている。先端には小さな座席がついていて、そこに青い髪と衣装に身を包んだ、比較的小柄な中年の男が座っていた。 「珍しいな。フェイカンから人が入国してくるとは。と言っても、あんたたちはほとんどディルトなんだな。全部で十一人。そのうち一人はフェイカンの民で、もう一人は我がアンリールの民か。だが疵人なんだな」  その言葉を聞いて、ブルーはさらに青ざめていた。『疵人』とはどういう意味か、をさすがにリセラさえ問い返すことなく、みなその意味がおよそわかったようだ。『元罪人』なのだろうと。その扱いゆえに、ブルーは祖国を出たのだということも、みなわかっていた。以前、彼がそう話していたからだ。稀石に対する執着心から、一度神殿の稀石を持ち帰ってしまい、罪に問われた。罪は償ったが、一度罪を犯してしまうと、扱いはディルトよりひどい、と。 「改めて、通行証を見せてくれ」  男の言葉に、ディーは服の内側に着いた袋から、水の神殿の紋章がついた小さな板を出した。男はそれを手に取り、ひっくり返して見たのち、返してよこした。 「わかった。あんたたちの入国は、精霊様が許可されたということか。それなら我々が拒否する理由はない。乗ってくれ。その板の上に車ごと」  一行は車を板の上に押し上げ、その座席に座ると、頷いて男は駆動生物たちに命じた。 「アンリール側に戻れ」と。 「あれがアンリールの駆動生物なの?」  海峡を渡る船の上で、車の座席に乗ったまま揺られながら、リセラは前を行く生物たちを見、ブルーに問いかけた。 「ああ。ヴェクサという。あいつらは陸の上より、水の方が得意なんだ」  問われた方は頷き、同じように前方に目をやっていた。三頭の駆動生物たちは、その濃い水色の体表を水の上に半分ほど出していた。首は短く、尻尾は扇形で、幅広の四本の足が水面を叩くように、水をかくように進んでいく。その速さは他の国の駆動生物たちが陸上を走る速さと同じくらいだった。  対岸に到着すると、国境の門を抜け、アンリール側に入った。入ってすぐに駆動生物屋があったので、フェイカンからの引換証を見せて、さっき見たものと同じような三頭の駆動生物をもらい受けた。それを車につけ、ブルーが指示席に座る。ロージアはフェイカンの通貨を、アンリールのそれに両替していた。 「通貨を交換したら、渡し代を払ってくれ。百ラナだ」  一緒に川を渡ってきた男が、そう言ってくる。「金をとるのかよ」と、フレイが小さく呟いていたが、「それが不満なら、フェイカン側からも、こっちへ来る手段を考えてくれればいい。いつも我が国から迎えに行くからな。物資も。それなのに、いつも文句を言うんだ。おまえさんもそうだな」と、男は切り返していた。 「まあ、今までは向こうから来ればいい、そんな感じだったんだろうが――今までのフェイカンではな。それが選民思想か――ああ、俺としたことが、余計なことを言っちまったな」フレイは少し恥じたような顔をした。 「ただ、アンリール側じゃ、国境の渡しが儲けになっているから、フェイカンに手段を講じられるのも、あまり好まないかもしれないんがな」  ブルーは首を振り、思い出したように付け加えた。 「そうだ。街道に出る前に、浮き板も買っておいた方が良いぜ。車屋に置いてあるはずだ」 「浮き板?」 「ああ。ここの街道はさ、運河がほとんどなんだ。水の上を行くことになるから、それがなきゃ、車が沈む」 「そうなのか」  一行は店でそれを買い、車に取り付けた。それは白くて細い、二枚の軽い板で、車の側面に取り付けられるようになっている。作業が終わるころにはもう日も暮れかけていたので、彼らは店で地図を買った後、宿屋を探して泊まった。アンリールの駆動生物は、夜は走れないのだ。十一人が泊まれる部屋はなかったので、六人部屋二部屋に分かれた。 「港からエウリスに渡るのなら、ほぼアンリールを斜めに横切ることになるね。駆動生物の速度がほかの国と同じだとしたら、五日くらいはかかるだろう」  その夜、みなが一つの部屋に集まってポプルと水を補給し終えた後、ブランが地図の上に手をかざして、そう切り出した。 「もしセレイアフォロスに行くなら、ここの首都ローリアルネが分岐点になるね。北に行くとセレイアフォロスとの国境の町サラティマ、東に行けば港町ラヴァルフィに行きつく」 「その港から船が出ているのね。エウリス行きの他にもあるの?」  リセラの問いに、白髪の小男は頷いた。 「昔は、ミディアル行きもあったみたいだけれどね。ユヴァリス行きもマディット行きもあるけれど、便は少ないみたいだ。一節に一、二度くらいだね。エウリス行きは一シャーランに一、二回で一番多い」 「俺も昔、その港からミディアル行きに乗ったんだよなあ」ブルーがぼそっと呟き、 「エウリス側だと、パディルの港だよね。たしかに、ラヴァルフィ行きは多かったっけ。パディルからなら、ユヴァリス行きの船も同じくらい出ているけれど」  アンバーは少し思い出しているような表情で、そう言い添えていた。 「港から船に乗るなら、エウリスに渡るのが近いし、便もよさそうだな。そこからユヴァリスに行くのも、ここからまっすぐに行くよりも楽だろうし」  ディーも地図の上に手をかざしながら、頷いた。目を上げ、水色髪の女性を見る。 「レイニ、君としてはどうだ? 一度セレイアフォロスへ戻ってみるか?」 「私としては、あまり戻ってみたい理由は特にないから、いいわ」  レイニは微かに眉根を寄せ、苦笑いのような表情を作ったのち、首を振った。  ディーはしばらく目を向けた後、再びみなを見回した。 「そうか。ではとりあえず、港町ラヴァルフィを目指そう。首都を通って、五日か。だが…」一行のリーダーは青髪の若者に目を向けた後、言葉を継いだ。 「ブルーにとっては、あまり通りたくない場所か? ローリアルネは」 「そうだな」  問いかけられた方は、口角をますます下げながら、苦い顔を作った。 「今回我々は精霊様に頼まれた仕事はないから、迂回することはできるな」  ディーの言葉に、ブランが再び地図に手をかざし、頷く。 「そうだね。ローリアルネの一つ手前の町から東の街道を行って、途中からまた北に進めば元の道に合流できる。一日くらいは、余分にかかるだろうけれど」 「じゃあ、そうするか。それでは今日はもう寝よう」  その言葉を合図に、女性たち五人、リセラ、ロージア、レイニ、サンディとミレアは頷いて立ち上がり、隣にある自分たちの部屋に戻った。二つの部屋に分かれる場合は、基本的に女性と男性別になることが普通だった。アーセタイルからロッカデール、フェイカンと進むうちに、かなりの金額がたまったものの、アンリールでは職を探す当てがなく、これからもどうなるかわからないため、できるだけ節約をしなければならない。それゆえ、寝棚はなく、床の敷物の上にさらに厚い敷物を敷き、薄い布団にくるまるだけの、比較的安価な部屋だった。翌朝、一行は出発した。  町の門を出ると、広い運河に入る。その向こうも湿地帯のような土地や、大小の池が点在していた。見渡す限り山はなく、大きな木も見えない。池の上に浮かんだ様々な形と大きさを持った葉っぱと、湿地帯に茂る細長い草だけだ。両側に着いた浮き板の力で、水の中でも車はふわりと浮き上がり、まるで船のように水面を滑っていく。駆動する三匹の生き物たちは、その青い体をくねらせながら器用に泳いでいっているようだ。 「ここでは、あまり野営はできなさそうだな」  景色に目をやりながら、ディーは苦笑いを浮かべていた。 「そうだな。アンリールにはそもそも、乾いた土地が少ない。町や村に少しあるくらいだな」指示席からブルーが、後ろを見ないままそう答えている。 「こんな水だらけのところは、落ち着かないな。さっさと通り抜けようぜ」  フレイは小さくぶるっと震えながら、身をすくませている。 「おまえには、そうだろうな。車から落ちるなよ」  相変わらずブルーは前を向いたままだが、その声には少しからかうような響きがあった。 「でも野営はできない、駆動生物も夜は走れないとなると、宿泊地を慎重に決める必要があるね。そうなると、通り抜けるのに一シャーランくらいはかかるかな」  ブランが再び地図に手をかざし、首を傾げる。 「そうだな。街の間で日が暮れると立ち往生になるから、早めに泊まっていかなければならないからな」ディーも頷く。そして地図に手をかざし、言葉を継いだ。 「だいたい六カーロンくらい走ったところで、次の町に着く。さらにそこからその次の町に行くには、七カーロン半くらい。その次は四カーロン、次が約五か。そうなると、そこはそのまま行けそうだが、それ以外は町ごとに泊まらなければならないな」 「まあ、仕方ないわね。先を急ぐ旅でもないから、焦らずに行きましょうよ」  リセラが小さく首をすくめながらも、笑った。 「いや、俺は先を急ぐ。というか、早く通り抜けたいが、無理なんだろうな」  フレイが観念したような表情で手を合わせ、 「それは俺も同じだ。だが、仕方がない。ここではそんなにさっさとは行けねえからな」  ブルーは相変わらず前を向いたまま、首を振っていた。  一行は次の町で泊まり、翌日はその次の町で、さらにその次の日は、中間の村を飛ばして、サラールの町に着いた。この時には、かなり日没が迫っていたが、日の暮れる前には町の門をくぐることができた。  アンリールの町はどこも街道と同じく、幹線道路は水路になっていた。水路の横断には、浮石という平たく丸いものが水面に浮かんでいて、その上を渡る。駆動生物と車が通ると、その浮石はいったん横に並び、通り過ぎるとまた元のように、道路上を横断するように並ぶ。水路の両端には大人が両手を広げたくらいの幅で、歩道がついていたが、それも水の上に浮かんでいる。浮石もその歩道も、人が上に乗っても沈むことはない。ただ、微かな振動を感じるくらいだ。アンリールに入ってから通り過ぎた街でも、宿から外に出て、湯屋や店に買い物に行くときは、一行もその上を移動していた。身体の重いペブルが乗っても、軽いブランが乗っても、沈み具合にさほど差はない。ただフレイは「ふわっふわしてて頼りねえ。それに落ちそうでひやひやするぜ」と、しょっちゅう口にし、「おいらも固い地面の方が良いな」と、ペブルも首を振っている。この国は建物の自体も円形の白い『浮き地面』に乗っていることが多く、その下は水だ。空気はひんやりしていて湿っぽく、空はいつも少し灰色がかかった薄い青だった。    町に着いて宿に入り、駆動生物たちを小屋に預けてすぐ、夜になった。以前の二つの町で湯あみや買い物は済ませていたので、その日は部屋に入ると、すぐに水とポプルを補給し、部屋に引き取って休んだ。この宿では四人部屋三つに分かれた。そして翌朝、再び出発した。 「次はマーロヴィス。ここから六カーロンほどで着くね。そこからこの水路をまっすぐ通って行くと、この国の首都ローリアルネに出るけれど、そこを通らないなら、途中分岐をカレノ村に向かう。そこまでだいたい、四カーロンくらい。そこから次の町まで七カーロンあるから、通過しないで、泊まらないといけないね」  ブランの言葉に、ブルーは頷いた。 「ああ、俺のせいで回り道させて、すまねえな」 「まあ、急ぐ旅でもないし」  リセラはいつものように笑い、みなも肯定の声を上げていた。  広い水路を、駆動生物たちに引かれて、車は進んでいた。両側に付けた白い浮き板の先に微かに波しぶきが立ち、水は微かに緑がかった青で、底には規則正しく切り出された石が並べてあるのが見える。側面も同じようだった。 「ここはさ、自然にできた川じゃなくて、道なんだよ。掘って周りを固めて作ったんだ。町の中の大通りもそうさ。ロッカデールからフェイカン経由で、切り出した石を買ってさ」  アンリールに入った初日に、ブルーがそう説明していた。 「周りも水だらけなのにね。わざわざ水の道を作ったのね」  不思議そうなリセラに、ブルーは首を振って横に目を向けていた。 「だがな。見ての通り水にも浅いところと深いところがあるし、沼みたいなところもある。やっぱり道をちゃんと作っとかないと、どこに向かってんだか、さっぱりになることもあるしな」 「それはたしかにそうね」リセラも微かに笑って頷いていた。  水路の両端は石の壁になっていて、その上に時々指示板が立っている。次の町までの距離や、分岐点での行く先などが記されている。それがこの水の道の指標であり、意義なのだろう。  ナンタムたちを見かけることもあった。この国では青い体毛で、のんびりと水の上を集団で泳いでいる。見る限り、ロッカデールやフェイカンのように、明らかに活力を失っていたり、過剰になっていたりはしていないようだ。ここでは特に大きな問題は起こっていないのかもしれない。精霊からの要請もないようだし――ナンタムたちの様子で、そんな思いを新たにしたものも多かったようだ。ディーやリセラ、ロージアも、そんな言葉を口にしていたし、他のみなも賛同の表情を浮かべていた。  日が少し傾いてきたころ、次の目的地、マーロヴィスまで二十キュービットという表示板を過ぎた。あと一カーロンもすれば、着くというその時、急に指示席のブルーが声を上げ、次いで「止まれ」と叫んだ。三頭の駆動生物たちは止まり、車も止まる。少し勢いをつけて、車が揺れた。 「どうした?」  ディーが声をかけた。しかし彼も、車から顔を出して前を見たほかの仲間たちも、ブルーが答える前にその理由を知った。  行く手の水面が少し波立ち、人が浮かび上がってきた。サンディやミレアよりは年上だが、リセラより少し若いだろう年頃の少女だった。整った顔立ちに、青く長い髪が濡れて水面に揺れ、大きな青い瞳でじっとこっちを見ている。その唇はアンリールの住民の常に漏れず、少し厚かったが、肉感的な感じで、口角は少し上がっていた。 「あぶねえぞ。道を渡るなら、浮橋を使え。泳いで渡るな」  ブルーが指示席から叫ぶと、少女は口を開いた。しかしその声は流れるささやきのようで、聞き取れない。 「おい。ちょっと待て」ブルーは振り向いて仲間たちを見た。 「この子はラリアだ。俺にはわからない。ミヴェルト持ちじゃないからな。レイニ、頼めるか?」 「私も触れていないとわからないから、ここに上がってきてくれるように頼める?」 「わかった。とりあえず車に上がってきてくれ」  ブルーが声をかけると、その娘は頷き、滑るように泳いで車の浮き板に近づいてくる。 「ラリアって何?」ミレア王女がサンディに問いかけ、 「なんだったかしら。一度レイニさんに聞いたんだけれど」と、聞かれた方も首を傾げる。 