光と闇の舞踏 The Dance of Light and Darkness 第一部 逸れ者たちの新天地ミディアル  見渡す限り、砂の海がひろがっていた。細かい粉を敷きつめたような薄黄色の大地に一筋通る細い銀色の道を、旅の一団が通っていた。銀色の幌に覆われ、下に車輪のついた、丸い形の乗り物が三つ連なり、先頭を走る三台の駆動車――と言っても車ではなく、四つの小さな車輪のついた銀色の細長い板の上に長い棒が立ち、その棒の先端に進行方向に合わせて動く、短い横棒がついた形状だ――に引っ張られて走っている。駆動車には、それぞれ人が乗っていた。彼らは板の上に立ち、両手で短い横棒の両端を握っている。その手から薄色の光がかすかに放たれ、棒を伝わり、車輪へとその力を伝えているようだ。車輪の下にも、微かな光がある。 「あっちいな」  右側の駆動車に乗っている若者が声を上げ、片手を離して、額に流れる汗をぬぐった。首筋まで垂れた青い、くせのない髪がその動きにつれて揺れる。眼は青みがかった灰色で、口はやや大きい。その分厚い唇の端まで手を動かして顔をぬぐうと、顔をしかめ、再び両手で横棒を握った。 「まあ、砂漠だからね」  左側の若者が、苦笑いをしながら応じ、首を振った。頭を覆い、さらに両翼に広がった黄色の髪が、その動きに伴って揺れる。 「そうか? 俺には快適だが」  真ん中の若者は、燃えるような赤い髪を振りやりながら頭をそらせ、少々勝ち誇るようなトーンで笑った。汗一つかかず、涼しい顔だ。 「そりゃ、おまえはそうだろうよ、フレイ。火の民だからな」  青髪の若者は、顔をしかめる。「まったく、俺は快適どころじゃないぜ。やたら暑い上に、ミディアルはレラが少ないからな」 「そんなことは、わかってることだろうが、ブルー。おまえはどうも文句が多くていけないな。だから、いつも口がひん曲がってるんだ」 「口は関係ないだろうが! これは元々だ! おまえの鼻と同じでな!」 「俺の鼻を、とやかく言うな!」  フレイは大きく、高い鼻を気にしているのだろう。少し顔の色を濃くして、声を荒げた。 「まあまあ、二人とも、ケンカしない。火と水だから、相性は悪いのは、わかるけどね」  黄色い髪の若者が、あきれたように仲裁する。 「そうだよな、アンバー。だから俺は、こいつと組むのいやだったんだ」  フレイが顔をしかめ、 「それはこっちの台詞だ!」と、ブルーが言い返す。 「火の民は鼻が高くて、水の民は唇が厚いって、国じゃ普通じゃないか。怒らなくてもいいのに。僕の耳だって、翼だって、国じゃ普通だから、言われても気にはしないよ」  アンバーという黄色髪の若者は、少し首をすくめるように笑っている。彼の耳は他の二人より大きく、先端がとがっていた。 「まあな。俺もここに来るまでは、気にならなかったがな、鼻も」 「俺もそうだ」  フレイとブルーは少しきまり悪げな表情をした。   「ちょっとぉ、スピード少し遅くない?」  声が後ろから飛んできた。ま後ろに連結された車の銀色の幌が開いて、一人の女性が顔を出している。三人の若者同様、やっと一人前の大人になったくらいの年齢だ。波打った豊かなピンク色の髪を頭の後ろ、やや上よりに束ね、赤いリボンをつけている。その丸い灰色の目には、文句を言っているというよりは、面白がっているような光があった。 「前の組が最強すぎるんだよ。俺たちは、そんなにレラが強くないからな」  ブルーが抗議するような口調で言い、振り返った。 「ディーとペブルの二人が一緒になったら、誰もかなわないよ、レラ量じゃ」  アンバーが笑って言うと、ブルーは再び畳みかける。 「それに、ここは暑いんだよ。フレイはともかく、俺にはきびしい。氷の民だったら、溶けていただろうな」 「え? レイニは溶けてないわよ。それにしても、機械仕掛けの駆動車が買えたら、良かったのにね。そしたら、あたしたちも交代で引っ張らなくてもすむのに」  ピンク髪の女性が、笑って頭を振った。 「そうは言うけどな、リル。おまえもわかってると思うが、駆動車は高いんだよ。だから俺たちがこうやって、交代で引っ張ってくしかないんだ」 「まあ、がんばってね。あと二カーロンだから」  フレイの答えに、リセラはちょっと笑い、再び幌の中に引っ込んだ。 「あと二カーロンもあるのかよ、交代まで。俺はもうへとへとだ」  ブルーはうんざりした表情で、首を振った。 「でも、このステアラ砂漠を抜け切るには、あと五カーロンは走らないとだめだね。次の当番って――女の子、三人か。レイニには暑いかもね。さすがに溶けないだろうけれど」  アンバーは微かに笑いながら頭を振り、行く手に目をやっていた。 「でも、レイニは誰かさんと違って、文句は言わないだろうさ」  フレイがからかうように言い、すぐさまブルーが応じる。 「誰かさんって、誰だよ!」 「もう、何回喧嘩してるんだよ、二人は」  アンバーは首をすくめ、ついで何かに気づいたように空を見上げた。 「あれ? 飛空船が飛んでいる……」  どこまでも広がる、青一色の空に、ぽつんと小さな点が動いていくのが見えた。つられて、ブルーとフレイも空を見上げる。 「あれか? ミディアルに飛空船なんて、今まで見たことないぜ。鳥じゃないのか?」 「俺もそう思う。小さすぎて、見づらいがな。でもおまえの場合は、鼻が邪魔で見えないんじゃないか?」 「うるせぇ!」  やりあっている二人を横目に、アンバーは目を凝らすように空を見つめ続けた。 「いや、鳥じゃないよ。飛空船だ……金色で、紋章がついてる……」 「紋章?」 「そう。たぶん……あの紋章……あれは、時の寺院のかな……」 「本当に、よく見えるな。さすがに『鳥の眼』なんだな」  ブルーは感嘆したような口調だ。 「アンバーは、四分の三は風の民だからな」  フレイが空を見上げたまま、そう付け加えていた。  空の点は、かなりの速さで動いていた。鳥ほどの大きさだが、道より十キュービットほど東の上空を、鳥ならばとてもそれほど早くは飛ばないだろうという速さで進んでいく。それを三人は目で追っていたが、そこからまた何かが――小さな点のようなものが放たれて、ゆっくりと下に落ちていくのが見えた。 「なんか落とした!」アンバーが声を上げ、 「ああ、それはわかった。俺たちにも」  フレイとブルーが同時に言う。 「でも、何を落としたんだ?」 「ごみでも捨てたんじゃないか?」 「そんな行儀が悪いことをするのか? 時の寺院の坊さんたちが」  ブルーの言葉に、フレイは半信半疑な表情で、落ちていく黒い点に目をやっている。 「いや……あれって、透明な玉の中に、何かが入っているんだよ」  アンバーが目を凝らしながら、声を上げた。 「あの高さから普通に落としたら、下に落ちた時に潰れるから、そうならないように……だから、あんなにゆっくり落ちているんだ」 「壊れないようにか? そんなに気を使って、でも何を捨てたんだろう?」  フレイが首を傾げる。 「中に何が入っているのか、わかるか、アンバー」 「いいや、そこまではわからないなあ、遠すぎて」  ブルーの質問に、聞かれたほうは首を振る。   「どうした? スピードが落ちてるぞ」  再び声がした。前の声とは違い、今度は低くて響きのある、男性の声だ。後ろの車の幌が再び開き、浅黒い肌の青年が半身を乗り出した。長い髪は黒く、頭頂部だけ金色で、その部分だけを、緩いポニーテールのように縛っている。整った顔立ちだが、その眼は鋭く、深い灰色をしていた。少し大きめの口から、左側の八重歯の先端だけが覗いている。 「悪い、ディー。ちょっと気がそれちまって」  フレイが振り返り、軽く首をすくめた。 「なんに対してだ? おまえたちのケンカか?」 「いや、まあ、たしかに言い争いは耐えないが……このひねくれブルーのせいで、って、そうじゃないんだ。飛空船が飛んでいったらしい」 「ひねくれブルーっていうのは何だ、フレイ! おまえの方がケンカをしかけてるだろう」 「まあまあ……って、こんな感じなのは、たしかだけど。そうじゃないんだ、ディー。時の寺院の飛空船が何かを落としたから、僕たちはそれに気を取られたんだよ」  アンバーが振り返り、かすかに首を振って答えていた。 「時の寺院の飛空船……」  ディーと呼ばれた黒髪の若者は、眉をひそめた。 「またどこか他の世界から、候補を運んできたのだろうな。でも、捨てた……?」 「ああ。何かを落としたんだ。それも泡に包んで」 「どのへんに落ちたか、見当つくか、アンバー」 「東前方……十二キュービットくらい先で、二、三キュービット道から離れてるところくらいかもしれない。はっきりとは、わからないけれど」 「そうか……」  ディーという黒髪の若者は、考え込んでいるようにしばらく黙った。 「大きなお世話かもしれないし、よけいな荷物を拾うかもしれないが……アンバー、あと十二キュービット進んだら、その方向を見てくれ。それで、何かわかったら、教えてくれ。ものによっては、見過ごさない方がいいかもしれない」 「わかった」 「頼むぞ」そう言うと、ディーは再び幌の中へ引っ込んだ。 「他の世界からの候補か。聞いたことはあるな」  フレイの言葉に、三人は顔を見合わせ、小さく頷いた。 「とりあえず、進むぞ。あと十二キュービット。まあ、一カーロンもあればつけるだろう。いくら俺たちでも」 「そうだね」 「ああ、まあ、だるいが行くしかないな」  三人は再び棒を握りなおし、先へと進んだ。 「もうそろそろ十二キュービット進んだころじゃないか? アンバー。何か見えるか?」 「うーん。ちょっと待て……」  フレイの問いかけに、アンバーは砂の中に目を凝らすように、じっと見ていた。 「遠すぎて、見えな……いや、ちょっと待って。何かある。小さいゴミみたいにしか見えないけれど……でも、なんだかはわからない。行ってみれば、わかるかな」  彼は振り返ると、後ろの車に向かって声を上げた。 「ディー、何かがある! 人っぽいように見えるけれど……見に行っていいかい?」 「ああ」後ろの車の中から、声がした。 「それじゃ、ちょっと僕は離脱するよ」  アンバーは横棒から手を離すと、道の傍らに飛び降りた。そのふわりとした銀色の服の背中から、薄い銀色の翼が広がり、彼は空中に飛び上がる。 「べたナギだなあ。まあ、逆風よりはいいかな」  そんな言葉を残して、彼は砂漠の中へ飛び出していった。 「砂漠に風なんか吹いたら、砂が舞ってまずいだろ。凪でちょうどいいだろうよ」  フレイが首を振り、ブルーもむっつりと同意した。 「それだけは、おまえと同意見だ」 「ディー、それにみんな。わかった。あれは、女の子だったよ」  やがてアンバーが戻ってきて、そう告げた。 「女の子?」ブルーとフレイが同時に声を上げる。 「そう。見たところ、うちの女の人たちより若いかもしれない。身体が小さいし、でも顔は老人の感じじゃないから」 「生きているのか?」ディーが幌から顔を出し、少し眉を寄せて聞いた。 「たぶん。今のところは」 「でも、こんな砂漠の中に放置したんじゃ、そのうちに死んじゃわないか?」  フレイは、気遣わしげな表情になっていた。 「たぶん、そうだろうな。時の寺院の坊主どもの、やりそうなことだ。捨てたからには、いらなかったのだろうが……」  ディーは眉根を寄せて、考え込むように黙った。 「本当に、よけいな荷物になる可能性が高いが。その子を拾うのは。他から来ているわけだろうし、時の寺院の坊主が捨てたからには、たぶん力はない」 「俺らの食い扶持も減るだろうしなぁ」 「だからって、見殺しにするのか?!」  ブルーの言葉に、フレイがとがめるように返す。 「いや、厄介が増える気がするってだけだが……たぶん、役には立たないだろうからな」 「たしかに、役にはたたなそうだったね。可愛い子みたいだけれど」  アンバーの言葉を聞いて、フレイは赤い瞳を輝かせた。 「可愛い子だと?! じゃあ、なおさら助けよう! こんな砂漠の中で見殺しなんて、かわいそうだ! 役に立たなくたって、いいじゃないか。人助けだ!」 「みなの意見を聞いてから決めるか。ただ、絶対反対が一人でもいれば、その子は助けない。フレイはともかく、アンバー、ブルー、おまえたちはどう思う?」  ディーの問いかけに、二人はしばらく考え込むような表情をする。 「見てしまったからには、助けたい気がするかなあ」  アンバーは首をかしげながら答え、 「まあ……厄介だが、絶対反対なわけでもない」  ブルーは相変わらずむっつりした表情のまま、頷いた。 「意思疎通はレイニがいれば、なんとかなるだろうしね」  アンバーがそう付け足した。 「じゃあ、他のみんなの意見も聞いてこよう」  ディーはもう一度幌を閉じ、中に戻って行った。そしていくばくかの時を経て――その間、中ではいろいろな話し声がしていたが――再び幌を開けて顔を出した。 「助けておこう。そう決まった」  彼はほっとしたような表情のフレイとアンバー、相変わらずむっつりした顔のブルーを見て、微かに表情を緩めたあと、言葉を継いだ。 「俺とリルと、それからアンバーで行って連れてくる。アンバー、案内してくれ」 「ああ」  アンバーは再び道路に下りて、羽を広げた。そのあとにディーとリセラが車から降り立ち、それぞれの背中から翼を広げて、空中に飛んでいった。ディーの翼は黒く、リセラは少しピンクがかっていて、他の二人より少し小さい。 「飛べるやつはいいよな」  フレイが三人を見送りながら、ぽつりと言い、 「まあな。あれば便利だと思うな。俺たちには無理だが」  ブルーもそんな感想を漏らした。  しばらくのち、三人は一人の少女を抱えて戻ってきた。緑色がさめて、表面が少し毛羽立ったワンピースに、穴が開いて少し黒ずんだ、白い靴下。長い茶色の巻き毛に白い肌、長いまつげと小さな赤い口元、通ってはいるが、それほど高くない鼻の周りに、薄い茶色の斑点がすこしだけある。少女は片足だけしか、靴をはいていなかった。 「落とされる途中で砂漠に落ちたのかしらね。見つからなかったのよ」  リセラが気遣うような口調で言いながら、少女を車の中に入れた。 「完全に気を失っているな」ディーは頭を振り、言葉を継いだ。 「とりあえず、こんな砂漠の真っ只中で泊まりたくはない。ステアラ砂漠を抜けたところで、野営しよう。もしそれまでにこの子が気づいたら、車の中で話が聞けるが、それまで寝ていたら、その時でいい」 「そうだな」駆動車を引っ張っている三人も頷いた。 「ところで、この騒動の間の時間は、俺たちの当番の中に入るのか?」  そう問いかけるブルーに 「入らないわよ。あと一カーロン、しっかり引っ張ってね」  リセラが笑って答える。 「やれやれ……すごく損した気分だ」  ブルーは余計に口をへの字に曲げながら、ため息をついていた。  昼の砂漠は暑いが、夜になると急激に気温が下がる。砂漠を抜けてすぐの草原に野営した一行も、何人かは上着を羽織って、草の上に広げた敷物の上に座っていた。カドルという、火の力を入れた丸い筒型の装置が傍らに置かれ、あたりに暖かさと赤みがかった光を届けている。頭上の空は限りなく黒に近い濃い灰色で、銀色の星が小さな光をちりばめたように空を彩り、少し銀色がかった丸い大きな月が、中天にかかっていた。  車座になって座っているのは九人――フレイ、アンバー、ブルー、ディー、リセラのほかに、二人の女性と二人の男がいた。銀色のまっすぐな髪を肩に垂らし、切れ長の緑色の瞳の女性と、ゆったりした水色のワンピースに身を包んだ女性。彼女は髪の色も水色で、頭頂部あたりで一つに束ねて流しているが、量が多いために後ろだけでなく、横にも流れているように見えた。  男性二人の方は、かなり対照的な容貌だった。大柄で、でっぷりした体型の若者はくるくると渦を巻いて頭を取り巻いている黒い髪と、細くて小さな、少し紫がかった灰色の目をしていた。鼻は丸く、口は大きく、今も盛んな食欲で、かごに盛られた食物を、次々と口に放りこんでいる。その傍らに座り、少しずつ食べ物をかじっている男は体が小さく、やせていて、白くて丈の長い服を着ている。彼はレンズの黒い大きな眼鏡をかけているが、その下から見えている鼻と口も小さい。肌の色も透けるように白く、耳の下で切りそろえられた、たっぷりとした量のまっすぐな髪も白かった。 「ブラン、ここはもう暗いんだから、日よけめがね外せよ」  フレイに言われて、白い髪の男は眼鏡を取ったが、その下の目は顔に似ず大きく、その瞳の色はほとんど白に見えるほど薄い茶色だった。 「そのカドルがまぶしいよ。月明かりでちょうどいいのに」  ブランと呼ばれた若者は、少し顔をしかめている。 「いや、俺はこれがないと寒いんだよ」  その装置のまん前に座ったフレイは、譲ろうとはしない。  食事を取っている一行の傍らに、砂漠で助けた少女が寝かされていた。 「結局起きなかったのね、この子」  リセラが少女に目をやって、言った。 「どこか具合が悪いのか、かなり弱っているのではないかしら」  銀髪の美女が、微かに眉をしかめる。 「身体は……どこも悪くはないように見えるわ」  水色の髪の柔和な印象の女性が少女の手を取り、首を振った。 「そろそろ、目が覚めるのではないかしら」  その言葉通り、一同が食事を終える頃、少女は目を覚ました。まぶたがぴくぴくっと動いたと思うと、目を開ける。その瞳の色は、少し緑と灰色がかった、明るい茶色だった。彼女はしばらくぼんやりと空を見つめ、起き上がると、自分の傍らに円を描くようにして座っている九人を、驚いたように見やっている。 「あら、目が覚めた?」  リセラが快活にそう話しかけたが、少女は不安そうに目を見開くばかりだ。そして少女は口を開き、何かを言った。しかしその言葉は、一行には理解できない。 「やっぱりそうか。それは覚悟していたがな」  ディーが苦笑いを浮かべ、水色の髪の女性を見やった。 「レイニ、通訳を頼む」  レイニと呼ばれた水色髪の女性は微笑んで頷くと、少女の手を取り、その目を覗き込んだ。「こんにちは。驚いたでしょう。私たちはあなたが砂漠に倒れていたので、ここまで連れてきたのよ。私はレイニ・アマリス・サーラルと言って、他の八人と一緒に旅をしているの。あなたの名前を教えて」  少女はじっと見つめていたが、やがてその意味がわかったようだった。口を開き、返答したが、その言葉は相変わらずわからない。しかしレイニにはわかっているようで、彼女は少女にかわって答えた。 「助けてもらったとしたら、ありがとうございます。なぜここにいるのか、わからないけれど。わたしはアレキサンドラ。サンディと呼ばれていました。十四歳です」 「サンディっていうのね。あたしはリセラ・ファリ・マリスタ。うーん、十四歳でその見た目だと、たぶんそっちとこっちでは、年は似たようなものだわね。あたしは、十九よ」  リセラがにこっと笑う。少女にもわかったようで、にこっと笑って、何か言った。レイニがその言葉を通訳する。 「はじめまして、リセラ」と。 「俺はフレイル・バスクリア・アンダルク。フレイって呼ばれるんだ」 「俺はブルーニス・パンタルク・アイオス――通称ブルーだ」 「僕はアンバー。アンバー・ラディエル・キール、よろしく」  次々とそう言う三人にも少女ははにかんだような視線を向け、[はじめまして]と微かに微笑んで言った。 「おいらはパヴェル・ペブル・ムスロン。ペブルって呼ばれてるから、あんたもそう呼んでいいよ」太った男がおうように笑って言い、 「私はブランデン・ポスティグ・シランサ。通称、ブランだ」  白い髪の小男が少し照れたような顔で、小さく言う。 「わたしはロージア・エリル・ケール。よろしく」と、銀髪の女性が自己紹介し、 「俺はディーバスト・エラキドゥ・マルヴィナーク。長ったらしいから、ディーでいい」  ディーが少し突っ放したような口調ながら、親しみも感じられる調子で締めくくった。 [ここは……どこですか?]  全員に挨拶したあとの、少女の次の問いは、少し戸惑ったようなものだった。 「まずはその前に、あんたのことを少し話してくれないか」  ディーの問いに、サンディはさらに戸惑ったような表情で答えた。もちろんその言葉は一行にはわからないが、レイニがかわって伝える。 「わからないんです。どうして、ここにいるのか」 「あんたはどこに住んでいた? 家族は?」  その問いに、少女はただ首を振り、半ば混乱したように答えるだけだった。 [覚えていないんです。まったく。ただ名前と、年だけしか。あとは……思い出せません。どこでどうしていたのか、なぜここにいるのか……] 「ああ……まあ、ありえる話だな。きっ坊主どもの仕業だろう」  ディーは当惑したように首を振った。「まあ、いいが……サンディ、それがあんたの名前なら……とりあえず、レイニの手を離すなよ。さもなければ、話が通じなくなる。ここはミディアル国、スパオラ地方。ステアラ砂漠を抜けて、ラキマス平原に入ったところだ。と言っても、あんたにはちんぷんかんぷんだろうが、たとえ言葉が通じていてもだ。俺たちは旅の一団。はぐれもの同士集まって、この国を旅している。町で一時雇いの仕事をして、時には見世物もやって、それで金を稼いで、生活してるんだ。あんたも俺たちと一緒に来るなら、何かしかの働きは必要だが、とりあえず俺たちはこの国の首都、エルアナフに向かっている。