光と闇の舞踏 The Dance of Light and Darkness 第二部 大地と緑の国アーセタイル  気がついた時、リセラとサンディは白い砂浜の上に、あおむけに倒れた状態だった。波が届かない場所に寝かされていて、背中からは暖かい砂の感触がした。嵐はすっかり収まり、夜も明けたようで、空は青く、太陽が柔らかく照らしている。  リセラはゆっくりした動作で身を起こし、同時にサンディも起き上がった。 「どうやらあたしたち……生きてるみたいね」  リセラが軽く頭を振りながら言い、 「ええ……助かったみたいです」  サンディも周りを見回しながら、頷く。 「荷物は無事?」 「ええ」  サンディはポケットを探り、腰に付けた袋を見て、その上から触って確かめた。 「稀石の袋もポプルも、あるみたいです」 「良かったわ。あたしも、どうやら無事みたいよ」  リセラも同じように荷物を確かめながら、ほっとしたような声を出した。そして髪の毛に手をやり、頭を振る。いつもつけている赤いリボンがほどけて、ピンクの髪が背中に垂れ下がっていたが、その先に辛うじて、そのリボンが髪の毛に絡むように引っかかっていた。リセラはそれをつかみ、再び安堵したような声を上げた。 「良かった! リボンが流されていなくて!」 「それは……大事なものなんですか?」  その口調から、きっとそうなのだろうと感じたサンディは、そう尋ねた。 「これは、パパの形見よ」  リセラはそのリボンを丁寧にたたんで、スカートのポケットに入れた。 「まだ髪が乾いていないから、乾いたら結ぶわ」  リセラは目の前に広がる海に目を向けながら、言葉をつづけた。 「それにしても、あの時には、もうだめかと思ったわ。助かったのは、奇跡ね」 「ええ。わたしも海に落ちた時、もうだめだと思いました」  サンディも不思議そうに、海に目を向ける。 「あ、気がついたんだね」  その時、背後で声がした。その声で、二人は振り向いた。  それはまだ、成長期前期ぐらい――ミレア王女やサンディと、あまり変わらないだろう年頃の少年だった。少しオレンジがかった肌の色に、緑の髪の毛がまるで葉っぱか海藻のようにうねって頭を覆い、肩まで触れている。黄色い半そでの、だぼっとした上着に深緑の半ズボン。丸い茶色の目を見開いて、少年は二人を見ていた。 「あなたは?」リセラが問いかけた。 「ぼくはナナン」少年はそう名乗った。 「ナナル・バナン・タラージャンってのが正確な名前だけど、みんなはナナンっていうんだ。あんたたちは?」 「あたしはリセラ・マリ・ファリスタ。この子はサンディ。アレキサンドラよ」 「ふーん。そう」 「あなたはアーセタイルの人?」  リセラはそう問いかけた。 「そう。もうちょっと北の、ラーダイマイトって町から来たんだけど」  ナナンと名乗る少年は頷き、そしてつけ加えた。 「ただぼくは、純血じゃないんだ。四分の一、火が入ってる。だからこんな肌色なんだ」 「そうなの。その町は、ここからは遠いの?」 「そう。乗り合い車で、バジレまで八カーロンかかった。けっこう長旅だよ」 「バジレまで行ったの?」 「そう。ミディアルに行きたかったんだ」  少年は海を見つめ、そう答えた。 「やっとお父さんからの連絡が来て、行けることになったから」 「お父さん?」 「そう。ぼくのお父さんは火と土のディルトで、七年前にここを出て、ミディアルに行ったんだ。それからぼくはお母さんと暮らしていたんだけれど、いつかお父さんの後を追って、ミディアルに行こうと思ってたんだ。あそこはここみたいに、純血の土じゃなくても、差別されないから。お母さんもすぐに純血の土の人と結婚して、弟と妹が生まれたから、むしろぼくはいない方がいいかなと思って、お父さんのところへ行きたいって、お母さんと新しいお父さんに言ったら、それなら連絡をしてみようって言ってくれて。バジレからミディアルに行く船に乗る人に手紙を託して、それで前の節にやっと、お父さんから返事が来たんだ。来たいのなら、来てもいいって書いてあった。そこの農園で働いてくれるならって。お父さんはミディアルで、ポプル農園の仕事をしているらしいんだ」 「そうなの。お父さんのお名前って、わかる?」 「ヴァリス・ラシージャ・エンガシアン」 「ポプル農園の……ヴァリス・エンガシアンさん……火と土ディルトの……」  リセラは思い出そうとするかのように海に目をやって沈黙した後、頷いた。 「わかった。あたし、その人を知っているかもしれないわ。ナランディンの町の郊外で、ポプル農園をやっている人ね。もう一人、エマルスさんと共同経営で。赤毛の人ね。目は緑で。わりと背が高くて、がっしりした体つきの」 「そうなんだ! あんたたちは、お父さんと知り合い?」  ナナンは驚いたように声を上げ、目を見開いて、身を乗り出してきた。 「ええ。たぶんお父さんも、あたしたちのことは知っているはずよ。毎年、そうね、ここ三年くらいだけど、あたしたちお父さんたちの農園で、二日くらいの短い間だけれど、仕事を手伝っていたの。今年も、来節に行く予定だったわ」 「そうなんだ。なんだか、偶然だなぁ。あんたたちは、ミディアルの人だったのか」  少年は再び驚いたような表情を浮かべ、言葉を継いだ。 「二人して海にあおむけに、ぷかぷか浮いてたから、どうしたのかと思ったんだ」と。 「あなたが……あたしたちを引き上げてくれたの?」  リセラは思い至ったように、少年に向き直った。 「ああ。そんなに深くなかったし、遠くもなかったから。最初は死んでるのかなって思ったんだけど、まだ形があるし、波がまた沖へ引きだしているみたいだったから、ここまで引っ張ってきたんだ。ここは波が届かないし、大丈夫だろうと思って」 「それなら、あなたはあたしたちの命の恩人ね! ありがとう!」  リセラが感極まったように言い、サンディもかすかに頬を紅潮させて、礼を述べた。 「本当にありがとうございます、助けてくれて」と。 「お礼はいいよ、別に。ぼくの単なる好奇心だから」  ナナンは少し照れたように言い、そして聞いてきた。 「でも、なんで海に浮いていたんだい?」と。  そこで二人は今までのいきさつを――主にリセラが、時々サンディが言いたして――相手に説明した。ナナンは驚いたような表情で聞いた後、頷いていた。 「そうかぁ。じゃあ、あんたたちには仲間がいるんだ。あと九人……って、かなり大勢だな。みんな、無事にこっちへついたのかな」 「それはわからないけれど、あたしたちはそう信じたいわ」  リセラは言い、サンディも真剣な顔で頷いた。 「あたしたちはこっちへ着いたら、バジレで落ち合うことになっているの。あなたはさっき、あなたの町からバジレまで乗り合い車で来たって言っていたけれど、ここからバジレまでは遠いの?」  リセラは重ねて、少年に問いかける。 「ここから北東に歩いて三カーロンくらいかな」 「ああ、じゃあ、そう遠くないわね」 「あなたは、どうしてここへ来たんですか?」  サンディは少年に向かって、問いかけた。 「うん。さっきも言ったように、ぼくはミディアルに行くために、昨日の夕方、バジレに行ったんだ。そこからミディアル行きの船に乗ろうと思って。そうしたら、ミディアルの港は全部閉鎖されたから、渡れないって言われたんだ。ミディアルはマディット・ディルの支配下になって、他の国からの船は入れなくなっているって。ぼくは途方に暮れて、でもまた家に帰る気にはなれなくて、ふらふら歩いてたんだ。海沿いに。海の上はすごく荒れてたけど、ここは雨も降ってなかったし。夜になったから岩陰で寝て、それからずっと南に下っていって、ここに来たら、あんたたちが海に浮いてたのを見つけて」 「そうなのね……」 「お父さんは、どうなってしまったのかなあ。あんたたちの話だと、ミディアルは相当ひどいことになってしまったようだし。マディットの連中に殺されたのか、奴隷にされたのか……」  ナナンは悲しげな顔で、海に視線を向けた。 「ヴァリスさんが、ここ三シャーランの間、ポプルと水だけしか食べていなかったら、殺されてはいないと思うけれど、マディットの神殿奴隷は過酷だって、ディーが言っていたから……無事を祈りたいわね」 「ディーって?」 「ああ、あたしたち一行のリーダーよ。ディーヴァスト・マルヴィーナク。彼は光が四分の一混じった闇のディルトで、マディットの出身なの。彼は六年前に、祖国を捨てたって言ってたけれど。マディットの国に、いい思い出はないみたいで。その彼が言っていたわ。マディット・ディルの首都、エラーフダリエの、闇の精霊を祭る神殿で、十年前くらいから、大きな建造物と回廊を作っているけれど、それの建設に奴隷たちを使っていると。マディットの国の奴隷と言うのは、罪を犯した人たちで、その罪を贖うために神殿で奴隷として働き、その罪に応じた時間働けば、また自由になれるっていうけれど、それで自由になれた人は、全体の三分の一くらいしかいない。あとの人たちはあまりの過酷さに、病気になって死んでしまうって。ミディアルから来た人たちは、どのくらいの期間働かされるのか、そしてその後どうなるのか……またミディアルに戻してもらえるのか、それとも死ぬまで奴隷のままなのか、そのあたりはディーもわからないと言っていたわ。闇の精霊のお告げ次第だと」 「そうなのかぁ……」  ナナンは海を見つめたまま、頷いた。その目には、涙が光っていた。 「じゃあもう、お父さんには会えないのかなぁ。お父さんはぼくが五歳の時に家を出て行ったけれど、優しい人だったって、覚えてるんだ。だからまた会えて、一緒に暮らせるのを、すごく楽しみにしてたのに……」  サンディは少年の悲しみに同情し、そっとその背中に手を触れた。その背中は痩せていて、硬かった。リセラも同じように手を伸ばし、その背に触れた。 「ナナンくん。あなたの気持ち、あたしも少しはわかるわ。でも、きっと信じたい。ヴァリスさんはたぶん、今は生きていると思うの。密花とかバーナクとか、いわゆる不純な食べ物は、エルアナフではかなり流行っていたけれど、ナランディンは小さな町だし、そこまでは浸透していないと思う。それにあの人は何代もミディアルにいた人じゃないから、あたしたちと同じで、たぶんレラの力もかなり持っているはず。だから、それをなくさせるような不純物は取らなかったと思うの。だから、きっと殺されてはいない。マディットに連れていかれて、奴隷にされた可能性が高いけれど、でも生きていれば、また会える可能性だって、全然ないわけじゃないわ。ヴァリスさんはレラの力もあるし、身体も丈夫な人みたいだから、生き抜ける可能性がある。もしマディットの精霊が、死ぬまでじゃなく、期限付きで自由にしてくれるようなお告げをしてくれたら、ミディアルに戻される可能性も、ないことはないと思うの。少ないけれどね。でも、生きていれば、きっと希望も可能性もあるわ」 「そうなのかな……」  ナナンはうつろな視線を海に向けながら、ぼんやりとした様子で頷いていた。 「そう。元気を出して。気持ちを切り替えるのは、大変だとは思うけれどね。取り返せないことを悩むのは時間の無駄だ、大切なのはこれからのことだ、ってディーがいつも言っていたけれど、実際は難しいと思う。でも、少しでも前を向いて」  リセラは軽くその背をたたいた。そしてしばらくのち、再び問いかける。 「ところで、ね。このあたりでお水が手に入るところはあるかしら」と。 「水?」ナナンも現実に戻ったようにそう問い返し、二人の顔を見た。 「そう。あたしたち、ポプルは持っているのだけれど、お水はないのよ」 「目の前にいっぱいあるじゃないか。それじゃ、ダメなの?」 「あ、ああ、そうだわね。それはたしかにあるけれど……でも、どちらかと言えば、湧水みたいな方がいいんだけれど」  リセラが改めて気づいたように言う。そしてサンディは驚きを含んで問いかけた。遠くからやってきた記憶とともに。 「でも海の水って、しょっぱくないですか? 飲めるんですか?」と。 「海の水がしょっぱいって、どこの世界の話?」  ナナンが驚いたように目を見張る。 「ああ。彼女は別の世界から来たのよ。わりと本当の話よ」  リセラは苦笑を浮かべながら、サンディが来た簡単ないきさつも、かいつまんで話した。 「本当に?」ナナンはすっかり驚きの表情だ。 「別の世界なんて、本当にあるんだ。てっきりその子は、土の純血だと思ってた」 「見た目は、たしかにそう見えるわよね」  リセラも少し笑う。 「ここの海は、しょっぱくないんですか?」  サンディはなお驚きの表情で繰り返すと、少し砂浜を進んで波打ち際まで行き、指を水につけ、なめてみた。ほんの少しだけ苦いが、他に味はない。塩辛くもなかった。 「そう。でも海の水は、少しだけ不純物を含んでいるのよ。雑味みたいなものね。だから本当に純粋な水とは言えないから、飲むにはあまり向かないのよ。どうしてもほかにない時だけね」  リセラがそう説明する。 「雑味ねぇ。ぼくは平気だけど」  ナナンは首を傾げてから、リセラとサンディに「ボトル持ってる?」と聞いた。 「からのボトルなら……」  リセラがポプルを入れたものとは別の袋から――船から脱出時に、みな自分の大切なものを袋に入れて、腰に縛ってきたのだ――ボトルを差し出した。  ナナンはそれを受け取り、海の水を汲むと、自分の荷物らしい大きな袋の中から、口の広い器を取り出した。そしてボトルをその上にかざし、もう一方の手をすっと水平にかざすように切る。と、そこから茶色がかったレラが薄い膜のように広がっていった。その上から水を下の器にそそぐと、器にはきらきらとした水が溜まっていく。彼はその器の水を再びボトルに戻し、二人に差し出した。 「はい。雑味は抜けたよ」 「ええ?」  リセラはそのボトルを受け取ると、そっと口をつけた。 「あら、本当。純粋な水だわ。おいしい」 「だろ?」ナナンは、少し得意そうに笑った。 「ダヴィーラ。土のレラの技の一つだよ。不純物を取り除いてきれいにするっていう」 「そういえば……聞いたことがあるわ。土のレラが司る、十三の技の一つよね。かなり発現率は低いって聞いたけれど」  リセラはゆっくりと半分ほど水を飲み、その残った水をサンディに渡した。サンディも受け取って、飲んでみた。たしかに混じりけのない水の味だ。 「そう。血筋なんだ。土の種族でも、いくつかの家の人だけが持っている技らしいよ。お母さんもダヴィーラを持っていた。エリムもできる。だからぼくにも、妹にもそれが伝わったみたいだね。弟には伝わらなかったみたいだけれど」 「エリムって?」  聞きかけたサンディに、ナナンは笑って応じた。 「じゃ、じっさいにやってあげる」と。  彼は両手を合わせ、間を少し開けて空気を握るようにした。その間から緑色のレラが発せられ、それが球になっていく。彼が手を放すと、それは地面に落ちた。薄緑色のポプルだ。ナナンはそれを拾い上げ、砂を払ってから、かじった。 「あら、すごい!」リセラが驚いたように声を上げた。 「ダヴィーラもエリムも聞いたことはあるけれど、実際に見たのは初めてよ」 「でも、ぼくは緑と白しか出せないんだ」  ナナンはポプルを食べ終わると、少し残念そうに続けた。 「火は残念ながら出ない。そこまで火が強くないから。肌の色しか火っぽくないし、ぼくは火の技を全然受け継がなかった。四分の一のせいかな。白は白ポプルを食べたら、出せるけど。一つで、二つくらい。でもぼくは、それだけしか技がないんだ」 「あら、それだけできれば充分じゃない」  リセラは感嘆を含んだ声を出した。 「でもうちじゃ、珍しくないしね。新しいお父さんと弟以外、みんなできる。だからうちはポプルって、買ったことがないんだ。水も」  ナナンは他の二人がポプルを――リセラが黄色を、サンディは白を――食べているのを眺めていた。 「そっちのサンディっていう子は、土の純血みたいに見えるけど、白を食べているってことは、本当に違うのかな。あんたは……それ、光ポプルだろ。何のディルト?」 「あたしは光と風と火よ」 「三種!? よく色が抜けなかったなぁ。ぼくは火と風だと思ってた。そんな髪の色だから」 「そうね。あたしはかなり、パパに似たから。あたし光の力は、飛行能力以外、受け継がなかったみたいなの。お母さんは、かなり強い光の人だったらしいのに。だから飛行能力だけは伝わったけれど、でもそれだけ。だけどそのせいで、色が抜けずに済んだのかもしれないわね」  リセラは日の光でかなり乾いてきた髪を再び上に束ね、赤いリボンをポケットから引っ張り出して、結んだ。 「あたしはね、生まれたのはユヴァリス・フェ。たぶん首都のアラエファデルだと思う。あたしは覚えていないんだけれど、パパがそう言っていたから。あたしのパパは火と風のディルトで、風の国エウリスに住んでいたけれど、ピンク髪で、しかも飛べないせいで、居心地が悪かったらしくて、成人してからはユヴァリスに働きに来ていて……まあ、そこでもよそ者ではあったけれど、まじめに働いていたから、ずっと雇ってもらえてて……そしてお母さんと知り合って、恋に落ちて、あたしが生まれたらしいわ」 「そうなんですか」  サンディは頷いた。リセラの出自を知るのは、彼女も初めてだったのだ。  ナナンも「へえ」と頷いて聞いている。 「でもお母さんの家では、大反対だったらしくて……お母さんは結構いい家の人だったみたい。神官の流れをくむ……お母さんはあたしが生まれた時、まだ若かったらしいの。それにお母さんには、親が決めた結婚相手がいた。それであたしが生まれると、お母さんの両親はお父さんに言ったらしいわ。子供を連れて、ユヴァリスから出て行け。もう二度とこの国に足を踏み入れるな。おまえみたいな疫病神は、ミディアルにでも行ってしまえ、って。それきりあたしは、お母さんには会っていないから、まったく覚えていないわ。その後、ユヴァリスからミディアルを訪れた人たちの話から、お母さんはその親の決めた人と結婚して、今は子供も三人いる。そのうちの一人は巫女候補になった……そんな話を聞いたって、パパが言っていたわ。お母さんのことを訪ねた時に」 「そうなんですか」と、再び頷くサンディに、「あんたは一緒に旅してて、知らなかったのかい?」と、ナナンが不思議そうに問いかけている。 「彼女はまだ四シャーランくらいしか、あたしたちと一緒にいないし、そこまで詳しい話はしたことがないのよ。それにあたしたちみな、お互いがミディアルに来るまでっていうのは、あまり話したことがないの。でもみんな、なにがしかの理由があって、ミディアルに来ていたのよね」  リセラは軽く頭を振って言うと、話をつづけた。 「パパはミディアルに来て、町から町を渡り歩いて暮らしていたわ。一か所に定住はしないで。あそこにいたころのあたしたちと同じように、ミディアルのいろいろなところを旅して、仕事があれば働いて、時には歌を歌って……パパはとても上手だったのよ。それでお金をもらっていたりして、暮らしていたの。あたしたちよりもっと、一つの町に長くいたけれど。二、三節くらい。そんな生活で、あたしも大きくなって、パパのお手伝いをしたり、パパが歌う時には踊ったりして、四年前までは暮らしていたんだけれどね。でも、四年前のサランの節に、あたしたちは前の町から山を越えて、別の町に向かう途中だったんだけれど、そこで山賊に襲われたの。山賊、なのかどうかはっきりはわからないけれど、ともかく人を襲って金品を奪う、悪い奴らね。それであいつらはあたしをさらおうとして、パパはそれに抵抗して、あいつらに殺されたのよ」 「ええ……?」  サンディが小さく声を上げ、ナナンも驚いたような声を漏らした。 「それで、あたしも危うくさらわれるところだったの。でも、たまたまそこを通りがかったディーに助けられて……彼もやっぱり、ミディアルをあちこち放浪していたのね……それで、彼と一緒に旅をすることになったのよ。それからだんだん仲間が増えて……本当に楽しかったわ。あの時は」  リセラは小さくため息をついた。そして、軽くリボンに触れた。 「このリボンはパパの形見だって、さっきサンディに言ったわよね。そうなの。パパが亡くなる前、ビスティの節の初めのころ、その町の市場で、パパが買ってくれたのよ。きれいなリボンだ、きっとお前に似合うって。そして今まではおろしていたあたしの髪を結んで、こうやって飾ってくれたの。それ以来、あたしはずっとこのリボンをつけているのよ」 「そうなんですか……」 「あんたも、いろいろな事情があるんだなぁ」  ナナンが首を振り、そんな感想を漏らしていた。 「そうね。あたしたちみんな、なにがしかの事情があって、ミディアルに来ていたのだと思うわ。あなたもそうね、きっと。ミディアルがあのまま続いていたら、あなたもお父さんの農園で一緒にお仕事をしていたんでしょうね」  リセラの言葉に、少年は思い出したように、少し涙ぐんだ。 「でもそれは、もう取り返せない事実、なんですよね。ディーさんが言っていたように」  サンディは再び慰めるように、ナナンの背中に触れた。 「そうなのよね。ごめんなさい。つい、考えもなくあなたを悲しませるようなことを言ってしまったわ」  リセラが少し慌てたように言い、頭を振った。 「あなたはこれからどうするんですか、ナナンさん」  サンディがそう尋ねる。 「今、考えてないんだ。と言うか、何も考えられなくて」  ナナンはこぶしで目を拭くと、答えた。 「結局、家に帰るしかないんだろうけれど……とりあえずバジレまで戻って、そこから乗り合い車に乗って帰るよ」 「そう……ここもミディアルと同じで、乗り合い車はあるのね」  リセラは少年の腕にそっと触れながら、そう問いかけた。 「あるよ。ミディアルのは、どんなのか知らないけれど。ラーダイマイトからもバジレからも、いくつかの町に向けて乗り合い車は出てるんだ。それぞれの町行きは、一日に一本しかないけれどね」 「そうなのね。ありがとう」  リセラは少年に笑顔を向け、言葉を継いだ。 「じゃあ、服も乾いたし、そろそろ出発しない? ナナンくん、あたしたちバジレへの道は知らないの。一緒に行ってくれると、すごくうれしいんだけれど」 「そんなに複雑な道じゃないよ。この海岸線にそって、ずっと北東に歩いていけば、三カーロンくらいで着くから。でも、目的地が一緒なら、一緒に行ってもいいな」 「あら、よかった。ありがとう」  リセラは笑顔で言い、サンディも頷いた。  三人が立ち上がった時、遠くから声がした。 「おーい!」と、その声は言っていた。 「おーい、リルー! サンディー!」  遠くに三つの小さな人影が見えた。海岸線の南の方から、こっちに近づいてくる。 「アンバーたちだわ!」リセラが声を上げた。 「えっ?」サンディも驚いて、声のする方に目を凝らす。  人影はまだ小さいが三つ。真ん中の人がやや大きく、左右の人はそれより小さい。とはいえ、真ん中もそれほど大きいわけではない。その真ん中の人が、声を上げて手を振っていた。ここからは小さくて判別できないが、アンバーは『鳥の目』の持ち主で、遠くを見ることができるから、きっといち早く彼女たちを見つけたのだろう。 「船が沈没する時はぐれた、あんたたちの仲間?」  ナナンが、そう問いかけてきた。 「ええ、そう。わたしたちは五つに分かれてアーセタイルを目指したのだけれど、そのうちの一組よ。アンバーとブランとミレア王女、のはずね。ああ、そうだわ」  人影はだんだん近づいてきて、こちらからも判別できるようになっていた。黄色髪の若者と、白い髪の小柄な若者、そして薄茶色の髪の少女――。  やがて三人は近づいてきて、サンディたちのそばに腰を下ろした。 「ああ、くたびれた! 風に流されて、ちょっと南に行きすぎちゃった。もうかれこれ二カーロン歩いてさ」  アンバーが大きくため息をついて、頭を振った。 「でも君たちに合流できてよかったよ。そちらの子は?」  ブランがこちらの三人を見ながら、少し不思議そうに問いかける。 「彼はナナン。えーと、正式な名前は何だったかしら。あたしたちを助けてくれたの」  リセラはアンバーたち一行に、簡単ないきさつを語った。 「ええ、そうなんだ。それはありがとう!」  アンバーとブランは同時に声を上げる。 「いや……そんなにたいそうなことじゃないし」  ナナンは少し照れたような表情を浮かべた。 「あなたたちは海に落ちたりはしなかった?」と、リセラが軽く笑ってそう聞くと、 「そこまではね。でもちょっと低空飛行になったし、流された。でもブランが、たぶんこっちの海岸線をずっと行けば、バジレに着けるはずだって言うから。本当に、ブランがいてくれて、助かったよ」 「私もだいたいの方向と、地図を思い浮かべただけだよ。でも途中で君たちに会えたから、よかった。これで一緒にバジレに行けるね」  ブランは少し微笑みを浮かべながら、言葉を継いだ。 「ああ、ナナンくんに私たちも名乗らないとね。彼はアンバー。アンバー・ラディエル・キール。エウリス出身で、四分の三は風、四分の一は光。彼女はミレア王女。なんと、ミディアルの王女様なんだ。ちょっといきさつがあって、一緒に来ているんだ。そして私はブランデン・ポスティグ・シランサ。ブランと呼ばれている。これでもアーセタイルの純血種なんだけれど、不幸なことに色が抜けてしまってね」 「へえ……」  ナナンは不思議そうに新たな三人を見たあと、ブランに視線を据え、問いかけた。 「あなたは、どこの生まれ?」 「モラサイト・ホーナと言う町を知っているかな」 「知ってる。首都ボーデに近い町だ。ラーダイマイトにも近い」  ナナンは目の前の白髪の若者をじっと見て、言葉を継いだ。 「ひょっとして、あなたって双子?」 「えっ」ブランは少し虚を突かれたようだった。相変わらず日よけ眼鏡をかけているので、その目の表情は読めないが。 「そうだけれど……?」 「やっぱり。聞いたことあるんだ。双子で、片っ方にレラが集まりすぎると、もう一人は色抜けになることがあるって。モラサイト・ホーナにも、そういう例があるって、新しい父さんが言っていたから」 「そうなんだ。私はレラを全部、相方に吸い取られて生まれてきた」  ブランはそれ以上説明せず、黙った。一同は少しの間、沈黙した。 「あ、まあ、悪いことを聞いたのなら、あやまるよ」  ナナンが少しきまり悪そうな表情を浮かべ、 「いや、大丈夫だよ。」と、ブランは微笑んでみせる。 「ここから北東に三カーロンくらい歩けば、バジレに着けるそうよ」  リセラが話題を変えるように、声をかける。 「えー、僕たちもう二カーロン歩きっぱなしだから、この上三カーロンは辛いなあ。