「アンリールとセレイアフォロスに時々生まれる異言持ち、だったと思うわ」  リセラも記憶を手繰ろうとするかのように視線を上に向けながら、答えていた。 「そう。ラリアというのは、異なる言葉を持って生まれてくる人。水と氷の国に、稀に出現するの。特別な力があると言われているわ。その言葉を仲介する技がミヴェルト、私が持っているものね。ラリアの身内には必ずミヴェルト持ちがいるとも、言われているわ」  レイニが微かに笑って説明する。 「でも、ブルーさんの言葉はわかるんですね」  不思議そうなサンディに、レイニは頷いた。 「相手の言うことはわかるのよ。水なら水の、氷なら氷のエレメントの人の言葉なら。だから彼女には、ブルーの言うことはわかる。私の言うことも、わかると思うわ。それ以外はダメだけれど。でも彼女の言葉はミヴェルトを介さないと、わからないの」  その間に少女は車の浮き板に取りつき、身体を持ち上げてその上に乗った。何人かが助けて、車の上に乗せた。その身体は冷たく、長い髪や青い丈長の服からも、しずくが垂れている。その髪の青い色調には、ところどころ水色が混じっていた。  リセラは荷物から敷物を一つ取って、少女の上にかけてやった。 「乾かした方が良いわよ。あ、あたしの言葉は、わからないのかもしれないけれど」  少女は不思議そうに眼を見開いていたが、真意はわかったのだろう。微かに笑顔になると、敷物を身体に巻き付けた。 「ところで、このままマーロヴィスまで向かってもいいか?」  ブルーが振り向いて問いかけると、少女の顔に微かに怯えの表情が走った。 「少しだけなら、このまま話を聞いても大丈夫かもしれないな」  ディーが空に目を向け、太陽の傾き具合を眺めた後、告げた。 「この子は怖がっているようだ。もっとも、俺の言葉も通じないだろうが」 「まずこの子の話を聞いてみましょう」  レイニは頷いて、少女の手を取った。 「あなたの名前と、どこから来たのかを教えて」  少女の口から、またささやくような、水のせせらぎのような言葉が漏れた。レイニは頷き、その言葉を仲間に伝えた。 〈わたしはセアラーナ。セアラーナ・パルカフィス・ノーレと言います。ローリアルネの北にあるパラモナ村の出身です。助けてください!〉 「助けて?」その言葉に、全員が表情を動かした。 「どういう事情なのか、話して」  レイニの問いかけに少女は頷き、再び話し出した。その言葉をレイニが伝える。 〈神殿の歌姫候補の一人に、わたしは選ばれたのです。でも別の候補の家の人が、わたしを排除しようとしてきて。もう一人の子も、その人たちに排除されてしまいました〉 「神殿の歌姫?」  不思議そうな一行を前に、ブルーが説明を始めた。 「アンリールには、神殿歌姫がいるんだよ。水の精霊様は、音楽を好む。ああ、俺たちがミディアルでやっていたようなのじゃなくてさ、もっと厳かな――精霊様に慰めと力を与える“歌姫”と呼ばれる存在があってな。だいたい三年で力尽きて、声をなくして交代するから、そのたびに新しい歌姫が必要になる。これには条件があってな、別に歌姫っつっても、巫女と同じで、別に男だってかまわないんだが、必ず十六才以上十八歳以下の、ラリアでなければならない。神殿歌姫の報酬は家族郎党一生遊んで暮らせて余りあるほど多いし、箔もつく。とんでもなく名誉なことなんだ。まあ、神官長ほどの権威はないがな」 「ほう……それでこの子を含め、三人が候補に選ばれたわけか」 「人数は、その時によって違うんだ、ディー。巫女様が指定する地域の中で、指定年齢の歌の上手いラリアが、そんなにいない場合もあるからな。今回は三人だったんだろう、たぶん」 「それで、排除するというのはどういう意味なんだ?」  ディーの問いかけをレイニが繰り返すと、少女は再び口を開いた。 〈脅して、辞退するように強要するのです。他の候補の人は、お金も渡されたとも言います。さもないと、命の保証さえできないと〉 「それ、ひどいわね!」  レイニが少女の言葉を伝えると、リセラとロージアが同時に声を上げた。 〈わたしは神殿歌姫になりたかった。ラリアに生まれた時から、ずっと目指していたから、諦められない。巫女様の前で歌って、それでだめなら諦めますけれど、その機会さえ失われるのは嫌だった。わたしの家族も、賛成してくれた。でも、そのために両親や弟が危険にさらされるのは嫌だから、わたしが機会を得るまでは、セレイアフォロスへ逃れてほしいと、わたしは頼みました。わたしの祖父はそこの人だから。母はミヴェルト持ちで、わたしの言うことは母にしかわからなかったのですが、母が父と弟には伝えてくれました。それでわたしはどうするの、と聞かれたのですが、わたしは大丈夫、そんな確信があったのです。きっと誰か助けてくれる人がいると〉 「ラリアの中はエフィオンに似た、未来や過去を感知する力を持っている人もいる、とは聞くわね」レイニは少女の言葉を伝えた後、そう呟いていた。 「この子もそうなのかしらね」ロージアが少女に手を伸ばし、そっと触れた。 「わたしが触っても大丈夫かしら」 「ナンタムじゃないから、それは平気よ」  レイニは小さく笑った。セアラーナという少女も少し不思議そうなまなざしを向けたが、微かに笑みを浮かべている。 「この子は四分の一氷が入ったディルトなのか。いや、もともと兄弟国だから、ディルトっていうほどじゃないんだがな、レイニもそうだし」  セアラーナはブルーに目を向けた。 〈でも氷が入ったディルトが神殿歌姫になるなんて、っていう人もいます〉 「でも兄弟国だしな。そう変わんないだろ? 誰が言うんだ?」 〈競争相手の代理という人が〉 「そりゃあ、あてにならない意見だな」フレイがそこで声を上げた。 「俺の言葉はわかんないだろうから、通訳してくれよ、ブルー。まあ、俺はアンリールのことは知らないがな」 「俺もおまえと同意見だ」ブルーは微かに苦笑を浮かべた。 「だが、ここでこうしていても、らちが明かないな」ディーは首を振った。 「とりあえず事情はわかった。このままマーロヴィスに向かおう。水の中に立ち往生しているわけにはいかないからな。この子の追手がいるかもしれないが、それは俺たちが守ればいい」 「そうね」レイニは頷き、その言葉を少女に伝えた。  セアラーナは少し怯えの色を見せ、少し震えたが、手を握り合わせて、頷いた。  ブルーが駆動生物たちに指示を出し、車は再び進み始めた。 「町に入ったら、あなたは見つからないように、座席の下とか荷物の下に隠れていればいいと思うわ。宿に入ったら、あなたは小柄だから、ディーやペブルの後ろにいたらいいと思うし、わたしたちがその周りを囲めばいいわね」  ロージアが少女に目をやりながら言い、 「そうよね。大丈夫よ、任せて。あたしたちが守ってあげる」  リセラはセアラーナの肩に手を回し、その濡れた髪に頬を押し当てていた。ラリアの少女も、異なるエレメントとしか持たない彼女たちの言葉はわからないものの、その思いはわかったのだろう。安堵したような笑みを浮かべ、同時にその瞳から、涙が零れ落ちていた。両親と離れて、彼女はここまで一人で来たのだ。サンディもそっとその腕に触れ、にっこりと笑いかけた。言葉は通じないが、思いは通じると信じて。  やがて車は、マーロヴィスの町の門をくぐった。今までの町でも、門に人がいることはなく、自由に出入りできたが、ここも同じようだ。街の門が見えてきたころから、セアラーナは座席の間に身を伏せ、リセラたちはその上から大きな敷物をかけた。  町に入ってしばらくのち、反対側から来た車(この国ではほとんど船に近いが)に乗った男たちから、『一人でいる、ラリアの少女を見なかったか?』と聞かれた。 「いや」ブルーは首を振って答えた。  男たちも車をちらっと一瞥しただけで、納得したようだ。 「まあ、ディルトの旅人連中が、知るわけはないか」 「あの人たちが、この子を追っていた連中なのかしら」  男たちの船が遠ざかってから、リセラが小さく言い、 「まあ、そうなのだろうな。だからこの子も、この町に来るのは嫌がったわけだ」  ディーが苦笑して、同意していた。座席の間に身を潜めていたセアラーナも、男たちの声を聞いていたのだろう。ちらっと敷物をめくって顔をのぞかせた。その表情は不安に満ちていた。レイニがその手を取り、「大丈夫よ。もう行ってしまったわ」と笑いかけると、ほっとしたような笑顔になる。 「でもそうなると、あなたは宿に着くまで、ずっとそうしていた方が良いわね。他にも追手がいるかもしれないわ」  ロージアが眉根を寄せながら言い、レイニも頷いてその言葉を伝える。ラリア(異言持ち)の少女セアラーナには、水か氷のエレメントを持つ者の言葉しか通じないためだ。少女も言葉を伝えられると頷き、再びうずくまって敷物を被った。リセラが手を伸ばし、宥めるようにその背中を、敷物ごしに撫でていた。    宿屋を見つけて入る時も、一行はその前に相談しあった。宿屋の主人やそこで働く人、通りがかった人々にもし少女の姿をはっきり見られると、あの男たちが探しに来た時に、教えられてしまうかもしれない。それゆえ、まずラリアであることがわからないように、セアラーナは部屋にいる時以外は、決してしゃべらないことを言い含められた。さらに一行と同じような仲間であるように見せるためには、どうすればいいかと。 「あなたもあたしたちと同じディルトだと思われればいいのだから、その服を脱いで、例えばこれに着替えるとかね」  リセラが荷物の中から、ロッカデールで買っていたグレーのワンピースを取り出した。 「でも、髪の色が普通ね。ディルトっぽくないわ」ロージアが首を振ると、 「それなら、これを被ったらどうでしょう」と、サンディが同じく荷物の中から、オレンジの布を取り出した。フェイカンで買った、大きな四角い布で、肩にかけたり、頭にかぶったり、また荷物を包んだりもできるものだ。 「いい考え。でも、この子だけだと、目立つかもね」 「それなら、わたしたちもみな被ればいいかもしれないわ」  こうして一行の女性たち六人は、それぞれに荷物の中から色とりどりの布を取り出して頭からかぶり、宿屋に入った。主人は少し驚いたような目を向けたが、宿泊代金を受け取りながら、こんなことを言った。「少しでもディルトが目立たないようにしているのか。いい考えかもしれないが、すぐにわかるだろうね。せめて、全部青にした方が良いぞ」と。 「明日買って来るさ。でも、ミディアルじゃ流行していたんだぜ」と、フレイがおどけたように目をぐるぐるさせながら、付け加えていた。 「あんたたちはミディアルから来たのか? どうりで。マディットに滅ぼされる前に出てきたのか?」 「そうだ」ディーが頷いてみせると、 「それは運が良かったな」と、宿屋の主人は微かに笑っていた。 「嘘ばかりだな。まあ、ここじゃ仕方ないが」  部屋に入ると、ブルーがあきれたように首を振っていた。やはり十二人が泊まれる部屋はなかったので、六人部屋二つに分かれているが、今はみな同じ部屋に集まっている。そこでポプルと水を取ったあと、一行のリーダーは切り出した。 「それで、どうすれば我々は君を助けられるのかな」と。  ラリアの少女、セアラーナはそこで口を開いた。その言葉は他の人にはわからないが、ミヴェルトという意思疎通技を持ったレイニには通じる。それゆえ、彼女がそれを伝えた。 〈七日後に、神殿で巫女様にお目通りすることになっているんです。神殿歌姫の候補として。これがその印です〉  セアラーナは服の内袋を探ろうとして、着替えたことに気づいたのだろう。最初に着ていた青いワンピースの中から、青く光る金属片を取り出した。金色に縁どられたその中には、白く水の紋章が描かれている。 「それは、神殿歌姫候補として選ばれた者の証なんだな」  ディーの言葉をレイニが繰り返すと、青い髪の少女はこっくりと頷いた。 〈巫女様にお目通りできる日の、二シャーラン前に、枕元に現れるのです〉 「相手の勢力は、対立候補に辞退させたと聞いたけれど、それはどうやって?」  ロージアの問いかけを再びレイニが繰り返す。 〈その証に触ると、他の候補のことも読み取れます。できるのは、わたしたちラリアのものだけだと思いますが〉 「とすると、その相手――君の邪魔をしている連中が推そうとしている子が、知らせたわけだな」  ディーの言葉が仲介を通して伝わると、再びラリアの少女は頷いた。〈たぶん〉と。 「辞退するというのは、どうやるんだ?」 〈巫女様にお目通りをする三日前までに、この『証』を神殿にお返しするのです〉 「当人が行かなくても、それは大丈夫なのか?」 〈いえ、選ばれた人自身が行かなければなりません〉 「だから、対立候補の連中は、この子を追っているわけね」ロージアが眉をひそめ、 「彼女自身に、証を替えさせなければならないとなるとね」と、ブランも頷く。 「それで、君としては、我々にどうしてほしいんだ?」  ディーは少女を見据え、問いかけた。その言葉をレイニが伝えると、ラリアの少女は一瞬ぶるっと震え、訴えるように周りを見た。 〈わたしを、その日に神殿に送り届けていただきたいのです。図々しいお願いですが……〉  セアラーナはそこで言葉を切り、うつむいた。その肩は震え、頬に涙がこぼれていく。 〈本当にごめんなさい。みなさんの旅のご迷惑とは思うのですが……わたしには、頼れる人は他にいないのです。もし無事に選ばれたら、お礼もしますので……お願いします〉 「巫女様にお目通りする日は、たしか七日後だと言っていたな?」 〈ええ〉 「七日間も、足止めを食うのか」  レイニを通じて意味が伝わると、フレイが即座にそう声を上げた。 「しかも神殿へ行くには、ローリアルネに行かないといけないんだな」  ブルーも渋い顔になっている。「それに、水の神殿には、よそ者は入れないんだぞ。氷だけは例外だが。俺は『疵人』だから神殿には入れないし、レイニしか付き添えない」 「中に入ってからだけなら、私だけでも大丈夫だとは思うけれど」  レイニは少し首を傾げながら、セアラーナを見た。 「あたしたちみんなで神殿の入り口まで車で行って、そこからレイニとこの子だけで中へ入ればいいわ」リセラが頷いて言う。 「もうすっかりやる気だね、リセラ」ブランが苦笑を浮かべながら首を振り、 「ここで七日も足止めはきついぞ。とはいえ、いろいろなことに巻き込まれるのは、いつも通りだからなあ。ミディアルを出てから、ずっとそうだ」  フレイの言葉に、アンバーが付け加える。 「ミディアルでも、そうだったよね」と。 