あそこはこの国一番の大きな町だし、仕事もあるだろう。とりあえずそこへ着くまでは、俺たちと一緒にいたらいい。どうせ行くところはないんだろう」  サンディはうっすらと涙をうかべながら聞き、そして頷いた。 「戸惑っているのでしょうけれど、大丈夫よ」  レイニが優しい口調で語りかけ、その背中にそっと手を触れた。 「お腹はすいていない? 私たちの食べ物が、あなたの口に合えばいいのだけれど」  少女はこっくりと頷いた。それを見てリセラが立ち上がり、かごを持ってきた。その中には、透明な水の入った瓶がいくつかと、手のひらですっぽりと包み込めるような大きさの、さまざまな色の丸いボールのようなものが、たくさん入っている。 「まずはお水ね。どうぞ」  リセラは安心させるように笑顔を作り、瓶を手渡した。 [ありがとうございます]  サンディはそれを受け取り、ふたをあけて口をつけた。その顔が微かにほころぶ。 [おいしい……お水がおいしい。それに甘い] 「喉が渇いていたのだと思うわ」  レイニが微笑んで言った後、たくさんの色つき球を指差して説明した。 「ここでは、食べ物はこれしかないのよ。たぶん、どこの国でも。ピンクは火、水色は水、ベージュが土、銀色に近い青が風、薄い黄色が光、濃い灰色が闇、白はどれでも適応するけれど、エレメントの力はない。そうね……でも、あなただったら、白でいいかしら。エレメントの民ではないようだから」  彼女は白い球を一つとって、サンディに渡した。  少女は最初それをじっと眺め、おずおずとした動作で、口をつけた。食べてみると、ちょっと固めのゼリーのような食感だ。微かに甘く、微かにしょっぱいが、あっさりしている。二つほど食べると、お腹がいっぱいになった。 [……料理は、しないんですか。わたし……料理は得意だった……ような]  そんな言葉が漏れた。レイニの手を離れていたので、その言葉は誰にも通じなかったようだ。少女は通訳者を探し、そっとその手に触れた。 [あなたがいると、みんなの言うことがわかるけれど、それはどうしてなんですか?] 「ええとね、それが私の力だから」レイニは微笑んで答える。 「私は、人の心の仲介が出来るから。『異なる言葉での伝達』――私たちの言葉で、ミヴェルトと呼ばれる能力を、私は持って生まれてきたから。水の民の十人に一人くらいは、その力を持っているのよ」 [そうなんですか……]  サンディは頷いたが、その瞳には戸惑いの色が大きかった。彼女にとっては、やはりここは異世界なのだ。文字通りの意味で。  その心の動きが、わかったのだろう。レイニは、微笑んでその背中に触れた。 「私がいなくても他の人たちと話が出来るように、あなたもここの言葉を覚えたらいいわ。そんなに難しいことではないから。あなたが言うことを、私が他の人たちに言うその言葉をよく聞いて。それは同じ意味だから。他の人たちが言うことを、私があなたに伝える時も、相手の言葉も良く聴いて。それも同じ意味だから。繰り返していけば、きっと覚えられるわ」 [はい……ありがとうございます]  旅は続いた。昼間は交互に車を引っ張り、夜になると車を止め、野営する。三つの車のうち、最初のものに人が乗り――中は柔らかい敷物が敷いてあるだけで、その上にみな座ったり寝ていたりする。夜はそこで寝るが、七、八人ほどでいっぱいなので、三人ほどは外に敷物を敷き、その上で寝ていた。雨が降ったらどうするのかとサンディは疑問に思い、レイニに問いかけたが、その答えは「その時には、狭いけれど二番目の車の中で、荷物に囲まれて眠るしかないわね。村や町では、宿に泊まったり、納屋に泊めてもらったりできるけれど。でもミディアルには、あまり雨は降らないのよ」ということだった。その二番目の車には、個々人の荷物――着替えや身の回りのもの、野営用の敷物や、ランプとストーブの代わりをするカドルという装置、そして食料や水が積まれていて、三つ目の車の幌は、道中ずっと閉じたままだ。 [ここには何が積んであるんですか?]  ある日サンディは、レイニにそうたずねた。 「ここには、私たちの商売道具があるのよ」  レイニはそう答えたが、中は見せてくれなかった。 「街に着いたら広げることになるから、その時にわかるわ」と。  サンディは車を引っ張ることが出来なかったので、ずっと居住車の中にいた。そこには小さな窓があって、外の景色が見えた。最初の二日は緑の草原、その次の日は再び砂漠地帯を抜ける。レイニが引っ張り当番になって不在の時には、サンディはその景色をずっと眺めていた。通訳者がともにいる時には、他の人たちとも話が出来たが。    その旅の間に、レイニはこの世界のことを、いろいろと教えてくれた。 [この世界は、どういうところなんですか?]  サンディは知りたがった。 [ここは、どういう名前の世界なんですか?]とも。 「この世界自体に、名前はないのよ」というのが、レイニの答えだった。 「それぞれの名前はあるけれどね。海の名前、大陸の名前、島の名前、そして九つの国の名前――」 [九つの国?] 「そう。ここはその九つの国のうちの一つ、名前はミディアル国。南の海に浮かぶ、比較的大きな島にある国よ。ここには約五、六万の人が住んでいるの」 [一つの国で? なんだか……少ない気がします。そのくらい、小さいのですか?] 「小さくはないと思うわよ。この島を一周回ろうと思ったら、普通の速度で走る車でも、二シャーランくらいはかかるでしょうから」 [二シャーラン?] 「ああ、曜日が一周する単位ね。一シャーランは八日間よ。だから十六日。だから、この島は決して小さくないわ」 [そうなんですか……] 「あなたの世界では、もっと人が多かったのでしょうね。でもここは、そんなに人は多くないの。全体で見ても、百万には達しないと思うわ」 [そうなんですか……少ないんですね、本当に] 「ミディアルは、この世界の中では特殊な国なのよ。エレメントの力を持たない場所だから」 [エレメントの力……?] 「そう。たぶんこのエレメント、要素と言うのは、あなたの世界でも概念があるはず。世界を構成する力。食べ物の種類でもあったように、私たちの世界は六つのエレメントの力で成り立っている。大地、水、風、火、そして光と闇」 [ああ……なんとなく、わかるような気がします] 「それぞれの国には、そのエレメントの力の元となる精霊と巫女がいて、その国を治める神官長がいる。でもこの国だけは、エレメントの力を持たないから、精霊も巫女も神官もいない。代わりに国王がいるの」 [王様……] 「ええ。このミディアルが建国されたのは、だいたい二百年前。そう、たぶん年という考え方は、あなたの世界と共通かもしれない。七つの節が過ぎて、またもとの節に戻ってくるまでの単位だから。そして昼と夜とで一日。七つの節は、エビカル、ザンディエ、ビスティ、フィエル、サラン、ポヴィレ、ディエナで、それぞれの節は四五から五十日あるわ。一日は日の出から日没までが昼で十一カーロン、同じく夜も日没から夜明けまでで十一カーロンあるわ。ただ時を表す時には、昼の六カル、みたいな言い方をするけれど」 [月と……時間……]  頷きながら、漠然とサンディは繰り返す。 「そうね。たぶん、あなたたちの世界の概念では。それで今日はフィエルの三一日目。フィエルは四七日あって、その次のサランは五十日、ポヴィレが四五。ばらばらで覚えにくいかもしれないけれど、もしここに長くいるなら、ここの暦にも、おいおい馴染んでくると思うわ」レイニは頷くと、話を続けた。 「話を戻すけれど、このミディアルという国は約二百年前、ダリンボミエ・タリスホルという人が開いた国なの。彼は海を渡って、一緒に来た百人ほどの人たちと、この地を開拓した。農園を作り、工場を建て、町を起こした。そして他の国からの移住者を受け入れた。新しい天地で、新しい国を作ると宣言して。今はダリンボミエ国王から数えて五代目の、アヴェルセイ国王が治めているけれど、わりと栄えた国になっているわ。レラが少ないという欠点はあるけれど」 [レラ?] 「エネルギーと言うか、力ね。動力のようなもの。それで私たちは駆動車を動かしたり、装置を動かしたりしているの」  レイニは、少女の手を握っている方ではない手を差し出した。その手の中から淡い水色のガスでできた様な、微かに光る玉が浮き上がる。 「これは水のレラ。私の持っているエネルギーね。私は水の民だから。私は氷の国、セレイアフォロスから、ここへ来たから。ブルーも水の民だから同じ水のレラを持っているけれど、彼は同じ水の民でもアンリール――流れる水の国出身なのよ。水と土は、それぞれに二つ国があるの。土は大地と植物の力の国、アーセタイルと、岩と鉱物の国ロッカデールの二つね。ブランとペブルは同じ、アーセタイル出身なのだけれど、ペブルは半分闇の民だから、彼の力は闇のレラと地のレラ、両方あるのよ」 [それはいわゆる……ハーフなんですか?] 「混血ね。私たちはディルトと呼んでいるけれど。ペブルは母親が地の民で、父親は闇の民らしいわ」 [闇って言うと、なんだか怖い気もします]  サンディは小さく身を震わせた。 「字面の問題かしらね。じゃ、夜と思ってみたら。光が昼で、闇が夜。昼間だけの世界も、夜だけの世界も、なんとなく嫌でしょう?」 [ええ……] 「闇は悪ではないわ。ただ、そういう世界。光の国ユヴァリス・フェと闇の国マディット・ディルは、お互いにバランスをとって存在している。マディットはたしかに階級社会で、戒律は比較的厳しいらしいけれど、大きな国で、そこの人たちは満足していると聞いたことがあるわ。ディーはマディット出身なのよ。彼は四分の三が闇で、あとは光らしいわ。彼の母親が光と闇の混血らしいの」 [そうなんですか] 「私もディルト……混血なんだけれど、氷と水で基本は同じ水だから、エネルギーの分散は起きないの。でも、異なるエレメントの混血は、どうしても力の分散がおきやすいから、全体の力も個々の力も弱くなって、純粋なエレメントの国での居心地は、あまりよくないことがあるのよ。そういう人たちがどんどんミディアルに集まってきて、この国が築かれたの」 [そうなんですか。じゃあ、他の皆さんも、ハーフが多いのですか?]  サンディはそれぞれにくつろいでいるほかのメンバーを見やった。 「え? あたしたちの出身?」  リセラが話に入ってきた。サンディ側の言葉は聞き取れないものの、レイニの言葉から、話の内容を知ったのだろう。 「そう。彼女に教えてあげて」レイニは微かに笑って頷く。 「あたしは複雑なのよ、三つのエレメントが入ってるの。光と風と火。あたしの父親が風と火の混血で、母は光なの。このピンク髪は、父さんの遺伝よ。風と火が混ざると、こういう色になりがちなの。あたしは三つのエレメントが混ざってるから、たしかに単独のレラは弱くなるけれど、でも三つ合わせるとそうでもないわ。ほら」  リセラは笑って、手を差し出した。その手から金色とピンク、そして銀色の玉が三つ浮き出てくる。彼女が手を振ると、その玉は三方に散って消えた。 「あなたはそれだけの混合だけれど、力は減衰せずにすんだ、稀な例ね」  レイニは微笑んで言い、説明を続けた。 「そしてね、ロージアは土と風のディルトで、アンバーは風と光。でも彼は光が四分の一で風が四分の三だから、かなり風のエレメントが強いわ。あの子は髪が銀色で、目が青灰色だったら、完璧に風の民だったわね。惜しいことに光が混ざって、あの色になったけれど、能力もほぼ風よ。でも、私たちみなが、ディルトなわけではないわ。ブルーとフレイとブランは純血なのよ。ただ、ブランはいわゆる『色抜け』だけれど」 [アルビノ……?]サンディは漠然とそう問い返した。 「そう。あなたたちの概念では、そう言うのね。でも色が抜けると言うのは、私たちにはもっと重大な意味があるのよ。エレメントのエネルギーを受け継げないというね。だから彼のレラは白いの。『色抜け』は、彼のように純粋なエレメントの民には稀なのだけれど、異なるエレメントが三つ以上になると、とても起こりやすいのよ。リルはそうでないけれど、三種になると、七割くらいが色抜けになるわ。これが四種類以上になると、ほぼ確実にすべてが色抜けになる。だからミディアルには、白のレラ――無色な人が七、八割もいるのよ」 [そうなんですか] 「もともとミディアルに来る人の九割以上はディルト――混血だから、子孫の代でさらに混ざって、色が抜けてしまうことが珍しくないのよ。二百年も続くうちには、かなりの人がそうなっても、不思議ではないわ。それに、もともとミディアルには精霊がいなくて、固有のエレメントを持たない国だから、レラも弱いし、あっても無色なことが多い。だから他の国からは『掃き溜めの国』と言われることも多いわ」 [なんだか……ひどいですね] 「でもミディアルの人々は、レラやエレメントの力がなくても、それに代わるものを作り出したわ。ここでは機械装置の開発が盛んで、そのおかげで産業も発達しているの。ここで一番盛んな産業は、衣服を作ること。これはレラが足りなくても、エレメントの力がなくても、機械の力でできるから。服の原料になる植物、コティは大地のエネルギーが少なくとも、水と太陽の光で育つ。この地に雨は少ないけれど、代わりにここの人たちは水を散布する機械を作り出したわ。それに成長を促進する薬も使って――薬の調合も、ミディアルでは盛んなのよ。そこから繊維を紡いで布にして服にするのは、機械を使ってできる。そういうレラに頼らない、人力で出来る装置が、たくさんあるわ。同じように木や鉱物から家具や装飾物を作る加工産業が、ここでは盛んなの。それで生産したものを輸出して、対価を得ている。そうして成り立っている国なのよ」 「コティの収穫や加工は、あたしたちも時々やるのよ」  リセラがそこで、ピンク色の髪をちょっと振りやりながら、再び話に入ってきた。 「旅の資金稼ぎにね。この砂漠を抜けた向こうには村があって、そこには大きなコティ畑があるから、明日はそこで収穫を手伝う予定になっているわ」 [そうなんですか。それならわたしにも出来るから、やらせてください]  サンディは両手を組み合わせ、願い出た。  コティの畑は、一面真っ白な雲の海のようだった。その木は丈が低く、ずんぐりとしていて、高さは人の太ももから腰のあたりまで、太い幹から無数に広がった細い枝に、白いふわふわとした実が群がるようについていた。 「やあ、今年も来たね。じゃあ、早速手伝いを頼むよ。明後日までにこの畑の収穫を終えて、出荷したいんだ」  コティ畑の持ち主である、マティと名乗る、ずんぐりとした体型の男が、両手を広げ、笑みをうかべて迎えてくれた。その男の髪は渦をまいて白く、目は淡い灰色だ。その村には他に五、六十人ほどの人がいたが、そのうち八割くらいの人が同じように白い髪、淡い灰色の目を持っていた。そういう人が多いのは、やはりレイニが言っていた「色抜け」のためなのだろうか、とサンディは漠然と思ったが、今は右も左もまだわからないこの世界の事情を飲み込むのに精一杯で、それ以上の考えは起きなかった。そして通訳者を通じて実のつみ方を教えてもらった後は、渡されたかごに次々と白いふわふわとした実を摘んでいき、かごがいっぱいになると、畑の隅にある大きな箱にその中身を空け、再び畑に出て行った。サンディを含めた旅の一行十人は、もくもくと収穫作業をし、日が暮れる頃には、真っ白だった畑も半分以上、茶色と緑になっていた。 「いやぁ、はかどったな、ありがとう。明日もよろしく頼むよ」  畑の持ち主、マティは機嫌良さそうに笑いながら、一行に対価を払ってくれた。それは銀色の小さな塊のようなもの、一人につき一つで、全部で十個を、まとめてディーに手渡す。彼がこの一行のリーダーのようだ。 「ありがとう。マティ」  ディーは八重歯を見せて微かに笑うと、それをロージアに手渡した。彼女は表情を変えずにそれを受け取り、洋服の内側から取り出した小袋の中に入れた。彼女がこの一行の会計――金銭管理を担っているらしい。 「それとこれ、あんたたちの夕飯の足しにしてくれ。白しかなくて、悪いがね」  マティはさらに、いつも食料にしている丸い玉が三十個ほど入った袋をくれた。 「ああ、ありがとう……いや、歓迎するよ」  ディーは低い声で礼を述べる。 「あんたたちはいつまで、このパセルの村に滞在する予定だい?」  そう問う畑の主に、旅の一行のリーダーは答えた。 「仕事がなくなったらだね。コティの収穫は明日までだが、もし他にも仕事があれば、もう少し滞在を延ばしてもいいな」 「じゃあ、明後日はザオヴァさんのポプル畑の収穫を、手伝ってもらえないか。そう伝えてくれと言われたんだ」 「ああ……じゃあ、それまではいよう。引き受けたとザオヴァさんに伝えてくれ」 「ああ。彼も喜ぶだろう。今年は奥さんが病気になってしまって、収穫が手伝えないと困っていたんだ」 「そうなのか、それは大変だな。それじゃ、また明日」 「ああ。明日もよろしく頼むよ」    一行はその夜、村のはずれで野営した。いつものように草の上に柔らかい敷物を敷き、その上に車座になって、水とかごに盛られた球という、いつもの食事を取っていた。 「ああ、疲れた! でもレラを使う仕事じゃなかったから、白でも十分かな」  アンバーがそう口火をきり、手を伸ばして白い球をとった。 「そうよね。あたしも手足がくたびれたけれど、これでも補給は出来るわ」  リセラも手を伸ばし、白い球を一口かじる。 「ここでの仕事はまあ、肉体労働だけだからな」  ディーは苦笑し、頭を振っていた。  ペブルはその傍らで、手を伸ばして二、三個球をいっぺんにつかみ、口の中へ放り込むと、もぐもぐもぐ、と十回ほどかんでごくんと飲み下し、再び手を伸ばして二、三個つかむ。その繰り返しだ。 「まったく、おまえのおかげで食費がかさむな」  ブルーがそれを見て、口をへの字に曲げながら、自分の分をかじっていた。 「でも、おいらは食べた分は働くよ」  ペブルは気にした様子もなく、もぐもぐやっている。 「ここでは働きに関係なく、一人一日一ブエルだからな。関係ないさ」  そういうブルーに、 「なんだか、それも不公平な気がするな」と、フレイが言う。 「マティの畑のコティつみはいつもそうだろ? ミディアルはそういうの多いよな。中には楽してサボる奴もいるかもしれない」 「そんなの、おまえくらいだろ、ブルー」フレイがそう鼻で笑い 「俺がいつサボった!」と、ブルーは気分を害したらしく、そう声を上げる。 「食事の時まで、ケンカしないで」  ロージアがトーンを変えず、短く注意すると、 「こいつがけんかを売るからだ」 「なにおぅ!」と言いつつも、それからは二人とも黙って食事を続けていた。  片手でレイニの手を握りながらその会話を聞いていたサンディは、ふと疑問を感じた。それで、もう片方の手に白い球を持ちつつ、首をかしげて聞いてみた。 [ここは皆さん、初めてではないんですね]と。 「そう、マティの畑のコティ摘みは、これで四回目ね。私たちはだいたい一年で通る旅程が、決まっているから。最初の節、エビカルの十日目くらいに、海辺の町エフィアから出発して、ミディアルの主な都市と町、村を回った後、一年の最後の節、ディエナの三十何日目かに、またエフィアに帰ってくる。一年で一周。今は四周目ね。だからミディアルの町や村の人たちは、もう私たちが来る時期を知っているから、来るといろいろと仕事を頼んでくれるのよ。やる仕事も、だいたいは決まっているわね」  レイニはそう説明してくれた。 [そうなんですか……]  頷きながら、少女は手にした白い球をかじった。ここで気がついてからずっと、食べ物はこれだけだ。それと水。この食物の味は淡白だが飽きが来ず、それ自体が不満ではないのだが、何か少し不思議な気がした。 [ここではなぜ、食べ物はこれだけなんですか?] 「あなたの世界では、たくさんの種類の食べ物があったようね」 [……そんな気がします。よくわからないけれど] 「たくさんの食べ物がある世界か。いいなぁ、行ってみたいなぁ」  ペブルがそう声を上げた。サンディの言葉はわからないものの、レイニの言葉はわかるため、それに反応したようだ。 「たくさんの種類の食べ物と、たくさんの食べ物は違うんじゃないかい、ペブル」  ブランが白髪の頭を振りながら、そう訂正する。 「たくさん種類があるなら、たくさんあるってことだろ?」と、ペブルは譲らない。 「他の世界のことは、わからないけれど……ここでは食べ物とは、エネルギーの補給、それだけしか意味がないからでしょうね」  レイニは微笑んで答えていた。 「食べ物に他に意味なんかあるの?」と、リセラが不思議そうに言う。 「彼女の世界では、あったのかもしれないわ」  レイニの言葉に、一行は不思議そうな表情をした。 「まあ……外の世界では、そうなんだろう。だが、ここではそれ以外の意味はないのさ。だからあんたも、それ以外は求めない方がいい」  ディーが微かに苦笑を浮かべながら、そう締めくくった。 [はい……]  サンディは頷き、手にしたものを食べてしまうと、遠慮がちにかごに手を伸ばした。いつもは二つでお腹いっぱいになるのだが、今日はもう一つほしい気がした。 「はい」リセラが笑って、かごの中から白い球を一つ取り、少女に渡した。 