EVERGREEN : 常盤の守護精  第一章 追憶  森の中は広く、うす暗かった。木々が風にゆれ、葉っぱがざわめくたびに、かすかに差し込んでくる日光の糸も揺らめき、地面にモザイク模様を描いていく。足元の土は、降り積もった落ち葉で、柔らかく湿った感触だ。虫の羽音がかすかに聞こえる。ときおり頬を掠めて飛びすぎていくのは、蛾だろうか。今ではもう自分がどっちの方角から来たのか、どうすればもと来たところへ──それがどこかということも、わからなかったが――戻れるのか、まったくわからなくなっていた。  声を上げて、名前を呼ぶ。誰の名前? それすらわからない。一緒に来た誰か。何人か。それもわからない。  返事のかわりに、ひゅーっと風がうなった。乾いた小枝が揺さぶられ、お互いにぶつかり合って音を立てる。そのざわざわという響きは、まるで怒っているようにも聞こえた。片手で抱いていた人形──緑の帽子に緑の服を着た、金髪の妖精を、ぎゅっと胸に押し当て、にじみ出てきた涙を、慌てて押し戻そうとした。  森は暗く、ざわざわと不気味にささやき続けている。もう一度、強く瞬きをした。まぶたも頬も熱くなり、徐々に濡れていくのが感じられる。両手でしっかりと人形を抱きしめながら、立ち止まったまま、あたりを見まわす。どこかに出口が見つからないものかと。  疲れ果て、その場にうずくまり、泣こうとした。が、不意に足にもぞもぞとした違和感を覚え、思わず小さな声を上げて立ち上がった。てんとう虫だ。もっといやなものではなかったことにほっとしながら、足を這い登ってくる小さな虫を指ですくった。黒地に黄色い斑点のあるその虫は、指先から羽根を広げ、飛び立っていった。  再び歩き出した。地面には、虫がたくさんいそうだ。てんとう虫ならまだましだが、毛虫などに這い登られたら、いやだ。方向の見当はつかないが、じっとしていて、誰かが探しに来てくれるのを待つのも、耐えられそうになかった。のどが乾き、空腹も感じた。ここに迷い込んでから、どのくらいの時間がたったのだろう。  がさっと足元の藪がゆれ、丸いかたまりが勢いよく飛び出してきた。心臓が一瞬跳ね上がった。ウサギだ──足元をすり抜け、あっという間にまた藪の中に飛び込んでいく。  終わりのない森、迷路のような――いつになったら、ここから出られるのだろう。そもそもどうして、自分はここに入っていったのだろう。わからない。木々は果てしなく茂り、道らしい道もない。それでも自分は歩き続ける。  突然、木々が途切れた。小さな広場。上から差し込む光。いや、上からだけでなく、広場全体が光っているような――  あっ、と小さな声を上げて、ありさは目覚めた。またあの夢を見た。森の中を迷う夢。最後はいつも、光に出会って目覚める。薄い緑色のカーテンの隙間から差し込んでくる、朝の光のせいだけではなさそうだ。  ありさは上半身を起こし、次いでベッドボードに置いた目覚まし時計をつかんだ。六時半にセットしたアラームが、あと三分で鳴るところだ。アラームをオフにし、元の位置に戻すと、大きく髪を振りやり、伸びをして起き上がる。パジャマの上からパーカーを羽織り、ピンクのスリッパをはいて、洗面所に行く。  顔を洗い、髪をとかしながら、鏡に映った自分の姿を、見るとはなしに見ていた。長くまっすぐな、明るい茶色の髪。すっと通った高めの鼻、薄い唇、抜けるような肌の色、長いまつ毛に囲まれた大きな目は、髪と同じような色合いの明るい茶色。  ありさを生んだ母は、日本人ではなかった。父が若いころ、海外赴任先で出会った人だと。カナダのブリティッシュ・コロンビア州、バンクーバーで。そう聞いている。あの街も今ではアジア系移民がわりと多いらしいが、母は純粋なアングロサクソン系の白人だったと、父は言っていた。父と母はありさが赤ん坊の頃に別れ、ありさは四歳の誕生日近くまで、母に育てられたらしい。父がそう説明してくれたのを聞いたから。ただ、なぜ母が自分を手放すことになったのか、その事情は聞いていなかった。いや、聞いたけれど、忘れたのかも知れない。ありさには、母と暮らしたという幼いころの記憶はなかった。母の顔も覚えてはいない。写真もなかった。父の話では、今の母、ありさには継母に当たる瑤子と結婚した時、処分したという。  ありさの覚えている一番古い記憶は、空港だ。ざわざわとした空気、行きかう人々。迎えに来た父と継母。二人とも、笑顔を浮かべていた。「大きくなったなぁ」父は感嘆したように言い、「なんてかわいい子でしょう」と、継母は声を上げていた。二人はその二年半前に結婚したのだと、父は説明していた。「おまえの新しいお母さんだよ、ありさ」と。 「よろしくね」継母の瑤子は、優しそうな笑顔を浮かべていた。もっともその時には、言葉はわからなかったはずだ。日本語に接したのは、この時が初めてだったから、意味のわからないノイズのようにしか聞こえなかった。背景に流れ続けている、ざわめきのように。父がそのあと英語で説明してくれたのが混ざりあって、漠然とした、おぼろげな記憶になっているようだ。ただ、それも不完全な記憶だ。自分をその空港に連れてきてくれたのは誰だったのかわからないし、飛行機に乗っていた記憶もない。  あれが四歳前のことだとしたら、あれから十二年、いや、もうすぐ十三年。ありさはブラシを戻し、落ちた髪をティッシュでぬぐってごみ箱に捨てると、キッチンへと向かった。ライトをつけ、電動ポットでお湯を沸かし、インスタントのコーンスープを作る。冷蔵庫から卵とオレンジジュースを取り出し、目玉焼きを作り、冷凍したパンをトースターに放り込んだ。できた朝食を、ダイニングのテーブルに運んで食べた。広いリビングダイニングの向こうのガラス窓越しに、庭が見える。今は、萌えてきた若葉の緑が美しい季節だ。ただその庭も、祖母が生きていたころのように、さらにはその後妹と二人で庭の維持に努めていたころにように、美しく整ってはいない。  窓ガラスの向こうに、楓の若木が見える。あれはありさの木。祖母が植えてくれた。その光景を、おぼろげに覚えている。祖母が優しい笑みを浮かべて、自分を見ていたこと。「これがあなたの木よ」――This is your tree――あまり流暢とはいえない英語で、そう言っていたこと。子供が生まれると、その誕生を記念して木を植える――祖母のゆき乃は、のちにそう説明してくれた。それが、この常盤家の伝統なのだと。その木が、その子を守ってくれるように。父が生まれた時に植えられたいう欅の木は、今はかなり大きなものになっていた。叔父が生まれた時に植えられたという、樅の木も。さらに祖父やその兄弟たち、さらにその先代の木もあり、それらは今、かなりの巨木になっている。 「おかげで我が家の庭は、森のようだ」と、かつて父はそんなことを言っていたが。 「本当はありさちゃんが生まれた時に、植えたかったのだけれどね」――祖母は、そう続けていた。楓の木なのは、ありさの母の母国であり、ありさが生まれた国、カナダを象徴する木だからと。「まあ、あちらはサトウカエデだから、日本のものとは種類が違うけれど」そんなことも、祖母は言っていたっけ。  楓の木の横には、桃の木があった。妹が九年前に生まれた時、祖母が植えた木。ただ、子供の誕生を記念して木を植えることに対し、継母瑤子はあまりいい顔をしなかった。 「もし木が枯れたりしたら、縁起でもないから」と。桃だったのは、妹の名前が桃香だったから。ちょうど桃の花盛りに生まれたから。二年前、その妹が死んだ時、継母はその木を切ろうとした。ありさはそれを阻止した。「桃ちゃんを二度殺さないで!」と。その時、継母の眼に浮かんだ狂おしい表情を、ありさはよく覚えている。彼女から投げつけられた言葉も。 「なぜ私の娘が死んで、あなたが生きているの!? あなたが代わりに死ねばよかったのに!! この人殺し! みんなあなたのせいよ!!」  ありさにとっては、理不尽な非難だった。でもきっと、継母はずっと心の中でそう思い続けていたのだろう。だが口に出されたそれは、二人の関係をその場で断ち切ってしまった。それから徐々に、瑤子は心を病んでいった。  ありさは小さくため息をつくと、食べ終えた朝食をキッチンに運び、片づけた。棚の上に飾った妹と祖母の写真に備えた水を取り替え、花瓶にさした花が枯れていないかを確かめた後、制服に着替える。かばんを自転車のかごに置いたまま、庭に出て水撒きをし、施錠して家を出、自転車にまたがった。  晴れた五月の日だった。学校までは三十分あまり、途中でコンビニに寄り、お昼のサンドイッチと飲み物を買う。学校への道を、軽快にペダルをこいでたどりながら、彼女はこれからどうしようか、そのことを考えていた。高校も二年になり、そろそろ進路のことも考えなければならない。彼女の学校は中高一貫の私立校で、三年には進路別にクラスが分かれる。父は海外に単身赴任中で、継母は入院している今、相談できる大人と言えば健(たける)叔父――父弘(ひろむ)の五歳下の弟だけだが、彼も今は名古屋に転勤中だ。自分はどうしたらいいだろう、この先――空虚で単調なこの毎日を、変えることはできないだろうか。それが彼女の、ただ一つの思いだった。            ――――――――――――――――――――――  四歳になる前の春、この家に来て、翌年やっと片言の日本語を覚えた頃、ありさは地元の幼稚園に入れられた。そこでは「お人形さんみたいにかわいい子」と言われたが、親しい友達はできなかった。男の子たちからは人気があったが、それゆえか、女の子たちからは、小さな意地悪をたくさんされた覚えがある。遊びに入れてもらえなかったり、いつも鬼にされたり、ボール遊びの時にぶつけられたり、お誕生会やおうちでの遊びに誘われなかったり、玩具を取られたり、描いている絵に落書きをされたり――どれも小さいことかもしれないが、小さな棘のように刺さる意地悪を。  常盤家は旧家らしく、このあたりでもひときわ大きな家と広い庭があった。その広い庭で、ありさはよく遊んだ。一緒についていたのは、たいてい祖母だが、継母も決して不親切ではなく、優しく感じた。話しかける口調も。 「お夕飯、何が食べたい、ありさちゃん?」 「かわいいお洋服を買ってきたのよ。きっと、あなたに似合うわ」  継母との間が変化したのは、妹が生まれてからだ。その理由も、ある程度は知っていた。妹が一才になった頃、継母とその姉が茶の間で話をしているのを、ありさは偶然聞いてしまっていたから。 「良かったわね、桃香ちゃんができて。やっぱり自分の本当の子どもはかわいいでしょう?」という継母の姉の言葉に、 「ええ」瑤子は即座に答えていた。 「全然違うわ。自分の子どもがこんなにかわいいなんて」 「結婚して……七年目だったわよね、あなたたち。長かったわね」 「そうね。私はずっと、自分の子供が欲しかったから、二年半たってもできなくて、その上夫が海外赴任の時に現地で作った子供を引き取りたいって言った時には、一瞬考えたのよ。向こうで育てられないなら、施設にでも入れればよかったのだけれど、弘は責任を感じているらしくて……」 「父親なのには、違いないわけだしね。不運だったわね。初婚だと思って結婚したのに、途中からいきなり連れ子が現れたようなものでしょう?」 「そう。でもね、考えたの。養子だと思えばいい、と。子供がなかなかできない時、養子をもらうと自分の子ができやすい、とよく言うでしょう。まあ、それから三年もできなかった時には、焦ったけれど」 「本当に良かったわね」 「ええ。主人は男の子を欲しがっていたのだけれど。やっぱり跡取りが欲しかったのでしょうね。でも、わたしは女の子が欲しかったの。だから桃香が生まれて、本当にうれしいわ」  当時八歳だったありさは、ショックではあったが、絶望はしなかった。ある程度は彼女にも、感じられたことだったから。継母が妹を溺愛していることは、小さな娘を見る目の表情からも、容易に察せられた。妹が生まれた時から、瑤子がありさに対し、少し距離を置いたような扱いをするようになった理由も。  瑤子は決して、ありさに小さな妹を抱かせてくれなかった。 「落っことしてしまうと、危ないからね」と。  赤ん坊に触ろうとしても、押しとどめられた。 「手はきれい? 赤ちゃんはデリケートなのよ」  いつも優しい微笑を浮かべ、物柔らかな口調で、継母は言ったものだ。でも、その目は決して微笑んではいなかった。そういえば初めて会った時から、継母の目が自分に向かって笑いかけられたことはなかった。唇は笑っているけれど。だから自分も他の子のように甘えてすり寄ることができなかったのだろうか、とも。  でも妹に対して、ありさは強い愛情しか感じたことはない。本当に愛しい存在だった。桃香は愛らしい子供だった。鼻と口は小さく、眼は大きくてパッチリして、ほんの少しだけ茶色みを帯びた髪は、柔らかいくせっ毛だった。彼女は純日本人だが、少し髪に茶色みが混じっているのは瑤子の遺伝だろうと、父が言っていた。継母もまた、生まれつき少し茶色みがかった髪だったからだ。半分西洋人の血が混じったありさの髪に比べると、明るさも茶色みも格段に控えめだが。妹もまた、姉を慕ってくれた。「ねえね」から「おねえちゃん」と、呼びかけは大きくなるにつれ変わっていったが、いつも嬉しそうな笑顔で手を差し伸べてくれた。  お祖母ちゃん──常盤の祖母は、ありさが愛情を持っている、もう一人の人だった。でも彼女は、妹が四歳の時に亡くなった。  父の母、ゆき乃は母屋から少し離れた別棟に住んでいた。祖父はありさが常盤家に来る五年前に他界していたので、父は瑤子が結婚する時、母屋に一緒に住むように勧めたらしいが、「一人の方が気楽なのよ」と、祖母は固辞したという。  祖母は天気の良い日は、たいてい外にいた。縁石にこしかけて日向ぼっこをし、庭の水まき、花壇の手入れ、草むしり、落ち葉掃きと、庭の面倒を一手に引き受けているようだった。ありさもよく、一緒に手伝った。手入れをしながら、祖母は花や木に、しばしば語りかけていた。 「今日も元気そうだね」 「おやおや、昨日は暑かったからねえ。すっかりしおれてしまって、かわいそうに」 「寒いから大変だろうね。春が来るまで、辛抱しておくれ」 「もうすぐ花が咲くね。良かった良かった」 「おや、虫がたかったね。よしよし、今取って上げるよ」  幹に触れ、葉に触れ、花に触れながら、まるで自分の子どものように祖母は語りかけていた。木はそれに答えるようにまっすぐそびえ、花はコンクールで何度も優勝するほど、美しく咲いた。ありさの木も桃香の木も、すくすくと育っていった。ありさは祖母が庭に水をまく時の匂いが好きだった。太陽の光を受けて飛び散る水飛沫、光の向こうに透けて見える虹、緑の葉っぱの上に光る水球。  桃香も庭が大好きだった。家でお絵描きをしたり本を読んだりしているより、庭に出て祖母の仕事を眺めているほうを好んだ。継母は桃香が庭で遊ぶことをあまり歓迎しないようではあったが、祖母への遠慮もあったのか、午前か午後か、数時間だけは娘を庭で遊ばせることを認めていた。いつもリビングの窓から、見守るように視線を向けていたが。  しかし祖母は春の盛りに、庭で仕事中に突然倒れ、病院に運ばれた翌日に、帰らぬ人となった。心筋梗塞、それが正式な病名だったらしいが、心臓の発作だと父は説明していた。世話をしてくれる人を失った庭は、やがて荒れてしまうだろう。それくらいならと、継母はいっそのこと木を──祖父と父、叔父、それにありさと桃香の木を残して、全部切ってしまい、花壇も縮小して、芝生にしてしまおうかと提案した。が、それを聞いて、泣いて反対したのが、当時四歳の桃香だった。 「木を切っちゃだめ! お花を抜いちゃだめ! わたしとおねえちゃんで、お世話するから!」と。 「あなたたちには、無理でしょう?」  継母は当惑顔だったが、父が決済を下した。 「よし、それじゃ、定期的に植木屋さんに来てもらおう。毎日の水撒きは、ありさと桃香でやれるかな?」 「ええ」 「うん」  姉妹は同時に返答し、父は微笑して二人の頭をなでた。 「よし。では、もしおまえたちが水遣りをしないで花が枯れたら、お母さんの言うとおり、芝生にしてしまうからね。そのつもりでやりなさい」 「あなた。桃ちゃんに水撒きなんて──」継母は心配げに口を出した。 「桃香だって四才だ。できるだろう? おまえがやると言ったんだぞ、桃香」 「うん。できる!」桃香は、にこりとして頷いた。 「ありさちゃん──桃ちゃんをカバーしてあげてね。あの子は小さいし、あまり丈夫ではないの。わかっているでしょうけれど。水まきしている間に濡れて、かぜでもひいたら大変だわ。よく気をつけてあげてね」  桃香が寝てしまってから、継母はありさにそっと言った。 「ええ、気をつけるから、大丈夫」ありさは短く頷いた。  それからは、登校前と夕方の水やりが、ありさの日課となった。日曜日には、草むしりをした。月に二回来る植木職人は無口な老人だったが、ありさと桃香に肥料や土の選定、草花の育て方などの知識を教えてくれた。祖母が生前教えてくれたこと、植木職人の下村さんから教えてもらったこと、ありさと桃香の熱心さ──祖母も見守ってくれていたのかもしれない──そのおかげで、それから三年間、庭は荒れることなく、草花や木々は、祖母が生きていた頃と同じような勢いで栄えていた。ありさと桃香が花壇に植える一年草も、生き生きと花を咲かせた。  祖母が亡くなって一年半がたった秋のある日、中学生になったありさは少し寄り道をして、帰るのが遅くなった。傾きかけた日の中、急いで家に帰ると、庭では桃香がじょうろで、木の根元に水をまいていた。肩まで伸びた、母親似の柔らかいくせっ毛に金色の日が反射して、ありさの髪に近い色合いに見える。妹はクリーム色のブラウスに、緑のジャンパースカートを着、大きな緑のじょうろを重そうに抱えて、真剣な顔で水のシャワーを降らせていた。 「あっ、おねえちゃん!」  桃香はありさの姿を見ると、うれしそうに笑った。 「ごめんね、桃ちゃん、遅くなっちゃって!」  ありさは笑顔で、妹に近づいた。 「ありがとう。木の方は、わたしがやるわ。もう、花壇は終わったの? だったら、おうちへ入った方が良いわよ。お継母さんが心配するから……あら、桃ちゃん、どうしたの?!」  近くで見て、気づいた。妹の髪の毛から、ぽたんとしずくが落ちている。ブラウスの袖も濡れて、少しだけ下の皮膚が透けて見えていた。 「お水、かぶっちゃったの」桃香は笑い、ぺろっと舌を出した。 「花壇終わって、木にお水を上げようとして、ホースで。でもあれ、重いんだもん。上手くできなくて、上に、お水が飛んじゃったの。あたし、急いで止めたんだけど」 「ええ? ホースはあなたには無理だって、いつも言ってるじゃない。下村さんだって、そう言っていたでしょう?」 「うん。あたしも、わかった。だから、じょうろにしたの」 「まあ、桃ちゃん。わたしがしたのに」 「うん。でも、おねえちゃんが間に合わないといけないと、思ったの」 「ああ、ごめんね、桃ちゃん。ありがとう」  ありさは妹の手からじょうろを取り、軽く抱きしめた。 「あとはわたしがやるから、早く家へ帰って、お母さんに着替えを出してもらったほうが良いわよ。濡れたままだと、風邪をひいちゃうかもよ」 「うん」桃香は素直に頷くと、玄関へ入っていった。  妹の後ろ姿を見送ったあと、ありさは裏へまわり、水撒き用ホースを取り上げた。夕闇が迫ってきた庭をめぐりながら、ありさの頭に継母の顔が浮かんできた。継母はきっと怒っているだろう。桃香は花壇の水撒きを、じょうろでした。それは彼女の日課だ。でもそれが終わっても姉が帰ってこないので、かわりに木の水遣りもしようとして、水をかぶった。濡らさないでくれ、カバーしてやってくれと継母はありさに頼んだのに、それを果たさなかったと、きっと内心ではありさを責めるだろう。  その日の桃香は元気そうだったが、翌日夜になって、熱を出した。その事実もありさに後悔の気持ちを起こさせたが、それ以上に継母の刺すような視線がつらかった。 「ねえ、ありささん。わたしはあなたに、桃ちゃんをカバーしてあげてと頼んだはずよ。あの子にあなたをカバーさせろとは、言わなかったわ」  桃香を着替えさせ、濡れた服を洗濯かごに入れながら、継母は皮肉っぽく言ったものだ。 「ごめんなさい……もう、こんなことはないように、気をつけます」  ありさは、それだけしか言えなかった。 「本当に、そうしてちょうだい。そうでなければ、本当に芝生にしてしまいますからね」  継母はそれ以上なにも言わなかったが、翌日桃香の具合が悪くなってからは、ありさと顔を合わせるたびに、怒りのこもった非難の目で見た。そのたびに、ありさはまるで針に刺されたような気分を感じたものだった。    幸いにして、三日ほどで妹の熱は下がり、風邪は回復に向かっていった。その翌日、ありさが学校から帰ってきた時、継母は留守だった。今まで桃香の部屋とキッチンを往復し、家から一歩も出なかった継母だったが、どうやら桃香が元気になってきたので、やっと出かける気になったらしい。  妹の部屋に行くと、桃香はベッドの上に起き上がって絵本を読んでいた。妹が病気になってから、顔を見るのは初めてだった。それまで、継母が部屋に入れてくれなかったのだ。  ありさの顔を見ると、妹はぱっと表情を輝かせ、絵本を下に置いた。その笑顔に、ありさはほっとすると同時に、救われたような思いを感じた。 「ごめんね、桃ちゃん」  妹のベッドのそばに座りながら、ありさは改めてわびた。 「どうして、あやまるの?」  妹はしんから怪訝そうな顔で、首を傾げていた。 「わたしがあの時、遅くなったから」 「どうして? それはあの時、あやまってたよ」 「あの時濡れたから、風邪を引いちゃったんでしょ?」 「おねえちゃんのせいじゃないよ。あたしのドジだもん」 「でも、わたしが遅くなったから」 「関係ないよ、そんなの」  桃香はベッドから下りて、ありさに抱きついた。 「おねえちゃんが来てくれなかったから、寂しかった!」 「お母さんがいたじゃない」 「うん……ママはね。けどママって、時々、ちょっとうるさい」 「まあ、桃ちゃんったら!」  ありさは笑い、桃香も笑った。桃香は満足したように吐息をつくと、ありさから離れ、ベッドに戻った。 「お継母さんは?」ありさは妹の布団をなおしながら、問いかけた。 「お買い物。プリン食べたいって言ったから」 「ああ、そうなの」   「ね、おねえちゃん。ちょっとだけ、窓開けて」 「そうね。少し空気がこもっているみたい」  ありさは窓に歩み寄った。ベッドの反対側にある大きな窓は、ちょうど桃香が横になった時、外が見えるような位置にあった。桃香の部屋は一階にあったので、庭がよく見えた。  窓を開けると、涼しさを含んだ秋の風が、穏やかに吹き込んできた。クリーム色のチェック地にクマのプーさんが描かれているカーテンが、緩やかに揺れていた。  ありさは外の空気を吸いこみ、妹がよく外を見られるように、少し脇へどいた。 「あのね、桃ちゃん。思いきって、言っちゃうけれど」 「なあに?」 「あなたが、わたしのかわりに木にお水を上げようとして、濡れてしまったあの日ね、本当はわたし、もっと早く帰れたの。だから、よけいあなたに悪いことをしたな、という気になってしまったのよ。ごめんなさいね」 「なあんだ、そうなの」  桃香はちょっと驚いたように言い、ベッドの上に肩ひじを突いて起きあがった。 「ええ。わたし、それから学校の裏の丘に登ってしまったのよ。あそこから、町がよく見えるの。それでね……」  学校の裏の丘――ありさがその春から通い始めた近所の中高一貫私立の、広い敷地の裏手には、小高い丘があった。学校の裏門から少し回ったところに、その頂上まで続く細い道があり、そこから町が一望できる。その時から、そして今でも、ありさのお気に入りの場所だった。その話を、何度か妹にしたことがある。その時も妹は少し驚いたような顔をし、そして問いかけてきた。 「おねえちゃん一人で?」と。 「ええ」 「ずるーい!」  妹はベッドの上に起きあがり、ありさをひたと見つめてきた。 「ずるい、おねえちゃん。あたしもおねえちゃんの学校の裏山、行きたかった!」 「登ってみたいの?」 「うん。いっぺん行って見たかったの。でも、ママはお庭だけで充分でしょう、なんて言って、連れてってくれないし。お買い物には、連れてってくれるのに」 「あなたには危ないと思っているんでしょう、お継母さんは」  ありさはほんのすこしだけ苦笑を浮かべた。継母は桃香を大事に思うあまり、少しの危険も冒させたくないようだった。妹がまだほんの赤ん坊の頃から、「危ない危ない」を連発した。小さな物を握ろうとすれば、「飲んだりしたら、窒息してしまう。赤ん坊はなんでも口へ持っていってしまから」と、その手から取り上げた。這いずり始めると、ぶつかって怪我をしないようにと、その進路の障害物を、机でも椅子でも徹底的に取り除けた。動かせないものの前まで来ると、いち早く桃香を抱き上げたものだ。歩き始めれば、「転ぶから」と、よろけ始めるや否や、また抱き上げる。