「まあ、俺たちが今の十一に人になったのも、ミディアルでいろいろあったからだしな」と、フレイも首を回し、苦笑いを浮かべた。 「それで、おまえはどうする、ブルー。やっぱりローリアルネに行くのは嫌か?」  ディーに問いかけられると、ブルーは即答した。「いやだ」と。その後、訴えるように見ている少女と眼が合うと、視線を落とし、首を振った。 「そんな目で見るな……」  さらに黙って下を見たあと、顔を上げて首を振った。その顔の色は濃く染まっていた。 「ああ、いいさ、わかった! 俺が我慢すりゃいいんだろ。行ってやるよ!」 「まあ、おまえの我慢なんて、自業自得だしな」  フレイの言葉に、ブルーはますます色を増して「なんだとぉ!」と声を上げる。 「やめなさいよ、フレイ。言いすぎよ」ロージアがそうたしなめる。 「わかってるさ。まあ、言いすぎたら謝る」 「謝って済む問題か! ……まあ、おまえの言うことも間違ってはいないが」 「そういうところは進歩したな、ブルー。おまえの勇気、俺は買うぞ」  ディーがかすかに笑って声をかけ、言われた方は少し極まりの悪そうな顔をした。 〈本当にすみません!〉  ブルーとレイニの言葉しかわからないラリアの少女も、おおよその話の流れはつかめたらしい。瞳を潤ませ、深く頭を下げた。 〈ごめんなさい。でもきっと、このお礼はしますから!〉 「あんたが神殿歌姫になれりゃ、俺らも報酬にありつけるわけだしな」  ブルーはちらっと少女に目をやった。ややぶっきらぼうな口調だ。 「がんばってね」と、リセラがその背中を軽く叩く。 「それでは、五日の間、ここで待機か。その後一日かけてローリアルネまで行って、翌日お目通りだ」 「それなら、今から五日間分の宿賃払ってこないとね」  ディーの言葉を受けて、ロージアが立ち上がった。用心棒代わりのペブルを引き連れて、二人は部屋を出て行き、しばらくのち、戻ってきた。 「これから五日間、ここで過ごすのね。長くなるわね」  一日何もしないで待っているだけというのは、これまでにも何度かあった。朝と夕方のそれぞれ二カーロン程度は、食事や水を飲むために一つの部屋に集まるが、それ以外は男女別だ。  三日目の夕方、六人の女たちは部屋で話していた。セアラーナとの話には、レイニが橋渡しをしなければならなかったが。いろいろな話の中で、リセラがふと口にした。 「神殿歌姫の歌って、どんなものか聞いてみたいわ」 〈ごめんなさい。それは巫女様の前でしかできないのです〉  ラリアの少女は少しすまなそうな表情で、首を振った。 「そうなのね。じゃあ、あたしたちは神殿に入れないから聞けないのね。残念」  リセラはそのピンク色の髪を揺らして、首をすくめた。 「みなさんもミディアルでは、歌を歌ってましたよね」  サンディが思い出したように声を出し、 「ああ、わたし好きだったわ」と、ミレア王女がぱっと表情を輝かせる。 〈みなさんも歌い手だったのですか?〉 「まあ、あたしたちの場合は、神聖には程遠いけれど。みなを楽しませるためのものよ」 〈聞いている人を?〉 「そうね。神殿歌姫が巫女様のためにあるものなら、私たちは普通の、聞いてくれる人たちを楽しませるためのものなのよ」レイニがそう付け加える。 〈どんなものなのですか?〉 「じゃ、やってみましょうか、ここで」  リセラは両手を合わせ、少しいたずらっぽい表情で立ち上がった。 「何日もただじっとしているのもつまらないし、考えたらあたしたち、ミディアルを出てから興行的なものは、なにもしていなかったのですもの」 「聞いてくれる人もいないしね」  ロージアは苦笑と微笑を混ぜたような笑みを浮かべた。 〈聞かせてください〉 「わたしも聞きたい」と、ミレアも声を上げる。 「それじゃ、ミレア、何が聞きたい?」 「うーんと」  ミディアルの元王女はしばらく考えているような沈黙の後、答えた。 「『さすらいの歌』」 「いいわよ」  リセラ、ロージア、レイニの三人は歌いだした。彼女たちの声はきれいに調和して、優しく、美しく響く。ミディアルでは、大勢の観客たちを魅了してきたものだ。サンディも入場係をしながら聞こえてきたそれに、耳を澄ませていたそのころを思い出した。    私は故郷を持たない  空と大地が私の家  情けから情けへ 愛から愛へ  渡り歩いて幾年月  私は炎  私は水  私は氷  私は大地  私は岩  私は風  私は光  私は闇  私はすべて  この世界はどこにも属さない  時の扉をほどけ  さすればすべてが交じり合い  存在へと還るだろう  歌い終わると、聞いていた三人の少女たちは手を叩いた。 「これは、どなたが作ったものなんですか?」  ふと湧き上がってきた疑問を、サンディは口にした。 「これはね、あたしのお父さんが歌っていたもの、元はね」  リセラは微かに笑い、髪を振りやった。 「わたしたちは、リルに教わって覚えたのよ」  ロージアもかすかに頭を振りながら、再び座った。 「私たちの歌は、どれもそうね。リルのお父さんはミディアルに来て、パディを鳴らしながら、町で歌っていたらしいわ」  レイニの言葉に、サンディは問いかけた。「パディって?」 「私たちが歌っている時に、ディーが弾いていた楽器よ」 「ああ、あれなんですね」  サンディは思い浮かべた。丸い中空の胴体に棒が突き出ていて、そこから七本の糸を張り渡し、片方の指で押さえて、もう片方の手ではじく。と同時に、サンディの脳裏を思いが掠めた。似た様なものは、見たかもしれない、と。 「あれも、あたしのお父さんの形見よ」リセラは視線を遠くに向けた。 「リセラのお父さんって、そういう素敵な歌を自分で作っていたの?」  ミレアの問いかけに、問われた方は首を振っていた。 「違うと思う。あたしも前、同じことをきいたから。お父さんがユヴァリスにいた頃に聞いたもの、と言っていたわ」 「ユヴァリスにも、歌があるのかしら」  レイニの言葉に、リセラは首を振っていた。 「うーん、よくわからない、ユヴァリスのことは。でもお父さん、ユヴァリスでは歌っていなかったらしいから、そういう仕事はなかったと思うわ」 「そう言えばわたしたち、誰もユヴァリス出身はいないのよね。血を引いている人はいるけれど」ロージアの言葉に、リセラは頷く。 「うん、そうね。あたしのお母さんはユヴァリスの人だけれど、会ったことはないし、あたしもたぶん、住んだことはないから。ああ、いえ、生まれたのはあそこだけれど、一節しかいなかったらしいから、記憶なんてないもの。ディーもアンバーも、お母さんお父さんが光のディルトっていうだけだから、住んでいたわけじゃないし。でも……」 「何、リル?」 「いえね、その話を前にしていた時……ああ、ディーと二人の時ね、たまたま。彼が言っていたのよ。『でも鍵は、ユヴァリスにあるのかもしれないな』と」 「なんの鍵?」 「知らないわ。彼も漠然としか知らないみたいだし。エフィオンなのかも」  鍵はユヴァリスにある――その言葉を聞いた時、とくんと胸の鼓動が一瞬強くなったのを、サンディは感じた。光の国ユヴァリス・フェと闇の国マディット・ディルの巫女候補は外の世界から連れられてくることがある――ディーがかつてそう言っていたことを思い出した。サンディは巫女候補の『巻き添え』だろうと言われたことも。そうであるなら、本来の巫女候補はユヴァリスかマディット、どちらかへ連れて行かれたのだろうか。それは彼女とかかわりのある人なのだろうか。それともたまたま近くにいて、巻き込まれただけなのだろうか。だが思い出そうとしても、手繰れる記憶はない。いつか――そう、もう一節と少しで、この忘却の呪いが解けた時、思い出すのだろうか。  小さな震えが突き上げてくるのを感じた。他のみなは、彼女の思いには気づかなかったようだ。神殿歌姫候補、セアラーナの〈わたしの知っている「歌」とは、まったく違いますね。でも素敵だと思いました〉という言葉の方に注意が向かったらしい。 〈また聞かせてください〉そう言う彼女に、 「ええ。わたしからもお願い。とても懐かしかったから」と、ミレアも同意していた。その目は輝いていたが、同時に曇り、そして涙が一筋落ちていった。小刻みに震える元王女の肩を、リセラは慰めるように、そっと抱いていた。  翌日、一行は町に湯あみと買い物に出かけた。まずセアラーナ以外の女性五人が街へ出、青い服を六枚と、青い布を同じく六枚買う。そしてポプル屋で色付きポプルを買った後、一度宿へ帰り、改めて女六人で湯屋へ向かった。セアラーナを探しているかもしれない追手を警戒して、全員が同じ青い服を着、できるだけ髪の毛が見えないように、青い布を被る。ただし、セアラーナ以外はほんの少しだけ、髪の毛がはみ出るようにした。すれ違う人々は、青い布を頭からかぶったそのスタイルに注意を引かれるようで、視線を向けるが、すぐに目をそらしてすれ違う。ときおり、すれ違いざまささやきが聞こえた。 「なんだ、ディルトなのか。だからわからないように、あんな格好をしているんだな」 「完全には隠せてないぞ。ばかだな」  その反応は、承知の上だった。そうすればセアラーナも、ディルトの一人だと思ってくれるだろうという思惑だ。湯屋では、彼女は他の四人と離れ、レイニと二人で行動した。そうすれば居合わせた他の客も、『完全なディルトが四人の一組、そしてセレイアフォロスとのディルトが二人』と認識してくれ、セアラーナ自身には、あまり注意を払われないで済む。もちろん彼女がラリアであることを知られないように、話はしない。湯を使い終わると、再び六人は青い布をすっぽりかぶり、セアラーナを中にして、宿へと向かった。 「大丈夫だったか?」  男性陣の部屋を訪れると、ディーがそう声をかけてきた。 「大丈夫。見つからなかったと思うわ」  レイニとリセラが同時に返答した。 「それなら、俺たちも行こう。帰るまで部屋にいてくれ」 「ええ。それじゃこれ。お湯代とお買い物代よ」  ロージアがディーに代金を渡す。 「俺たちはそのままでいいんだよな。何も被らなくとも」フレイがそう確認し、 「俺たちは、その必要はないだろう。ただ、人の視線は覚悟しないといけないがな」と、ディーは苦笑いをする。  ディー、ブルー、フレイ、アンバー、ペブルとブランの男たち六人が道を歩くと、あからさまに道行く人々の視線が飛んできた。 「ディルトか。しかし、本当に色々いるな」 「一人はうちの民みたいだが」 「なんで一緒にいるんだ?」  そんなささやきが聞こえてくる。その声はフェイカンほど嫌悪に満ちてはいないが、ロッカデールのそれよりも、いくぶん冷たく感じた。それでも、ミディアルを出て以来、多少温度差はあれ、好奇の目にさらされてきた一行は、もう慣れている。彼らは湯屋へ行き、身体を清めた後、店で白ポプルと水を買い求めた。そして、宿へと帰る道をたどっている時だった。  歩道の上を、向こうから若い女性が駆けてきていた。年齢はセアラーナと、それほど変わらないだろう。長く青い髪をなびかせ、青いドレスの裾をからげて走ってくる。アンリールの人々の特徴で唇はぽってりしていたが、目鼻立ちははっきりしていて、美しかった。だがその顔には、あきらかな恐怖が浮かんでいる。少女は六人のところへ駆けてくると、ブルーに腕を回して何か言った。しかしその声はやはりささやきのようで、聞き取れなかった。 「またラリアか」  ブルーは唇をますますへの字にしながら、困惑した声を上げた。 「何を言っているのか、俺にはわからねえ。怖がっていることは、確かだが」 「後ろから走ってくる男たちがいるけれど、それかな」  アンバーが行く手を凝視しながら、少し緊迫したような声を出した。 「見えるか……? それなら、そうかもしれないな」  ディーも行く手を見、そして少女を振り返った。 「ブルー、この子に伝えてくれ。仲間にミヴェルトがいるから、そこまで一緒に行って話を聞かせてくれと」  ブルーがそれを繰り返すと、相手は頷いた。 「それならアンバー、おまえはこの子を連れて、飛んで宿屋の近くまで行ってくれ。見つからないように」 「飛ぶの?! 無理だよ、目立つよ」 「もう追っ手がきそうだ。事を荒立てずにこの子を逃がすには、それしかない。できるだけ高く、早く行けば見つからないかもしれない。今は幸い、人通りが少ないようだからな」 「わかった。じゃあ、怖がらないように伝えて。宿の裏で待ってる」 「わかった」  ブルーが少女に伝えると、相手は驚いたように目を見張っていた。微かに頷くと同時に、アンバーがその腰をさっと抱え、空中に飛び出した。 「僕の言うことはわからないだろうけど、大丈夫だからねぇ!」 「安心しろー!」ブルーがかぶせるように言う。 「ぎりぎりだな。だが、気づかれてはいないようだ、幸い」  ディーが行く手に目をやり、息を吐き出した。男が数人、今ははっきりと視界に入ってきていた。それは数日前、セアラーナを探していた男たちと同じようだった。 「女の子が一人、こっちへ走ってこなかったか?」  男たちの一人が、そう切り出した。そして改めて気づいたように、目を向ける。 「おまえたちは、いつかのディルト集団か」 「いったい何なんだ?」  ディーはあきれたような表情を作り、そう問いかける。 「おまえたちディルトがいったい、この町にいつまで滞在しているんだ」 「用があったんだ。それはあんたたちには関係ないだろう」 「まあ、そうだな。それでだ、さっきの質問だが」 「女の子か? かなり慌てていたようだが、そこの角を曲がっていった」 「そうか」  相手は特に疑った様子はなく、足早に角を曲がっていった。五人は顔を見合わせ、宿へと向かった。  宿の敷地に入ると、裏庭にアンバーが立っていた。 「あの子は?」と問いかけると、「そこの池にもぐっている」という答えだ。ブルーが呼ぶと、水面から少女が顔を出した。 「隠れて、って伝えるのが大変だったよ。でも身振りで、なんとかわかったみたいだ」  アンバーが苦笑して言い、続けた。 「それで、この子、どうやって中に入れる? 普通に入って、大丈夫かな」 「そうだな。セアラーナ同様、探されていたら、面倒だな」  ディーはしばらく考えるように黙ったのち、ペブルが持っている大きな水の袋に目を止めた。「そこに入れるか、この子を」 「水のかわりにかい?」太った若者は、驚いたように声を上げる。 「そうだな。そこに入っていた水は、俺たちがめいめい袋に入れて持っていこう。幸い袋は紫色だから、中身が女の子でも、わからないだろう」 「じゃあ、そうしようか」  一行はペブルが運んでいた水をそれぞれ自分の袋に入れ、手分けして持った。そしてからになった袋に、少女がすっぽり収まる。