少し休もうよ」  アンバーが声を上げた。 「そうだね。私もくたびれた」と、ブランも苦笑し、、 「わたしもです」と、ミレア王女も息をつきながら、小さく呟く。 「あたしたちは、ナナンくんと一緒にそろそろ出発しようとしていたんだけれど、あなたたちがくたびれているなら、もう少し休みましょう。ナナンくん、悪いけれど、もう少しつきあってくれる?」 「ぼくは別に急いでないからいいけれど、仲間が来たら、ぼくと一緒にいなくてもいいんじゃないかい?」 「いや、基本私たちは、新しい仲間を受け入れることに対しては抵抗がないよ」  ブランがかすかに笑い、 「そうそう。特にリルとサンディの命の恩人ならね。君が僕らと来たくないなら、無理強いはしないけれど、道を知っているなら、案内してくれると助かるな」  アンバーも頷き、ついで言葉を継いだ。 「ああ、それにしてもくたびれた。レラはポプルで補給したけど、混じりけのない水が飲みたいなぁ。ここは海の水しかないけど、水は持ってこれなかったから。重いし」 「あ、それなら……」リセラとサンディは顔を見合わせ、 「からのボトル持ってるなら、新鮮な水をあげるよ」と、ナナンが申し出る。  そうして彼はアンバーとブラン、そしてミレア王女から空ボトルを受け取ると――水をくむために、各自持ち出してきたのだ――リセラにしたように、海の水を浄化して渡した。 「わあ、本当にきれいな水だ」  ボトルの中身を一口飲んで、アンバーが感嘆の声を上げ、 「おいしい。お水」と小さく呟いて、ミレア王女は無心に飲んでいる。 「ダヴィーラか。話には聞いていたけれど、初めて見たね」  ブランもボトルを飲みながら、頭を振って言い、そして続けた。 「珍しいんだよ、土系の技でもこれは。アーセタイルの住民でも、二五か六、そのくらいの家系にしか伝わらない技だ。君の家系もそうか。君は……正式な名前は何だっけ、ナナンくん」 「ナナル・バナン・タラージャンって言うんだ」 「タラージャンも、たしかその二六家系の一つだね。そうか。でも君は火が混ざっているのに、継げたんだね」 「火はほとんど受け継いでないんだ、ぼくは。肌の色だけ。でもこれがあるから目立って、純血じゃないって、わかってしまうんだけれどね」 「あ、僕の黄色髪と琥珀目と一緒だ。これさえなければ、普通に風の民に見えたのに」  アンバーが首をすくめながら、そう口をはさんだ。 「四分の一って、そういう出方をすることもあるのね。ディーは頭の一部金色以外、光技も一つ使えるらしいけれど」リセラは頷き、言葉を継いだ。 「じゃあ、あと半カーロン休憩したら、バジレを目指しましょ。ほかのみんなにも、そこできっと会えることを願って。ナナンくんも、とりあえずバジレまでは一緒に来てね」 「ああ、いいよ」と、少年は答え、あとから来た三人も、白ポプルを食べながら頷いた。「力補給できたから、大丈夫」と。  日が天頂に近づいたころ、六人はバジレへ向けて出発した。  空は晴れていて、海は穏やかだった。きめの細かい白い砂が、一行が歩くにつれて足元でほんの少し音を立て、あとに浅い足跡を残していく。かすかな風が、陸地から海に向けて吹いていた。 「昨日の嵐が嘘みたいに、静かね」  リセラは海と空に目を向けた。 「本当に、昨日の嵐はすさまじかったからなあ」  アンバーも海を見やり、小さく首を振る。 「でも、こっちは晴れてたよ」  ナナンは一行を見、ついで海に目をやった。 「本当に、変な感じだったなあ。ここの上は星が出てるのに、海の上には雲がすごく集まってて、稲妻が光るのも見えて」 「アーセタイルの陸地は晴れていたのか……」  ブランは不思議そうな口調になりながら、色付き眼鏡越しに空を見あげていた。  一カーロンほど歩いた時、「あっ」とアンバーが声を上げた。 「どうしたの?」  問いかけるリセラに、彼は答える。 「この先の海辺に、誰かいる」 「えっ?」リセラとブラン、サンディが同時に声を上げた。 「人影かい?」ブランが重ねて聞く。 「そう。人だ……二人」  アンバーは行く手に目を凝らすようにしながら、答えた。彼は風の民の能力である、並外れた視力の持ち主だった。そうしていつもいち早く、なにかを見つけるのだ。彼の示す先は、一行六人の進行方向だ。その方向へ歩いていくにつれ、他の人々の目にも、行く手に小さな黒い点が見えていた。 「あれは……」アンバーがいち早く駆け出した。 「ブルーだ、たぶん。それで、フレイが寝てる」 「えっ?」リセラが声を上げ、ブランとともに後を追って走り出した。  サンディとミレア王女も少し足を早めかけている。 「どうしたの?」ナナンが少し怪訝そうに聞いていた。 「たぶん、わたしたちの仲間の人が、この先にいるみたいです。ブルーさんとフレイさんといって、船から泳いでここに渡った人たちなんですが」サンディが答えた。 「船から泳いで、っていうことは、水の民なのかい?」 「ええ。ブルーさんは。フレイさんは火の民だということですが」 「火の人間に水は厳しいだろうなぁ。ぼくは、火は四分の一だけど、泳げないし」  ナナンは少し身震いをしているようだった。  近づいていくにつれ、二人の姿ははっきりみなの視界に入ってきた。ブルーが砂浜に跪き、砂浜に寝ている状態の赤髪の男の肩をゆすっていた。「おい、フレイ、おい! 起きろ!」と、声をかけながら。その声には、少し恐れの響きがあった。 「やっぱりブルーとフレイだ! 会えてよかった! どうしたんだい?」  いち早く駆け付けたアンバーが声をかける。その声でブルーは振り向いたが、その顔はすっかり色をなくしていた。 「おお、アンバー! みんなも! 助かった! だが、こいつが目を覚まさないんだよ」 「ええ? どうして?」 「陸地までもうちょっとってとこで、波に持ってかれたんだ。慌てて引き返して拾ったんだが……それまでも、だいぶ波をかぶったからなあ。背中でぎゃあぎゃあ騒ぐから、うるさいと思ってたんだが……こいつが静かなのは、よけいいやだ。ここへ着いてかれこれ二カーロンはたつが、こんなずっと有様なんだ。こいつ……まさか死んだ……んだろうか」  ブルーは気分が悪くなったような顔で、かつてのけんか相手を見ていた。 「いや……まさか。それに、二カーロンもたってたら……もし死んでいたら、溶けはじめているよ」アンバーも心持ち青ざめながら、そっと手を伸ばして砂浜に寝ている赤髪の男に触れていた。 「火の民に水は天敵だからね」  少し遅れてやってきたブランがそのそばに屈みこみ、首や顔を触り、ついで手に触れた。 「どうしたの、フレイ? 水にやられちゃったの?」  リセラも心配げな表情で砂浜に座り、見ている。 「……大丈夫」  ブランはしばらく調べるようにあちこち触った後、頷いた。 「気を失っているだけだと思うよ。ただちょっと水の力が強すぎて、自分を守るために、一時的に仮死状態みたいになっているだけだ。ロージアがいれば、ファレムで回復できるだろうけれど……」  彼は背中にしょっていた小さな袋を下ろし、その中をしばらく探しているようにかき回した後、小さな瓶を取り出した。その中には、少しピンクがかった透明な液体が入っている。「これでも大丈夫かな」と呟いて、ブランはその蓋を開け、フレイの口を開けさせると、その中身を数滴たらした。 「ぶわっ!」  その液体が口に入ってしばらくすると、フレイは目を開き、飛びあがるように上半身を起こした。 「あ、気がついた!」 「良かった!」アンバーとリセラが、同時に声を上げる。  フレイには仲間たちに目を向ける余裕はないようで、砂浜にうずくまって、激しくせき込んでいる。やがて彼は、かなりの量の水を吐き出した。 「ああ、もう、くそったれ! 死ぬかと思ったぜ」  声が出るようになると、うめくように言う。 「おまえが暴れるから、波にさらわれる羽目になるんだ」  ブルーは安心したのか、いつもの口調に戻っていた。 「だって、無理だぜ。あんなに続けざまに波をかぶっちゃ! おまえは平気だろうけどな」  フレイは首を振り、そこであらためて気づいたように、周りを見回した。 「あれ、みんないるぞ……全員じゃないが」 「ああ……アンバー組とリセラ組とは、ここで合流できたようだ。一人、見慣れないやつがいるが」  ブルーはほかの六人に目を向けていた。リセラは再び、ナナンと一緒に来ているわけを二人に説明した。 「ああ、そういうことなのか」ブルーとフレイは、同時に頷く。 「リルたちを助けてくれたことは、恩にきる、少年。ミディアルがなくなっちまったのは、あんたにも俺たちにも、あいにくだったがな」  フレイはナナンに向かい、声をかけた。 「いや、まあ、そんなたいそうなことじゃないし」と、少年は繰り返す 「あなたはブルーに感謝すべきよ、フレイ。波にさらわれたあなたを、もう一度拾い上げてくれたのですもの」リセラがそう付け加えた。 「ああ……まあ、その辺は、ありがたいと思っている……」  フレイは相手を見ずにぼそっと言い、 「ふん……あとでディーに叱られるのも、いやだからな」  ブルーは砂浜に目を落とし、ぶぜんとしたような表情でそう返す。 「結局それで俺を助けたのかよ」 「そんなことないと思うわよ。ブルーはあなたのことを、本当に心配していたんだから」 「余計なことは言うな、リセラ。あれは少し慌てただけだ」  ブルーはきまり悪げな顔で、もごもごとした口調になっていた。  フレイも一瞬、軽い驚きの表情を見せ、言葉を探しているようだったが、やがて激しく首を振り、強い口調で言った。 「ま、まあ、ブルー、ともかく、恩に着る! だが、ここだけにしようぜ。こんなの、俺たちらしくねえからな!」 「ああ、もちろんだ」 「それにしても、口の中がとんでもなく苦いな」  フレイは口をゆがめ、砂浜に唾を吐いた。 「吐き薬を飲ませたからね。ロージアがいれば治療技が使えるんだが、彼女がいないんで、これしか方法を思いつかなかったのさ。そんなに時間に余裕がなかったから、空ボトルと洋服の加工道具と、いくつかの薬しか持ち出せなかったんだが……役に立ったね」 「そうか。ブランにも世話になったな。もうちょっと口当たりがよければ、もっと嬉しかったんだが……」  そう言うフレイに、ブルーがむっつりした口調に戻って返す。 「美味い薬なぞ、あるものか。吐き出させるなら、余計だ」 「そう、これは特別苦いんだよ。そうしないと、吐き薬にならないからね」  ブランも少し微笑を浮かべていた。 「二人とも、歩けるようなら出発しようか。僕らはみな、ナナンくんが道を知っているから、案内してもらっているんだ。港町バジレまで」 「異論はないが、少しだけ待ってくれ。レラを補給するのを忘れていたんだ」  ブルーの言葉に、フレイも頷く。そこで一行は、再びその砂浜に腰を下ろし、二人がポプルを食べ終わるのを待った。そしてここでもナナンがダヴィーラの技を使って海の水を浄化し、二人に渡していた。 「なかなか役立つ少年じゃないか。バジレまでしか一緒じゃないのは惜しいな」  フレイがそう言い、ブルーも頷いていた。  二人が元気を回復すると、今や八人になった一行は、再び砂浜を歩きだした。一カーロンほど歩くと、砂浜は終わり、木がまばらに茂った林になった。真ん中に、細い小道がついている。そこをさらに一カーロンほど歩くと、その林は、別の方向から伸びてきた、灰色の石で舗装された道路で途切れていた。再び右側には海が見え、その道路は直角に曲がって、北へと延びている。その先に、小さな港町が目に入ってきた。 「あそこがバジレだ」  ナナンが指さして、そう告げた。  アーセタイルの港町バジレは、ミディアルの港町ディスカより少し規模は小さく、埠頭には三隻の中型船が停まっていた。もう荷物は積み終わったか、降ろしたかしたのだろう。十数人の水夫たちはみな手持無沙汰な様子で、木の箱の上に座っていた。その後ろ側の区画には、木でできた大きな箱型の車――下には六個の車輪がついていた――が何台か停まっているが、駆動車のようなものはない。その後ろには大きな平たい建物が建っているが、ドアは閉まっているので、その中は見えなかった。  埠頭部分の奥には町がある。碁盤の目状に走る石の道路に、民家が立ち並び、その間に店が点在している。食料と水を売る店、洋服を売る店、雑貨屋。宿屋もたぶん、どこかにあるのだろう。 「アーセタイルに着いたらバジレで落ち合う約束だけれど、ここまでにはいなかったわね。ディーたちとレイニたちは……」  リセラは町の中央にある広場に立ち、あたりを見回した。 「まあ、幸いそんなに大きな町じゃないから、探せば見つかるんじゃないかな」  アンバーが言い、 「あくまで来ていればな」と、ブルーが付け足す。 「具体的な場所って、決めてなかったのかい? 広場で会おうとか」  ナナンは少し不思議そうに問いかけた。 「修羅場だったんだぜ、少年。そんな余裕はないさ。それに俺たち、アーセタイルに来たのは、もともとこの国出身のブランとペブル以外初めてだから、バジレがどういう町「だかも、知らなかったんだ。ブランやペブルも、行ったことがないらしいしな。とにかく……探すしかないか」フレイが首を振って答える。  一行が町を歩いていると、すれ違う人々が目を向ける。茶色、もしくは緑の髪と目、濃淡はあるが、少し茶色っぽい肌の色ばかりの人々の中で、異質の色は目を引くのだろう。たいていは好奇心のようだったが、中には少し顔をしかめて身を引くものもいる。 「なんだか本当に、視線を感じるわね。ここへ来てから。ミディアルではそんなことはなかったのに」リセラが当惑したように、かすかに首を振り、 「本当にね」と、アンバーも苦笑いを浮かべている。 「でも、あからさまに嫌がっている人は、それほど多くなさそうだ。アーセタイルは穏やかな民だというのは、たしかなのかもしれないな」  ブルーが相変わらずぶすっとした表情ながら、そんな意見を述べた。 「少なくとも、フェイカンよりはましだということは、わかるがな。ありがたいんだろうが……」フレイも周りに目をやりながら、頷く。 「ましなのかなあ、これでも。他の国は知らないけれど」  ナナンが少し怪訝そうに首を振った。 「私も他の国のことは知らないけれどね。どこでも、ミディアルのようなわけにはいかないだろうな。あそこは雑多な人間がいたから」  ブランが小さく首を振る。 「国が変わっても、言葉は同じですか?」  サンディはふと思いついたように、問いかけた。 「だって、ぼくと話が通じているんだし、あたりまえじゃないか」  ナナンが再び不思議そうに返す。 「世界が変われば言葉も変わるだろうっていうことは、わかるけれど……あなたの世界では、国が変わると、言葉も変わるの?」  リセラも少し驚いたように聞いていた。 「たぶん……よくわからないですが」 「だとしたら、それはえらく不便だな。ミヴェルトが大活躍しそうだ」  フレイは首をすくめていた。 「でも……レイニさんのミヴェルトは、わたしもここに来た時すごく助けられましたが、異なる言葉でのコミュニケーションですよね。でも、言葉がどこも同じだとしたら、その能力は……わたしたち異世界の人との交流にだけ、使われているのですか? 光や闇の国は、巫女の候補を外から連れてくることもあるとディーさんが言っていましたが、そういう人のためにだけ……でも、水ですよね。その能力」 「水の中には……アンリールとセレイアフォロスでは、たまに違う言葉をもって生まれてくるものもいるんだ。数百人に一人くらいの頻度だがな。原因はわからない。だが、その言葉は時に予言を発したり、他のなにかからの事象を伝えたりすることもあるとされる。そういう異言もちはラリアと呼ばれ、ミヴェルトは主にその言葉を伝達するために使われるんだ。まあ、他の世界の言葉にも適応できるから、たまにユヴァリスやマディットから通訳要請がかかることもあるんだがな」  ブルーは少女にちらっと視線を向けながら、説明している。 「そうなんですか……」  サンディは頷いた。それも漠然と「この世界の知識」として、彼女の中に記憶されたもの中に、付随する感情はなく付け加わっただけだった。以前の記憶を持たない彼女には、この世界のこと――世界には果てがあり、レラというエネルギーによって動かされ、人々はその使ったエネルギーを補給するためだけに食事を――ポプルというレラの塊のような果実と水だけを取るということ。力の種類が違う八つの国に精霊と巫女、神官が国を治め、人々は異なる種類の力が混じることを嫌い、混血はディルトと呼ばれて、その固有の国ではあまり居心地がよくないことが多く、そのためにミディアルが建国されたということ。でもそのミディアルは「不純すぎる」という理由で闇の国、マディット・ディルに滅ぼされた――そういうこの世界のすべての知識――最後のものは彼女自身も巻き込まれ、心の痛みとともにその経験を共有したが、それ以外は今のところ、彼女にとってはまるでたんすの引き出しに無造作に入れられた『知識』にすぎないのだ。まだ今は。  サンディはしばらく考えたあと、ふと思いついて、頭を上げた。 「わたしたちがここでは珍しいなら……ディーさんやレイニさんたちも、きっと珍しかったはずです。町の人に聞いてみたら、覚えているんじゃないでしょうか」 「あら、それはいいアイデアかもね」リセラが声を上げた。 「あまり敵意むき出しのやつに聞いても、答えてはくれなさそうだが……」  ブルーが周りを見回し、 「そういう人じゃない人を選んで聞けばいいさ。ここはまだ、結構いると思うからね」  ブランが提案し、こう続けた。 「それは、サンディが聞きにいったらいいんじゃないかな。ミレア王女様でもいいけれど、かなり白が混じっているし、王女様に使い走りをさせるわけにもいかない。サンディなら、見た目は完全に土の民だから、相手も私たちが行くよりも、気を許すだろう」 「わかりました。聞いてきますね」  サンディはそれまでつないでいたミレア王女の手を放すと、王女ににっこりと笑いかけ、一行から離れた。そして道端で、港でたくさん見かけたような木製の荷車に水の瓶を積んで売っている女の人のところへ行くと、再びにっこり笑って訪ねた。 「すみません。ちょっと聞きたいんですが、水色の髪をした女の人と、銀色の髪の女の人、それか黒髪に少し金色が混じった男の人と、黒髪の太った男の人を見ませんでしたか?」 「ほかの国の人と……ディルトさんだよねぇ、それは」  茶色の髪が肩に垂れ下がり、くすんだ緑の丈の長い服を着た、中年すぎに見えるその女性は、少し驚いたように瞬きをして、サンディを見やった後、少し離れたところに立っているリセラたち一行に目を向けた。 「ずいぶん色とりどりな人たちだけど、あんたのお連れさんかい?」 「ええ。わたしたち、ミディアルから来たんです」 「おや、ミディアルから!?」相手は驚いたようだった。 「あそこはマディットに滅ぼされたんじゃないかい?」 「ええ。でもその前に逃げてきたんです」 「よく無事に逃げられたねえ」  相手はさらに驚いたように、見つめていた。 「ええ。でも嵐にあって、船が難破したので、わたしたち、ばらばらに陸地を目指して、ここで落ち合う約束をしたんです。それで、はぐれた仲間を探しているんです」  そう説明するサンディに、店の女性は再び驚いたような表情でしばらく沈黙した後、思い出そうとするかのように視線を空に向けた。 「黒髪の人は……二、三人見たけれど、金まじりは知らないねえ。あ、でも水色と銀色の髪のきれいな女の人が二人、連れ立っているのは見たよ。一カーロンくらい前だったかね。ここで水を買って行ったっけ」 「本当ですか? どっちへ行きました?」 「右手の方に行ったよ。銀髪の人の方が、『湯屋へ行きましょう』って言っていたのが聞こえたから、そこへ行ったんじゃないかね」 「お湯屋さんって、どこですか?」 「その通りを右手にまっすぐ行って、ポプル屋の角を右に曲がってすぐだよ」 「ありがとうございます! あ、今わたしたち、お金持っていないんですけど、お金ができたら、お水買いに来ますね!」  サンディは礼を言うと、仲間たちのところへ駆け戻り、今聞いた情報を伝えた。 「あら、よかったわ! それはきっとレイニとロージアよ。あたしたちもお湯屋さんに行きましょう。一度身体をきれいにしたいわ」  リセラが声を上げ、ミレア王女もこくっと無言でうなずいている。 「一カーロン前なら、二人とももう出ちまってる可能性は高いがな。それに、稀石を金に換えないと、湯屋には行けないぞ」  ブルーが首を振って言い、「ああ、そうね」と、リセラも思い出したようだ。彼女は、今度は自分自身で水売りの女性のところへ行き、稀石商の場所と、レイニとロージアとみられる二人の女性について、確認に行ったようだった。その後、一行は稀石商で少し大きめの緑の稀石を五つほど、アーセタイルの通貨に換えてもらい、水売りの女性からお礼として六本水のボトルを買うと、湯屋を目指した。そして、ちょうどその中から出てきたレイニとロージアに再会できたのだった。 「あら! よかったわ、会えて!」  レイニが驚いたように目を見開き、声を上げた。彼女もロージアも湯上りらしく、髪の毛もきれいに梳かされ、新しい洋服を着ていた。 「本当に、会えてよかった! でもお湯屋に行ったって聞いてから一カーロン半はたっているから、もう二人ともとっくに出ちゃったのかと思ったよ」  アンバーが感嘆したように言い、 「本当に、かなりの長風呂だな」と、ブルーは呟く。 「その前に、新しいお洋服と袋を買っていたのよ。着替えは船と一緒に沈んじゃったから」と、レイニはかすかに笑いながら答え、 「あなたたちもお湯に行く前に、新しい服と袋くらい、買った方がいいわよ」と、ロージアもかすかに口元をほころばせながら、そう勧めた。 「そうね。たしかにそうだわ。洋服屋はさっきの道にあったから、戻って買ってきましょう。レイニ、ロージア、あなたたちはこれからどうするの?」  リセラの問いに、レイニが答える。 「とりあえず、宿屋を見つけて泊まろうと思っていたの」 「じゃあ、あたしたちも、まず宿屋を探すわ。お宿を決めてから、お洋服を買って、湯あみをすればいいから」と、リセラが言い、 「そうだな」と、男たちも頷いていた。 「あ、あのさ……バジレに着いたことだし、お仲間も見つかったなら、ぼくはもう、帰った方がいいかな……」  そこでナナンがちょっともじもじしながら、そう言いだした。レイニとロージアも初めて気づいたように彼に目を向け、そしてリセラが少年と一緒に来たわけを再び二人に繰り返した。 「それは、本当にありがとう。それで、あなたはこれから家に帰るの?」  レイニは少年に向かって微笑みながら、そう問いかけた。 「ああ……ほかにどうしようもなさそうだし……母さんや新しい父さんも、きっとがっかりするだろうけどなあ」 「でも、ラーダイマイトまでの乗り合い車は、もう出てしまったんじゃないかな」  ブランは少年の方に、軽く手を置いた。「たいていどの町でも、他の町へ行く乗り合い車は昼の四カルまでには出てしまうからね。もう七カル近いんだから、明日までは帰れないよ。今日は私たちと一緒に、宿屋に泊まったらいい」 「あら、それがいいわ!」リセラが声を上げた。 「あなたは、家に帰るだけのお金は持っているの?」  ロージアが問いかける。いつもより優し気な口調だ。 「ああ。ミディアルまでの船の切符代は返してもらったから」 「そう。でも、それはとっておくといいわ。あなたの町までの乗り合い車の切符は、わたしたちが買うわね。リルたちを助けてもらったのと、ここまで案内してもらったお礼に。宿代も心配しなくていいわよ」 「あ、それは、ありがとう……」  ナナンはちょっと顔を赤らめ、頷いていた。  一行はその後、バジレに二件ある宿屋のうちの一つに泊まることに決め、その後、すでに湯あみと着替えの購入を終えているレイニとロージア以外の八人は、改めて町へ出かけてその用事を済ませてきた。そして夕方、宿屋の部屋で床に座って食事をした。その部屋には両端に二段になった木の寝棚が二つずつ、合計八つ取り付けてあり、マットと毛布が置いてある。一行は十人なので、二人は床に寝ることになるが、床にも柔らかい敷物が敷いてあり、毛布が二枚置いてあった。みなはミディアルでしていたように、丸くなって座り、ポプルを食べ、水を飲んだ。 「あなたはきれいな水を自分で作れるけれど、ナナンくん。宿屋の人にもらわないと水自体がないから、これをどうぞ」  リセラは水売りから買ったボトルを、少年にも手渡していた。ナナンはそれを「ありがとう」と受け取り、ポプルの方はロージアが緑のポプルを渡そうとするのを、「大丈夫」と断ると、手の間にレラを集めてポプルを生み出す、エリムという技を使って、自分で緑のポプルを出して食べていた。 「自分でポプルを出せるのって、便利だな」と、フレイがそれを見て感心したように言い、 「でも、それを作り出すのにレラを使うことになるから、普通の人よりたくさんポプルがいるのかな、補給は」と、アンバーは少し首をひねっていた。 「そうなんだよ。これを出すのに、レラが半分要るから、普通の人は一つ食べればいい時、ぼくは二つ要るんだ」  ナナンは頷きながら、出した緑ポプルを食べている。 「でもそうすると、残り半分のレラは、どこから来るんですか?」  サンディは不思議そうだった。 「周りから集めるんだ」 「その技は、じゃあ、アーセタイルならではだわね。もしミディアルにあなたが行っていたら、あそこはレラが少ないから、白しかできないかもしれないわ」  レイニは微笑んで言う。。  みなが食事を終え、一息つくと、リセラは小さくため息をついて、仲間たちを見回した。 「とりあえず、落ち着いたわね。あたしたち、九人は合流できたし。ディーとペブル以外」 「いや、俺はあの二人は、とっくに着いてるかと思ったぜ」  フレイは首を振った。 「せっかく合流できたが、リーダーがいないと困るからな」  ブルーがぼそっと言う。 「いくらペブルが重いとはいえ、ディーは力の強い人だから、海に落ちたりしたとは思えないわ。きっと何かの事情で遅れているのよ。明日にはきっと会えると思うわ」  レイニがいくぶんきっぱりした口調で言い、全員が頷いていた。  そして一行はそれぞれの寝棚に行き――ブランとフレイは床に寝たが――船の中での波に揺られての眠りではなく、動かない土地の上での、柔らかいマットと毛布にくるまって眠った。  翌朝、起きだしてきた十人は、とりあえず全員が合流し、今後どうするか決まるまで、その宿に泊まることに決めた。