「あなたも今日はよく働いてくれたものね。おなかがすいているのでしょう? 遠慮しないで、たくさん食べたらいいわ」 「そうさ、三つでもペブルの十分の一だし、気にするなよ、お嬢ちゃん。本当に今日のあんたは、良く働いてくれたよ」  フレイがにやっと笑ってウインクをした。  サンディは少し恥ずかしそうに顔を赤らめながら、三つめを食べた。  翌日は再びマティの畑のコティ摘みをし、夕方には、ほぼ畑に白い色はなくなった。上機嫌のマティは一行に十個の銀貨とさらに三つをボーナスとして払ってくれ、昨日より多い食料をくれた。その翌日は、ザオヴァのポプル畑の収穫を手伝った。ザオヴァ氏はマティ氏より何歳かは若い感じで、いくぶん痩せ気味の身体だが背は高く、白いまっすぐな髪を短く切っていた。目は薄めの灰色だ。 「いやぁ、助かったよ。早く収穫しないと実が落ちてしまうからね」  彼は一行を畑へと案内した。ポプルの木は大人の背丈の一・五倍ほどの高さで、コティほど枝は密集しておらず、一つの木に十五、六本くらいの割合で長く伸び、薄い緑の葉の間に手のひら大の、白くて丸い実がたくさんついていた。 [これは、いつも食べている球……ポプルって言うんですね]  サンディはその木を見上げ、小さく声を上げた。 「そう。ポプルの実ね。これは生えているところのレラを取り込んで実をつけるから、ミディアルではほとんど白だけれど、ほら、中には微かに色つきがあるわ。まだ地面に少しだけ、エレメントの力があるのね。他の国に比べれば、相当に弱いけれど。これは実の上の茎のところをつまんで捻れば取れるから、白と他の色は分けて収穫してね。かごを二つ持っていって、白は右の箱に、色つきは左に入れてちょうだい。後はコティ摘みと要領は同じよ」  レイニは少女にカゴを渡し、手を離した。 「高い所の実は、無理してとらなくていいからね。あたしたちに任せて」  リセラがそう言ったが、意味がわからなかったサンディは再び通訳者を探し、もう一度繰り返してもらった。[ありがとうございます]と返してから、もう一度通訳者を見る。 「ああ……言い忘れたわ。手の届かない高いところは、『翼の民』に任せて、あなたは手の届くところをとってね。私たち、みなそうしているのよ。ディーとリセラとアンバーは翼もちだから、高いところに手が届くの」 [翼……? 飛べるんですか?] 「風と光と闇のエレメントを持つ人は、別名『翼の民』と呼ばれていて、飛行能力があるのよ。全員ではないけれど。でも風のエレメントで純血の人なら、九割以上が飛行能力を持つわ。光で八割弱、闇は七割くらい。その中でも風の民は飛ぶのが得意だから、うちでは、アンバーが一番飛行能力は高いのよ。その次が、ディーかしらね。リルは火のエレメントが入った分弱いけれど、それでも彼女のような三種のエレメント混在での飛行能力持ちは、珍しいわ」 [そうなんですか……]  不思議そうに言いながら、少女はピンク髪の乙女が背中から少し銀色がかった薄い紅色の翼を開き、空中に飛び上がる様子を、目を見開いて見ていた。それはまるで、リセラが着ている白いブラウスの背中から、生えたように見えた。その翼に羽根はなく、薄い羽衣のような、皮膜のようなもので出来ているようだ。 「彼らの服には、背中に切れ目が入っているのよ。翼は普段は畳まれた状態で背中についているけれど、広げた時その切れ目越しに、外に出せるように」  レイニも飛んでいく仲間たちを見上げながら、説明してくれた。 [そうなんですか……]  少女は空を飛び回る三人を見上げたあと、自分の作業にかかった。    日が暮れる頃には、畑の実はほとんどなくなった。にこにこ顔のザオヴァ氏は賃金とともに、収穫した実を百個ほど、大袋に入れてくれた。一行は氏に礼を言い、再びいつものように村はずれに野営した。 「ああ、この実、全部白だ。やっぱり色つきは高いからかな」  かごに盛られた袋の中身を見て、アンバーが再びそう口火を切った。 「はい、これ」と、ロージアが荷車に積まれた食料の中から実を取り出し、青みがかった銀色のものをアンバーに投げた。ディーには灰色の球を、リセラには薄い金色を。 「ありがとう!」「悪いな」「ありがとね、ロージア!」  三人はそれぞれ、まずはその色つきの実を食べている。他の人はカゴにある白いポプルに手を伸ばし、食事をしていた。 「飛行はエレメントのレラを使うから、補給が必要なのよ」  レイニがサンディにそう説明していた。 [そうなんですか……]  少女は再び不思議そうに頷きながら、白のポプルをかじった。 「レイニ。あなたも、そろそろエレメントの補給をした方がいいんじゃないかしら。その子が来てから、ずっとミヴェルトを使っているのだから」  ロージアが再び立ち上がって、水色のポプルをぽんと投げた。 「ありがとう。そうね」  レイニは頷いて、色つきポプルを一口食べ、にこりと笑った。 「ああ、やっぱり水のポプルはおいしいわ」 [味は違うんですか?]サンディはそう問いかける。 「そうね。自分のエレメントのポプルは、無色とは比べ物にならないくらい、おいしいというか、力が満ちてくるような気がするの」 [そうなんですか]  サンディは再び頷き、白のポプルを食べ終わると、水を飲んだ。だが自分自身は、そのエレメントに合ったポプルを食べた時の味は、わかることはないのだろう。この世界では、彼女は『色抜け』と同じなのだから――漠然と、そんな思いを感じた。茶色の髪と茶色の目で、「この子の見た目は、土の民と言っても誰も疑わないだろうな」と、ブランが移動の車の中で言っていたが、実際のところは彼と同じ、色は抜けていないが、力を持たない。彼女は、この世界の民ではないのだから――それは少女にも、漠然と悟っていたことだった。通訳者がいなければ言葉は通じず、ディーやレイニが何度も「外の世界では」「あなたの世界では」という言い方をすることからも――そして色抜けのブランでもレラという力の源は持っていて、それを使って車を引っ張ることが出来る。だが彼女には、それすらない。さらに自分がいることで、レイニに余計なエレメントの力を使わせているのだろう。通訳能力は、水のエレメントの力らしいから――。早く言葉を覚えなければ――そんな思いの中、サンディは食事が終わると、通訳者に聞いた。 [これで、この村での仕事は終わりなんですか?] 「そうね。これから急な仕事が入らなければ」 [それでは、また明日から旅が続くんですか。その……この国の首都まで] 「いえ、明日は休養日よ。私たち、もう十日間くらい湯浴みもしていないし、お洗濯もしていないから、そういう雑事をやらないといけないし。出発はその次の日ね」 [お洗濯……]サンディは首を傾げ、中空を見つめた。 [わたし、それならできるかもしれません] 「ああ、それなら、あなたのところとやり方があまり変わっていなければ、手伝ってもらえるかしら」レイニは微笑み、手を伸ばして少女の頭に触れた  翌日は起きると、一行は敷物の洗濯から始めた。使用料を払って、村はずれの井戸を使わせてもらい、荷物車の中から洗濯機と石鹸を出して、洗う。洗濯機と言っても手動でハンドルを回すもので、それで中の水と石鹸、洗濯物が攪拌される。それから水を捨て、絞ると――これも同じようにハンドルを回して行った――新しい水を入れ、すすぐ。そうして再び絞ったものを運んで、野営している場所に立てた二本の細い柱の間に紐をはりわたし、そこにかけて干していた。 「これもミディアルの発明品なのよ。洗濯機。けっこう重宝しているわ」  そう説明するレイニに、サンディは頷きながら思っていた。 [洗濯は変わっていないみたい……そんな気がする。ちょっと原始的かもしれないけれど……]  少女は出来る限り手伝った。ハンドルを回し、形を整えてパンパンと叩き――敷物は大きいので、一度に一枚ずつしか洗えない。都合四回ほど洗濯機を回すと、一行は村の湯屋へと行った。湯屋とは、文字通り四角く白い浴槽の中に湯をはって、その中に浸かり、外で身体を洗う。それを提供する設備だ。浴槽も洗い場も、男女に分かれている。  リセラ、ロージア、レイニとともに女性用に入ったサンディはお湯に浸かり、身体を洗った。ちょっと形態は違うが、身体の清め方は同じだ――漠然と、そんな思いを感じながら。髪も洗った。他の三人も同じようにしていたが、濡れた身体を乾かすのは、乾燥室と呼ばれる部屋に入り、温風を使う。身体が渇くと、めいめい別の服に着替えていた。一行はここに来る前、村の雑貨屋でサンディの服と新しい靴も買い求めていたので、彼女も着古したワンピースを脱ぎ、着替えた。それは緑のひざ下までの丈の、すべすべした生地でできたワンピースだった。今までは裸足だった足にも、新しい靴をはいた。  湯屋から戻った一行は、今まで着ていた服も洗濯し、広げて乾かした。それから村の雑貨屋で食料と水を買い求め、村人たちと話し、日がくれる前に乾いた洗濯物を畳んで、荷物車に積む。居住車の敷物も洗いたてのものになり、地面に敷くものも同様だ。そして一行はその上で、食事を取った。 [ここは一日一食なんですね]  サンディはそうたずねた。みな、朝は水を飲むだけで、昼は取らず、日が暮れてから食事をする。彼女が合流してからの七日間、ずっとそうだったからだ。 「寝る前に、一日に使った力を補充するから、他には必要ないのよ」  というのが、レイニの答えだった。 「さてと、明日からまた移動だ」  食事が終わると、ディーが両手をパンと叩いた。 「ここから首都エルアナフまで、あと四日。途中で川越えがあるが、まあ、いつものとおりだ。今日は早く寝るぞ」 「エルアナフか。あそこは賑やかだから、俺は好きだな」フレイがそう言い、 「俺は騒々しすぎるから、好きじゃない」と、ブルーがむっつりと反論する。 「エルアナフでは、興行があるからな。何日間になるかは、入り次第だが、向こうへ着いたら、練習も必要だな」ディーが重ねて告げた。 「いよいよ興行車の出番ね」リセラが弾んだ声を上げ、 「まあ、いつもどおりやれればいいわ」と、ロージアは冷静な声を出す。 [興行って、なんですか?]サンディは聞いた。 「見てみればわかるわ。まあ、楽しみにしていて]  レイニはにっこり笑った。  空の月は、相変わらず丸い形をしていた。ただ、位置が少し変わっているようだ。黒に近い濃いグレーの空に、銀色の小さな星がたくさん瞬いている。と、その空に小さな影がさした。かなり早いスピードで飛びすぎて行く。 「なにか通った。鳥かな?」  アンバーが空を見上げた。 「鳥は、夜は活動しないものだよ。少なくとも、ここではね」  ブランが首を振って訂正する。 「あれは……?」  ディーが軽く眉をひそめ、しばらく黙った。やがて首を振って、告げる。 「ともかく、今日はもう寝るぞ。外で寝る当番の奴は、敷物と毛布を持ってこい。それ以外は、居住車に戻るぞ」  一行は立ち上がり、動き始めた。  それから四日間、車は進み続けた。昼間は三人交代で引っ張り、夜は草原地帯の木陰を探して、野営した。二日目に、一行は大きな川を越えた。橋はなく、足もつかない深さのその川を、三台の車は渡っていく。先頭の駆動車に翼の民――アンバー、ディー、リセラが乗って浮遊させ、ブルーとレイニが川に入って、下から支える。対岸に着くと、一行は二カーロンほどの時間、休憩した。 「お疲れ様、五人とも」  ロージアが相変わらず抑揚を抑えた言い方で、表情も変えることなく、おのおのにエレメントのポプルを二個ずつ渡した。 「ありがとう。川越えは本当に、重労働だなあ」アンバーは声を上げ、 「本当ね。さすがに疲れたわ」  リセラも首を振って、ポプルを口にした。 「久々に水に潜ったな」  ブルーが頭を振ると、水しぶきが四方八方に飛んだ。 「おい、そこで水を飛ばすな。それと、敷物が濡れるだろ。濡れたまま座るなよ」  フレイが顔をしかめた後、付け加える。 「まあ、おまえさんも働いたんだから、その点は感謝するが」 「当然だ。文句を言われる筋合いはないぞ」  ブルーは服を脱ぎ、水気を絞ってから再び着た。レイニも同じように物陰で服を絞り、髪も解いて水気を絞ると、再び束ねている。 [寒くはないですか?]  再び自分の傍らに座った通訳者の手を取って、サンディはそうたずねた。 「ありがとう。私は平気よ。むしろ暑いより、快適だわ」  レイニは、にっこりと少女に笑いかけていた。 [それにしても、びっくりしました。あんな方法で川を渡るなんて] 「他にやりようがないから。ミディアルの人は船を使うけれど。それに橋もあることはあるのだけれど、かなり回り道だから」 「水の民がもう一人いれば、もっと楽だったかもな。そうすれば一人で一台ずつ車を持っていけたのに」  ブルーがポプルをかじりながら、言った。二人だと、二台目、三台目しか支えていけないからだろう。先頭の車両は、飛行能力を持つ三人の浮遊力に頼ることになる。その彼らの浮力で、二台目三台目の車の重量もかなり軽くなり、ブルーとレイニもさほどの力を必要とせず、支えていけるのだが。 「私たち水の民は、水の中に長く潜っていられるしね。個人差はあるけれど、一カーロンから、長い人は三カーロンくらい大丈夫なのよ」  レイニは少女にそう説明していた。 [それも、エレメントの力なんですか?] 「そうね。でもそれは力というより、特性かしら」レイニは頷いていた。  やがて一行は、ミディアルの首都エルアナフへと着いた。そこはこの国で一番大きな都市らしく、かなり遠くからでも、その町並みの影を見ることが出来た。銀色に塗られたゲートには、金属のような光沢を放つ薄緑の服を着た、兵士らしい四人が立っていた。彼らの腰のベルトには、鞘に入った長めの剣の様なものが下がっている。 「ディーバスト・エラキドゥ・マルヴィナークと、アスファラディア歌劇団だ」  四人の兵士に向かって、ディーが告げた。 「ああ。今年も来たのか」  兵士の一人が、微かに口元を緩めながら言った。どうやら、相手は一行のことを知っているらしい。「去年あんたたちがここを出る時に、今年分の申請書は渡したはずだな。それをこっちに渡してくれ。王の許可印をもらって、渡す。興行はそれからだ。街には入っていいが、それまで車は、そこの壁のそばに停めておいてくれ。三日ぐらいかかるだろう」  兵士の一人が告げ、左のほうを指し示した。街のまわりには、ぐるりとレンガを積んだような、高い壁がめぐらされている。 「わかった。これが申請書だ。よろしく頼む」  ディーは懐から紙のようなものを取り出すと、兵士に渡した。 「じゃあ、せっかくだから、街の見物がてら、お買い物に行きましょう。サンディは初めてよね。一緒に行きましょう」  車を外壁のそばに止めると、リセラが快活に声をかけてきた。 「はい」サンディはここの言葉で返事をし、にっこり笑って頷いた。 「あら、少し覚えてきたのね。それに、レイニのミヴェルトを通さなくても、あたしの言うことが、わかった?」 「少し、だけ。一緒に街へ、行きましょう……ですよね」 「ミヴェルトを通すと、言葉の覚えも早くなるようね。それに、この子はもともと頭が良いのかもしれないわ」  ロージアは相変わらず表情を緩めないまま、そんな感想を漏らしていた。 「そうね。半分くらいは出来てきたみたいね」  レイニは頷き、少女の手をそっと握った。 「この街にいる間に、もう通訳も必要なくなると思うわ」 「それならよかったわ。じゃあ、行きましょ。今回はあたしたち、女四人で」  リセラが声をかけ、四人はゲートをくぐって、街の中へ入った。兵士たちは何も言わず、彼女たちを通してくれた。  ミディアルの首都エルアナフは六角形の形をしていて、中央に位置する王宮から、六本の大きな道路が対角線を描くように、放射状に延びていた。町外れからだとかなり遠くに見えるその宮殿は、灰色の石を積み上げたような建材で出来ており、いつくかの尖った屋根と、その先端についた、三角形の、黄色地に赤と緑で両端を縁取ったような模様の旗が見えた。王宮の周りには、やはり同じような灰色の石で積まれた高い城壁が、ぐるりと取り巻いている。そこから六方に伸びる道路は、規則正しく切り出された石畳で出来ており、その幅は広く、多くの車が行きかっていた。丸い車輪がついた、木製、または金属製のそれは、その車に組み込まれた動力源で走っているようで、自らの体から発するレラというエネルギーを使っているわけではなさそうだ。  道路の両側には、大小さまざまな、石造りの建物が並んでいた。建物はどれも三階から五階建てくらいで、上層階の窓からは色とりどりの洗濯物がはためいている。一階部分は店になっているところも多く、道具を売る店、水やポプルを売る店、洋服を売る店、雑貨を扱う店、旅行者を泊める宿、湯屋、花屋や飲食店もあった。 「花は栽培しているものや、野生に生えているものを切って、入れ物にさしておいておくのね。何のためにそんなことをするのか、よくわからないけれど」  リセラがその店のことをサンディに説明する時、そう付け加えた。 「きれいだから、じゃないですか?」  サンディが片言の言葉で、そう答える。 「花は在るがままに咲いている方が、はるかに美しいと思うわ」  ロージアが微かに首を振り、眉を寄せた。  飲食店の存在も、サンディにとっては不思議だったようだ。この世界には、食べ物と言ったらポプルしか存在せず、飲み物も水しかないと思っていたが。 「最初はポプルと水を売っていて、その中で食べられるようにしていたのだと思うわ」  レイニがそう説明してくれた。「でも、だんだんとそれだけではないものを、求めるようになったのではないかしら。他と違うものを提供すれば、人は珍しがってくれるからと。それで水とポプルを混ぜて砕いたものを、最初に売るようになったの。ポプル水と言って。あとはポプルを焼いて、少し塩をつけてみたり、水とポプルの飲み物に、蜜花から取れる蜜を混ぜてみたりね。それは、ポプルジュースと言うみたい」 「蜜花?」 「このエルアナフの北側には山があるのだけれど、そこに咲いている黄色い小さな花よ。その花を摘んで束ねて、瓶の入り口のところに、花を下にして吊るしておくと、下に透明な蜜が溜まるの。それはとても甘いので、味付けに使われているみたいね。塩の方は、野原や山に落ちている塩石を砕いて、使っているのよ」  レイニの説明に、サンディは頷きながら、その話を聞くのは初めてではないような気分を感じていた。調味料――? 「それは、あなたの世界の方が馴染みのあるものなのかしらね」  レイニが微笑んで頷く。彼女の異なる言葉をつなぐコミュニケーション能力は、相手の思考をも、ある程度読み取れるようだった。  四人はいくつかの飲食店を覗いてみたが、中では大勢の人々が加工されたポプルを食べたり飲んだりしながら話をし、くつろいでいた。 「見ていると、食べるのが目的じゃなくて、ここではみんなでおしゃべりしたり、のんびりしたりするのが、目的の場所のようね」  リセラが不思議そうに首を傾げ、 「なぜわざわざそうしたいのか、わからないわ」  ロージアが表情を変えずに、疑問を投げかける。 「たまには同じ顔ぶれじゃない人と、話したいのかもしれないわね」  レイニは微かに笑っていた。    ある飲食店には、見たことのないような紫色の液体を売っていた。大勢の人がそのまわりを取り巻き、それを買い求めている。 「それって、何?」リセラが店主に聞いた。 「これはね、ほんの三節くらい前に、新しく開発された飲み物なんだよ。バーナクという花と水を混ぜて発酵させ、蜜花を混ぜたね。うまい上に、これを飲むといい気持ちにもなれるんだよ。うちと、あとは五件くらいしか扱っていないが、どこも飛ぶような売れ行きなんだ。あんたたちもどうぞ、と言いたいところなんだが、今日の分はここにいるお客さんたちで終わりそうだな」 「いえ……わたしたちはいいわ」  ロージアが冷たくそう答え、一行はそこを立ち去った。 「あそこにいる人たちが、やけに陽気なのは、そのせいかしら」  リセラはちょっと眉根を寄せながら、首を振っていた。 [ああいう感じの飲み物……わたしは覚えがあります、なんとなく]  サンディはレイニの手を握ったまま、元の言葉で言った。あまり愉快でない連想のもの――その思いは、レイニにもなんとなく、わかったようだった。 「あれは、あまり良くない飲み物かもしれないわ。口当たりはいいのかもしれないけれど」  彼女も少し眉をひそめながら、そう結論づけていた。    一行は街の洋服店で新しい服を求め、湯屋に行って湯浴みをすると、古い服を洗濯するべく、持ってきた大きな袋に入れて持ち帰り、食料品店でさまざまな色つきポプルを買った。 「お水や白いポプルは買わないんですか?」サンディはたずねた。 「水は重いから、男たちに任せているのよ。ペブルがいれば、たいていのものは運べるから。白ポプルも、ついでにね。白は安くて、単純な力補給に使えるから、けっこう買うし、重くなるしね」リセラがちょっと笑って答える。 「ペブルさんって、黒髪の、太った人ですよね」 「そう。彼は力持ちなの。その分エネルギー消費も大きくて、たくさん食べなければならないのだけれど」レイニは微笑んで答え、そして付け足した。 「たぶんね、太るという概念も、あなたたちの世界とは違うかもしれない。