そうして部屋に帰った。 「おかえりなさい。でも、ずいぶんたくさん水を買いこんだのねえ」  リセラが声を上げた。男性軍が帰ってきたので、食事をとるために、女性六人も部屋に集まってきていた。 「いや、これは水じゃないんだぜ。おかげで俺たちも重かった」  フレイが水のボトルが入った袋を床に置き、他の五人も同じことをする。そしてペブルが置いた袋の中から、青い髪の少女が顔を出した。 「え?」女性たちは一斉に、目を丸くして見ている。 「拾い物だ。この子もラリアらしい。話を聞くために来てもらったんだ」  ディーが苦笑し、女性たちを見回した。  袋の中から立ち上がった少女は、驚きの表情で女性たちを見ていた。いや、その視線は一点に注がれている。その視線を浴びた方も、驚きの表情を浮かべて見返していた。お互いにラリアの二人の少女の口から、言葉が漏れた。 〈セアラーナ〉 〈アマリラ〉  言葉が通じないラリア(異言持ち)でも、相手の名前は言える。わかっている場合は。  セアラーナが震え出した。激しい調子で、何かを言った。レイニがその手を握り、彼女の言葉を伝えた。 〈この子の身内が、わたしに辞退するようにと、わたしと家族を脅した〉と。 〈本当にごめんなさい、セアラーナ。でも、わたしに説明させて〉  後から助けられた少女、アマリラが口を開いた。そこから洩れる言葉は、他のみなにはわからないが、ラリア同士には通じるらしい。レイニがその言葉を通訳したので、一行全員にも理解できたが。 「なんだか事情があるようだな」ディーは苦笑いに近い表情を浮かべ、 「でもその前に、あなたも身体を乾かして服を着替えた方が良いわ」と、リセラが声をかける。アマリラは池にもぐって身を隠していたために、かなり濡れていたのだ。 「水の民は、濡れるのを気にはしないがな」ブルーが首を振り、「まあ、でも落ち着いた方が良いだろうな」と、言葉を継ぐ。  その間にリセラとサンディは立ち上がって女性たちの部屋に行き、少女の体形に近い、サンディが着ていた服を持ってきた。アマリラは濡れた髪を布で拭き、部屋の隅で持ってきてもらった服に着替えた。 〈ありがとうございます〉  アマリラは礼を述べた後、もう一人の少女を見つめ、一行に目を移した。 〈わたしはこの町に住んでいて、両親と姉がいます。姉がミヴェルト持ちです。わたしの枕元に歌姫候補の証が来た時には、それはそれはみな喜んでくれました。わたしも嬉しかった。両親は嬉しさのあまりか、親戚にもその話をしていました〉  アマリラはその大きな青い目を少し戸惑ったように伏せ、そして上げた。 〈母の伯父は、一族の権力者でした。わたしの両親も、その決定には従わざるを得ない人でした。その人が、わたしが候補になったという話を聞いて、絶対にわたしを歌姫にするのだと、決心したみたいなのです。最初は伯父が応援してくれるのだと思い、わたしは嬉しかった。でも、巫女様の前でしか歌えない歌を、練習のために歌えと言ってきたり、それはできない決まりだと言うと、せめて発声だけでもしろと、毎日練習をしろと強いてきたりするようになりました。『他の候補に負けてはならないんだ。他の候補はおまえより優れているかもしれない』と何度も言い、他の候補は誰だ、と、わたしに教えるように迫りました。それを知ってどうするのか、と思ったのですが、わたしの一家は伯父には逆らえないので、言わなければなりませんでした〉 「じゃあ、その伯父が妨害者なんだな」  レイニからその話の意味を告げられた一行は眉を寄せ、代表するようにディーが言った。彼の言葉は二人の少女には伝わらなかったが(ラリアはそのエレメントを持つ人の言葉しか解さないので)、レイニが「そう、その伯父さんが妨害者の中心のようね」と言い直すと、アマリラはこっくりと頷いた。セアラーナとアマリラ、二人の異言を仲介するために、レイニは両手でそれぞれの肩に触れている。ミヴェルトという、異言を理解する技は相手に触れていることが必要だからだ。 〈わたしは伯父が何をするつもりなのか、初めは知らなかった。でも三日前、夢を見たんです。一人の女の子が――エミティカというもう一人の候補の子だとわかりましたが、彼女の家族と、泣きながら町を去っていくんです。彼女の一家が伯父に脅され、神殿歌姫候補を辞退させられた後、彼女の家の近所の人や親戚から、神殿の意向に従わないなんて不敬だ、と責めたてられて町にいられなくなり、彼女の母親の伯母がいる街に去っていくところだったんです。彼女は、小さな弟を守りたかったから、伯父の脅迫に屈した。伯父はその子に危害を加えるとほのめかして――セアラーナのことも夢に見ました。彼女のためにその両親と彼女の弟は、セレイアフォロスに一時身を隠さなければならなかったことも。わたしは伯父がそんなことまでしていたのかと初めて知って、目が覚めて震えたのです〉 「あなたは『夢見』なのね」レイニは少女の言葉を伝えた後、そう付け加え、 「ああ、たしかにラリアの能力の一つだったな、それは」と、ブルーも頷いていた。 「夢見って?」リセラが代表して、問いかける。 「普通では見えないこと、知覚できないことを、夢を通して知る力よ。未来を知る夢見と、過去を知る夢見の二種類があるけれど、アマリラさんは後者ね」 「ラリアのうち、未来を知る夢見が、一番価値があって稀、と言われているがな」 「でも、過去の事象でも、夢見は比較的貴重よ」 「まあ、それはそうだ」  水のエレメントの民であるブルーと、半分その血を引くレイニは、水と氷の国独特の、その現象に詳しいようだ。一行は頷き、続きを促すように少女を見た。 〈だけどわたしにとって、伯父は怖い存在でした。なかなか言葉で抗議できなかった。そんなことはやめてって言いたかったけれど。わたしは、そこまでして神殿歌姫になりたくない、と思いました。だったら、わたしが辞退すればいい。そうすれば伯父は、無理に他の候補たちを脅したりしない。エミティカはもうすでに証を返してしまったから間に合わないけれど、セアラーナはまだ辞退していないのだし、と。でも姉を通じて父と母に言ったら、二人とも真っ白になりました。辞退するのだけは絶対にやめてくれ。そんなことをしたら、自分たちはこの町にいられない、それに、伯父たちにひどい目にあってしまうと。それでわたしも、また考えてしまったのです。辞退ができそうにないなら、どうしたらいいだろうかと悩みました。どうしたら伯父たちに、セアラーナの妨害をさせずに済むだろうかと。でも、わたしにできることは何もないような気がして、気分がふさぎました。伯父たちがさせる練習にもなかなか身が入らず、怒られっぱなしで……それでお昼過ぎになって、耐えられなくなってわたし、思わず逃げ出してしまったんです〉 「それで、俺たちに行き当たったわけか」そこでフレイが声を上げた。 〈はい。伯父たちに見つからずに逃げられたと思ったのですが、伯父の言いつけで、ここでセアラーナを探している人に見られてしまったようです。その人が伯父に通信鳥を飛ばしながら、方向転換して追いかけてこようとしたので、わたしはとっさに水に潜り、その人も水に潜ったのを感じたところで歩道に出て、ひたすら走ったのです。そこでみなさんに会って……〉  セアラーナの方は目を見開いて、耳を傾けているようだった。 〈あなたが真実を語っていることはわかったわ、アマリラ〉  彼女は手を伸ばし、相手に触れた。相手は見つめ返した。 〈わたしを許してくれる、セアラーナ?〉 〈わたしはもともと、あなた本人には怒っていないわ、アマリラ。あなたがわたしたちのことを伯父さんに告げたことで、少し怒っていた部分もあったけれど、話を聞いて理解できたから、大丈夫よ〉 〈よかった〉もう一人の少女の顔に、笑みが広がっていった。 「すべては、あんたの伯父さんが悪いということだな」  ブルーは頭を振り、新しく来た少女の方に向き直った。 「神聖なる巫女様の歌姫を決めるのに、私利私欲で首を突っ込むとは、罪深い野郎だ」 「アンリールにも悪い奴がいるんだな。タンディファーガよりはましだが」  フレイも苦い顔をして、首を振っている。フェイカンのそのならず者一家は、火の神殿によって滅ぼされたのだが。 「セアラーナは巫女様にお目通りする時まで、俺たちが守っているから大丈夫だ。あと二日で、俺たちは彼女を連れてローリアルネに行く」  ディーの言葉をレイニが伝えると、アマリラはほっとしたような表情を見せた。 「それで、あんたはどうする?」続けて、ディーは問いかける。 〈えっ?〉 「伯父の元へ戻るか?」  その言葉をレイニが告げると、少女の眼に恐怖が浮かんだ。 「帰ればそれはそれで、大変だろうな。あんたは大事な神殿歌姫候補だから、お目通りに障るほど、ひどい目には合わないだろうが……」 「あなたもここにいたら? お目通りの日まで。みんなで一緒にローリアルネに行けばいいわ」  ディーの言葉を受けて、リセラが声を上げた。  その言葉をレイニ経由で知ると、アマリラはぱっと表情を輝かせたが、すぐに曇った。 〈ああ。そうしたいのですが、父母と姉が心配です〉 「あなたが行方不明になって、心配しているでしょうしね」 「伯父さんも怒っているだろうしね」 「ああ、八つ当たりというか、あんたの親御さんを責め立てるかもなあ」  ロージアとアンバーの言葉を受けて、フレイも額にしわを寄せている。  一行はしばらく、沈黙した。 〈やっぱりわたし、帰ります。みなさんにはご迷惑をかけて、すみませんでした〉  白くなった顔のまま、アマリラが立ち上がった。セアラーナが彼女の競争相手を、心配げな表情で眺める。他のみなも、同じようだった。 「それでは、ご両親に連絡したらどうだ? 連絡鳥を飛ばして。少し伯父さんから離れたかったので、ここにいる。神殿へはここから、セアラーナと二人一緒に行く予定だと」  ディーの言葉の意味が分かると、少女の頬に血の色――ここでは青だが――が上った。 〈そんな……そんなことをしたら〉 「恐れることはないはずだ。あんたの伯父さんがここへ来たとしても、悪いことは起こらないだろう」 〈ええ、きっと大丈夫〉  ディーの言葉をレイニが伝えると、セアラーナも頷き、両手を前に合わせた。 〈大丈夫です。わたしには、わかる。きっといい結果になる〉 〈あなたの力がそう告げるの、セアラーナ?〉 〈ええ。きっと大丈夫。それにこの人もきっと、わたしと同じ力を持っている。いいえ、もっと大きな〉  最初に行動を共にしていたラリアの少女は、ディーを見やった。 「ディーの場合は、エフィオンなんだがな。まあ、似たようなものか」  レイニに言葉を通訳してもらった後、フレイがにやっと笑い、 「エフィオンは水の民にはいないから、彼女たちにはわからないだろうな。そのかわりがラリアなんだが」と、ブルーが表情を変えずに付け加える。  宿の主人に通信鳥を頼み、アマリラが両親に向けてそれを飛ばしたその夜、七、八人ほどの男たちが宿にやってきた。宿の主人が止めるのを振り切り、まっすぐに部屋に来て、扉を激しく叩く。 「開けろ! アマリラ! そこにいるのはわかっているんだぞ! 早くうちへ帰れ!」  本来は男女部屋が別だが、追手の到来を予期していたので、みな一つの部屋に待機していた。ディーが立ち上がり、扉を開けた。 「騒々しいな。なんだ? まわりには、もう寝ている奴もいるんだぞ」  扉の外には、背が高く、同じように横幅も広い、中年を過ぎた年配の男が立っていた。飾りのついた白と青のストライプのシャツに、青いズボンをはき、短く刈り込んだ髪も青い。男は激昂しているようだった。その眼は吊り上がり、厚い唇の端から泡を吹いている。  男はディーの風貌に驚いたようだったが、すぐに激しく言った。 「私の姪がここにいるはずだ。隠し立てはするな。すぐに返してもらおう!」 「おまえはあの時の、ディルトの一人だな!」  その後ろにいた、見覚えのある男が声を上げた。 「おまえは嘘を教えたな!? なぜアマリラお嬢さんを連れ去った?!」 「彼女が逃がしてくれと頼んだからだ」 「嘘をつけ! 彼女はラリアだ。言葉がわかるわけがない!」 「言葉はなくとも、様子でわかる。それで事情がわからないながら、ここに連れてきた。ここへ来て、アマリラが説明してくれた」 「だから嘘をつくな。彼女はラリアだ」 「うちにもミヴェルト持ちがいるんだ。まあ、いい。入ってくれ。ただし、彼女を返すつもりはない」 「なんだと?」  男たちは激しく声を上げた。中心である年輩の男が、唸るように付け加える 「ふざけるな。姪を連れ去ったかどで、治安兵に逮捕されたいのか?」 「彼女の意思だ。それは証明できる。それに、あんたたちが神聖な神殿歌姫を選ぶのに首を突っ込んで、対抗相手を脅したと知られてもいいのか?」  ディーは扉を開けたまま、部屋の中に引き返し、少女たちの間に立った。他の仲間たちもセアラーナとアマリラ、二人の少女をかばうように取り囲む。 「なっ」  部屋になだれ込んできた男たちは、言葉を失ったようだ。やがて再び、中心の男がうなるように声を上げた。 「セアラーナ・ヴェステ――おまえもここにいたのか?」 「彼女を先に保護していたんだ。時期が来たら、ローリアルネの神殿に連れていくつもりだった。そして今日、あんたの姪を保護した。彼女は二人で一緒に行きたいと言っている」 「ふざけるな!!」  男の顔は、真っ青に染まった。つかつかと大股に踏み込むと、姪の手を乱暴につかんだ。 「帰るぞ、アマリラ! おまえは気が違ったんだ! 帰らないと、おまえの両親と姉がひどい目にあうぞ! それにセアラーナ! おまえには辞退しろと言ったはずだ! まだ出る気なら、セレイアフォロスにいるおまえの家族に、刺客を送ってやるぞ! 逃げられると思うなよ!」  二人の少女は色を失い、震えはじめた。 「脅迫するなんて、最低な奴だな。神聖な神殿歌姫を選ぶというのに」  ブルーが吐き出すように言う。男はそちらへ軽蔑に満ちた目を向けた。 「ほう。疵人ごときが神聖だなんだというのは、ちゃんちゃらおかしい」 「でもブルーが正しいわ。あなたは間違っている! それは誰が見てもそうよ」  ロージアがかすかに頬を銀色がった緑に染めながら、鋭く言った。 「そう。ロージアの言うとおりだわ。脅迫するなんて最低!」  リセラも頬の色を濃くしながら、言いつのる。 「何とでも言え! おまえらには関係のないことだ! アマリラ! 帰るぞ!」  男は少女の腕をグイっと引っ張った。  その時、少女の服の内側から、淡く青い光が湧き出てきた。