五歳のその時になるまで、ずっとそんな調子だった。桃香は幼稚園にも通っていなかった。 「他の子にケガをさせられたら」「先生が目を離している間に、遊具から落ちたりしたら」「それでなくとも、変な人が多い世の中だから」  継母が父にそう訴えているのを、ありさは聞いたことがある。 「まあ、幼稚園は義務教育じゃないから、行かせなくてもいいんだろうけれどなあ。でも、来年には小学校だろう? 行かせないわけにはいかないぞ」  父は半ばあきれたような口調で、そう言っていたものだ。 「それはわかっているわ。でも、その時はまでは、手元においておきたいの」 「桃香がかわいそうだとは思わないのか? 近所に子どもはいないし、幼稚園にでも出さなければ、友達ができないじゃないか。同じ年配の子どもとの付き合い方も知らないで、いきなり小学校に入って、うまくいくと思っているのか?」 「桃ちゃんは良い子よ。きっとお友達とも上手くやって行けると思うの。でも、そのお友達が問題なのよ。それで、小学校なんだけど、私立を受けさせようかと思っているの。聖邦学園の初等部を。あそこなら、公立より変な子はいないでしょう?」 「幼稚園にも行っていないような子が、受験なんてできるのか?」 「塾には通わせているわ。桃ちゃんは、とっても優秀なのよ。先生は聖邦でも大丈夫だって、おっしゃってくださっているわ」 「いつから桃香を塾になんて通わせ始めたんだ? 俺は知らなかったぞ」 「去年からよ。かまわないでしょう? わたしも一緒についていっているわ」 「もういい。おまえの好きにしなさい」  父はため息を一つついていた。 「受験には親の面接もあるのよ。あなたも協力してね」 「わかったよ……」父はさらにため息をついたようだ。  思い出されてくると、その時でさえ、ありさも我知らずため息が出たものだ。継母が継娘に対しては、これほど熱心に保護しようとはしなかったことが、かえってありがたくさえ思えたものだった。 「ねえ、桃ちゃん。幼稚園、行きたい?」  思わず、ありさはそう問いかけていた。 「うーん。少しだけ」桃香は首を傾げて答えた。 「行きたかったら、行きたいって言えばよかったのに」 「だって、それほど、うんとは行きたくなかったんだもん。お家でずっと遊んでるのも、楽しいかなって思えて」 「そう。それなら、いいけれど。桃ちゃんは聖邦には行きたいの?」 「あそこ、遠そうだから、いやだな。本当はね、おねえちゃんが行ってたとこがよかったんだ。ママは怖い人がいるって言うけれど、あっ」  妹は不意に思い出したように言葉を途切れさせ、小さく頭を振った。 「おねえちゃん! 話、飛ばしてる! あたし、お山に行きたかったって、言ってたのに」 「あっ、ああ、そうだったわね」ありさは小さく笑った。 「じゃあ、今度連れていってあげるわ」 「ホント!?」桃香はベッドから飛びあがり、ありさのそばに駆け寄ってきた。 「ホントに連れてってくれるの?」 「ええ。あなたに風邪をひかせた、お詫びのしるしにね」 「わあー!」  妹は歓声を上げ、ありさに抱きついた。やがて興奮が収まると、ベッドに戻っていきながら、心配そうに言葉を継ぐ。 「でも、ママがいいって言うかなあ?」 「お継母さんには、もっと安全な場所……そうね、聖が原公園にでも行くといえば言いわ」 「ああ、そうね! じゃ、お姉ちゃんとあたしだけのヒミツ! 今度の日曜日にね」  姉妹は目を見交わし、おたがいに笑いあった。継母の目をくぐってささやかな冒険をするために、それまでも二、三回は小さな嘘をついてきた。それは、二人だけの秘密だった。  継母が帰ってきたらしく、廊下に足音が聞こえた。桃香は急いでベッドにもぐりこみ、ありさは窓に飛んでいって、閉めた。窓を開けているのを見つけたら、継母は顔をしかめるだろう。病人を風に当てるのはよくないと、信じこんでいるようだったから。空気がちょっとひんやりしているのを感じて、疑わないだろうか。少々心配ではあったが、入って来た継母はただ、「冷えてきたわね。もうそろそろ夕方だから」と言っただけだった。  入り際、ありさを見つけた継母の目の中に、ほんの一瞬だけ不快そうな表情がよぎっていった。ありさも気づいてはいたが、さりげないふうを装い、微笑を浮かべた。 「ちょっと桃ちゃんの様子を見にきたの。心配だったから」 「ああ、そう」継母の返事はそれだけだった。 「元気そうでよかった。わたし、水撒きに行ってくるわ」  ありさはドアに手をかけた。ドアを締める時、桃香がこっそりとウィンクをしてよこした。ありさも笑い、秘密の合図を返すと、廊下に出ていった。 「わぁ!」  丘の頂上に着くと、妹は歓声を上げていた。五才の桃香の足でも、一時間もかからずに登れるほどの高さではあったが、町がよく見晴らせる。頂上付近には大きな楠が二本生えているだけで、短い草が茂る広場のようになっていた。 「いい眺めでしょう? わたしはここから町を見るのが好きなのよ」  ありさはビニールシートを広げ、妹に笑いかけた。 「疲れたでしょう、桃ちゃん。ここでお昼にしましょう」 「うん。くたびれちゃった。ちょっとね」  桃香はシートの上に座りこんだ。 「ああ、座っても、良く見える! それに、お空が近くなったみたい」 「そうね、ちょっとだけね」  ありさは微笑し、空を見上げてから、傍らに座っている妹を見やった。桃香は髪の毛を二つに分けてピンクのリボンで結び、ピンクギンガムのワンピースを着ている。丘を上っている間中、妹が服を潅木に引っ掛けて破いたりしないか、スカートに泥をはねたりしないか、内心心配しながら登ってきたのだった。さすがに靴だけは継母がはかせた茶色の革靴では、山登りは無理だと最初からわかっていたので、ありさはこっそり桃香がいつも庭ではいている運動靴を、持ち出していた。  二人が公園に行きたいと言った時、継母は最初自分もついていくと主張した。『大丈夫』と、何度言ってもきかなかった。どうしようか、無理かな、と妹と顔を見合わせたものだが(実際、それで流れた二人の秘密の計画も、かなりあった)、しかし幸いなことに、この時には当日、瑤子に用事ができたのだった。彼女の高校時代からの友達が集まって、ランチをするらしい。  継母はその日の朝、二人にランチボックスを持たせた。「本当に頼むわよ」と、ありさに念を押しながら。バスケットにつめたサンドイッチ、フライドチキン、スティックサラダ、皮をむいたりんご。水筒に入れた麦茶。継母の作ったそのお弁当を、濃いピンクチェックのレジャーシートの上に広げた。 「あれが、あたしたちのお家?」  桃香がサンドイッチを食べながら、うれしそうに指をさした。 「そう。わりと大きいし、木が多いから、目立つでしょう?」 「うん。お池と、おねえちゃんとあたしの木も見える」  桃香はお弁当を食べ終わると、首を傾げて言い出した。 「ねえ、あたし、お庭にある健おじちゃんの樅の木に、今度のクリスマス、飾ってみようかなって、ちょっと考えたの」 「ああ、クリスマス・ツリーにね。そうね。もちろん──あのままででしょ?」 「うん。お庭にツリーが、生きてる本物のツリーがあったらすてきだなって、思ったんだ。でも、さっき思ったの。木は、いやかなぁって。ライトとか、熱いかもしれないし、飾りだって、重いでしょ」 「うーん、そうねえ。木にとってみれば、邪魔かもしれないわね」 「そうよね。だから、やめた」  桃香はランチを食べ終えると、ウェットティッシュで手をふいた。ありさはバスケットを片付け始めた。 「ねえ、おねえちゃん」 「なあに、桃ちゃん?」 「向こう側は、何が見えるの?」 「えっ?」 「お山のこっち側じゃなくて、向こう側」 「ああ、反対側ね。そうね──わたしは見ていないけれど、隣の村じゃないかしら」 「そっち側も、みてみたいな」 「じゃあ、行ってみる?」  二人はシートをたたむと、楠を回って、反対側へと出た。そこは、町の側より少し狭い広場のようになっている。その下には、また別の風景が広がっていた。収穫の終わった水田は、一面の茶色と黄金色の絨毯のようで、その間を縫うような灰色の道と、点在する民家の屋根。丘のふもと付近は、ひときわ緑の濃い森のようだった。 「あっち側へ、行ってみたいな」桃香が言い出した。 「無理よ。向こう側へなんて行ったら、帰るのにまたここを登って降りなければならいないじゃない。遅くなってしまうし、第一桃ちゃんの足じゃ、無理だわ」 「え〜っ」 「それに、向こうへ行っても、おもしろそうなものなんてないわよ。田んぼと森だけ」 「あの森へ、行って見たいの」桃香はふもとを指差した。 「どうして?」 「あそこの真中に、大きな木があるでしょ?」  妹の指差す方を見ると、たしかに森の真ん中付近に、ひときわ高くそびえる、太い木があった。森のほかの木々にくらべ、倍くらいの高さがありそうな巨木だ。 「ええ、でもあれがどうしたの?」 「あれ、トロロの木かもしれないよ」 「トロロ? ああ、アニメのね」  ありさは頷いた。桃香のお気に入りのアニメだ。 「でも、あれはお話でしょう? あそこには、いないんじゃないかな」 「おねえちゃんには、見えないかもね。もう大きいもん」 「うん。ちょっとつらいかな。まだ大人じゃないけれど、子どもとも言えないものね」  十三才とは半端な年だと思いながら、当時のありさは苦笑して頷いたものだ。 「ねえ、おねえちゃん、お願い!」 「うーん‥‥」  桃香に再三せがまれ、ありさは考えながら時計を見た。もうすぐ一時。たしか丘の向こう側からこっちの町まで、一本大きな道が通っていて、バスも走っている。もう少し、冒険してみるのも、悪くないかもしれない――ありさ自身も今まで行ったことのない丘の反対側、隣の町とふもとの森に興味をかきたてられていた。 「じゃ、行ってみようか!」 「うん!」桃香はうれしそうに頷き、ありさの手をつかんだ。 「早く行こうよ、おねえちゃん!」  丘を降り、勾配が平らになると、細い道が森へと続いていった。中は思ったより木々が生い茂り、薄暗い感じがした。重なり合った葉っぱの間から覗く青い空、金色の糸のような木漏れ日──  あの夢の感触が、よみがえってきた。子供のころから今まで時々見る、森の中で迷う夢。空気は違う。木も違う。でも森の匂いと木漏れ日、少し湿った落ち葉の感触は、良く似ている。 「あっ!」  不意に桃香が小さな声を上げて、立ち止まった。じっと森のある一点を、見つめている。何かいるのだろうかと、ありさもそっちの方向を見たが、木と木の間に少し広めの空間があるだけで、草と木の他には何も見えなかった。が、妹はそこの一点を見つめ、そちらに一歩踏み出して、何か言いかけている。 「どうしたの、桃ちゃん?」  問いかけてみたけれど、返事もしない。ただ、じっと前を見ていた。そして不意に声を上げた。 「あっ、ねえ、待って──」と。  桃香は突然、今までつないでいた姉の手を離して、走り出した。 「あっ、ちょっと!」  ありさは一瞬その場に立ちすくみ、ついで妹の後を追いかけた。桃香は道からそれ、潅木の茂みの中を、どんどん入っていく。立ち木の枝にワンピースが引っ掛かり、バリっと音を立てて裂けた。それでも、桃香は走っていく。ありさの脳裏に、継母の顔がちらついた。ああ、家へ帰ったら、なんて言い訳しよう。道をはずれると、思ったより走りにくい。 「きゃっ!」  潅木の根に足を取られ、ありさは地面に手をついた。ジーンズの膝が引っかかって破け、皮膚も破れたようだ。血がにじんできた。手にも少々擦り傷がついたようだ。しかし、妹は姉が転んだことにも気づかないようで、どんどん走っていってしまう。ありさはすぐに立ちあがり、手をはたく暇も省略して、再び後を追った。見失ってはならない。こんなところで、桃香を迷子にしたら──それにしても、妹は何を追いかけているのだろう。あんなに夢中になって。ウサギか何かだろうか。それとも、本当に大人の目には見えない、この世のものならぬ何かが、彼女には見えたのだろうか。  木々の向こうに、妹の姿は消えていった。ありさは一瞬ひやりとした冷たいものを感じ、妹が走っていったあたりをめがけて、足を速めた。  突然、目の前が明るくなった。そこは小さな広場のような空間になっていて、真ん中あたりに、丘の頂上からも見えた巨木が立っていた。杉の木のようだったが、幹の太さは人が二人腕を広げてやっと抱えられるくらいであり、木のてっぺんは、下からでは見ることができないほどだった。幹の下のほうに、神縄がついていた。古いもののようだが、やはりこれは御神木だったのだろうか。  巨木の向こうに、池があった。あまり大きくはなく、うっそうとした木にかこまれていたので、上からはよく見えなかった。水はすんでいるが、光があまりさしこまないため、全体は薄暗い。だが木漏れ日が入ってくるので、水面に細い金色の光がちらちらと反射して、なにか幻想的な雰囲気を感じさせた。  桃香は、どこに行ったのだろう──ありさは見まわした。まさか、池に──? 背筋が凍りそうな予感を覚えて、ありさは近づき、どきどきしながら水面を覗きこんだ。水は底まで見える透明さで、小さな魚や水草が揺れているのが見える。しかし、水面はしんと静まり返り、さざなみ一つない。もちろん、妹の姿も見えなかった。  ありさはほっとしてきびすを返し、もう一度木の中へ踏み出した。森自体は、さほど広いものではない。妹の名前を呼びながら、三十分ほど森の中をさまよったあと、ありさは再び御神木のある小さな広場へと戻ってきた。  桃香がそこにいた。巨木のふもとに立って、少し怪訝そうな表情であたりを見ている。髪の毛は片一方のリボンがほどけて肩に振りかかり、もう片方も半分くらい緩んで、髪の半ばほどにぶら下がっている。右の頬には潅木の枝でかすったらしい傷があり、ワンピースも右袖の中ほどと、スカートの裾が大きく破れていた。運動靴は泥だらけで、白い靴下にはいくつもの泥はねが上がっている。  桃香は振り返って池を見、木を仰ぎ見ていた。そして、ありさと目があった。 「あっ、おねえちゃん」 「桃ちゃん!!」ありさは夢中で、妹のもとに走りよった。 「どこへ行っていたのよ! 一人で行っちゃうなんて! 探したわよ! ああ、ああ──でも、良かった! 見つかって!」  ありさは妹を抱きしめ、安堵のあまり涙がでそうになった。今度こそしっかりと手をつなぎ、姉妹は森を抜けた。歩きながら、ありさは訪ねた。 「でも、どうして急に走って行っちゃったの? まさか、本当にトロロに会ったの?」 「ううん。トロロじゃなくてね」  桃香はかぶりを振り、次いでにっこりとして答えた。 「あのね、あたし、お友達ができたの」 「お友達?」 「うん」 「どんな子? 森で会ったの?」 「それは、ヒ、ミ、ツ」  桃香の眼には、少し照れたような、いたずらっぽいような、そんな光が浮かんでいた。「見えない人には話さないでって、言われたんだもん」 「え?」ありさは当惑と同時に、微かな胸騒ぎを感じた。もしや妹は変な人に声をかけられたのではないか、と。しかしあの時桃香が見ていた先にも、追っていった先にも、人らしいものは見えなかった。 「知らない人についていっちゃ、ダメよ」  思わずありさはそう声をかけてしまった。 「ママもそう言うけど、それって、大人でしょ?」 「うーん、まあ、そうかもしれないけれど、それだけでもないと思うのよ」  最近は自分と同じような年代の子でも、罪を犯すことがあるから――そんなことを思ったが、口には出さなかった。それではすべての人間に対して、信用ならないと妹に言うようなものだから。継母はたしかに、それに近いことを言っているが。  森を抜けて幹線道路に出るころ、桃香は今出てきた場所を振り返った。 「みどりちゃんは、泣いているのかなあ……?」 「え?」ありさは思わず森を振り返り、そして妹の顔を見た。 「みどりちゃんって……なあに? お友達の名前?」 「んふ」桃香は再びあの、少しいたずらっぽそうな笑みを浮かべただけだった。 「その……みどりちゃんはわからないけれど、桃香のそのありさまを見たら、お継母さんは泣きそうね。わたしも泣きたい気分だわ。公園に行くって言ったのに、そんなに汚れたら、嘘がばれそうよ」  改めて明るい光の中で見た妹の惨状に、思わずそんな言葉が出た。 「うーん」桃香は取れかけたリボンをほどき、髪の毛を完全に肩に垂らすと、手にしたピンク色のリボンを少し恨めしそうに眺めていた。 「片っぽ、たぶん、木に引っかかって、取れちゃったの。これ、好きだったんだけど──」 「服もビリビリよ。これもお気に入りだったんじゃないの?」 「うん。ホントはおねえちゃんみたいなカッコで来たかったのにな」 「仕方ないわね。公園にピクニックということだったから」 「あたし、オーバーオール着たいって言ったのに」桃香は口を尖らせた。 「お外ではトイレが大変だからって、お継母さん言っていたわね」  ありさもかすかに苦笑を浮かべた。  大通りに出ると、すぐにバス停があった。幸いなことに、それは家から歩いて十分ほどの駅に向かうバスの停留所だった。あまり本数は多くなさそうだが、十五分ほど待てばそのバスが来ると知り、二人は道の縁石にこしかけて待った。そして泥だらけになった妹の運動靴を脱がせ、最初に家を出る時に履いていた茶色の革靴に替えさせた。汚れた靴はビニール袋に入れ、バッグの下の方に突っ込む。あとでこっそり洗おう。 「おなか、すいちゃった」と言う桃香に、ありさはおやつにと持ってきた、継母手作りのカップケーキを出して、麦茶の残りをコップに注いだ。食べ終わる頃には、バスがきた。町へ向かうバスの中で、ありさは提案した。 「じゃあね、桃ちゃん。公園で転んだっていうことにしておきましょうよ。転んで植え込みの中に突っ込んでしまった、ということで、どう?」 「うん!」桃香はほっとしたように頷く。  しかしそれでも──やはり継母は怒るだろう。ありさはいくぶん憂鬱な気分で、そう思ったものだった。公園へ行ったという嘘は見破られないかもしれないが、桃香をケガさせたということと、服を台無しにしたことで、ありさを責めるに違いない。言葉では皮肉たっぷりに二言、三言。それから長い間の、非難の眼差し──これから桃香をどこかへ連れ出すというのも、良い顔をしなくなるかもしれない。  ありさは、ため息をつきたい思いをこらえていた。    案の定、桃香の様子を見た瑤子は顔色を変え、「桃ちゃん! その恰好は、どうしたの?!」と、広い庭を超えて周りにも響きそうな声を上げていた。公園で転んで灌木に突っ込んだ、という嘘は疑われなかったようだが、ありさは有言無言の叱責を受けた。 「桃ちゃんを走らせたのね。そうでなければ、転んで灌木になんて突っ込まないわ」 「あなたはもう少しちゃんと見てくれると思っていたのに」 「あなたを信用していた私がバカだったわ」――そして向けられる、非難を込めた眼差し。  それ以来、継母は二人だけでの外出を許してくれなくなった。桃香はそれに対し、がっかりしたような、どことなくイライラしたような態度をしばらく垣間見せていたが、一か月ほどたった頃から、落ち着いてきたようだった。そして日常は続いていった。    翌年、桃香は聖邦学園初等科の試験に合格し、四月から学校に通い始めた。瑤子は毎朝娘のために、早起きしてお弁当を作っていた。ありさのお弁当も、以前から作ってくれていたが(「継母だから冷たいなんて、言われるのは嫌ですからね」と、言っていたことがある)、桃香用のそれは、比較にならないほど手が込んだ、きれいなお弁当だった。瑤子は「初めて電車通学をするのよ。心配だわ」と、学校の最寄り駅まで、いつも一緒に行っていた。そこから学校への一本道を歩いていく娘の後ろ姿を見守り、帰っていく。帰りも学校が終わる時間に合わせて、駅まで迎えに行っていた。桃香には間もなく友達ができたようで、理沙ちゃんとれいなちゃんというその二人と一緒に、駅からの道を歩いていっているようだった。 「ママがいつも来ているの、恥ずかしいから、来ないで」と、五月の連休が明けた後、桃香が言いだし、「おまえも、いい加減過保護すぎるぞ」と弘にも注意されたこともあって、学校側の駅改札を一緒に抜けるようなことはせず、改札を出て行って友達に合流する娘を、改札の内側から見守っていたようだったが。  その年の夏休み、珍しく弘にまとまって一週間の休みが取れた。 「桃香も小学校に上がったことだし、初めての夏休みだ。家族でどこかに遊びに行こう」 「そうね。夏休みの宿題に絵日記があることだし、何か思い出を作らせたいわ」  瑤子は嬉しそうに表情を輝かせ、同意していた。 「どこがいい、桃ちゃん? どこに行きたい? 遊園地? 海? 山? それとも思い切ってハワイなんかもいいかもしれないわ」 「うーんとねえ」桃香も嬉しそうな表情で天井を見上げ、そして答えた。 「木がいっぱいあるところが良いな。あと、お花畑や野原なんかがいい」 「ありさは?」父はこちらに目を向け、穏やかに問いかけてくる。 「星がきれいなところがいいわ」  ありさはそう答えた。この家に来てから、家族旅行に行ったことは今までにない。これが初めてだ。その期待と嬉しさに、彼女の胸もまた弾んでいた。 「じゃあ、高原のリゾートなんかはどうだ?」弘はそう提案し、 「それも悪くはないわね。そうしましょう。ただ、ペンションとかではなく、いいホテルに行きたいわね」瑤子も同意していた。  一家は八月の頭に、信州の高原リゾートホテルに五日ほど滞在した。牧場や花畑、遊園地、ファミリー公園などを訪れ、翌日は埼玉の家に帰る、その前の日には、近くの山にハイキングに出かけた。冬場にはスキー場に使われるそこに途中までリフトで上がり、ロッジで昼食をとった後、全長で一時間ほどかかるハイキング道を歩いていく。道は整備されてはいるがコンクリートではなく土で、道端には草が茂り、ところどころ花が咲いている。周りには木が多く、近くには渓流が流れ、手すりのついた木の橋がかかっている。空は青く、両側から茂る木の緑は輝いて見えた。  桃香は母に手を引かれ、嬉しそうにその道を歩いていた。が、行程の三分の二くらいまで来たところで、彼女は急に立ち止まった。 「どうしての、桃ちゃん?」瑤子が怪訝そうに問いかける。  しかし桃香は返事をせず、ただ道の脇に茂る木々をじっと眺めていた。その表情に、ありさは見覚えがあった。山向こうの森に二人で行った時、妹はこうして立ち止まって見ていた――  あっと思う間もなく、桃香は母の手を振り離して、木々の中へと飛び込んでいってしまった。呆気に取られていたであろう父母よりも早く、ありさは行動を起こした。 「待って、桃ちゃん!」  そう叫んで、妹の後を追いかけようとした。整備された道と違い、脇にそれると木と下草、背の低い灌木が入り乱れ、歩きにくい。後ろから継母が、そして父が追いかけてきているようだ。同じように叫びながら。  あの時と同じように、木々の枝が頬をかすめ、石や草が足を躓かせた。妹の姿はその先にかすかに見えていたが、やがてまた見えなくなった。ありさは立ち止まり、後から来た弘と瑤子に告げた。見失ってしまったと。  瑤子は恐慌状態になった。言葉にならない言葉を発し、さらに奥へ入っていこうとする。それを弘が制した。 「待ちなさい。あまり深入りすると、私たちも迷子になる」 「何を言っているのよ! 桃ちゃんがどこかへ行ってしまったのよ! 迷子になっているのよ! 探さなければ!」 「わたしが探してくるわ」  ありさは奥に踏み出しかけたが、やはり父に止められた。 「おまえもだ、ありさ。とりあえず来た道を引き返して、元のハイキング道に出よう。そしてここの管理者に連絡して、桃香を探してもらうんだ」 「そんな悠長なことを!」  すっかり取り乱した様子の継母の手首を握り、父は強い口調で言った。 「こういう場では冷静にならなくてはいけない。それが最善なんだ。大丈夫。ここはそんなに危ない地形じゃないはずだ。地元の人なら、きっと桃香を見つけてくれる」 「……桃ちゃんに何かあったら、一生あなたを恨みますからね」  瑤子はぽつりと言ったが、その口調にありさは背筋に寒いものが走るのを感じた。  それからの二時間はとてつもなく長く感じられたが、幸い探しに行った施設のレンジャーさんたちによって、桃香は無事に発見された。木が少しまばらなエリアの倒木の上に、少し困ったような顔で腰を下ろしていたという。 「ちょっと灌木でこすった傷はありますけれど、元気ですよ」  そんな言葉とともに桃香が連れてこられた時、ありさは心の底から安どのため息をついた。瑤子は飛びつかんばかりにして娘を抱きしめ、叫んでいた。 「どうしたの、どうしたの、桃ちゃん! どうして勝手に道をそれて行ってしまうの! どんなに心配したか、知れやしないわ!!」 「ごめんなさい、ママ」  桃香は神妙な様子で謝っていた。その頬には木でこすったようなひっかき傷があり、手にも擦り傷があったが、さすがにハイキングコースを歩くため、長そでの白いチュニックとピンクのズボン姿だったから、腕や足に傷はないようだ。チュニックはかなり汚れていて、ズボンの膝も擦ったような跡があったが。 