ここでは体形は、成長期が終わった段階で、ほとんど変わらないのよ。ペブルがああいう体形なのは、力を溜め込みやすく出来ているから。その分、放出するレラも大きいのだけれど。かと言って、ああいう体形の持ち主がみな、放出する力が大きいかといえば、そうでもないけれど。溜め込むだけで出せない人もいるし、ディーのように痩せ型だけれど、レラの力がとても強い人もいる。一概には言えないわね」 「ディーさんは、レラの力が強いのですか?」 「彼はそうね。ペブルよりも、はるかに強いわよ」ロージアが頷いた。 「あたしたちの中では最強ね」リセラも笑って言う。 「だから、あの人がリーダーなんですか?」 「それもあるけれど、もともとあたしたちの一団は、彼が作ったものだから」  リセラは少し懐かしむようなまなざしになった。 「初めは彼一人で、ミディアルを放浪していたみたい。あたしは四年前に彼に会って、一緒に旅をするようになって、それからだんだんと仲間が増えて行ったの。最初の一年で六人。ディーとあたしと、フレイとブルー、ブランにロージア。二年目でペブルとレイニ、それにアンバーが加わって、今の九人になったのよ」 「あなたで十人目かしらね」  レイニがそっと笑って、そう付け加えた。 [だとしたら、嬉しいですけれど……でも、ディーさんが最初に、ここに着くまではわたしもいてもいい、って仰っていたから……わたしはいつまでみなさんと一緒にいて、いいのでしょうか]  サンディは少し不安げに、三人の女性たちを見上げた。 「うーん、ディーの考えは、あたしもはっきりとはわからないけれど、でも彼は寄る辺ないあなたを、見放したりはしないと思うわよ。たぶん、もしここであなたにとっていい場所が見つかったら――あなたが幸せに働けるような――そうしたらそこにいればいい、というんじゃないかしら。特にそれが見つからないなら、あたしたちと一緒に、いても良いと思うわよ」リセラは少し安心させるように、少女に笑いかけた。 「彼は天秤にかけているのかもしれないわね。あなたを置くメリットとデメリットを。わたしたちはみな、遊んで暮らしているわけじゃない。それぞれの役割をして、貢献して、支えあって暮らしている。あなたにそれが出来るかどうか、じゃないかしら」 「あら、ロージア。でもサンディは、けっこう役に立ってくれていない? コティやポプルつみでも、お洗濯でも」 「ええ、あなたは一生懸命がんばってくれていると思うわ」  レイニはそっと少女の手を握って微笑み、そして付け加えた。 「あとは、あなたに歌かお芝居か踊りが出来れば、もっといいわね」と。 「歌かお芝居か踊り……ですか?」 「ええ。それが私たちの表向きの職業なのよ。アスファラディア歌劇団っていうね」  レイニは微笑んだまま、説明してくれた。 「あの三台目は、その舞台装置を積んでいるの。私たちはミディアルを旅しながら、大きな都市では許可を取って、街の広場で興行しているの。いつもエルアナフでは、第三広場でやっているから、今年もそうなるのではないかしら」 「今年の興行プログラムは、いつも以上に好評なのよ」  リセラが目を輝かせる。 「だから見入りも良くて、少しだけ贅沢も出来るわ。ね、この服素敵じゃない?」  彼女はスカートを広げるように、くるりと回った。よく身に着けている白いブラウスとピンクのズボンのかわりに着た、淡い色合いの、新しいピンクのワンピースは軽やかな印象の生地で、その袖とスカートはふわりと膨らみ、裾には銀色の飾りがついている。 「でも、その服には切れ目がついていないから、翼は出せないでしょう。ブランに直してもらわないとダメね」  ロージアが言う。彼女もここで買った、丈の長い白いワンピースに着替えていた。それはリセラの服ほど生地は薄くなく、少し光沢があり、まっすぐなラインで、くるぶしくらいまで丈がある。袖も長袖で、それほど膨らんではいないが、袖口と裾には銀色の飾りが入っていた。 「そうね。でも、もともとミディアルに、背中に切れ目がある翼の民仕様の服は期待していないから、いつものことよ。ブランが直してくれるわ」  リセラはスカートが広がるのを楽しむように、もう一度くるりとまわった。その動きにつれて、束ねた髪も踊るように円を描く。 「ブランさんは、白い髪の小柄な方ですよね」  サンディが確認すると、レイニが頷く。 「そう。彼はエレメントの力はないけれど、器用なのよ。道具を操って、洋服を直したり、新しい仕掛けを作ったりしてくれるの」 「新しい仕掛け?」 「ええ。舞台装置ね」  レイニはにこっと笑う。彼女も新しい、水色のワンピースを着ていた。柔らかな生地で、スカートや袖のふくらみ具合は、リセラとロージアの中間くらい。そしてやはり袖口と裾に銀色の飾りがついている。 「新しい舞台衣装には、ちょうどいいわね、この服」  リセラがもう一度、くるりとまわりながら言った。 「みんなもいい感じよ。サンディもその薄緑のワンピース、似合っているわ」  少女もまた、二着目の新しい服を買ってもらっていた。膨らんだ袖とスカートの、淡い緑の服を。彼女は嬉しそうに頬を染めた。 「でも、エルアナフは年々、いろいろなデザインの服が増えているわね」  ロージアが銀色の髪を軽く振りながら言った。あまり感心しないような口調だ。 「そうね。洋服屋の品揃えが、去年の倍くらいになったわね。あたしはいろいろ選べて嬉しいけれど」 「でもエルアナフの人口は、去年から千人も増えていないのよ。そんなに作って、余らないかしら」 「あなたは無駄が嫌いだものね、ロージア」  リセラの言葉に、レイニも笑って頷く。 「だからお金の管理には、うってつけの人なのよ」  街には、夕暮れが迫ってきていた。夜にはエルアナフの門が閉まるので、それまでに都市の外へ出ようと、四人は帰り道を急いだ。彼女たちは、来た道とは一本違う放射道路にいたので、元の道へ戻ろうと、放射道路の間を通る道へと曲がった。六本の放射道路は、中心の王宮から都市の境の壁まで、十八本の連絡道路でつながっている。それぞれの通りには、名前がついていた。タンディアフ通りと名のついたその道を、少し足早に歩いていた一行は、ある飲食店の前に来て、思わず足を止めた。 「なにこれ、ひどい匂い!」  リセラが声を上げ、鼻を押さえた。ロージアとレイニも嫌悪に近い表情を浮かべ、手で顔の下半分を覆うようにしている。しかし、サンディには馴染みのある匂いだった。彼女は不思議そうに連れの表情を眺めると、店の中を覗いた。三人の女性たちも、その匂いの正体を知りたかったのだろう。鼻を手で隠したまま、そっと店の中に目をやっていた。  その店の奥にある調理場では、何かを串に刺し、火にあぶって焼いたものを、客に売っているようだった。最初はピンクと緑の塊のように見えたそれは、火にあぶられると薄い茶色となり、その上に塩を振られている。大きな壷のようなものの中に火をおこし、その上に網を渡して、その上であぶっているようだ。分厚い手袋をしながら、串をひっくり返しているのは、まだそれほど大人になっていない年頃の、若い男だった。茶色の肌をし、髪は黒く、きらきらした目は赤みがかった濃い茶色だ。 「これって、なんなんでしょうか」  他の三人は匂いにひるんで中に入って来られないようなので、サンディが店主らしい男にそう聞いてみた。白い髪が頭の周りを取り巻いている、その店主らしい男は、並んだ大勢の客たちにその焼きあがった串を渡しながら、答えた。 「これかい? これはエウルの肉とピカンの実を焼いたものだ。そこにいるタリムが考えた、新しい食い物さ。前節から始めたんだが、大人気なんだよ。一つどうだい? お嬢ちゃんに払えたらな。これはけっこう高いんだ」  サンディはレイニの手から離れていたので、相手の言うことは半分くらいしか理解できなかったが、おぼろげに意味は察することができた。彼女は軽く微笑をうかべ、首を振って、「いえ、いいです。ありがとう」と答え、仲間たちのところへ戻った。 「お肉を食べるの?!」  通りを歩きながら、店から充分離れたのを待っていたように、リセラが声を上げた。店主の答えを、店の外から三人で聞いていたのだろう。 「信じられないわね」  ロージアも嫌悪に満ちた表情で、顔をしかめている。 「エウルとかピカンって、なんですか?」サンディは聞いた。 「エウルはね、ミディアルの南半分に住んでいる動物よ。このくらいの……」レイニは両手を肩幅くらいに広げた。「大きさで、色は白か茶色ね。草原によくいるわ。草を食べているのよ」 「駆動車を引っ張っている時、ときどき見るわね。耳がわりと大きくて、けっこう可愛いと思うけれど……でも、あれを食べるの? 溶けてしまわない?」  リセラが再び、嫌悪に満ちた顔をする。 「エウルくらいの動物だったら、二日くらいは形があるのでしょうね。ピカンは草原に生えている草だけれど、球根植物で、根に玉があるのね。あの緑の固まりは、それみたい」  レイニが説明し、そして言葉を継いだ。「エルアナフも一年来ない間に、ずいぶん様子が変わったようだわ。とりあえず車に戻って、ディーたちにもその話をしましょう。でもその前に、急がないと門がしまってしまうわね」 「あと半カーロンね」  ロージアも歩くペースを上げながら、少し離れたところに見える街の壁にはめ込まれた、四角い装置に目をやった。それは時計のようで、昼一〇:三五と表示されている。昼の十一カルは夜の一カルで、一カーロンは七〇ティルだ。あと三五ティルで日が沈む。四人は街の門へと急いだ。 「本当にエルアナフは一年来ない間に、ずいぶん変わったな」  翌日の夕方、車に戻ってきたディーが開口一番に言った。この日は男性六人で街へ行き、湯浴みをしたあと、水や食料、新しい服を買ってきていた。その間、女性たちは町の外で洗濯をしていたのだ。 「まだ幸いなことに、新しい飲み物や食べ物はこの街限定だが、いずれ蜜花のポプルジュースのように、ミディアル中に広がるのだろう。しかし、それはあまりいいことではないな」ディーは水を飲みながら、少し顔をしかめている。  一行は黙って頷いていた。サンディはしかし、少し不思議な思いを感じた。 「いいことでは、ないんですか? いろいろな種類が増えるということは、いいことかもしれないと、わたしは思ってしまうんですが」 「多様性は、あんたの世界では、いいことなのかもしれない」  ディーは少女を見、通訳者とつながった手に目をやって頷きながら、口を開いた。 「だが、ここではダメだ。レラとエレメントの力が支配しているこの世界では、不純物はその力を乱す。減衰させて、混乱させる。まあ、服や道具の種類が増えることは、まだ許容範囲だし、いいこともあるが、ポプルと水以外を口にすることは、絶対のタブーだ。レラを相当に減衰させるからな。まあ、ミディアルの連中はレラの力がないか、あっても少ない奴らばかりだから、そう害はないのかもしれないが――それに、あんたは食べても問題はないだろう、サンディ。だが、食いしん坊のペブルでさえ、あの食い物の匂いには、逃げ出したくらいだ」 「あんな匂いがしていたら、いくらおいらでも、食べる気はしないよ」  ペブルは相変わらずポプルの実を二、三個ずつ口に放り込みながら、言う。 「あなたが食べたいなら止めはしないけれど、ここで食べるのはやめてね、サンディ。あの匂いはとても無理なの、ごめんね」リセラが苦笑しながら、少女を見る。 「だがあのひと串で、色つきポプルの十倍の値段なんだ。できれば我慢してくれると、ありがたいな」ディーも苦笑いをしながら、付け加えていた。 「はい、なくても大丈夫です」 「あの店の外にいた男に話を聞いたんだが、あれを考案した、あのタリムとか言う奴、あれもなんか、外から来たらしいぜ」  フレイが赤毛の頭を振りながら、そう言い出した。 「そう言っていたね。今年のエビカルの終わりに、店主が拾ってきたとか。言葉が通じなくて、最初はお互いに何を言っているかわからなかったらしいけれど。今も片言くらいしか、しゃべれないらしいって」アンバーが白いポプルをかじりながら、頷く。 「サンディより、だいぶ覚えが悪そうだな」ブルーがぼそっと呟いた。 「サンディには、レイニのミヴェルトがあったからね。それがないなら、そんなもんだろう」ブランがアンバーとディーの服に翼用の切れ目を作りながら、そう述べた。すでにリセラの服には、昨日の夜の間につけていたのだ。 「そう。それは俺も知っている。なんでも、そのタリムという奴は、エルアナフの外の草原で暮らしていたらしいな。エウルを捕まえたり、ピカンの根を掘ったり、雨水をためて飲んだりして、生きてきたらしい。そこをバーナクの花を取りに来た店主が見つけて――あいつはあの飲み物を自分の店でも出そうと、探しに来たらしいが、別のものを出すことになったわけだ」ディーが少し眉をひそめながら、頷いた。 「ディーはエフィオンの力が使えるからなあ。わざわざ話を聞かなくとも、わかるか」  フレイは苦笑して、頭を振っている。 「いや、それでもおまえたちの情報は、役に立つ。それを通じて知る知識もあるわけだからな」 「エフィオンというのは、なんですか?」  サンディはレイニにそっと聞いてみた。 「ああ……それは、なんと言うのかしら、知る力ね。でもミヴェルトと違って、相手の心の思いを知るというのではなく、もっと広範囲の知識――その物事の奥にある事情とか、そういうものを、語られなくとも知る力なの。これは闇と光に属する力ね。ただ、エフィオンの力はその属性でも、珍しい部類よ。持っている人は、五百人に一人いるかいないかくらいではないかしら」 「ただ、どこまで知ることが出来るかというのは、状況次第だな」  ディーも聞いていたのだろう。そう補足した。 「だから、あんたがここに来た事情と言うのも、今なら漠然とはわかる。だが、詳しいことまではわからないんだ」 「でも、もし知っていたら、教えてくださいませんか?」 「それを知って、なんになる?」  一団のリーダーの答えは、少し厳しく響いた。 「あんた自身は何も知らない。覚えていない。そんな状況で、俺がおまえさんの今までのことを……そんなに事細かには知らないが、だいたいの事情を言ったところで、思い出しはしないだろう。他人の話に近い、そんな感覚だと思う。それにたぶん、あんたにはアミカという、忘却の業がかかっているのだろうが、それは半永久的には続かない。だいたい半年くらいで解ける。そうしたら、思い出すだろう」 「あと半年……」 「そう。その時が来れば、あんたの過去は自然と思い出されるだろう」 「わたしが、どうしてここに来たのかも、思い出しますか?」 「いや、それは思い出さない、おまえさんの知識じゃないからな」  ディーは首を振った。「おまえさんをここに連れてきたのは、時の寺院の坊主たちだから、思い出したところで、わけはわかっていないだろう」 「時の寺院……」 「そうだ。この世界の説明は、だいたいレイニがしただろうが、もう少し補足しておこうか。もうこの話は聞きたくないという奴も多いだろうが、今は説明の必要がある。少し我慢してくれ。これきりだ。もうしない」  ディーは水を飲み干すと、周りに頷き、少女に向かって語り始めた。 「この世界には九つの国がある。ここミディアルは他の八つの国のはぐれものたちが築いたものだが、あとの八つは固有のエレメントによって成り立っている国だ。光のユヴァリス・フェ、闇のマディット・ディル、火のフェイカン、風のエウリス・ラウァ、水のアンリール、氷のセレイアフォロス、大地のアーセタイル、岩のロッカデール。アンリールとセレイアフォロスは同じ水のエレメントを持つ兄弟国で、アーセタイルとロッカデールも、土の兄弟国だ。それぞれの国には、そのエレメントの力の源である精霊がいるが、精霊単独では光る大きな球だ。その力を具現化させるために、精霊の意思を発動させるために、巫女が必要になる。巫女といっても女とは限らないが、ともかくレラが強く、子供のような、若い人間だ。その巫女を通じて、精霊は力を国々に行き渡らせ、活用させることができる。ただその巫女は精霊を宿すわけだから、相当な負荷がかかる。平均で三年、そのくらいしか持たない。精霊は巫女が限界に近づいてくると、次を指名する。一人じゃない。だいたい五、六人。それで神官長とその部下たちは――精霊に使える人間たちだな――そいつを連れてくる。四エレメントに関しては――火、水、風、土の六つの国は、その国の中だけで巫女も巫女候補も回るんだが、光と闇に関しては、時に外の世界の者が、候補になることもあるんだ。外の世界にはレラという概念はないが、それに類する力が強いものも、稀にはいるらしい」 「外の世界の……」 「そう。たとえば、あんたの世界のように。よそから連れてこなければならない場合、ユヴァリスにしろマディットにしろ、自分の国にはいないわけだから、時の寺院に依頼することになる。時の寺院があるのは、この世界のはずれである、大いなる深淵のふちにある、狭間の島だ。そこはどこにも属すことなく、外の世界とこことの間を全体に統括している」 「世界のはずれ……?」 「この世界は丸くないんだ。あんたの世界とは違って」  ディーは微かに笑い、少女に向かって告げた。 「世界が丸ければ、ずっと東へ進んでいけば、ぐるっと回って同じ場所に行き着くという。西でも北でも南でも。だがそれは、ここでは違う。東にずっと行けば、大いなる深淵に突き当たる。西も、北も、南も。そこを超えることは出来ない。壁に阻まれたように、そこからは進めなくなると聞く。俺は行ったことはないが。狭間の島は、東の深淵のふちにある。その真ん中に、時の寺院が建っている。そこに唯一、外との連絡路があるという。そこを開くことができるのは、時の寺院の司祭――今は誰だ? サーヴァラス・ラオエィオラか――だけだ。そこから坊主たちが行って、候補を連れてくる」 「じゃあ……わたしが連れてこられたのも……その巫女の候補、なのですか?」 「いや。あんたは、巫女の候補ではないのだろう」  ディーは考えるように軽く頭をかしげた後、答えた。 「巻き添えなんだろうな。その候補の。たまに、そういうこともあるらしい。よけいなおまけがついてくる――まあ、向こうの言い分だが――それで処置に困って、ミディアルに捨てたのだろうと思う。ここはいろいろな人間の、吹き溜まりだからな。あんたもそうだろうが、たぶんあのタリムという男も、そうだ。あの男はたまたまここに連れてこられた時、火起こしだのナイフだのという道具を、持っていたのだろう。それに落とされたのが、草原の中だったから、自力で生きようとしたのだろう。生命力の強い奴だったのだろうな。だが、あんたは何も持っていなかったし、捨てられたのが砂漠の真ん中だったから、そのままだったら死んでいただろうと思う」 「時の寺院の人たちも、自分で手を汚すのは嫌だったのだろうけれど、ひどいわよね。どうせなら、元の世界に返してあげたらよかったのに」  リセラがそこで、ピンクの髪を振りやりながら口を出してきた。 「わざわざそんな手間も、かけたくないんだろうさ。それにその世界への扉は、時空の精霊の導きの力を借りなければ、正確に開くことが出来ない。だから、一度扉が閉じてしまったら、もう一度開くのは無理だろう」 「じゃあ、そうだとしたら、サンディが帰れる可能性は……」  アンバーが驚いたように言いかけ、 「ないということなのかもしれないわね」と、ロージアが首を振る。 「まあ、再びその世界から生贄、いや、巫女候補が出ないとも限らないがな」  ディーは重々しい顔で、再び首を振った。 「わたしは……どうすればいいですか?」  サンディは両手を組み合わせ、問いかけた。 「あんたはとりあえず、どうしたい? 元の世界へ帰る可能性は、あったとしても、少なくとも、あと三、四年はないだろう。ユヴァリスもマディットも、新しい巫女に交代したか、する準備中か、ともかくそのくらいの時期だからな。あったとして次だろうし、それであんたの世界が再び選ばれる可能性は、ゼロではないだろうが、かなり低いだろうと思う。だから、とりあえずそれは選択肢にない。それ以外で、だ」  ディーは厳粛な表情を浮かべて、少女を見た。  サンディは困惑した。元の世界へ帰れない、ということは、元の世界の記憶がない今の状態では、ショックには違いないが、深刻な実感と悲しみは伴ってはいない。しかし、戸惑いは大きかった。少女は目を見開き、一行を見た。 「わたしは、みなさんに助けてもらって、ここまで来ました。わたしには、行くところがないんです。このまま、一緒にいてはいけませんか? わたしにできるだけのことは、します。お願いします」 「俺は、エルアナフまでは一緒に来るようにと、あんたに言った」  ディーが静かに口を開いた。「砂漠の真ん中では、生きるすべはないし、ここは大きな街だ。あんたが俺たちと一緒に来るより、居心地のいい場所が見つかるかもしれない、そう思った。ミディアルは……特にこの街は、年々あんたの世界に近くなってきているようだ。同じ外世界からの同類もいる。まあ、もっともあのタリムという奴は、あんたの世界とは違ったところから来ているように思うが。ただ、あの男と違って、あんたは白ポプルと水だけでも生きていけるようだし、役に立とうと働いていることもわかる。