同時にセアラーナの胸元からも、同じような光があふれてくる。その光が二人の少女たちを包むと、その腕をつかんでいた男が、はじかれたように後方に飛ばされた。同時に、二人の少女の表情が変化した。目を見開き、放心したような顔のまま、その唇から同時に言葉が漏れた。それは異言ではなく、はっきりとした言葉だった。 「不敬もの! 去れ! これ以上、関わるでない!」  その口調には、聞き覚えがあった。まだ水の巫女には会ったことがないが、他の神殿の巫女と同じように、平板な口調。ただ、巫女とは違って、こだまするような響きはない。  アマリラの服の光源から、一筋の青い光が走った。それは伯父の腕に当たり、そこに赤い刻印を残した。ブルーの腕に刻まれているのと同じ、『疵人』の刻印だ。 「ひ……精霊様が、お怒りになっておられる……」  追手の男たちが、詰まったような声を上げた。そして我先にと踵を返し、走って部屋を出て行く。最後に残ったアマリラの伯父は、茫然とした表情で腕の筋を見つめた。 「は、あんたも俺と同じになったな。どうするよ。もうここでは、ろくな扱いは期待できないぞ」ブルーが乾いた声を出した。  男は真っ白な顔になり、わなわなと震え出した。 「あんたが威張ったって、もうあんたに従うものは誰もいない。今頃あんたの財産も神殿に没収されているだろうよ。幸い俺は、まだ半人前だったから、没収されるものもほとんどなかったがな。技もほとんど使えなくなる。俺に残ったのは、水防御と水耐性だけだったからな」 「神殿に逆らった時点で、こうなることは予期しておくべきだったな」  ブルーに続いて、ディーも平板な声でそう告げた。 「わ、私は神殿に逆らった覚えは……」 「大ありじゃないよ。本来は公正に選ばれるべきものを、捻じ曲げようとしたんだから」  リセラが髪を振って、相手に目を向けた。  アマリラとセアラーナ、二人の少女は普通の様子に戻り、驚いたように男に目を向けている。ディーはその二人の間に立ち、言葉を放った。 「さあ、精霊様は去れと仰った。立ち去ってもらおうか。二人は我々が、神殿に連れていく。もうあんたが首を突っ込むことは許されないんだ。アマリラの家族をひどい目に合わせることも、セアラーナの家族のもとに刺客を送ることも、もうできない。あんたは最下層になってしまったし、その権力もない。さらに、そんなことをしたら、ますます精霊様のご意志に背くことになるだろう。その勇気が、あんたにあるか?」  男は真っ白な顔になり、激しく震えたまま、ふらふらと踵を返して、部屋の外へと出て行った。ディーと数人はその後ろ姿を見送り、扉を閉めた。 「大丈夫って言ったのは、こういうことだったのね」  再び部屋の中で、リセラがそう声を上げた。 「具体的に、ここまでわかったわけじゃないがな、俺は」  ディーが苦笑いを浮かべ、その言葉を伝えられたセアラーナも首を振った。 〈ええ。わたしもはっきりとはわかりませんでした。でもきっと、大丈夫だと〉 「ラリアって、精霊様の言葉も伝えられるの?」 「精霊様から頂いた証は、手をかざすとそのエレメントに人は、言葉が読み取れるでしょ。フェイカンでも、通行証に手をかざした人々がおののいたように。ラリアは、それを言葉にできるのよ」  リセラの問いかけに、レイニが答える。 「そうなのか」フレイも頷くと、ふと思い出したように問いかけた。 「そう言えば、ブルー。おまえいつもその疵人の印を服で隠しているが、あの男はそれがわかるのか? アンリールの門番もそうだったし」 「アンリールの民には、服に隠れていても見えるんだよ」  ブルーは苦いものを噛むような表情をし、付け加えた。 「だから、あいつもこれから大変だろうな」と。  二人の少女の服の胸元が、再び青く光った。二人はそれを取り出し、そして告げた。 〈精霊様が仰っています。神殿へは、ディルトのみなさまも、いらして大丈夫だと。疵人の方はダメだそうですが〉 「そうなのか……俺たちも、行っていいわけか」  ディーはため息を吐くように言い、 「神殿歌姫の歌って、聞きたかったからうれしいわ。あ、でも……」  リセラは一瞬表情を輝かせたのち、当惑したような表情でブルーを見た。 「まあ、俺は神殿に入れないのは、わかっていたからな」  ブルーは表情を変えず、ただ下を見て、ぼそっと言った。 「それじゃ、俺もおまえに付き合って残ってやるよ」  フレイがその肩に手を回した。ブルーは驚いたように相手を見た。 「同情はいらねえよ、特におまえのはな」 「なんだと? おまえが一人宿屋にくすぶっていたいなら、それでもかまわないがな。同情じゃねえ。俺は何となく、水の神殿と言うのは居心地が悪いだろうと思うだけだ」 「ふん。火の民にはそうかもしれないな。水が至る所に流れているからな」 「じゃ。僕も残ろうか?」アンバーがそこで言いだした。 「おまえは関係なくないか? 火も水も。それに、神殿嫌いじゃないだろう?」 「でも二人で残すと、喧嘩を始めるかもしれないし、誰か止める役がいないとね」  驚いたように言うフレイに、アンバーは目をくるくるっとさせて笑った。 「それに僕も、もう少しこれをやりたいから」  そう言って、手元の装置を見下ろす。それは彼の父親が残したもので、すべての課題を解くとメッセージが現れるものだ。 「けっこう進んだんだな」  フレイがその画面をのぞき込んでいた。残り四分の一くらいになっている。 「暇な時が多かったからね」 「それでは、私も残ろうか。いつも留守番をしていたし」 「おいらも残るよ。用心棒に」  ブランとペブルもそう提案した。 「それなら、おまえたち五人はここに残るか? ブルーはローリアルネには、行きたくないのだろうし。俺たちは向こうで用が終わったら、ここに戻ってくるから」  ディーの言葉に、ロージアが微笑んで立ち上がった。 「それでは明日から一部屋だけ、五日分延長してもらってくるわ。ペブル、一緒に来てね」  翌朝、宿にアマリラの家族が訪ねてきた。両親は背が高い細身の中年男性と、小柄な中年女性で、母親の方は腕に青い布の包みを抱えている。姉の方はすらりとした身体を青いブラウスとスカートに包み、長い青い髪を後ろで一つにまとめていた。 「本当に、ありがとうございました」  三人は深々と頭を下げた。そして母親の方が、娘に包みを渡す。 「がんばってね、アマリラ。これは、巫女様の前で着るドレスよ」 〈ありがとう〉  娘はそれを受け取り、一瞬嬉しそうな笑顔になった後、もう一人の少女に目を向けた。母親も同じようにし、そして再び三人は頭を下げた。 「あなたがセアラーナさんですね。本当に、兄がいろいろとご迷惑、ご心痛をかけてしまって、申し訳ありません。あなたのご家族は、セレイアフォロスへ逃れられたと聞きましたが、あなたはドレスをお持ちですか?」 〈用意はしてくれました。大丈夫です。ここに逃げてくる途中で隠したのですが、みなさんが取ってきてくれました。心配しないでください〉  ミヴェルト持ちであるアマリラの姉が軽く手を触れてその言葉を聞き取ったので、伝えると、両親は安堵の表情を浮かべていた。 「それでは、あなたも頑張ってくださいね、セアラーナさん。どんな結果になっても、私たちは満足です。兄もおとなしくなりましたし」  アマリラの母親は、最後は苦笑に近い表情を浮かべていた。 「あの伯父さんはどうなったんですか?」リセラが問いかける。 「人が変わったようにふさぎ込んでいます。家も財産も神殿に没収されたので、今は私たちの家の離れに泊まっていますが、あの威圧的だった兄が信じられないほど、へりくだってしまって――やったことは本当に悪かったですが、私にとっては兄には違いありませんし、ああなってみると、少しかわいそうにもなりました」  母親は当惑したような笑みを浮かべていた。 「だからあの人も、仮におまえが選ばれなくとも、もう昔のようにひどいことはできないから、安心して、アマリラ」  彼女の姉が妹の気を引き立てるように笑いかけ、アマリラの方も笑みを浮かべていた。  そのお昼過ぎに、留守番の五人を残して、一行はアンリールの首都、ローリアルネへ向けて旅立った。セアラーナはもう座席の下に隠れることはなく、アマリラと並んで、後部座席にいる。ブルーは宿に残してきたので、指示席にはレイニが座っていた。それゆえ、二人のラリアの少女たちの言うことは、周りの人にはわからないが、お互いの言葉は通じるようで、二人で時々何事か話を交わし、時には笑っている。その両横にはサンディとミレアが、前にはロージアとリセラが、ディーを真ん中にして座っていた。彼は「あの五人が留守番に残ると、男は俺だけか」と、少し居心地が悪そうな表情をしていたが。 「あなたはリーダーだから、来てくれないと困るわよ」  リセラが陽気な調子で笑い、 「女だけでは、心細いしね」と、ロージアも笑いを含んで言う。  三頭の駆動生物に引かれ、車は水の道を進んでいった。  アンリールの首都ローリアルネは、円形に広がる町の周りを壁に囲まれ、他の国の都と同じように、その門のところには二人の門番がいた。セアラーナとアマリラがそれぞれの証を見せると、「話はきいている。この道をまっすぐに進むと、神殿に行きつく」と、行く手を指さしていた。その先には広い水路がまっすぐに伸び、周りには様々な建物が並ぶ。遠くに神殿の建物がうっすらと見えた。  やがて車が神殿の門に着くと、再び門番たちが証を確かめ、一行を中に招き入れた。 「車と駆動生物は、この小屋の中に入れておいてくれ。中から迎えのものが来るから、それまで待っていてくれ」と。  水の神殿は、作りそのものは今まで訪れた三つの国のものと、ほとんど変わらないようだった。それまでの三つの神殿は四角い建物だったが、アンリールの神殿は円形である以外は。建材は青みがかった水色の石のようで、丸く太い柱がいくつも立ち、門の両側のものは、ひときわ太い。柱にも建物の壁にも、一面に細かい縦の線が模様のように刻まれ、上部には渦を巻いたような浮き彫り装飾が施されている。その中にいくつも青い稀石が飾られ、建物の屋根から壁に沿うように、薄い水が皮膜のように流れていた。その水が陽の光に反射し、微かにきらめいている。  やがて中から、青い衣装に身を包んだ四人の神官が現れた。 「歌姫候補の二人はこちらへ。これから清めの儀式がありますから」  二人がそれぞれセアラーナとアマリラの手を取って、建物の中へと導いた。残りの二人は、ディーたち六人に目をやる。 「君たちは精霊様が立ち合いを認められたから、この中に入ってもいいが、その前にこれを着てくれ」  一人が腕に抱えた包みを、レイニ以外の五人に次々と手渡していく。それは長く青い上着だった。それぞれにサイズが違うようで、着ている服の上からはおると、袖は手首まで届き、その裾はふくらはぎの下あたりまで垂れた。 「服に付属している布をかぶってくれ」と、神官に言われ、レイニを除く五人が、襟のところについている袋のようなものを、頭にすっぽりとかぶった。 「では一人ずつ、この器の中の水に手を浸し、顔を洗い、それから中に入ってくれ」  門の脇には、装飾のついた、大きな半円形の器があった。その中には透明な水がたたえられている。そこに手を入れ、その水をすくって顔にかけてから、中に入る。 「アンリールの神殿では、みんなこうしているのか?」  問いかけたディーに、神官の一人は頷いた。 「清めをしてから、中に入るのは、みな同じだ。服装は自由だが。ただ、ここに水の民の血を引かない者たちが入るのは初めてなので、特別な服を着てもらっている。これは一度聖なる水に浸し、聖別を済ませたものだ」  案内され、踏み入れた先は、礼拝の広間だった。これまで三つの神殿で訪れたものと、つくり自体は変わらない。広間も円形である以外は。壁は外壁と同じような細かい縦筋模様で、その間に渦巻き模様の浮き彫り部分が規則的に入り、幾多の稀石が青い輝きを放っている。その表面はやはり外側と同じように、薄く水が流れていた。その水の膜を通して、埋め込まれた稀石が、たくさんの青い星がきらめくように光る。かつて、ブルーが魅せられ、通っていたというその光景だ。広間の真ん中は、広い円形の池のようになっていた。大人の膝丈くらいの高さの壁と、稀石をはめこんだ、渦巻き模様の装飾を施した縁――大人の手のひらくらいの幅のそれにぐるりと囲まれ、その中には澄んだ水が、中心には高く吹きあがる水があった。 「これがアンリールのご神体ね。枯れることのない水。聖なる水――」  レイニがそっと縁に手を触れ、ささやくように言った。 「あ、他のものは手を触れないように。あなたはいいが」  その動作を見て、神官の一人が手で制した。  手を伸ばしかけていたリセラは、ロージアと顔を見合わせ、ついでサンディ、ミレアと眼を映してから、ディーを見た。 「ご神体を収めた器に、よそ者は手を触れてはならないのだろうさ」  ディーは微かに首をすくめ、眉を上げた。  池の縁からは水があふれ、床を濡らして、流れを作っている。足元に目を落とし、リセラは小さく笑った。 「たしかにね、これはフレイが嫌がるかもね」 「本当だな。ブルーがここに入れない以上、留守番仲間がいてよかった――五人も残るとは、予想外だったが」  六人は案内の神官に導かれ、奥の扉を抜けて控えの間に通された。 「神殿歌姫の選出は、神聖なる儀式だ。本来は君たちのような部外者が立ち合いを許されるものではないのだが、精霊様のお告げゆえ、致し方ない。粗相のないようにしてくれ」 「今までに三人の巫女様にお会いしましたので、そのあたりは心得ております」  ディーが頭を下げ、女性たちもそれに習った。神官は一行を眺めた後、扉を開けた。 「では、ここでしばらくお待ちいただきたい。あと半カーロンほどで、選出が始まる」  やがて時間より少し遅れて、今までの神官たちよりひときわ重厚な、光沢のある青い衣装に身を包んだ人が、部屋を訪れた。その衣装に、ディーたち六人は見覚えがあった。色こそ違え、今までの三つの国で神官長が着ていたもの――アーセタイルのマナセル神官長、ロッカデールのダンバーディオ神官長、そしてフェイカンのサヴェルガ神官長の衣装を、青くしたようだ。手にした錫杖も、はまっている稀石の色と、金か銀かの違い以外同じだ。その人はまだ若い、とはいっても大人の年齢の男のようで、少しうねった青い髪を肩まで伸ばし、青い眉毛の下の眼も深い青だった。ひげはなく、肉感的な唇の口角は少し上がっている。 「私はここアンリールの神官長、テェリス‐ロイだ。よろしく」  その男はそう名乗った。一行は、少し驚いて頭を下げた。 