ナナンにも、「ディーやペブルにも、あなたを会わせたいから」とリセラが言い、ほかのみなもそれに賛成したので、それまで彼も一行に加わることになった。そして彼らは昨日湯屋で着替えた、それまで着ていた服をいつものように洗濯しようとして、洗濯機は船と一緒に沈んだことを思い出し、料金を払って、宿屋の人に頼むことにした。洗ってもらった服を部屋に付属している小さなベランダに干しているとき、その向こうの道路を何台もの車が走っていくのが見えた。車自体は昨日港で見た、車輪が六つついた木製の四角いものだが、それを引いているのはミディアルのような駆動車ではなく、動物のようだった。茶色で、人間よりも少し大きく、少し首は長く、長めの足が六本あり、尻尾とたてがみは緑、丸い二つの目は濃い茶色の、柔和な顔立ちをした動物――あれに近いものを、見たかもしれない――そんな記憶のかけらが、サンディの脳裏をかすめた。それが二頭、時には三頭で、たくさんの荷物を積んだ車を引っ張っている。その中に一台、木製の大きな車――車輪は八つあり、中には緑色の椅子がいくつもついていて、人も十人ほどそこに座って乗っている、木製の天蓋のついた車が、三頭のその動物に引かれて、通って行った。 「あれが乗り合い車だよ。どこに行くのかは、わからないが」  ブランがそう説明した。 「あの、車を引っ張っている動物は……?」サンディが聞いた。 「あれはサガディという生物で、道からレラを吸収して、エネルギーに変えて走るんだ。ミディアルでは我々は駆動車を使って、自分のレラを伝えて進んでいたけれど、彼らは駆動装置を体の中に備えている、駆動生物なんだよ、いわば」  ブランは少女の方に向き直り、そう説明してた。 「あなたのイメージする動物とは、少し違うかもしれないけれど」  レイニがサンディの両肩に後ろからそっと手をかけ、付け加えていた。 「レラが補給され続ける限り、彼らは疲れを知らない。同じような駆動生物は、どこの国にもいるけれど、国によって種類は違うの。たとえばアーセタイルではサガディだけれど、私がいたセレイアフォロスでは、水色の、もうちょっと細長くて流線型で、毛はなくて、足は四本の、パジェミラと言う動物が車を引いているのよ。駆動生物はどこでも、生まれて三年たつと車を引く仕事について、それから十五年たつと引退し、死ぬまでの七年くらいで繁殖をするの。彼らは人間のいうことはとてもよく聞く、賢い生き物よ」 「そうなんですか」  サンディは少し驚きを含んで、行きかう車を眺めていた。同じように、ずっとミディアルでは駆動車の引くものしか見ていないミレア王女も、不思議そうに見ている。  その日はみなで港に出て、水夫たちから話を聞いた。中には彼らを少し胡散臭そうな目で見る者もいたが、かなりの人たちが気軽に話をしてくれた。 「ミディアル行きの船は、当分出ないよ」  恰幅のいい水夫の一人がそう告げた。 「向こうからも、しばらくは来ないだろう。あそこからの珍しい機械やきれいな織物が、当分手に入らないのは痛手だろうがね。昨日、マディット・ディルの神官からこっちの神殿に、書簡が来たらしい。通信鳥を使って。その内容が今朝、こっちにも来たんだ。町の長のところにね」 「ここでは、どうやって連絡を取り合うんですか?」  サンディはそっと仲間たちに聞いてみた。 「連絡を受け持つ鳥がいるんだよ。ミディアルに来た、マディットの伝言鳥のように、直接声でいうものと、書簡を届けるものがいるが。その鳥の種類は、駆動生物と同じように、国によって違うんだ」  ブランが小声でそう説明していた。 「なんて言ってきたんですか?」  ロージアが落ち着いた声で尋ねた。 「これから一年の間、ミディアルは閉鎖することになる。そしてマディット・ディルの属国となり、生き残った者たちはその罪をあがなうため、それまではマディットの神殿奴隷となる。一年がたった後は、再び彼らはミディアルに戻されて、それまでの生活ができるらしいが、あそこにいた王の代わりに、マディットから監督者たちがやってきて、厳しく統制されるだろう。しかし、そのころから貿易は再開する予定だ。人の数は今までよりかなり減っているだろうから、労働力確保のための移住者は、審査をして受け入れるが、ディルトのみで、純血種は入れない、ということだった。今朝、町の長がここに来て、そう言っていたんだよ。だから一年間はミディアル行きの船は出せないし、向こうからも来ないだろう。実際、一シャーランほど前に来た船以来、あそこから船は来ていないんだ」 「あら……それならあの時、港町ディスカから逃げ出せた船は、いなかったのかしら。あたしたち以外……」リセラは少し表情を曇らせ、 「でも、他のところへ行ったのかもしれないわ」と、ロージアは首を振った。  一行が港から町へ引き返す途中で、通りの向こうから見慣れた二人の男が近づいてきた。長い黒髪で頭頂部にひと房金色が混じった、背の高い男と、黒髪の巻き毛の、でっぷり太った男。 「ディーとペブルだわ!」  リセラが小さく叫んだ。同じように、みなが――おそらくナナン以外――声を上げている。 「おう! みんな無事に合流できたようだな、よかった!」  ディーは大股に近づいてきた。その後からペブルが体を揺らして、小走りにやってくる。 「遅かったじゃないか!」 「心配したよ!」 「でも、本当に良かった!」  そんな声が口々に上がり、みながひとしきり再会の喜びを分けあった後、リセラはナナンを二人に引き合わせ、少年が同行しているわけを話した。それに対し、一行のリーダーはほかの皆と同じように、短い感謝の言葉を口にし、少年もまた再び照れたように返礼していた。  全員がそろったところで、一行は宿屋に引き返した。ディーとペブルの分も宿泊手続きをすると、みなは再び部屋の床に座った。 「遅かったから心配したぜ、ディー。大丈夫だったのか?」  フレイがそう口火を切った。 「心配させて、申し訳なかった。少し北に行き過ぎたようで、俺たちは森の中に落ちたんだ。そこで柔らかいくぼ地を見つけて寝ていたら、思ったより寝すぎてしまったらしい」  ディーはみなを見回してから、連れを振り返った。 「詳しいみなの話はあとで聞こう。それより……」 「ああ」ペブルは頷いて、胸元のポケットに手を入れ、中から何かを取り出して、片手に乗せて見せた。それは彼の大きな手のひらより一回りくらい小さく、薄い緑色の毛におおわれた、ふわふわしたボールのように見えた。が、よく見るとそれには茶色くて細い三本の足がある。胴体の真ん中付近に、大きな傷跡があった。 「ナンタムだね。でも、弱っている感じかな」  ブランがのぞき込む。 「そう。怪我をして弱っているようなんだ。野営したくぼ地で見つけた。ロージア、こいつを直せるだろうか?」 「怪我は治せると思うけれど……」  ロージアはペブルの手からそのボールのような生き物を受け取り、そっと掌の上に乗せると、もう一方の手で包むようにし、目を閉じた。少し緑がかったレラがその手から発せられ、渦を巻くようにその生き物を包み込んでいく。一ティル(一カーロンの七十分の一の単位)ほどで、傷は消えてなくなった。目を見張るサンディに、レイニが「あれは土のレラの技の一つで、ファレムと言う、回復系のものよ」と、説明してくれた。魔法、と言う言葉が一瞬サンディの脳裏をよぎっていったが、その言葉の意味をはっきりと思い出すことはまだないものの、これは近いが違う種類のものかもしれない、という感じも漠然と覚えた。 「傷は治ったけれど、この子はレラの補給をしないと、元気にならないと思うわ」  ロージアが手の上の生き物をそっと撫でた。 「そうなんだろうな。ナンタムはレラと連動して生きているから。だから連れていくのも、俺よりペブルの方が適任だろうと思って預けたんだが。あいつも半分は土だからな」  ディーも、かすかに首を振っている。 「この子は、ポプルは食べないんですか?」  サンディは聞いてみた。ディーは頭を振り、答える。 「ポプルを食べるのは、人間ぐらいだろう。たいていの生物は地面やら空中にあるレラを直接吸収して、生きているんだ。人間はそれができないから、ポプルを介するしかないんだがな。特に、このナンタムという生物は特殊で、ある意味レラの塊的な存在なんだ。レラを吸収する時もあり、放出する時もある。普段は群れでいて、レラの豊富な場所にいるんだが、こいつは何かの事情ではぐれたらしい」 「濃いレラが必要なら、エリムが使えないかな」  ナナンがそこで言い出した。 「ああ。レラを集めて、ポプルにする前にナンタムに吸収させればいいかもしれないね」  ブランが頭を上げ、同意する。 「やるだけやってみよう。貸して」  ナナンはその生き物をロージアから受け取り、手のひらにのせると、もう一方の手をその上にかざした。ポプルを出した時と同じように、濃い緑色のレラがその間に溜まっていく。それは、その薄緑の生物に吸い込まれていくような感じだった。  しばらくすると、それは震え始め、まん丸い茶色の二つの目が、球体の真ん中にぽっかりと開いた。そしてぱちぱちっと瞬きをし、ぶるっと大きく身を震わせると、立ち上がり、ぴょんぴょんと跳ねるような動作で、少年の肩に這い上がった。 「お、元気になった」  ナナンは自分の肩に這い上がった生き物をなでた。 「良かったわ、元気になって。あたしは初めて見るけれど、かわいいわね」  リセラも手を伸ばし、なでようとした。それはちょっと身体をすくめて、身を引くような動作をする。 「そういえば、リルはミディアル育ちだから、ナンタムを見たことはないんだな。ミディアルにはナンタムが育つほどのレラがないから、いないんだ。白いナンタムというものはないしな。他の八つの国には、それぞれ固有のエレメントのナンタムがいる。そいつは土のナンタムだから、土のエレメント持ち以外に触れられるのは、嫌がるんだ。だから俺も触れない」  ディーはかすかに苦笑を浮かべながら、リセラとナンタムを交互に見る。 「そうなのね、残念。じゃあ、この子に触れるのは、ナナンくんと、ペブルとロージアだけね。ああ、ミレア王女も少し土が残っていそうだから、大丈夫かしらね」  リセラの声には、残念そうな響きがあった。ミレア王女が少しおずおずと手を伸ばして、小さな生き物に触れ、そっと撫でた。それはちょっと身を摺り寄せるような動作をし、それを見た王女の顔が、小さくほころんだ。 「かわいい……」 「私は土だが、色抜けだから無理だろうかね」  ブランが苦笑しながら、手を伸ばした。触れても嫌がりはしないが、うれしそうでもない。サンディがやっても同じだった。その毛はふわふわしていて、コティの実に似ていた。 「無色は他のエレメントがないから、嫌がりはしないんだろうな」  ディーは再び苦笑して首を振り、言葉を継いだ。 「俺たちは前にも言ったように、少し方向を間違えて飛んだようで、バジレの北にある森に落ちたんだ。夜だったから、ペブルと二人、とりあえず休めそうなところを探しているうちに、下に草が茂っている、広いくぼ地に出た。湧き水も近くにあった。おあつらえ向きの場所だ。そこで水を飲んでポプルを食べ、寝た。だが思ったより、俺たちは疲れていたらしい。目が覚めたら朝だったが、丸一日寝ていて、さらに次の日の朝になっていたことは、ここへ来て初めて気づいた。起き上がって、水を飲みに行こうと思ったら、このはぐれナンタムが倒れていた。来た時には気づかなかったが、俺は夜目が効くから、いたらわかったと思う。たぶん寝ているうちに来たんだろう。弱ってはいるようだったが、死んではいないようだった。そこで俺は、ふと昔、俺の年取った親戚が言っていたことを思い出したんだ。『新しい土地に行ったら、まずナンタムの後についていくといい』と。まあ、迷信かもしれないが、アーセタイルでは右も左もわからない。それでこいつを連れて帰って、ロージアに治療してもらおうと思ったんだ。ナナンくんがいてくれて、回復もできたし、おかげでこいつも元気になった」 「そうね」リセラは頷き、少年の肩に乗っている生き物を見やった。 「新しい土地に行ったら、ナンタムの後についていけ、って、そういえばあたし聞き覚えがあるわ、子供のころに。お父さんが昔、言っていたの。同じことを。ただ、ミディアルにはナンタムはいないから、無理だなって笑っていたのよ。思い出したわ」 「僕は初めて聞くけど、まあ、ナンタムはエレメントの重要な一部だしね」  アンバーが頷き、ブルーとフレイも同意している。 「でも、ナンタムの後についていくって、どうするの? その子に先導させるの?」  ロージアが少し怪訝そうに聞く。 「ああ。たぶんこいつは、元の群れに帰ろうとするんだろうけれどな。ナンタムの移動スピードは、本気になると早いから、歩いては追いつけないだろう。車がいるな。駆動生物付きの。ここでは手に入れられないから、まずもう少し大きな町に行こう」  そう言うディーに、サンディは少し心配そうに聞いた。 「でももし、この子が道を外れて森の中とかに行ってしまったら、大丈夫ですか?」と。 「いや、ナンタムは賢い。同じエレメント持ちの人間の言葉は理解するようだ。道路のはじを行ってくれ、と言えば、従ってくれるはずだ」 「そうなんですか……」 「そう。だからナナンくん。君が一番エレメントの力が強そうだから、そいつに伝えてくれないか。明日俺たちは乗り合い車で近くの大きな町、そうだな、ここだと、ティルカナか。ここへ来る途中に、標識があった。そこへ行く。そしてそこで車を一台手に入れて……借りるのは無理だな。買うことになるだろうが、そこから君が来たところまで、道の端を進んで帰ってくれと。俺たちが追いつける速さで」  ナナンは「わかった」と頷いて、ディーの言葉と同じことを、肩に乗った生物に伝えた。それは少し体を傾けて聞いているようなしぐさを見せ、それから頷くように体を縦に振っている。 「それでだ、ナナンくん。君が急いでいないなら、ナンタムを群れに返して、近くの村なり町なりに行くまで、俺たちに付き合ってくれるとありがたいが。そいつは君に一番なついているようだからな。その後ラーダイマイトまでの乗り合い車の切符を買うか、もし近ければ車で送って行こう。どうだろう」  ディーはその様子を見て、そう言葉を継ぎ、 「あ、ああ、もちろん!」と、少年は表情を輝かせ、頷いていた。 「じゃあ、明日出発ね。とりあえずティルカナ行きの乗り合い車に乗りましょう」  リセラが言い、みなは頷いた。そして船が沈没してからバジレに来るまでの話を、改めて話し始めたのだった。  その翌日、ようやく全員がそろった一行は、アーセタイルで出会った少年ナナンとともに、港町バジレをあとにした。乗り合い車の客車は二一人乗りなので、一気に十二人が乗ると満員になった。他に十人ほどの客がいたからである。 「珍しいな。乗り合い車が満員とは」  一番前の、少し張り出した座席に座った男は振り向き、苦笑いを浮かべていた。 「本当は一人オーバーだが、まあ、いいだろう。小さいのは詰めて座ってくれ」  男は正面を向き、車につながれた三頭のサガディと言う駆動生物に向かって声をかけた。 「頼むよ。いつもの通り、ティルカナまでだ」  それだけで、サガディたちはわかっているようだった。三頭は足並みをそろえて前に進み、車は走り出した。その速度は、ミディアルでの駆動装置付きのものと、そう変わらない。緑色に塗られた屋根のついた客車には、固い木でできた椅子が並んでいる。三人掛けのものが七列だ。その最後尾の三人用椅子に、ブラン、サンディ、ミレア王女、ナナンが身を寄せ合って座った。その前の席では、ペブルが半分くらい座席を占め、その横にほっそりした二人の女性、レイニとロージアが、やはり身を寄せ合って座っている。 「ティルカナって、ここからどのくらい遠いのですか?」  サンディはブランに聞いてみた。 「そうだね……だいたいの距離は見当がつくけれど、このスピードが我々の車の平均スピードと同じくらいだとしたら、たぶん二カーロンかかるかかからないか、くらいだろうか」  白髪の小男は少し考えるように黙った後、そう答えた。  バジレの町を出てしばらくすると、道はなめらかな土の色になった。その両側に、緑の草原が広がる。西側にはなだらかな山があり、東側には、ところどころ森が見える。その森の間から、海も見えた。サガディという駆動生物たちは道を知っているようで、前に座った男が何も言わなくても、道の分岐を曲がっていく。そこに立った標識から、その方向が正しいことは、一行にもわかった。  ブランの言うように、二カーロンもしないうちに、乗り合い車はティルカナに着いた。そこは港町バジレよりは大きくて賑やかだが、ミディアルの都エルアナフよりは小さかった。街の門を入ると、道は再び石畳になる。その街の中央にある広場で、乗り合い車は止まり、乗客たちは下りていった。 「さてと、まずは稀石商を探そう」  広場に降りると、ディーは周りを見回した。 「車を買うにしろ借りるにしろ……ポプルも買わないといけないしな。まずは金が必要だ」 「車が買えるほど、緑の稀石はあったかしら。あればいいけれど」  ロージアは少し心配そうに、再びみなから集めた稀石を袋を入れたものを、衣服の上からそっと押さえていた。 「前から思っていたのですが、稀石と言うのは、なんなんですか?」  サンディはきいてみた。宝石、という言葉がよぎったが、それと同じものだろうか。 「稀石は、レラが凝縮したものなのよ。美しいし、レラの力も豊富だから、主に神殿の装飾に使われるけれど、人にも装飾品として使われるの。その人の持つレラを強めてくれるから。主に神官とか、兵士が多いけれど」  レイニがそう答えてくれた。 「そして、ここはアーセタイルだから、必要なのは緑――土のレラの稀石。それ以外は価値がないし、買ってくれない。ミディアルはいろいろな国からの稀石が手に入るから、全部の種類があるけれど」  ロージアもかすかに頭を振りながら、そう付け加えている。 「それではわたし、稀石商とポプルを売っているお店を聞いてきます」  サンディはバジレでしたように道行く人たちに話しかけ、道を尋ねた。彼女の見た目は土の民に似ているゆえ、他の人々が聞くよりも教えてもらいやすいかもしれないと言われた故でもある。そして必要な情報を聞き出すと、それを仲間たちに伝えた。 「ありがとう。じゃあ、行くか」  ディーは異世界の少女に目をやると、ふっと笑った。 「しかし、おまえさんを拾った時には、こんな風に役に立ってもらえるとは思っていなかったが、おまえはいい子だな、サンディ。気が利いて、働き者だ」 『あなたは気が利いて、働き者ね――』  ふと同じ言葉が、サンディの脳裏をかすめた。かつての言葉で。しかし一行のリーダーの言葉は、彼女が今思い出したそれより、はるかに暖かく感じられた。サンディは少し恥ずかし気に顔を赤らめ、ほんの少し笑った。 「でもまさか、アーセタイルに来ることになるなんて、あの時には夢にも思わなかったわね。そこで、彼女の外見が役に立つということも」  ロージアがかすかに苦笑気味の微笑を浮かべながら、小さく首を振った。それに対し、何人かはため息をつき、何人かは頷いていた。  稀石商で、緑の稀石をほとんど――残ったものは、中くらいの大きさの五、六個だけだった――この国の通貨に換えると、一行はポプルを売る店で、緑以外のエレメントのポプルを買った。それは大きな町の、比較的大きな店でしか扱っていなかったので、バジレでは買えなかったのだ。一行がミディアルから持ち出してきた色付きポプルも、もう残り少なくなってきたので、補給は必至だった。そののち、車を扱っている店を探し出し、そこの主人に交渉して、車と二頭のサガディを買うことができた。駆動生物の値段は高かったが、二頭ともあと一年から二年で引退するというものを買ったので、若いものの半額で手に入れることができ、車の方も椅子のついた乗用でなく、何もなく、ただ木の枠と床、そして布製の簡単な幌のついた、荷物用の、ある程度使い古されたものを買ったために、全体では用意した通貨の三分の二強を費やすだけで済んだ。車を扱う商人は、古びた毛布も格安で売ってくれたので、それを床に敷いた。 「若干狭いが、あんたたちみなが座れるだけの広さはあるよ。寝ることは無理だろうがね。せいぜい三、四人だ」  店の主人は小さく笑った後、聞いてきた。「ところであんたたちは、ミディアルから来たそうだが、駆動生物の扱いは知っているかい?」と。 「どこの国でも、同じような性質なら……知っている。人の言葉をある程度は理解し、何度か行ったことのある道なら、目的地を教えれば行ってくれる。それ以外は、方向指示と止まれ、進め、前の車についていけ、と命令する。夜は少しの水の補給と、睡眠がいる、のだろう? 夜でも走れるかどうかは、国によるが」  ディーの返答に、店主は頷いていた。 「そうだな。その通りだ。他の国でも、駆動生物は同じなんだな。夜走れるかどうかだが、この国では無理だ。日があるうちだけだな。それと、知っているかどうかはわからないが、駆動生物はその国のエレメントの持ち主の言葉でないと、理解しない。ディルトでもいいが、ともかく土が入っていないといけないから、誰か土のエレメント持ちの人が、指示席に座ってくれ。右側のやつはポル、左のはナガという。ポルはあと一年と二節で、ナガは一年と四節で引退だ。その時には、サガディの繁殖屋に持っていってくれ。いくらかは金をくれるだろう」  その日はもう夕方になっていたので、一行は駆動生物と車は明日の朝取りに来ると店主に告げ、火の力を入れたカドルという、夜の照明と暖を取るための道具と、毛布を数枚買ったあと、宿屋を探して泊まった。そして朝になると、再び店に行き、昨日買ったばかりの車と二匹の駆動生物、ポルとナガを引き渡してもらった。  荷車の前には、木の椅子が備え付けられた、箱状の突き出しがあった。前日に乗った乗り合い車でも、同じような席が先頭にあり、男が駆動生物たちに行き先を指示していた。 「ここには土のエレメント持ちが、乗らないといけないんだな」  ディーはかすかに苦笑を浮かべ、仲間たちを振り返った。 「ということは、ペブルかロージアか、さもなければナナンくんだな」 「おいらはこの席、狭すぎて乗れないな」  ペブルは身体をゆすりながら、首を振っている。 「そうだろうな。それなら、ロージアか……ああ、ナンタムを放して、その後を追うわけだから、ナナンくんはどうだろうか」 「え? ぼくが指示席に乗るの?」  ナナンはちょっと驚いたように目を丸くし、声を上げた。 「君は指示席に乗ったことはないか?」  ディーに聞かれ、少年は首を振った。 「いいや。うちには小さい荷車と、パナっていうサガディがいるけど、いつも新しい父さんが指示席に乗ってるから。でも何度か後ろに乗ったことはあるから、やり方は知っているよ。でもちょっと、緊張するなぁ」  ナナンは頭を振り振り、指示席に乗り込んだ。残りの十一人は敷物を敷いた荷車に乗り込み、そしてディーが告げた。 「とりあえず、町の北門まで行くように言ってくれ。速度は普通で」と。 「わかった」  ナナンは頷き、同じ言葉を二頭の駆動生物たちに伝えた。二頭はかすかに首を縦に振り、頷くような動作を見せた後、動き出した。そして町の門までくると、車をいったん止めるように指示した。 「ナンタムを放してくれ」  ディーの要請に、ナナンは頷いた。そして両手に持ったその、ふわふわとした薄緑色の、玉のようなその生き物に向かって語りかけた。 「いいかい、ナンタム。君の仲間たちのところへ帰るんだよ。でも、あまり早く行き過ぎないで。それに、道路のはしを通って行ってほしいんだ。ぼくたちも、君の後についていきたいから。もし君の群れが遠くて、日が暮れても行きつけないようなら、日が沈む前にいったんここに戻ってきて」  その生き物はつぶらな二つの目を見開いて、何か言いたげだった。そしてちょっと、身体を横に傾げた。 「ううん。君の仲間に入りたいわけじゃない。人間は、入れないでしょ、ナンタムの群れには。ただ君が無事に仲間のところに帰るのを、見たいだけなんだ」  少年の言葉は、生き物にも分かったようだった。頷くような動作を見せ、ぴょんと地面に飛び降りる。それは後ろのサガディたちと、車に乗った人々をちょっと見やると、ぴょんぴょんと跳ねるように、道路を走りだした。 「あのナンタムの後を追って」  ナナンがすかさず、駆動生物たちにそう指示した。彼らもまた頷くような動作を見せた後、走り出した。車もかすかに揺れ、滑らかに広がる土の道を動いていく。道路のはじ、道のぎりぎりをぴょんぴょんと走っていくナンタムと、その後を追う二頭の駆動生物、それに引かれた車。そして、そこに乗った十二人。車の速度は昨日ティルカナに来た時に乗ったものよりも、ほんの少し遅いが、それでもかなりのスピードだ。    なめらかな土の道の両側には、草原が広がっていた。緑の草の中に、ところどころ色が見える。ピンク、黄色、白、赤の花の色が。まばらに木も生えていて、緑の葉が茂っている。野生のポプルの木もところどころにあるが、普通の木が多いようだ。空は青く、光が降り注いでいて、車が進むにつれ、風が吹き抜けていった。 「雨が降ったら、この幌じゃ横から降り込んできそうだな」  フレイが少し顔をしかめて、そんなことを言った。 「そうね。でも贅沢は言わないの。ちゃんとした客車は高かったんだから、しかたないじゃない」リセラが軽く頭を振って言い返した後、目を輝かせて言葉を継いだ。 「それにしても、のどかな景色ね。緑がとてもきれい。さすがは大地と緑の国ね。今日は天気がいいから、気持ちいいわ」 「アーセタイルは、こういう平地が多いよ。特に南半分は」  ブランも外に目をやりながら、頷いていた。 「それに、雨のことも、そう心配しなくていいだろうと思う。ここはあまり、雨は降らないから。こんな風に晴れた天気が多いんだよ」 「雨は降らなくても、植物は多いんですね」  不思議に思うサンディに、ブランは答えていた。 「土のレラには、植物を育てる力が豊富にあるからね」と。  その日一日、車は走り続けた。夕方太陽が地平線に沈みそうになり、空がオレンジに染まると、ナンタムは止まり、一行を振り返った。指令席のナナンも駆動生物たちに「止まれ」と指示を出し、車は止まった。ナンタムが再び跳ねるように、少年の膝の上に這い上がってきた。 「まだ着かないんだね。君の群れには」  ナナンが問いかけると、それはかすかに頷くように体を縦に振る。 「それなら今日は、ここで野営だな。幸いこの天気だから、外で寝ても大丈夫だろう」  ディーは仲間たちを見、そう宣言した。