俺の意見では、もしエルアナフでもっといい場所が見つかったら、そこに行けばいい。なければ、別にここにいてもいい。ただそれは、全員の意見が一致したらだ」 「あたしは賛成よ」  リセラが真っ先に声を上げた。他の七人も、あるものは頷き、あるものは「もちろん」と声を上げ、賛同している。 「では、そういうことにしよう。エルアナフを出る前に、あんたが決めてくれ。もしこの街に、あんたを受け入れてくれて、あんたもそこにいたいと願う場所があったら、ここに残れ。そうでないなら、一緒に来てもいい」ディーはそう宣言し、 「はい、ありがとうございます!」  サンディは覚えたての言葉で、みなに感謝を告げた。  翌々日から、エルアナフの第三広場で、一行は興行を始めた。広場の奥に興行車を止め、横についている両開きの扉を開けると、それはひとつながりの舞台のようになった。車内の壁は白く、上部と両扉についた銀色の飾りが効果的な装飾となっている。その上で、一行はいくつかの出し物をした。歌、寸劇、踊り――舞台には、さまざまな色の光や煙がときどき炸裂し、効果を盛り上げる。それはブランの手になる、光玉と煙玉の効果だった。最初に三人の女性たちが歌い、男性たちはそれぞれに、たぶんここでの楽器であろうもので伴奏をする。その一幕が終わると、興行車の前面に灰色の幕が下り、舞台装置が変わって、お芝居が始まる。それぞれが役割を演じ、その幕が終わると、今度は全員で歌いながら踊る。ディーやアンバーは身軽に曲芸技を披露し、ペブルはいわゆる道化役――みなを笑わせるような動作をしていた。レイニは優雅に、ロージアは研ぎ澄まされたように、そしてリセラは軽快に、それぞれの持ち味を生かしたダンスをし、ブルーとフレイはお互いに、戦いのような真似事をしていた。ブランは裏方に徹し、ときどき煙玉や光玉を投げる。そしてサンディは「とりあえず入場料を集める係をしてくれ」とディーに言われ、広場の入り口で、見に来る人々から、一人につき小さな銅貨一枚をもらっていた。  興行は盛況だった。広場がほぼいっぱいになるほどの人がやってきて、みな楽しんでいるようだった。歓声を上げるものや手を叩くものも大勢いた。サンディは毎回、銅貨や銀貨がぎっしり詰まった袋を、一日の興行を終えた一行の元に持っていった。八日間の連続興行が終わった時には、一行にかなりの収入をもたらしていた。 「ここもたくさん人が来てくれて、良かったなぁ」  八日目の夜、第三広場の観客たちがいなくなった場所で、いつものように食事をしながら、アンバーがそう口火を切った。 「本当、大成功ね。良かったわ」  リセラも弾んだ声を上げながら、ポプルをほおばる。 「八日間で、だいたい二千ブエル……上出来ね」  ロージアは微かに微笑みながらも、口調は変わらない。 「これでこの街の興行は、終わりなんですか?」  サンディはそう聞いた。ディーは首を振った。 「いや、もう六日残っている。ただ、これから四日は中休みだ。少しのんびりしよう」  休みの間、一行は湯浴みや洗濯をし、街を歩き、夜は車の中で寝るものと、近くの家の納屋で過ごすものに分かれた。全員が車の中で体を伸ばして寝ることができないが、エルアナフの街では、車の中は良いが、外で寝ることは禁止されているからだ。この納屋は街の有力者の一人が所有しているもので、その人の好意により、毎年興行の時には使わせてもらっていた。  再び始まった六日間の興行、その四日目が始まる前、広場前に数台の車がやってきた。真ん中の一台は大きく、きらびやかな装飾がついていて、城にはためいているのと同じ旗がついていた。広場に集まり始めていた人々から、微かにどよめきに似た声が上がった。 「王様だ――」 「王様がお見えになった――」  人々からいつものように入場料を集めていたサンディも、目を上げた。緑に塗られた何台もの車の中から兵士たちが降りてきて、道を作るように整列し、そして中央の大きな車の扉が開くと、やや恰幅のいい人物が降りてきた。その人はくるっと巻いた白い髪を耳のあたりで揃え、灰色の瞳の、ミディアルでは良く見る人間と、そう変わらなく見えた。金色のふち飾りが入った紺色の上着に、同じ紺色のズボン。王様で想像したような王冠はかぶっていず、マントも着てはいない。腰には兵士たちのように、長い剣のようなものを下げていた。そのあとから、薄い茶色の髪を形よく結い上げた女性が降りてきた。その女性の目は淡い茶色で、色は白い。彼女は、左半身は薄緑、右半身は薄いオレンジのドレスを着ていた。あとから、二人の若者が続く。二人とも髪は白く、目は薄い灰色で、年の頃は十代後半くらいだろう。最後に、サンディよりも若いだろうと思える少女が降りてきた。彼女の髪と目は母親のような淡い茶色で、花の装飾がたくさんついた、淡いピンクのドレスを着ている。  先頭の男性はその家族らしき四人を引き連れ、大またに進むと、入り口で立ち止まった。 「おや、新入りだね」  彼はサンディに目を留め、微かに微笑みを浮かべる。 「あ、はい……」  サンディは顔を赤らめ、その場に深々とお辞儀をした。 「君はまだ、舞台には出ないのかい?」 「あ、はい……まだ……」 「これはアヴェルセイ国王。ようこそ、いらっしゃいました」  興行車の後ろからディーが出てきて、軽く頭を下げ、腕を曲げてお辞儀をした。 「ああ、ディーバスト君。今回の興行は今まで以上に素晴らしいという評判を聞いて、みなで見に来てしまったよ」 「それは光栄です。お気に召せばいいのですが」 「ああ、楽しみにしているよ」  王は家族と兵士たち、そして数名のお付きらしい人々を引き連れ、広場を進んで、舞台の正面まで来た。みなは立って見ているのだが、同行の家来たちは王族たちの椅子を持参してきているらしく、それを地面に据え付け、王とその家族は腰を下ろす。そして家来の一人が、「王からのご祝儀だ」と、金貨を一枚、サンディが持っていた袋に入れた。  国王一家は興行に満足したようで、見終わるとねぎらいと賞賛の言葉をかけ、再び車に乗って帰っていった。   「王様も見に来るなんて、本当にびっくりしました」  その夜、夕食の時、サンディは思わず感嘆の声を上げた。 「ああ、エルアナフの興行には、たまに来るんだよ。毎年じゃないが、去年も来た。だが、ちょっと緊張するな、いつものことながら」  フレイが軽く首をすくめ、苦笑気味の笑いを浮かべた。 「いつ来るかわからなくて、不意打ちを食らうのは、やめてほしいな」  ブルーむっつりした顔で、同じく首を振る。 「でもご祝儀を弾んでくれるし、王様が見に来られることで評判も上がるから、ありがたいわよ」リセラは笑い、微かに頭を振る。 「一緒にこられた方は、王様のご家族なんですか?」 「そう。アヴェルセイ国王とサヴァイラ王妃、ティルムス王子とアトライ王子、それとミレア王女ね」  サンディの問いかけに、レイニが微笑んで答えてくれた。 「王様も、色が抜けていらっしゃるんですね」 「ある意味、ミディアルの象徴とも言えるわね」レイニは小さく笑う。 「もともと、初代のダリンポミエ国王は土と火のディルトだったけれど、それから三代目までは、色が抜けないよう、同じ土や火のエレメントの人としか、結婚しなかったようなの。でも、四代目国王が選んだ王妃は、土と水のディルトだったわ。だから生まれた子供四人のうち、三人が色抜けしたの。抜けなかった一人、エレイア女王がそのあとをついで五代目になり、土と水のディルトの人と結婚したけれど、生まれた子は全員色が抜けた。その長男が先代王で、アヴェルセイ国王の父親よ」 「ミディアルはもともと色抜けだらけの国だから、王族も色つきにこだわる理由ってのが、よくわからなかったけどな」フレイがそう言い 「ようは一般庶民と一緒というのが、嫌だったんだろうさ」と、ブルーが受ける。 「ミディアルの王なら、さっさと色が抜けた方が、その象徴らしい気はするけどね」  アンバーは首を振り、そんなことを言った。 「王族のプライドって言うものが、あったんじゃないの?」  リセラが小さく首をすくめて笑う。 「ああ、まあそうなんだろうな。だから四代目の結婚の時には、かなり反対されたと聞くが……今の国王は、色抜けであることに恥じてはいないと言っているな。かえって、ミディアルの人々と同じであるのが、うれしいと」  ディーの言葉に、ブランがぼそっと付け足した。 「でもそれは、建前かもしれないな」と。 「それでなかったら、王妃に色がまだ抜けていない人を選ぶというのも、理屈に合わない。あわよくば子供の代で復活させようとしているのかと思うよ。実際ミレア王女は少しだけれど、色が戻ったしね」 「ミディアルの王族が色をありがたがると言うのは、どうかと思うわ。もともと色抜けの人たちが多い国なのに」ロージアは、理解できないと言った表情だ。 「そうよね。じゃなかったら、ミディアルの王は基本長男が継いでいっているっていうのに、色抜けの長男を差し置いて、色つきのエレイア女王が五代目に即位したのは、変よね。その理屈だと、次はミレア王女ということになるのかしら。二人の王子がいるのに」  リセラが首をかしげながら、同意する。 「さあな。次はティルムス王子なのかミレア王女なのか……まあ、俺たちにはあまり関係がないが」ディーは飲んでいた水のボトルを置いた。 「ともかく、興行はあと二日で終わりだ。その次の日は結婚式の余興……まあ、それから五、六日いて仕事がなければ、次へ行こう」 「あの……わたしは……」  おずおずと言いかけたサンディに、リーダーは微かに笑いかけた。 「今のところ、いい働き場所は見つかっていないようだし、もしここを出るまでに見つからなかったら、一緒に来てもいい。ただ、今の舞台はもう出来てしまっているから、あんたの出番はないな。だから、今年いっぱいは入場係でいいが、来年からは何がしかで出てもらうぞ。そのために、歌や踊りを練習してもらうことになるが」 「はい」少女は頬を微かに紅潮させて頷いた。 「この次は港町ディスカだから、そう距離はないのよ。二日くらいでついてしまうわ」  リセラは軽く頭を振って笑った。「エルアナフほど大きな町じゃないから、興行も二日くらいしか出来ないでしょうけれど、港に仕事があるから」 「まあ、でも、まだあと一シャーランはエルアナフにいるけどな」  ディーの言葉に、サンディは最初にレイニに聞いたことを思い起こした。 「一シャーランは――八日なんでしたっけ?」 「そうだ」 「仕事がなきゃ、さっさと次に行ってもいいんじゃないか、ディー? ここの見物も休養も、興行の間の四日で充分だったしな」  ブルーが怪訝そうな口調で、そんな提案をする。 「でも実入りが良かったから、のんびりするのも悪くないぜ」 「いや、俺はどうも、この町はざわざわしすぎて嫌いなんだよ」 「エルアナフの雰囲気は、わたしも好きじゃないわ」  ロージアが少し眉間にしわを寄せて、首を振った。 「それはたしかに否定はしないが……」  ディーは空を見上げた。そこにまた、黒い小さな影が飛んでいく。彼は微かに眉をしかめ、首を振った。 「なにか気になることがあるの?」  レイニが微かに首をかしげ、そう聞いた。 「いや……」ディーは再び首を振る。 「でもあれって、何かな?」アンバーも空を見ながら、首を傾げた。 「小さな黒い鳥……いや、もっと高いところを飛んでいるから、小さく見えるのかな」 「ここでは鳥は、夜には飛ばないものだよ」ブランが再び言った。 「マディットにはいるがな。夜飛ぶ鳥が」  ディーは苦笑し、そう訂正する。 「でも、たしかにミディアルにはいないはずだ。それなのに、時々見る……」  一行はつられるように、みな空を見上げた。黒に近い灰色の空に、街の灯りのため、ほとんど星は見えない。月は相変わらず丸いが、位置は少しずつ南側に傾いているようだ。でももう、動く影は見えなかった。 「まあいい。みながそう言うなら、仕事がなければ一日休養日を置いて、次に行こう」  ディーは再び頭を振り、思いきったような口調で告げた。  エルアナフでの興行日程をすべて終えた翌日は、街の金持ち一家の婚礼――新郎の方は王のまた従兄弟で先々代女王の子孫らしく、新婦の方は町で大きな工場を経営している男の娘だった。婚礼は第一広場――街の中心にもっとも近く、王宮にも近い――で行われ、さまざまな色が入ったドレスを着た花嫁と花婿、大勢の参列者達の前で、一行はお祝いの歌を歌い、踊った。そこで銀貨三五枚の報酬をもらうと、その翌日、一行は二日前まで興行していた第三広場に一日留まり、仕事の依頼を待った。お昼の四カルを過ぎるまでは何もなかったが、その後、男が三人やってきた。 「蜜花を取ってきてもらいたいんだ」  真ん中の男が代表して、依頼を切り出してきた。 「あんたたちも知っていると思うが、このエルアナフの北にあるエラモス山に生えている花で、崖ぎわとか危ない場所にたくさんあるんだ」 「ああ……でも蜜花を取るための装置が、出来たんじゃなかったか?」  ディーが少し怪訝そうな顔で、そう問い返す。 「そうだ。二年前の秋に、高いところまで届いて摘める機械ができた。だからあんたたちの力を借りなくとも、大丈夫だったんだが……」 「故障したのか?」 「ああ……というか、壊れたんだ。前節の、ビスティの始めの頃に」 「壊れた?」 「そう。なんだか黒い大きな鳥のようなものが、ものすごいスピードで飛んできて、装置の腕の部分をぶっ壊していった。今修理中なんだが、直るまでには、あと二シャーランくらいかかる。だが、あと三日くらいで、街にある蜜花の蜜が、底をつきそうなんだ。そこへあんたたちが来たから、天の助けだと思ってね」 「黒い鳥……?」 「ああ。よくわからないが、そんなようなものだ。このくらいの……」  男は両腕を広げた。「いや、もっともっと大きいな」 「鳥が金属の装置を壊すのか?」 「いや……だから、厳密には鳥かどうかは、わからないが……」 「エラモス山にそんなものが住んでいるとは、聞いた事がないな」 「私たちも、何がなんだかわからないさ」  男たちは当惑した表情で、首を振っていた。「だから……そう。もしあんたたちが蜜花を取りに行く時、そいつが出てきたら、ついでに退治するか、追い払ってくれるとありがたいな。もしそれが出来たら、礼ははずむよ。装置を修理しても、もしまた出てきたら、厄介だからな。それに、いつそいつが出てくるかわからないから、みんな怖がって、低いところに生えている蜜花も、なかなか取れないんだ」 「わかった」ディーは頷いた。 「明日、取りに行ってみよう。二日くらいはかかるかもしれないが」 「頼んだよ」男たちはほっとしたような顔をした。 「報酬は、出来高払いでいいかい? 戻ってきてからで」 「そうだな。でも、こちらもエラモス山まで行くわけだから、その間の食費くらいは欲しい。前金で十ブエルぐらい入れてくれたら、ありがたいが」 「わかった。では頼むよ」  真ん中の男が財布から銀貨を十枚取り出し、渡した。 「蜜花採取は、一昨年は、やっていたけれどね」  依頼を聞くと、リセラがそう口火を切った。 「ああ。でも去年は良い機械が出来たからいいって、言われたっけ」  アンバーが首を振って言い、 「まあ、蜜花取りは翼もちががんばってくれればいいがな。俺は見てるだけだ」  ブルーが水を飲みながら、首を振っている。 「ええ? 僕らだけに任せないでおくれよ。ミディアルの人たちがやってるんだから、できないことはないんじゃないか?」 「俺は崖をよじ登ったり、山に登ったりは嫌いなんだよ、アンバー。それに俺は、高いところは苦手なんだ」 「でも途中までは、一緒に登ってくれないと困るわよ、ブルー」  リセラが首を振りながら、からかうように笑う。 「あたしたちが摘んだ花を集めて、下に持って行ってくれなければ」 「そうだ。そのくらいはやれよ、文句言ってないで。俺らもそのくらいは協力しないとな」  フレイは軽く小突いていた。 「やれやれ。摘んだ花を下へ運ぶのだったら、ペブル一人でできるだろうが」 「ペブルはいつものように、車の見張りに残ってもらう。ペブルとブランはな。あとは、とりあえず全員来い。高いところは翼もちが取るが、手の届くところにも生えているだろう。しばらく採れてなかったのなら、かなりあるだろうからな」  ディーが断固とした調子で告げた。 「そうよ。摘んだ量によって報酬が変わるのだから、飛べないわたしたちも、行って協力しなければ」ロージアが冷静な口調で、言いそえる。  翌日、一行はエルアナフを離れ、エラモス山へと向かった。ふもとまでは車で行き、木の陰にその三台の車を止めると、ペブルとブランをそこに残し、残る八人は山を登り始めた。金銭はロージアが金貨に換え、袋に入れて肌身離さず持ち歩いているが、それ以外の水や食料、道具などは車に置いてあるため、万が一盗られたりしないよう、離れる際には見張りを置いているのだ。見張りにはたいてい、ペブルとブランが選ばれていた。前者は力が強く、もし相手が力づくできた場合でも撃退できるのと、消費エネルギーが大きいために、できるだけそれを消費しなくてすむようにと言う理由で、後者の方は、エレメントの力はないものの、感覚が鋭く、気配に敏感なためだ。  山を登りはじめて三カーロンが過ぎた頃、一行は蜜花の密生地へついた。山肌が高い崖になって切り立ち、その岩肌や棚状に張り出したところに、小さな黄色い花が群生している。地面や下のほうの斜面にも、ちらほらと花があった。  八人のうち、翼を持つ三人以外は、手の届くところの蜜花を摘み、持ってきたカゴの中に入れた。アンバー、ディー、リセラの三人は翼を使って崖の上に飛び上がり、岩肌や棚岩の上の花を摘む。腕いっぱいになったところで、彼らはそれを下へ投げ落とし、下にいる五人がそれを拾い集めてかごに入れる。そうして日が天頂を過ぎて傾き始める頃には、大きなカゴに八分目くらいの分量の黄色い花が溜まった。 「もうこのあたりの、手の届く範囲は採っちゃったわね」  リセラが張り出した棚の上に座り、周りを見回した。 「そうだな」ディーも頷く。 「あ、でもこの崖の上にも、あるんじゃないかな」  アンバーが岩棚の上に立って見上げながら、指をさす。 「相当高いぞ。俺もそこまでは飛べない」 「あたしも」リセラは首をすくめ、黄色い髪の若者を見た。 「あなたはどう、アンバー? あそこまで行ける?」 「大丈夫。それに、山にはたいてい、上に向かう風が吹いているからね」  アンバーは再び翼を広げ、空中に浮かび上がった。 「気をつけろよ!」  ディーがその後姿に向かって呼びかけた。 「平気平気!」  そんな声が返って来てまもなく、その姿は崖の頂上に消えた。やがて興奮したような叫び声が聞こえた。 「すごい、この上、蜜花がいっぱいだ!」 「じゃあ、摘んで下に投げてくれ!」 「わかった!」  そんな声がしてからしばらく後、アンバーが崖のふちに現われ、腕にいっぱい抱えていた黄色い花を投げ落とした。それは黄色い雪が降ってくるように、ひらひらと長い崖を落ちていった。 「おお! これでカゴいっぱいになるかもしれないな!」フレイが声を上げ 「腰が痛いが……」  ブルーが文句を言いながら、地面に散った花を集める。  ロージア、レイニ、サンディも新たに降ってきた花を拾い集めて、かごに入れていた。アンバーはもう一度崖の奥へと引っ込み、やがてまた黄色い雨を降らせる。  それを三回ほど繰り返した時、空の向こうに突然、黒い小さな点が現れた。それは見る間に大きくなり、一直線に崖の上めがけて飛んでくる。鳥のようだった。流線型の黒い鳥――。 「アンバー、危ない、伏せろ!!」ディーが叫んだ。 「わ、なんだ、これ!!」  アンバーは慌てたように声を上げ、摘みかけの花を落として、花畑の中に倒れこんだ。その鳥はいったん上を飛びすぎ、そしてまた急展開をして、今度は降下を始める。それは、恐ろしく早い動きだった。 「危ない!」  ディーは目を見開き、そして鋭い動作で右手を振った。その腕から、黒く細い矢のようなものが飛んでいき、アンバーをめがけて急降下していたその鳥の胴体を貫いた。それは鋭い悲鳴を上げ、花畑の中に落ちた。人の背丈の半分を超えるような、黒い鳥だった。その胴体には大きな黒い穴が開き、一瞬で絶命したようだ。  アンバーはよろよろとした動作で起き上がり、目を見開いて、目の前に落ちてきた巨大な鳥を見つめていた。そして大きなため息を吐いた。 「ああ……驚いた。死ぬかと思った……」 「そいつを下に落としてくれ、アンバー。それから、おまえももう降りてこい。リルもだ」  ディーが岩棚から飛び上がり、翼を広げて地面に下りながら命じた。 「これに触るの、嫌だなあ……」  アンバーは何度かためらうような動作を見せた後、黒い鳥に手を触れて、そのまま押し出すように下へ落とした。自分も翼を広げ、地面に向かって降りていく。同じようにリセラも途中の岩棚から降りてきた。  鳥がドスンと下へ落ちると、その周りにいた五人も慌てて避ける。そして降りてきた三人ともども、それを覗き込んでいた。その鳥は全身が黒く、翼は大きく、くちばしは鋭く尖り、曲がったつめも長く、研ぎ澄まされていた。羽根ははえていず、全身を覆っているのは、うろこのような黒い小さな突起だった。ディーが手を伸ばし、その閉じた目を開かせると、その下の目は赤かった。 