「なんだか、珍しい動物を見たような気がして、追いかけた、とお嬢ちゃんは言っていますよ」桃香を見つけてくれたレンジャーの人が、慰め顔でそう言葉をかけていた。 「小さい子には、あるんですよね。興味を引かれたものを追いかけてしまう」 「ありがとうございました。本当にご迷惑をおかけしました」  父は施設の人々に頭を下げ、謝礼に「みなさんで飲んでください」と、「酒代」と記した封筒を渡していた。  その夕方、ホテルの食堂で食事を待っている間に、瑤子は娘に怖い顔を作り、「もう本当にこんなことはしないでね。生きた心地もしなかったわ」と低い声で言った。桃香も神妙な顔をして、「うん。もう絶対しません」と頷いていた。 「まあ、桃香が無事でよかった。ところで、いったいどんな動物をおまえは追いかけようとしたんだい?」弘は苦笑いを浮かべながら、問いかけていた。 「うん」桃香は答える前に、ちょっと黙った。その表情を見て、ありさは気づいた。妹のその表情、それは山向こうの森で妹を見つけ、『どうして行っちゃったの?』と問いかけた時、桃香が見せたその顔だったのだ。 「野うさぎ。だと思う」そう答えて、桃香はちらっと上目遣いに、ありさを見た。姉の胸の中によぎった思いを気付いているかのように。 「たとえどんな珍しいものを見たとしても、たとえゴクラクチョウやユニコーンが現れたとしても、いい、もう二度と勝手にどこかへ行ってはいけませんよ。ましてや、野うさぎだなんて」瑤子は再び深いため息をついて諫め、 「うん、ごめんなさい。もうしません」と、桃香は繰り返していた。  家に帰って一週間がたった頃、朝、一緒に庭で水撒きをしながら、ありさは妹に問いかけた。 「ねえ、桃ちゃん。信州で勝手にどこかへ行った時――」 「うん、みどりちゃんが見えたの」  桃香は姉の言おうとしていることをわかっているように、頷いた。 「みどりちゃんは、あの森にいるのじゃないの? なぜ信州に?」 「わからない。でも、夢でも見たのよ」 「みどりちゃんって、誰?」  その問いを、ありさはもう一度問いかけた。 「それは、ヒミツ」  妹の答えは、同じだった。そして再びあのいたずらっぽいような表情で、ありさを見た。 「おねえちゃんにも見えたら、教えてあげる。あっ」  桃香は目を輝かせ、目の前のバラの茂みを見た。 「お花が咲いてるよ!」 「あら、本当ね。このバラの茂みはお祖母ちゃんが死んでから、ずっと花が咲かなかったのに。桃ちゃん、ずっとお花を咲かせてねって話かけてた。良かったわね、本当に」  ありさも目を向けた。濃淡ピンクの、少し小ぶりなその花が、三年ぶりに開いたのだ。いくつかの小さなつぼみも見える。祖母の死後、一時期枯れかけていたレモンの木も、一年ほど前に勢いを取り戻し、今年は五つほど実をつけていた。 「下村さんも驚いていたわね。このお庭は普段わたしたち二人で手入れをしているだけなのに――こうして水やりをしたり、草をむしったり――今はお祖母ちゃんが生きていたころのように、木も花もみな元気になっているっって。だからうちに手入れに来るたびに、びっくりするって言っていたわよ」  夏の日差しは強く、日の光に水がきらめいて見えた。ありさの好きなその光景は、また妹も愛しているようだった。 「夏は日差しが強いから、庭木がみな咽喉を乾かしているんだよって、昔お祖母ちゃんが言っていたわ。だから、水をやると喜んでいるようだって」 「うん。喜んでいるよね」桃香もにっこり笑っていた。  リビングの窓から見ている瑤子の視線は、できるだけ意識しないようにした。継母はいつも娘たちが水撒きをしている時、リビングの窓に立って見ているのだ。二、三度振り返って目が合った時のその視線は、驚くほど険しかった。姉妹が仲良くすることを、継母はあまり好まないのだろうか――漠然とありさは、そんなことを考えたものだ。  平穏な日常を壊してしまった、あの事件が起こったのは、十月初めのことだった。その日、いつものように瑤子に最寄り駅まで送られて学校に行った桃香は、帰る時間になっても、迎えに来た母の前に姿を現さなかった。学校の方針で、駅までの道は保護者なしで、自分で歩くよう定められているため、瑤子も駅までしかついていかれないのだが、普段は学校のお友達、葛城理沙と須郷れいなという二人の女の子と駅で合流し、歩いていく。帰りも同じだが、葛城理沙は駅まで母親が車で送迎に来るし、須郷れいなは駅前からバスに乗るため、二人とも駅舎には入らない。二人と別れた桃香が一人で駅構内に入ってきたところで、待ち構えていた瑤子が改札から出てきて娘を迎え、一緒に帰るのが常だ。  学校の時間割も連絡プリントもくまなく目を通している瑤子は、娘の終業時間を把握していた。今日は四時間目までで、お弁当を食べて、お掃除をして帰るので、駅に着くのは一時四十分ごろ――だが、一時半に駅について、改札の向こうに目を凝らす瑤子の前に、桃香が現れることはなかった。二時になっても、二時半になっても。心配のあまりだろう、瑤子は学校に電話をかけた。 「一年雪組の、常盤桃香ちゃんですか? いつものように、お友達二人と帰りましたよ。校門であいさつをして、駅へ向かう道を歩いていきました」  瑤子は、ついで友達二人の家に電話をかけた。 「桃ちゃんとは、いつものように駅で別れました」葛城理沙は無邪気な口調で言い、 「なんか桃ちゃん、今日はご用があるから、バスで帰るって言っていました」と、須郷れいなは答えたという。桃香がどのバスに乗ったのかは、わからない。れいなは自分の乗るバス停に行ったから、と。だから、彼女と一緒のバスではないことは確かだけれど、とも。  自宅の最寄り駅から学校の最寄り駅を結ぶバス路線も、なくはない。かなり大回りだが。娘はそれに乗って帰ったのかもしれない――そう思ったのだろう。瑤子はすぐに家に帰ったが、桃香は戻っていないようだった。四時半前にありさが帰宅した時、彼女が目にしたのは、取り乱し、心配しきった継母の姿だった。夏休みに信州で、桃香がハイキングコースをそれて樹林地帯に迷い込んでしまった時と同じ、蒼白な顔をし、いらいらと落ち着かなげに歩き回り、時折狂おしい叫びを上げ、首を振り、頭を抱える。 「ありささん、桃ちゃんがまだ帰ってこないの! お友達の話だと、あの子はバスに乗って帰ると言ったらしいのだけれど、それでもとっくに帰り着いているはずなのに!」  ありさは思わず、はっと息を呑んだ。つい三日前に、二人で朝水撒きをしている時、桃香はこう言っていたのだ。 「ねえ、おねえちゃん。いつか行った森ね、帰りバスに乗ったでしょう? あのバスって、どこからどこに行くバスなの?」と。  その時には自分もそれほど気にはしないで、「たしか○○駅(自宅の最寄り駅)行きだったわよね。ちょっと調べてみるわ」と答え、スマートフォンで検索した結果を妹に伝えたのだ。「あら、○○駅と△▽駅(桃香の学校の最寄り駅)を結んでいる路線だわ。偶然ね」と。 ――もしかしたら妹はそのバスに乗り、あの森の近くの停留所で降りたのではないだろうか。もしかしたら、あの森に行ったのだろうか――そんな懸念が湧いた。あれから何度も「もう一度行きたいなぁ」と言っていたから。やはり二人で水撒きをしている時に。しかし、それを継母に告げるのは、ためらわれた。あの日公園ではなく、丘とその向こうの森に行ったことは、継母には秘密なのだ。それを継母に告げると、きっとひどい非難が飛んでくるに違いない。しかし妹がそこに行って今も帰ってこないとしたら、何かが起きているのかもしれない――知らないふりはできそうにない。妹のことが心配だ――。  二つの気持ちの中に、ありさは引き裂かれそうな気がした。    五時になって、連絡を受けた父が会社から戻ってきた。継母は捜索願を出したのだろう、前後して警察がやってきた。 「桃香ちゃんは、バスに乗って帰ると言ったのですね? 桃香ちゃんは電車通学ですけれど、バスは定期外だから、普段小銭は持っているのですか?」  やってきた中年の警察官が、そう問いかけた。 「いいえ……学校では、通学途中の買い物を禁じているので。ああ、でもあの日は学校の売店でノートを買うからということで、そのお金は持たせました」 「それは聖邦でも、許可されているのですね。学用品を売店で買う時だけは」 「はい」 「桃香ちゃんには、GPS付きの携帯電話や防犯ブザーなどは持たせていますか?」 「いいえ。本当はそうしたかったところなのですが、学校には携帯電話持ち込みは禁止なのです。でも、駅から学校までの道は他にも大勢生徒さんたちがいるし、駅まではわたしが送り迎えしていました」 「桃香ちゃんがどこへ行ったのか、心当たりはありますか?」 「いいえ、まったくありません!」 「ふむ」警察官は考え込むような顔をした。 「まだ事件性があるともわかりませんので、もう少し様子を見てみましょう。夜になっても帰らなければ、またご連絡ください」  そう言って、警官はいったん帰っていった。 「桃香を探しに行こう」父が立ち上がった。 「私も行きます!」瑤子も衝かれたように腰を上げる。 「いや、おまえはここにいろ。もし桃香が家に帰ってきた時、入れ違いになると困る」 「わたしも探しに行くわ」ありさもそう申し出た。 「そうか……でも」  父は継母に目を移した。一人で置いておくのに不安を感じたのだろう。 「それならお父さん、お父さんはお継母さんと家にいて。わたしが行ってくる」  ありさは家を出、駅まで歩いて、そこからバスに乗った。いつか妹と二人で乗った路線である。桃香の学校の最寄り駅まで、まずはずっと乗ってみた。窓の外を注意深く見ながら。ありさは降り際に、バスの運転手に携帯電話の中の桃香の写真を見せ、一時半ごろこの子が乗ったかを聞いてみた。運転手は首を振り、「いや、その時間、自分は向こうの駅にいたな」と答えた。礼を言い、聖邦学園側の駅の周りを、同じく写真を見せながら聞いて回ったが、たいして収穫は得られず、もう一度同じ路線のバスに乗る前、運転手に聞いた。 「ああ、そう言えば、見たな、この子」その運転手は答えた。 「定期じゃないから、通学ルートじゃないのかなと思った。『淵が森』に行きますか? って聞いてきたんだ」  妹はそこで降りたという。やはりそうなのだ――予感はあったが、本当に行ってしまった。中で道に迷ったのだろうか。それなら、早く探さなければ――ありさはバスに乗り、同じバス停で降りて、森に踏み入った。風が鳴る音がする。木々がこすれあう音も。だが、もう七時半を回り、日はとっぷりと暮れて、森は暗かった。深く中に入れば、真の闇だ。懐中電灯を持ってこなかったし、携帯電話の灯りで探すのも、バッテリー切れの恐れもある。彼女一人でこの中で探すのは、無理だ――妹の行き先ははっきりわかったのだから、それを告げれば大人たちが探してくれるだろう。懐中電灯を持ってこられたら、自分で探してもいい。ありさは携帯電話で家に連絡し、電話に出た父に、得られた情報を話した。 「どうしてそんなところへ?!」と、父は緊迫と驚きに満ちた声で問い返してきたが、ありさは思わず「わからない」と、答えてしまった。 「そうか。まあ、行先はわかったんだ。とりあえず、おまえは帰って来なさい、ありさ」  父はそう告げ、ありさはそれに従って、次に来たバスに乗って家に帰った。  家には誰もいなかった。灯りはついていて、鍵もかかっていなかったが。食堂のテーブルに父の筆跡で、警察の人とともに森へ探しに行ってくるから、家で待っているようにというメモが置いてあった。  ありさはダイニングセットの椅子に腰かけた。もう夜の八時をとうに過ぎていたが、空腹は覚えなかった。父や継母のために、夕食を用意した方が良いだろうか――桃香が見つかった時のためにも。とりあえず食パンに野菜とチーズ、ハムを挟んでサンドイッチを作った。でも自分では食べる気はせず、ラップをかけておいたまま、待っていた。  父が憔悴しきった顔で帰ってきたのは、日付が切り替わるころだった。「桃ちゃんは見つかった?!」と問いかけると、父は黙って首を振った。 「明日もう一度、警察が人数を増やして付近を捜索してくれるそうだ」 「お継母さんは?」 「どうしても帰ろうとしないんで、置いてきた」  父は大きなため息とともに答えた。 「桃香が見つかるまで、一人でも探すんだと言って。とても家でじっと待っていられないと。仕方なしに警察の人が一人、付き添っているよ」  父は首を振り、ありさの作ったサンドイッチをつまんで、寝室へ引き取っていった。ありさも寝室へ行ったが、眠れないのでリビングへ出て、ソファに座って待った。やがて、夜が明けた。  朝、警察から電話があり、継母が倒れてしまったので、引き取りに来てくれと言ってきた。一晩中桃香を探し回った疲れと、心配が極限まで彼女を追い詰めたのだろう。父が車を出し、継母を連れてきて寝室に寝かせ、一家は再び警察からの連絡を待った。その日は五、六人で、森とその付近を捜索してくれているはずだ。  昼の十一時近くになって、最初に家に来た警官が、再び訪れた。 「桃香ちゃんらしい女の子を発見しました。聖邦学園初等部の制服を着て、ランドセルの中や学用品に書かれていた名前も一致しますので、本人と思われますが、ご確認をお願いします。とりあえず病院に搬送しましたので」 「桃ちゃんは、ケガをしたの?!」  その時には再びリビングに出てきていた継母が、狂おしく叫んだ。 「いえ、お気の毒ですが、心肺停止状態でした。森の中の池に浮いていたのです」  継母は獣が咆哮するような声を上げ、その場に頽れた。気を失ってしまったらしい。  それから先の時間は、さらに悪夢のようだった。病院であらためて死亡宣告された妹は、しかし何か楽しげな顔で、笑みさえ浮かべていた。検視のために解剖され、その後小さなお棺に入れられて、家に帰ってきた時も。 「死因は溺死ですが、水に入る前から気を失っていたようで、肺の水は少なかったです。ほとんど苦しまなかったと思いますよ。身体に外傷はないし、事故だとは思うのですが、事件の可能性も完全には否定できないので、みなさんに事情を詳しく聞かせてもらいたいのです」県警の刑事という人が家に来て、そう告げた。  話を聞くのは一人ずつだったので、ありさはそこですべてを話した。 「ははあ、なるほど。桃香ちゃんがあんな場所へ行ったのは、前に一度お姉さんと行ったことがあるからだったんですね」  刑事は頷き、ひたと彼女を見つめてきた。 「その『お友達』のことについて、具体的には何か聞きましたか?」  ありさは首を振った。 「わたしも最初は思ったんです。妹は変な人に声をかけられたのかしらって。でも、わたしは誰も見ませんでした。それに、信州でも同じようなことがあったんです」 「妹さんは、空想力豊かなお子さんでしたか?」  話を聞き終わると、刑事はそう問いかけてきた。ありさは首を振った。 「作り話はしない子でした。空想のお友達とかも、聞いたことはないです。その『みどりちゃん』のほかは」 「そうですか……」刑事は手にした鉛筆で鼻筋をなでた。  その後、父とありさの前で刑事は説明した。継母は寝込んでしまって、同席していなかったが。前日の夜捜索した時には、さらに継母とともに徹夜で探した警官の話でも、その池も見たけれど、桃香はいなかった。森自体それほど広くなく、三時間もあれば精査できる場所のため、夜とはいえライトもあり、いれば発見できたはずなのだが、と。桃香の死亡推定時刻は、明け方らしいいう報告も受けた。 「そうするとねえ、事件の可能性も考えられるんですがね。桃香ちゃんが誰かに拉致されて、明け方殺され、池に捨てられたという線も考えたのです。でも桃香ちゃんの肺の水は、池の水と同じでしたし、抵抗した跡も何も、外傷が何一つないのです。それに、顔の表情もね、恐怖がないんです。そういう状況で殺されたなら、あることが非常に多いんですよ。でも桃香ちゃんは、とても楽しそうにさえ見える。ですからね、森でずっと迷っていて、いえ、眠っていたか何かして、我々が夜見落としてしまったのか――それで明け方目を覚まし、家に帰ろうとして池に落ちたのか。それとも――いや、お姉さんの言う『お友達』というのが本当にいて、その子の家にでも泊り、帰りにまた森に来たのか。うーん、とりあえず、事故と事件の両方の可能性を視野に入れて、捜査をしてみます」  あまり気を落とさないように――そう言って、刑事は帰っていった。  ありさはしかし、『お姉さんの言うお友達』という言葉を聞いて、背筋が凍るのを感じた。継母には内緒で来た、ということは話したはずなのに――継母はここにいなかったのが、せめてもの救いだが。  やはり父にはその言葉が気になったのだろう。警官が帰った後、「どういうことか?」と聞かれた。ありさは父にすべてを話した。「お継母さんには黙っていて」と付け加えて。 「まあ……瑤子も心配しすぎる面があるからな、桃香のことに関しては」  父は話を聞くと、難しい顔をしてうなった。 「わたしが連れて行ってあげられていたら……」  ありさは肩を震わせ、うつむいた。涙がこぼれた。 「そんなに桃香は思いつめていたんだろうか。どうしても行きたいと……」  父も上を向いた。その声は少し震えていた。 ――でも、なぜなのだろう。何をして、桃香をその切望に駆り立てたのだろう。『お友達』とは、いったい誰なのだろう。  ありさの心によぎった疑問は、おそらく父の心にも去来しているだろう。しかし、その答えがわかることがあるのだろうか、とも。  教室に着くと、ありさは窓際の自席に座り、頬杖をついて外を見ていた。周りには男女入り乱れた、楽しそうな声がする。しかしクラスメートたちは、彼女にとっては影のようなものに感じられた。  もともと、ありさは女友達との付き合いが苦手だった。『なんでも一緒に行動し、考える』ことにも、『仲良し』という名の閉じた無関心な集団たちにも、なんとなく違和感を覚え、独りのほうが気楽だと感じていたゆえもある。ただそれでも、小学校でも、この学校の中等科にいた頃でも、時々言葉を交わしあう友人はいた。少し窮屈な気がして、『仲良し』の輪に入ったことはなかったが。今のように、周りを取り巻く人たちが完全に引いてしまったのは、継母のせいだ。たぶん最初のきっかけは。  三年前の秋、桃香を失ってから、継母は少しずつ正気をなくしていったように見えた。最初の一か月近くの間、瑤子は寝室にこもって食事もとらず、ただ泣き続けていた。トイレやお風呂に行ったのも、ありさは見たことがなかった。もっとも継母の方で顔を合わせないように行ったのかもしれないが。いや、前者はともかく、後者は本当になかったのかもしれない。あまりに衰弱したので、父は彼女を病院に入れた。  二週間の入院後、戻ってきた瑤子は、今度は娘の死を受け入れることを、拒否しているように見えた。『桃ちゃんはまだ生きている。どこかにさらわれているのよ。探して!』と口走って、外に飛び出しそうになる。実際飛び出して、あの森の近くの家に押し入りそうになり、警察に保護されたこともあった。そののち、今度は精神科に措置入院となった。 「一過性のものでしょうから、いずれ落ち着くと思いますが」と、医師は告げた。  二か月ほど投薬とグリーフ・カウンセリングを受けて、退院してきた継母はいくぶん落ち着きを取り戻したようだった。だが、「ありささんの存在が気になってしまう。私の娘は死んだのに、と思うと苦しさと悔しさがこみ上げてしまって」という訴えに、継母がさらに落ち着くまで、ということで、ありさは三か月ほど父の弟、健の家に世話になった。  その後、ありさが家に戻って一か月ほどは、何とか平穏に過ぎたが、ある日学校から帰ってみると、継母が真っ青な顔をして、リビングのソファに座っていた。 「どうして黙っていたの?!」  ありさが部屋に入るや否や、そんな言葉が激しい勢いで飛んできた。 「どうして桃ちゃんを、あんなところへ連れて行ったの?! なぜ、あの子があそこへもう一度行きたいと言った時、止めなかったの?! あの子がいなくなった時、どうしてすぐに言ってくれなかったの?! どうして?!」 「お継母さん……」  ありさはすぐには言葉が出なかった。血の気が引くのを感じた。 「どうして……わかったの?」 「昼間、刑事さんが見えて、桃ちゃんのことは事故だって……事件性はないという判断になったって。そこで、『お姉さんの言うお友達、というのが気になって、いろいろと調査をしてみたのですが、どうやら存在しないようで』と。どういうことですか、と聞いたら、話してくださったのよ」  継母は青ざめた顔で、ありさの前に立った。 「どうしてなのよ! 説明しなさいよ! あなたはあの子が邪魔だったの?! 自分が可愛がられなくなるから!?」 「そんなはずない!」ありさは思わず声を上げて反駁していた。 「わたしも桃ちゃんが大好きだった! 本当に愛しい妹だったわ!」 「嘘よ! だったらどうして、あの子をあんなところに連れだしたのよ! どうしてそそのかしたのよ!」 「桃香が行きたがったのよ!」ありさはこみ上げるものを押さえきれず、叫んだ。 「あの子は、学校裏の山へ行きたいって言った。だから連れて行ってあげたの。とっても喜んでたわ。それで、ふもとの森へも行きたいって言って――お継母さんは何でも、ダメダメ言いすぎるのよ! 桃ちゃんが本当にやりたいことを、一つも許してくれない。だからわたしたちは、こっそり行かなければならなかった。おまけに二人で出かけるのも許してくれなくなったから、学校帰りに一人で行くしかなくなってしまったのよ! もしちゃんと許可してくれたなら、わたしが連れていってあげられたのに!」  継母は真っ蒼な顔でぶるぶると大きく震え出した。 「私が悪いと言いたいの?! いい加減にしてよ! あなたが……あなたが……」  瑤子はつかみかかってきた。ありさは抵抗し、身をかわして突き放すと、追いかけてくる。ありさは玄関に向かい、靴を履いて飛び出した。学校帰りで財布はポケットに入っていたため、駅へ向かい、電車に乗った。あの家で父が帰ってくるまで継母の二人でいるのは耐えられないし、身の危険すら感じた。  気がついたら、健叔父の家の玄関に立っていた。健は妻の美幸と二人暮らしで、子供はいない。二人ともに仕事を持っているので、家には誰もいなかった。ありさは玄関ポーチにうずくまり、待っている間に父の会社にメールを打った。  その後、ありさは再び叔父夫妻の家に二か月ほど世話になった。その間に継母は復讐のような行動を起こした。ありさの学校の廊下や教室に、『人殺し』『三年C組の常盤ありさは、妹を邪魔に思って殺した』というようなビラが頻々と貼られ、それでなくとも普段から「あの子はお高く留まっている」と、一部のクラスメートたちの反感を買っていたありさを学校で孤立させるのに、充分すぎる効果を発揮した。さらには校舎の裏で男子たち四人に襲われ、あわや暴行されそうになった。恐ろしい恐怖だった。見かけた誰かからの通報で担任が駆けつけ、間一髪のところを救われたが、ずっと震えが止まらなかった。その時、その加害生徒たちが「襲ってくれと頼まれた。それぞれに二万円もらった」と告白した。写真を見せて判明した、その依頼者は瑤子。中傷ビラを貼ったのも、継母の仕業だった。  警察からその事実を聞かされて、さすがに父も、再び継母を入院させるしかなかったようだった。以来瑤子は、彼女の姉である博子の夫の親戚が経営している病院に、入退院を繰り返している。三か月入院して一か月間は系列の療養型施設に移し、また病院に戻る。そうやって二年が過ぎていった。半年前に父は仕事の関係でインドネシアに赴任し、ありさはこの家に一人残った。あと二年半は、父は帰ってこないだろう。電話やメールで話すことは可能だが。  ありさは学校の机に置いたままの紙を、取り出して眺めた。進路希望用紙――明日が提出期限だが、そこには何も書かれていない。わたしは何がしたいのだろう。いずれ、やりたいことは見つかるのだろうか。それまでとりあえず他のみなのように大学へ行き、学生生活を送るのだろうか。中高一貫で、継母の中傷に毒された今の学校と違い、大学へ行けば彼女を知らない人も多いだろうが――でも、同じ学校の人が一人でもいれば噂は広がってしまう可能性があるし、そうでなくとも、なんとなく『仲良しの輪』になじめない自分の性格では、さほど変わらない日々が続くのだろう。  学校が終わると、ありさは隣接する山に登った。ここの頂上から、町を見下ろすのが好きだった。一度は、せがまれて妹を連れて行った。でも、桃香が死んでから、ありさはここに登るのをやめていた。あの時はしゃいでいた桃香の姿を思い出すから、その後探検に行った麓の森、その中で妹が命を落としたことも、その悲しみも、喪失感も、さらには理不尽な継母の怒りや家族がつきとされた混乱も、すべて思い出してしまうから。  でも今は、登りたいような気がした。自転車を麓に止めて、山道を歩き出す。一人暮らしのありさには、多少帰りが遅くなっても、心配してくれる人はいないだろう。少し速足で登り、三十分ほどで山頂に着くと、石の上に腰かけて下の景色を見た。  ありさの住んでいる町が、眼下に見える。自分たちの家も。あの時と、ほとんど同じ眺めだ。駅前にできた大きなマンション以外は。