道から少し外れた草原の中で、一行はその夜を過ごすことにした。二頭の駆動生物、ポルとナガに水をやり――水のボトルもティルカナで、かなり補給していた――十二人は柔らかい草の上に毛布を敷いて、車座になって座った。真ん中にカドルを置き、そのそばに白いポプルを持ったかごを置く。今日は誰もエレメントの力を使っていないので、白で十分だった。それにただ車に乗っていただけなので、それほどの力も使っていない。みなめいめいに白ポプルを一個だけ取り――ペブルは三個だったし、ナナンはエリムという技を使って、自分で緑ポプルを出して食べていたが――ボトルの水を飲んだ。 「こうしていると、なんだかミディアルを旅していたころのようね」  リセラが空を見上げ、言った。そこには相変わらず星があり、丸い月が出ている。 「そうだな……」  何人かが、頷いていた。あのころと違うのは、三台の幌に覆われた車と人力駆動車の代わりに、二頭の駆動生物と古い屋根付きの荷車があり、荷物も圧倒的に少なく、そしてこれからどうなるか、誰にもわからないという事実だけ――いや、それがみなにとって圧倒的に大きな懸念だっただろうが、この場ではだれも口には出さなかった。  二頭の駆動生物は水を飲んでしまうと、車につながれたまま、草の上に足を曲げて座り、眠り始めたようだ。 「もし町の外で夜になったら、車につないだままでいい。ちゃんとした宿屋に泊まったら、専用の小屋があるけれどな」と、車を買った店の主人が言っていたので、車と連結している胴衣と紐を外してはいなかったのだ。 「万が一、寝ている間に誰かにこいつらを持っていかれても困るから、交代で見張りをした方がいいだろうかな」  ディーは車の方を見やりながら、言った。 「アーセタイルでは、そういう連中は多くないだろうけれど、まあ、本当に万が一の可能性がないとは言えないから、用心はした方がいいだろうね」  ブランが首を傾げながらも、同意する。 「船の時と同じように、王女様とサンディは除外ね。あと、ナナンくんも」  リセラの言葉に、サンディは「わたし、できます」と、首を振った。 「攻撃はできないですけれど、誰かが来たら知らせるくらいは」と。 「それなら十人で二人ずつ、二カーロン交代でやろう」  ディーは少女を見やり、かすかに笑った。そして視線を空に向け、飲みかけていた水のボトルを置くと、首を振って言葉を継いだ。 「それにしても、ずいぶん遠くまで来たようだ。はぐれナンタムといっても、それほど遠くまで群れから離れているとは、思わなかったんだが」 「そうね。それにナンタムは最初見つけた時には、怪我をしていたのだから……不思議ね。おとなしい性質のナンタムが、なぜ、何に襲われて怪我をしたのか。そしてこんな遠くまで、群れからはぐれてきてしまったのか」  ロージアはナナンの膝に乗っているその生き物を見ながら、考え込んでいるようだった。 「ナンタムの気持ちって、あのミヴェルトではわからないのですか?」  サンディはそう聞いてみた。 「ミヴェルトは人間限定だ。それに、そいつは土のナンタムだからな」  ブルーが相変わらず、むっつりした口調で言って、首を振った。 「でも、ナナンくんには、ある程度わかっていたみたいね。ナンタムが不思議そうに見ていた時、あなた言ったでしょう? 君の群れに入りたいわけじゃないって」  レイニが思い出すように、少年を見た。 「うん。なんとなくわかるよ。こいつの言いたいこと」  ナナンは膝の上のその生き物をそっと撫で、頷いた。 「それは土同士の意思疎通なのか、それとも君がその子に信頼されたということかな」  ブランがいつもかけている日よけ眼鏡をはずしながら、頷いていた。 「そうだ。もし君がそいつの言いたいことをわかるなら……群れの場所までにはあとどのくらいかかるか、そしてなぜあんなに遠くまで行ったのか、それを聞いてくれないか?」  ディーの言葉に、ナナンは頷いた。そして同じことを膝の上にいる、その生き物に問いかけた。それは丸い目を見開いて、じっと少年を見上げていたが、やがてその三本の足をパタパタとさせ、かすかに身体を震わせた。それをじっと見ていたナナンは頷いて、そっとその生き物をなでた。 「ここからは、そんなに遠くないって。それから、けがをしたわけは、よくわからない。何か大きなものに襲われて、運ばれて、飛ばされたようだって」 「何か大きなもの? それは……どんなんだ?」  ディーが懸念をにじませた表情で、そう問いかける。 「なんだか大きなもの……そんな感じのものが、頭に浮かんだよ。茶色くて、渦を巻いていて、爪がある……」 「茶色か……それなら、ここに属するものだな」 「どうかしたのかい、ディー? たしかにここにナンタムを襲うものがいるっていうのは、気にかかるけど……」  アンバーが不思議そうに顔を上げて、そう問いかけた。 「いや。もし黒かったらと懸念したんだ。ミディアルのように、マディットがここまで来たのかとな」ディーは首を振り、言葉を継いだ。 「特に俺たちは、ミディアルの王女様を連れている。ミディアルから誰も逃すな、とマディットの軍隊が命令されていたとしたら……実際、ミディアルから脱出した船には、不着の呪いがかけられていたようだ。だが……大丈夫だったようだ。連中はそれだけで、あとの生き残りを追うつもりはないらしい」  彼は深く息をついた。 「不着の呪いって?」みなは一斉に、そう問い返す。 「ミディアルから脱出した船をみな、目的地に着けないようにする。とてつもなく強力な、闇の技だ。おそらくそんな真似ができるのは、神官長クラスだ。それも、闇の精霊の力を借りてできるものだ」 「それも、あなたのエフィオンの力で知ったの?」  ロージアが比較的冷静な口調ながら、緊張した声で問い返す。 「ああ。ナナンくんの話……海の上は荒れていたが、陸地は晴れていたということを聞いた時、わかったんだ。俺たちは幸い脱出してアーセタイルに着けたが、他の船はみな沈み、誰も目的地には着けなかったようだ。ここを目指したものも、少し遠いが、ユヴァリスを目指したものも……そして乗っていた人間は、みな海で死んだようだ。ミディアルの人間は、それほどレラが強くないから、嵐に逆らって目的地に着ける力を持っている者は、いなかったんだろう」 「だから、ミディアルからの船は来ていないって、バジレの水夫が言っていたのね……」  リセラが少し青ざめながら、つぶやくように言った。 「だが幸い、それ以上マディットは係る気はないようだ。ミディアルはともかく、他の精霊が支配する国にまで、生き残りを追いかけていく気はないらしい。今のところは。ただ、ミディアルの王女様が生きてここにいるという話は、あまり人には言わない方がいいな。アーセタイルに着いてから、彼女の身分をここの人間に、誰か言ったか?」  ディーは周りを見回してそう問いかけ、ほかのみなは顔を見合わせた。そしてリセラが代表して答えた。 「いいえ。ただ、ナナンくんは別だけれど」と。 「ぼくは人には言わないよ、絶対! これからも!」  ナナンは緑色の髪を揺らして、そう声を上げ、 「それならよかった。ぜひそうしてくれ」と、一行のリーダーはほっとしたような面持ちで少年を見、頷いていた。  夜が深くなり、眠る時間が来た。ミレア王女とナナン、そしてロージアが車の中で眠り、あとのみなは草の上に広げた毛布の上に横たわった。空気は暖かく、草も柔らかいので、むしろ固い木の床に毛布を敷いた車の中よりも、寝心地はいいかもしれない。  最初の見張り当番には、アンバーとサンディが当たっていた。見張りや、ミディアル時代の駆動車の引っ張り当番の組み合わせは、袋の中に小さな色付きの玉が入っているものを使って決めていた。この道具はディーが船を脱出する時、一緒に持ち出していたので、使うことができたのだ。この中には七色の小さな球が三個ずつ入っているが、今回は二人ずつ、五組を決めるため、中身を五色二個ずつに減らして行い、同じ色が当たった同士が組になる。見張りの順番は、ディーが決めた。サンディが一番にあたったのは、夜間の見張りに慣れていない彼女が夜中に起きださないで済むように、という配慮なのだろう。 「これが下に全部落ちたら、一カーロンなんだ。全部落ちたらひっくり返して、また上の液体が全部下に落ちたら、二カーロンたったっていうこと。まあ、ユヴァリスとマディットは他の国と昼夜の長さが違うから、多少誤差が出るけれど、ここなら大丈夫」  アンバーは寝る前にブランから手渡された、小さな筒状のものを地面に置いた。それは真ん中で区切られていて、透明な側壁を通し、上にあった緑の液体が少しずつ下に落ちていくのが見える。 「これで時を図るんですね。これもブランさんの考えた装置ですか?」  サンディはその装置を見ながら、問いかけた。何かこれに近いものを、彼方の記憶で見たことがあると思いながら。 「いや、これは普通に道具屋で売っているんだ。まあ、ブランの発明っていうのも、わりとあったけど……ほとんど船と一緒に沈んじゃったね」  アンバーは頭を振ると、言葉を継いだ。 「これから二カーロン、何もなければいいな。僕たちじゃ、危ない奴が来たら、撃退できないからね。みんなを起こす間があれば、幸運なくらいだよ」 「でもアンバーさんは目がいいから、敵の気配はいち早くわかるのではないですか?」 「いや、僕は昼間じゃないと、『鳥の目』は使えないんだ。夜は全然だめだ。耳だけが頼りだね。ディーは夜目が聞くし、ブランは気配がわかるから、二人の方が夜の見張りは頼りになるよ。おまけにディーなら、大抵のものは撃退できるしね」  二人は車の車輪に寄りかかるようにして座っていた。その前に敷かれた三枚の毛布の上に、五人が眠っている。それぞれに上着を体にかけて。車の前では、二頭の駆動生物が草の上に座り込んだ格好で、眠っているようだった。複数のかすかな寝息と、時々吹きすぎる風に草がなびく音が聞こえるほかは、静寂があたりを支配していた。 「完全に月が沈む前に、見張り当番になれてよかった。サランの節は、沈むのが早いから」  アンバーは小さな声で言う。食事をしていた時には中天にあった月は、今はかなり低くなっていた。 「節によって違うんですか? 月が出ている時間は?」  サンディもほかのみなの眠りの邪魔にならないよう、小声で聞いた。 「そうだよ。ビスティとフィエルの間は、一晩中月が出ているけど、だんだん沈むのが早くなっていって、デェエナの節には、まったくなくなるんだ。エビカルになると、今度は朝に近い時間に上ってくるようになって、だんだんまた月が出ている間が長くなるんだ。君の世界では、どうなんだかわからないけれど」  アンバーは腰に下げた袋から小さな何かを取り出し、それに目を注いでいるようだった。それは彼の両掌を合わせたくらいの大きさで、金色の枠の中に何か文字や絵のようなものが浮かび、彼はそれに付属している銀色の小さな細い棒で、そこに何かを書き込んだり、ポン、と押したりしているようだった。時折それを膝の上に置き、何か考えているように空中に目をやって、また棒をとる。アンバーがこの妙な装置で何かをやっている姿は、サンディもときどき見かけた。ミディアルを旅していたころ、移動の車の中で。それが何なのか、尋ねたことはなかったが。それをやっている時、彼は非常に熱心な様子に見えたので、邪魔をしては悪いという思いもあったからだ。  今この場では、見張りという役ではあるが、その視覚を使うことができないから、彼はその作業をしているのだろう――サンディは、なんとなくそう思った。黄色い髪の間から見える、その大きなとがった耳は時々ぴんと動くから、音は聞いているのだろう、とも。  サンディは車輪に寄りかかり、膝を抱えて前を見ていた。カドルの光を消してしまった夜は暗く、月明かりがぼんやりとあたりを照らしていて、かろうじて眠るみなの姿と、遠くの森の影がわかる。空を見上げると、多くの銀色や金色の星が瞬いていた。眠さを感じたサンディは、気を紛らわせるために星の数を数えてみようと思ったが、百を超えたところでますます眠くなってきたことに気づき、やめた。そういえば、数を数えるのは、眠れない時にやっていたことのような気がする……。  二人の間に置いた時を測る装置が、すべての液体を下に落としきった。それに気づいたサンディがひっくり返そうとする前に、アンバーの手がすっと伸びてきて、装置を返した。彼は相方を見ないまま、言った。 「眠かったら、寝ていていいよ。時間が来たら起こすから」 「あ、いいえ。大丈夫です」  サンディは目を見開き、首を振った。そして暗闇に目を凝らした。黙って何もしないで座っていると、本当に眠くなるが、夜の見張りがあまりしゃべっていては、眠っている人の迷惑になるかもしれないし、相方は何かに熱中しているようなので、あえて遮って話しかける勇気もなかった。これがリセラ相手だったら、きっともう少し話ができただろうが、誰が相方になるのかは、完全に運任せなのだ。かといって、ここで眠ったら、せっかく見張りを買って出た意味がない気がした。  彼女は夜空を見つめ、今までのことを思い出そうとしてみた。しかし出てくるのはミディアルで、この一行が見守る中、気づいてからのことばかりで、それ以前の記憶は、まるですっぱりとなにかで切り取られたように、なくなっていた。時折何かの拍子に、水面下で動くものを感じるのだが、それは形にならず、つながらない。  自分には忘却の術がかけられ、それまでの記憶をなくしていると、かつてディーが言っていたのは、本当なのだろう。彼はその時、半年くらい過ぎたら術が解けて、思い出すだろうと言っていた。彼女がここに来てから、四十日近くが過ぎた。ここのカレンダーは、たぶんかつて自分が知っていたものとは全く違うだろうと感じていてはいたが、レイニから教わったここのカレンダーにのっとれば、一年は三百三十五日という。半年ということは、百七十日に少し足りないくらい――あと、百三十日近く。その後、自分は何を思い出すのだろうか。そのころ彼女は何をして、どこにいるのだろうか――。    やがて時を図る装置の上の液体が、再び三分の二ほど落ちたころ、アンバーは手にした細い棒のようなもので、ポンとその装置を叩き、その棒を装置の中にしまうと、再びそれを袋に戻し、小さく息をついた。 「よし、今日はこれで終わりにしよう……」 「それは、なんですか?」  そのタイミングを見て、サンディはそっと聞いてみた。 「これは僕の父さんが、僕たちに残していったものなんだ」 「アンバーさんの、お父さんの?」 「そう。父さんは風と光のディルトだったんだ。でも僕が十歳の時、ユヴァリスに帰っていった。もともと彼は、そっちの人だったから。お祖母さんが光で、そっちで家庭を持っていて。お父さんはお祖母さんが結婚する前に、風の人と恋愛して生まれた子らしいけれど、でもお祖母さんの新しい家族と一緒に暮らしていたんだって。父さんは十八の時、自分の本当のお父さんに会いたくて、エウリスに来たらしいんだ。そこで母さんと出会って、そのままエウリスにいたんだけれど、お祖母さんの家で何かあったらしくて、またユヴァリスに戻っていった。すまない。どうしても帰らなければならない、って」 「そうなんですか……」 「それで、父さんが帰る時、これを僕たちに渡して言ったんだ。本当の事情を今言うことはできないが、この装置に手掛かりと答えを残した。何が起きたのか。どうすれば、自分がもう一度エウリスに帰れるのかが、って。自分に会いたければ、これを最後まで解いてくれ、そうすればわかる。そう言ったんだ。何を勝手な、って僕は思ったよ。姉さんと弟もそう思ったみたいだったし、母さんもそうだったみたいだ。帰るなら、勝手に帰れ。僕らはここで生きていくからって。だからそれから四年間は、ずっとそのままだったんだけどね」 「そうなんですか……でも、なぜ今は……?」 「うん。僕が十四の時、母さんも姉さんも弟も、死んでしまったから。僕の残った家族は父さんだけになってしまったから、これを解いてみようって思っただけなんだ。他にすることもなかったしね。でもまだ、やっと三分の二くらいしかできていないんだ」  その口調には何も感情を映していなかったが、普段元気な若者の思いがけない影に、サンディは少なからず驚いていた。アンバーはたしか、来年のザンディエの節に十八歳になると、聞いたことがある。そしてディーたちの一行に加わって三年目ということは、その間一年足らずで、何が彼にあって、ミディアルに来ることになったのだろうか――それを聞いてみたかったが、そこまで突っ込んで聞くのは不作法だと思いなおし、サンディはそれ以上の質問を控えた。そして思い出していた。アーセタイルに着いた時、リセラが語った彼女の生い立ちを。「みんな、それぞれに事情があって、ミディアルに来ている」と言っていたことを。それはリセラやアンバーだけでなく、ディーも、ペブルもブランも、ブルーとフレイも、レイニ、ロージアも、みな背負っているものは違えど、同じようなものなのだろう。そして自分は――? 「記憶って、時には厄介だから……君もアミカが解けた時、何を思い出すんだろうな。それが君にとって辛いものじゃなかったらいいなって、僕も思うよ」  アンバーは前も見たまま、言った。サンディも「ありがとうございます」と言ったきり、黙った。今は空白の記憶が戻ってきた時――でも彼女は元の世界に戻れる可能性は、あるのだろうか。今は漠然とした思いしかないが、きっと記憶とともに、その思いも戻ってくるのだろう。帰りたい、と。  やがて、緑の液体はすべて下に落ち切った。二人は次の見張り当番にあたっているペブルとブルーを起こすと、毛布の空いた場所を見つけ、眠った。サンディはしばらく、さっき感じた思いを反芻しようとしたが、眠気は強く、すぐに眠りに落ちていった。  夜が明けると、一行は起きだし、毛布をたたみ、全員少しの水を飲んでから、再び出発した。その日も晴れた日だった。昨日と同じ光景だ。道のはじをぴょんぴょんと飛んでいくナンタム、追いかけるように進むサガディたち、その駆動生物たちが引く荷車に乗った一行十二人。しかし一カーロン半ほど過ぎたころ、光景に変化が現れた。  行く手の草原の中で、なにかがたくさん、飛び跳ねていた。緑色の、小さなふわふわした玉のようなものが。 「ナンタムだ。すごくたくさんいる!」  アンバーが前方を見ながら、声を上げた。 「あの小さい、緑の玉のようなものが? ――そう見えなくもないけれど」  リセラが身を乗り出すようにその方角を見る。 「あれはいったい、何をしているんですか?」  サンディもその玉の正体を見ようとしながら、問いかけた。 「ナンタムは群れで生活しているのだけれど、誰か一匹でもはぐれると、行動に統制が取れなくなると、聞いたことがあるけれど……」  レイニもその方向に目をやりながら、答えた。 「そうだ。そのようだな。とすると、あれがこいつのはぐれた群れなんだろうか」  ディーが道の端を進んでいく緑の生き物を見、ついで草原で飛び跳ねている玉のようなものを見て言う。  と、今までずっと進み続けていたナンタムが止まった。指示席のナナンも「止まれ」と駆動生物たちを止まらせ、車は止まった。小さなナンタムは一行を振り返り、そして車に戻ってきた。駆動生物たちの頭の上に乗り、そこからナナンの膝へと。サガディたちはナンタムが踏切台のように頭に乗って、跳んでいっても、まったく気にしていないようだった。  ナナンの膝の上に乗ったナンタムは、二、三度ぴょんぴょんと跳ねた。そしてさらにその後ろの人々を見、もう一度跳ねてから、プルプルと身を震わせ、さらに頷くような動作を数回した。 「ありがとうって言ってるよ」  ナナンが荷車に乗っている一行にそう告げ、 「良かったわ。元気でね、って伝えて」と、リセラが明るく答える。  その言葉を再びナナンが伝えると、ナンタムはもう一度頷くような動作をした。そして再び道路に飛び降り、草原の中へと走っていった。  それが近づくと、気配を感じたのか、飛び跳ねていたたくさんの、薄緑の球体たちが、跳ねるように一斉に、その方向に動き出した。草の緑より少し薄い、無数のふわふわしたボールのような生き物が、大きな波を描くように草原を走り、渦を巻くような動きをした後、新たに合流した仲間を取り巻くように、集まってくる。そしてざわめき立っていた草原が、静かになった。 「よかった。仲間のところへ帰れたんだね。ぼくはちょっと寂しいけど」  ナナンの声は、安堵と寂しさが入り混じったように響いた。 「本当ね。でも良かったわ」と、リセラが頷いた。 「ああ。仲間たちも、ようやく平静に戻れたみたいだしな」  フレイも草原に目を注ぎ、そして一行のリーダーに問いかけた。 「ところで、ディー。ナンタムの後についていったわけだが、ここが終着点、なんだよな」 「そうだな。ナンタムは群れ移動もするが、どうやらあいつらは向こうの森へ移動しているようだからな。車では追えないだろう」  ディーは草原に目をやりながら答えた。今では穏やかになった薄緑の群れが、草の中の無数の斑点のように波打って、ゆっくりと遠ざかろうとしていた。 「では、どうするの?」ロージアが問いかけ、 「とりあえずこの道を進んで、最初に行きつく村か町に行こう」  一行のリーダーは答えた。これまでの道のりでも、三、四回ほど町や村への分岐標識は見ていた。次のそれを目指そう、と。 「どのくらいで行き着くかは、運任せだな」 「いや、ブルー。今まで通り過ぎた標識で、だいたい私は見当がついたよ。どの道を進んで、どこに向かってきたのか。あと三、四カーロンくらいで、チャレアの町に着くだろう」  ブランの言葉通り、太陽が中天を過ぎたころ、一行は新しい町に着いた。そして町の宿屋を探して、その小屋に駆動生物たちと車を預け、街を歩いてみた。港町バジレよりは大きいが、ティルカナよりは規模の小さいその町は、他の二つと同じように平和で、道行く人々の反応も、あまり変わりはしなかった。町の情報や働き手などを募集していることもある、中央広場の掲示板にも行ってみたが、条件に合う働き口はないようだった。 「わりと期待外れだな」  ブルーが相変わらずむっつりした口調で言ったが、他のみなの心境も同じだっただろう。  一行は湯屋で湯あみをし、宿屋に引き取り、ポプルと水の夕食をすませた。 「で、これからどうするよ、ディー」フレイが問いかけた。 「そうだな……」  ディーは言葉を切り、町の商店で買ってきた地図を広げて、見ていた。彼はしばらく何かを考えているように、じっと見ていたが、やがて頭を上げた。 「ここにいても、あまり収穫はなさそうだ。次へ行こう」 「次はどこへ?」そう問いかけたリセラに、ディーは答えた。 「次はラーダイマイトだ」 「え?」ナナンが驚いたように頭を上げ、小さく叫んだ。 「ラーダイマイトって、ナナンくんが来た町でしょう?」  リセラがやはり少し驚いたように、問いかけている。 「ああ。ここからそう遠くない。ここから内陸に向かう道を行って、途中分岐を曲がれば、明日中には着ける。四カーロンくらいの道のりだろう」 「そこへ行って、どうするんだ?」 「ナナンくんを送っていくんだ。最初に約束した通り」  フレイの問いかけに、ディーは緑髪の少年を見やり、答えた。 「ああ……そうだったな」  フレイとブルーが納得したように頷いている。 「ぼくは……帰らなければ、ならないの?」  ナナンは驚きと戸惑いが入り混じったような表情を浮かべていた。 「あなたは帰りたくないの、ナナンくん?」  リセラが優しい口調で、問いかける。 「うん。ぼくは……このまま行けたらいいなって、思ってたんだ。家に帰るより。みんなと旅してて、とても楽しかったから……このまま、ずっといたいなって」  少年は激しく首を振った。「ぼくは……いやだ。うちには帰りたくない。ねえ、もうちょっと……せめてみんながアーセタイルにいるうちは、一緒にいたい。ダメですか?!」 「そう言ってくれるのは、ありがたいが……残念だが、君は家に帰った方がいい」 「いいんじゃないの、ディー。あたしたちは、新しい仲間は歓迎……」  言いかけたリセラを遮って、ディーは首を振った。 「それは、だめだ」と。 「どうして? かわいそうじゃない……」 「俺たちと一緒に来させる方が、かわいそうだ。おまえはどうも考えなしだな、リル。よく考えろ。俺たちはみな、帰るところのない、はぐれものだ。ミディアルを追われてここへ来たが、将来的な生活のめども、何も立っていない。幸い今までは順調に行けたけれど、これからもそうだという保証はない。いや、たぶんこのままいけば、全員最後は行き倒れる可能性も、全くないとは言えないだろう。そんな俺たちと一緒に行くより、家に帰った方がいい。ナナンくんは俺たちとは違う。帰る家があるんだ」 「まあ……それはそうだけれど、せめてアーセタイルにいる間だけでも……」 「俺たちがいつアーセタイルを出るのか、それもわからないんだぞ。先行きどうなるか、わからないんだ。ならば今、ラーダイマイトの近くまで来た時に送り届けてやるのが、一番いいと思うんだ」 「まあ……ディーの言うことは一理あるな」と、フレイがそこで頷き 「正論ね」と、ロージアも短く言う。 「でも、ぼくが帰っても……」  そう口ごもるナナンに、ディーは口調を和らげて問いかけていた。 「君の家は、君にとって居心地が悪いのか? 家の連中は、君に意地悪をしたり、邪魔者扱いしたりするのか」 「ううん……意地悪はされてない。弟や妹とは……仲は悪くない。母さんは、母さんだし」  少年は少し考えるように黙った後、首を振ってそう答えた。 「では君の新しい父親は、君につらく当たるのか?」 「そんなことは……ないよ。むしろ、仲良くしてくれようと、していると思う」 「それなら君はどうして、家に帰りたくないんだ?」 「でもぼくは、いない方がいいと思うから」 「どうしてなの?」  リセラがそこで、やはり優しい口調で問いかけた。 「ぼくがいなければ、うちは純粋な土の家族だもの。同じ父さんと母さんの子で、他のエレメントなくて入っていなくて……」 「お父さんやお母さんがそう言ったの? 兄弟たちも?」 「言わないよ、そんなこと」 「じゃあ、そう思っているのは君だけかもしれないな、ナナンくん」  ディーは苦笑しながら、首を振った。 「君は、考えすぎているのかもしれない。ディルトなのを、気にしすぎているようだ。君の周りの人たちは、ディルトだからと君をさげすむのか?」 「そういう人も、中にはいる……」 「だが、全部ではないわけだろう?」 