「神官長様がお越しになるとは、思いませんでした」  ディーが率直に言い、ついでリセラがさらに率直な言葉を継ぐ。 「それに、とてもお若いですね」と。 「失礼よ、リル」と、ロージアが少し慌てたように小突き、 「あ、すみません。失礼をするつもりはないんです」と、リセラは頬をピンクにして、謝っている。 「構わない。私は、去年選ばれたばかりだ。八つの国の神官長の中では、一番若い。その次が、フェイカンのライシャ・サヴェルガ。君たちは彼女にも会ったことがあるんだったな。私は彼女より二歳若い」  テェリス‐ロイ神官長は微かに笑った。 「お会いになったことがあるのですか、サヴェルガ神官長様とは」  リセラは少し驚いたように問い返す。 「神官長様に選ばれる方は、心的素養が高い。それに精霊様のお力も加わって、他の国のこともわかるんだ。精霊様同士が通じ合っておられるように」  ディーが小声でそう説明していた。  テェリス‐ロイ神官長は再びかすかに笑った。 「ミディアル育ちでは、わかりづらいことかもしれないな」  そして半ば身をひるがえしながら、言葉を継いだ。 「ついてきてくれ。巫女様は君たちにも興味をお持ちのようで、頼みたいことがある、と仰っていた」 「あ、またこの展開」とリセラが小声で呟き、ついで「痛い」と声を上げた。ロージアが足を蹴飛ばしたからである。レイニは微かに笑いをかみ殺した表情をし、サンディとミレアの二人の少女も、顔を見合わせて小さく笑みを交わしている。 「そう。君たちにとっては、何度か経験したことだろう」  若い神官長は振り向き、苦笑に近い表情を作った。 「今までに君たちがアーセタイルやロッカデール、フェイカンで神殿のための仕事をしたことは知っている。ここアンリールでは、それほど困ったことが起きているわけではない。今のところは。ただ、将来の憂いを除くために、君たちにやってほしいことがある、と巫女様は言われる。それは歌姫の選出が終わった後に、告げられるだろう」  一行六人は、巫女の間に通された。 「選出の間、君たちはそこの椅子に座って、静かに見ていてくれ」  神官長は壁際の椅子を指し示し、六人がそこに腰を下ろすのを見てから、中央に据えられた巫女の椅子の横、少し離れた場所に、片膝をついた姿勢を取った。その顔は巫女の座に向けられている。  距離は少しあるが、六人にも水の巫女の姿が見えた。七、八歳くらいの年頃の少女で、まっすぐな青く長い髪を背中にたらし、見開いた青い瞳は少し紗がかったようになっている。今までに見た三人と同じように。巫女は精霊に身体を支配されていて、本人の意識はない。瞬きをしないため、精霊が離れた後の巫女は目が見えなくなってしまう――ロージアがかつてそう説明していた。一度だけ、巫女が瞬きをしたのを見たが。ロッカデールの岩の巫女が、『これからこの世界は、変わっていくやもしれぬ』と言う前に。  巫女の座から少しだけ離れた場所に、セアラーナとアマリラがひざまずいていた。二人とも、この日のためにと親が用意したというドレスに身を包んで。セアラーナのドレスは少し生地の薄い布で仕立てられた、ふわふわと軽やかな印象で、アマリラのものはなめらかな生地の、流れるような線が美しい。 「ではひとりずつ、歌ってもらおう。まずはアマリラ・ファル・ライレイン。君から」  巫女のそばに控えた神官長がそう告げると、アマリラが一礼して、立ち上がった。一息吸い込むと、両手を前に組み、歌いだす。それは言葉のない歌だった。高く、時には低く、その声は柔らかな雨のように、包み込むように、穏やかに響く。その声が四方の水の壁に反響して、無数の震えるこだまになって返ってくる。立ち合いを許され、聞いている六人も、一斉に小さく身を震わせていた。  歌が終わると、アマリラはひざまずいた姿勢に戻った。神官長は頷き、「では、次。セアラーナ・カロラ・ヴェステ。君の番だ」と告げる。セアラーナが同じく一礼して立ち上がり、同じように歌いだす。旋律は先ほどのアマリラが歌ったものと、同じようだった。ただ、声質は違う。セアラーナの声は、澄み切った水の流れを感じさせた。すべてを洗い流すような。その声もまた周囲の水の壁に反響し、不思議なこだまとなって返る。同じくその声は、聴いているディーたち六人に、再び震えを走らせるものだった。 「ふむ」  二人の少女が元の姿勢に帰ると、巫女が口を開いた。 「どちらも良かった。それぞれに違う味わいがある」  そう言って、沈黙する。その間は、待っている二人の少女には恐ろしく長く思えただろう。実際に普段より長い沈黙があったようで、テェリス‐ロイ神官長が少し気づかわしげな表情で、巫女を見やっていた。巫女は神官長の方に少し顔を向け、二人の目が合った。若者は頷いた。 「精霊様は迷っておられるようだ。どちらも良いが、どちらがどちらより優れているというわけではない。ただ、少し異なる。それだけの違いだ。だが、どちらともに、精霊様が求めておられるものに、少しだけ足りないと」  二人の少女は当惑気味に顔を見合わせていた。 「そうだわ……」  その時、壁際の椅子に座って見ていたリセラが小さく言った。 「何?」レイニがささやき返す。 「し、静かにしていないとだめよ」ロージアが低く制した。  若き神官長が目を向けた。三人の女性たちは慌てて、「も、申し訳ありません」と謝る。 「何を言いかけたのだ?」 「あ、いえ、あの」リセラは頬をピンクにしながら答えた。 「ふと思ったのです。二人の声は違うから、一緒に歌えば素敵な調和が生まれるかもしれないって」 「ああ、それはあるかもね」とロージアも呟き、そして慌てて「も、申し訳ありません」と、頬を染めながら付け加えている。 「彼女たちも歌を歌っているのです。これとは全く違う俗謡ですが。三人で歌うこともあるので、そういう発想に至ったのでしょう。神聖なこの場にそぐわない発言をしたのだとしたら、お許しください」  ディーがみなを代表するように、頭を下げた。 「いや、よい」  そう声を発したのは、神官長ではなく、水の巫女だった。 「やってみよ」  そう言って、再び少女たちに目を向ける。  二人の少女、アマリラとセアラーナは戸惑ったような表情を浮かべた後、立ち上がった。顔を見合わせ、頷いたあと再び正面を向き、歌い始める。  二人それぞれの声も素晴らしかったが、合わさるとそれは荘厳な美しさと清らかさ、そして優しさを一緒にしたような、すべてを震わせるような響きが生まれた。ディーやリセラ、ロージア、レイニ、そしてサンディやミレアも、さっきよりも激しい、畏怖にも似た震えが全身を走るのを感じた。テェリス‐ロイ神官長さえ、驚いたような表情を浮かべている。  巫女の表情も変化した。決して閉じないと言われた眼を閉じ、頭を微かに傾けて、聞き入っているかのように。  歌が終わると、水の巫女は再び目を開いた。そして告げた。 「素晴らしい。これぞ、求めていたものだ」  一呼吸おいて、テェリス‐ロイ神官長が頷き、告げた。 「アマリラ・ファル・ライレイン、セアラーナ・カロラ・ヴェステ――二人ともに、神殿歌姫を務めてもらおう。おまえたちは、二人で一人だ。それゆえ、報酬の方も完全ではなく、そうだな――半分にするのは忍びないので、一人につき満額の六割と五分、それが報酬となる」 〈はい! 光栄です〉  二人はラリア(異言持ち)なので、その言葉はミヴェルト使いにしかわからないが、それにその技を持つレイニも、今は二人に触れていないので、わからないはずだが、その意味が頭の中に響くように、見ている六人にも伝わったようだ。精霊や、その意思を通じる神官長にも、もちろん伝わっているのだろう。二人の少女の喜びも。アマリラとセアラーナは表情を輝かせ、お互いに抱き合い、手を打ち合っていた。  巫女は頷き、手にした錫杖を振った。この錫杖の先には、大きな水球に見えるものがついている。微かに音が鳴り、それを合図に一行は巫女の間を退去した。 「それでは二人を、歌姫の間へ案内しよう。おまえたちはこれからそこで暮らすことになる。おまえたちが声をなくすまで、そうだな、三年ほどになるだろう。そののちは、神殿から余生を過ごす住居が供給され、手当ても与えられる。おまえたちの家族のもとへも、報酬を届けよう」  巫女の間を出ると、テェリス‐ロイ神官長は少女たちに向き直った。 〈神官長様、わたしの家族は今、セレイアフォロスにいます。知らせを飛ばしてもよろしいでしょうか〉  セアラーナがそう訴え出ていた。この言葉も不思議なことに、意味だけはみなにわかった。 「そうだったな。元の住居に呼び寄せるがよい」 〈はい、ありがとうございます。それと、報酬なのですが――わたしは彼らに助けてもらった時、神殿歌姫になれたならば、お礼をすると約束したのです。ですから最初の報酬、わたしたちの場合は普通の六割五分だそうですから、その三分の一を彼らに渡していただけないでしょうか〉 「ふむ。わかった。一万二千ロナほどになるな」 「一万二千ロナ――?」  レイニとロージアが同時に小さな声を上げた。ロナはここアンリールの通貨であるが、通貨単位が違うだけで、どの国も価値は変わらない。それはフェイカンでもらった報酬の三倍近い額だった。 「六割五分の三分の一で一万二千ロナって――神殿歌姫の報酬は、本当にすごいのね」  ロージアが感嘆したように呟く。 「年間でのものだ。努めてもらっている間は、この報酬だ。退いた後は十分の一になる」 「それでも、相当なものね」 「じゃあ、アマリラの伯父さんが狂気にかられたのも、なんとなくわかる気がするわ。共感は決してしないけれど」  神官長の説明に、ロージアとリセラがそう言いあっている。 「いや、そんなにはいらない。その半分で十分だ」  ディーは微かに苦笑を浮かべて首を振る。 〈いえ、あなた方がいなければ、わたしは神殿歌姫には決してなれなかったでしょうから、受け取ってください〉  セアラーナが訴える。その意味も、即座に頭に入ってきた。 「レイニがミヴェルトを使っていないのに、なぜあたしたちに、この子の言うことがわかるのかしら。それにディーの言うことや、あたしたちの言うことも――レイニとブルー以外は、この子に伝わらなかったのに、なぜこの子に今はわかるのかしら」  リセラの不思議そうな呟きはまた、全員の思いだったようだ。 「この神殿の、精霊様の結界の力だ。ミヴェルトなしでも、ラリアの言葉が伝わる。そして、おまえたちの言うことがラリアに伝わるのは、その衣のおかげだ。いや、それに浸み込ませた聖なる水の力だ」 「ああ――なるほど」  神官長の説明に、レイニ以外の五人は、身を包んだ青い衣装を眺めた。 〈それでは、わたしの報酬の三分の一も、彼らに上げてください〉  アマリラがそう申し出た。 〈わたしも彼らがいなければ、神殿歌姫にはなれなかったでしょうから〉 「あら、あなたはあの伯父さんが競争者を排除しようと必死になっていたから、なれたんじゃないの?」  ロージアが不思議そうに少女を見た。 〈いえ、伯父の所業は、いずれ精霊様のお知りになるところだったと思います。遅かれ早かれ、あの時は訪れたのだろうと。それだから、わたしにはきっと資格がないとされるだろうと〉 「下手をすれば、神殿歌姫の選出は白紙に戻ったかもしれなかっただろう」  神官長が、重々しい表情で頷いていた。 「あのような不届きものが介入するとは、嘆かわしいことだ。それゆえ、君たちには感謝している。おかげで歌姫選出が無事にでき、あの男もあの程度の罰ですんだ。だからこそ、特例で付き添いを認めたのだ」  テェリス‐ロイは微かに笑い、六人に目をやった。 「もらっておくといい。君たちがここを去る時に、二万四千ロナと与えよう。君たちにとっては、資金はいくらあってもいいものだろう」 「ありがとうございます」  ディーは頭を下げ、他の五人もそれに倣った。  神殿の神官たちが十人ほど集まってきた。そのうちの七人が歌姫となった二人の少女につき、新たな住居へと案内する。そして残りの三人は、こちらに付き添ってきた。 「のちに巫女様よりお話があるゆえ、控えの間で待っていてくれ」  テェリス‐ロイ神官長がそう告げ、付き添いの神官たちが再び控えの前と、一行を先導していった。 「この聖水球を、大水守のウンベユーグに渡してほしい」  それが、水の巫女からの依頼だった。 「セレイアフォロスとの国境近くにある山、我が国では唯一のポロメル山の頂上に、我が水の源があり、そこを守る大水守がいる」  巫女の間から退去した後、再び控えの間で、神官長が説明を始めた。 「先日、その大水守が言ってきたのだ。水の源に微かな淀みがある、と。この聖水球を水源に投げ込めば、淀み程度なら解消できる」 「そのくらいの大きさのものならば、連絡鳥に託すことはできないのですか?」  ディーが問いかけた。神官長が持っている水球は、手のひらに乗るほどの大きさだ。 「我が国の連絡鳥は、あの山の頂の高さまで飛ぶことができないのだ」  神官長は微かに眉根を寄せた。「それに、精霊様同士のやり取りと違い、直接届けることもできない。だが君たちはフェイカンで、ミガディバ山の頂上に登ることができたと聞く」 「ああ――炎の花を取りに行った時ね」  リセラとロージアが同時に頷いた。 「あの鳥も、では火守なのですか?」  問いかけるディーに、神官長は答えた。 「そうだ。火守の一体だ。フェイカンには三つの、火の源がある。我が国には二つ。そのうちの一つが、ポロメル山の頂上にある。そこには結界があり、水の民以外が通るには、その衣が必要だ。だからその服は、返さなくともいい」 「今マーロヴィスに待機している仲間たちの力も必要と思われますが、彼らの分の衣はいただけるのでしょうか」 「用意しよう。四着で良いのだな」 「はい」 「ただし、疵人は結界を通ることはできても、山には入れない。衣を使ってもだ。それは承知しておいてくれ」 「はい。ただ、山を登るのは、翼の民の力が必要になると思います。この服に翼の穴をあけることはできますか?」 「加工か――」神官長はしばらく黙った後、再び口を開いた。 「加工に使う道具を清めの水に浸せば、可能だ。少し持ってこさせよう。ただし、その聖水も聖水球も、持つのは彼女だけだ」彼はレイニに目をやった。 「水の民以外が持つと、効力を失う。水の衣を着ていてもだ。水の民でも、疵人は論外だ。清めた後の道具なら、その者が水の衣を着ていれば、効力を失わずに使うことは可能だ」 「わかりました」ディーは頷き、ついで神官長を見た。 「報酬は、いただけるのでしょうか?」 