「ラーセラスだな、やっぱり」  彼は深い息を吐き出すように言った。 「それって……なんだい?」  アンバーがまだ驚きがさめない様子で聞く。 「マディットにいる鳥だ。夜に飛ぶ鳥の一つ。そして、偵察鳥だ」 「偵察って……なんの?」 「こいつは使い手との間に、精神的な情報伝達が出来る。だからマディットの上層部が、よく情報収集に使っているんだ。自分が出かけなくとも、こいつが見たもの聞いたものを、知ることが出来るから。そして使い手の指令を伝えられる。おまえを襲ってきたことからも、前に蜜花の採取機をぶっ壊したことからも、どうやら蜜花の採取者を攻撃せよ、という指令が出ていたのだろうが……」  ディーはその鳥の翼を片手で持ち、ひっくり返しながら答えた。 「でも……その鳥がなんで、ミディアルにいるんだ? なんで蜜花採取の邪魔をするんだ?」  フレイが、やはり驚きの表情で鳥を見つめながら、問いかける。 「夜に見た黒い影も、こいつだったんだろうね。でもたしかに、なんでだろう……」  アンバーは首を傾げ、思い出したように言い足した。 「そうだ。ディーにお礼を言っていなかった。ありがとう、助けてくれて」 「いや、そんなことは当然だ。礼を言うまでもない」 「久々に見たわね。ディーのパルーセ。相変わらずの威力だわ」  リセラは感嘆したように、両手を合わせていた。 「あれは……矢のように見えたけれど、実際にはないんですよね」  サンディが聞く。 「そう。あれは闇属性の、攻撃のレラ。パルーセという術ね。私たちで攻撃レラを持っているのは、ディーとペブルとフレイ、それにロージアだけなのよ」  レイニが頷いて、説明してくれた。 「まあ、俺のは弱いけどな。でもディーのは、相当強力だ」  フレイが少し苦笑して言い足している。 「とりあえずこいつを退治できたんなら、証拠にどこかを持っていけば、報酬に上乗せされるんじゃないか? ディー」 「いや、ブルー。無理だ。もうそろそろ、消えるだろう」 「消える……? 早くないか?」  ブルーとフレイが、同時に言いかけた。その目の前で、鳥は少しずつ解け始めていった。それは何ティルかの間に、黒いドロドロとした液体となり、さらに黒い煙となって、消えていく。 「せっかくの証拠が、なくなってしまったわね」  ロージアは、少し残念そうな表情を浮かべた。 「それはたしかだけど、でも、不思議じゃない? フレイが言ったみたいに、なんでマディットの偵察鳥がミディアルにいるのか」  リセラは首をかしげ、怪訝そうな表情になっている。。 「ミディアルの人がマディットに行って持ってくるとも、考えにくいでしょうしね」  レイニも不思議そうに、首を振る。 「は、それはないな。ラーセラスはかなり強い闇のレラがないと、使いこなせない。ミディアルの連中に、そんな力のある奴はいないだろう」  ディーは首を振った。 「マディットからミディアルに来る奴はいるだろうが、逆はないだろうしな」  ブルーがそう付け足す。 「まあ、ともかく日が暮れる前に山を下りよう」  ディーは話を打ち切るように告げた。山の中で夜になるのを避けたい一行は、蜜花でいっぱいになったかごを持って、下山した。  翌日、エルアナフに戻った十人は、カゴいっぱいの蜜花を依頼者に渡し、その報酬をもらった。その時、ディーは依頼者たちに告げた。 「とりあえず、あんたたちの機械をぶっ壊した黒い鳥は倒した。ただ、すぐに消えたから証拠は持ってこられない。だから、その報酬はいらない。信じる信じないも、あんたたちしだいだ」と。 「おお! それなら、機械が直ったら、もう妨害されることはないのか?」  男たちは半分信じられないような、半分は喜びをにじませた口調でそう問い返した。 「あいつ一匹だったら、そうだろうが……保証はできないな」  ディーはそう答え、蜜花だけの報酬をもらって、それをロージアに渡した。 「倒したことは間違いないのだから、証拠はなくても、少しくらい上乗せをもらっても良いかもしれなかったわね」と、彼女は言ったが。 「あの男たちに言ったように、あいつ一匹と言う保証はないからな」 「どういうことなの?」  ロージアが懸念の表情を浮かべて、そう問い返す。 「いや……なんだか、あまり良い予感がしないんだ」  ディーは空を見上げ、少し眉根を寄せて、首を振った。 「マディットの連中は、今までミディアルには無関心だった。掃き溜めの国と軽蔑して、無視していた。だからある程度、安心できたんだが……」 「マディットの偵察鳥がミディアルに入っているということは、マディットがここに興味を持っている、ということなのかしらね」  レイニも気遣わしげに問いかけている。  マディット――マディット・ディル。闇の力の精霊が支配する国。ただ、闇と言っても悪ではない。昼と夜のように、光の精霊の国ユヴァリス・フェと一対のもの。他の地方のように昼と夜の長さが同じではなく、二割ほど夜が長いが、昼間もある――戒律は厳しく、上下関係も厳しい国ではあるが栄えていて、国民たちは満足している。一行の会話を聞きながら、かつてレイニがそう説明してくれたことを、サンディは思い出していた。すでに彼女はほぼ通訳なしで、言葉を解することが出来るようになっていたのだ。 「距離的にはたしかに、アーセタイルと並んで、マディットは近いんだがな、ミディアルとは。だが、ラーセラスと情報共有するには、少し距離がありすぎる」  ディーは考え込むように黙った。彼はそこの国の出身だという。 「それに、連中がここに興味を持つ意味が、俺には良くわからない……」  彼はしばらく沈黙したあと、ロージアに向かって告げた。 「悪いが今日中に、稀石商のところへ行って、金貨二、三枚以外、残りを稀石に替えてきてくれ。そして明日休養したら、その次の日にはここを出て、次へ行こう。港町ディスカに」 「ええ、わかったわ。でも稀石に換えるのは、どうして?」 「ミディアルの通貨は、ミディアルでしか使えない。でも稀石なら、他のところでも通貨に換えられる。それにミディアルには、全部の種類の稀石がある」 「え? どういうこと? ミディアルを出るって言うこと?」  リセラが驚いたように声を上げた。 「ええ? でもミディアルを出て、どこへ行くんだよ、ディー!」  男性陣五人が、異口同音にそう叫んだ。 「いや、ミディアルを出たいわけじゃないさ。出来るなら、このままここにいたいがな」  ディーはエルアナフの町の中心に建つ王宮に、目をやった。 「万が一のための備えだ。ミディアルでも、稀石は通貨に換えられる」 「わかったわ。今から行って、換えてくる」  ロージアは固唾を呑んだような表情で、頷いた。いつものように、ペブルも護衛のためについている。ロージアは一行を振り返り、言い足した。 「でも、それが必要なければいいわね」  その言葉に、全員が頷いたように見えた。  洗濯や買い物を終え、休養も取った一行は、その次の朝、エルアナフを出発する準備をしていた。その時、二人の男が広場に駆け込んできた。一人の顔には、見覚えがある。この街で、バーナクという花と蜜花を混ぜた飲み物を売っていた、飲食店の店主だった。 「おお、まだいてくれた! 出発はちょっと待ってくれ。頼みたい仕事があるんだ!」 「仕事?」  二台目の、荷物を入れている乗り物に敷物を畳んで入れようとしていた一行は、その言葉に手を止め、ディーが代表してそう問いかけた。 「ああ」男は赤い顔をして、息を弾ませながら頷く。 「受けられるかどうかは、ものによるが……どんな依頼なんだ?」 「バーナクの花の……」  男はそう言い、少し言葉を切ったあと、早口に続けた。 「いや、取ってきてくれと言うんじゃない。それ自体は、少し距離はあるが、平原にある花だ。ああ、いや、もし見つかったら一緒に持ってきてほしいが……そうじゃない。それをとりに行った連中が、戻らないんだ。だから、探してほしい」 「人探しは時間がかかるから、あまり引き受けたくないな」  ディーは微かに眉根を寄せた。 「いや……連中は勝手にどこかへ行ったりしないと思う。最初から言う。聞いてくれ。一昨日の昼、私ともう二件の店の、バーナクの飲み物を出しているところの店主たちが、それぞれの店の人間を、バーナク摘みに出した。うちからは二人、もう一軒も二人で、三軒目は一人、都合五人だ。連中は駆動車付きの車で、花を摘みに出かけた。ここから二カーロンもあれば着ける場所だ。連中は、昼の五カルに出発した。だから夜になるまでには帰ってくると思っていた。ところが帰ってこなかった。次の朝になっても。それで昨日、もう四人送った。そこへ行って見てきて、ついでに花を回収して来いと。それが昨日の朝だ。昼の三カル前のことだ。でも今になっても、そいつらも帰ってこないんだ」 「つまりバーナクの花をとりに行った九人が、誰も帰ってこないと」  ディーは眉根を寄せたままで、険しい口調になっていた。 「ああ」店主ともう一人の男は、気遣わしげに頷く。 「それで、俺たちにどうなったか、様子を見てきてほしいと言うわけなんだな。あまり、良い予感はしないが」 「あんたたちは腕っ節が強いから、何かあっても、きっと帰ってこられると信じている。蜜花の化け物鳥も倒したって言うじゃないか」 「だが、あまりに危険が大きかったら、俺たちでも無理かもしれない。その場合はその場を逃げて、何があったかだけを報告する感じになるが、それでもいいか?」 「ああ、やむをえない」男たちは頷いた。そして一人が付け加える。 「だが可能なら、出来るだけ助けてやって欲しいし、花もできたら持ち帰ってほしい。もちろん、報酬は弾む」 「あくまで、可能だったらな。それでもいいなら……あんたたちの荷車を一台貸してくれ。それから、前金で五十ブエルほしい。人や花を持ち帰れたら、帰った時に、その分を上乗せということで、それでいいなら、引き受けた」 「ああ」  二人の男は頷き、金貨を三枚と銀貨を五枚渡した。 「荷車は、うちの店に来てくれたら、渡す」  最初に見た店主でない男の方が、そう言い足した。この男もきっとバーナクの飲み物を出している別の店の主人なのだろう。 「場所は?」 「ダーベリック通りの六区画にある、『紫の煙亭』と言う店だ」 「わかった。それと、九人が向かったという、バーナクの花の生息地を教えてくれ」 「ここから東に四十キュービットほど進んだ、サラヴィオ草原の中に生えている。見通しの良い場所だ」 「わかった」  ディーは遠くの王宮の塔にある、時間表示に目をやった。 「昼の三カル半には、出発できるだろう。とりあえず、夜までに戻る予定だ」 「それにしても、九人誰も戻ってこないなんて、何か良くないことがあったとしか思えないわ。大丈夫かしら」  男性陣が荷車を取りに行き、戻ってくると、リセラが懸念を隠せない表情で、首を振った。 「もしかして、エラモス山で襲ってきてみたいな鳥……なんて言ったっけ、あれ……それが他にもいて、襲われたとかかな」  アンバーが首をかしげて、怪訝そうに言う。 「ラーセラスだな。それは俺も考えた」  ディーが借りてきた荷車を最後尾に連結しながら、頷いた。 「そういや、一匹だけとは限らないって、言ってたなあ、ディー。ミディアルの連中じゃ、あれに襲われたら、ひとたまりもないだろうな。蜜花は、壊されたのは機械だけだったらしいが」フレイが首を振って言い、 「その時はそうだったのだろうが、この間は明らかにアンバーを襲ってきたからな。まあ、機械がなかったからなのかもしれないが」  ブルーが同じく首を振って、付け加える。 「バーナク採取も、機械は使わないからね。だから人間なんだろうか」  ブランがふっとため息を吐いた。 「とりあえず、一度街の外へ移動しよう。最初にここに来た時にいた場所へ……そこで荷物車と舞台車を外して、居住車の後ろに、この荷車を連結する。ペブルとブランは、いつものように見張りをしてくれ」  ディーの言葉に、一行は頷いて、街を後にした。  荷物車と舞台車の見張りにペブルとブランを残し、残る八人は出発した。三台の駆動車に三人ずつ――サンディはレラを持たないので引っ張ることは出来ないため、残る七人でかわるがわる引っ張りながら、東に向かって進んでいく。一行は西側から来たため、東側の地域は、サンディには初めてだった。エルアナフの町が遠ざかるにつれ、岩と茶色い大地が広がり、そこを抜けると、草原地帯に出る。その向こうに、山の連なりが見えた。聳え立つほどではないが、かなりの高さだ。 「あれはレイボーン山脈よ」レイニがそう説明してくれた。 「ミディアルの中央、東側よりにある山脈なの。あそこを超えるのは大変だから、人はみな海沿いを通って、東側に出ている感じね。私たちのルートもそう。ずっと海沿いに山を回りこむ感じになるのよ」 「そうなんですね」  サンディは頷いて、行く手に青く見える山々を眺めた。 「今回は、そこまでは行かないがな」ディーが振り返り、告げた。 「そろそろサラヴィオ高原だな」  彼は幌の入り口を開けて顔を出し、引っ張り手の三人に声をかけた。 「フレイ、ブルー、アンバー、そろそろ目的地が近い。気をつけて進んでくれ。アンバー、何か見えるか?」 「いや……」  黄色い髪の若者は目の上に片手をかざし、草原を透かすように見ていた。 「今のところは、何もないなぁ」 「そうか。周りを良く見て、気をつけて進んでくれ。何か見えたら、教えてくれ」  ディーは再び居住車の中に戻り、 「わかった」と、アンバーは頷いている。  それから十ティルも進まないうちに、アンバーは声を上げた。 「なにかある! 荷車みたいだ。何台か……それに、他にも……」 「どこだ?」ディーが再び幌から顔を出し、問いかけた。 「あっちの方だ」アンバーは中央より少し左側を指し示した。 「もう少し進めば、たぶんみんなにも見えると思う」 「アンバーさんは、目が良いんですね」サンディは少し感嘆して言い、 「あの子は、ほぼ風の民だからね。『鳥の目』なのよ。普通の人の三、四倍遠くを見ることが出来るの」リセラがちょっと笑って答えていた。    それから数ティルほど進んだ時、再びアンバーが声を上げた。 「うわ! ひどいな……あれ、みんなは見ないほうが良いかもね。特に女の人は」  その頃には、他のみなにも荷車らしき小さな黒い影と、草原に散らばる黒っぽいものが小さく見えてきていた。 「たしかにな……」  ディーが幌から半ば身を乗り出し、前方をにらんだ。 「うおぅ、なんだか嫌な予感がするな。見たくねえ」  フレイが顔をしかめ、うなるような声を出す。 「おまえは血に弱いからな。柄にもなく」と、ブルーが言い 「柄にもなく、は、よけいだ」と、こんな場でも、フレイは反論する。  それは何人もの男の、命の抜けた残骸だった。三台の荷車にはしおれたバーナクの花が摘まれ、そのうちの一台はひっくり返って、周りに紫の花が散らばっている。ただ荷車自体に損傷はなく、そのかわり男たちの体には、大きな穴が開いていて、そこから濁った白い液体が飛び散っていた。二人ほどは、頭が破裂したようになくなっている。  ディーは居住車から飛び降り、地面に降り立った。そして翼を広げて空中に飛び上がり、俯瞰するようにその光景を見た。 「一、 二……三……四」  どうやら彼は、草原に散らばった男たちの人数を数えているようだった。ディーはやがて頷いて地面に降りると、翼を畳み、頭を振った。 「どうやら九人全員いるようだ。最初に行った五人と、後から来た四人。傷み方に差があるから、そうなんだろう」 「しかし、ひどい匂いだな」フレイが鼻をつまんだ。 「おまえは鼻が大きいから、よけいだろうな」ブルーは軽く鼻を鳴らす。 「うるせえ、大きいんじゃない。高いんだ」  フレイは鼻から手を離して叫び、慌ててまたつまんでいる。 「でも、命がなくなったら、溶けるはずなのに。かなり時間がたっているのに……」  アンバーが少し顔をしかめながらも、不思議そうに言った。 「ミディアルの人間は――特にエルアナフの住民は、不純物が多いからだろう。レラもない状態で、ポプル以外のものも食べているわけだからな」  ディーが眉を寄せながら、少しだけ首を振った。 「彼らをこんな風にしたのも、あのラーセラスという怪鳥なのかしら」  ロージアも眉をひそめながら、懸念をにじませた口調で言う。 「たぶんな。この穴の開き方はそうだ。頭のないものは、そこをつつかれたんだろう。ミディアルの人間には、どうしようもなかっただろうな」  ディーは頭を振り、ため息をついた。 「この人たちは気の毒だけど……積んで帰るの、なんだかあまり気が進まないな」  アンバーが少し身震いながら言い、 「俺もそうだが……でも、つれて帰る約束なんだろ?」  フレイはぞっとしたような表情を浮かべている。 「ああ。だから荷車を借りたんだ」 「それでか。じゃあ、あんたはこの事態、わかってたのかい、ディー?」  フレイが聞いた。 「最悪、その可能性はあるだろうと思ってな。九人全員が帰ってこないというのは、全員が帰ってこられない状態にある、と考えるのが普通だ。ただ……」  ディーは言葉を止め、空を見上げた。 「問題は、攻撃者がどこに行ったか、わからないことだ」 「ああ、エラモス山の奴は、三日前にディーがやっつけたんだから、別のだろうし……でも、またパルーセでやっつければいいんじゃないか?」 「二、三匹なら、それもできるがな」 「またどこからか現われないように、気をつけて見てなくちゃ」  アンバーが空の彼方に目を凝らすように、見上げた。 「ああ。じゃあおまえは、周りを見張っていてくれ、アンバー。ブルー、フレイ、それに女たちも大丈夫なものは、手を貸してくれ」  ディーは男たちのほうへ近づき、リセラとロージアも居住車から降り立って、草原へ踏み出した。異臭にひるんだのか、片手で鼻をつまみながらだが。 「うー、俺は嫌だなぁ」  フレイは顔をしかめながら、おっかなびっくりという風情で進み、 「情けない。リルやロージアですら、来ているのに」と、ブルーが鼻を鳴らす。  最初の男の残骸を一行が持ち上げかけたところで、アンバーが声を上げた。 「あっ! あれは、なんだろう?!」 「何か見えたのか?」  みなは手を離し、ディーが代表して問いかける。 「ああ。なんだか、大きな影のようなものが」 「え?」一行はその場に立ち止まり、その方向を見た。 「あの鳥か?!」ブルーとフレイが同時に叫んだ。 「いや……わからないけど、でもそれだったら点に見えるはずなんだけれど、広がっているんだ。雲のように……」  アンバーは目の上に手をかざしながら、山の上の空を見つめていた。 「そうだ……まるで、黒い雲みたいだ。それがすごい速さで、山を越えようとしている」 「なに?」  ディーが険しさを含んだ声を上げ、彼もまたその方向に目を凝らしていた。  やがて山の彼方に、薄い黒雲のようなものが現われた。それをしばらく見ていたディーが、やにわに顔色を変え、声を上げた。 「みんな、居住車に戻れ! 早く!」 「え?」  草原にいた仲間たちは一瞬怪訝そうな顔をしたが、その表情と声に、ただならぬものを感じたのだろう。全員が走って、居住車の中に飛び込んだ。 「幌を閉じろ! 動くな! 誰も音を立てるな!」  ディーが押し殺すような声で命じ、ブルーとフレイが慌てた動作で幌の入り口を閉める。そして全員が居住車の中でうずくまった。  やがて、小さな無数の羽音のようなものが聞こえてきた。それはだんだん大きくなり、その音量がやがて最大になると、また遠ざかっていく。その音が消えかけた頃、ディーがそろそろとした動作で幌をあけ、外を覗いた。 「なんとか大丈夫だったようだ……」 「あれは、いったいなんだい? 真ん中に大きな鳥がいて、その周りにたくさんの小さな鳥がいたように見えたけれど」アンバーが不思議そうにきく。 「あれは、ディフターとフィージャだ」  ディーは深く息を吐き出しながら、答えた。 「マディットにいる鳥だが、ラーセラスとは違う。ディフターはメッセンジャーだ。離れたものの声を届ける。フィージャは……攻撃のために特化された鳥だ」 「大きい奴がメッセンジャー?」 「そうだな」 「小さい奴、相当いたよ。まるで雲のように見えたくらいに」  アンバーは目を見開きながら、息を飲んだように言う。 「そう。あんな数に襲われたら、いくら俺たちでも無理だ」  ディーは首を振り、鳥たちの群れが飛び去った西の空を見やった。 「急いで戻ろう。ペブルとブランが心配だ」 「え? こいつら、連れて帰らなくてもいいのかい?」  フレイが少しほっとしたような口調ながら、そうきいている。 「今エルアナフにこの男たちを連れて帰っても、どうしようもないだろう。普通なら、埋葬してもらうんだろうが……俺たちが着く頃には、エルアナフはとんでもないことになっているかもしれない」 「ええ? あの鳥たちはエルアナフへ向かっているの?」  リセラが片手を頬に当て、目を見開いて、声を上げた。 「方向からすれば、そうだ。それにディフターとフィージャの群れが来たということは、後からマディットの軍が来る公算が高い。普通、単体では来ないからな。ディフターのメッセージを聞けば、詳しいことがわかるんだろうが……」  ディーは眉をひそめ、真ん中の駆動車に立った。 「とりあえず、急いでエルアナフに戻ろう。