「そうだね……普通に接してくれる人もいるよ。でも心の中では、どう思っているかわからないし……」 「だからそういうのが、考えすぎているのかもしれない、と言うんだ」  ディーは頭を振り、少年に向かって告げた。 「あなたがミディアルへ行きたいと言った時に、家族のみなは喜んだの?」  レイニが穏やかな口調で、横からそう問いかける。 「……わからない。でも、しかたがないわね……って、母さんはそう言ったっけ」 「それは君の、実の父親と暮らしたいという気持ちを、尊重しただけじゃないかな」  ブランがそこで、意見を述べた。 「とりあえず、帰った方がいいだろう。君はご家族に連絡もしていないわけだし、心配しているかもしれない。ミディアルがマディットの支配下に入ったということは、アーセタイルでも知られているだろうから」  ディーが首を振りながら、きっぱりとした口調で結論づけた。 「そして家で落ち着いて、君がもう少し大きくなったら、考えたらいい。君の人生を。今はまだ、君は独り立ちができる年齢ではないし、庇護してくれる家族もいるわけだ。もう少し、それに甘えたらいい。だが、君が大人になったらミディアルに渡って、君のお父さんと一緒に働くという選択肢は、あまり賛成はしたくないな。もうミディアルは、以前とは違う。君の父親が神殿奴隷の一年を生き延び、解放されてミディアルに戻されたとしても、マディットの傘下では、扱いは奴隷と変わらない。厳しい成果を求められ、禁止事項も増えるだろう。君が行っても、暮らしにくいだけだと思う」 「うん……」ナナンは少し涙ぐんでいるようだった。 「そうだ! いいことを考えたわ。あたしたち、あなたに手紙を出すわね。あなたの家がわかったら、出すことができるから。それに返信してくれれば、あたしたちが移動していても、あなたの手紙も届くから。だから時々、あなたのことを知らせてね」  リセラが快活な調子で言い、少年の背中をなでた。 「うん」ナナンはほっとしたような表情になった。 「そしてあなたが大人になるころ、もしあたしたちが、もし新しいミディアルを作れていたら、気が向いたら遊びに来てね」 「新しいミディアル?」 「そうよ。あたしたちは最終的には、そこを目指しているの。ここにいるミレア王女を新しい女王様にして、もう一度ディルトたちの自由な天地を作るっていうね。実現できるかどうか、わからないけれど、それがあたしたちの夢だし、目標なのよ」 「そうなんだ……すごいね」  ナナンの顔に、憧れるような表情が浮かんだ、 「わたしが女王に……?」  ミレア王女が少し驚いたように顔を上げ、 「だって、それが王様の遺言ですものね」と、リセラは微笑みかけていた。 「だがそれは、あくまで目標で、夢だからな。仮に実現できても、そこまでの道のりは遠いだろうし、険しいだろう。君につき合わせる義理はないな、ナナンくん。リルが言ったように、できるとすれば君が大人になったころだろうから、その時に遊びに来たかったら、いつでも来てくれていい。それが君と俺たちとの、究極の目標だな」  ディーは表情をやわらげて、言葉を継いだ。 「君には感謝している。君はリルとサンディの命を救い、ナンタムを群れに返すのにも、とても重要な働きをしてくれた。せめてものお礼に、なにか渡せればいいんだが」 「いいや……いらないよ。ぼくも、楽しかったし」  ナナンは涙ぐんでいるようで、服の袖で目を拭いていた。 「あなたのお家で、幸せになれるといいですね」  サンディはそっと、その腕に触れた。 「帰るおうちがあるのは……羨ましいです」  ミレア王女が、ぽつりと呟く。 「そうだったね。君の家は……」  ナナンは改めて、薄い茶色の巻髪にピンクのドレスの少女を見た。 「考えてみたら、ミディアルが滅ぶまでは、君は相当に素晴らしい暮らしをしていたんだろうね。王女様なんだから。でも今は、一緒に旅をする仲間がいて、ぼくにはそれも少し羨ましいな、っていうか、良かったねって思う」  王女は少し目を潤ませて、こくっと頷いた。 「わたし、生きていてよかったとは、まだ言えないけれど……それでも……エリアラのおかげです……それと、みなさんの」 「あの女官さんも、無事だといいけれど」  リセラは天井に目をやっていた。サンディも、そしてその場にいたみなもおそらく、思い出していただろう。ミディアルの首都エルアナフがマディット・ディル軍の放った鳥たちに襲われていた時、王女を連れて逃げてくれと一行に頼んだ、あの女官の青ざめた、悲壮な表情を。  「さあ、とりあえず今日は寝よう。宿屋だから、昨日のように交代で見張りをする必要はないな。みんな、ぐっすり眠れるぞ」  ディーは首を振り、そう宣言した。木張りの床に、端切れで編まれたじゅうたんが敷かれたその部屋は、あまり広くはない。宿に用意されている就寝用の厚い敷物を敷き、十二人が寝るといっぱいだったが、今はできるだけ節約しなければならないのだ。それにもともと一行はミディアルでも、ずっとこういった就寝スタイルだった。ミレア王女は別だが。  翌日の朝、再び一行は出発した。ナナンが指示席に座るのは、この日が最後だ。少年は地図に従って、駆動生物たちに故郷へと向かわせた。そして昨日と同じように、日が中天を過ぎたころ、一行はラーダイマイトに着いた。  ラーダイマイトはポプルと、そしてもう一つ、服や敷物の材料になるパディムという植物の栽培と、その植物を紡いで糸にする工場、その三つが主な町の生業だった。ミディアルでは、繊維の原料はコティという白いふわふわした実だが、アーセタイルではパディムという、少し緑か茶色がかった、同じようにふわふわとした実から作っているのだと、ブランが説明してくれた。 「コティと違って白くないから、その色の糸しかできないんだ。花から作る染料も、緑か茶色、良くて茶色がかった黄色かオレンジくらいだね。ミディアルのコティは、いろいろな花の染料で、いろいろな色に染められたけれど。ただ繊維の質は、パディムの方がはるかにいいよ。土のレラが豊富だからね」とも。 「うちもパディム農園なんだよ」ナナンが言った。 「パディムの畑と、緑の染料のもとになる、バムという花を作ってるんだ。だから、父さんがミディアルで農園をやっているって聞いて、それならぼくも手伝えるかな、って思ったんだ。ポプルじゃなくて、コティならもっとよかったんだけど」 「あなたの町では、収穫の時期に人を頼んだりしないの?」  リセラがそう聞いた。 「頼むこともあるよ。収穫は早くしないといけないから。でも今年の一回目の収穫はもう終わっちゃったし、あとはディエナの節まで摘めないよ」 「そうなの、残念。ポプルの方も?」 「ポプルはなった分だけ毎日とってるみたいだから、人を頼むことはあまりないみたい」 「そう。アーセタイルでは土のレラが豊富だから、ポプルは常に実り続けているんだ。ミディアルでは一度に実って、五日くらいで実が落ちてしまうけれど、ここではね、実は落ちないんだよ。だからそう急ぐ必要もないんだ」  ナナンの答えに、ブランがそう言いたしていた。そして彼は服のポケットを探り、なにかを取り出して、少年に手渡した。 「我々の旅の記念と、君への感謝のしるしにね」と。  それは大きめの緑の稀石と、小さいオレンジの稀石がついた腕輪だった。細い銀の鎖の先端には丸い二つの環が組み合って、留めるようになっている。 「これは……?」  目を丸くしてそれを見つめていたナナンは、驚いたようにそう問いかけた。 「わたしたちは、あなたに何かお礼をしたいと思っていたのだけれど、それには稀石がいいのではないかと思ったの。いざという時には売れるし、持っていれば、あなたの力を高めてくれるわ」と、ロージアが答えた。 「ただ、石だけを渡すより、身に着けていられるように加工したほうがいいと思ってな、それでブランに頼んだんだ」ディーも頷いて、そう付け加える。 「そう。それで一昨日の夜の見張り番の時と、昨日の夜とで、それを作ったんだ。幸い、ミディアルの銀貨が少し残っていたからね。稀石は、君の四分の三の土と、四分の一の火だ。君は火が混じったことがいやだと言ったが、それは君の父親から受け継いだものだ。君と父親、エンガシアンさんとの間をつなぐものだ。だからその四分の一の小さな火も、大切にするといい」ブランは静かな口調で、そう告げる。 「あ……ありがとう」  ナナンはむせぶような口調になり、手のひらの上のそれをじっと見つめていた。 「ブランは器用ね。さすがだわ」  リセラは感嘆したように言い、そしてにっこりと少年に笑いかけた。 「つけてあげるわ、ナナンくん。どっちの腕に着ける?」 「ありがとう。じゃあ……左に」  ナナンは手を伸ばした。そしてリセラにつけてもらうと、その緑とオレンジの輝きをじっと見、詰まったような口調で言った。 「ありがとう。ぼく……ずっとつけてるよ」  やがて車は、一軒の農家の前に差し掛かった。ナナンがいくぶんためらったような声で、「止まれ」と指示すると、駆動生物たちは止まった。指示席の少年は、後ろの人々を振り返って答えた。 「ここが、ぼくの家なんだ」 「そうか。じゃあ、ここでいいな。俺たちは帰るか? それとも君のご家族にこれまでのことを説明したほうがいいのか?」 「うん……じゃあ、ぼくの家族にも会ってください」  少年は指示席から降り、荷車に乗った一行を見上げた。残りの十一人は頷いて、車から降りた。  誰かが来た気配を察したのだろう。中から、一人の女性が出てきた。中年と言うほどではないが、若いとも言えない年頃の、少しふっくらとした女性だ。緑の髪を後ろでゆるくまとめ、薄い茶色の、丈の長い服を着ている。その女性の緑の目が、ぱっと輝いた。声を上げ、大股に近づいてきて、腕を広げ、少年を抱きしめる。 「ナナン! どこへ行っていたの!? ミディアルへの船が出なかったのだから、すぐに帰ってくると思ったのに! 心配したのよ!!」  女性の後ろから、二人の子供が駆け出してきた。五歳くらいの女の子と、三歳くらいの年齢の男の子。女の子の髪は緑で、男の子は茶色い。二人は歓声を上げて、「ナナン兄ちゃんが帰ってきたー!」と叫んでいた。 「ごめんなさい。母さん……それに、パミア、リム」  ナナンは家族を見て、ついで下を向いた。 「でも……ぼくが帰ってきたら、がっかりするんじゃないかと思って」 「何を言っているのよ! そんなわけはないでしょう!」  母親が即座に声を上げた。その眼に、うっすらと涙が光っている。 「でも……」 「あなたをディルトにしてしまったのは、私のせいだわ。だから、あなたがもしあの人のところで、差別を受けることなく伸び伸びと暮らしたいというなら、それがあなたのためなのかもしれない。そう思って、ミディアルに行くことを承知したのよ。あなたが私たちと暮らしたくないなら、と」 「ぼくは……ここで暮らしたくなかったわけじゃ、ないよ」  ナナンは激しく目を瞬いていた。 「でも、ぼくがいなければ、みんなは本当の家族になれるのかもって思って……」 「何を言っているんだ。君も家族だ」  大きな声が聞こえた。もじゃもじゃの茶色い髪に、薄茶色の肌をした、がっしりとした体格の中年男が出てきて、茶色の眼でじっと見ている。 「お父さん……」 「そうだ。私は君の父親のつもりだ。実の父ではないかもしれないが。だから君が実の父親を選んだ時には寂しかったが、そういうものなのかもしれないとは思った。だが、私は今まで君を家族じゃないなんて思ったことはないぞ」 「そうよ。あなたは私の子よ。そして、パミアとリムのお兄ちゃんでしょう。アシムは私の夫で、あなたの新しいお父さんよ。私たちは、家族よ。あなたも含めて」  母親も目に涙をためたまま、そっと息子の背中に手を回す。  ナナンは、そんな家族たちをじっと見ていた。が、やがてうつむいて泣き出した。 「うん……ごめんなさい」 「良かったわね、本当に……」  その光景を見ながら、リセラもそっと涙をぬぐっていた。 「昨日はナンタムで、今日はナナンくんか……」  ブルーは少し苦笑するようなトーンで言い、 「故郷に帰る、ね……」  ロージアの口調は冷静ながら、感動も隠せないようだった。 「本当に良かったです」サンディも、思わず声が漏れた。  そこでナナンの家族たちも、一行に気づいたらしい。両親が「この方たちは?」と問いかけ、ナナンがこれまでのいきさつを簡単に説明していた。 「ありがとうございます。ナナンをここまで無事に連れてきてくださって」  母親は感謝の眼差しを向け、父親も同じように感謝の言葉を口にした。 「いや、もっと早くつれてこられなくて、申し訳ない。心配をさせてしまったようだしな」  ディーが一行を代表して答えた。 「とんでもないです。この子を保護してここまで連れてきていただいて、そしてこの子に家に帰るように言ってくださったこと、本当にありがたいです。その上、こんな高価なものまでいただいてしまって……」 「いや、俺たちも、かなり世話になったし。ところで、一つだけ聞きたいが……この町には、俺たちが働けそうなところは、あるだろうか」 「ラーダイマイトは農家が多いので、それだけ大勢のみなさんを雇える家は、ないかもしれませんね……」  ナナンの母親は一向に目をやりながら首を傾げ、言葉を継いだ。 「糸づくりの工場も、ここでは小さい規模でしかやってませんし。ほとんど実のまま出荷するんですよ、パディムも。ですから、ここよりもサデイラの街に行った方が、お仕事はあるかと思います。あそこは糸や織物の工場街なので」 「そこはここから、どのくらいの距離にある場所ですか?」  ロージアが聞いた。 「ラーダイマイトからボーデに向かう街道の途中に、サデイラに向かう分岐があります。ここからですと、そうですね……その車で行かれるのですよね。そうすると、五カーロンくらいでしょうか」 「今から行くと……日が暮れるギリギリね」  リセラは空を見上げ、ディーも頷く。 「それなら、出発を急がないといけないな」 「それよりは、今晩はうちに泊まりませんか?」  ナナンの義理の父親である、アシム氏が申し出た。 「母屋にはあいにく、それだけ大勢のみなさんを泊める部屋はないんですが、パディムの収穫を保管しておく、広い納屋があるんです。納屋といっても板張りの床もあるし、窓もあります。今は収穫の時期ではないので、普段は子供たちが遊び場に使っているところです。今夜はそこに泊まっていただいて、明日の朝出発されれば」 「そうしてください。車とサガディはうちもあるので、そこの小屋に入れていただければ、いいですから。その余裕はあります。そうしていただけませんか? 私たちもみなさんにお礼がしたいのです。一晩のお宿と、それからお水くらいしかないですが。でもお水はふんだんにありますよ。井戸があるので、それとダヴィーラを使えば、いくらでもとれるんです」母親の方も熱心な様子で、勧めてくれた。 「そうだ……あなたがたはダヴィーラ使いでしたね」  ブランが言う。ダヴィーラとは、普通の水や汚水からすら、きれいな水を抽出できる土のレラの技だ。 「まあ、家内とナナンとパミアしかできないですけれどね。ダヴィーラとエリムは。でもおかげでずいぶん助かっていますよ」  父親が笑いながら、付け加えていた。 「それでは、お言葉に甘えて、そうさせてもらうことにしようか」  ディーが仲間たちを見回し、一同は頷いた。  その夜はナナンの家の納屋で眠り――木の床に、一家がかき集めてきた寝具と、持ってきた毛布で、比較的快適な眠りだった――朝、一行は再び出発した。ナナンとその一家は、ダヴィーラで作り出した水を大きな器に入れてくれた。二、三日は持つほどの量だった。一行は一家に別れを告げ、昨日までナナンが座っていた指示席には、ロージアが座った。駆動生物サガディは土の要素を持った人間の言葉しか理解しないので、ナナンが離脱した今、土のディルトはロージアとペブルしかいないのだ。だがペブルは体が大きすぎるため、指示席には座れなかった。ブランは土の民だが、エレメントを持たないので、やはり指示は出せなかったのだ。そして一行は、ラーダイマイトをあとにした。 「あの子がいなくなって、少し寂しいわね」  リセラは遠ざかる町を見ながら、呟いた。 「でもナナンさん、きっとご家族と幸せに暮らせますよ」  サンディの言葉に、みなが頷いていた。  都市間をつなぎ大陸を通る広い道は、白っぽい土に覆われていて、車三台分くらいが通れる幅だ。ミディアルでもアーセタイルでも、車は道の左側を通っているようだった。道路の境界には、同じような大きさの丸い灰色の石が並び、その向こうは草原が広がっている。ところどころに森や、なだらかな丘が見える。アーセタイルに来てからずっと、同じような景色だった。  ラーダイマイトの町が完全に見えなくなった頃、ディーは前を見たまま、口を開いた。 「ところでブルー、ナナンくんがいるうちは言わなかったが……おまえはまだ、昔の癖が抜けきっていないのか?」 「えっ?」  青髪の若者は、びくっとしたように顔を上げた。 「バジレで宿に合流した時、分けて持たせた稀石をロージアに返したが……おまえは一つだけ、返さなかっただろう」 「……わかっていたのか……」  ブルーは黙り込んだ。やがてぶるっと身を震わせると、ポケットの中から青い稀石を取り出し、「すまない!」と声を上げた。 「もうやらないと思ったんだ! ずっとそう思ってた。でも実際、稀石を手に持っちまったら……我慢できなかったんだ!!」 「本当かよ。おまえがアンリールを出なければならなかった、災いの元じゃねえかよ。懲りないやつだな……」  フレイが横を向きながら、ぼそっと吐き出すように言う。  ブルーとフレイは他の血が混じらない純血種だと、サンディは思い出した。最初に、そうレイニが説明してくれた。ブランも純血なのだが、彼は『色抜け』なので、エレメントの力がない。土のエレメント持ちなら意思疎通できるはずの、土の駆動生物たちやナンタムとも言葉が通じないのも、そのせいだろう。でもエレメントの力は減衰していないはずのフレイやブルーが、どうしてミディアルに来て、ディルト(混血)たちの中で行動を共にしているのか、サンディは漠然と不思議に感じていたのだった。今、その一端を垣間見たのだが、それを自分は突っ込んで聞くべきではないだろう――そんな思いも感じていた。  ブルーはうなだれて身を小さくしているようで、少し震えてもいた。そんな彼を一行はしばらく眺めていた。やがてディーが口を開いた。 「それは返さなくていい。持っていろ」 「えっ?」ブルーは再び驚いたように顔を上げた。 「いいのか……俺が持っていても……」 「おまえの稀石への執着は、病気みたいなものだろう。一つ持っていれば、少しは気が休まるんじゃないか? そして同時に、戒めにもなるだろう。それを見て、思い出すといい。それがおまえに何をもたらし、何を失わせたのかを」 「ありがとう……すまない。本当に……」 「じゃあ、それも私が加工してあげようか。ナナンくんにあげた腕輪のように、目につくところに着けていた方が、効果があるだろう」  ブランがそう申し出た後、さらに言葉を継いだ。「それで一つ、みなにお願いがあるんだ。サデイラに向かう前に、モラサイト・ホーナによってくれないか。この道の、サデイラへ向かう分岐の一つ前に、そこへ向かう分岐がある」 「モラサイト・ホーナか。それはたしか……」  ディーがそう言いかけ、リセラが言葉を引き取った。 「そう。ブランの出身地じゃなかった? ナナンくんにそう説明していたわよね」 「そうだよ。あそこに私の家があるんだ。家に帰って、道具箱をとって来たい。船と一緒にあらかた沈んでしまって、最低限のものしか持ち出せなかったからね。これからものを加工したり、薬を作ったりるにも、もう少し道具があった方がいい。家にはあるんだ。昔、ミディアルに行く前に使っていた、予備のものが」  ブランは前を見たままだった。小さな顔の大半を覆い隠している日よけ眼鏡のせいで、相変わらず表情は見えず、その声にも何の感情も反映してはいない。  一行はそんな彼をしばらく見、そして顔を見合わせた。やがてディーが頷いた。 「わかった。じゃあ、ロージア、モラサイト・ホーナの分岐点に来たら、その方角に行くように指示してくれ」 「わかったわ」  サガディたちは進み続け、カラカラという軽い車輪の音とともに、一行十一人を乗せた荷車も進み続けていった。  太陽が西に傾きかけたころ、一行はブランの故郷、モラサイト・ホーナに着いた。そこはなだらかな丘の中腹にある、比較的小さな町だった。郊外地区には小規模なポプルの農園があり、それ以外はポプルの木より丈の高い、がっしりした木々の林に囲まれている。町の中ほどには小川が流れ、小さな橋が架かっていた。道は町の入り口で終わっていて、そこから滑らかな地面が広がり、小さな家が点在している。道はなくとも、乗り物が充分進んでいけるほどの間隔があった。 「あなたの家ってどこ、ブラン?」  指示席に座ったロージアが、すぐ後ろに座っている白髪の小男に向かって問いかけた。 「橋の先の、二件目の家の庭先を右に曲がって、その奥だよ」  彼は答えた。故郷を見つめるその目は相変わらず大きな日よけ眼鏡に隠され、その表情は見えない。ロージアは頷き、サガディたちに指示を出して、車を進めた。間もなく彼らは、小さな一軒の家の前に着いた。 「ここが私の家だ」  ロージアは車を止めた。ブランは敏捷な動作で車から飛び降りると、扉に手をかざした。その手から発せられるレラは白いが、それでも扉は音を立てて開いた。 「今日はここに泊まるかい? ここからサデイラにそのまま行くよりも」  ブランは仲間たちを振り返って、提案する。 「ああ……まあ、たしかにそうさせてもらえば、便利かもしれないな」ディーは頷き、 「宿代は浮くわね。でも、大丈夫なの?」ロージアが問いかける。 「大丈夫だよ。家には誰もいない。それにそこの小屋に、車とサガディは置いておける。うちにも昔は、いたんだ。今は使っていないけれどね」  ブランは広い庭の中に建っている小さな小屋に向かうと、再び扉に手をかざし、開けた。 「ここは………鍵ではないんですか? 扉の開け閉めは」  サンディは不思議に思い、聞いてみた。 「そうだね。宿のようなところでは鍵を使うが、たいてい個人の家は、レラを使って開け閉めをしているんだよ。セマナ――レラの色は問わないから、私でも使える」 「………でも、皆が皆、その技を使えたら、鍵の意味が……」 「基本セマナは閉めた人にしか、開けられないのよ」  レイニが微笑んで、そう説明してくれた。 「あ、でもそれって………時には不便ではないですか? 出かけている間に、家の他の人が帰ってきたら……」 「その場合、その人が以前セマナを使ってここを閉めていたら、開けられるんだ。ちょっと強いレラがいるけれどね」  ブランはそう説明した後、ロージアに向かって「ここにサガディたちを入れてやって」と指示した。言われた方は頷き、駆動生物たちを車ごと小屋の中に入れ、連結具を外してやった。ペブルが車に積んだ桶から水をくみ、サガディたち用の水入れに注いで、飲ませてやっている。そして彼らが地面に横たわり、休息に入ったのち、一行は車から必要なものを持ち出し、再び扉を閉めた。最後にブランが技を使って、再び扉に鍵をかけた。 「さてと、みんなは中に入って」  ブランは母屋の扉を大きく開きながら、促した。 「この中には寝棚も四つあるよ。全員分はないけれどね」  ブランの家は二階建てになっていて、一階部分は大きな広間と、元は両親の部屋だったらしい、寝棚が二つ並んだ部屋があった。階段を上がると、二つの部屋がある。その左側の部屋が、元のブランの部屋らしかった。寝棚と、大きな机、そしてたくさんの本と、見たことのない器具が並んでいる。 「ずいぶん、たくさんの本を集めたのね……何の本?」  リセラが周りを見回しながら、声を上げた。 「薬の調合とか、加工とか、そういう本だよ」  ブランはその並んだ背表紙に目をやりながら、そう答える。相変わらずその表情は見えないが。  この世界にも、本はある――サンディはそんな思いを感じながら、ブランに許可を得て、並んだ本の一冊を手に取ってみた。町を歩いている時も、本を売っている店は見かけた。ミディアルでも、アーセタイルでも。ただ、開いても何が書いてあるのか、まったくわからなかった。そこには、文字すらない。うっすらとした色の染み――グレーだったり、青かったり、赤かったり、緑や黄色だったり――鮮やかではない、かなり薄い色合いの模様が、おそらく紙でできているだろうページの上に広がっている。どのページも。 「ああ、本を読むのには、リブレという技が必要なのよ」  レイニが不思議そうな少女の様子を見て、そう説明してくれた。 「リブレは……わたしができる、たった一つの技です」  ミレア王女がそこで、そう言いだした。 「じゃあ……これを読んでみてくれる?」  サンディはその本のページを広げて、王女に差し出した。  ミレア王女は頷き、ページの上に右手をかざした。そこからうっすらとした白いレラが広がり、やがてページの色を吸収したように、少しずつ染まって、再び手に吸着されていくようだった。 「わぁ……この本、すごく難しい……わたしには、わからない」 「そうだろうね。十二歳の王女様には、難しいと思うよ」  ブランは微笑し、少女たちから本を受け取ると、元の本棚に返した。 「向かい側のお部屋は、どなたの部屋? ブランの兄弟さん?」  リセラがそう問いかける。 「そう……私の姉の部屋だった。姉といっても、私たちは双子だったけれどね」  ブランは頭を振ってそう答え、そして言葉を継いだ。 「道具箱は見つかった。明日出発前に、持っていこう。とりあえず下に降りて、夕食にしないかい」  一行はその言葉にうなずき、階下に降りた。  ブランの家の広間には、厚い敷物が敷いてあった。一行はその上でいつものように車座になり、ポプルを食べて水を飲んだ。 「みんなは、遠慮しているんだね。なぜこの家に誰もいないか、どうして私がここを出たのか、聞きたいけれど聞けない、そんな感じだ」  食事が終わると、ブランは微かな笑みを浮かべ、一行を見た。 「まあ、俺たちみんな、それぞれに事情があるわけだからな。言いたくないこともあるだろうし、その辺はわかってるさ」フレイが言い、 「話したい気分になっていたら、聞くよ」と、アンバーも頷いていた。 「そうだな……ここへ帰ってきた以上、話さないと、とは思っていたんだ」  ブランは水を一口飲むと、再び一行を見て、話しだした。 