悲しみの小さな塊がのどの奥に着き上げてきて、ありさは立ち上がった。いや、ここじゃない――灌木と小さな道を超え、反対側に出る。眼下にあの森が見える。『淵が森』 『あの森には、鎮守様の祠を祭っていると聞いたことがあります。古い言い伝えですが。でも今は、その祠はないんですよ。淵が森という名前は、その祠のそばにこの世の淵――割れ目があるという意味だとか。まあ、今まで神隠しとか迷子とか、起こったことはないんですがね、あの森では』  桃香が失踪した時、捜査してくれた警官の一人、もうすぐ退職という年配の巡査が、父とありさにそう語っていたのを思い出した。 『祠はない……それなら、ご神木もないですか?』ありさはそう問い返した。 『ご神木?』 『注連縄を蒔いた大きな木が、森の中ほどにあったんですが』 『いや……たしかに真ん中に大きな木はありますが、注連縄なんか巻いていないですよ』  桃香を探しに中に入った警官たちも、誰一人として見たとこはないという。それなら、自分が見たのは何だったのだろうか。そして桃香は午後森の中に入ってから、翌日の明け方に命を落とすまで、どこにいたんだろう。妹が言っていたお友達、『みどりちゃん』とは、いったい何だったのだろう。まさか本当にあの森には、どこか違う世界へ続く裂け目があり、妹はそこを超えていったのだろうか――。  ありさは立ち上がり、山を下って森の中に入っていった。本当にあのご神木が中心に立っている広場がなかったかどうか、探してみたい。多少遅くなってもかまわない。日が暮れるまでは。どのみち今の彼女に、心配してくれる人などいないのだから。  探して探したが、どうしてもそこにたどり着くことはできなかった。たしかに大きな木が中心にあり、その周りに広場があったが、気に注連縄もなく、空間の大きさも雰囲気も違った。妹の命を奪った池を見るのも、つらかった。木漏れ日が、微かに火の色を帯びている。夕方になってきた。ありさは空を仰いだ。濃い木々の緑の間に、オレンジ色がかった光が舞う。ふっと、記憶に今朝の夢がよみがえってきた。子供のころから何度も見る、『森の中で迷う夢』  あの夢はいつも、広場にあふれる光で終わる。あれは『聖域』なのだろうか――あれは古い記憶なのだろうか。それとも、想像の中の世界なのだろうか。 ――母の国へ行ってみよう。  そんな思いが、ありさの心の中に落ちてきた。そうだ――わたしもこの国を離れたら、何か見えてくるのかもしれない。心の奥に潜む記憶と、夢と、そして妹の死の真相も。そんな思いを強く感じた。高校を出たら、母の国へ留学できないだろうか? そうだ。ありさはまだ、二つの国籍を持っている。日本と、カナダと。留学生ではなく、普通に向こうの大学に進学することは、可能ではないだろうか。  ありさは学校の英語の成績は、それほど飛び抜けて優秀ではない。特に文法とスペリングは苦手だ。リーディングも、そんなに得意ではない。だが、話すこととと聞くことは、生まれてから四年間に染み付いた、本能なのだろうか。クラスの他の生徒たちより、はるかに楽にできるようだ。高校を卒業したら半年間、語学学校に通い、九月に現地の大学に進学する。それは十分可能かもしれない。ありさが日本を離れれば、継母ももう少しは落ち着くのかもしれない。家に帰って憎いまま娘と鉢合わせしなくても済むなら、心の安定にはプラスだろう。それも理由の一端ではあるが、もう一つの自分のルーツを知ってみたい、心に巣くう夢の真実を解き明かしたい。その思いの方が強かった。  家に帰ると父にメールし、自分の考えを伝えた。夜、寝る間際になって、父から返信が来た。 『おまえの好きなようにするといい。費用の心配はいらない。私もいま日本を離れているので、手続きなどはできないが、おまえ一人でやれるのなら。学校の先生とも相談して、そのためにどうしたらいいのか、何が必要なのかを聞いておきなさい』  こんなメッセージも追加で入ってきた。 『お祖母ちゃんが住んでいた離れの押し入れの中に、緑の箱がある。おまえがバンクーバーからここに来た時、持ってきたものだ。見てみるといい』  もうパジャマ姿になっていたが、ありさは懐中電灯を手に母屋を出て、祖母が住んでいた離れに向かった。離れは祖母が亡くなった後もそのままになっていて、電気も通っている。ありさは電灯をつけ、二間続きの和室の奥にある、押入れを開けた。かび臭いような、ほこりっぽい匂いがした。祖母のものだった古い道具たちの奥に、たしかに平たい緑の箱がある。ありさはそれを取り出し、開けてみた。そしてあっと小さく声を上げた。  そこには何枚かの写真と、古ぼけた人形が入っていた。黄色の毛糸でできた髪に、フェルトの緑帽子。緑の服を着ている。夢の中で抱いていた人形だ。古い写真の中に、この人形を抱いている、幼い自分の姿があった。その隣の、色の濃い金髪を首の後ろで束ね、折り返して頭に留めつけたスタイルで、笑みを浮かべる女性。その写真の面影が、おぼろげな記憶の彼方からやってきて、重なった。 「ママ」  思わず呟きが漏れた。のどの奥から名状しがたい思いがこみ上げ、涙が一筋こぼれた。半分の空白が、少しだけ埋まったような気がした。  ありさは人形を手に取り、じっと見つめた。その人形の顔は、夢の中からいつも自分を見返していた顔だ。言葉がひとりでにあふれるように、唇から洩れてきた。 「みどりちゃん……」 第二章 アザーサイド・フォーレスト 『本当に久しぶりね、エリッサ。すっかり大きくなって』  ベリンダ伯母は笑みを浮かべながら、コーヒーカップをテーブルに置いた。ありさの前に一つ、もう一つは自分の方に。真ん中に置かれた、少し深めの皿にビスケットがいくつか乗っている。手作りではなく、スーパーで売っているものだ。ありさもここへ来てから、一、二度購入して食べたことがあった。 『会えてうれしいわ、エリッサ。よく来てくれたわね、本当に』  伯母は笑みを浮かべたまま続けた。少したるんだ瞼の中のハシバミ色の眼には、同じように笑いが感じられる。その表情は、本当に自分に会えてうれしい、懐かしい――そう語っているように思え、ありさも微かに笑みを浮かべて、伯母を見た。肉付きのいいその身体を水色地に白と黄色の大きな花柄のワンピースに包み、明るい茶色の髪には三割くらい、銀色が混じっている。鼻はいくぶん大きく、先端が垂れ下がっていて、唇は薄い。頬にはそばかすが飛んでいて、少したるんでいる。時々変わる表情とともに、その眼はくりくりとよく動いた。  ありさは伯母の顔を見ても、古い記憶を手繰り寄せることはできなかった。まるで初めて会った人のように感じた。でも向こうは自分を知っているらしい。懐かしそうにじっと見つめた後、『ああ、昔の面影が残っているわ』と、呟いていた。伯母は姪のことを日本語の「ありさ」ではなく、英語読みの『エリッサ』と呼んだ。たぶん四歳で日本に来るまで、ずっとそう呼ばれていたのだろう――そんな気がした。大学で知り合った友人たちも、ルームメイトも同じように呼ぶ。  ありさは高校を卒業した後、半年間語学学校に通い、カナダの大学への入試を仲介してくれる業者を通じて無事試験に合格し、八月の終わりにバンクーバーへと渡った。入学試験や手続きの仲介業者は、父の弟である健の妻、美幸が手配してくれた。彼女は私立の高校で、ずっと英語教師として働いている。交換留学の手続きなどにもかかわっていたゆえの、コネクションだった。時々彼女に相談しながら、ありさは自分でできるかぎり必要な書類を揃え、入学の手続きをし、入寮の申請を書き、必要な諸費用を父にメールで知らせた。飛行機とホテルの手配も、インターネットを使って自分でやった。その費用は父から預かっているクレジットカードを使った。  八月終わりの暑い日、ありさはキャスター付きの小さなトランク一つを持って、家を出た。すべての窓と玄関を施錠し、その鍵は義理の叔母、美幸に預けた。叔母は空港まで、車で送ってくれるという。 「今日はお休みを取ったのよ。まだ学校も夏休みだしね」  美幸は微かに笑みを浮かべながら、鍵を受け取った。その眼が薄いピンクのキャリーバッグに停まると、少し驚いたような声を上げる。 「ありさ、そんな小さな荷物で大丈夫なの? 向こうには少なくとも四年、いるんでしょう?」 「うん、大丈夫よ。美幸叔母さん。必要なものは、向こうで買えるから。送ってくれて、ありがとう」  ありさは車の後部座席に乗り込み、バッグを引き入れた。中に入っているのは数組の着替えと携帯用洗面道具、それに祖母が住んでいた離れに入っていた緑の箱の中身――古い写真と人形。それをまとめて、薄緑の布袋に入れた。祖母と妹の写真も一緒に。叔母にも告げたように、現地に着いてから、必要なものは買えばいい。父がありさの口座に振り込んでくれたお金と、インドネシアに赴任する時に置いていったクレジットカードで。心配は感じなかった。  日本を出る前の夏、父からは何度もメールが入っていたが、その中にこんなものがあった。【おまえのお母さんの連絡先は、今は知らないが、伯母さん――姉に当たる人の住所は、今でも有効らしい。手紙を書いたら返事が来た。向こうのメールアドレスを教えてくれたので、書いておく。落ち着いたら、連絡してみたらどうだろう】。  渡加してからしばらくは、なかなか余裕がなかった。学校に行って最終手続きを済ませ、九月から入寮。同時に授業が始まった。すべて英語での授業と、大学生活や寮生活、特にルームメイトになじむのに、一か月ほどかかり、九月の終わりに、ようやく伯母にメールした。返事はすぐに返ってきた。一度会いに来ないか、という誘いだった。ありさはすぐに承知し、次の土曜日の午後、会うことになった。  伯母の家の住所が書かれていたので、スマートフォンのマップを頼りに探し当てた。郊外地区にある、一戸建て。そんなに広くはない庭には、芝生と、秋の花が植えられた花壇がある。手入れ具合は、ありさ一人で見ていたころの常盤家の庭と(定期的に植木職人が来てくれたが)、あまり変わらなさそうだ。オフホワイトに塗られた壁に、木製の玄関ドア。そこへ至るまでに、二、三段のステップがある。玄関の横には大きな貝殻が置いてあり、そこにも観葉植物が植えられていた。家の大きさも、周りにあるほかの家と変わらない。  門のところにあるチャイムを押すと、ややあって玄関の扉が開き、ありさより少し大きな背丈で、幅は倍くらいある中年女性が出てきた。彼女は足早にこちらに近づき、門を開けると、ありさをまじまじと見つめた。それから両手を広げ、ぎゅっとハグしてきた。 『エリッサ! エリッサね! わかるわよ、わかったわよ!』と。  今、ありさはテーブルをはさんで、伯母と向かい合っている。初めて会う感じだが、そうではない。ずっと昔に会っているはずの人だ。 『夫は昨日から、北の方へ釣りに行っているわ。帰ってくるのは明後日ね。息子は独立して、今は一人暮らしをしているの。森林レンジャーをやっているのよ。娘は大学の寮にいるわ』 『どこの大学ですか?』  伯母が告げた大学名は、ありさの学校ではなかった。そこまで世間は狭くないのだろう――そんな思いが少しだけ湧いて、小さな笑いを漏らす。  伯母はコーヒーに砂糖を二つ入れ、ミルクもたっぷり入れて飲むと、ビスケットをつまんだ。ありさもミルクだけ入れて、ビスケットを一つ食べた後、カップを傾けた。  時々コーヒーを口に含みながら、ありさは日本にいたころのことを伯母に話した。英語を話すのは、かなり上達したが、日本語ほど細かいニュアンスは、まだこめられない。それゆえ、細かいところ(特に継母の異常行動など)は、かなり省いて。伯母は微かに眉根を寄せ、こちらに視線を据えて、聞いているようだった。ありさが話し終わると、ベリンダ伯母は小さく息をついた。 『まあ。大変だったわね、それは』  そしてコーヒーカップの中身を飲み干すと、もう一度小さく息を吐き、続けた。 『でもね、この国に来ようと決心したことは、正解だと思うわよ』  伯母は顔全体で笑顔を作り、姪を見守るような視線を投げたあと、続けた。 『アリソンが生きているうちに、会わせたかったわね。あなたのことを気にかけていたから』 『アリソンさんって?』 『私の妹。あなたの母親ね』  ありさは息を呑んだ。生きているうちに会わせたかった、ということは、母はもうこの世にいないのだ。ベリンダ伯母は自分を見つめている。そのまなざしには同情のような思いが込められているように感じた。 『あなたはアリソンのことを、どこまで覚えている、エリッサ?』 『ほとんど何も』ありさはかぶりを振った。 『ヒロム――あなたのお父さんからは、何か聞いた?』 『いいえ』 『そうなのね……』  母の姉はテーブルに手を組み、その上に視線を落とした後、眼を上げた。 『それなら、最初から話した方が良いかしら。あなたのお父さんヒロムは、二十年近く前にバンクーバーに来たの。仕事でね。アリソンは彼の職場近くのレストランで働いていて、そこに彼が良く食事に来ていたから知り合った。私はそう聞いているわ』 『そうなんですか』 『そのうちに、二人は恋に落ちた。一年と九か月がたって、あなたが生まれた。二人は結婚も考えていたみたいだけれど、あなたが生まれた二か月後、ヒロムは帰国しなければならなくなった。会社の命令で。でも、アリソンは彼を愛していたけれど、見知らぬ異国へ行って暮らすのは、ためらっていた。ヒロムの方も、会社を辞めてこっちで仕事を探す気には、なれなかったみたい。それで二人は別れることになったの。あなたはアリソンが引き取って育てることになり、ヒロムはその時彼が持っていたお金のほとんどを、彼女に渡した。子供を育てるために、自分にできることはこれしかないと言って』 『そうなんですか……でも、なぜ父が後になって、わたしを引き取ることになったんでしょう?』 『アリソンが病気になったのよ』伯母の表情が、少しだけ険しくなった。 『脳腫瘍。それで、手術が必要になったの。ちょうどそのころ私たちの父が亡くなって、両親の家屋敷を相続したから――母はその二年ほど前に他界していて――それを売って、費用を作った。でも手術の成功率は半々くらいで、死んでしまったり、重い後遺症が残ったりする危険もあった。だからあなたを育てるのは、無理かもしれないと思ったの。私たちがあなたを引き取るという選択肢もあったけれど、相続した土地を売ったお金が、私たちの手元には残らず、夫が不機嫌になったうえに、それほど家計に余裕がなかった。その頃うちの子たちとあなたは、あまり仲良くなかったこともあってね。少し考えてしまったのよ。それで私は、ヒロムに手紙を書いて、あなたを引き取ってくれないかと頼んだの。もちろんだめなら、私たちで面倒を見るつもりだったんだけれど』  少し居心地悪げな表情の、どことなくぎこちない笑顔に向かって、ありさは微かに笑みを浮かべた。(気にしていない)そう伝えるように。伯母の顔が、少しだけ緩んだ。 『アリソンの手術は幸いにも成功して、半年ほどで彼女は仕事に戻ることができたわ。それから二年たって、彼女は結婚したの。相手はアーティスト、というか彫刻家で、この町の北の郊外に住んで、工房で作った工芸品なんかを売って、暮らしを立てていた。三年後には、男の子も生まれたわ』  それならその子は、自分の弟ということだ。父親違いの――桃香は母親違いだが、愛しい妹だった。その妹を失って、ありさの世界はすっかり変わった。でももし父親違いだが、自分に弟がいるなら――その子は、どんな子だろう。四歳の時別れた母が、それから五年半後に産んだ子なら、自分とは十歳違いくらい。今八、九歳くらいか。桃香が生きていたら、十一歳だったから、それよりも年の離れた弟。妹を失って空いた胸の空洞に、少しだけ温かさが戻ったような気がした。その子に会う機会があるのかどうか、わからないが。 『でもアリソンは去年、病気が再発してね。今年の初めに亡くなってしまったのよ』  伯母の声には、惜別の思いが感じられた。目がわずかにうるんでいる。  ありさは少し身体が沈んでいくような感じを覚えた。伯母の言葉から、母がもうこの世にはいないとわかったが、それはかなり最近なのだ。今年の初めまで母が生きていたのなら、もう少し早く来られたら、会えたかもしれない。母にも家庭があるのだから、難しいのかもしれないが、この伯母を仲介して、きっと機会を作れただろう。 『今度の日曜日に、アリソンのお墓参りに行こうと思うの。あなたも来る?』  伯母はそう問いかけてきた。ありさは黙ってうなずいた。 『アルバムを見る?』伯母はそう続け、ありさは再び頷いた。  ベリンダ伯母は部屋を出て行き、しばらくのち緑色が少し色あせたような表紙の、それほど厚くはない本を持ってきた。テーブルの上のカップやビスケットの皿をどけ、ありさの前に置く。ありさはそれを一ページずつめくっていった。ベリンダ伯母の若いころと思われる写真、その夫と子供たち。父が持っていたのと同じ面影の女性――これは母だろう。赤ん坊の頃や幼い時の自分もいた。  真ん中くらいのページに、キャンプ場らしい写真があった。伯母一家と、母と自分。みな楽しそうに笑っているが、幼いころのありさだけは、少し硬い笑顔だ。 『ああ、これはね……そうね、あなたが日本に行く二週間くらい前の写真ね。アリソンが、もう少しであなたと別れなければならないから、その前に思い出を作りたいって言って、それで、私たちがそのころ毎年行っていたキャンプに、二人を招いたのよ』 『そうなんですか』  ありさは胸がきゅっと締められるような感覚を覚えながら、写真を見つめた。若いころの伯母夫妻。男の子と女の子は、伯母の子供たち。ありさにとっては従姉兄だ。あまり仲は良くなかったと伯母は言うが、従姉兄たちとの記憶は、ありさの中にはない。 『十四年。いえ、十五年前ね。エドワードが九歳で、ミリセントが六歳の時。あなたは四歳になったばかりで』  森林レンジャーをしているという従兄は、エドワードという名前なのか。栗色の髪の、いたずらっ子そうな表情で笑っている少年を見ながら、ありさは考えた。自分は十九歳になったばかりだから、五歳年上のこの従兄は、二十四歳。相変わらず、何も記憶は出てこないが。ありさは視線を、その隣の少女に移した。金髪と褐色の中間くらいの髪色で、にこにこと笑っているその子は、顔こそ違え、幼稚園でよく自分に意地悪を仕掛けてきた、女の子を思い出させた。この子がミリセント。別の大学に通っている、自分より二つ年上のその子は、二十一歳。大学三、四年くらいか――。 『そうそう、この時あなたは、森で迷子になってね』  伯母は思い出したように、言葉を継いでいた。 『子供たち三人で、森に虫取りに行くって。遠くには行かないようにって言い聞かせたのに、エディーとミリー、二人だけで戻ってきたの。いつのまにか、あなたがいなくなったって言って。大騒ぎになったわよ』 「え?」思わず日本語で、声が出てしまった。 『あの森はね、途中までは小道がついているの。少し広くなった場所があって、真ん中に湧き水があってね。でも、その向こうは道がなくて、ずっと山のふもとまで続いているから、そこを超えてはだめだと、うちの子たちには何度も言ってきて、二人とも言いつけは守っていたのだけれど。でも帰ってくる途中で、あなたとはぐれたみたい。迷うような道じゃないから、勝手にどこかに行ったみたいだって。あなたは覚えていない?』 『いいえ』ありさはかぶりを振った。 『アリソンも私も行けるところまでは行ってみたけれど、あなたは見つからなくて、レンジャーの人にお願いしたの。それで、やってきたレンジャーさんと森に入ったら、森の湧き水のほとりに、あなたがちょこんと座っていてね』 『まあ』 『だから助かったのだけれど、レンジャーさんを呼んだ手前、少し決まりが悪かったわ。(まあ、見つかってよかったですね)って、その方は笑いながら帰っていったけれど、呼んだ代金はかかったし、夫は少し不機嫌になっていたわ。アリソンはとてもすまながっていて、あなたを叱って、どうしてそんなことをしたのかと問い詰めたのだけれど、あなたは何も言わなかった。ただ泣くだけだった。それで彼女も、叱るのをやめたのよ』 『そうだったんですか……』  頷きながら、思った。それでは昔から繰り返し見る「森の中で迷う夢」は、この時の記憶なのだろうか。忘れ去られた、幼いころの記憶。それがいくども夢に出てきて、彼女を森の中に迷わせるのだろうか。  アルバムを見せてもらった後、ありさは伯母の家を出た。バスに乗り、地下鉄に乗り、またバスに乗って、大学の寮に帰った。車を持っている学生もかなりいるし、日本で語学学校に通っている間に、同時に免許も取ったが、まだ国際免許が取れるほどの期間は過ぎていない。国籍はあることだし、ここで取り直してもいいが、父に「車を買って」と言うのもためらわれたので、できるだけ公共の交通機関を使っている。来週、伯母が母の墓参りに連れて行ってくれる予定だが、最寄りの地下鉄駅前で待ち合わせをしていた。そこからは、伯母が車で市民墓地に連れて行ってくれると。  次の日曜日、ありさは母の墓前を訪れた。伯母が持ってきた白い百合とカーネーションの花束に、ありさが花屋で買ってきた、薄桃色のカーネーションを添えて、墓の左側に置かれた花瓶に入れる。少し灰色がった墓標に書かれた文字は、こう読めた。 【アリソン・ローラ・バートランド・マーロン  二〇一×・一・十八  四十歳】  墓碑の前に、写真が飾ってあった。雨水が入らないよう、継ぎ目がきっちりシールされた透明な写真立ての中の女性は、面影はたしかに以前写真で見た母だが、それよりも十歳以上は年をとっている。濃い金色の髪は短く切られ、少しやせて、その眼はこちらを見返してくる。何か言いたげに。 『ママ……ありさです。帰ってきました』  もう少し早く帰ってきて、生きているあなたに会いたかった――その言葉を心の中で付け加えると、瞼が少し熱くなった。 『エリッサは立派な娘になったわよ。あなたも安心できるわね』  ベリンダ伯母も妹の写真を見据えながら、声をかけている。少しかすれたような声だ。 『この写真、伯母さんが置いたのですか』  しばらくの沈黙ののち、ありさはそう問いかけた。 『いえ、私じゃないわ。きっとスティーヴね』 『スティーヴさんって?』 『アリソンの夫。彫刻家で工芸家の。あの人は今、もう少し北の方に息子と住んでいるんだけれど、ここへはよく来ているようね。ほら、これも』  伯母は写真の横に置かれた、小さな木の置物を指さした。手のひらより少し小さめくらいの大きさで、彩色はされていない木で作った犬と、その横に座っている子供。 『これも、スティーヴが作ったのだと思うわ。あの人の家で飼われている犬と、それから子供はたぶんジェイ――ジェイムズ・マーロンね。アリソンとスティーヴの子供よ』  その彫刻の小さな子供は床に座ったような姿勢で、自分より大きな犬に向かって手を差し伸べていた。 『ジェイはとてもいい子だけれど、少し変わっていてね。軽い知的障害と自閉症を持っているみたいなの』 「まあ」再び、思わず日本語で声が出た。 『だからアリソンも最初は少し悩んだようなのだけれど、スティーヴともども、それを受け入れて、子供のいいところを伸ばして、育てようとしていたみたいね。私にそう言っていたし。妹が亡くなった後も、スティーヴは一人で育てているみたいだわ。あの人もまあ……いい人なんだけれど、少し変わったところもあるわね。芸術家気質なのかしら』 『そうなんですか』  アリソンは母の写真と彫像を見つめた後、眼を上げて墓碑を見た。そして両手を合わせ、眼を閉じた。母に対する記憶はほとんどない。それでもやはり目頭が熱くなり、胸からのどにかけて、飲み込めない塊がつき上げてくるのを感じた。 『あーあ、たいして虫はいなかったなあ』  少年が、栗色の巻き毛を振りながら、手にした網を勢いよく回した。 『やめてよ、エディー。網を振り回すの』  金褐色の髪を両側に結わえた少女が、不満げに抗議する。二人の顔には、見覚えがあった。以前ベリンダ伯母を訪ねた時、写真で見せてもらった伯母の息子と娘。従兄のエドワードとミリセントだ。  自分は切り株に座って、二人を見ていた。背景は森だが、ここは少し広い空間ができている。地面には下草やシダが茂り、真ん中には小さな池がある。水は澄み切っていて、冷たそうだ。 『帰るか』少年が詰まらなさそうに言い、 『そうね』と、少女も頷いている。 『一度この森の向こう側へ、行ってみたいんだけどなあ』 『やめたら? だって、絶対迷子になるもん』 『まあね。でも前に聞いたことがあるんだ。この中に、(願いの泉)があるって』 『なにそれ?』 『その泉の水を飲んで願いをかければ、何でも叶うっていうんだ』 『うそぉ。そんなおとぎ話みたいなこと、ないわよ』  少女の方は、懐疑的な表情だった。 『本当なの?』  ありさはそこで立ちあがり、従兄姉たちに問いかけた。  二人は少し驚いたような顔で振り返った。従兄の少し緑がかった灰色の眼にも、その妹の淡い茶色の眼にも、どことなく疎んじるような、軽蔑したような光があった。 『話に聞いただけさ』  エドワードの方が、どことなく投げつけるような口調で応えた。 