リル、ロージア……」 「わかったわ」  二人は左右の駆動車に立つ。残りの五人は居住車に乗り、最後に空の荷車を連結したまま、車は走り出した。    再びエルアナフの街が見えてきた時、駆動車の三人も、その後ろから幌を開けて前を見ていた五人も、いっせいに息を飲んだ。エルアナフを取り巻く街の壁、その上空にまるで雲が群がるように、黒い煙のようなものが覆っている。それは激しく動いていた。近づくにつれ、その動いているものはさっき見た、フィージャという小さい鳥なのだとわかった。それは大人が両手の掌を広げてつなげたくらいの大きさだが、その赤い嘴をあけると、そこから黒い光線のようなものが飛び出す。その下で、いくつもの悲鳴が重なって聞こえた。彼らはエルアナフの市民を襲っている――。 「これは……中に入ったら、俺たちも襲われそうだな」  フレイが竦んだように言い、 「どうしたらいいのかしら……」と、リセラが詰まったような声で囁く。 「もう街の中には、入らないほうがいい」  ディーが街の城壁に目をやり、首を振った。  エルアナフの中央にそびえる王宮の、ひときわ高いところにとまっている、大きな黒い鳥が見えた。その鳥が、何か言っているようだ。だが、それが何を言っているのかは、聞き取れなかった。耳のいいアンバーですら、「他の音が大きすぎて聞き取れない」と言った。 「とりあえず、街の外まで行ったら、聞き取れるかもしれない。ペブルとブランのところへ行こう。無事だったらいいが……」  ディーは頭を振って告げた。  二台の車は、城壁の外、最初に止めた場所にそのままあった。留守番の二人は見当たらなかったが、八人がそばに行くと、荷物車の幌の入り口が開いて、ブランが顔を出した。 「ああ、良かった。みんな無事に帰ってきてくれた!」  白い髪の若者は、感嘆したような声を出していた。  その後ろから、黒髪の太ったペブルも顔を出してきた。 「ああ、おっかなかった。いきなり黒い鳥がいっぱいやってきて、門番の兵士達を倒したんだ。ブランが中に隠れた方がいいって言って、それからずっと隠れてたんだ。みんなが途中で襲われたんじゃないかって、心配だったよ」 「ああ。おまえたちも無事でよかった」  ディーもほっとしたような口調だった。 「とりあえず、みんな外に出て、車の連結を元に戻そう」 「大丈夫かな……」  全員が、再びおっかなびっくりという風情で、降りてきた。 「今のところ、連中は街の中だけを襲っているようだしな。気づかれなければ、大丈夫だろう」  ディーは最後尾の荷車を切り離し、再び荷物車を連結させた。それぞれの車は、かなり頑丈なひも状のもので、ぐるぐると結び付けられていた。  街の中からは、相変わらず多くの悲鳴が渦巻いていた。そして鳥の羽音と、もののひっくり返るような音、人が倒れる音――その中から、声が聞こえる。それは漂うように微かではあったが、ディーやアンバーを含めた何人かには、聞き取れた。 「聞け、ミディアルの穢れた罪びとたちよ。我がマディット・ディル帝国は大精霊様のお告げにより、おまえたちを滅ぼす。おまえたちは掃き溜めの塵芥だ。それがどうなろうと、どうでも良いと思っていたが、大精霊様が告げられたのだ。おまえたちの穢れは、このまま放っておくと、この世界全体の穢れになる恐れがあるので、憂いを今のうちに断て、と。それゆえ、すでに穢れを身体に取り入れているものは、この場で命を断つ。そうでないものは、罪を購うために、我が帝国の神殿建設の奴隷となるがいい。フィージャの部隊がまず粛清を行い、のちに軍が生き残ったものを奴隷として捕らえる。おまえたちはここに来るべきではなかった。そもそも掃き溜めの国の建国が、間違っていたのだ」  それは、王宮の上にとまった、ディフターというメッセンジャー鳥が繰り返ししゃべっているものらしかった。それに被さるように、人々の断末魔の声、恐怖の悲鳴、走る音、物が倒れる音、断続的な破裂音、建物や壁が崩れる音、そして飛び回る無数の羽音と鋭い鳴き声が交錯して聞こえてくる。  一行は言葉をなくし、その場に立ち竦んだ。 「マディットがミディアルを滅ぼす……」  リセラが呆然とした口調で、そう反復した。 「ミディアルを滅ぼされたら……あたしたちに行き場はないじゃない」 「どうすりゃいいんだ……」  フレイは当惑しきったような表情を浮かべている。 「ともかく、もうここにはいられない」  ディーはうめくように、言葉を絞り出していた。 「悪い予感が当たってしまった……ラーセラスを見た時から。このままでは、みんなマディットに奴隷として連れて行かれるだろう。神殿建設の奴隷は、過酷だ。ミディアルの連中には気の毒だが、俺たちが助けることは出来ない。だが……おまえたちをそんな目にあわせたくはない」 「ミディアルを出なければいけないことに、なるかもしれないと言っていたのは、こういうことだったのね」ロージアが乾いた声で言う。 「でも、どうやってミディアルを出るんだい? それに、どこへ行くんだい?」  アンバーが怪訝そうに問いかけた。 「港町ディスカに行けば、まだ船があるかもしれない。フィージャが着くより早く行ければ。もし船が確保出来たら、とりあえずアーセタイルを目指そう。そこが一番近い」 「アーセタイルか……あんまり帰りたくないな」  ブランが小さな声で言った。 「それでも、マディットで奴隷にされるよりは、ましなのかもしれないわね。贅沢は言えないのでしょうけど」  レイニがため息をつきながら首を振る。 「アーセタイルでは、もう興行はできないだろうな。こんな生活が出来たのも、ミディアルだからこそだったのに」  ブルーはむっつりした表情で、ため息を吐きだした。 「そうだろうな。アーセタイルに行ったら、どうやって生きていくか、それもまた考えなければならないな。手持ちの資金が尽きる前に……」  ディーは考え込むような表情をしている。 「でも幸いなことに、今回の興行はかなり好評だったから、資金的には余裕があるわ。問題は船がどのくらいで借りられるかだけれど」  ロージアの口調は、励ますように響いた。 「とりあえず、行かなければならないのね。連中が街の外に繰り出すまでに」  リセラが上空に渦巻く黒い雲のような群れを見ながら、小さく震える。 「でも、穢れを取り入れているって、どういうことだろう」  アンバーも同じくぞっとしたような表情で空を見上げながら、そんな疑問を呈し、 「おそらくは……穢れた食べ物のことだ。水とポプル以外の。蜜花、バーナク……ひいては、エウルとピカンのような。レラを乱し、なくさせる、そう言ったもの……」と、ディーは眉根を寄せながら答える。 「それはたぶんミディアルが……ことにエルアナフの市民たちが、近年だんだんと享楽的になってきていることとも、つながっているんだろう。この世界の、明らかな異分子……それをマディットの精霊は、やがて世界に広がっていくことを予言したんだ。まだまだ、そうなるまでには長い年月がかかるのだろうが」 「穢れの元がミディアル限定である間に断て、ということなんだね」  ブランがうなるように言う。 「ただそうなると、ちょっと心配だわ」  リセラが懸念をにじませながら、サンディを見やった。 「え、わたしですか?」 「そうだ。それは俺も気になった。彼女は外の世界から来ている。当然、ここに来るまでには、いろいろと異世界の食べ物を食べているだろう。穢れと判定されなければいいが」  ディーも気難しげな表情で、少女に目をやっている。 「もし穢れということになったら、あの鳥たちが追いかけてくるだろうなぁ」  ブルーが空を見上げながら、苦い顔で首を振った。 「でも……でも、追撃されたからといって……サンディを置いていけないわ」  リセラがそう声を上げる。 「できるだけは、逃げてみよう。あの時も……サラヴィオ草原でも、居住車の中に隠れたこの子を、フィージャたちは認識しなかった。だから、大丈夫かもしれない。サンディはここへ来てからは、ずっと水とポプルだけで生きている。もう三シャーラン以上。たまたま見つからなかっただけかもしれないが。サンディ、おまえは居住車に入れ。ディスカに着くまで、外に出るな」 「いいんですか……でも、もしわたしのせいで、みなさんが危なくなったら……」 「その時はその時だ。早く!」ディーは断固とした表情で促し、 「そうよ、こっちにきて!」と、リセラとレイニがサンディの手を引っ張り、一緒に居住車に乗り込んだ。 「ペブル、おまえは俺と一緒に、駆動車を引っ張ってくれ。あと一人……ロージア、悪いが、頼む! あとはみんな、中に入れ」  そうして一行が出発しかけた時、街の門から二人の人影が出てきた。 「待って……お待ちください!! お願いですから!」  それは真っ白い髪をした若い女性と、サンディより少し年少に見える、薄い茶色の髪の少女だった。少女の方には見覚えがあった。いつか興行を見に来た、ミレア王女だ。 「なんだ?」ディーは駆動車に立ったまま、相手を見た。 「私は王宮に仕える女官、エリアラと申します。お願いします。皆さんはこれから、街を離れるのですね。ミレア王女を、一緒に逃がしてくださいませんか。王の伝言なのです。王女は三シャーランの間、大好きだった蜜花のジュースを飲まれておらず。水とポプルだけしか召し上がっておられません。私もそうです。それゆえ、攻撃されずにここまで来られたようなのですが……どうやら、そのくらいの間、他の食べ物を食べていないものたちは、攻撃されていないようなのです。それで、王は仰いました。まだあなたがたが、街の外にいるはずだ。王女を一緒に連れて行ってくれるよう、頼んでくれと」 「王女を一緒に連れて行け?」ディーは驚いたように反復した。 「それで、俺たちにどんな利点があるんだ? 人助けか? だが、もしその王女様が言うことをきかないと、単なるお荷物になる。それに王女を助けて、王はどうするつもりなんだ」 「ミディアルの王家で攻撃されなかったのは、王女様だけでした。皆、亡くなられてしまいました。でも王は一撃で致命傷にはならなかったらしく、苦しい息の下から、私に仰られたのです。あなたがたに、ミレア王女を託してくれ。そしていずれ、新たなミディアルを興してくれ、と。穢れることのない、はぐれものたちの新天地を。ただでとは言いません。ここに王家が所有していた稀石と、船の鍵があります。ディスカに、王家の船があります。それに乗って、ミディアルを逃れてください」  エリアラと名乗った女官は両手で包み込めるほどの大きさの袋と、銀色に輝く鍵を差し出した。 「そうか……」ディーは頷き、少女に問いかけた。 「俺たちと一緒に来ても、もうあんたは王女様じゃない。わがままはきけない。それでもいいか?」  ミレア王女は無言で、かすかに頷いた。その顔は真っ青で、目には涙が溜まり、小刻みに震えている。 「それなら……」ディーは傍らの二人と目を見交わし、ついで居住車の中の仲間たちと相談をしに、中へ入っていったが、やがて出てきて頷いた。 「良いだろう。中へ入ってくれ」  彼は鍵と稀石の袋を受け取り、その袋の中に鍵を突っ込んで、リセラに渡した。 「本来はロージアなんだが、彼女は駆動車にいるから、代わりに預かってくれ、リル」 「わかったわ」彼女は頷き、そして王女に笑いかけた。 「大丈夫。こっちへきて」  差し伸べられた手を、ミレア王女は小さな手でぎゅっと握った。そして居住車の中へと入っていく。 「あんたはどうするんだ? 一緒に来るか?」  ディーはエレイアという女官に聞いた。 「いえ、私はここに残ります」 「いずれ、マディットの軍が来るぞ。いや、その前に、フィージャたちが、今度は麻痺弾を打ってくるだろう。すべての攻撃が終わったら、生き残った連中に。そうしたら、もう捕らえられて、奴隷になるしかなくなるんだ」 「覚悟の上です。たぶんエルアナフにも、数は少ないけれど、同じ運命の人はいるでしょう。私はミディアル王家に使えるものとして、ここに残ります」 「マディットの神殿奴隷は過酷だぞ。俺はマディットにいたことがあるから、良くわかる。あんたじゃ、たぶん一年も持たないだろう」 「それでも……私まで行ったら、皆さんの足手まといになります。いいんです。早く今のうちに、王女様を連れて、お逃げください。そして、王女様をお願いいたします」  彼女の薄い青い目には、悲壮ですらある光があった。 「わかった」ディーは頷き、そして仲間たちに告げた。 「出発するぞ! ディスカまで全速力だ!」  一行は速度を上げて、エルアナフから遠ざかった。背後では相変わらず激しい音が入り混じって聞こえてくる。だが鳥たちの群れは、今はまだ、街の上空のみにいるようだった。やがてその音も遠ざかっていき、エルアナフの街も背後で小さな点になって、消えていった。  夜通し車を走らせ、港町ディスカに着いた一行は、王家の船を捜した。ミレア王女が小さな声で案内し、そこを辿った先には、かなり大きな船が停泊していた。その船壁には、王家の旗の模様が刻まれている。 「これだったら、三台全部積み込めるな」  ディーは船を見上げ、ほっとしたように吐息をついた。 「船と資金が出来て、ありがたかったわね。ミレア王女がくっついてきても」  ロージアも船を見、小さく首をすくめる。 「たしかにな」フレイが頷き、付け加えた。 「でも王女様が、はじめからおまけみたいな扱いは、かわいそうだぜ」と。 「褒賞がなかったら、引き受けなかったかもしれない、おまけであることは変わらないがな」ブルーは相変わらずむっつりと言う。  港町ディスカは、今のところ通常と変わらないように見えた。ミディアルでの通信は、通信機――小型の、翼のついた箱のような機械で、相手が受け取ると、そのメッセージを再生するようになっていた――を使って行っている。エルアナフとディスカ間では、三カーロンほどで行き来できるはずだが、おそらく通信する余裕さえ、なかったのだろう。  マディット・ディル軍とその先方隊であるフィージャの群れは、おそらく東の海岸から上陸したのであろう。それはディーたち一行が起点としている、海辺の町エフィアだ。一行はそこから反時計回りに、北へ向かい、そこから西に向かって、ぐるっと回る形でエルアナフへと進んでいるが、マディット・ディルの鳥たちはレイボーン山脈の上空を越えて、最短距離でエルアナフへと向かったようだった。おそらくエフィアからの急を知らせる通信機は、山を回りこむことが出来ないため、時間がかかったのだろう。それゆえ、何も前触れなしの急襲になってしまったのだ。 「さもなければ、エフィアからも連絡する暇がなかったのかもしれないな」  ブランがそう言ったが、ディーは首を振った。 「いや、エフィアはまだ、エルアナフより助かった人数が多そうだ。だから、麻酔弾を打たれる前に通信機を飛ばした。でも間に合わなかった」  それは彼の持つエフィオン――直接的には認知されない事実を知る力なのだと、一行はわかっていた。 「じゃあ、エルアナフを襲った奴らは、次はここへ来るのかな」  アンバーが懸念をにじませた表情で言い 「だとしたら、まずいな」フレイは冷や汗を、ひと筋垂らしている。 「そう。たぶん来るだろう。今から逃げても、間に合わないだろうが……」  ディーは荷物をつみ終わると、全員が乗り込んだのを確認し、船を係留していたロープを解いた後、操縦室の動力機関に、銀色の鍵を差し込んだ。船は動き出した。 「みんなに伝えてくれ! エルアナフはマディットの攻撃部隊に襲われた! いずれここに来るぞ!」  船が港を離れる時、ディーは港にいた男たちに向かって、大声でそう叫んだ。 「なんだって?」 「なんでなんだ?」 「本当か?」  男たちは驚いたような表情で、口々に声を上げている。 「だから今のうちに、逃げられるものは逃げろ!!」  ディーが重ねて叫ぶ。その頃には、一行を乗せた船は港を離れようとしていた。 「もうちょっと前に知らせればよかったのに。ぎりぎりだなぁ、ディーは」  アンバーは苦笑しながら、小さく首をすくめていた。 「でも、最初に知らせていたら、大混乱になって、私たちがこんなに速やかに出航は出来なかったわ」  ロージアは冷静な表情で、首を振る。 「そう。結局、船を持ったものしか、逃げられないだろう。奪い合いになって、大混乱になる。連中には気の毒だが……助けられない」  ディーは遠ざかる陸地を見つめながら、呟いた。 「わ、もう来た!」アンバーが声を上げた。 「えっ?」  みながいっせいに、小さくなりつつある港町に目をやった。微かに、上空に不吉な黒い雲の影が近づいてくるのが見える。 「一シャーランもたたないうちに、マディットは完全にミディアル全土を掌握するんだろうな」  ディーは空を見つめた。その声は、どこかうつろな響きがあった。そして彼は息を吐き出すように、こう続けた。 「終わりだな……ミディアルの」  一行は言葉も忘れたように、遠ざかっていく陸地を見つめ続けた。やがてミレア王女が、身体を激しく震わせ、声を上げて泣き始めた。サンディは国も家族も失った少女に同情を感じ、そっとその腕に優しく触れた。 「あたしたちの……幸せだった時も終わりね。楽しかったのに……」  遠ざかる陸地を見つめるリセラの頬も、涙で濡れていた。 「これからどうなるんだろうな、俺たち」  フレイが戸惑ったように、ぽつりと呟いた。    やがて、回りは青い海原一色になった。十一人は甲板に立ったまま、来し方を見つめ続けていた。ディーは腕組みをして甲板に立ち、ブルー、フレイ、アンバーは船の手すりに捕まりながら、じっと海を見ている。ブランは柱につかまり、レイニとリセラはサンディとミレア王女の手を片方ずつ握って、取り囲むように立っている。ロージアは少し離れたところで、やはり柱に捕まって立ち、ペブルはバランスを崩さないようにか、甲板の真ん中で荷物の上に座り込んでいる。そして彼は言った。 「ところでおいら、腹が減ったな」と。 「おまえはこんな時に、よく食えるな!」  フレイがあきれたように声を上げた。 「だっておいら、ディスカまで、夜も眠らずに、全速力で引っ張ってきたんだよ」 「まあ、見ていても仕方がないな。食事にしよう」  ディーが苦笑いを浮かべ、一行は頷いて、甲板に座り込んだ。  波の律動が聞こえ、風が吹きすぎる。突然奪われた、はぐれものたちの楽園。一行は無言でポプルをほおばり、水を飲んだ。新たなミディアルを興してくれ――それが、王の遺言だという。しかし、それは可能なのだろうか。  まわりには海だけが、どこまでも広がっていた。  船は進み続けた。この船には動力装置が内蔵されているので、レラを使って動かす必要はなく、ただ進行方向に舵を取れば進んでいく。舵の横にはコンパス――方位針がとりつけてあり、現在進んでいる方向と、進むべき方向の両方が表示されていたが、今のところそれは同じように見えた。昼の海は穏やかで、青く澄み渡っていた。夜の海は空と溶け合って、限りなく濃いグレーに見えた。昼の後に夜が来て、また朝が来る。  王家の所有だけあって、その船は大きく、広い甲板の下に荷物室と、十二の船室があった。王族用の豪華なものが二つと、あとは家来用だろう、無駄はないがきちんとした部屋が十。ミレア王女には王族用の部屋を、あとの十人は普通の個室を使い、夜はそこで眠った。見張りは二人ずつ、三カーロン交代でたてた。  そんな中、彼らはしばしば甲板に集まり、荷物車から持ってきた敷物を広げて、座っていた。 「アーセタイルというのは、どういう国なんですか?」  航海の三日目に、サンディは一行にそう問いかけた。 「大地の精霊の国だ」ディーは、簡単にそう答えた。 「もっとも俺は、行ったことがないが。土のエレメントもちでもないしな。ブランやペブルのほうが、詳しいだろう」 「そうねえ。あたしたちの中でも、土のエレメント持ちはブラン、ペブル、それにロージアしかいないしね」リセラが周りを見回し、 「でもわたしも、土は半分だけだし、アーセタイルには行ったことがないのよ」  ロージアも首を振っていた。 「ロージアは僕と同じ、エウリスの出身だもんね」 「そうね、アンバー。わたしの母が風だから、わたしも十五歳まで、あの国にいたのよ。父とは四歳の時に別れてから、会っていないから」 「ロージアのお父さんって、アーセタイルの人なんでしょ? 行ったら会えるかもね」  そう言ったリセラを、ロージアは鋭い眼差しで見た。 「会いたくはないわ」  その口調は有無を言わさない、鋭いものがあった。 「それにあなたも、考えなしにものを言わない方がいいわ、リル」 「ごめんなさい……」リセラは少し決まり悪そうに謝る。 「おいらも土って言っても、ロージアと同じで、ディルトなんだよなぁ」  ペブルが、女性二人のやり取りなどまったく気にしていないような口調で、そう言いだした。「それでもって、おいらのとうちゃんも、おいらが子供の頃にマディットに帰っちまった。それっきり、会ってないや」 「そして私は色抜けだ。まったく、純粋な土エレメントはいないね。アーセタイルへ行っても、苦労するんじゃないかな」  ブランが少し顔をしかめ、首を振った。 「そうね。見た目はサンディが一番純血っぽいけれど、本当は違うし」  リセラも少し苦笑しながら、少女を見やる。 「一番の問題はポプルの確保だな」ディーは微かに首を振った。 