「私の家は、製材を生業としていた。森から切った木を買い取り、庭で板に加工して、木材商に売る。今サガディたちを入れている小屋の隣に、もう一つ大きな納屋があるが、あれが製材したものを保管しておくところだったんだ」  そして彼はそこでサンディを見、言葉を継いだ。 「ああ、製材といっても、ミディアルのように道具を使ってやるわけじゃない。父は土のレラで、木を切る技が使えた。母は同じく、その表面を滑らかにする技が。その分レラの消費は激しいが、うちの庭には二本、ポプルの木がある。父や母は、そのポプルを口に入れながら、作業をしていた。子供のころの記憶に、その姿が残っている」 「そうなんですか……」  サンディは不思議な思いを感じながら、頷いた。 「父と母はそうやって働いていたが、長い間子供には恵まれなかったと聞く。姉と私が生まれたのは、二人が結婚して十年たったころらしいから。そしてそう……サンディとリルは、それにアンバーと王女様も、聞いていただろうが……私たち五人が合流した時、ナナンくんが言っていたことを。片方の子にすべてのレラが集まる双子が、生まれることがあると。そう、私たちは双子だったが、すべてのレラは姉に集まった。私が持っていたものも、すべて彼女に吸い取られ、私は残りかす状態で生まれてきたんだ。だから私は『色抜け』になった」 「『偏った双子』ね。わたしも聞いたことがあるわ」  ロージアがそこで、思い出したように頷いた。 「そう。そしてそのために、私は土のレラを持たず、セマナとリブレしか使えない。扉の開け閉めと、本を読むこと――それだけが、私の技のすべてだ。でも私の分までレラを吸い取った姉は、強力な土の力を持っていた。彼女は鮮やかな緑の髪と眼を持ち、ダヴィーラとエリム以外は――ナナンくんが使っていたそれは、特定の家系しか使えない土の技だから、私の家系では使えなかった。だがそれ以外の技は、すべて出来た。だが彼女は、決して傲慢でもわがままでもなかった。明るく、面倒見のいい性格で、父母に愛され、私も慕っていた。『わたしがあなたの分の能力を取っちゃったんだから、あなたができないことは、わたしが代わりにするわ』と、よく言っていた。そして彼女が八歳になったころ、神殿から使いが来たんだ。彼女は巫女候補に選ばれた、と」  ブランはそこで言葉を止めた。何人かが息をのんだような音の後、沈黙が下りた。  サンディは思い返していた。かつて、ミディアルでディーが言っていたこと。この世界は、精霊の力で成り立っている。その精霊の力を具現化するために、巫女が必要で、その巫女は精霊を宿すことになるから、三年ほどで限界が来る。すると、次の巫女が必要になり、次代になれそうな素養を持った人々が集められる、と。 「巫女候補になることは、最高の名誉だ。私たちはそう教えられて育っているから、姉は喜んで、迎えの神官たちに連れられて首都ボーテに向かった。私もその時には、姉が誇らしかった。でも父と母は、あまりうれしそうじゃなかった。今思うと、その時から、悲しみをこらえているような感じだった」  しばらくの沈黙ののち、ブランはそう話を続けた。 「それで……お姉さんは……?」  リセラが恐る恐ると言う感じの口調で、いくぶんかすれた声で問いかけた。 「姉は巫女には、なれなかった」  ブランは口調を変えず、そう答えた。何人かが、再び息をのむ音が聞こえた。相変わらず大きな日よけ眼鏡のせいで、その表情は見えないが、ブランは天井に視線を向け、そしてサンディを見た。 「そう……サンディは知らないだろうから、説明するよ。巫女になれなかった人が、どうなるのか。前にディーが言っていたことを、覚えているかい? 精霊の力は、巫女を媒介として伝えらえる。巫女は精霊を宿すわけだから、負担がかかって、三年くらいで交代になる。その時、国で何人かの候補が選ばれてくる。精霊は、それ自体は光る球のようなものだ。巫女候補の子供は――そう、たいてい十歳以下の子供なんだ。男の子女の子は問わないけれど、とにかくレラの強い子供が、その珠の前に連れてこられる。自分の力を宿すにふさわしいと精霊が認めると、精霊はより小さく、より輝く珠となり、その子の中に入る。そして一体化する。その子が次の巫女だ。そうでない場合は――精霊は光る聖獣に姿を変え、その子を食らってしまうんだ。そうすることで、その子の持っていた力を、自らの力に吸収するわけだ」 「えっ……」サンディはそう言ったきり、あとの言葉が出なかった。同時に、何人かが身震いをしていた。 「食われると言っても、相手は精霊なのだから、苦痛はないと聞く。一瞬で終わると。そして姉は聖獣に食われ、その力の一部となった。彼女がボーテに行って一シャーランが過ぎた頃、姉は小さな稀石となって帰ってきた。聖獣は不合格だった巫女候補を食うと、そのレラの名残を排泄する。その稀石が、我々の元に戻されてきたんだ」  ブランは再び天井を仰ぐと、少し間をおいて、話を続けた。 「父と母の嘆きと悲しみは、はかりしれなかった。二人は姉だけに、すべての希望をかけていたのだから。彼女は父母の誇りであり、生きがいだった。それを失って、二人は生きる力をだんだんと失い、私が十二、三歳のころ、相次いで死んだんだ」  彼はため息を一つつくと、再びサンディを見た。 「そう。サンディのために補足しておこう。この世界では、レラは生きる力によって生み出される。もう生きていたくないと思ってしまうと、レラが減衰し、身体は力を失っていく。そしてやがて、本当に死んでしまうんだ」 「……」サンディは言葉を探したが、何も言えなかった。 「巫女制度は……この世界にとっての、呪いのようなものね」  ロージアがそこで、微かに体を震わせながら、低くそう呟いた。 「だが、それがなければ、この世界は維持できない……」  ディーの口調は、苦いものを噛んだように響いた。 「そう。そしてそれは名誉なことだとされる。実際、そう捕らえる親もいるだろう。だが、私の両親は違った」  ブランは首を振り、再びため息をついた。 「それからブランは……どうしたの? ご家族がみんな、死んでしまって……」  リセラがためらいがちな口調で、そう問いかける。 「十年くらいはそのまま、ここで暮らしていたよ。巫女候補になると、巫女になれなくとも、相応の手当てはもらえるからね。父母がいなくとも、生活には困らなかった。だからここでいろいろな本を読み、私でもできる技術を勉強していた。いつかそれを生かして、ミディアルに行きたいと思ってね」 「そういやブランって、そんななりだけれど、俺たちの中では、一番年長なんだよなあ。二六だっけ?」フレイが思い出したように、声を上げた。 「そうだよ。私は二三でここを出て、ミディアルに行ったからね。そこで君たちに合流したんだ」ブランはそこで、みなを見回した。 「さあ、身の上話も済んだところで、寝ようじゃないか。私は元の部屋で寝てくるが、王女様とサンディは、父母の部屋の寝棚を使うといい。あとはここで、眠れるかな?」 「ああ、大丈夫だ」ディーは頷き、一行は寝支度を始めた。  翌朝早く、一行が出発の準備をしている頃、一人の女性が家を訪ねてきた。小さな赤ん坊を胸のところで、ひものようなもので結わえて抱いた、比較的若い女性――長い茶色の髪を後ろで一つに結わえ、緑色の目のその女性は、丈の長い薄緑色の服を着ている。彼女は急いだ足取りで、庭に入ってきた。 「ブラン! 帰ってきていたの!? 昨日、この家に明かりがついていたから、まさかと思っていたのだけれど……」 「やあ、ティナハ。いや、ちょっと荷物を取りに来ただけだよ。もう出発するんだ」  ブランはその女性に目を止めると、少し明るい声で答えていた。 「そうなの……でも、良かったわ。あなたが無事で。ミディアルが滅んだって聞いたから、捕虜になってマディットに連れて行かれたのじゃないかって、心配していたの」 「ありがとう。大丈夫だったよ。君も元気そうだね。その子は、君の子かい?」 「ええ」女性は頷き、そっと赤ん坊の頭に手をやった。 「わたし、二年前にジェセダと結婚したの。この子はわたしたちの、最初の息子よ」 「それはよかった。そうなればいいと、私は思っていたんだ」  ブランは微笑み、そして言葉を継いだ。 「私はもう、モラサイト・ホーナに戻ることはないと思う。いや、三年前もそう言ったが、今度は本当だ。君の幸せを祈っているよ、ティナハ」 「ありがとう……」  女性はしばらくそこに立っていた後、踵を返して去っていった。   「彼女は、私の家の隣に住んでいる一家の娘なんだ」  次の町、サデイラに向かう車の中で、ブランは仲間たちに説明していた。 「ティナハという。私と同い年だ。彼女は姉と仲が良くて、私もよく一緒に遊んでいた。姉が死んでからも、彼女はよく家に遊びに来た。彼女は、私の唯一の理解者だった」 「ブランは……彼女と仲が良かったのに、なぜここを離れたの?」  リセラが少し不思議そうに、そう聞いていた。 「仲が良かったからこそ、私はここを離れないといけない、そう思ったんだ」  ブランは首を振って答えた。相変わらず、その表情は見えないが、その声は少し動揺を表していた。 「私たちの仲が、恋愛に発展していってはいけない。ティナハの両親からも、そう言われた。そう。昨夜、私は言った。いつかミディアルで生きていけるように、技術を学ぼうと。それは、本当は違う。最初は、ミディアルに行こうとは思わなかった。ここで、私にできる技術を学び、生活を立てられたら……そんなことを思っていたんだ。アーセタイルでも、必ずしも医療術を持った人間ばかりではない。それに全員が、加工のレラ持ちでもない。そこに自分の生きる道があるかもしれない。そう思っていた。私は、ティナハとの関係が心地よかった。彼女のそばで生きていけたら、そうも思っていた。しかし、彼女が私のことを好きだというのが、彼女の両親の大きな懸念だったらしい。好きといっても、まだ恋愛ではなかったはずだが……私も、彼女と結婚しようとは思わなかった。私は色抜けだ。もし子供が生まれたら、その子はディルトにはならないまでも、彼女の土のレラを、相当に減衰させた状態になってしまうだろう。せっかく、彼女自身のレラは標準以上に強いのに……だから、私はここを出る決心をしたんだ。それは正しかったようだ。彼女は純粋な土の若者と、結婚したようだ。ジェセダも、私は知っている。仲はあまりいいとはいえないがね。でも、悪い奴じゃない。私は彼がティナハを好きなことは知っていた。いい結果になってくれて、ほっとしているんだ」  一同は、それに対して、なんと返答していいかわからないようだった。彼の決断は正しい、とするのが一般的なのだろうが、その後ろにある感情を思うと、そうも言えないようだ。殊にみな、エレメントが混じることのデメリットを、よく知っているからだろう。 「……まあ、おまえが決断に満足しているなら、それでよかったんだろう」  ディーがしばらくの沈黙ののちに言い、 「そのおかげで、あたしたちも、頼りになる仲間が増えたわけだしね」  リセラが比較的明るい調子でそう付け加えていた。  ブランはほんの少しだけ微笑んだ後、家から持ち出してきた袋の中を探り、細い銀の鎖をつけた、青い稀石を取り出した。 「そうだ、ブルー。君の稀石ができたよ」  青髪の若者に差し出す。それはここへ来る時、彼が一つだけ返さなかったものだった。ブルーは「ああ」と頷き、手を伸ばして受け取っていた。 「それも、ナナンくんのものと同じ作りだ。腕に巻いておくといい」 「では、今度は私がつけてあげるわ」と、レイニが頷いて、ブルーの左手首に鎖を巻き、止めた。 「ありがとう」ブルーは頷き、その輝きを見つめていた。その目は心なしかうれしそうで、キラキラと輝いていたが、やがて少しばつが悪そうに、一行を振り返った。そして、一つ咳払いをして言い出した。 「あー、知っている者もいるだろうが……不思議に思っているのもいるだろうな。ことにサンディや王女は。ブランのように重い話じゃないが……」 「どっちかと言えば、馬鹿な話だな」  フレイが少し鼻を鳴らして、遮る。 「うるさい! ああ……だが、そう言われても、仕方のない話だ」  ブルーはもう一度咳払いをすると、青白い顔の両方に、青の色を濃くしながら、話し始めた。「俺の家は、アンリールの首都で稀石商を営んでいたんだ。俺は子供のころから、家の商売道具の、きらきらした稀石が好きだった。それで時々持ち出して眺めては、親父やお袋に怒られていたんだ。時々どうしても我慢が出来なくなって、持ち出したその石を自分のポケットに入れて持ち歩き、そのたびに見つかって、とんでもなく怒られていた。でもその輝きに、俺は魅せられてしまって、手元に置いておきたい衝動が抑えられなくてな。水の神殿に行って、きれいな稀石の装飾を眺めているのも好きだった。本当に素晴らしくて、時間がたつのも忘れた。だが俺が十八くらいのころ、神殿に行って眺めていたら、たまたま装飾の稀石が一つ外れて、床に落ちているのを見つけてな。ついつい出来心で、それをポケットに入れて、持って返ってしまった」  青髪の若者はますます顔の色を濃くしながら、もう一度咳払いをした。 「もちろん、そんな行為が許されるわけはない。すぐに神官たちにわかってしまって、俺は捕まった。そして罰として二年の間、牢屋に入れられ、働かされた。まあ、仕事自体はそれほどきつくはなかったが、神殿に対する罪を犯した罪人として、俺の将来はなくなったも同然だった。両親も二人の兄弟も、俺との縁を切ると宣告し、牢屋から出ても、おまえに帰る家はないと言われた。それでもまあ、一年くらいはアンリールでなんとか仕事をして、生活はしていたんだが、この印がな……」  ブルーは、右手の袖を、左手でまくり上げた。前腕、手首とひじの中間あたりに二本、赤い線が刻まれていた。 「これは神殿の罪人のしるしなんだ。これがある限り、アンリールではディルトより、よそのエレメント持ちより、扱いがひどい。だから俺は、ミディアルに向かったんだ」 「こいつはそもそも、俺たちの仲間に加わったのだって、俺たちの金を盗もうとしたからなんだぜ」  フレイの言葉に、ブルーはますます青くなった。 「すまなかったな……ミディアルでも、いろいろ仕事は探したんだが、なかなか難しくてな……で、ディーに一撃でやっつけられて、もう本当にダメだと思った。だが……こんな俺でも仲間に加えてもらった時に、もう二度とやるまいと思ったんだ。……現物を前にすると、なかなか難しいが。ありがとうな……これは、お守りにするぜ」 「そいつがおまえのさがだな。まあ、頑張って乗り越えろ」  ディーが穏やかな口調で告げ、 「ええ……ブルーさんは、悪い人ではないと思います」  サンディは確信に近い思いを持って、そう言えた。 「あたしたちももう、三年半一緒にいるから、大丈夫よ」と、リセラも頷く。  他の仲間たちも頷く。それに対し、ブルーは無言で、感謝をこめたような眼差しを投げていた。  お昼頃、一行はサデイラに着いた。そこは比較的大きな町で、街はずれには、いくつもの工場が建っている。一行は町の広場に行き、その中央にかかっている、掲示板のようなもの――以前、アーセタイルの別の町でも見たものだ――の前に行った。掲示板といっても、それは大きな四枚の板を組み合わせ、四角くなるようしたもので、その上には、時間を知らせる時計がついている。板の上には、たくさんの四角い紙片が緑の鋲のようなもので止められていた。そこにも文字はなく、本と同じように、濃淡の色模様だけだ。そこに手をかざして、リブレという技を使って、読むようになっている。 「ここに書いてあるのは、みな仕事の募集なんですか?」  サンディはそう聞いてみた。 「それだけではないけれどね。報告だったり、人探しだったり、お知らせも多いわ」  ロージアとレイニが手をかざして読み取りながら、答えた。 「あ、でもこれはどうかしら。織物工場で、織り機を操れる人を探しているようよ。五人」  そうレイニが声を上げ、 「こっちでは、糸を来る装置を操れる人を探しているわ。四人」と、ロージアが言う。 「これは……建築現場だね。四人……」ブランも手をかざしながら言い、 「意外と働き口はありそうだな」と、ディーはほっとしたような表情で結論付けた。  その日と翌日一日で、一行は仕事をなんとか見つけることができた。土のレラ持ちでなくとも、どんな色でもレラがあれば装置は操れるため、「真面目に働いてくれるなら、いいよ」と言う工場経営者のもと、ロージア、レイニ、アンバーは織物工場へ、リセラとブランは糸繰り工場へ、そしてディー、ペブル、ブルー、フレイは建物を建てる現場で働くことになった。サンディはレラを持たないために、機械を操ることはできず、ミレア王女とともに留守番となった。  家の方も、宿屋の主人が「駆動生物と車を貸してくれるなら、宿代はいらないよ」と申し出てくれ、十一人が寝るとあまり余裕がないような狭い部屋ではあったが、無償で貸してもらえた。  サンディはそこで、他の九人が働いている間、部屋を掃除したり洗濯をしたりして過ごした。ミレア王女も手伝おうとした。彼女はここに来た時に買った緑色の丈の長い服を着、髪の毛を後ろで結んで、もはやミディアルにいた頃の王女然とした面影はなくなっていた。ある日、サンディは王女に、「床の上でもちゃんと眠れる?」と聞いた時、「大丈夫。最初はちょっと身体が痛かったけれど、慣れたわ」と、ニコッと笑って答えるようになっていた。彼女も徐々に悲しみと衝撃から、立ち直ってきているように思えた。  一行がサデイラの街で暮らし始めて、一節と十日が過ぎた。朝、九人は連れ立って部屋を出、誰か一人が部屋の扉を、技を使って閉める。そうすると、留守番をする中の二人は外へは出られないが、誰かが入ってくる心配もないのだ。部屋の中には水桶も含め、必要な道具はそろっているので、掃除や洗濯はできる。そして夕方、仕事に行っていた九人が帰ってきて、ポプルと水で食事をとり、しばらく話してから眠りにつく。その繰り返しだった。一シャーランのうちの一日は休みがもらえ、みなは町に行って湯あみをしたり、買い物をしたりした。  その日も休日だった。一行は町で湯あみをし、町の広場を歩いている時、四頭の駆動生物に引かれた、装飾を施した緑の車がサデイラの街に入ってきて、一行のそばに止まった。中から長い緑の装束をつけた一人の男が下りてきた。 「君たちか。ミディアルから来た一行は」 「……そうだが……」  ディーは少し緊張を隠せぬ様子でそう答え、一行も少しはっとしたように、みな一斉に足を止めた。他にも町には大勢の人が行きかっていたが、みな同じく驚いたように動きを止めた。ささやきが広がっていく。「ボーテの神官さまだ……」と。 「準備ができたら、すぐにボーテに来てくれ。精霊様のお告げだ。私はこれからこの町の長のところに行って、話をしてくる」  その男はそう告げると、再び車に乗り込み、ガラガラと道を走っていった。 「ボーテの神官が、俺たちに何の用なんだ?」  少し光沢を帯びた緑の車が、駆動生物に引かれて走り去ると、一行は顔を見合わせ、フレイが皆の懸念を代表するように言った。 「まさか、俺たちが王女様を連れてここに来ていることがマディットにばれて、送り返せとか要請されてるんじゃないだろうな」  ブルーが普段より色を失った顔で、心配げに言う。  それはたぶん、全員の懸念だっただろう。ミレア王女は無言で震え、サンディは反射的にその手をぎゅっと握った。リセラとレイニは同じように懸念をにじませた顔で、かばうように王女に寄り添う。 「いや……たぶん、それは大丈夫だ」  しばらく考えるような沈黙ののち、ディーが首を振った。 「本当か?」ブルーとフレイが同時にそう問い返し、 「それなら、まだ良かった。ディーの悪い予感が、ないなら」と、アンバーがいくぶんほっとしたように声を上げる。 「たしかにディーの悪い予感は当たるけれどね。エフィオンの力なんだろうね。今、大丈夫な気がするというのも、それかい?」と、ブランが問いかける。  エフィオンというのは、知られざるものを知ることのできる力。闇のエレメントの技でもまれな部類であることを、サンディは思い出した。その力は自分で操るというよりも、外から予感や知識と言う形で来るということも。それゆえ、彼女がなぜここに来たのか、ということも漠然とではあるが知っていると、以前ディーが言っていたことも、サンディは思い出していた。あれから二節以上が過ぎた今、自分にかけられている忘却の技が解けるのも、同じくらいの期間になっているということも。それを思うと、いつも漠然とした恐れのようなものを、サンディは感じていた。 「ああ……たぶん、別のことだ。それが何かはわからないが。それほど悪い予感はしない。だが……」ディーは言葉を止め、首を振った。 「だけど、何?」ロージアが少しの懸念を込めた調子で、そう問い返す。 「いや。ただ、アーセタイルにいるのも、もうそれほど長くはないのかもしれない。そうも思えるんだ」 「ええ?」一行は一斉にそう声を上げた。 「せっかく、あたしたちの生活も安定してきたのに?」  リセラが頭を上げ、少し落胆したような声を上げる。 「まあ……安定はしているかもしれないが、発展性はない。充分に金がたまったら、次を目指した方がいい。そうは思っていたが、少し短いな。まだそれほど金もたまっていない」  ディーの言葉に、一行の会計係であるロージアも頷いた。 「そうね。荷車の分を取り戻せたくらいだわ」と。 「ボーテの神殿が俺たちに何の用なのかはわからないが、とりあえず宿に戻って出発の支度はしておこう。ただ、駆動生物たちと車を宿主に貸しているから、すぐに返せとは言えないかもしれないな」 「たしかにね。でもボーテの神官の命令なら、いやとは言わないんじゃないかしら」  ロージアの言葉に、一行はみな考え込むような表情になった。やがてリセラが、思い切ったように提案した。 「まあ、とりあえずあたしたちも町の用事は済ませたんだから、一回帰る? いきなりボーテに来いと言われても、何が何だかわからないし、そのうち何か言ってくるかもしれないから」  宿に戻ってしばらくたったころ、町の長と名乗る人物が一行を訪ねてきた。都の神官が長のところに立ち寄り、話をしたのだろう。 「そう言うわけだから、君たちは一度ここを引き払って、ボーテに行ってくれないか」  中年の、恰幅の良いその男は一行に向かって告げた。 「そう言うわけと言われても、俺たちにはよくわからないんだが。俺たちが聞いたのは、精霊のお告げだから、来てくれ、それだけだからな」ディーが苦笑して返す。 「それだけで、じゅうぶんではないかい? 精霊様が告げられたのだ。君たちが必要だと。君たちは今、町工場で働いているらしいが、工場の雇い主たちには使いのものをやって、今節の君たちの賃金を今日中に払うように言っておいた。たぶん、君たちはここには戻ってこないだろうから、一回仕事を打ち切ってくれとも頼んでおいた」 「え、いきなり俺たちクビか?」フレイが不満げに声を上げる。 「違う。敬意をもって、終わりにしてもらう。もちろん君たちがボーデで頼まれた仕事を完遂できて、またここに戻ってきて働きたいと言えば、もちろん戻ることはできる。その点は私も、工場の雇い主たちも、異存はない。ただ、ボーデの神殿の要請が、そうなっているんだ。一回ここでのものを打ち切って、ボーデに来いと。宿の主人にも、話はした。君たちの車は今、彼が荷物の運搬に使っていて、少し遠くまで行っているらしいので、急いで戻したとしても、夕方になるから、今日中の出発は無理だろうがね。神官様もそれは見越しておられた」  町の長は懐から緑と金色で縁取られた紙を取り出して、差し出した。 「これはボーデの神官様からの、神殿への出入り許可証だ。これがあれば、普通の人々には入れない神殿の奥に入ることができる」 「わかった」ディーは頷き、その紙を受け取って二つにたたむと、自分の服の内側に滑り込ませた。ここでは服にはたいてい、右か左の胸のところに、二重の袋状の布が内側についていて、そこに物を入れることができるのだ。ミディアルでは、公演許可証をよくここに入れていたが。  訪問者が帰っていった後しばらくして、ここアーセタイルの通信鳥が部屋の窓にとまり、窓をこつこつと叩いた。この世界では、ミディアル以外、離れたところとの連絡には、通信に特化した鳥を使っている。アーセタイルのものは薄緑で、ところどころ茶色の模様が入っていて、両方の手のひらを合わせたくらいの大きさだ。茶色い丸い目の、どちらかといえばかわいらしい風貌だった。この通信鳥を使って、一行はサデイラに来て三シャーランがたったころ、ナナンに手紙を書き、その三日後、少年から返信が来ていた。彼は家族で仲良く、その後は暮らしているという。一行はその知らせに安堵したものだった。  リセラが窓を開けると、その鳥が飛び込んできた。それは足に小さな袋をつかんでいた。一行の真ん中にその鳥は飛び降りると、つかんでいたものを置き、くちばしを開いた。 「ありがとう。君たちはよく働いてくれた。これは未払い分の賃金だ。三つの工場分だ。またこの町に戻ってくることがあったら、いつでも声をかけてくれ」  それはディーやペブルたちが働いている、建設工場の長の声だった。続いて、織物工場と製糸工場の長の声もした。それは同じように、好意的なものだった。この通信鳥は、そのメッセージをそのまま声ごと写し取り、再現するのだ。 「ありがとう。たしかに受け取った。俺たちの方こそ世話になった」  ディーが鳥に向かって言い、リセラとロージアも同じように、雇い主に感謝の気持ちを伝えた。その頭をなでると、鳥はこくこくと頷くような動作を見せ、開いた窓から飛んでいった。相手のところに帰り、そのメッセージを伝えるために。 「さてと……思いがけず、ここの生活も終わったな。明日はボーデだ。何を言われるのか、頼まれるのかはわからんが、とりあえず明日に備えて休もう」  ディーは一行を見回して言い、皆は頷いていた。  翌日の昼過ぎ、一行はアーセタイルの首都、ボーデに着いた。そこはミディアルの首都エルアナフより規模が大きく、円形構造だ。中心には、土の神殿が建っていった。その壮麗な建物は、街の門からも見えた。一行を乗せた車は、街の門から中心部に向かって伸びた大きな通りをまっすぐに進み、やがて神殿の門に到着した。 「汚い車だな」  神殿の門のところにいる、門番らしい四人の一人が、そんなことを言った。彼らはみな肩のところまで髪をたらし、緑色の長い服の上から、茶色の鎧のようなものをつけ、手には木の杖を持っている。 