「何が望みだ?」 「ブルーを疵人から、普通の水の民にしていただけたら、と」  少し沈黙した後、ディーは答えた。リセラ、レイニ、ロージアも一瞬驚いたような表情を見せた後、真剣に頷く。 「疵人を赦せ、か」  神官長は少し意外そうな顔をした。が、すぐに「巫女様がお呼びだ」と、席を外す。  しばらくのち戻ってきたテェリス‐ロイ神官長は、重々しい顔で頷いた。 「よかろう。その男が真に罪を悔いていたならば赦す、と巫女様は言われた。それが報酬でよいのだな?」 「はい、ありがとうございます」  翌日、一行六人はローリアルネをあとにした。行きに少女たちが座っていた席には青い衣が積まれ、指示席に座るレイニの首からは、聖水を入れた瓶と水球が入った、青い袋が下げられている。それは彼女以外が触れることを許されないが、いつも両手がふさがっていたら不自由だ、それゆえの処置だ。 「報酬としては、妙なものだったかもしれないな」  ディーは帰る道で、微かに苦笑し、首を振った。 「でもあたしも、同じ気持ちだったわ」リセラが小さく笑い、 「お金は、彼女たちからもらったしね」と、ロージアも微笑する。 「でも、これからまた一仕事だ。大変だぞ」 「ブルーのためか、なんてフレイは文句を言いそうだけれど」  そんなディーとリセラを振り返り、レイニが微笑んで言った。 「でもフレイも口では、そんなことを言うかもしれないけれど、きっと協力してくれるでしょうね」 「まあ、あの二人はいつもあんな感じだしね」と、ロージアも苦笑する。  サンディとミレアも顔を見合わせ、微笑を交わした。空は柔らかい青い色で、水面も青い。その水の道を、残りの仲間たちが待つマーロヴィスへと、六人は戻っていった。 「また仕事が増えたのか」  マーロヴィスの宿で、留守番の五人と再会し、ローリアルネでの顛末を話すと、フレイが少し顔をしかめながら、そう声を上げた。 「しかも報酬は、ブルーの罪の印を取る、か」 「いいんじゃないかな。それができれば、彼にとって幸いだろう」  ブランが穏やかに微笑みながら言い、 「セアラーナさんとアマリラさんが二人とも歌姫になれて、良かった」  アンバーが改めて、そんな感想を述べる。 「それはな。本当に。二人のためにも良かったぜ。それに、すごい報酬をもらえたしな」  フレイは笑い、そして一息ついて続けた。 「しかし、その山ってやつも、神殿と同じで、水だらけじゃないだろうな」 「この衣を着れば、それは気にならなくなるはずよ」  レイニが微笑んで言い、ついで白髪の小男を見た。 「ブラン。これに翼の穴をあけてほしいんだけれど、あなたの道具をこの聖水に浸さないといけないの」 「そう。アンバーのと、俺と、リルの分を頼む。たぶんそこはフェイカンのミガディバ山と同じで、道のない山だろう。ロッカデールでもらった道具を使うにしても、飛んでいかなければならないからな」 「わかった。道具箱を持ってこよう。それに、縄梯子も聖水に浸した方が良いのかな」 「その方が良いのかもしれないな。明日一日で準備して、明後日の朝、出発しよう」  ディーの言葉を受けて、ブランはアンリールの地図を開き、手をかざした。 「ここからポロネル山まで、かなりあるね。ここでは駆動生物は夜走ることができないし、周りは水しかないから、野営もできない。だから、次の町までに日が暮れる前に着かない場合は、そこで泊まるしかないから、五日くらいかな」 「せっかくフェイカンで簡易宿をもらったのに、使い道がないわね」リセラが苦笑し、 「ほかの国では、使えると思うけれどね」と、ロージアも頷く。 「いいのか、それで……」  黙ってうつむいていたブルーが顔を上げ、口を開いた。 「みんな、俺を助けるためにタダ働きしてくれるのか……?」 「文句があるなら、やめてもいいんだぞ」  フレイがにやっと笑った。 「文句なんか……あるわけねえ。いや、ただ……」  ブルーはみなを見回し、頭を激しく振った。そして叩きつけるように続けた。 「俺なんかのために、ありがとよ!! 本当に、言葉がねえ!」 「君ももう、罪自体は償ったんだしね」ブランが優しく言い、 「そう。本当に許されない罪もあるのかもしれないが、心から悔いていれば、償えない罪はない。俺はそう信じている」  ディーも、低い声で同意する。 「まあ、精霊様に『心から悔い改めていない』と言われないよう、頑張れよ」  フレイは再び笑い、相手の背中を叩いていた。 「ああ。そうありたいぜ」  ブルーは短く言い、下を向いた。その身体は少し震えていた。  翌日一日で、ブランは服の加工をし、他のみなは洗濯や湯あみ、必要な買い物をし、出発の準備を整えた。そして再び水の道を、北へ向かった。ポロネル山に着くまでに七つの町と村を通り、そのうちの五カ所で泊まる。最後は山から車で三カーロンほどの距離にある、小さな村だった。そこを早朝出発し、一行は山のふもとに着いた。  ポロネル山は、巨大な険しい岩山で、すべての表面に水が薄く流れ落ちていた。上る道もないし、木もない。 「これ、フェイカンの山より厳しいな。どうやって登ったらいいだろう」  アンバーが上を見上げ、大きく息を吐き出した。 「この山の結界に入るには、まずこれを着ろ」  ディーは車に積んである青い衣装の一つを、翼の民の若者に投げた。自分も、再び衣に袖を通す。リセラとロージアも、同じようにした。 「結界に入れないということは、そこから進めなくなるのか?」  問いかけるフレイに対し、ブランが首を振った。 「いや、上から水の塊が落ちてきて、流されるそうだよ。この本によると」  マーロヴィスを出る時、買ってきたポロネル山についての本を、彼は道中で読んでいたのだ。フレイはその言葉に、「それはいやだな」と、ぶるぶる身を震わせていた。 「俺は疵人だから、入れないんだな」  ブルーがうめくように言う。 「そう、今はな。だからおまえは留守番だ。ブランと、ペブルと一緒に。そうだ。サンディとミレアもここに残った方が良いな」 「またお留守番?」  ミレアが不満そうに声を上げたが、すぐに思いなおしたようだった。サンディとミレアは、危険や厳しい労力が必要な場所では、極力置いていかれる。彼女たちの非力ゆえの配慮なのだと、今はわかっていた。  アンバーは青い衣を着て付属の布を頭からかぶり、縄梯子を持って、山肌沿いに飛んでいった。服から翼が出せるように、ブランが加工ずみだ。しばらくのち、アンバーは再び地上に降りてきた。 「だめだ。これをかけられそうなところが、見つからない。木もないし、岩の突起もない。この山は、ほとんど足場になりそうなところすらないよ」 「それは弱ったな」ディーは困惑顔になり、 「せっかくこれも聖水に漬けたのにね」と、ロージアも残念そうに首を振る。 「それじゃ、どうやって登ったらいいかしら」  リセラが当惑気味に声を上げ、みなは一斉に上を見上げた。なめらかな山肌に、薄い水が流れ落ちていて、つるりとした印象の山は、フェイカンのミガディバ山よりも険しさはないが、それ以上に登るものを拒んでいるように思われた。 「さすがにアンバーでも、山頂まで一気には飛べないだろうしな」フレイが苦笑した。 「無理だよ。仮にできても、僕一人じゃ意味がないと思う。その聖水珠は、レイニしか持てないんだから」 「山のてっぺんから垂らすにしても、梯子もそれだけの長さはないしねぇ」  リセラも首を振る。 「仕方がない。こうなったら三人で行こう」  しばらく何かを考えていたらしいディーが、そう口を開いた。 「三人って、誰?」 「レイニとアンバーと俺だ。レイニが山頂に行けなければ意味がないから、彼女は外せない。彼女を俺とアンバーで連れていく。飛んで、足場になりそうなところが少しでもあったら、そこで一度止まり、そこから上がって、山頂を目指す。うまくいけば二、三回で着けるはずだ」 「だったら、あたしも行くわ。運ぶ人数は多いほどいいんじゃないかしら」 「それも考えたが、リル、おまえの飛行能力の限界は少し低いから、上手く足場まで渡れないかもしれない。本来はアンバーとレイニだけの方が自由は効くのかもしれないが、何かあるといけないから、俺も行く。でも、おまえは残れ」 「ああ、そうね……かえって足手まといだわね」 「気を悪くしないでくれ」 「大丈夫」リセラは微かに笑い、小さく首をすくめた。 「じゃあ、八人で留守番か。気をつけて行けよ」フレイが声をかけ、 「二人ともポプルをちゃんと持っていってね。途中でレラが足りなくなると困るから」  ロージアが二人の飛行能力を支えるエレメントのポプルを手渡していた。  アンバーとディーは両側からレイニの身体を支え、山沿いに飛び出した。そして山の三分の一を過ぎたほどの高さで、小さな突起を見つけた。 「これは一人分しか、足をかけられないね。それも片足だ」 「ああ。もう片方の足は山肌につけないといけないな。もう少し飛べるか、アンバー」 「ああ、僕はたぶん大丈夫」 「じゃあ、おまえはもう少し上に行って、別の足場を探してくれ。俺はここで一度止まる。その方が良いだろう。それでここから、おまえたちの足場まで飛ぶ」 「わかった。じゃあ、先に行くよ」  アンバーはレイニを抱え、もう少し上まで上がっていった。そして小さな突起を見つけ、そこに辛うじて足をかける。突起は不規則に三つで、レイニも片足をかけて、片方の手で翼の民の若者の手を握っていた。そこにディーが飛んできた。 「じゃあ、僕らはまたここから飛ぶから、ディーも一度そこに止まって休んで、改めて飛んで」 「わかった」  二人がどいた後の突起にディーは足をかけ、そこからまた飛んでいく。それを二回ほど繰り返し、三人は山頂に着いた。 「ああ、怖かった。足場が小さくて、おまけに滑るし」 「本当ね。落ちたらと思うと、怖かったわ」 「いやはや、無事にここまで登ってこられて、本当に良かったな」  後から頂上に来たディーは苦笑して、アンバーとレイニを見やっていた。  山頂は平らで丸く、ちょうど神殿の広間ほどの広さだったが、立っていられる場所は、その外周部分だけだった。歩道の浮き板ほどの幅のそこから先は、澄んだ深い水がたたえられ、そこから絶えず水があふれて、山肌を流れ落ちている。 「ここがアンリールの水の源なのね」  レイニがささやくように言い、 「すごく深そうだね」  アンバーは少し身を乗り出すように、のぞき込んでいる。 「落ちるなよ。水の民以外は、たぶん助からないぞ」  ディーは苦笑して、軽く腕をつかんでいた。 「でも、水守はどこにいるんだろう。フェイカンでは鳥だったけれど」  その時、水の底がかすかに泡立った。その泡はだんだん数を増していき、銀色の光がまつわるように光っている。やがて水面から、何かが姿を現した。それは流線型で、微かに青く光る透明な身体を持ち、頭を思われる場所に二つの青い目がついている。その頭のてっぺんから体の下の方まで、青く輝く房が付いていた。それは鳥ではなく、時々海で見かける魚に近い。それも、巨大な魚の化身のようだった。  三人は、慌ててその場に膝をついた。 「あなたが大水守様でしょうか」  レイニが問いかけると、それは頷くような動作を見せた。 「精霊様より、聞いている。聖水珠をこれへ」  とどろくようでいて、同時にささやくようなその言葉は、ディーとアンバーにも聞き取れた。フェイカンでの火守の言葉は、同じ火のエレメントを持つフレイとリセラにしか聞き取れなかったが。二人が着ている衣のせいらしい。  レイニが胸に下げた袋から水球を取り出し、両手に掲げると、それはひとりでにふわりと浮き上がり、微かにきらめきを放ちながら、弧を描いて吸い込まれるように、水の中に落ちていった。落ちた水面からほの青い光が放たれ、ゆっくりとらせんを描きながら水底へ沈んでいくにつれ、水の中に光が放散していく様子が見て取れる。  しばらくのち、水守は再び頷くような動作を見せた。 「これでよい。淀みは取り除かれた。ごくろうだった」  再びしばらくの沈黙ののち、言葉を継ぐ。 「そこの異国の若者よ。おまえには、何か心に疑問があるだろう」 「――わかりますか?」  ディーが顔を上げると、それは再び頷くように頭を動かした。 「わかる。おまえの言葉も、その聖なる水衣のおかげで、理解できる。ただ、おまえの質問が何かまでは、わしは見通せぬようだ」 「再び淀みが現れたら、また聖水珠を用いるのか。その時には誰がその役を果たすのか。いや、そもそも根本からその淀みの原因を絶たなくてもいいのか――それが、私の心の中に生じた疑問なのです」 「もっともな疑問だ。だが、その心配はないだろう」 「そうですか――」 「淀みは、人々の心の曇りから起こる。だが――いずれ、浄化が始まるのだろう。もう一度、聖水珠が必要になる前に」  やがてその形は静かに崩れ、水面に溶け込んでいった。あとには澄み切った、静かな水をたたえた水面だけがあった。三人ともに、深く息を吐き出した。 「用は無事に済んだようだ。降りるか」ディーが立ち上がり、 「帰りは楽そうだね。下っていくだけだから」  アンバーは小さく首をすくめ、レイニもほっとしたような表情を浮かべていた。  ふもとにとめた車で待っていた八人には、頂上での出来事は見えなかったが、三人が山を登り、頂上に消え、やがてゆっくりと下ってくるのを目にした。アンバーとディーが両側からレイニの身体を支え、空中を滑るように、山に沿って降下していっている。やがて三人は、車のすぐそばに来た。 「待たせたな。用は無事に済んだ。帰ろう」  ディーは地上に降り立つと、待機していた八人に告げた。 「時間は、それほどかからなかったね。二カーロンもたっていないよ」  ブランが膝に乗せた時を測る装置を見ながら、小さく笑う。 「さっきの村には、明るいうちに十分戻れるわ。そこから次へは無理でしょうけれど」  ロージアも頷きながら、微かに笑みを浮かべている。  起点の村に戻るべく、一行は車を進めた。山に続く細い水道から広い道へと入った時、ちょうど彼らが向かおうとしている方向の反対側から、一人の少年が歩道の浮き板の上を、走ってきていた。いや、走っているというより、気は走ろうとしているのだが、身体がついていかず、よたよたと、ところどころ早足になり、揺らめきながら歩いてきている感じだ。十四、五歳くらいの年頃で、服装は隣国、氷の国セレイアフォロスのもののようだ。耳の下まで伸びた水色の髪の上から、すっぽりと大きな水色の帽子をかぶっている。その帽子には、微かに光る淡い水色の、大きな稀石がついていた。  少年は一行の車を見ると立ち止まり、両手を大きく振った。 