「アーセタイルじゃ、ほとんど緑ポプルだろうしな。他の色は市場に行けばあるだろうが、数は少ないし、高い」 「わたしやペブルはそれでもいいけれど、他のみんなは、ね」  ロージアも考え込むような表情で、仲間たちを見やる。 「まあ、アーセタイルに定住する必要はないわけだが。アーセタイルを目指すのは、あくまでミディアルから一番近い、というだけだからな。できるだけ早く通過して、他へ行ってもいい。と言っても、どこもミディアルのようなわけにはいかないが」  ディーの言葉に、他のみなもため息混じりに頷いている。 「新しいミディアルを興すって、ミディアルの王様に頼まれたけど……」  アンバーが空を見上げながら言いかけ、 「そう簡単には、いかないだろうな」  フレイは海に目をやりながら、少し顔をしかめて首を振る。 「いかないだろうな、たしかに。もし旅の途中で、どこにも所属していない広い土地があったら、可能だろうが」  ディーは微かなため息をつくと、もと来た国の王女を見た。 「ところでミレア王女、一つあんたに聞きたいんだが」 「はい……」  薄い茶色髪の少女は、おずおずと目を上げた。彼女は一行に加わってからも黙りがちで、サンディやリセラに話しかけられても、言葉少なに返事するだけだった。急に環境が変わったから、それに国と家族をなくしたショックからだろうと、一行はそんな王女をそっと見守っていたのだが。 「なんであんたは、蜜花のジュースを飲まなかったんだ? 好きだったとあの女官が言っていたが」 「好きだったの。本当に。でも、急に……少し苦くなって」  王女は甲板に目を落とした。 「苦くなった?」 「ええ。ポプルだけのほうが、すっきりした甘さに感じて……」 「どう解釈すれば良いだろうな、それは。身体が拒否したのか、何かを感知したのか、それとも……」  ディーは考え込んでいるような顔で、ふっと視線を海に向けた。そしてもう一度目の前の王女を見、言葉を継いだ。 「ともかくだ。国王の最後の願いが、新たなミディアルの復興。そしてたぶん俺たちにとっても、最終的な目標はそこだと思う。みんながもう一度、快適に生きていけるためには、もう一度俺たちのようなはぐれものの新天地を作るしかない。それは、多くの労力と時間がかかるだろう。それでもだ」 「そうね」リセラが頷き、 「まあ、そうできればいいな」と、フレイも声を上げる。 「たしかに」  ブルーもアンバーも、ロージアもレイニも、ブランとペブルも、いっせいに頷いていた。 「でも……新しい国を興しても……それはもう、ミディアルじゃない」  ミレア王女が、今にも泣き出しそうな風情で、小さくそう声を上げた。 「お父さまもお母さまも、兄さまたちもいない。エルアナフも……もうない」 「だがそれを嘆いても、取り返せるわけじゃない」  ディーは一瞬空に目をやった後、きっぱりとした口調で告げた。 「失ったものを、嘆くことはできるだろう。ミディアルを滅ぼしたマディット・ディルを、恨むこともできるだろう。そしてそれゆえに闇の血を引くもの、たとえば、俺なんかだな――を嫌うこともあると思う。が、それで何の益がある? 恨んだり憎んだり嘆いても、失ったものは、もう帰ってこないんだ。よけいな力を使うだけ無駄だ。俺たちもそうだ。俺たちはミディアルで、満ち足りて暮らしていた。リルが言ったように、月並みな言葉で言えば、俺たちなりに幸せだった。そうだな」  一行はみな頷いていた。リーダーは言葉を継いだ。 「だが、それはなくなってしまった。どうしてなんだ、とか、誰のせいだ、とか憤っても責めても、なくなった事実は帰ってこない。それなら、どうすればいいか。そこから考えなければならないんだ。だからとりあえず、大目標を決める。新しいミディアルを興す、と。それは、あんたの父親の遺言だ。俺たちも利害関係が一致するから、それに乗る。でも肝心のあんた自体はどうだ、お姫様。前に進む気がないのなら、本当に足手まといになるだけだぞ」 「ディーったら、王女様はたしか、まだ十二歳なのよ。厳しすぎるわよ。それまで幸せな王女様だったんだから、そんなに気持ちを切り替えられないわ」  リセラがかばうように少女の体に手を回し、そう抗議した。 「わたしは、記憶がなくなって、砂漠に捨てられたところを、みんなに助けてもらったの」  サンディは王女の手を握り、言った。 「そうなの?」ミレア王女は驚いたように顔を上げた。 「そうなの。わたしは、外の世界から、来たみたいなの。前の記憶がないから、まだ悲しいとか、帰りたいとか、そう言う気持ちはないのだけれど」  サンディは頷き、言葉を継いだ。「でもみんな、とてもいい人よ。ディーさんは、言葉は厳しく感じることもあるけれど、わたしたちのことを思ってくれているのが、わたしもわかるの。わたし、まだ言葉が覚えたてだから、ちょっとたどたどしくて、ごめんなさいね。でも、あなたの気持ち、わかる。悲しいのよね。でも、がんばって、生きていきましょうよ。一緒に。みなさん、とてもいい人たちだから」 「ありがとうね、サンディ」  リセラは微笑み、少女の背中をそっと叩いた。そして王女に向かって、優しい口調で声をかけていた。 「ねえ、ミレア王女。あなたが悲しいのは、仕方がないことだわ。でもとにかくあなたはこうして、生きてこられた。それが王様や王妃様や、お兄様たちや、お城の方たちの願いなら、あなたはみんなのためにも、生きなければならないのよ。そうすればエルアナフの王宮の人たちも、きっと喜んでくれるわ」  ミレア王女はしばらく黙り、やがてしくしくと泣き出した。そしてひとしきり泣いた後、小さな声で問いかける。 「わたしは、どうすればいいですか?」と。 「とりあえず、俺たちと一緒にいてくれればいい。アーセタイルに着いても」  ディーはいくぶん穏やかな目で王女を見ながら、そう答えた。 「ただ、いればいい。あんたに、サンディのような働きは期待していない。それに、そうしなければならないと思う必要もない。あんたを助けることの報酬は、もうたっぷりもらったからな。めそめそしていても、むっつりしていても、別にかまわない。ただ、そこから海へ飛び込んだり、食事を取らなかったりしなければな。とりあえず生きていてくれ。やけになるな。それだけだ」  王女は少し驚いたように目を見開き、そして微かに頷いた。その目から、再び涙が流れ落ちる。サンディとリセラがそっと寄り添い、なだめるようにその身体に触れた。 「わたし、あなたのファンでした、ディーさん」  ミレア王女は目をあげ、小さく告げた。 「それに、ロージアさんにも、憧れていました。だから今回も、見に行ったの」 「あら、そうなの?」  リセラがそう声を上げ、ロージアの方は少し照れたように、微かに微笑んだ。 「でも実際は怖い人だな、って思ったの。いきなり足手まといになる、とか言われたから。でも……本当はやっぱり、優しい人なんですね」 「そう言われると……照れるから、やめてくれ」  ディーはきまり悪げに顔をほころばせ、 「見た目や言葉は、一見厳しいからなぁ、ディーは」  フレイは笑っている。 「でも本当にみなさん、いい人ですよ」  サンディが無邪気な調子で、そう言い足した。  その翌日も再び甲板で、一行は話し合っていた。 「このまま行くと、たぶん三日後にはアーセタイルに着くだろう。目指すのは、東南端の港町、バジレだ。ペブル、ブラン、おまえたちはアーセタイルに住んでいたのだから、もし知っていたら、教えてくれ。ここはどんな町だ?」  ディーは船に積んであった地図のようなものを甲板に広げ、二人の顔を見た。 「おいらは北の方の、ロッカデールとの国境に近いところに住んでたから、南の方は良くわからないな。あんたの方が知ってるんじゃないか、ブラン」 「うん。ある程度はね。でも行ったことはないな」  白い髪の小柄な若者は首をかしげ、言葉を継いだ。 「バジレは、そんなに大きな港町じゃないんだ。南だったら、西側のパンデルの方が大きいかな。停泊は、港に空きがあったら、お金を払えば入れてくれるよ。アーセタイルの通貨は、まだ我々は持っていないけれど、稀石でも大丈夫じゃないかな。基本、アーセタイルの人間は、気性はのんびりしている。だから……そうだなあ、フェイカンとか、北のロッカデールよりは、ましかもしれないね」 「そうか。それなら大丈夫だな」  頷くディーに、フレイが問いかけた。 「でもアーセタイルに着いたら、とりあえず何をするんだい」と。 「そこでミディアルのような放浪生活ができればいいが、まず無理だろうな。興行はミディアルだからこそ、できたものだし、臨時雇いの仕事にしてもな。せめて車の中での寝泊まりができればいいが」 「街の中では無理かもしれないね。外でなら大丈夫だけれど」  ブランが考えるよう言い、 「街で広いところと言ったら、広場くらいしかないし、あそこに車止めたら、怒られそうだなあ」と、ペブルも少し苦笑いしながら、付け加える。 「そもそも、よそ者が街の中に入ってもいいのか?」  ブルーが少し心配そうに、そうきいた。 「ああ。歓迎はされないかもしれないけれど、どこでも自由だよ」ブランが頷く。 「アンリールではダメなの?」  リセラが少し驚いたようにそう聞いた。 「全部じゃないけどな。立ち入り禁止区域があるんだよ」 「フェイカンもそうだな」と、フレイも頷く。 「でも今までの収入と、それに王女様を連れ出すことで、かなり報酬をもらったから、何もしなくても、一年くらいは大丈夫じゃないかしら」  ロージアの言葉に頷くと、ディーは少し考えるように黙った後、告げた。 「そうか。まあ、それなら少し余裕はあるが、一年たったら尽きるとしたら、やはり多少の対策が必要だな。それに、最終目標のためにも、いつまでもアーセタイルにいて金を消費するわけにはいかない。そう、四十日ほどいて、ただ消費するだけで埒が明かないと思ったら、さっさと次に行った方がいいだろう」 「次って、どこへ?」  問いかけるアンバーに、ディーは答えた。 「新天地を探すなら、海だろうな。そうなったら、また船に乗って、どこかへ行こう。海を突っ切るような形で。アンリール、エウリス、ユヴァリス――そのあたりだろうな。その途中に運よく島を見つけられたらいいが、そうでないなら、また振り出しだ。他の国に上陸して、報酬を得られる仕事が運よく見つかればそれをやり、ダメなら次へ行く。そのくりかえしだろうが……」 「それは本当に、運だな」ブルーがむっつりとした口調で言い、 「でもまあ、仕方がないんじゃないか」と、フレイは首を振る。  その間も、船は海原を進み続けていた。力強い動力源で、かなりの速さで。王家の所有だけあり、ミディアルの技術を駆使して作った、かなり高価な船なのだろう。その間、見渡す限り青い世界で、島らしきものもなかった。  一行がミディアルの港町ディスカを出て、六昼夜がたとうとしていた。その間ずっと海は穏やかで、空は晴れていたが、七日目の朝、空に雲が集まり始めた。それはお昼ごろにはかなり厚い雲となり、同時に風も吹いてきて、やがて雨が降り始めた。その頃には西の地平線に陸地が――アーセタイルの岸辺が見えてきていたが、だんだんと強くなる雨に視界はかすみ、風も激しさを増していって、夜になる頃には完全に嵐となった。吹きつける風に船は激しく揺れ、甲板には水が溜まり始めた。 「早くアーセタイルに着くか、嵐がやまないと、危ないかもしれないな」  ディーは舵の前に立ち、陸地があるはずの方向に目をやりながら、うなるように呟いた。そして、仲間たちを振り返る。 「みんな、うろちょろするなよ! 下手をすると、海に落ちるぞ。まあ、ブルーとレイニは大丈夫だろうが、それ以外は、船室の中にいた方がいい」 「この揺れだと、気持ち悪くなりそうだよ」  アンバーがマストに捕まりながら言い、ブランも青い顔をしている。 「それはそうだろうが、外よりましだ。ロージア!」  ディーはそう声を上げた。 「なに?」銀髪の女性が言う。 「船室に戻って、稀石を十個の小袋に分けてくれ。なければ小布に紐を結んだものでもいい。それをみんなに手渡して、残ったものはおまえが保管してくれ。揺れるから、こぼさないように気をつけて。それと、色つきポプルも十個くらいずつ、それぞれにあった色を分けて、袋に入れてくれ。できたら白も二つくらい追加して」 「ええ……でも、なんのために?」 「万が一のためだ」 「ええ……わかったわ」  ロージアは青ざめた顔で船室へと戻っていき、半カーロンほどのちに、十個の小さな布袋と、色つきポプルが十個、それに白が二つつまった袋を十、手に持って現れた。そしてめいめいに手渡していく。その頃にはさらに雨と風、そして船の揺れが激しくなり、じっと立っているのが難しい状態だった。その作業にも何度もよろけ、時には落としそうになりながらも、とりあえず全員に配り終えた。 「みんな、稀石の袋はポケットに入れて、ポプルの袋は腰に縛って、失くさないようにしろよ! それと、持っていきたいものがあったら、まとめておけ」  みなはそれぞれ荷物をまとめるために千室に引っ込み、やがて再び看板に集合した。そのころには、雨風はますます激しくなり、船は大きく左右に傾きだしていた。 「でも、万が一ってことは……最悪の事態になるかもしれないってこと?」  アンバーは雨でびしょびしょになった服の袖を絞りながら、不安げな表情を浮かべた。 「ディーのカンって、やたら当たるからなあ。今回ばかりは、本当に当たってほしくねえ。というか、俺は水が大嫌いだ。アンバー、服絞っても変わらないぞ。どうせ、すぐ濡れるからな」  フレイが激しく身震いしながら言う。 「俺は、水は気にならんが、さすがにこれはきついな。この揺れもな」  ブルーの髪は流れ落ちる雨と一体になって、まっすぐに頭に張り付いていた。 「ここまで揺れがきついと、気分が悪くなる暇もなさそうね」  リセラもやはり青い顔をしている。 「怖い……」ミレア王女は船室の扉に捕まったまま、震えながら呟いた。 「わたしも。だけど、嵐が収まれば、きっと大丈夫」  サンディも青ざめてはいたが、自分に言い聞かせるように言い、王女の手を握った。 「お、おいらってバランス崩さないために、動かない方がいいのかな」  ペブルは甲板の真ん中で戸惑ったように声を上げ、 「おまえの重量くらいじゃ、普通は大丈夫だがな。ただ同じ方向に傾くと、この状態だと危ないかもしれないな……」  ディーは振り返ってそう言いかけ、言葉を止めた。彼の顔色が変わり、息を飲んだように立ちすくんだあと、声を上げた。 「危ない! みんな、マストから離れろ!! ペブル、おまえもだ!!」 「えっ?」  甲板にいた八人は――ミレア王女とサンディ、ロージアは船室との連絡通路にいたので――瞬間、わけがわからないという顔をしたが、その口調にただならぬものを感じたのだろう。ほとんど反射的のような動作で、船の中心部から離れた。  ほぼ同時に、空に鋭い光が現れた。それはまるで剣のように、マストの上から船体へと貫いた。激しい音響とともに。雷はそれまでにも鳴っていたが、それが落ちたのだろう。  船はいっそう激しく揺れた。甲板に散らばった八人は転び、何人かは海に落ちかけたが、全員手すりをつかんで、這い上がることができた。中にいた三人も、揺れで壁に身体を打ちつけたが、とりあえずは無事だったようだ。  しかし落ちかかった雷は、船底に穴を開けたようだ。船の中に水が入ってきて、慌てて中の三人、サンディ、ミレア王女、ロージアが甲板に出てきた。 「まずい。沈むぞ!」ディーが緊迫した声を上げた。 「わー、またディーの悪い予感が的中した!」  アンバーがそう戸惑ったように言い、 「そうだな、って、そんなこと言ってる場合じゃねえ! どうすんだ?」  フレイが少し怒ったように叫ぶ。 「救命ボートを下ろしましょう」  ロージアとレイニがその場所に駆け寄り、ロープを解こうとしたが、それは長い間使われていなかったために固まってしまったらしく、到底ほぐすことができなかった。ナイフで切ろうとしても、びくともしない。  そうしている間にも、船はどんどんと傾いていった。 「無理だ、間に合わない……」  ディーがうめくように言い、周りを見回した。そして一瞬の間に決心を下したように叫んだ。吹きすさぶ雨風の音に逆らうように。 「みんな! この船はもうすぐ沈む! 車は持ち出せない! ただ、アーセタイルはすぐそこだ。そのはずだ。だから、ブルー、レイニ! おまえたちはフレイとロージアを連れて、泳いでアーセタイルを目指してくれ! 完全に沈んでからだと流れに巻き込まれるから、今のうちに」 「けっこう無茶な案だな。しかも、こいつを乗せてくのかよ」  ブルーは微かに顔をしかめ、 「悪かったな。でもここでは、俺はケンカを売れる立場じゃないな」  フレイは緊張に青ざめながら言う。 「でも、それしか道はないようね。あなたたちはどうするの?」  レイニが気遣わしげにきいた。 「俺たちは飛んでいく。だから心配するな。早く行け。無事に向こうへ着いたら、バジレで落ち合おう。稀石を水に流されないよう、気をつけてくれ! 食料やみんなの持ち物は最悪なくとも何とかなるだろうが、あったほうがいい。それも流されないように」  ブルーとレイニは「わかった」と頷き、フレイとロージアの手をそれぞれ取って、甲板から海へと飛び込んでいった。水に入ると、フレイはブルーの背に、ロージアはレイニの背中にそれぞれ這い上がり、下の二人はすばやく、アーセタイルのある方向、西へと向かっていく。その二人の姿を見送りながら、ディーは残った仲間たちに目をやった。 「さて、あとはどういう配分で行くかだが……リルはサンディを連れて行ってくれ。この雨風の中を飛ぶのだから、おまえは出来るだけ軽いほうがいい。あとは、ブランと王女様とペブルだ。先の二人セットで、ペブルとどっちが重いかだが、ペブルのほうが重いだろう。どっちがどっちを連れて行くかだが、迷っている時間は、あまりなさそうだ。アンバー、おまえが一番飛行力はある。だから、おまえが王女様を連れて行け。ブランも一緒に。俺はペブルを連れて行く。あとの注意は、海を行く連中と同じだ。無事にアーセタイルへ着いたら、バジレで落ち合おう」 「わかった」アンバーは頷き、それぞれの手にブランとミレア王女を抱え、翼を広げて、空中に飛び上がった。そして少し蛇行しながら、西を目指していく。 「逆風がすごいな! 厳しい!」  そんな声が微かに聞こえてくる。 「あたしたちも行くわよ」  リセラがサンディを背後から抱えて、飛び上がった。その背から羽が開いて、吹き付ける雨と風に逆らうように、やはり少し蛇行しながら、進んでいく。同時にディーもペブルを抱えて、空に飛び出した。普段よりは、かなり低い高度だ。 「ペブルは重いから、ディーも大変ね」  リセラがそう呟き、ぎゅっと腕に力を込めてサンディを抱いた。 「あたしの手に捕まってて。絶対、落とさないようにするから」 「はい」サンディは緊張しながら、腕に力を込めた。  眼下では、船が海の中に沈んでいくところだった。渦を巻きながら、吸い込まれるように、銀色の船体がゆっくりと水の中へ消えていく。吹きつける雨と風の向こうで、ほかの仲間たちの姿は、もう見えなかった。   「サンディ、西ってどっちかしら。みんなが飛び出した方向だから、あってると思うけど……あたし、自信ないのよ」  しばらく飛んだところで、リセラがそう聞いてきた。彼女のピンク色の髪は頭から背中にかけて、ペッたりと張り付いていた。その翼にも雨が当たり、風が当たる。 「わたしも、よくわかりません。ごめんなさい」  サンディは、そう言うしかなかった。 「そうよね。この方向で当たっていると、信じましょう」  リセラは前へと進んでいった。時おり風に押し戻され、時々は海面近くまで高度が下がりながら。そしてようやく二人の目に、アーセタイルの岸辺が見えてきた。 「ああ……もう少しよ」  リセラは、ほっとしたような声を上げた。彼女の顔は雨だけでなく、汗でも濡れているようだったが、それが交じり合って、サンディの頭に落ちていた。彼女の髪もすでに雨で頭に張り付いていたが。  リセラの飛行能力は、他の二人に比べて弱い。火のエレメントが混じった分、損なわれたのだという。それゆえ、一番軽量のサンディ――いや、一番軽量はミレア王女なのだが、彼女に対しては、一行には救出義務という責任があり、賭けは許されない。それゆえ、より信頼性のあるアンバーの担当になったのだろう。彼の飛行能力は、三人の中で一番高いのだから。だが激しい逆風は、風の民にはかなり障害になるのと、アンバー自身も比較的小柄なために、ペブルでは荷重がかかりすぎるかもしれない。それゆえ、ディーがペブルを引き受けた。自分も過重オーバーになるリスクを背負って。  それでも、やはりリセラにとって、軽いとはいえ一人余分に抱えて激しい嵐の中を飛ぶのは、能力の限界を超えていたのだろう。もう少しで岸辺に届く、というところで、彼女の翼は止まった。薄紅色の翼は雨に濡れて背中に垂れ下がり、二人は海に落ちた。 「ごめんね、サンディ……あと、少しなのに」  リセラが自分を抱きしめて、呟くように言うのが聞こえた。それに返答するまもなく、水が二人を包み込んだ。そして、サンディの意識もなくなった。