「仕方ねえだろ、節約なんだから」  フレイが聞こえないようにぼそっと言い、 「まったくだ。そっちが呼んでおいて」と、ブルーも口をへの字に曲げている。 「すまんな。俺たちにはほかに乗り物はないんだ。これを……」  ディーが服の内側から、サデイラに来た神官から預かったという紙を取り出して差し出すと、門番の顔色が驚いたように変わった。 「おっと、失礼。ガーディナル神官様のお呼びとは知らなかった。車と駆動生物は、こっちの車置きに入れてくれ。係りの者が世話をしてくれるだろう」  門番の一人が一転して丁寧な仕草で一行を導き、車と駆動生物を預けたあと――毛布以外の荷物は持ち込んだが――十一人は土の神殿の中に足を踏み入れた。  神殿の門は、太い二本の円柱で支えられ、外壁は様々な浮彫模様を彫り込んだ、かすかに緑色に輝く石でできていた。ところどころに、緑の稀石がはめ込んである。門の間にある、大きな木の扉の向こうは、礼拝堂だ。ここまでは、アーセタイルの国民全員と、他の国の訪問者さえも、入ることができる。そこは、外壁と同じような素材の石材でできた薄緑色の壁に四方を囲まれた、広い空間だった。床は滑らかな木でできていて、真ん中に円形の大きな、白い石でできた鉢のようなものがあり、両側には太い円柱が建っている。壁や柱には浮彫彫刻の装飾が施され、緑の稀石がちりばめられている。中央にある、白い円形の鉢の中には土があって、真ん中には大きな木が生えていた。その木の幹は微かに金色がかり、広げた枝には少し透明感のある、緑の葉が一面に茂っている。 「これが、ご神木だな」ディーはその木を見上げた。 「アーセタイルは大地と緑の国だから、依り代は木なのね」  レイニの声は、少し畏怖を含んだように響いた。 「国によって違うんですか?」サンディは問いかける。 「ええ。私の国セレイアフォロスは氷のエレメントの国だから、神殿の石は薄い水色で、ご神体は透明な、溶けることのない大きな氷なのよ」 「アンリールだと、枯れることのない湧き水、噴水だな」と、ブルーが言い、 「フェイカンは、常に燃え盛る火だ」と、フレイは言う。 「そう。国によって違うんだよ。私もボーデの神殿に来たのは初めてだが、アーセタイルの依り代はこの木、決して枯れることのない木なんだ」  ブランが木を見上げながら言った。彼の双子の姉、ブランの分までエレメントの力を集めた彼女は八歳の時にここに来て、そして精霊の犠牲になったのだろうか――サデイラに来る前、彼の故郷モラサイト・ホーナで聞いた話を思い起こし、サンディは漠然とそう思った。この世界のことはいまだに理解したとは言えないが、その無常の冷たさは、理解できるような気がした。そしてブランは今初めてその神殿に来て、どう思っているのだろうかと。彼の表情は、相変わらず大きな日よけ眼鏡のせいで見えないが。  広間の奥に、金色の扉が見えた。その扉は閉ざされ、同じく四人の門番らしき人々がそのそばに立っている。一行十一人はその方向に向かい、ディーが再び懐から町長に渡された紙を取り出して、その四人に見せた。 「ちょっと待ってください。聞いてきます」  門番の一人が扉に手をかざして開けた後、奥に入っていった。そして、再び扉を中から閉める。ひとしきり待たされた後、再び扉が開き、その男が出てきた。 「みなさん、中に入ってください。そして廊下でお待ちください。神官様が中にお導きくださるでしょうから」  男に促され、一行は扉の奥に足を踏み入れた。  扉の奥は、広い廊下だった。薄緑の石の壁に、広間同様、緑の稀石をはめこんだ、凝った彫刻が施されている。 「おまえには目の毒かな、ブルー」と、フレイが少しからかうように言い、 「うるせえ。俺は色の違う石は、そんなに興味はないんだ。きれいだとは思うがな」と、ブルーがちらっと壁に目をやりながら、首を振る。 「まあ、アンリールじゃ青しかないんでしょうしね」と、リセラも苦笑していた。  廊下に立って待っていると、サデイラの街にも来た神官が、緑の重そうな衣装に身を包んで、やってきた。手には金の飾りのついた、木の錫杖を持っている。 「土の神殿の副神官長、ガーディナルだ」その男はそう名乗った。 「やっと来てくれたな。とりあえず、その控えの間で話をしよう。入ってくれ」  彼は廊下にとびとびに並んだ扉の一つに手をかざし、開けると、中に一行を導いた。 「あんたたちに頼みたいことがあるんだ」  ガーディナル副神官長はその部屋の中の、緑のどっしりとした安楽椅子に腰を下ろし、何客かの長椅子に一行が座るのを待って、そう切り出した。 「頼みたいこと?」  ディーが一行を代表し、そう反復した。少し眉間にしわを寄せて。 「そう。我が国に『思怨獣』が現れた」 「『思怨獣』……?」 「そうだ。嘆かわしいことだ。人々の濁った思いが、一つの獣を産むほどに膨らんだとは」 「聞いたことはありますが……」  ディーも小さく息を吐きながら頷いた後、言葉を継いだ。彼もさすがに、副神官長には丁寧な言葉遣いになるようだ。 「そいつを退治してくれというのですか? しかし、俺たちに頼まなくとも、土の強力な攻撃術を持ったものも、ここにはいると思いますが」 「そうだが、君も知っているだろう。思いが集まってできた獣は、攻撃で分解できても、時がたつとまた再結集してしまうことを」 「ああ……浄化が必要なんだな」  ディーは天井に一瞬視線を向けた後、続けた。 「でも、レヴァイラ使いを探すなら、ユヴァリスに頼んだ方と思いますが?」 「レヴァイラ使いはユヴァリスでも、そう数が多くないうえ、今ユヴァリスは内部で少し取り込んでいるようだ。それが片付くまで待てと言ってきた。だが、長引くかもしれないと。そこで、巫女様が告げたんだ。この国にも、今レヴァイラ使いが来ていると。それがあんたたちだと」 「精霊様はお見通し、か」ディーは苦笑を浮かべ、相手を見た。 「しかし、俺は光のエレメントは四分の一しかないので、レヴァイラを発動させるためには、全形の光がいります。あと四分の三。リルの持っている二分の一の光と、アンバーの四分の一の光、合わせてやっと発動できるので」 「あんたが、そのレヴァイラ使いだったのか? あんたは、かなり強い闇のディルトだろうが」副神官長は少し驚いたようだった。 「そう。俺の光は、四分の一だけです。俺の母方の祖母から受けついだものです。俺は闇の技は七つ使えますが、光技も一つだけ受け継ぎました。それがレヴァイラです。ただ、さっきも言ったように、俺単独では発動できないものです。同じように強い光が、あと四分の三必要になるので。でも都合のいいことに、仲間たちに、その強い光の持ち主がいるのです」 「四分の一でレヴァイラが伝わるというのは……あんたのお祖母さんという人は、どれほど強い光の人だったのだろうな……」  副神官長は、感嘆したような口調になっていた。 「俺は母方の祖母のことは、よく知りません。母も、あまり話してはくれませんでしたし、俺が小さい時に亡くなったので。ただこの力は、神官長になれるくらい強い光の家系にのみ受け継がれる技だということは、知っています。ということは、俺の光の先祖もそうだったのでしょう。そしてここにいる、リセラも。彼女の見た目は火と風のディルトに近いですが、その母親は神官長や巫女候補が出せるほど、強い光の家系の出身らしいです。彼女はレヴァイラを含め、光の技は一切受け継がず、飛行能力だけがその名残ですが、その光のエレメント自体は、相当強力なものです。そして、この光交じりの風の民、アンバーの父方の祖母も、光の神殿ゆかりの人らしいので、それぞれのかなり強力な光が集まれば、レヴァイラは発動できると思います」 「そうなのか……」神官は、少し固唾を飲むような音を発した。 「ですが、その思怨獣は、今どこにいるのか、わかりますか? レヴァイラをかける前に、いったん攻撃をかけて弱らせないといけないが、それも俺たちがやるのですか?」 「いや、それはこちらも協力する。二人ほど、こちらの神官を派遣する。どちらも強い攻撃技が使える。君たちを助け、そして見守るために」 「そうか……監視も兼ねているわけだな」  ディーは普段の口調に戻り、かすかに苦笑した。 「そう言うわけでもないが、少しは当たっているかもしれないな」  ガーディナル神官は微かな笑みを浮かべながら、立ち上がった。 「では、こちらへ来てくれ。これから巫女様のところへ行く。どこで思怨の獣を迎え撃てばいいか、お告げくださるだろう」  巫女の間は、神殿の一番奥まった場所に作られ、いくつもの扉を抜けた突き当りの、金色の扉の向こうにあった。そこは広間のようになっていて、床には一面真っ白な石が敷き詰められ、真ん中に緑と金色、オレンジの三色で円形の、不思議な模様が書いてある。天井も真っ白く、中央にはガラスのように透明な球に入った光が下がり、部屋を照らしていた。その珠を囲むように、大きな稀石がまるで滝のように垂れている。壁は薄い緑色で、細かい浮彫模様に、やはり緑の稀石がちりばめられていた。  床の中央にある模様のすぐ後ろに、緑色の大きなふかふかとした椅子が置いてあり、そこに巫女が座っていた。まっすぐな緑色の髪を肩にたらし、稀石の飾りを胸に下げて、神官の服よりもさらにどっしりとした感じの、光沢のある長い緑の服を着ている。巫女といっても、少年らしかった。七、八歳くらいの少年。その手には先端に緑の葉が生い茂った、かすかに金色に輝く木の杖が握られている。その身体全体からは、うっすらとした薄緑に輝く光が放たれていて、整った顔立ちは、奇妙な無表情だった。大きな緑色の目は見開かれていて、薄く濁っていた。透明だが、微かに白濁した池の表面のように。  巫女は一行が前に進み出ても、表情を動かさず、瞬きもしなかった。そして微かに手を動かすと、その杖の先端の葉たちがこすれあい、かすかな音が鳴った。 「明日、夜の三カルと二十ティルの時、ボーテの郊外、北に二キュービットの地点に、かの獣が現れる。それを退治し、浄化させたのち、再びここに来るが良い」  その声は子供らしかったが、抑揚がなく、そして微かにこだまするような響きがあった。そしてもう一度、杖を振った。それが来客退場の合図らしく、両側に控えた神官たちが一行を促し、再び部屋の外へと連れだした。  一行はそののち、ボーテの街の中の、大きな宿屋に送られた。 「とりあえず、本日はここで休まれてください」と、付き添ってきた、神殿に仕える人々の一人が告げた。「明日、昼の五カルごろに、みなさまのお供をする神官二人が来ます。乗り物は、こちらで用意いたしますので。みなさまの乗り物と駆動生物たちは、とりあえずここの宿に預けました。みなさまは、宿代の心配はしなくて結構です。こちらで払いますので。他に、何か入用なものがありますか?」 「できれば光と闇のポプルが欲しい。光は浄化用で、闇は攻撃用だ。そちらも攻撃の使い手はいるらしいが、念のためな。それから他の色付きポプルも、あればいいんだが」 「わかりました。用意します。後ほど届けさせます」  神殿の人々は頷き、帰っていった。    宿の部屋はかなり広く、床にはふかふかとした敷物が敷いてあって、壁には二段に六つ、合計十二の寝棚がついていた。それぞれに、柔らかく暖かそうな寝具がついている。 「こんな豪勢なところに泊まったのは、初めてだな」  フレイが周りを見回しながら言い、一行は頷いていた。 「ところで……思怨の獣って、なんなんですか?」  ボーテの神官から話を聞いてから感じていた疑問を、サンディは口にした。 「そうね。それは変形したレラの怪物、といってもいいかしら」  レイニがかすかに首をかしげながら、そう説明してくれた。 「レラの力は、その人の思いにも連動するの。もしある程度レラの力が強い人が、強い負の思い――恨みとか憤りとか悲しみとか、そういうものを抱いて死ぬと、その人の持っていたレラが、それを取り込んで残る。それは仲間を呼ぶようにくっついて、大きくなっていって、最初は気の淀みと呼ばれるようなものを作るの。でも、それはたいてい森の奥深くとか、人の入らないようなところだから、あまり害はない。ナンタムたちも、他の土着生物たちも、そういう気の淀みには近寄らないから大丈夫。でも、その淀みが大きくなりすぎると、怪物化するの。それが思怨の獣ね。さらにそれが成長すると、それは凶暴化して人を襲うようになる。そうなる前に退治してくれ、というわけね」 「ボーテの郊外に現れる、ということは、人を襲う一歩手前なんだろうな」  ディーが眉根を寄せながら、頭を振った。 「おそらく、俺たちがここへ来た時に拾ったナンタムも、そいつに襲われたんだろう。それから一節半以上が過ぎて、もっと巨大化している恐れもある」 「そんなものを退治って、お、俺たちはどうすればいいんだ? ディーは強いからいいだろうが……」ブルーが少し怖気たようだ。 「ああ、とりあえず攻撃術を持たないものは、戦いには参加しない方がいい。危ないからな。でもとりあえず、ブルーとレイニは防御が使えるだろうから、一人ずつ――そうだな、王女様とブランを保護してくれ。もし余裕があったら、サンディも入れてやってくれ。サンディも二人にくっついていた方がいいな。ロージアとペブルは、できれば攻撃で参加してほしい。やられないように気をつけてな。フレイも余裕があったら、頼む。リルとアンバーは、俺が浄化技を出すときに必要だから、それまでできるだけ攻撃が当たらないよう、少し遠くにいて、避けてくれ。ただ、アンバーは飛んでもいいが、リルは飛ぶな。おまえの飛行は光のレラを消費するからな。二人とも、光レラは消費しないよう、もし消費した場合は、ポプルで補給できるよう、常に持っていてくれ」 「わかった」一行は、真剣な面持ちで頷いた。 「それにしても……わたし、巫女様って初めて見たけれど……ミディアル以外では、王様じゃなくて巫女様だと、父さまたちが言っていたから。でも、なんだか……ちょっと怖いような、そんな感じがしたの。見た目は子供なのに」  ミレア王女が、昼間の光景を思い出したように、小さく言った。 「あの子は、男の子ですよね」サンディもそうきいてみた。 「ああ、巫女といっても、女の子ばかりではないのさ。男の子の巫女も、珍しくはないんだ。あの子もそうだね。僕がアーセタイルを離れた時には、まだ先代の巫女で、その子は女の子だった。今の巫女に交代した時には、僕はここを離れていたから、どこの誰かは知らないが」ブランが説明する。 「まあ、どっちにしろ、巫女は選ばれた瞬間に、その子の心はなくなるからな。人間らしくなくとも、無理はない。その心も体も、精霊が支配しているのだから」  ディーは頭を振り、ふっと息を吐き出した。 「えっ?」と、サンディとミレア王女は同時に小さな声を上げた。 「それで……新しい巫女に交代したら、元の巫女は……元に戻るの?」  ミレア王女がそう聞いた。それはサンディも感じていた疑問だった。 「巫女は精霊が宿った瞬間、その衝撃でその子の心は潰れてしまうから、もう元には戻らないわ」ロージアが天井に目をやりながら、答えた。 「わたしは知っている……エウリスにいたころ、わたしの親友が巫女になったから。こんなディルトの私でも、唯一仲良くしてくれた子が……その子も男の子だった。わたしたちの村は、首都から外れていたけれど、そこから使いが来て。彼は巫女に選ばれて、三年半後に家に戻ってきた。選ばれた時のまま身体は成長せず、心は失なわれて、目も見えなくなって……あの土の巫女も、気づいたでしょう? 瞬きをしないのよ。精霊がその体を支配している間は。だから精霊が離れてしまうと、視力を失ってしまうの。それに身体も力を失って、ただじっと眠っているだけになってしまう。元巫女ということで、扱いは手厚いのだけれど」 「そう。巫女は選ばれても選ばれなくとも、その子の人生はそこで断ち切られることになるんだ。おまけに元の巫女はほとんどが、精霊が離れて二、三年で、死んでしまうらしいな。名誉だとは言うが……それに家族にとっては、ほぼ一生の生活保障はされるがな」  ディーは遠くを見るような表情で、首を振った。何人かが同時にぶるっと震え、サンディもまた寒気に似た思いが走るのを感じた。 「まあ、ともかく、明日の夜は、大変そうだ。今のうちに、休息しておこう。こんなに上等の寝棚で、上等の寝具で寝られることはめったにないぞ」  ディーが気を取り直したように言い、一同は再び頷いた。  その次の日も、晴れていた。アーセタイルへ来てから二節近くがたつが、雨の日は全体の十分の一もなく、それもたいてい夜に降ってきた。それゆえ、昼の記憶はいつも澄み渡った青い空と、うっすらとした織物のような白い雲、暖かな太陽の光、時おり吹きすぎるそよ風、それだけだった。  神殿からの使いは、予告されていた通り、昼の五カルにやってきた。 「まだ出発までには間があるが、早い方がいいと思ってな」  二人のうちの一人、年配の男の方が告げた。二人のうち一人は若い女性で――おそらくブランくらいの年配だろう――もう一人は中年の男、どちらも髪は緑色をしていた。若い女性は深みがかった色合いで、中年の人物は少し枯れたような、茶色が混じった色合いだった。 「名乗るほどのものでもないかとは思うが、名前を知らないと、呼ぶ時に不便だろうからな。私はボガンディ、彼女はヴィルハだ。君たちは……覚えるには少し多すぎるから、名乗らなくともいい。まあ、レヴァイラ使いの君だけは、リーダーくんとでも呼んでおこうか」  中年の男は床に腰を下ろすと、持ってきたものを置いた。 「君が頼んだものだ。光ポプルが三十個、闇が二十、他のエレメントも十個ずつある」 「ありがとう」ディーは中を改め、かすかに笑った。 「とりあえず、これだけで大丈夫か? もしもっと入用ならば、通信鳥を送って、持ってきてもらうが」  相手は相方を振り返った。ヴィルハという女性の肩には、連絡用の鳥がとまっている。神殿との通信用に、あらかじめ連れてきたのだろう。 「大丈夫だ。これだけあれば、充分すぎるくらいだろう」  ディーは女性の肩にとまった通信鳥と、そして中年男性の肩に同じくとまっている鳥に目をやった。 「そっちは……攻撃鳥か?」  その鳥は女性のものより一回り大きく、深い緑色で、うろこ状の羽根を持ち、オレンジのくちばしは鋭くとがっていた。今は眠っているように、首を垂れている。 「そうだ。マディットのものほど強力ではないが、アーセタイルの攻撃特化鳥、バレルアだ。あまり攻撃自体が必要とされる場面がないので、それほど数は置いていないがね。そして私もヴィルハも、タランケ――攻撃技が使える。君たちの中に、攻撃技使いは、どれだけいるかね?」 「ロージアも同じく、タランケ使いだ。俺はパルーセとダムル、ダライガ――すべて闇の攻撃技だ。ペブルもダムルとタランケを使う。フレイはパダム――火の攻撃技を使う」 「俺のは、それほど強力じゃないがな」  赤髪の若者はぽそっと言ったが、神殿側の二人は、聞いてはいないようだった。 「あんたはレヴァイラだけでなく、ダライガも使うのか……」  相手の男は、そして女も含めて、驚いたような顔で見ている。 「めったなことじゃ、使わないがね。実際今まで一度しか、使ったことがない。俺がマディットを抜けた時に」。  技の名前はほとんどわからないが、説明されたとおり、攻撃技なのだろう――サンディはそう思った。ミレア王女の方をそっと見ると、彼女も同じように感じたらしく、小さな声で、「いろんな技があるみたいだけど……どんなのか、わかる?」と聞いてきている。サンディもかすかに首を振り、「わからない」と、小さく笑った。 「実物を見れば、わかると思うわよ。もっとも、ダライガは使わないでしょうけど」  リセラが小さな声で、二人に言った。 「ダライガなんか使われたら、俺たちもみんな吹っ飛ぶぞ」  ブルーが声を潜めて、首を振る。 「強い技なんですね……?」サンディは問い返し、 「闇の攻撃最強技よ」と、レイニが小さな声で答える。 「四人が攻撃できれば、まあ、威力にもよるが、大丈夫そうだな。あんたは相当に強力そうだし」神殿から来た男は、周りのささやきには注意を払わず、いくぶん感嘆したような目で、ディーを見ていた。 「その思念の獣がどのくらいの強さを持っているか、それにもよるが、たぶん倒すことはできるだろう。ただ、攻撃技を持たない七人が、少し心配だ。巻き込まれないところに、五人は待機させたい。ブルー、レイニ、ブラン、ミレア、サンディは」  ディーは、そして他の一行も、ミレア王女に敬称をつけること――王女、と呼ぶことはやめていた。殊に相手は、土の神殿の人間だ。彼女がミディアルの王女であることが知られ、万が一マディット・ディルに通報されてしまうと、少し面倒な事態になるかもしれない、それを懸念したゆえである。ミレア王女自身も、「今はわたしも王女様じゃないから」と、仲間たちに王女をつけずに呼んでほしいと言うようになっていた。 「問題は、リルとアンバーも攻撃技を持たないところだが、二人がいないと俺もレヴァイラを発動できないので、それまでレラを消費せず、戦いの時にはできるだけ離れていて、勝負が決しそうになったら素早く来てほしいんだが……その見極めが多少難しそうだな」 「それまで、やられないようにいなきゃ、いけないってことだよね」  アンバーは多少不安そうな面持ちで、リセラとディーを見やった。 「あたしも厳しそうだけれど、できるだけ頑張るしかないわね。戦いの間は、他の五人と一緒にいて、大丈夫そうになったら走るのね。それで、あたしは飛んではダメ、と」  リセラも不安げな面持ちで首を傾げ、そして黄色髪の若者を見る。 「とりあえず、アンバー。あたしたちはディーのレヴァイラのために両方いないといけないのだから、戦いの間は一緒にいましょう。他の五人と一緒に、だけれど。それで、危なくなったら、あなたは飛んでいいわ」 「飛ぶ時は、ついでに君も連れてくよ。少しの間だったら大丈夫だと思うし」 「ありがとう。じゃあ、ディー、あなたも含め前線の四人は、できるだけ攻撃に集中して、あたしたちのことは心配しないで。それで、レヴァイラをかける時になったら呼んで。全速力で行くから」 「私たちも、何とかするわ。できるだけ離れているようにするから。いざとなったら防御をかけて」レイニの言葉に、ブルーも頷いている。 「ああ。できるだけ気をつけてくれ」  ディーは仲間たちを見やり、微かに笑った。  神殿の援軍二人が来てから、出かけるまでには半日ほどの時があった。しかし、戦いの緊張感からか、そのために余計なレラを消費しないためもあったのか、全員静かに過ごしていた。アンバーは父から譲り受けたという装置を解き、ブランは本を読んでいて、あとのみなは床に寝てぼんやりしているか、目を閉じている。神殿から来た二人は、窓際に座り、目を閉じて瞑想しているようであった。静かな時間が流れた。  やがて日が沈み、一同は水とポプルの夕食を取ると、出発した。神殿から遣わされた乗り物は広く、全員分の座席があった。三頭のサガディたちに引っ張られたその乗り物は、軽やかなスピードで街を抜け、首都ボーデの北門から外へと踏み出していった。  北門からは広い道がまっすぐに伸びていたが、最初の四つ角を超えると、車は道をそれ、草むらの中を走りだした。道を走っている時より振動が大きくなり、全員が座席の前についている手すりにつかまらなければならなかった。 「なんでわざわざ草むらの中を走るんだよ。道を行けばいいのに」  フレイが声を上げ、ブルーも無言で何度も頷いている。 「あの道は、正確には真北ではなく、少し東に寄っているのよ。精霊様の告げられた場所に行くには、草むらの中を走らなければならないの」  神殿から派遣されてきた、ヴィルハという女性が振り向いてそう説明していた。  草の上を揺られながら、車は一カーロンほど走った。やがてボガンディという男の方の神官が「このあたりではないか?」と指示席の若者に告げ――彼もまた、ボーデの神殿からの派遣者だ――車は止まった。 「さて、思恨獣と言え、いきなり何もないところからは出現しないだろう。どこからか近づいてくるはずだ」  ディーは車から降りると、夜空に目を凝らしていた。 「とはいえ、日が暮れたから、アンバーの鳥の目も使えないし、黒い中に茶色は、あまり目立たないな。おまけにこの季節じゃ、月もほとんど出ないし」  フレイがつられるように空を見上げ、眉を寄せる。 「ああ、暗くなると、全然見えない。ディーとブランに任せた」  アンバーは苦笑いをしながら、それでも空を透かそうとするかのように見ていた。  ブランも無言で日よけ眼鏡をはずし、赤い瞳を見開いて、漆黒の空を見ている。  やがて、ひゅっと風を切るような、かすかな音がした。ついで、無数の唸り声のような轟が。 「来たぞ!」ボーデの神殿からの二名が緊迫した声で叫ぶ。 「北西から来る! 戦わないものは、反対方向へ逃げろ!」  ディーが仲間たちを振り返って声を上げ、 「みんな、こっちだ!」と、ブランも指をさしながら走る。一斉に、七人は走り出した。車もからからと音を立てながら、一緒についてくる。いや、車の方が早い。  と、それは一陣の風となって、襲い掛かってきた。逃げていた七人も、一瞬その風圧に掠められ、地面に倒れた。サンディも倒れたまま、目を上げてみた。  黒い夜空をバックに、それは何か大きな、こげ茶色の巨大な山、いや、立ち上がった獣のように見えた。目のようなものと、爪のようなものはオレンジ。それはうなり声を上げ、腕のようなものを振り回す。  ボガンディという男の肩にとまっていた鳥が空中に飛び上がり、それをめがけて薄い緑色の光線を発した。しかしその獣は気にした風でもなく、腕を払う。鳥は鋭い悲鳴を上げて、撃ち落とされた。神殿からの二人は攻撃技をかけよう構えたところで、振り回した腕の風圧で、地面に飛ばされていた。その上から、腕が襲いかかる。と、一筋の黒い矢のようなものが飛んでいき、腕の真ん中を切り裂いた。それは叫び声をあげ、腕のようなものは下に落ちる途中で、散り散りになる。 「あんたらも下がっていた方がいい。けがをするぞ!」  ディーが二人を振り向いて叫んだ。さっきの黒い矢のようなものは、ディーの攻撃技、パルーセだった。さらに、深紫の玉のような塊が、怪物めがけて飛んでいった。それは左肩あたりに命中し、そのあたりの形が崩れた。それはペブルの攻撃技、闇技のダムルだ。同時にロージアとフレイが、それぞれの攻撃技を出した。それは足のあたりにさく裂し、ほぼ同じような効果を上げていた。 