『だから、どうだって言うのよ。帰るわよ』  ミリセントは物憂そうに、そう促す。  二人の従兄姉たちは、背を向けて歩き出した。ありさは立ち上がったが、その後は追わなかった。踵を返し、背後の森の中に入っていった。従兄姉たちは彼女がついてこないことに、気づいていないようだ。  願い事が叶う泉があるなら、それを見つけてみたい。お願いしてみたい。ママといつまでも一緒にいられますようにと。  ここに来る途中、二人の従兄姉たちから言われたのだ。このキャンプに母とありさが参加したのは、お別れの記念なのだと。 『月末に、おまえは日本に帰るんだってさ』  エドワードが口元をゆがめて、まるでからかうように言ったのだった。 『日本?』 『そう。おまえのお父さんの国さ。そこに引き取られるらしいよ』 『ママは?』 『アリソン叔母さんは、ここに残るってさ』 『あんたの世話しなくてすんで、ほっとしてるんじゃない?』  ミリセントは髪を振りやり、笑っていた。  ありさは衝撃を受けた。大好きな母親と別れたくない。だから、だから――探さなくては。願いの泉を。  そこで目が覚めた。真夜中だった。母の墓参をしてから一か月と少し経ち、周りには秋から冬に移り変わる気配が、かなり色濃くなってきたころだ。大学の寮にも、朝晩には暖房が入り始めている。でも夜中は止まっているので、部屋の空気はかなり冷たい。隣のベッドではルームメイトのジェニーが、軽い寝息を立てている。  ありさはベッドの上に起き上がった。肌寒い陽気なのに、少し汗ばんでいた。大きく息をつくと、再び横になる。  あれは忘れていた、古い記憶なのだろうか――伯母に聞いた話と、従姉たちの写真がきっかけとなって掘り起こされた。四歳の頃の自分が森の中で迷うことになったのは、そのため――従兄の言葉で知った「願いをかなえてくれる泉』を見つけるためだったのだろうか。それともそれは自分の潜在意識の中で組み立てた、事実ではないストーリーなのだろうか。わからない。  ありさは寝返りを打ち、眼を閉じた。再び眠りに落ちるまで少し時間がかかったが、寝入った後、また同じ夢を見た。子供のころから繰り返し見る、「森の中で迷う夢」  でも、以前とは、少し違っていた。夢の中の自分は、なぜこうしているのか知っていた。「願いの泉を探したい」というはっきりとした意思を持っていた。そこにどうやってもたどり着かず、帰り道もわからない困惑と不安とともに。そしていつも名前を叫ぶ、しかし誰の名前かわからない声にならないその叫びは、今はたしかな名前になった。 『エディー、ミリー!』  自分は従兄姉たちの名前を呼んでいたのだ。自分に明らかに好意的ではない二人だが、声を聞きつけたら、もしかしたら来てくれるのではないかという、わずかな望みをかけて。  やがていつもと同じように、銀色の光が現れた。そう、ここでいつも夢が終わる。でも今は、終わりではなかった。光の中から人が現れた。小さな子供。 「桃ちゃん!!」  思わず叫んだ。妹だった。髪をたらし、白いブラウスに緑色のスカートをつけた、あどけない姿のまま、にっこり笑っている。その小さな口が開いた。 「おねえちゃん。ごめんね。でも、大丈夫」  ありさは再び目を開けた。部屋はすっかり明るくなっていて、ルームメイトのジェニーが起きだしている。彼女は一級上の二年生だ。 『どうしたの、エリッサ。少しうなされていたわよ』 『夢を見たの。大丈夫』  少し浅黒い顔のルームメイトの、黒い瞳に向かって、ありさは笑いかけた。 『じゃあ、支度してね。あたし、先に食堂に行っているから』 『ええ』  ありさは起き上がり、機械的な動作でパジャマから普段着に着替えた。顔を洗い、髪をとかした後、食堂に向かう。でも心の中では、懐かしさと畏怖にも似た思いを感じていた。  それからも、日々は続いていった。カナダの冬は厳しかったが、『西海岸はまだまし』と、学生たちは言う。その冬が過ぎ、ようやく遅い春の兆しがさしてきたその日、授業が終わると、ありさは町へ買い出しに出かけた。  大学の寮はキャンパス内外に十棟ほどあるが、ありさが入っているのは、キャンパスの外れに建つ三階建ての女子寮で、七十人前後の学生が、そこで暮らしている。一階には食堂、台所、洗濯室、娯楽室、自習室がある。四人ほどの寮母さんが交代で学生たちの面倒を見ているが、掃除、洗濯は学生たちが各自で分担し、食事も夕食しか出ない。朝は各自で、昼は学校のある日は学食で、それ以外は自炊が原則だ。夕食が不要の場合は、その日の朝までに申し出る必要があった。  学生たちの朝は、簡単な場合が多い。時間がなかったり、朝は食欲がないという理由で取らない人も一定数いるし、授業の始まりが遅い場合は、外のファーストフード店に食べに行ったりする人もいる。寮の食堂で取る場合は、牛乳をかけたシリアルや、ハム、チーズ、野菜などを挟んだパン、果物などを、自分で用意する。その食材は各自で街に買い物に行き、各自袋に大きく名前を書いて、台所に備え付けの大きな冷蔵庫や戸棚にしまっていた。時々、自分で思っていた以上に早くなくなることもあったが、『まあ、そういうこともあるわ。考え違いかもしれないし、誰か困った人が拝借したのかもしれないわね。あんまり極端じゃなかったら、気にしない方が良いわよ』というルームメイトの言葉に従っている。 『もうパンもシリアルも野菜もないから、買ってこないといけないわね』  そのルームメイト、ジェニー・カニンガムスが、冷蔵庫の中を覗いて、声を上げていた。 『そうね』  様々に名前を書かれたビニール袋の中から自分の取り上げ、中身を確認しながら、ありさも頷く。あるのは半カートンほどの牛乳とリンゴがふたつだけだ。 『リズやボニー、キャスにも、声かけてみるわ。車を出してもらえたら、夕方買い物に行きましょ』  ジェニーは良く行動を共にしている、寮の友人たちの名を上げる。ありさも頷いた。二人とも車は持っていないが、リズ、ことエリザベス・ウービンは持っている。小さな中古車だが、父親に買ってもらったらしい。街への買い物にはたいてい彼女の車で、仲間五人で行き、車を出してもらったお礼として、それぞれ一品ずつリズの買い物の代金を払う。それが取り決めだった。  ルームメイトのジェニーは父方の祖父がアフリカ系アメリカ人、母親はメキシコ人らしい。リズは中華系の移民三世で、ボニーはインドからの留学生、キャスはネイティヴ・アメリカンとギリシャ人のハーフという、移民の国らしい雑多さだ。その中では、ありさも多様性の中の一人でしかない。この集団はいつも一緒に行動しているわけではなく、それぞれ個人の用が優先され、五人そろわないことも普通だ。この日も車の持ち主、リズは『あたしは特に買い物がないから、いいわ。でも車は使っていいわよ』と、キーを投げてきた。『車のお礼は何が良い?』と問い返すキャスに、『お茶買ってきて。それだけでいいわ』と言う。  そうして彼女たち四人は、キャスの運転で街のスーパーマーケットに買い物に行き、それぞれ必要なものと、リズへのお礼の中国茶を買ったのだった。ありさはふと目についた、小さな鉢植えのハーブもいくつか買った。気候も良くなったし、サラダに入れたり、休日のパスタに使ったりするために、部屋の窓際で育ててみようと。 『花よりは実用的ね。花の方がきれいだけれど』キャスが笑いながら言い、 『あたしも花を育ててみたいわ。でも、ダメ。あたしが面倒を見ると、みんな枯れるの』  ジェニーが肩をすくめる。 『それは(炎の指)だわね、ジェン。あなたは(みどりの人)じゃないわけよ』 『どう言うこと、キャス?』 『パパから聞いたことがあるの。植物を育てるのに適した人と、そうでない人。あなたは後者よ。エリッサはどう?』 『わたしはよくわからないけれど、日本にいた頃、祖母や妹と一緒に、よく庭を手入れしていたわ』 『それでお庭の状態が健全なら、あなたは(みどりの人)ね、エリッサ。まあ、あなたのお祖母さんか妹さんが、そうなのかもしれないけれど。それをお部屋で育てるなら、ジェニーには触らせたらダメよ』 『さらわないわよ! あたしのせいで枯れたなんていったら、いやだもん。あ、上手く行ったらイタリアンパセリとバジル分けてね、エリッサ』 『もちろんよ』  頷きながら、ありさの脳裏に祖母と妹の姿が浮かんだ。(みどりの人)か――たしかに二人はそうかもしれない。植物に話しかけ、庭を慈しんでいた祖母、そして妹。今もこみ上げてくる感情の塊を、ありさは飲み下した。  その夜も、また夢を見た。(森の中で迷う夢)――ただ、母の墓参に行った夜に見たような従姉たちとの会話シーンも、最後の妹の姿もない。その場面は、あの時だけだ。ただ、幼いころから何度も繰り返し見ている夢だが、それ以来、少しだけ変化している。彼女自身に『なぜここにいるか。どんな目的で』という自覚があり、呼ぶ名前もはっきりと従姉たちの名前になっていた。 『エディーとミリーって、誰?』  翌朝、一緒に朝食をとっている時、ジェニーが聞いてきた。  ありさは一瞬どきっとして、ルームメイトの顔を見た。 『どうして知っているの、ジェン?』 『叫んでいるんだもの。あたし、それで二度ほど目が覚めたわ』 『ごめんなさい』  ありさは思わず頬を赤らめた。実際に声に出ていたのか。 『なあに、それ?』  同じくテーブルを共にしていたリズとボニーが、少し興味をそそられたような顔で聞いてくる。キャスは、今日は食欲がないからまだ寝ていると言って、部屋にいるらしい。  ありさは少しためらった後、みなに話した。子供のころから繰り返し見る、(森の中で迷う夢)のことを。 『めんどくさい夢ね。あたしだったら、いやになるわ。よくうんざりしないわね』  ジェニーは苦笑交じりに肩をすくめていた。 『何度も繰り返し見る夢は、意識の中のコンプレックスなんですって。それが解決されない限り、同じ夢を見続けるのよ』  ボニーが思案気な顔で言う。彼女の専門は心理学らしい。 『夢はだいたい、無意識の産物なのよね。でも過去の記憶がそのまんま出ることは、あまりないっていう話よ。エリッサのそれは、どこまでが事実で、どこからが記憶の産物なのかしら』これはリズの言葉だ。彼女も同じような専攻らしい。 『思い出せないの?』  ジェニーの問いかけに、ありさは首を振る。 『と言うか、思い出せないから潜在意識なのよ。でも意識の底には、眠っているはずなの。それを思い出せば、きっと解決するのじゃないかしら』  リズはパンにレトルトのエビチリを挟んだものを食べ終わると、指を振った。 『どうやったら、思い出せるかしら?』ありさは問いかけた。 『それは……わからないけれど』 『リズ、頼りないなあ。臨床カウンセラー目指してるんでしょ?』  ジェニーが苦笑いをし、シリアルをほおばって飲み下した後、思いついたように続けた。 『そうだ。その従兄姉さんって、実在してるんでしょ? 会って確かめてみたら?』 『そうね……』  ありさは頷いた。従兄姉たちに会う――考えていなかったことだが、本当は意識の下で思っていたことかもしれない。夢の印象からも、伯母の家で見た写真からも、あまり好意的な感じを受けなかった従兄姉たちだから、会うのが怖かったのかもしれない。が、本当にリズやボニーの言うように、繰り返し見る夢が心理のコンプレックスで、それが解決されない限り同じ夢を見続けるなら、行動を起こしてもいいかもしれない。  ありさはその夜、伯母にメールを送った。ベリンダ伯母とは、去年の秋に再会してから時々メールをやり取りしていたが、それ以降家に訪ねていったことはなく、ここ一、二か月ほどは、メールも来なかった。長い間会っていなかった姪への懐かしさも、一度会ってしまったら、満たされたのかもしれない。自分の方も慣れ親しんだとはとても言い難い、遠く離れた存在だった伯母に、これ以上親密な付き合いは、求めない方が良いのだろう。そんな思いだったが、今は用事ができた。 【二人に連絡して、あなたのメールアドレスを教えて置いたわ】  数日後、伯母からの返信が届いた。丁寧に礼を述べたメールを送ってから、ありさは待った。しかし、なかなか従兄姉たちからの連絡は来なかった。メールチェックをするたびに、ありさの脳裏にはいつか夢で見た、不機嫌な少年少女の面影がよぎっていった。だんだんとその不快の表情を増して。  一か月待って返事が来なかったら、向こうは自分には会いたくないのだという意思表示だと、思ったほうがいいのだろうか。従兄エドワードの所在はわからないが、少なくとも叔母の話から、従姉ミリセントの方は通っている大学がわかっている。バンクーバー市の北、市外区にあるというその大学は、西の郊外地区にあるありさの大学からは、一度市内を通り、バスを乗り継がなければならないが、行かれないことはない。しかし、その中から幼いころの写真しか知らない従姉を探すのはほとんど無理だろうし、仮に会えたとしても、何かを自分に話してくれるかもわからない。そんな焦れた思いを抱きながら毎日チェックを続けていたありさに、やっと一通のメールが来た。 【ハイ、エリッサ。久しぶり。こっちに来たのね。来週なら会えると思うから、都合のいい日を知らせて】  差出人はミリセント・リチャードソン、従姉だった。ありさの全身から、安どの思いが沸き上がるのを感じた。  従姉が指定してきた場所は、彼女が通っている大学のそばにあるコーヒーチェーン店だった。日本でも人気があるそのチェーンは、バンクーバー市内でも至る所にある。コーヒーとスコーンを挟んで向き合った従姉の顔は、以前叔母の家で見せてもらった写真の面影が、たしかにあった。ただ、いくぶん今はふっくらとしていて、化粧をしている。髪の毛は写真のような金褐色ではなく、ブロンドになっていた。根元が少し濃くなっているから、きっと脱色したのだろう。その髪を後ろにポニーテールのようにまとめ、赤いリボン飾りのようなアクセサリーをつけている。淡褐色の眼で見つめてくるその様子は、夢の中で見たような冷淡な色ではないが、あまり熱情は感じていないようにも見えた。 『久しぶりよね。たぶんあたし、道であなたに会っても、わからなかったと思うわ』  ミリセントはそう口を開いた。 『わたしも、きっとそうね』  ありさはかすかに微笑みを浮かべて答える。 『あなたがこっちに来た理由は、この間家に帰った時、ママが話してくれたけど』  ミリセントはコーヒーを飲み、スコーンを二口ほどかじってから、言葉を継いだ。 『あたしに会いたいっていうのは、懐かしさから? それとも、別の理由?』 『懐かしいとは、わたしにはほとんどこっちの記憶がないから言えないけれど、従姉妹同士ではあるから、というのも理由の一端よ。でも、無理に再会を願おうとは思わなかった』 『無理にって?』 『いえ……』  突っ込まれて、ありさは思わず口ごもった。自分に対してあまりよい感情を持っていないように思えた、とはさすがに面と向かって言うのはためらわれたのだ。 『はーん』  しかし、ミリセントは何かを読み取ったような表情で、微かな薄笑いを浮かべた。 『あたしたちが、昔あなたに意地悪をしたから?』 『え?』 『あら、覚えていないの? 本当に?』  ありさの表情から、従姉も気持ちを読み取ったらしい。 『あたし、あなたが嫌いだった』  ミリセントは薄茶色の眼で見据えながら、何でもないような口調で言った。 『アリソン叔母さんは好きだったけれど、あなたのことは嫌いだったわ』 『どうして?』思わずありさは問い返していた。  相手は薄笑いのような笑みをひっこめ、再びコーヒーを飲み、クリームをつけたスコーンを半分ほど食べてから、答えた。 『なんとなく気に食わない、っていうのはあるじゃない?』  そして、声を落として続ける。 『それにね、あなたは純粋な白人じゃないっていうのが。そりゃ、この街にはいっぱいいろんな人種がいるしね、そんなこと口に出そうものなら、やれレイシストだって叩かれるから、みんな口には出していないけれど、心の中では思っているのよ。不愉快だって。それが自分の親戚、っていうのは嫌じゃない』  率直な言葉に、ありさは思わず言葉を飲んだ。どう返事をすればいいのか、わからない。ミリセントは軽い笑い声を立て、そして続けた。 『でもね、まあ、過ぎたことは過ぎたことよ。今は嫌いじゃないわ。いえ、何とも思ってない、と言うのが正しいかしらね』  再び、ありさは言葉に詰まった。従妹の眼の中には、なんとなくからかうような表情が浮かんでいるように感じられる。そう、この表情には覚えがある。微かな記憶の底から、そんな思いがもたげてきた。 『それで、話を元に戻すけれど、懐かしさのほかに理由は?』 『確かめたいことがあったの』  ありさはあの夢の話を繰り返そうとしたが、友人たちに話す時と違って、小さな抵抗を覚えた。大事にしていたというには、この場合語弊があるが、小箱にしまっておいた昔の記憶の断片を、この従姉に見せる気にはなれなかったのだ。 『ママに関する記憶で、どうしても思い出せなくて、あいまいになったままだったから。そのままではもやもやするから、知っている人に聞いてみたいと思ったの』 『なんだ、そんなこと』相手は少し拍子抜けしたような声を出した。 『そんなことなら、あたしたちのママに聞けばいいじゃない』 『ベリンダ伯母さんには、お会いしたわ。いろいろとお話も聞かせてもらったし、アルバムも見せてもらった。それで、少し記憶がよみがえったのだけれど、どうしてもわからないことがあって』 『何が?』 『ママとわたしが、あなたたちの家のキャンプ旅行についていった時のことなの。わたしが四歳で、あなたが六歳の時』 『ああ、あれね』ミリセントの顔に、再び冷笑に近い表情が浮かんだ。 『あの時はエディーもあたしも、それは不機嫌だったわ。なんで楽しい旅行に、あなたがついてくるのかって。叔母さんはまだ良かったけれどね。それに、二人で何かしたくても、すぐに(エリッサも連れて行ってあげてね)なんて言って、あなたがくっついてくるのが、もううっとおしくって、いらいらして仕方なかったのは覚えているわ。挙句の果てに迷子になるし。ママには怒られたけれど、知らないわよ。あなたが勝手にどこかへ行ってしまったんだもの』 『森で? 虫とりに行って?』 『そう。帰ろうとして、あなたは後をついてくるだろうと思ったら、どこかに行っちゃったんですもの。大騒ぎになったし、バーベキューの予定も狂っちゃったし、本当に最悪。しかもあなたときたら、見つかってもあたしたちに謝りもしなかったし。あなたのせいで、どんなに大騒ぎになったか知れないのに』 『ごめんなさい』ありさは率直に詫びた。 『十四年? 十五年? それ越しの謝罪ね』  従姉は微かに笑い、肩をすくめた。そして身を乗り出し、言葉を継ぐ。 『ねえ、もしあなたが覚えているなら、なぜそんなことをしたのか教えてくれない? あたしたちへのあてつけ? 嫌がらせ?』 『違うの。わたしもあまり覚えていないのだけれど……願いの泉に行きたかったのだと思うわ』 『願いの泉?』  相手は意外そうに目を見張り、しばらく黙った後、続けた。 『あーあ、エディーが言ってたわねえ、そんなこと。あんなの、出まかせでしょ? あなた、まさか本気にしたの?』 『ええ、たぶんその時には。まだ子供だったし』 『それで、何をお願いしようとしたの?』  ありさはためらった。この従姉に胸の内を打ち明けるのは、辛い気がした。 『ママと……ずっと一緒に暮らせるようにって』 『え?』  ミリセントは目を見張り、そして笑いだした。ありさは胸の中に、熱い塊がつっかえるような思いを感じた。言わなければよかった。 『あら、ごめんね』  ミリセントは笑うのをやめ、再びからかうような表情でありさを見た。 『それで、あなたは何をあたしに確かめたかったの?』 『いえ、ありがとう。だいたい知りたかったことは、わかったわ』 『あら、そう。それなら良かったわ』 『一つだけ、最後に教えて、その場所はどこ?』 『あたしも子供の頃だから、よく覚えていないわ。ママに聞いてよ』  従姉はコーヒーとスコーンを食べてしまうと、立ち上がった。 『じゃ、あたしは学校に帰るわ。あ、ここはあなたが払ってね。あなたの用事ですもの』 『わかったわ。今日は来てくれてありがとう』 『あ、そうそう』ミリセントは帰り際、振り向いた。 『キャンプ場の場所はわからないけれど、森の名前は覚えているわ。ジ・アザーサイド・フォーレストって』 『もう一方の側の森……?』 『そう。変な名前だから覚えていたの』  従姉は笑顔になった。冷たさやさげすんだ感じのない、純粋な笑み。そしてくるっと踵を返し、足早に店を出ながら言った。 『バイバイ、エリッサ。あたしも少しだけ、懐かしかったわ』 『ええ。来てくれて、ありがとう』  ありさは最後にほんの少しだけ救われたような気持ちになって、従姉に手を上げた。振り返りはしなかったので、見えなかったようだが。  寮に帰ると、ありさはベリンダ伯母にメールし、従姉に会えたことと、仲介してくれた礼を述べた。そしてキャンプ場の場所を聞いた。伯母からの返信では、市外から二百キロほど北東に位置するオートキャンプ場だということで、その名称も教えてくれた。ありさはスマートフォンで地図を広げ、場所を確認すると、伯母にお礼の返信をした。  それからしばらくして、友人たちと一緒に学生食堂でランチを取っている時、従姉への訪問と事実の確認はどうなったのかと聞かれた。ありさは簡単に訪問の顛末を述べ(従姉の態度は省いて)、夢の中のシーンはほぼ事実だったと答えた。 『なかなか興味深いわね。夢にそのままの記憶が再生されるなんて。それはよほどのトラウマと言うか、コンプレックスなのね』  リズが考え込むような口調で、そんな感想を述べてきた。 『まあ、ちっちゃい時に森の中で迷うなんて経験したら、トラウマになるのもわかるわよ』  ジェニーが肩をすくめる。 『でも不思議なのは、どうやって戻ったかという記憶が出てこないということね』  ボニーの言葉に、リズも頷く。 『そうよね。広場に戻っていたのを、レンジャーさんに発見されたわけでしょう? どうやって戻ったか、って。それはあなた以外、確かめられる人はいないんだし、エリッサ』  一同の間に、少し沈黙が降りた。 『光よね。鍵は光』  キャスが考え込むような口調で言いだした。彼女の専攻は伝承文学だが、『神話とか童話とかは、心理学にも根差しているから、少しかじっているわよ』と、以前言っていた。 『光?』 『そう。エリッサの夢は、最後に光に会って終わる。そこからの記憶はない。っていうことは、思い出すのさえ怖いような、もしかしたら畏れ多いような何かがあったのかもしれない、っていう感じじゃない?』 『ああ、そういうのって、あるわね。夢分析では、いろいろな形をとるけれど、触れられたくない記憶というのが――固く閉まった扉とか、どうしても入れない家とか、踏み込めない場所とかになって表れるって。光も、その変形なのかもしれないわ』リズも頷く。 『それにしても、もう一方の側の森(ジ・アザーサイド・フォーレスト)と言うのも、不思議な名前ね、たしかに。どういう所?』  キャスの問いかけに、ありさはスマートフォンで地図を開いて見せた。 『伯母さんの話だと、ここだったわ。この森は後ろの山にずっと続いているから、こっちの側にしか出口はないっていう話だった』 『アザーサイドっていうより、ワンウェイよね、それじゃ』  ジェニーが丸い肩をすくめて、そんなことを言う。 『反対側は、終わりがない――だからアザーサイド、異界への入り口みたいな発想なのかもね』  キャスの言葉に、ありさは思わず「あっ」と小さく声を上げた。もう一つの森を思い出したのだ。淵が森――いつか妹と二人で行き、そして妹がその中へ迷い込んで、命を落とした場所。あそこには、古い祠のそばに、(この世の淵)があると言われていたという。それが、森の名前の由来だとも、妹を探してくれた年配の駐在さんが話していた。それは、やはり異界への入り口なのだろうか。あの時、自分と桃香にだけ見えた、注連縄を巻いた大木も――そんなものはない。古い祠は以前あったが、今はないと、駐在さんは言っていたが。ありさ自身も、その木を見たのは一度だけだった。  ありさの反応に注意を向けたキャスとボニーが『どうしたの』と聞いてきたので、ありさは簡単に妹の話を語った。 『妹さんは気の毒だけれど、なんだかミステリアスね』  ジェニーがそんな感想を漏らし、他の三人も頷いていた。 『森はね、いろいろイマジネーションを掻き立てる場所なのかもしれないわね。異界の入り口とか、終わらない森とか、森の精とか』 『森の精? 妖精みたいなもの?』  キャスの言葉に、ありさは問い返す。 『妖精なんて、子供のファンタシーよね』  そんなジェニーの言葉に、キャスは切り返す。 『ファンタシーを馬鹿にしてはいけないわよ。ものにはすべて(元型)があるのよ』 『アーキタイプ?』 『心理学用語ね、それ』  ボニーとリズが小さく肩をすくめて、顔を見合わせていた。 『まあ、それはともかく……場所はわかったけど、行くつもり、エリッサ?』  ジェニーが聞いてきた。