「どこへ行くの? もしセレイアフォロスに行くなら、今は行かない方が良いよ! もしローリアルネの方角へ行くなら、お願い、ぼくを乗せていって!」 「え?」指示席のレイニは車を止め、少年を見やった。車に乗っている後の人々も、同じようにしている。 「私たちはこれから、ローリアルネまで行くのよ」 「じゃあ、お願い、乗せて! ぼくはローリアルネに行きたいんだ」 「あなたはどこから来たの?」 「セレイアフォロスから。あそこのレミルダという町から来たんだよ」 「ああ。アンリールとの国境に近い、南の方の町ね」  少年は目をパチパチさせて、改めてレイニの姿を見たようだった。 「あなたもセレイアフォロスの人?」 「ええ。以前そこに住んでいたことがあるわ。レミルダより、かなり北の町よ。私は純粋な氷の民ではなくて、水が半分混じっているけれど」  答えてから、レイニは再び少年を見た。 「あなたはレミルダから、一人で来たの?」 「うん」 「歩いてきたの? 乗り合い車を使わずに?」 「レミルダからは、もう車は出ていないんだ。町中凍ってしまって、身動きできないんだ」 「え?」一瞬絶句した後、レイニは言葉を継いだ。 「じゃあ、あなたはレミルダからずっと歩いてきたの? ここまで四、五日はかかるわよ」 「うん。すごく長かったし、もう厳しいなって思ったところに、車が見えたから……ああ、精霊様のお助けだ、と思えてしまったんだ」 「この車は、我々のほかにあと一、二人は乗れる。君がローリアルネに行きたいのなら、とりあえず乗ってもいい。それで、話を聞かせてくれ」  座席からディーが声をかけると、少年はぱっと顔を輝かせた。 「いいですか?! 本当に!?」 「ああ。二番目の、リルとロージアの隣の席に行ってくれ。ああ、二人の女性の隣だ」 「ありがとうございます!!」  少年は心底ほっとしたような表情で、扉から這いこみ、リセラの隣に座った。そこであらためて気づいたように、小さな声を上げる。 「あれ、そう言えば、この車は緑だ。青じゃない。それにお姉さんたち、他のみなさんも、アンリールの人じゃなさそうだね。そこのお兄さん以外」 「そう。あたしたちは、ほとんどがディルトなの。ミディアルから逃れてきて、アーセタイルからロッカデール、フェイカンを通って、今アンリールに来ているの。この車はアーセタイルの神殿からもらったから、緑なのよ」  リセラの説明に、少年は目を丸くしていた。 「本当に? あの移民とディルトの国ミディアル? でもあの国は、もうないよね」 「そう。あの国は滅ぼされて、今はマディットの属国になってしまったわ。それであたしたち、ミディアルが滅ぶ直前に船でアーセタイルに逃れたの」 「そうなんだ。すごいな……」  少年は驚いたように口をつぐんでいた。 「我々の話も、道中おいおい聞かせよう。それより、君のことを話してくれ。君がなぜ、ローリアルネに行きたいのかも」  ディーが声をかけると、少年は思い出したように頷き、話し始めた。 「はい。ぼくはクリスタっていいます。クリスタ・バレナディン・ベルグナ。年は十五になったところです。ぼくは……ああ、どこから話したらいいのかな。セレイアフォロスの真ん中、少し南の方にライベルガ雪原っていう大きな広い場所があって、そのど真ん中にイリセラ氷山っていう鋭く高い山があるんだけれど――そこから急に氷が広がって。セレイアフォロスはほとんどの場所が、もともと地面は凍っているんだけれど、それが厚くなって、木も凍って、それがだんだん広がっていって、最初にその雪原に面した村が飲み込まれて、それがレミルダまで来てしまったんだ。木が凍って、家が凍って、人も駆動生物も凍ってしまった。ぼくは逃げたけれど、一緒に逃げていた姉さんが言ったんだ。わたしは逃げられない。でも、あなたは逃げて。逃げてローリアルネまで行って、アンリールの精霊様に助けを求めてって。アンリールなの? 氷の精霊様じゃなくてって問い返したら、神殿のあるセヴァロイスに行くには、北へ向かわなければならないから、氷に飲み込まれてしまうって。でもぼくはためらっていたら、姉さんも氷に飲み込まれて凍ってしまった。ぼくはそれで……走って逃げてきたんだ。姉さんの言うことに従おうって。姉さんはラリアだから、きっと何かわかっていたんだって」 「ということは、あなたもミヴェルト持ちなの?」  ロージアが問い返すと、クリスタは頷いた。 「うん。それと、この帽子も姉さんがくれたんだ。元は姉さんのなんだけれど、被っていると、稀石の力でレラが強くなるって」 「そうか。それなら、大事に被っているといい。我々はどのみちローリアルネに戻って、水の神殿の神官長様に報告しなければならないことがあるから、行先は同じだ。そこまで一緒に行こう」 「そうよね。ここからローリアルネまで歩いたんじゃ、半節以上かかってしまうわ。車でも五日かかるのにね。乗って行きなさいよ」  ディーとリセラに言われ、少年は本当にほっとしたような表情になった。 「ありがとうございます。本当に、精霊様のお助けだ……みなさんに、ご加護がありますように」そして思い出したように付け加えていた。 「みなさんの守護精霊様は、それぞれ違うみたいだけれど」と。  少年の口調には蔑みは一切感じられず、ただ違うものだと認識している、それだけのようだった。十二人になった一行は、ローリアルネへの帰途についた。 「ごくろうだった」  再び水の神殿、巫女の間に通された一行、疵人ゆえに神殿には入れないブルーとさらに留守番に残ったフレイ、ペブルを除く九人を見、水の巫女が口を開いた。 「疵人を許す力は、神官長に委ねた。そして、セレイアフォロスの少年よ」  クリスタに目を向けると、言葉を継ぐ。 「氷の精霊から、事態は伝わっておる。だが、我は干渉できない」  少年の落胆した表情を見、巫女は言葉を継いだ。 「向こうも、それはわかっておるようだ。彼らと一緒に、セレイアフォロスへ戻るとよい」 「彼らって――?」 「我々のことですか?」  ディーが少し驚いたように問いかけると、巫女は頷いた。 「そうだ。力を貸してやってくれ」  そして退去の印が鳴った。 「セレイアフォロスでは氷の力の暴走が起きているようで、精霊様にも原因はわかっておられるが、解除するには外部の力が必要らしい。君たちがそれには適任だ、ということだ」  控えの間に戻ると、テェリス‐ロイ神官長がそう説明した。 「だから君たちにセレイアフォロスへ行って、向こうの首都セヴァロイスまで行き、氷の神殿の巫女様に会ってほしいということだった」 「でも、そこまでの間に氷の暴走地帯があると、彼クリスタは言っておりますが」 「そこを避けていくことは可能らしい。ここから西の国境、ウンリェルの町からセレイアフォロスへ入ると、まだ氷が来ていない地域を通れる。回り道にはなるが。氷の暴走は町では早いが、平地ではそれほど速くはないらしい。その地帯に広がるまでには、まだ一シャーランほどは余裕があるだろう、ということだ」 「わかりました」 「少年よ。そのそなたの帽子についている稀石には、氷の精霊様の紋章が刻まれている。それがあれば、国境を超えることは簡単だ」 「ああ、だから門番の人も通してくれたのですね」  クリスタは納得したような顔だった。 「我々には、選択の余地はないようですね」  ディーは苦笑を浮かべ、クリスタを見た。少年は訴えるように一行を見ている。 「この子を置いては、行かれないしね」と、リセラは言い、 「まあ、いつもの展開だな」と、フレイも苦笑いを浮かべている。 「それと、聖水珠を渡してくれたことについての、おまえたちの報酬を果たさなければならないな」  テェリス‐ロイ神官長は立ち上がり、歩き出した。 「その疵人の男は、外にいるのだな」 「はい、神殿の中には入れませんので」  ディーが答えると、神官長は頷き、一行の先頭に立って神殿の外に出た。そのまま歩いて門をくぐり、外に待機している車の前に来る。中からペブルとフレイが顔を出した。 「テェリス‐ロイ神官長様だ」  ディーの言葉に、二人は慌てて頭を下げる。その後ろから、ブルーが顔を出した。 「おまえが疵人だな」神官長はブルーに目を向けた。 「車から降りて、私の前に立て」  ブルーは真っ白な顔になり、少し震えながら車から降りた。神官長から数歩離れたところで立ち、そして膝をつく。 「そこでは遠い。もっと近くに寄れ。跪かなくとも良い」 「はい」 「では、腕を出せ」  ブルーは服の袖をまくった。そこに浮き出ている二本の赤い印に、神官長は手を伸ばし、触れた。そこからかすかな光が出、手を離した時には、その印は消えていた。 「おお!」ブルーは感極まったような声を出し、見守っていた仲間たちの何人化も、小さな歓声を上げた。 「喜ぶのは、まだ早い」  神官長は厳かな声で告げ、踵を返した。 「ついてこい。おまえの疵人の印は消えたので、神殿内に入れる。礼拝の間に立て。おまえが罪を真に悔いているならば、おまえの印は完全になくなる。もしそうでないなら、再び印が現れ、その瞬間、おまえは神殿外に飛ばされるであろう」 「なかなか厳しいテストね」ロージアが小さな声で呟き、 「がんばって、大丈夫よ」と、リセラが励ますようにその背中に触れる。  ブルーはぎゅっと目をつぶり、かつて印があった個所を反対の手で押さえたまま、神殿内に足を踏み入れた。入り口で清めをし、礼拝所の中に入る。そのご神体の前に、彼は立った。懐かしむように、憧れるように周りを見回す。その眼はひどくうるんでいた。長い時間がたったように思われた。が、実際は十五ティルくらいなものだろう。神官長がつかつかと近づき、その腕をとった。印は現れていなかった。 「おまえの罪は、許された。ただ、忠告しておく。二度目はない。これからは、淀んだ欲望に負けないよう、努めよ」 「はい……ありがとうございます」  ブルーは再び下を向いた。かつて印があった場所は、白いままだった。そこを撫で、そしてぎゅっと握った。その上に、涙が落ちた。 「そうだ。君が大水守に問うたことだが」神官長はディーに目を向けた。 「人々のこうした心の淀みが、欲望が、水を濁らせるのだ。アンリールも、それゆえ完全に問題がないわけではない。そのために、精霊様が思っておられることが、二つある。一つは、あまり異なる血を排除しすぎないことだ。それは傲りや蔑みの感情を生み、やがて心の濁りにつながっていくゆえに。ただ、フェイカンのような性急なやり方は、我が国はしない。火の精霊様の性質ゆえ、あれは致し方ないが、わが国では、もう少しゆっくりとやっていくつもりだ。神殿や、他の異民族が入れない場所への立ち入りも、まずは水衣を着てもらうことから始める。そしてもう一つは、いずれ大きな浄化が起こるということだ」 「水守様も、そう仰っておられましたね。それに岩の精霊様も、世界は変わっていくのかもしれないと仰っていました。それは、どういう――?」 「それははっきりとは、まだ誰にもわからぬようだ。ただ君たちが、鍵なのかもしれない。いや、君たちが関わる何かが、だ」  一行が当惑気味に顔を見合わせている間に、新たな従者が三人現れた。真ん中の人が、大きな袋を持っている。 「二人の神殿歌姫からの、約束の報酬だ。持っていきなさい。彼女たちはもう外部のものと接触ができないが、君たちに改めて、感謝を伝えてくれと言っていた。そして歌姫の一人、セアラーナ・カロラ・ヴェステの家族が逃れた場所が、その少年クリスタが来た町、レミルダなのだ。連絡鳥からの返事がないので、彼女がひどく心配していた」 「そうなのですか……」 「まあ……」  何人かが小さく、驚きの声を上げる。 「では、君たちが無事にセレイアフォロスの危機を救えるよう、祈っている」  テェリス‐ロイ神官長は微かに笑い、踵を返して、神殿の奥に戻っていった。従者たちがディーたち一行を門のところまで送っていく。  翌日、彼らは再び北へ向かって車を進めていった。 「セレイアフォロスには行かない予定だったが、予定通りにはいかないものだな」  車の中で、フレイがそう口火を切った。 「まあ、仕方がないわ。これも成り行きよ」  リセラが笑い、クリスタを見やる。少年は、少しすまなそうな表情をしていた。 「そう。いつも誰かに出会って、何かに巻き込まれているよね、僕たちは」  アンバーが小さく笑い、 「まったくだ」と、フレイが相槌を打つ。 「ところで、ブルー」  ディーが言いかけると、指示席に座った青髪の若者は振り返った。 「おっと、ディー。疵人の印は外れたから、俺はここに残るか、というのはやめてくれ。みなが俺を厄介払いしたいのでなければな」 「俺にも言ったよなあ、ディーは」フレイも苦笑している。 「俺たちのためを思ってくれてはいるんだとは、わかるんだ。それは感謝している。だが、俺はみなとまだ一緒にいたいし、おまえもそうだろ、ブルー?」 「ああ」ブルーは前を向いたまま、ほとんど聞き取れない声で答える。その頬は色濃くなっていた。 「そうか。おまえが良いなら、それでいい。それで、レイニ」 「私がセレイアフォロスへ行きたくない理由があるかどうかっていうの、ディー?」  水色髪の女性は、微かに首をすくめた。 「特にないわ。だから、行っても大丈夫。私があそこを出てきた理由は、みんなにまだ話していなかったけれど……向こうに行ったら、そのうちに話すわ。でも、本当に大した理由はないのよ」 「それならいいが」 「本当に、みなさんにはご迷惑をかけてしまって、すみません」  クリスタが改めて言うと、ディーは振り返り、帽子越しに少年の頭に手を触れた。 「気にするな。俺たちは慣れっこだ」 「そうよね」リセラが明るい声で笑い、サンディとミレアも小さく笑う。 「さあて、ここからウンリェルの町までは七日かかる。長い旅になるぞ」  ディーが声をかけ、一行は頷いた。水の街道を、車は進んでいった。やがて柔らかい青い空から雨が降り始め、彼らは車の幌を被せた。アンリールには雨が多い。景色は微かに銀色がかり、駆動生物たちは車を引いて泳いでいく。ときおり反対方向に行く車とすれ違うが、ほとんどが幌などしていず、乗っている人も濡れることを嫌っていないようだった。 「さすがに水の国だよな。でも俺はもう、水はたくさんだ」  フレイが苦笑して、首を振っていた。 「おまえには、まあそうだろうな。でもまだ国境まで七日かかるぞ」  指示席に座るブルーの上には幌がないので、濡れたままだが、気にはならないらしい。  煙る景色の中を、彼らは北西へと向かっていった。              ★アンリール編 終★