「およ、俺の技、案外効いてるな」  フレイが驚いたような声を出し、 「あなたのは火だからね。アーセタイルのエレメントには、相性がいいのよ」  ロージアが短く言って、すぐに言葉を継ぐ。 「でも、すぐにまた集まるわよ、油断しないで!」 「そうだ。思恨獣の厄介なところは、昇華させない限り、散ってもまた集まってくるところだ」ディーはみなを振り返った後、再び敵に目をやっていた。 「今のうちに、防御を張るわよ!」と、レイニが促し、 「おう」と、ブルーも立ち上がる。そして声を上げた。 「ブラン、ミレア、サンディ! 俺たちの後ろへまわれ!」  三人も立ち上がり、急いでその後ろに行く。と同時に、前の二人が両手を広げた。薄い水色の幕のようなものが広がり、半円形のドームのように包み込んでいく。 「水の防御技、エマフィルだ。二人ともに使える技なんだよ。あまり強い技まではカバーしきれないが、少なくとも威力は半減できる」  ブランが説明してくれ、サンディとミレアは青ざめた、緊迫した顔で頷いていた。 「あなたたちはどうする、リル、アンバー?」  レイニが二人にそう呼びかけ、二人は顔を見合わせた後、首を振った。 「そこに、あたしたちまで入る余裕はないでしょ、何とかするわ」 「大丈夫、これだけ離れていれば。近くなったら、また距離をとるよ」 「おまえらがやられると、ディーがレヴァイラを出せなくなるから、気をつけろよ」  ブルーは少し心配げに、声をかけている。  そこへ、神殿からの二人が這うように逃げてきた。そこへブルーが言い放つ。 「あんたらも入れる余地はないから、自分の身は自分で守れよ」 「わ、わかっている」男の方が呟くように返事をし、女の方は青ざめたままだ。  そんなやり取りの間に、再び飛び散った茶色のものが、結集し始め、巨大な獣の形をとりつつあった。 「また来るぞ!」一行の間に、緊張が走った。 「きりがない! 長期戦になったら、消耗するだけだ!」  ディーはその様子を見守りながら、声を上げた。 「一気に行くぞ! ペブル! フレイ! ロージア! ねらい目は胴体のど真ん中だ。俺もそこへダムルをかける。そっちのほうがパルーセより強力だ。あいつが完全な形になったら、みんなで同じところへかけろ! そして……リル! アンバー! 聞こえるか?! 俺たちが技を出したら、全速力でこっちへ来い! 一か八かだ!」 「わかった!」全員がそう声を上げた。  やがて思恨の獣は再び茶色く結集し、腕を振り上げかける、と、そこへ四つの塊が同時に飛んでいった。リセラとアンバーが、同時にその方向へと走り出す。 「大丈夫かしら……もし一撃で仕留められなかったら、あの二人も危険に……」  ミレア王女が呟くように言い、サンディもまた同じことを思っていた。 「本当に一か八かだが……うまく行ってくれるように信じよう!」  ブランが二人の両手を取りながら、祈るように言う。  四つの塊は大きな一つとなり――黒と、深紫が交じり合い、さらに緑とオレンジで縁取られて、その怪物の銅の真ん中に命中した。鋭い叫びが上がり、そしてそれはばらばらの茶色い霧となって飛び散った。 「今だ! リセラ! アンバー! おまえたちの光のレラを俺にくれ!」  息を切らせて駆け寄ってきた二人は、返事の代わりにそれぞれでディーの手を片手ずつとった。その手から薄い金色のレラがほとばしり、それがディーの手から全身へと伝わるように、包み込んでいった。彼自身からも薄い光のレラが発光され、やがて頭頂部にある金色の髪が、残りの黒い部分を包むように伸びていき、髪の毛全体が金色に変わった。 「大丈夫だ、いける!」ディーは目を閉じ、声を発した。 「ティファラ・パラヴィア・セラエ――行くべき処に――昇華――!」  目を開けると、二人の手を握ったまま、両手を上げる。同時に、あたりは大きな光のベールに包まれた。揺らめく光のベールが、飛び散った茶色の無数の思念を包み、きらきらと光らせる。  その中から、無数の声がした。それは思いの獣となってしまった、浮かばれなかった魂たちの、無念の声だった。それは様々な響きとなって、混然一体として聞こえる。そして小さなため息のようなものが――無数のそんな繰り返しの後、やがて茶色の霧は光に照らされて消えるように、徐々に消えていった。  すべての光と霧が消えた時、あたりは再び静寂を取り戻していた。同時にディーは大きなため息をはいた。光が消えると同時に、彼の髪は徐々に下から、また黒い色に戻っていく。まだ両手を握ったまま、彼は呟いた。 「とりあえず、レヴァイラは成功したようだ……ありがとう、リセラ、アンバー」 「ああ、よかったわ! あたしも光は飛ぶ能力だけかと思ったけれど、こんなところで役にたって」リセラが少しはにかんだように笑い、 「うん。僕も四分の一の光のおかげで髪が黄色になったって思ってたけれど、まあ、たまにはいいこともあるね」と、アンバーも少し照れたように言う。 「本当に良かったわ」レイニがほっとしたように、防御技を解き 「しかし、初めて見たが、なかなかに感動的だな」と、ブルーも目を少し潤ませている。  サンディとミレアも、そしてボーデの神殿から来た二人と、車の指示席の若者も、目を見張ってその光景を見ていた。  そしてブランは赤い瞳で夜空を透かし、呟いていた。 「やっぱり……父さんと母さんの声が聞こえた。姉の名を、叫んでいた。ヴェルダと……二人の思いは、思恨獣の一部になってしまっていたんだ。それを恐れたんだが……」 「でも今は無事に昇華できたから、良かったと思うわ」  レイニは振り返って、そっとその肩に手を置いた。 「そうだね……ディーのおかげだ」ブランも空を見上げたまま、そう呟く。 『お二人は失望のあまり、レラが失ってしまって、亡くなったと聞いたけれど……でも、あの怪物も、レラの塊……レラとは、なんだろう……』  サンディは漠然と、そんな思いを感じた。それは正のレラと負のレラ、という感じだろうか、と。生きる力と反対の、恨みの力――。 「それで正しいと思うわ。数字の世界でもね、ゼロを超えるとマイナスよ」  レイニは少女の考えを読んだように、頷いた。同時にサンディは漠然と思った。数字の概念は、この世界でも同じだ、と。  一行は再び車に乗り、宿に帰った。一緒に来た神殿からの二人は、初めよりいくぶん恭しい態度で、「とりあえず今日は休んでくれ。明日再び使いが来るだろう」と言いおいて、帰っていった。その後、消費したレラを補給するため、一行はポプルをほおばり、再び休んだ。  神殿からの使いが再び来たのは、翌日の昼前だった。最初にサデイラに来たガーディナルという副神官長が、再びとどっしりした緑の車に乗ってやってきて、一行を再び神殿に導いた。控えの間で、アーセタイルの神官長、マナセルいう名の、緑の長い服に金色の縁飾りをつけ、四十前後の女性に紹介された。 「すみません。ここしばらく、臥せっていたので、副神官長に任せたのですが」  彼女はまっすぐな緑の髪を振り、澄んだ緑の眼で一行を見た。 「ありがとうございます。あなたたちのおかげで、気分も治りました。巫女様がお呼びです。こちらへ」  一行は再び、巫女の間に通された、 「ごくろうだった。望みの褒章を取らせるから、神官たちに言うが良い」  精霊を宿した巫女は、相変わらず抑揚のない、響きのある声でそう告げた。 「そして、それを受け取ったら、ロッカデールに行ってほしい。かの国は、少し気が乱れている気配がする。おまえたちなら、それを正せるだろう」  再び杖が鳴り、一行は退出した。 「有無を言わさぬ感じだな……」  再び控えの間に入ってから、ブルーがぼそっと呟いた。 「精霊様の言うことだ。仕方がない」ディーは苦笑している。 「あなたたちは、何が望みですか?」  マナセル神官長は、静穏な眼差しを崩さぬまま、一行に問いかけた。 「完全な幌がついて、中でみなが寝起きできる車がいただけたら、と思います。ロッカデールまでは、長旅になるでしょう。駆動生物は、今持っているもので結構ですが。たぶんロッカデールでは、別のものになるでしょうから。それと、いくらか軍資金をいただけたらと」  ディーは丁寧な口調で言い、頭を下げている。 「わかりました。あとで届けさせます」  マナセル神官長は微かに笑みを浮かべて頷き、一行は再び宿に送り届けられた。  翌日、神殿から再びガーディナル副神官長と、そのお供の二人がやってきた。 「約束通り、車を持ってきた。この宿に預けたから、出かける時に受け取ってくれ。それと、これは報奨金だ。アーセタイルの通貨だが、ロッカデールとの国境で、向こうの通貨に換えられる。通行証も持ってきた。これがあれば、国境は楽に通れるだろう。もともとアーセタイルとロッカデールは兄弟国だ。精霊様同士で話が通じているはずだから、これを持っていけば、たぶんロッカデールの首都、カミラフの神殿にも入れると思う。そして、駆動生物に関してだが、国境のところで交換が可能だ。それでは、よろしく頼む」 「かなり多額だな……」  神官が帰ってから、ディーは渡された包みの中を改め、ロージアに手渡した。彼女は受け取って中身を見、少し驚いたように頷くと、それを稀石の袋とともに、洋服の内袋に入れる。彼女が一行の会計係ゆえだ。 「じゃあ、明日にはロッカデールに向かって出発しよう。五日くらいはかかるだろうが」 「ねえ、ディー。ここからロッカデールに行くには……たぶん、ベダリアの町も通るわね」  ロージアはいくぶん緊張したような顔で、といけた。 「ベダリアか……」ブランが地図を広げ、その町の名を見る。 「最短距離ではないけれどね。途中分岐を少しずれる形になる」 「でも、その町に、何かあるの?」  リセラが少し不思議そうに聞いていた。 「わたしの父が住んでいた町なの」 「ああ、ロージアのお父さんはこの国の出身なのだったわね。でも……」  リセラは言いかけ、少し戸惑ったような表情で言葉を止めた。以前アーセタイルに来た時、会いに行けば、と言いかけて、「会いたくないわ」とぴしゃりと返されたのを思い出したのだろう。 「あの時にはあなたにお節介、って言ったのだけれどね」  ロージアはいくぶん決まり悪そうにリセラを見た。 「でも、少し気になったの。一昨日、思恨の獣がディーのレヴァイラで昇華した時、わたしは……父の声を聞いた気がして。遠い昔に聞いただけだから、聞き違いかもしれないけれど……事情を知ってみたいと思ったのよ」 「少しくらいの寄り道はいいだろう。資金もかなり入ったしな。気になるなら、確かめてみるといい」  ディーは微かに笑って言い、一行は頷いた。 「そう言えば、ペブルもロッカデールとの国境に近い町の出身なんでしょう? ついでによってみる?」  リセラが思い出したように、そう付け加えた。 「いや、いいや、おいらは」太った黒髪の若者は首を振った。 「だって行っても、誰もいないからね。むしろロッカデールの方が、おいらの家族がいそうだ。父ちゃんはマディットだけど、母ちゃんと妹が」 「あら、そうなの?」 「ああ。だって、母ちゃんはその国の人とくっついて、妹と一緒に行ったから」 「あなたは?」ロージアが不思議そうに聞くと、 「おいらは大食いだから、置いて行かれた」と、ペブルはこともなげに答える。 「いくつの時なんですか?」サンディは聞いてみた。 「十くらいかな」  その答えに、一行は言葉を探すように黙った。 「じゃあ、それからどうしていたの?」ミレア王女が聞く。 「親切な親方がおいらを拾ってくれて、それでおいらもロッカデールに行くことになったんだ。鉱山で働くために。それで、うーん、六年くらいかな、そこで働いてたんだけど、だんだん親方が冷たくなって、ろくに食わしてくれなくなったから、ミディアルへ行くって言って、船賃もらって出たんだ。いつかロッカデールに戻ったら、船代返せって言われたけどさ。もしあったら、返した方がいいのかな」 「それは状況次第だな」ディーは苦笑に近い笑いを浮かべた。 「それじゃ、ペブルはいいとして、ロージアの町、ベダリアには寄ろう。ロッカデールに行く前に。明日には、出発だな」  一行は頷き、旅の支度を整え始めた。  神殿から褒章にもらった車は、ミディアルで使っていたものよりも、なお少し長さがあって、すっぽりと天蓋を覆う緑の幌がかかっていた。床にはふかふかした敷物が敷いてあり、折りたたんで使える木の椅子も人数分ある。眠る時にはそれをたたんで隅っこに片づければ、十一人全員が身体を伸ばして眠れそうな広さがあった。指示席にも丸い敷物が敷いてあり、ペブルでも座れそうな広さがあった。指示席には、慣れているという理由で、やはりロージアが座ったが。  車が大きくなった分、重くなったのだろうか。二頭の駆動生物、ポルとナガのスピードは以前より少し遅くなったようだが、とりわけ急ぐ旅ではない。一行はアーセタイルの首都ボーデから、ロッカデールとの国境の町、パラテを目指して北に進み続けた。できるだけ野宿は避け、近くの町の宿に泊まりながら進んで三日目、一行は街道を少し東にそれ、別の分岐を行った。そしてロージアの父の故郷だという、ペダリアの町に着いた。  そこは比較的小ぢんまりした町で、最初に来た港町バジレより、ほんの少し大きいくらいの規模だった。木造の家が立ち並び、間を通る道はなめらかな土が踏み固められたような感じで、ところどころ木が生えている。この町は、織りあがってきた布を洋服や日用品に加工することを生業としている人が多いようだった。  一行は町の宿屋に宿泊することにし、車と駆動生物を預けると、町へと歩き出した。相変わらず彼らが歩くと、町の人たちは好奇の目で見ているようだが、アーセタイルへ来てから二節もたつ今では、彼らもそれには慣れてきたようだった。物珍しそうには見るものの、あからさまに嫌悪の目で見るものがそれほどは多くない――全体で、三分の一くらいだろうか――のも、救いだっただろう。  町には来たが、ロージアにとっても、父の出身地として名前だけ聞いたことがあるという程度だったらしく、実際の父の家も、彼が何をしていたのかも知らないようだった。そこでサンディが――彼女は茶色い髪と茶色の目をもっていて、アーセタイルの純粋な民に近い外見のため、相手に警戒心を持たれにくいだろうという理由ゆえだ――ロージアから聞いた彼女の父親の名前を出して、道行く人たちに消息を尋ねた。すると三人目に聞いた、太った中年の婦人が答えた。 「ああ、その人ね。話には聞いたことがあるわ。有名な人ですもの」と。  そして「この人なら、きっと詳しい話を知っている」と教えてくれた人の家を訪ねあてると、やはり少し小太りの、茶色い髪に緑色の目で、丈の長いベージュの服を着た中年女性が中から出てきた。 「その人なら、うちのすぐ近所に住んでいたよ」  その女性は一行を、やや驚いたような、少し迷惑そうな顔で見てきた。ロージアが自分はその人の娘だと名乗り出ると、相手はより驚いたような顔をして、彼女を見た。 「アイダナ・シャットオールの娘さんだって?!」彼女はそう声を上げた。 「あの人に、娘なんかいたのかい?!」 「彼は二十年前にエウリスに来て、母と会って、わたしが生まれたんです」  相手は、なお驚いた顔になった。 「ああ、そういえばあの男は長い間、よその国に行っていたからねえ。エウリスまで流れていったのか。で、あの男のことを、あんたは聞きたいのかい?」 「はい……できましたら」 「あんたはあの男のことを、あまり知らないのかい?」 「父はわたしが四歳のころ、アーセタイルに帰ると言って、わたしたちを捨てて帰ってしまったんです。だから、それからのことは知りません」 「やれやれ、子供まで作っていながら、無責任なことだね」  相手はいくぶん同情めいた眼差しで、ロージアを見た。 「それじゃ、話してもいいが……あんたたちは多すぎるから、中にお入りと言うわけにはいかないね。庭でいいかい? 適当に地面に座っておくれ」  その女性は庭に置いてあった木の椅子を引き寄せて座り、もう一つの椅子をロージアに進めた。残りの十人は、柔らかそうな地面を探して座った。 「もう二三年くらい前になるかね。あの男は、町長の娘に惚れたんだ」  女性は話し出した。「ものすごく、べた惚れだったらしい。きれいな子だったし、気立ても良かったからね。でも、あの男はその娘に、まったく相手にされなくてね。それで彼は傷ついたんだろうね。まもなく村を出て行った。『広い世界を見てくる。そして君にふさわしい男になって帰ってくる』と、その娘に言ってね。私たちは、馬鹿な話だと思ったさ。まあ、ロッカデールはともかく、他の国じゃ、アーセタイルにいるようなわけにいかない。あっちじゃ、よそ者だからね。よそ者がどんな目に合うか、わかっちゃいないだろうし、あの男にそれに耐える根性があるかどうか、ってね。まあたしかにそれに耐えて、変わってくるかもしれないが、と私たちも思っていたんだ。ああ、私はあの男の姉と仲が良かったんだよ」 「ええ……」 「それが、十五年くらい前に、この町に舞い戻ってきたんだ。でもその頃には、その惚れた町長の娘は、とっくに他の男と結婚していた。なのにそいつは、彼女に言ったんだ。『君のために成長したのに』と。その娘は『あなたにそんなこと、頼んでない。私はあなたをそんな風に思ったことなんて、一度もない』と、こっぴどくはねつけたんだが。ああ、その時に、そいつは言っていたらしいね。『私は自分の幸せも家族も捨てて戻ってきたのに』と。『それなら、ずっとそっちにいればよかったのに』――娘は軽蔑したように言ったものだよ。私はそのころ、町長の家で働いていたから、その騒動はよく知っている。それを彼の姉、私の友達に報告して、二人で心配していたからね。男があまりしつこいんで、娘は夫や父親に訴えたらしく、向こうの人たちが大勢やってきて、あきらめろ、これ以上付きまとうな、と迫ったらしい。それでけんかになり、あげくに殺されたのさ。向こうも殺すつもりはなくて、はずみだったらしいがね。とびかかってきたんで突き飛ばしたら、石に頭をぶっつけて死んだらしい。まあ、あまり寝覚めのいい話じゃないが、でも、そいつが悪いということで、おとがめはなかったそうだ。町長がことの次第をボーデの神殿に送って、審判を仰いだ結果ね」  そこまで話すと、女性は苦笑いを浮かべたようだった。 「ああ、娘さんのあんたには、気分のいい話じゃないだろうけれどね。まあ、そんなところだよ」 「……ありがとうございました」  ロージアは真っ白な顔になりながら呟き、一行も立ち上がって礼を言うと、その家を辞した。 「……なんて情けない話! 聞くんじゃなかったわ!」  宿に着くと、それまで一言も話さなかったロージアが吐き捨てるように言った。一行も、言葉を探しあぐねているように、黙っている。 「あの男にとっては、母なんて、なんでもなかったのね。単にその娘にふられたから、自分を慰めるため……? ああ、だから母さんは言っていたのね。わたしが一人っ子の理由を、『父さんが、もうディルトはかわいそうだからって』と……本当は、子供なんて、ほしくなかったんだわ」 「親は必ずしも、子供の理想通りじゃないということだろうな」  ディーはロージアを見、微かに首を振っていた。 「苦い真実だ。おまえの父親が思いの獣の一部になったのは、その娘への報われない愛だったんだろうな。そういう行き違いは、まあ、普通に起こることだ。それに巻き込まれた、おまえと母親は気の毒だとは思うが。正しい道を選ぶことのできなかった人間は、この世界でも一定数いる。残念なことだがな」 「……本当にね……」  ロージアはしばらく黙った後、みなを見回した。 「バカな事実のために、みんなに回り道をさせて、ごめんなさい」 「もう少しあなたのために、納得のできるものだったらいいな、と私も思ったけれど……気を取り直してね、ロージア。あなたはあなただから」  レイニは慰めるように、その腕に手をかけている。 「そうよ。お父さんが最低人間でも、あなたはあなただから」と、リセラがことさら明るい口調で、声を上げる。 「でも、その最低人間の血が、わたしには流れているのよね」  ロージアの口調は冷え切っていた。 「思ってても、そんなことを言ってはダメだよ、リセラ……」  ブランが小さな声で諫め、リセラも率直に言いすぎたと悟ったらしい。 「ごめんなさい……本当にあたしって、考えなしで」と、顔を赤らめて謝っている。 「それは、今に始まったことじゃないわ」  ロージアは少しだけ冷ややかさが和らいだ声を出し、みなを見て、繰り返した。 「本当に、つまらないことのために回り道をさせて、ごめんなさい」と。 「まあ、話自体に締まりはなかったが、無駄だったわけではないだろう。訳がわからずに思い悩むよりいい」  ディーは慰めるような視線を向け、首を振ると、皆に告げた。 「明日は早く出発するぞ。今日はもう寝よう」  一同は頷いた。移動の際の宿は以前と同じ、みながぎりぎり眠れるほどの広さの部屋に敷物を敷きつめて、その上にじかに寝る。思恨獣昇華の報酬がかなり高額だったとはいえ、先の保証は相変わらずない中、贅沢はできないのだ。  それから三日ほど、車は走り続けた。北へ向かって。そしてもう少しで国境の町、パラテに着くというころ、日が暮れた。駆動生物は、夜は走ることができない。そこで一行は、ふかふかした草原の中で、野営した。  外で眠ることになる時には、一行は交代で見張りを立てる。アーセタイルは比較的平和な国だが、みなが眠っている間に万が一、悪い者たちが来て駆動生物を奪っていったりする可能性は、ゼロではない。それゆえだ。見張り役は、袋に入れた五色の玉を引き、同じ色に当たった同士が組む。一組二カーロンずつ、夜明けまで五組で見張るのだ。  この時には、リセラとサンディがペアとなった。二人は、最初の見張り当番となった。残る九人は車の中で眠っていたが、途中から「ちょっと眠れなくて。一緒にいていい?」と、ミレア王女が二人に加わった。  一カーロンを測る装置をひっくり返して、それがまた三分の一くらい落ちるまで、三人は夜空を見上げながら、小声で話をしていた。やがてミレア王女は眠くなったようで、うとうととしはじめた。 「車に戻って、寝たら。もともとミレアは見張り当番じゃないし、あたしたち二人で大丈夫だから」と、リセラが促し、サンディも頷いた。 「うん……」王女が立ち上がったその時、不意に上空に、大きな灰色の影が現れた。 「何?」  リセラも気づいたようで空を見上げ、サンディも立ち上がった。と、その影が急降下し、こっちに近づいてくる。大きな鳥のようだった。その鳥が、さっとその足でミレア王女をつかむ。 「きゃあ!」ミレア王女が声を上げると同時に、サンディはとっさに王女に飛びついた。身体が浮き上がるのを感じた。 「ミレア! サンディ!」  リセラは叫び、ついで彼女は手にした筒の糸を引いた。バン!と大きな音が響いた。それは「万が一の時には、これで知らせて」と、ブランが手渡したものだった。車の幌が開き、同時にリセラが翼を広げ、鳥を追いかける。彼女はサンディとミレア王女に追いつくと、両手を広げて二人を抱きしめた。  巨大な鳥は獲物が三人になっても意に介さないように、スピードを上げて空を舞いあがっていった。そして北へ向かって、飛んでいった。  残された九人は、しばらくあっけにとられたように見ていた。アンバーが追いかけようとするかのように空へ飛び出したが、ディーが制した。 「やめておけ! おまえ夜は、そんなに視界がきかないだろう。すぐに見失うだけだ」 「じゃあ、どうしよう……」  アンバーは再び地面に降りながら、戸惑ったように見上げる。 「あれは……ロッカデールに生息するという、怪鳥のようだ」  ブランが夜空を小さくなっていくシルエットを目で追いながら、言った。 「何のために彼女たちを連れ去ったのかは、わからないが……」 「……心配だが……夜の間は、俺たちも身動きが取れない。朝になったら、追いかけよう。北へ向かった、ということは、行き先はロッカデールだろうし、あの鳥もロッカデールに生息するものなら、俺たちと目的地は同じだ」  北の空をにらみながら、ディーは深く息を吐き、 「そうだね。あの鳥のことを少し調べれば、生態や生息地を……そうしたらきっと、行き先の手掛かりが、少しつかめるかもしれない」  ブランが手を目の上にかざしながら、鳥が飛び去った空を見つめていた。 「そんな悠長な、と言いたいが、たしかにそれしか手がなさそうだな」  フレイが首を振りながら同意し、ブルーも頷く。 「三人の無事を祈りましょう」  レイニは両手を合わせ、ロージアも頷いていた。    夜の闇の中を、三人は飛んでいた。ミレア王女は鳥の足にがっちりつかまれ、サンディは彼女に手を回すようにしている。しかし、だんだんと手が痛くなってきた。そこへリセラがかばうように腕を回した。彼女の顔も青ざめていたが、翼を広げているので、下へ落ちる心配はなさそうだった。 「頑張って、サンディ。落ちちゃだめよ。あたしの手につかまって」 「はい……」  サンディはもう一方の手で、リセラの手を握った。ふわりと身体が、少し軽くなった。この感覚は覚えがある。二節近く前、嵐の中をアーセタイルに向かって飛んだ時に。その時も彼女は、リセラに抱えられていたのだった。 「助けて……」ミレア王女はか細い声を上げている。 「大丈夫。あたしたちがついているわ」  リセラは彼女にも、そう声をかけていた。  眼下は暗かった。どこまでも広がる、夜の大地――ところどころ林の影がある。その中に、ポツンといくつかの灯りが見えた。 「あれがたぶん、国境の灯りよ。パラテの奥にある、アーセタイルとロッカデールの国境の門の」 「じゃあ、わたしたち、ロッカデールに入ったんですね……」 「こんな形でとは、思わなかったけれどね」  リセラは少し苦笑いを浮かべているようだった。 「どこへ行くのか、この鳥に聞いてみないとわからないけれど……ともかく、なんとかするしかないわ。あ、ちょっと待って、何か来た!」  サンディも、その声で振り向いた。夜空をもう一つの何かが来る。いや、違う。矢のようなもの――? それが、鳥の近くをかすめ、驚いたのだろうか、その怪鳥は足につかんでいた王女を一瞬離した。 「今よ!」  リセラが声を上げ、ミレア王女をひったくるように抱きかかえると、もう片方の手でサンディを抱えたまま、飛び出した。が、しかし彼女の飛行能力で、二人を抱えるのは厳しかったようだ。しばらくよろよろと飛んだ後、ゆっくりと下降していく。  怪鳥は追ってはこないようだった。攻撃に驚いたのか、飛び去って行く。三人はゆっくりと、下の地面に向かって落ちていった。