ありさはかぶりを振った。 『いえ、遠いし……車を出してもらうのも、厳しいわ』 『往復四時間かぁ。まあ、お休みだったら付き合ってもいいけれど』 『ありがとう、リズ。でも大丈夫よ。行っても、夢の中と景色が同じか、というくらいしか確かめられないし、あまり中に踏み込んでいって、迷っても困るから』 『遭難なんかしたら、シャレにならないものね』と、ジェニーは肩をすくめ 『そうね。それに無理に踏み込まない方が良い場合もあるわよ。思い出せないっていうのは、何か心理のブレーキがかかっているということだから』と、リズが真顔で言う。 『ええ。ジェンにはまた寝言で迷惑をかけてしまうかもしれないけれど』  ありさはルームメイトに笑顔を向け、 『あたしは慣れているから、平気よ』と相手は笑う。  しかしその夜から、ありさはその夢を見なくなった。  翌年の五月、ありさは一通の手紙を受け取った。寮に住む学生たちは、玄関のところに各自のメールボックスを持つが、今の時代、中にあるのは、学校関連の書類やダイレクトメールばかりだ。でもこの日、ありさの郵便ボックスに手書きで宛名が書かれた、薄いベージュの封筒が入っていた。裏を返すと、差出人はスティーヴン・マーロン。母の結婚相手だと言う人だ。  部屋に帰り、ありさは封を切って読んでみた。  『こんにちは、エリッサ。初めましてと言うべきだろうか。私はスティーヴ・マーロン。君の母親、アリソンの夫だ。連絡が遅れて、すまない。  先月、アリソンの墓参に行った時、ベリンダと会った。その時に、君がこちらの大学に来ているということを聞いた。もう二年近くになると言う。驚くじゃないか。  君の小さいころの写真は、ずっと我が家の壁に貼ってあった。アリソンは君のことを、ずっと気にかけていた。生きている間に君に会わせてあげることができず、残念だ。私も君に会ってみたい。ジェイにも、彼の姉に会わせてあげたい。一度、こちらを訪ねてきてくれるだろうか。  私は今風の機械があまり好きになれないため、電子メールは使っていない。それゆえ、この住所に手紙で返信をくれるとありがたい。 それでは、返事を待っているよ。                           スティーヴン・マーロン』  住所はバンクーバー市内ではなかった。スマートフォンの地図で確認すると、かなり何もない、郊外地区と言うのも適当ではないような田舎だ。ありさは素早く頭を働かせた。母の結婚相手に会って生前の母の様子を聞くのも、まだ見たことのない弟に会うのも、もちろん好ましい。招待してくれるなら、会ってみたい。でも手紙のやり取りだと、何日かはかかるだろうから、この週末ではぎりぎりだ。では、その次にしようか。相手の都合が悪かったら、さらにその次に。ありさもほとんどのやり取りを電子メールで行っているので、校内の売店で便箋と封筒を買い、返事をしたためた。そして学校の郵便局から、手紙を投かんした。  四日後に再び手紙が来て、訪問日が決まった。来週の週末。マーロン氏は、少し距離があるので、土曜日に来てもらって、日曜日の夕方寮に戻るのはどうだろうという案と、同じ理由で寮まで迎えに行くより、途中までバスで来てくれないだろうか、帰りもそこまでは送っていく、という要望が書かれていて、ありさはそれに承知の返事を出した。電子メールなら一瞬だが、手紙の行き来は時間がかかる。それでも、遅くとも当日までには、マーロン氏もありさの返事を知るだろう。それゆえに彼女も、約束の日を、余裕をもって提案したのだ。  当日、ありさは途中の店で買ったクッキー缶をお土産に持ち(ベリンダ伯母の家を訪ねた時にも、持っていったものだ)、バスに乗った。その終点、市外区の北のはずれの停留所に降りると、少し離れたところに立っていた中年の、背の高い男が手を振り、近づいてきた。 『エリッサかい? スティーヴだ。なんとなくわかったよ』  ありさは相手を見上げた。背が高い、と思ったが、西洋人としては標準くらいなのかもしれない。どちらかと言えば、細い身体だ。色あせた緑チェックのフランネルシャツに、ジーンズ姿だ。その裾は切りっぱなしで、裸足にサンダルを履いている。頭を覆った髪の毛はうねっていて、肩に触れそうなほど長く、少し赤みがかった茶色と白が入り混じっている。目は灰色がかった緑で、鼻が少し大きく、肌が全体的に赤みを帯びていた。笑うと、その歯並みは恐ろしく整っていて、白かった。 『はじめまして』  ありさはかすかに微笑み、挨拶をした。 『はじめまして、よろしく。いや、堅苦しい挨拶はいい。もう少し先に車を止めたんだ』  案内された先には、日本ではほとんど見かけたことのないような、恐ろしく旧式のバンが停まっていた。色も緑なのか灰色なのかわからないほどくすんで、ところどころ塗料がはげ落ちている。座席は擦り切れていて、窓は開け放されている。 『おんぼろだがね、まあ、我慢してくれ』  マーロン氏は運転席に乗り込みながら、陽気に肩をゆすっていた。 『今日はいい天気だから、窓を開けてあるんだ。この車はエアコンがないから、冬は死にそうになるがね』  ありさはかすかに微笑み、窓に目をやった。さぞかし風が強く入ってきそうだが、もう少し閉められるだろうか――でも、窓のところに開閉スイッチはなく、代わりに小さなハンドルのようなものがついている。  マーロン氏もミラー越しに、ありさの様子を見たのだろう。笑い声をあげていた。 『ハハ、これにはパワーウインドウなんて、ついてないんだ。窓を閉めたい時には、そのハンドルを時計回りに回してくれ』  氏は助手席に置いた、赤い(所々剥げているが)ラジオ付きカセットのボタンを押した。音楽が流れだした。八十年代初頭くらいの洋楽――いや、それは日本の分類だが。少しだけ聞き覚えがある程度だ。 『あ、うるさいかい?』 『いえ、大丈夫です』  ありさは再びかすかに微笑み、窓の外に目をやった。  マーロン氏の家はそこから車で一時間ほど走った先にあった。ログハウスのような建物が大小二つ、白い木の柵で囲まれた、三十平方メートルほどの土地の中に建っている。周りには、ほとんど他の家はない。少し先に農家らしい家が、数件あるだけだ。  敷地を取り巻いている柵の一部は大きく開いていて、氏はそこに車を乗り入れていた。車を降りると、大きな犬が駆けてきた。真っ白で、むくむくしている。サモエドかな、と、ありさは頭の中で犬の種類を照らし合わせた。今までペットのいる暮らしをしてきたことがないだけに、どう扱えばいいか一瞬不安がよぎったが、幸い一、二度吠えられただけですんだ。『大丈夫だよ、ニック。この人は大事なお客さんなんだ』マーロン氏にそう言われると、犬もわかったように吠えるのをやめ、見上げてくる。 『こんにちは』  ありさは微笑み、内心少しおっかなびっくり手を出した。 『上から手を出しちゃいけないよ。それに緊張していると、犬の方も緊張するからね』  マーロン氏は微かに笑みを浮かべて言う。ありさは少し屈んで手を出した。 『おーい、ジェイ。おまえのお姉さんだぞ!』  マーロン氏は声を上げて呼ばわった。ややあって、庭の灌木(ブルーベリーだろうか)の茂みから、男の子が立ち上がった。黄色いTシャツにジーンズのサロペット姿の、小学校中学年くらいの子だ。髪はやはり肩に触れそうなほど長く、父親のようにうねっていて、赤みがかった金髪のような色だ。鼻は少し上を向いていて、頬にかけてかなりそばかすがある。少し小さめの眼は灰色がかった緑だが、驚くほど澄み切っていた。その子は表情を変えずに、じっとありさを見つめてきた。 『こんにちは』  ありさは初めて見る弟の方に踏み出し、そして微笑んで屈みこんだ。  男の子は相変わらず表情を変えず、じっと見つめている。やがて、『うん』と頷いた。笑いはしなかったが、拒絶の色も感じられない。少しほっとした。 『とりあえず、家の中に入って一休みしよう。お茶でも煎れるか』    案内された大きめのログハウスの中は、丸太づくりではなく、板張りだった。天井は半分吹き抜けで梁が見えるが、半分ほどは同じく板張りになっていて、梯子が伸びている。屋根裏部屋なのだろう。小さなキッチンと冷蔵庫、食料戸棚、そしてダイニングテーブルと椅子。クロゼットが二つと、木のベンチとクッション。その前に丸いキルトが敷かれていて、ジェイの玩具箱らしきものが置いてある。その向こうにベッド。隅に洗面台。全体が一つの大きな部屋のようになっていて、区切りは何もない。その向こうに、ようやくバスルームらしき扉がある。大きな窓からは光が入り、天井にはランプが裸のままぶら下がっていた。壁にはアナログ式の時計がかかっている。クロゼットの上には、母の写真が何枚か飾ってあった。  マーロン氏が紅茶をいれてくれた。ありさのお土産のクッキーも、缶に入ったまま出された。サモエド犬のニックも、ゆっくりした動作で家に入ってきて、テーブルのそばに丸まっている。 『殺風景だろう、わが家は』マーロン氏は声をたてて笑った。 『テレビもパソコンも、ゲーム機もないんだ。嫌いなんだよ、私は。だからカセットでお気に入りの音楽を聴いている』 『そうなんですか』  ベリンダ伯母と母の墓参に行った時、『スティーヴも少し変わっている』と、義弟を評していたことを思い出し、ありさは微かに笑みを浮かべて頷いた。 『ジェイ君は普段何をして遊んでいるんですか?』 『ああ、図鑑を見たり積み木を積んだりね。それに彼は庭が大好きだ』  マーロン氏はカップを取り上げ、中身を飲み干した後、続けた。 『ジェイには、少し障害があるらしい。いや、そんな言葉は好きじゃないね。他の子と少し違っている。それゆえ、集団にはなじめない。だから、彼は学校には行ってないんだ。ここで私が必要なことを教えている』 『そうなんですか』  ありさは再び頷いた。伯母がこの子のことを『とてもいい子だけれど、軽い知的障害と自閉症がある』と言っていたことを思い出しながら。ジェイはなかなかテーブルに着こうとせず、周りを回ったり、ニックをなでたりしっぽを引っ張ったりした後、リビングスペースに行って本を取り出し、広げようとしていた。で父親に『こっちへ来て、お茶を飲みなさい』と言われ、やっと椅子に座っている。 ――同じ半兄弟でも、桃香とは違うのかな。一瞬、そんな思いがよぎった。桃香は純日本人で、ジェイは純粋な白人だという、人種の違い以上に。妹は人懐っこく、おしゃべりで、素直だった。継母が与えた名作絵本が好きで、植物図鑑も好きで、でも人形遊びやおままごとは、あまりしない子だった。テレビやDVDも、教育用以外は見たことがなかったと思う。それも、継母の方針だった。 『気楽にしてくれ。私は君の継父になったかもしれないのだから』  マーロン氏は笑みを浮かべた。ありさも少し遠慮がちに、笑みを返した。 『ずっとこちらに住んでいらしたのですか、母も?』 『いや、ここに来たのは一年半前だ。それまでは、バンクーバー郊外に住んでいたよ。北の方でね。もう少し敷地の狭い、一軒家に住んでいた。アリソンの仕事にも、病院にも、あまり遠いと不便だからね。彼女が死んで、もうその必要がなくなって、ここに移ったんだ。より自然に触れあえるからね。庭には鳥もたくさん来るし、近くには小川もある。森もある。ジェイにとっても、素晴らしい遊び場なんだ』 『いい環境ですね。でも、お買い物とかは?』 『買い物は週に一回、あのおんぼろバンで買い出しに行っているよ』  マーロン氏は大きく顔を崩して笑った。 『庭には菜園もあるんだ。いろいろな野菜を作っている。ジェイはなかなかその方面でも才能があってね。うまく育てているよ』 『ジェイ君が?』 『ああ、もちろん管理しているのは、私だけれどね。肥料をやったり、剪定したりするのは。でも一緒に草をむしったり、水をやったり、私が忙しい時には、一人で面倒を見ている。花壇もあるが、それはアリソンの写真に備える用だな。冬はダメだが』  ありさはクロゼットの上に置かれた、母の写真に目をやった。その横に小さな緑色の花瓶が置いてあり、ピンクのサクラソウとカーネーションがさしてある。 ――家にいた時には、祖母と妹の写真に花を供えていたな。今はなかなかできないけれど。そんな思いが、ありさの心をかすめた。ジェニーたちに妹のことを話してから、彼女の許可を得て、寮の部屋でも二人の写真を飾っているが、なかなか花までは供えられない。  その後、菜園に行っていくつかの野菜を三人で収穫した後、マーロン氏の工房に案内してもらった。そこは日本間でいえば十畳くらいの広さで、粗く削った木張りの床に、一脚の丸椅子、二つのテーブルの一方には作りかけの作品が、もう一方には工具箱らしきものが置いてある。部屋の隅に置かれた大きなかごには、大小の木片が入っていた。  ありさは机の上に置かれた、その作品を見た。鹿をかたどった彫刻のようだ。枝分かれした見事な角が、まるで本物のように再現されている。 『素晴らしいですね』  ありさは思わず感嘆の声を出した。 『いや、私は芸術家ではなく、しがない工芸職人だからね。こうやって作品を作って、店に卸して、生活をしている。ここから車で十五分くらいのところに、森があるんだ。そこへ行って、倒木を切り出して材料を集めている。だから、材料費はただみたいなものだ』  マーロン氏は肩をゆすって笑った。  庭の井戸で水をくみ、収穫した野菜を洗って、さらには町で買ってきたのだろう、麻袋に入ったジャガイモやニンジンを剥いて入れ、最後にパスタを放り込んで作ったスープが夕食だった。そしてゆで卵と。卵は近所(とはいっても、歩いて十分ほどかかるらしいが)の養鶏農家から、時々買っているらしい。 『パンは、買い出しに行ってから、三日くらいしか持たないからね。招待しておいて、粗食で申し訳ないね』 『あ、いえ、そんなことはないです。とてもおいしいです』  お世辞ではなく、本心で答えた。シンプルだが、そのスープは優しくしみとおるような味で、野菜のうまみも、アクセントに使ったベーコンも、パスタも、混然と絡み合っているような感じだ。  夜は、階上の屋根裏部屋へと案内された。広間の天井部の、板張りの部分。広さにして、六、七畳くらいだろうか。小さなテーブルと椅子、そしてソファベッドだけの部屋だ。 『私はジェイと同じベッドで、階下で寝ている。そのベッドは、以前の家で、アリソンが休む時に使っていたものだ。捨ててしまおうかとも思ったが、取っておいてここに置いたんだ。ああ、寝具もろとも、昨日一日陽に当てたから、休むのに心配はいらないよ。それと、この部屋には内側から鍵を取り付けたから、君のプライバシーと安全は確保されるはずだ。それではおやすみ』  氏はにっと笑い、階下へ戻っていった。確かにドアの内側に、閂式の鍵がついている。疑うわけではなく、身の危険などもまったく感じはしなかったが、念のためその鍵をかけて、ありさは眠りについた。 『ところでエリッサ、君はいつも休暇中、どこに帰っているのかい? 君のお父さんは仕事でインドネシアにいて、他に家族はいないとベリンダに聞いたが』  朝食の席で、マーロン氏はそう問いかけてきた。 『どこにも帰ってないです。ずっと寮にいます』  長期休暇中、家に帰る学生は多いが、留学生たちは基本残っている。ありさの友人たちでも、ジェニーとキャスとリズは家に帰るが、ボニーは帰らない。彼女はたいてい、休暇中はベビーシッターや事務助手などのアルバイトをして暮らしていた。ありさも同様だ。去年の夏は、もっぱらベビーシッターや家事ヘルパーをして過ごした。少しでも自力で生活できるようにと。今年もそのつもりだった。 『それなら、二週間ばかりここに来ないか。歓迎するよ』 『え?』 『前にも言ったように、私は君の継父になったかもしれないんだ。それにジェイにとっては、半分血のつながった姉だ。少し一緒に暮らしてみたい。君が嫌でなかったら』 『あ――』  思いもよらぬ提案に、ありさは少し戸惑った。困惑と、うれしさと。 『ありがとうございます。少し考えさせてください』 『わかった。決まったら、手紙をくれ』 『はい。あ、でも、お電話をお持ちなら――』  ありさは言いかけた。テーブルの上に、旧式の携帯電話が無造作に投げ出されているのを、昨日から見ていたからだ。 『私は、電話は嫌いなんだ』  マーロン氏は少し眉根を寄せて、首を振った。 『こっちの都合にお構いなく、割り込んでくるからね。だから、いつも電源を切っている。元々電波状態もあまりよくないから、たいして変わりはないがね』 『そうなんですか』  ありさは微かに笑いを浮かべた。彼女自身のスマートフォンでも、たしかにこの辺りはあまり電波が入らないようだ。 『まあ、ここはテレビも何もなくて、君には退屈かもしれんがね』 『いえ、そんなことはないです。呼んでくださるというお気持ちは、とても嬉しいです』  変わり者かもしれないが、マーロン氏に対して、否定的な気持ちは起きない。父親ではないが、頼りになる遠い親戚のような、そんな感覚が湧いてくる。  寮に帰るために庭に出た時、ありさはふと花壇に咲いていた花に目をやった。鮮やかなピンクや赤、黄色の花たち。そこに一匹のハチが停まり、密を吸って飛び去る。別の花の上には、黒地に大きな黄色模様のテントウムシがとまっていた。 「あ」  ありさは小さく声を上げた。これは夢の中で見たのと、同じ模様だ。地面から這い上ってきた――。  ジェイがニックとともに近づいてきて、その花と虫をのぞき込んでいた。 『あ、(おつかいちゃん)だ』  ジェイが小さく声を上げ、虫に指先を触れた。てんとう虫はその小さな指を這い上り、羽を広げて飛んでいった。あの夢と同じように。 『おつかいちゃん? それが、あのテントウムシの種類なの?』  日本では見かけたことのない模様だから、この辺りに生息している種類なのだろうとは思ったが、妙な名前だと、ありさは思わず問い返した。 『種類は知らない』ジェイはかぶりを振った。 『でも、“彼”が近くにいるってこと』 『え?』 『みたことあるの、おつかいちゃん?』少年はそう問いかけてきた。 『ええ、たぶん、小さい時に。夢で見たこともあるわ』  ジェイはありさに向き直り、じっと見つめてきた。その深い、澄み切ったまなざしに、ありさは何か心の奥深くで動くものを感じた。昔――こんなまなざしに会った。この子のような、煙がかったような緑ではなく、純粋に深い、エメラルドのような緑色――。  ジェイは両手を伸ばし、ありさの指先を握った。今までの滞在中、ほとんど目を合わせることのなかった子供が、初めて彼女に触れてきた。 『エリッサ。夏に、ここに来て』  その手の感触とまなざしは、ありさの心に不思議な感動をもたらした。彼女は、失ったもう一人の兄弟を思った。妹に感じていたような思いが、胸の中に注ぎ込まれるのを感じた。ありさは衝動に押されるまま、頷いた。 『ええ、来るわね』  突然微笑みが、花開いたように少年の顔に上った。頬が赤みを帯びて、そばかすの色がほとんど目立たなくなる。その髪は陽の光を浴びて、赤みがかった黄金色の輝きを放っていた。美しくはないのだろうが、かわいい子だ――再び温かい感情が、ありさの心に入ってきた。 『本当かい?』  背後でマーロン氏の声がし、ぽんと肩を叩かれた。 『ええ――ご迷惑でなかったら』 『迷惑なんて、とんでもない。それなら、八月の頭から二週間、それでどうだい? 同じバス停まで来てくれれば、また迎えに行くよ』 『はい――よろしくお願いします』 『よかった。それでは今日は、君を送っていこう。乗ってくれ』 『ぼくも行く』ジェイが父親の車に近づいた。 『そうか。じゃあ、一緒にお姉ちゃんを送っていこうか』 『うん。ニックもね』  帰りのバンは、子供と犬が増えたため、座席がいっぱいになった。ありさは助手席に座り、ジェイとニックは後部座席へ。 『ラジカセを置く場所がないな。まあ、仕方がない。風の音のBGMといこう』  マーロン氏は笑い、そして車は走り出した。  その日、ありさは森に来ていた。大学の夏休み中、母の結婚相手である、スティーヴ・マーロン氏の家に滞在して、一週間がたった頃である。彫刻工芸家であるスティーヴ氏がいつも材料を取りに行く森とは、かつてありさが迷った場所だった。ただし、オートキャンプ場のある、かつて伯母たちと一緒に来たという所とは離れた、東側の端のようだった。南側は野原で終わり、北側は山に続く。東側の端は道路で途切れ、その向こうは牧場のようだった。  いつかは訪れてみたいと思っていたその森を前にした時、ありさは軽い震えのようなものが走るのを感じた。 『ここって、「ジ・アザーサイド・フォーレスト」ですか?』 『ああ、そんな名前で呼ばれているらしいね』  マーロン氏は微かに肩をゆすって笑った。 『この西側にはオートキャンプ場があって、結構うるさいんで、そっち側には近づきたくないんだがね』 『わたし、ここに子供のころ、そのオートキャンプ場には、来たことがあります。母と、伯母一家と』 『ああ、聞いたよ。アリソンが言っていた。君はその時、迷子になったらしいね』 『ええ』 『母娘揃って同じ場所で迷子にならなくてもいいのに、とも言っていてね』  えっ――ありさは母の夫だった人を見上げた。 『母が――? 母も、この森で迷子になったっんですか?』 『ああ。彼女が六歳のころだったらしい。やっぱり一家でキャンプに来て、ウサギを追いかけて、広場を越えて、迷い込んだって。子供のころには、その時の夢を何回か見たそうだ』  ありさは返事を忘れ、前方の森を見つめた。母もかつて、自分と同じ経験をした――? 『どうかしたかい?』  ありさがしばらく黙っていたので、マーロン氏も少し不思議に思ったのだろう。 『いえ、少し驚いてしまって』ありさは微かな笑顔を浮かべた。 『わたしも、時々夢に見たんです。ここ一年くらい見ていませんが――母は、どうやって戻ってきたかは、話していませんでしたか?』 『それが不思議なことに、記憶がないそうだ。気がついたら広場に戻っていて、探しに来た人たちに発見されたと。君も見つかった時、同じようなことを言っていたのが、なおさら奇妙に感じたと言っていた』 『そうですか……』 『ここでは迷子にならないように、気をつけておくれ』  スティーヴ氏は陽気な調子で言い、小さく肩を叩いた。 『材料を探している間、君たちには待ってもらうことになるが、一人で行動してはダメだよ。ジェイと一緒にいてくれ。それと、ニックとな』  氏は手にした細いロープの端を木に結びつけると、森の中に入っていった。道などはなく、生えている木の隙間を通って行く。地面は湿っていて、朽ちた葉がところどころ積もっていた。道の脇にはシダやコケが生え、時々低い灌木がある。マーロン氏の後から、ありさはジェイとニックとともに、ついていった。動きやすいように、長袖のシャツとジーンズ姿だ。ジェイも長いシャツとカバーオールにすっぽりとくるまり、犬は身軽にそのそばを走っている。先頭を行くマーロン氏は大きな布製のバッグを肩から下げ、背中にはリュックをしょっていた。進むにつれて、彼の手から赤いロープがシュルシュルと伸び、帰りの道しるべとなっていく。  しばらく歩いたところで、小さな小川を渡った。橋はなく、飛び石を踏んで対岸へ。その先には、少し開けた空間があった。真ん中に大きな切り株があり、その周りには短い下草とシダが茂っていて、ところどころ大きな石がある。マーロン氏は荷物を地面に置き、リュックからのこぎりを取り出した。布袋を肩にかけたまま、片手にのこぎりを持つと、振り返って告げる。 『では、私はこの辺りで材料を探すから、しばらく遊んでいてくれ』 『うん』  ジェイが頷き、石の一つに座って、背中に背負っていた小さなリュックをおろした。そこから本を取り出し、見始める。犬はその傍らに寄り添うように、座っている。彼らはきっと、何度も父親とともに来ているので、慣れているのだろう。  ありさも座り心地の良さそうな石を選んで、腰を下ろした。同じく背中のリュックをおろし、水を取り出す。暑い日だが、森の中は涼しい。でもしばらく歩いたので、少し咽喉が渇いていた。 『ジェイも、お水飲む?』  声をかけたが、少年は本から眼を上げることなく、首を振る。マーロン氏の姿は、木々の間に見えなくなっていた。しかし、もう一度近くの木に結びつけていった赤いロープがガイドになり、きっとそれをたどって、ここに戻ってくるのだろう。  ありさは空を見上げた。ぽっかりと丸く、青い空と、ところどころ浮かぶ白い雲が見える。この空間の真ん中にある切り株は、刃物で切られたようにすっぱりとした斬り口ではなく、ギザギザで、中に大きな空洞があった。その周りにも、木の残骸らしいものが散らばっている。かなり朽ちてることから察すると、かつてはこの木がここに立っていたが、それが枯れて倒れ、その後に広場を残したのだろう。枯れるまでは相当大きな木だったことも、また枯れてから何年もたっていることも、察せられた。  ありさは周りの連なる木々を見、地面に目を落とした。ジ・アザーサイド・フォーレスト。かつて自分が迷い、何度も夢に見て、一度現地に行ってみたいと思った場所だが、かつての記憶にあったところとは違う地点に入っているせいか、心の奥底で動くものは感じられなかった。ありさも荷物の中から小さな本を取り出して、読み始めた。  やがてジェイが本をたたんで、リュックにしまい、立ち上がった。そして歩き出す。そばでまどろみかけていたニックも、伸びをしてのそっと立ち上がり、その後に続いた。 『どこへ行くの、ジェイ?』  ありさも本をたたみ、眼を上げて問いかけた。 『この流れを、たどるんだ』  少年は振り返らず、答える。 『迷っちゃうわよ』 『迷わないよ。ただ、戻ればいいだけだから』  たしかにそうか、とは思いながらも、ありさも立ち上がって後を追った。万が一、迷子になったら困る。犬も一緒とはいえ。  小川沿いは、小石がゴロゴロとしていて、歩きにくかった。ぎりぎりまで木が生えている場所もあった。ジェイはその間とポンポンと跳ねるような足取りで歩いていき、ニックもしっぽを振りながら、嬉しそうに走っていく。ありさは不安定な足元を気にしながら、弟と犬を見失わないように、後をついていった。時々ジェイは立ち止り、足元から何かを拾ったり、周りを見回したりした後、再び進む。  ありさは普段から腕時計をしていないので、正確な時間はわからない。スマートフォンも、リュックの中だし、それもさっきの広場に置いてきてしまった。スマートフォン自体、マーロン氏のところに来てからは、ほとんど電波が入らないので、あまりできることはなく、しょっちゅう充電が切れた状態になっている。だが体感時間で、この小川をたどりだしてから、一時間ほどはたっているように感じた。 『ジェイ。そろそろ戻りましょう。お父さんが戻って来るかもしれないわよ』 『うーん』少年は頭を振って、立ち止まった。 『時間が足りないなあ』 『何の?』ありさは近くにより、そっと問いかけた。 『この流れの源』  ジェイは小川の上流を指さした。その行く手は、森の深部のようだ。 『遠くない?』 『うん。遠いよ。だから、時間が足りないんだ』  ジェイは踵を返し、来た道をたどり始めた。ありさもほっとして、後に続く。 『この流れの源には、何があるの?』  ありさは問いかけてみた。その時ふと、頭の中にひらめいた思いがあった。それは従兄が言っていた『願いの泉』と同じものだろうかと。 『願いの泉なんか、ないよ』  ありさは思わず足を止めた。この思いは口に出しては、言わなかったはずなのに。少年は立ち止って振り向き、ありさの目をじっと見てきた。 『そこには、“彼”がいる。でも“彼”は、願いは叶えない』 「え?」  ありさは目を見開き、弟の目を見つめ返した。少しグレーがかった緑のその眼は、澄み切っている。その時再び、奇妙な感覚が襲ってきた。もっと純粋な緑の瞳――そのまなざしを、かつて見たことがあると。  ジェイは何も言わずに視線を外し、再び歩み始めた。その後ろから、白いむくむくした犬がついていく。ありさも遅れまいと、その後を追った。    さっきの広場に帰った時には、マーロン氏もすでに戻っていた。石の上に腰を下ろし、水筒の水を飲んでいる。彼は顔を向けた。特に心配した様子はなく、普通の表情だ。戻った時に息子がいないことも、珍しくはないのだろう。 『帰ったか。それじゃ、お昼にしよう』  三人はリュックを開き、一昨日店から買ってきたパンに、ハムとチーズ、トマトときゅうりを挟んだサンドイッチを取り出した。ジェイは時々パンの切れ端を、ニックにやっていた。一度、ありさもやりかけたことがあるが、マーロン氏に止められた。 『悪いね。でも我々はニックには、いつもやるごはんの他には、ジェイがわける分だけにしているんだ。それ以上やりすぎると、太ってしまうからね』と。  お昼休憩がすむと、再びマーロン氏は袋とのこぎりを手に、森の奥に入っていった。ジェイも再び本を出してページをめくり、ニックは眠り始めている。  ありさは氏が帰ってくるまでの二時間ほどを、持ってきた本を読んで過ごした。ジェイも今回は小川辿りをせず、本に飽きると、石を積み重ねてみたり、水の中で泳ぐ魚を眺めたりして、時間を過ごしている。  やがてマーロン氏が森の中から、大きな布袋を肩に下げて現れた。それは来る時には空っぽだったが、今は集めてきたのだろう木片の形にでこぼこと膨らみ、入り口からもいくつかの枝が飛び出している。氏はのこぎりをリュックにしまうと、告げた。 『待たせたね。かなり収穫があった。もう帰ろう』  その夜、ありさは夢を見た。ここ一年以上見ることのなかったあの夢、「森の中で迷う夢」が、再びやってきたのだ。いつもと同じ光景、同じ展開。ただ、最後は光ではなかった。  彼女は疲れ果てていた。もう帰れないのかもしれない。そんな絶望感が心を満たしていた。もう歩けなくなって、彼女はその場に座り込んだ。毛虫や変な虫にたかられるかもしれない。そんな恐れより、今は疲れでどうしようもなかったのだ。泣こうとしたが、もう涙も出てこなかった。枯れてしまったのだろうか。  水の流れる音が聞こえた。微かなせせらぎ。昼間聞いた、小さな小川の音。それよりも微かな。それがさわさわと誘うように、耳に響いた。彼女は立ちあがった。のどが渇ききっていた。お水が飲みたい――。  音のする方に歩いた。それは小さな開けた空間で、岩の間から水が流れ落ちていた。よろよろと進み、小さな手を差し出し、水をすくう。 ――もしかしたらこれが、願いの泉なのだろうか。そんな思いが湧いた。だとしたら、お願いを言わなければ。ママと――いや、それよりも最初に、この森から出たい。もし二つ目の願いをかなえてくれるなら、ママのことを願おう。  冷たい水がのどを滑り落ちる感触とともに、彼女は光を感じた。いつも夢の最後に出会う、あの光。振り向くと、誰かが近くにいた。その顔は、光でよく見えない。ただ、それほど大きくはないようだ。洋服は緑――手に抱いた、今は両手で水をすくうために脇に挟んだ、小さな人形のような。  そこで目が覚めた。気の早い朝の光が、部屋を満たしていた。一年以上見なかったあの夢を見たのは、正確には同じ場所ではないにしても、再びあの森に行ったからだろうか。  ありさは起き上がった。枕元の時計は、四時を過ぎたところだ。この小さな屋根裏部屋には、細い窓がついているが、カーテンはかかっていない。そのために、かなり緯度の高いこのあたりでは、八月の今は夜の九時くらいまで明るく、朝は四時前から光が差してくる。ベッドの頭側ではなく、窓が足側に来るように寝ているのだが、それでも早くに明るくなるため、早朝に目が覚めてしまうことも、たびたびだった。眠りの誘いが強い時には、再び眠るのだが、この日は目がさえていたので、ありさはベッドから出た。Tシャツとジーンズを身に着け、その上からコットンのシャツを羽織る。靴を履いて階下へ降り、まだ寝ているスティーヴ氏とジェイを起こさないように、さらにソファの隣で丸まって眠っているニックを踏まないようにも気をつけて、洗面所へ。顔を洗ってから、ドアを開けて外へ出た。  日本の自宅、特に祖母が生きていて手入れをしていたころのようには整っていないが、マーロン氏のこの庭も、親しみやすくて美しいと、ありさは感じていた。最初に来た時から。庭は芝生ではなく、茶色い地面に雑草が生えていて、家の右側には花壇とブルーベリーの灌木、左側には菜園がある。敷地には、三本の木が生えていた。一本は家のそばの右側に、もう一本は灌木の後ろ、三本目は門のすぐ横に。家のそばにある木は楓で、灌木の後ろにあるのはブナの木、門の横にあるのは樅の木――どれも、常盤家にも生えている木だ。子供が生まれる時、その守り神として木を植える。祖母がそう説明してくれていた。ブナの木は祖父の木、樅の木は健叔父の、そして楓はありさの木だ。ただ、日本の楓とは違い、この庭にある木は、カナダの国旗にあるようなサトウカエデだが。  常盤の家には、菜園や果樹などはなかった。ほとんど観賞用の花や葉植物だ。スティーヴ氏の庭は、木以外はほとんど実用目的のようだ。庭の半分近くを占める菜園でとれる野菜で、家で消費する分を半分以上賄っているようだし、今が盛りのブルーベリーの実も、ジャムやゼリーなどに利用する。花壇の花は、母の写真に供えるためだという。  ありさは空を見上げた。早朝の空は濃い水色に染まり、ほとんど雲もない。太陽の日差しは、朝のためか、まだ柔らかさを感じる。風が吹きすぎていき、木がかすかに揺れ、ありさの髪も揺らした。周りの景色は、濃淡はあっても、緑一色だ。畑の緑、牧場の緑、そして木々の色。その中にところどころ、色とりどりのマッチ箱のような、小さな家々が点在する。  ふっと記憶が脳裏をかすめていった。まだ一家が幸せだったころ。父にお休みが取れて、継母と桃香と四人で、夏休みに信州に行った時。色は微妙に違うし配置も違うけれど、やはりこんなふうに、緑一色の景色だった。それに見入っていた妹。窓ガラスに顔をくっつけるようにして、「きれいねえ」と、何度も繰り返していた。 ――桃香もここに来られたら、きっと喜んだに違いないのに。ふっとそんな思いが湧き、胸の奥と目頭が熱くなるのを感じた。妹は植物を愛していたから。庭の木も、花も、公園や山の植物も。  背後のドアがぱたんと開いた。振り向くと、ジェイが庭に出てきていた。パジャマ代わりの、黄色いTシャツと白いショートパンツ姿だ。 『あら、目が覚めたの? まだ四時半くらいよ』 『うん』  ジェイは頷くと、ありさのそばを通り過ぎ、菜園へと向かっていた。 『でも、ときどき早く起きるんだ』  ありさも弟の後について、菜園に行った。それほど広くはないが、親子二人で維持するのなら、このくらいの規模が適しているだろうとも思える。そこは、畝ごとに異なる野菜が植えられていた。トウモロコシ、トマト、インゲン、ブロッコリー、かぼちゃ、じゃがいも、レタス、きゅうり、たまねぎ――収穫できるものを食べる分だけとり、他の野菜には水をやり、状態を見る。ありさもここへ来てから、何度か手伝った。  ジェイはベランダに置いてある桶を持ち上げ、菜園の入り口に置いた。収穫した野菜は、この中に入れて家に運ぶのだ。 『朝用のお野菜を取るの?』 『うん』  ジェイはトウモロコシの列を歩き、一本一本、実を一つ一つ見ていくと、手を伸ばして三つ取った。ありさも手伝おうとしたが、収穫の選別はわからない。以前何度か手を伸ばしかけて、『それ、まだだよ』と、ジェイに言われていた。それゆえいつも、『どれを取るのか教えて。それを取るから』と、弟に声をかけている。 『そのブロッコリーとって、エリッサ』  ジェイが指さしたので、ありさは一度家に引き返し、包丁を持ってきて、その株を切った。その間に弟はトマトを二つ取り、キュウリの一本を『取って』と指示してきた。ありさが取ると、ジェイも別のところから一本とっている。実際に、弟が取っている野菜は、食卓に乗せると、どれもみずみずしく、まさに食べごろという感じだった。 『すごいのね、ジェイは。食べごろの野菜の見分け方、教えて』  ありさはそう問うてみた。ジェイは振り向き、しばらくじっと見たあと、頭を振った。 『教えられない』 『あら、残念ね』 『だって、やさいの声、聞こえないでしょ?』  ジェイはなおもじっと見、表情を変えずに言う。 『野菜の声?』 『うん』 『あなたには、聞こえるの?』 『うん』 『なんて言っているの?』 『食べて。今が食べごろだよ』 『ええ?』ありさは思わず、あいまいな笑みを浮かべた。 『それと、あのジャガイモは病気。だから、抜かないと』 『え?』  ありさは指さした方に行って、屈みこんだ。たしかに、微かに茎が茶色くなり、葉っぱに斑点が出かかっている。 『どうすればいい?』 『抜いちゃって。あとで、パパに言うから』 『わかったわ』  ありさはその株を引き抜いた。小さなジャガイモをいくつか根元に付けたまま、それを手に持って、菜園の外に置いた。 『それと、あれとあれには、アブラムシがたかってる』  弟が指さしたものには、たしかに虫がいた。びっしりではないが、増えると厄介だ。ありさは再びベランダに行き、木炭と酢で作った虫よけを振りかけた。  たしかに見れば、それとわかる。弟は何度も菜園に出入りしているから、知っているとも言える。食べごろの作物も、眼と質感で判断しているのかもしれない。  それでも、普段からジェイが植物に接する様子は、まるでその気持ちをわかっているように思える時があった。庭の隅にある小さな井戸から水をくみ上げ、菜園や花壇にまく時も、さっと済ますものと、念入りにまく時があった。一度聞いてみたら、『水を欲しがってるのと、それほどじゃないのが、あるんだ』と答えていた。  もしかしたら、妹や祖母よりも、この子は〈みどりの人〉なのかもしれない――いつか、大学の友人から聞いた話を、ありさは思い出した。植物に寄り添い、愛しんで育てられる人。ありさの脳裏に、庭の手入れをしていた祖母の姿が浮かんだ。大きなじょうろを抱え、水撒きをしていた妹の姿も。 『その子って、だれ?』  ジェイが振り向き、聞いてきた。ありさは心臓の鼓動が小さく跳ね上がった。 『その子って?』 『あなたが思ってる、女の子』  ありさの鼓動は再び跳ねあがった。そう言えば、森に行った時も、こっちの思うことをわかっているように言ったことがあったが――。 『あなたより少し小さいくらいの、日本人の女の子?』  そう聞くと、相手はこっくりと頷く。 『わたしの妹よ――』  ありさは固唾をのみこみながら、少し乾いた声で答えた。 『妹?』 『ええ。あなたはわたしの弟だけれど、その子はわたしの妹。わたしのお父さんの娘だから、あなたとは血はつながっていないけれど、どちらもわたしの兄弟』 『その子って、亡くなってる?』  再びそう聞かれ、ありさはしばらく言葉に詰まった。 『どうして、わかったの? あなたのお父さんに聞いたの?』  そうだ。スティーヴ氏はベリンダ伯母を通じて、ありさの境遇を知っているはずだ。そう思ったが、少年は首を振った。 『じゃあ、どうして――知ったの?』 『なんとなく、そんな感じがしたんだ』 『ええ』  ありさは頷き、少し力が抜けるのを感じて、ベランダの段に座った。ジェイもそのそばに来て、腰を下ろす。 『どうして、その子は亡くなったの?』 『あのね……』  ありさは語った。桃香のことを簡潔な言葉で。植物を愛し、庭を愛していた妹。ピクニックに行ったこと。そこでいなくなり、見つかったこと。それからもそういうことがあり、三度目に妹は、永遠にいなくなってしまったことを。  ジェイはその灰緑色の眼を開いて、じっと聞き入っているようだった。そして、言った。 『その子は、呼ばれちゃったんだね』 『そうね。神様に呼ばれて、行ってしまったのかもしれないわ……』  涙があふれてくるのを感じた。あれから六年がたっても、やはり妹のことを話すたびに、悲しみの感情が沸き上がってくるのを止められない。 『ううん、違う』少年はかぶりを振り、ありさを見つめてきた。 『その子はきっと、“彼”に会ったんだよ。それで、呼ばれたんだ』 『“彼”――?』  ありさは反復した。そう言えばこの子は、森でもそんなことを言っていた。流れをさかのぼっていって源まで行くと、“彼”に会える。あのテントウムシ――おつかいちゃんは、“彼”が近くにいる印だとも。 『“彼”って……誰?』  その質問に、答えはなかった。少年は遠くを見やるような視線で、言った。 『“彼”は、助けを求めているんだ』 『え?』 『“彼”は呼ぶ。笛を吹く。いつか、ぼくも行くと思う』  その言葉に、軽い戦慄を感じた。何か言う間もなく、後ろの扉が再び開いた。 『驚いたね。二人とも早起きだな』  マーロン氏が声を上げながら、大股に近づいてきた。 『おお。もう野菜を取ってくれたのか。じゃあ、朝食を作ろう』  氏は野菜の入った桶を持ち上げ、少年もその後に続いた。ありさも立ち上がったが、軽い震えを止められなかった。弟は、普通の子ではない。それはわかっていたが、それゆえに、普通の人にはわからない何か、大きな深い何かにつながっているのだろうか。いや、単に普通でないから、その言っていることに意味や脈絡は、それほどないのかもしれないが――ありさは両腕を身体に回し、眼を閉じた。 第三章 みどりの笛吹き  その日、ありさは学生食堂で一人、レポートを書いていた。ともに昼食をとっていたキャシーとリズは、午後の講義が始まるので教室に行き、その日は講義がないらしいボニーは朝からアルバイト先へ、午後の二コマ目から出る予定のキャスは、まだ寮にいる。ありさは午前の講義に出た後、午後三コマ目に出席予定の学科の課題を仕上げるため、昼食後一人学生食堂に残ったのだった。  この大学に入ってから、三度目の十月になっていた。食堂の大きな窓から見える景色は色づき、空気はひんやりとしてきている。学校や寮にも、朝晩には暖房が入るようになっていた。ありさはレポートを仕上げると、読み返し、必要な修正を入れてから、バッグにしまった。これから講義が始まるまでの一時間ほどを、本でも読んでいよう―― 「常盤さん」  背後からいきなり日本語で呼びかけられ、ありさはびくっとして振り向いた。同い年くらいの、日本人男性が立っている。それほど長身ではなく(ありさより五、六センチほど高いくらいだ)、かすかに茶色みを帯びた髪が緩やかにうねって、耳を隠すくらいの長さに伸びている。ロゴの入った白のスウェットにブルーのデニムという、ごく普通の服装だ。――誰だろう? なんとなく、その顔に見覚えがあるような―― 「御森(みもり)くん?」  思い当って、小さな叫びが漏れた。中学高校で、同じ学校にいた男子だ。六年間で、二度同じクラスになったこともある。覚えている限り、話をしたことはなかったが。あの忌まわしい記憶、継母に頼まれたという男子たちに襲われた時、急を告げて助けを呼んでくれたのが、この御森陽斗(はると)であったことは、後日人づてに聞いた。父が学校経由で彼の家にお礼の品を送り、そこにありさも「ありがとうございました」と、短いメッセージを添えた。でも卒業まで、言葉は交わしたことがない。その彼と、まさかブリティッシュ・コロンビアの大学で会うとは。 「どうして、ここに来ているの?」 「交換留学で、一年だけこっちに来てるんだ。あ、となりいい?」  陽斗は少し照れたような顔で、そう聞いてくる。ありさが頷き、少し椅子を引くと、彼は隣の椅子に座った。 「そうなの。偶然ね」 「そうだね」  それから先の会話は続かない。やがて陽斗が再び口を開く。 「レポートはもう終わったの?」 「ええ」  さらにまた、少し沈黙。ありさは居心地の悪さを感じた。もともと日本では、ほとんど友達と交流したことがない。殊に継母の意地悪のおかげで、中学最後の年から高校三年間は、ずっと孤立していたから、日本人の他者とのしゃべり方を、忘れてしまったような感じだ。だが、ここで彼に会ったのなら、言っておくべきだった言葉を言おう。 「あの時は、ありがとう」 「ああ……あれは、当然のことだから」  そして、もじもじと指を組み替えながら、言葉を継ぐ。 「……常盤さんには、悪い記憶なんだから、忘れなよ」 「ありがとう。大丈夫。もう忘れているから」 「それなら、よかった」  そう言って、また沈黙する。でも、こうして隣に座り、立ち上がる気配はなく、何かを言いたそうにしているということは、彼は自分と話したいのだろうか。ありさはしばらく迷った後、日本にいた頃の自分を脇に置いて、ここの友人や他の学生たちと接するように、彼と話してみようと決めた。もし不愉快だったり、無益だと感じたりしたら、その時にはさっさと離れたらいい。 「御森くんは、九月からこっちに来ているの?」 「ああ」 「同じ大学からは、一緒に誰か来ているの?」 「いや、ここの定員は一名だから、俺だけだよ。他の大学からは、何人かいるみたいだけれど」 「そうなの。こっちの授業には慣れた?」 「いや〜、難しいな。全部英語の講義は。半分もわからない」  相手は自嘲気味の笑いを浮かべ、首を振る。 「常盤さんはすごいな。英語で友達とおしゃべりしてる。さすが帰国子女だね」 「帰国子女って言っても、わたし四歳の時に日本に来たから、英語なんて、ほとんど忘れていたわ」 「知ってる。幼稚園で、英語をペラペラしゃべってたよね」 「え?」 「覚えていない? 俺、幼稚園の年中で、常盤さんと同じ組だったんだ。一緒に遊んだこともあったんだよ」 「え、そうだった?」  ありさは改めて相手を見つめた。しかし、幼稚園の時の記憶は、まるで白い霞がかかったようにぼやけて、あまり思い出せない。でもたしかに男の子たちの何人かとは、一緒に遊んで、話したような気がする。というよりむしろ、男の子としか遊んだ覚えがなかった。 「小学校も一緒だったんだよ。でも俺は二年になる時、父の仕事で北海道に行って、五年の秋に戻ってきたし、同じクラスにもならなかったけれど」 「そうなのね。わたし、中学部の二年で同じクラスで、高等部の三年でも一緒だったことは覚えているけれど、小学校は知らなかったわ」 「うん……」陽斗は頭をゴリゴリと掻いて、しばらく黙った。 「常盤さんは、ほとんど校庭で遊んでる姿って、見たことがなかったな。体育の時には、たまに見かけたけど」 「休み時間は、いつも本を読んでいたから。その方が、好きなのよ」 「そうみたいだね。中高で一緒のクラスになった時も、君はいつも本を読んでいた。その……気を悪くしたり、触れられたくなかったら、本当にごめん。つまり……お継母さんの意地悪のせいで、クラスの人たちに誤解されていて、だから本を読んで過ごすしかなかったのかなって、その時には思ってたけど……でも小学校から、そうだったんだね」 「そうね。わたしは変わっていると言えば、そうなのかもしれない。女の子とおしゃべりするのは、なんとなく疲れてしまったりしたから。幼稚園の頃とか、小学校の時も、わりと……意地悪されているな、って感じることもあったし」 「それは、ヤキモチだと思う」陽斗は即座に頷いていた。 「俺も幼稚園で、何回か見た覚えがある。腹が立ったけどさ。常盤さんが美人で、人にこびないから、気に入らないんだろうな」  そうなのね、と頷こうとしたところで、微かに引っかかった。“美人”は肯定していいのだろうか。 「それは……わたしが美人っていうより、ハーフだからじゃないかしら。いえ、今はダブルとも言うのね」 「それもあるけど、それも含めてさ」言ってから恥ずかしくなったのか、陽斗は赤くなって、両手をそわそわと小刻みに動かした。 「で、俺、思ったこともあったんだ。常盤さんって、孤高の人かなって。人とは群れないで、我が道を行くのかってさ。でもここの大学に来て、君を見かけたら、友達と楽しそうにしゃべってるから、軽く衝撃だった。常盤さんも人とあんな風にしゃべったり笑ったりするんだって」  そして慌てたように、「気を悪くしたら、ごめん」と付け加えている。  ありさは微かに笑ってみせた。 「群れるのは、たしかに好きではないかもしれないけれど、気の合う友達と、適度な距離を置きながらも、一緒に時間を過ごすのは楽しいわ。ここに来て、日本にいた頃より、はるかに多くの人たちに出会うことができたし」 「それは……良かった。君が楽しそうで」  陽斗も少し顔を赤くして、笑いを浮かべていた。そして少し黙った後、赤い顔のまま、意を決したように口を開いた。 「あのさ、常盤さん」 「何?」 「黙ってようと思ったけど、最初に言っちゃった方がすっきりするから、聞いてくれ。あのさ、俺がここを交換留学先に選んだのは、君がここへ来たって聞いたからなんだ」 「え?」  ありさは一瞬驚きで言葉に詰まり、ついで聞き返した。 「誰に聞いたの?」 「君の叔母さん、っていうか、直接聞いたわけじゃないんだ。俺の友達の従妹が、君の叔母さんがいる学校に通ってるらしくて、そこから聞いてきてもらった。君が日本の大学じゃなく、カナダに行ったっていうのは知ってたから――クラスの噂になってたから。でも君はSNSもやってないし、君から聞くわけにもいかないし――どこの大学へ行ったのかわからなかったから、いろいろ調べてみたら君の叔母さんらしき人が桂木高校で教えてるってわかって、で、そこの在校生が誰かいるかなって探して――まあ、いろいろあって、なんとか聞き出せてこれたわけなんだ。それで、最初に入った大学では、交換留学先にここがなかったから、ある所を選んで、受けなおしたんだ。あ、気持ち悪いって思ったら、本当にごめん!」 「気持ち悪いっていうのは、よくわからないけど――でもなんで御森くんが、わざわざ大学を入りなおしてまで、わたしが行っているここへ来ようとしたの?」 「ああ、常盤さん、クッソ鈍感!」  小さな呟きが、陽斗の口から洩れた。彼は顔をますます赤くしながら、続けた。 「そんなもん、常盤さんが好きだからに決まってる!」 「え?」ありさが感じたのは驚きだけだった。異性から好意を持たれるとか、そんなことは自分には無縁だと、なぜか感じていた。もしくは面倒くさいから、そういうものはなくとも構わないと、思っていたのかもしれない。 「ずっと好きだったんだ。幼稚園の時から。ずっと君を追いかけてた。君を見てた。だからあの時も、君の危機を知って、すぐに知らせに行けたんだ」 「そうなの……」 「ああ、まともに会った瞬間、告ることになるって、思わなかった。クソッ」  陽斗は赤い顔のまま、首をぶんぶんと振った。 「でもまあ、いきなり俺と付き合ってくれ、なんて言わないつもりだ。言ってもいいけど。で、君が俺のこと気持ち悪いと思ったら、もう学校で君を見かけても、声はかけない。今まで通り、君を遠くから見られるだけで満足する」 「気持ち悪い……とは思わないけれど」  ありさは言葉を探した。唐突な告白に、心は驚きに満たされていた。彼に対し、今までは全く白紙に近い思いしかなかったけれど、少なくともネガティヴなものは感じない。 「普通に、大学のお友達の一人として、付き合っていけないかしら。わたし、彼とか彼女とか、そういうのは考えたことがなかったから……」 「まずは友達から、だね。いいよ。良かった」  陽斗は微かに安どしたような笑みを浮かべた。 「友達でも、わたし、あまりべったりしたお付き合いは嫌いなの」 「うん。それはわかってる。君の友達の一人として、どうすればいい?」 「時間が合えば、時々お昼をここで一緒に食べましょ。女友達の方を、優先するかもしれないけれど。あなたもここでのお友達を、大事にした方が良いわ」 「うん……たまには授業が終わった後、夕飯を街に食べに行ったりもできるかな」 「月に一、二度くらいなら、いいわ」 「おー、良かった! じゃあ、メルアド教えて。あ、LIONでもいいけど」 「わたし、そういうメッセージアプリ、やってないのよ。やる気もないし」  ありさは小さく肩をすくめた。中学高校の頃、そういうメッセージグループで自分の悪口が盛んに言われていると、おせっかいなクラスメートからほのめかされたりもしたが、見なければ、それは存在していないのと同じだ。同じように、学校の裏サイトを覗いてみたこともなく、ソーシャルネットワークサービスも、アカウントを作らず、他の人のものも見はしなかった。ここに来てからは、別のメッセージアプリを使って、寮の友人たちとグループを作っているが、用事のある時にしか使わない。スマートフォンやコンピュータ通信を一切拒否している母の夫、スティーヴ・マーロン氏ほど極端ではないが、彼の考えもわかる気がするくらいだ。 「メールで雑談をする気はないから、用件だけにしてね」  メールアドレスを交換しながら、そう付け加えると、 「うん。常盤さんらしいね」という答えが返ってきた。  それから月に二、三回のペースで、陽斗と一緒にお昼を食べたり、学校が終わってから近くの町のファーストフードに行ったりした。友人たちには、『日本の学校にいた頃の、同級生』と紹介した。『ボーイフレンド? それともただの友達?』と、ルームメイトのジェニーも聞かれた時には、『後者よ』と答えた。実際に最初の半年ほど、二人の間は完全に普通の友達のようだった。陽斗の方も、ありさの意図を尊重してか、あまり積極的に踏み込んでこないようだったし、ありさも今の関係の方が安心感があり、心地よかったためだ。  その間に、最初に会った時陽斗が「気持ち悪いと思ったら、ごめん」と言ったわけもわかった。友人たちに、彼がこっちの大学に来た経緯を話したところ、『なんかそれ、ストーカーっぽいわね』と、微かに眉をひそめてリズが言ったからだ。そういう見方もあるのか、と改めて思ったが、それが御森陽斗への嫌悪感には結びつかなかった。 『それだけ熱心に、エリッサのことが好きだったんじゃないの?』というジェニーの見解と、『悪い人ではないと思うわ』というボニーの見立てが、心をやわらげてくれた。  そうして秋が過ぎ、冬が終わり、やがて春が来ようとしていた。  その日の夕方、ありさは陽斗とともに、学生食堂で一緒にレポートを書いていた。最近では時々、彼の英語を添削したり、テキストを訳したりと、何度か勉強を手伝っていたのだ。  その時、ジェニーとキャス、そしてリズが、食堂に連れだって現われ、近づいてきた。 『勉強中ごめんね、エリッサ。それにハルト。でも、これ見て。この子、あなたの異父弟ちゃんじゃない?』  ジェニーがスマートフォンを突き出す。ニュースサイトのようだ。そこに示された記事を読み、ありさは思わず小さな叫びを漏らした。 【ジェームズ・サミュエル・マーロンくん 九歳が北部の森林で迷子になってから、一週間がたちましたが、今朝、捜索に入ったレンジャーによって、遺体が発見されました。死因は低体温症とみられます。警察は、父親の工芸家であるスティーヴン・トーマス・マーロン氏、四七歳をネグレクトの疑いで調べています……】  去年の夏休みに二週間滞在した後、マーロン氏からは一、二か月に一度ほど、簡単な言葉で近況が短くつづられた、葉書が届いていた。最近のものは先月来たばかりで、まだ雪があって外に行けず、菜園もお休みだ。でも制作にはいい環境だ。ジェイも一日、本を眺めたりニックと遊んだりしている、と書いてあった。友人たちも、親子のことは知っていた。訪問や滞在の様子を話したことがあり、彼女たちもマーロン親子の“変わり者”ぷりを面白がって聞いていた。それゆえ、印象に残っていたのだろう。 「どうかしたのかい、常盤さん?」  陽斗が驚いた様子で聞いてくる。付き合い始めて半年近く過ぎても、いまだに二人は「常盤さん」「御森くん」と呼び合っていたのだ。 『この子の、ハーフブラザーが死んだの』  ジェニーがゆっくりめの英語で言う。陽斗にも、それが聞き取れたらしい。 「弟さんが――? ハーフブラザーって」 「ええ」ありさはゆっくりと頷いた。 「まだ御森くんには話してなかったけど、わたしの母は父と別れたあとに、こっちで結婚して、男の子が生まれていたの。だからわたしには、父親違いの弟。去年の夏には、その子の家で二週間くらい、一緒に過ごしたのよ」  そう説明した後、ありさは片手を頭に当てた。 『ジェイ、嘘でしょ……信じられない』  弟とは、ずっと英語で話していたせいだろうか。嘆きの言葉は英語になって漏れた。森で迷子になって、一週間――森とは、あのアザーサイド・フォーレストだろうか。彫刻の材料を取りに行く父親と、よく一緒に行くという。冬はさすがに行かないだろうが、春先になり、少し暖かくなってきた今なら。それでも陽が落ちると、気温は急激に下がる。この一週間で二回ほど、冷たい氷雨が降ったこともある。それでは凍死しても、無理はない。でもどうして、弟は迷子になったのだろうか。 『“彼”は呼ぶ。笛を吹く。いつか、ぼくも行くと思う』  あの夏の朝、ジェイが言っていた言葉が、不意に思い起こされてきた。  森へ行った時も、あの子は小川をたどろうとしていた。源流に行きつけば、“彼”に会えるけれど、今は時間が足りないと、残念そうにしていたことも。桃香のことを話した時に、ジェイは言っていた。『その子は、呼ばれちゃったんだね』と。呼んだのは、神様ではなく、“彼”? ジェイも、その“彼”に呼ばれた? では“彼”とは、いったい何なのだろう。ジェイの想像の中の何かだと漠然と思っていたが、それは桃香の言う“みどりちゃん”と同じようなものなのだろうか。そういえば、妹も言っていた。学校の帰りに“淵が森”へ行き、命を落とす数日前に、「みどりちゃんに、会いたいんだ」と。  思いが渦巻いて、ありさは言葉を忘れ、頭を押さえた。 「『マーロンさんのところへ、行かなきゃ』」  やがて言葉が日本語と英語で、続けて漏れた。 『今日はもう遅いし、そのマーロンさんが警察に引っ張られているなら、いないかもよ』  友人たちは、顔を見合わせていた。 『明日行ったら? まだ木曜日だけど、弟さんが亡くなったのなら、二、三日の休みは許されるわよ。講義は、誰かにフォローしてもらえばいいわ』  キャスの提案に、みな頷いている。 『私の車、使ってもいいわよ。ああ、でも困ったな。私、明日はちょっと抜けられない』  リズがそう申し出ながら、少し困惑した顔をした。 『俺が、行きます』  陽斗がそこで、たどたどしい英語で会話に加わった。 『もし、あなたが、俺に車を、貸してくれるなら』 『運転、大丈夫? それにあなたも、明日講義あるんでしょ?』  問いかけるリズに答えようと、陽斗は何度か英語を試み、ついにあきらめたのか、日本語でありさに言った。 「大丈夫。と思う。俺、国際免許あるし。ここ来てから運転してないけど、もし事故ったら、弁償するって、常盤さん、通訳して!」  ありさは英語で同じことを言いなおした後、陽斗に問いかけた。 「でも、いいの、御森くん? あなた、授業あるでしょ?」 「いいさ、なんでもない! 俺で役に立つなら」 『わかったわ。明日、エリッサに私の車のキー預けるから。事故らないでね。それと、明日中に返してね』 『ありがとう、リズ! それに、御森くん!』  ありさはそれしか言葉がなかった。  翌日、リズの車でありさと陽斗は、マーロン氏の家に向かった。 「そう言えば、ここって右側通行なんだよな」 「そうよ。だから、気をつけてね」  ありさは助手席に座り、スマートフォンの地図を見ながら、陽斗に行き先を指示した。マーロン氏の住所を打ち込んだので、ナビ機能で道が示されるのだ。学校からは、二時間弱の行程だった。  道中、二人は運転に関する会話しかしなかった。 「そこの角を左ね」 「左……って、そうか、日本の右折の逆バージョンか」 「この道、ずっとまっすぐ」 「本当に、まっすぐな道だなあ。北海道みたいだ」  そんな言葉を交わしながら、淡々と時間が流れていく。  やがて車は、見慣れた細道に入ってきた。マーロン氏の庭に車を乗り入れると、ありさは外へ降りていった。三月の半ばの今、花壇も菜園も、茶色い土がむき出しになっていた。これから種をまく季節なのだろう。ブルーベリーの茂みもまだ茶色の葉が残っている。  飛び石を踏んでドアにたどり着くと、ありさはノックしてみた。あのニュース記事には、マーロン氏はネグレクトの疑いで、警察に事情を聴かれているという。九歳の、少し発達障害のある子を森に置いたまま、木片を探しに行っていたことが、保護義務怠慢とみなされたのだろうか。    不在かと思ったが、やがて返答があり、ドアが開いた。そしてマーロン氏が現れた。しかし、その頬には深いしわが刻まれ、顔色も土気色に近くなって、眼は薄いクマに縁どられ、光も感じられない。去年の夏に会ったマーロン氏とは、まるで別人のようだった。 『エリッサ!』マーロン氏は驚いたように声を上げた。 『ここへ来たのかい? どうして』 『ニュース記事を見たんです。友人たちが知らせてくれて。あの……ジェイが……』 『ああ』マーロン氏はのろのろと頷いた。 『ありがとう。来てくれて。君に会えたら、ジェイも喜ぶよ。でも、どうやって来たんだい?』 『友達が車を貸してくれて、もう一人の友達が運転してきてくれました』 『そうなのか。では、運転手がいるんだな』 『ええ』  答えながら、ありさは素早く頭を働かせた。この場はプライベートなものだ。我が子を亡くした父親と、その姉と。リズも今日中に車を返してと言っていた。 『一回、彼には学校に戻ってもらうことにします。わたし、今日は泊めてもらっていいですか? 明日、また連絡して送ってもらいます』 『明日、ジェイの葬儀をするんだ。ささやかにだが。君にも送ってもらえたら、ありがたいんだが。その後、私が君の学校まで送っていこう』 『わかりました。そうします』  ありさは踵を返し、まだ運転席にいる陽斗に、窓の外から話しかけた。 「御森君。本当にありがとう。わたし、明日か明後日までここにいるから、あなたは学校に戻って」 「わかった。もともとそのつもりだったよ。帰る時になったら連絡してくれれば、迎えに行くから」 「ああ、それは大丈夫。マーロンさんが送ってくれるって。帰りの道は、大丈夫?」 「スマホのナビがあれば、大丈夫だろ。一度ここまで来たし」 「無事学校に着いたら、メールで知らせてね。ここ、電波状態悪いから、すぐに返事は返せないけれど」 「わかった。非常事態だもんね、がんばれ」  陽斗は窓を開けて手を伸ばし、ありさのその手を握り返した。 「ありがとう。気をつけて帰ってね」  車が再び今来た道を引き返していくのを見送った後、ありさはマーロン氏の家に入った。リビングの真ん中に小さな棺が置いてあり、そのそばに意気消沈した様子のニックが丸くなってうずくまっている。傍らにエサの皿が置いてあったが、ドッグフードが山盛りになったままだった。 『ニックも元気がないんだよ。エサも食べようとしない』  マーロン氏はため息とともに言い、ダイニングの椅子に座った。 『君もまず、座ってくれ』 『はい』ありさは氏の正面に席を取り、そして聞いた。 『あの、警察に話を聞かれた、と聞きましたが、大丈夫だったですか?』 『さあ、どうなるかな。警告ですむのか、罰金か、禁固刑か、まあ、そんなところだ。だがそんなことは、もうどうでもいい。私がどうなろうと――私が悪かったのかもしれない。あの子を一人にしてしまった。いつも、森で好きにさせてしまった。だからあの子は迷って、死んでしまったんだ』  マーロン氏は両肘をテーブルに着き、顔を伏せた。泣いているような震えが走った。ありさは言葉を失い、ただ見つめていた。 『あれから、時間間隔を失ってしまった。どのくらいたったのか。ついさっきのことだったようにも思えるし、遠い昔だったようにも思えるんだ』  マーロン氏はテーブルに視線を落としたまま、話しだした。 『あの日、私は今年になって初めて、森に行ったんだ。材料がほとんどなくなりかけていたし、やっと雪も消えてきたから。ジェイとニックも、いつものように連れて行った。私たちは一緒にお昼を食べ、それからもう一度、私は森の奥に入っていった。戻ってきた時、ジェイはいなかった。しばらく待っていれば戻ってくると思っていたのだが、二時間待っても戻ってこなくて、日も傾きかけてきたので、探しに行った。でも見つからず、暗くなってきたので、私は森を出てそのまま警察に行き、息子が迷子になったと訴えた。それで、その夜から探してくれたんだが……』 『同じ場所ですか? わたしが夏にご一緒した時と?』 『そうだね。あそこに行く時には、いつもあの場所を拠点としているんだよ。場所を変えると、道に迷ったりする可能性も考えて、同じにしているんだ。警察からは、八歳の子供を――しかも軽い発達障害のある子を、一人で森の中で待たせておくのは、保護者として考えなしではないか。義務怠慢に問われる可能性があると、さんざん言われたが――たしかに普通に考えれば、そうなのかもしれない。でも私は、ここへ来てから何度もあの子を森に連れて行ったが、迷子になったことはなかったんだ。ジェイは土地勘というか、方向感覚は鋭いものがあってね、しばらく目の届かないところへ行くことはあっても、必ず帰ってきた。だから、最初は私も心配はしていなかったくらいなのだよ』  氏は大きなため息を吐きだし、顔を上げてありさを見た。その眼が真っ赤に血走り、黒ずんだ皮膚に縁どられていることに、改めてありさは軽く衝撃を受けた。きっと事件から、ろくに寝ていないに違いない。  桃香がいなくなった時の、継母の様子を思い出した。あの時の瑤子は、マーロン氏の数倍は取り乱していただろうが、気持ちはきっとそれほど違いはなかっただろう。 『それで、レンジャーの人たちが探し始めてくれて……そうだな、一日くらいたった頃、ニックが見つかったんだ。奥の……小川の源流あたりでうずくまっていたらしい。元気はなかったが、獣医に見せたところでは、特に異常はないらしく、一日預けて様子を見てもらってから、うちに戻したんだ。だがまあ……あんな調子だよ』  マーロン氏は、床の上にじっと伏せている白い犬に目を向けた。 『探してくれた人たちは、ニックがいるなら、ジェイもその近辺にいるに違いないと、そのあたりを念入りに調べてくれたそうだ。私もできる限り、探しに行った。警察に呼ばれて、何回か話を聞かれている合間に。でも、まったく見つからないままだった。その間に、何度か冷たい雨が降り、夜は冷え込んだ。私はあの子がこの冷たい闇の中、どこでどうしているのか、考えるだけで気が狂いそうだった。ニックに話ができたら、聞いてみたいところだった。いったい何があったんだ。おまえはなぜ、あそこに一人でいたんだ。ジェイはどこに行ったんだ、と。その気持ちが伝わって、余計にあいつを落ち込ませてしまったのかもしれないな』  ありさも犬に目をやり、ついで立ち上がって、そのそばに行った。手を伸ばして頭と背中を撫でると、こっちに目を向けてくる。悲しみとうつろな思いが入り混じった視線のように感じた。たしかに――もしこの犬が言葉を話せたら、語ってくれるだろうか。小さなご主人が、どこへ行ったのかを。いつものように、忠実に跡をついていったの違いないのだから。  去年の夏のことを、改めて思い出す。ジェイは小川の源流をたどりたいと言っていたっけ。でも、時間が足りないと、残念そうだったことも。そこに行けば、“彼”に会える――弟はそう語っていた。その源流で、ニックだけが取り残されていた。それは、どうしてだろうか。この犬は知っているのかもしれない。でも、語ることはできないのだ。 『元気を出してね、ニック』   ありさは犬のあごの下を撫で、皿の上のドックフードを一粒手に乗せて、口元に持っていった。犬はその方向を見ようともせず、体勢も変えない。彼女はエサを皿に戻し、背中を撫でてから、椅子に戻った。 『わたしは友達が昨日ニュースで見たと、知らせてくれたんです。ジェイが行方不明だったなんて、知りませんでした』 『君に知らせようとは思ったんだ。でも、見つかっていない状態では、余計な心配をかけるだけだと思った。どうなるにせよ、結果が出てから葉書で知らせるつもりだった』  氏はのろのろと首を振った。 『まあ、遅いけれどね。昨日、君には葉書を出したのだが、たぶん今日の夕方にでも、ついたころだろう』  マーロン氏は大きくため息をつくと、再び視線を落とした。 『いつのことか……そうなんだろうな、たぶん一昨日だ。昼頃だ。捜索に行っていたレンジャー隊から連絡があったのは。ニックを見つけた場所のすぐ近くに、ジェイらしい男の子がいたと。でも、心肺停止状態だと。冷たくなって、固まっていたと。おかしいじゃないか。ニックが見つかった時には、ジェイはいなかったんだ。それから何度も何度もその付近を、いや、森のかなり広範囲を念入りに調べたのに、あの子はいなかったんだ。それが何日か経って、急に出てきたというのは、どういうことなんだ。あの子はその間、ずっと森をさまよっていたのか? それならなぜ、発見されなかった――運が悪かったのか? 誰か教えてくれ!』  ありさは言葉を探しながら、氏を見ていた。再び桃香のことが、思い出されてきた。あの時には一週間という長い時間ではなかったが、それまでに何度も探していなかった場所で、唐突に発見された。妹も弟も、同じような状況で――? 『ジェイのことは、本当にわたしも悲しいです』  やっとそう言った。我知らず、涙が一筋こぼれた。 『わたしは八年前、同じように妹を亡くしています。弟もまた、こんなことになるなんて』 『妹さん……? そうか。君のお父さんの子だね』 『ええ。父が日本で結婚して生まれた子です。わたしの異母妹です』 『ああ、聞いたことがあるような気がする。ベリンダが話していたっけな。君がこっちへ来るようになった理由として。その子も?』 『ええ』ありさは頷き、妹の死の状況を簡単に語った。 『なんてことだ……本当に、なんて悲しい偶然なんだ』  氏の声には同情と悲しみが感じられた。彼は両手を顔に当てていた。 『偶然だとしたら……本当に悲しいです』  ありさは涙をぬぐうために、一瞬黙った。 『でも、不思議な気もします。まったく同じような状況なんて。妹はたぶん、誰かに会いに行ったのだと思っています。ジェイも言っていました。去年の夏、一緒に森に行った時に。いつか小川のもとをたどってみたいって。そこには“彼”がいるって。もしかしたらあの子も、その“彼”に会いに行ったのかもと、そんな気もして……』 『彼?』 『ええ。ジェイが話したことはありませんか?』 『“彼”か……』  マーロン氏は視線を天井に向けた。しばらく、沈黙が流れた。やがて氏は何かを思いついたような表情を浮かべて立ち上がり、窓際の棚に並んだ本の一冊を取り出した。スケッチブックのようだった。氏はしばらくページをめくって戻し、次を取り出す。再びページをめくった後、手を止めてその絵を見せた。 『これかな?』  それはジェイが描いたものらしい。クレヨン画で、その年の子供にしては、明らかに上手だ。緑の木々を背景にして立っているのは、白い馬のような生物だった。が、頭に角があり、背中には翼がある。そのたてがみは、鮮やかな緑色をしていた。 『これは?』 『去年の秋に、ジェイが描いていた絵だ。夕食の後だった。私は興味を覚えて問いかけたんだ。それはユニコーンか、ペガサスか?と。そうしたら、ジェイは首を振って答えた。違うよ。“彼”だって』  ありさは少し当惑を覚えて、その絵を見つめた。なんとなく“人”をイメージしていたのだ。妹の言っていた“みどりちゃん”も。しかし、それは人ではなかったのか? ――ふと、夢の残像が脳裏をよぎった。緑の瞳、緑色の服――あの人形の記憶から、人間のイメージを思い浮かべたのだろうか。 『あなたは見たことがありますか? この絵の動物……』 『あるわけはないさ』  マーロン氏は微かな苦笑いのような表情を浮かべた。 『ジェイの想像だと思っていた。あの子は、想像の世界を持っているようだったから』 『そうですね……』  ありさは絵を見つめながら、あいまいに頷いた。 『ジェイも君が来てくれて、喜んでいることだろう』  氏は再び大きなため息をつくと、スケッチブックを棚に戻した。 『明日埋葬をするから、最後に顔を見てやってくれ。私は……見れないが』  ありさは頷き、小さな棺のそばに行った。傍らにうずくまっていたニックが、小さく頭を上げて見る。犬を撫でてやってから、ありさは棺のふたを持ち上げた。少し、手の震えを感じた。  去年の夏の記憶そのままの弟が、白い花に囲まれて、まるで眠っているように横たわっていた。楽しい夢を見ているかのように、微かな微笑みを浮かべて。その表情に、もう一つの面影が重なった。桃香。あの子も同じような表情で、眠っていた。  視界がぼやけた。ありさは弟の頬に手を伸ばそうとしたが、できなかった。ニックが悲し気な声を上げた。ありさはふたを閉め、その上に突っ伏した。  その夜は、去年二週間を過ごした屋根裏の部屋で過ごした。あまり眠れないまま、重い頭を抱えて階下に降りると、マーロン氏がテーブルの上に顔を伏せた格好で眠っていた。氏はここのところ、自分のベッドで寝たのだろうか――かつてジェイとともに寝ていた大きなベッドは、カバーがかかったままだ。小さな棺の傍らには、相変わらず白い犬がうずくまっている。ありさがそばに座ると、頭を上げて見るが、すぐにまたもとの姿勢に返ってしまう。皿の上のドッグフードも減っていない。  そう言えば、昨夜は夕飯を食べていなかった。食欲は感じないが、何か食べた方が良いのかもしれない。ありさは冷蔵庫を開けてみた。牛乳と卵とベーコン、ほうれん草とカブ、入っているのはそれだけだが、野菜は明らかに鮮度が落ちている。もしかしたら、ここ一週間以上、そのままになっているのかもしれない。食料ボックスには玉ねぎとジャガイモ、ニンジン、そして小麦粉とパスタが入っていた。ありさはスープを作り、パンケーキを焼いた。そして目を覚ましたマーロン氏に、ともかく何か口に入れるように促した。氏は感謝のまなざしを投げ、スープを半分ほど飲んだが、パンケーキには手をつけなかった。ニックにもパンケーキの切れ端をやったが、ちらっと見るだけで食べようとはしない。ありさ自身もあまり食欲を覚えなかったので、スープだけ飲んだ。  十時前ごろ、庭に車が入ってくる気配がし、やがてドアがノックされた。ジェイの埋葬は十一時からと聞いていたが、そのために誰か来たのだろうか。  マーロン氏が立ち上がり、のろのろとドアを開けた。 『やあ、君だったか。見送りに来てくれたのか。ありがとう』 『僕にとっても、従弟ですからね。送りに来たんです』  若い男の声がして、誰かが入ってきた。背が高く、迷彩柄の帽子とズボンをつけ、カーキ色の長袖シャツに黄色いダウンベスト姿だ。 『ジェイを探してくれた、森林レンジャーさんの一人だ。ずっと一週間、探してくれていた。ベリンダの息子さんでもあるんだよ』  男が帽子を取ると、少し金色がかった茶色い巻き毛が、首筋に垂れ下がった。その顔に、微かに面影がある。髪の色は、子供の頃より少し濃くなっているようだが。 『エディー!』  ありさは思わず声を上げた。ベリンダ伯母の息子。いつか会った従姉ミリセントの兄、エドワードだ。ありさにとっては、母方の従兄に当たる。伯母を通して会いたいと要望した時、ミリセントは応じたが、エドワードからは音沙汰がなかった。まさか、ここで出会うとは。そう言えば伯母を訪ねた時、彼は森林レンジャーをしていると、話していたっけ。  相手も驚いたように目を開き、じっと見つめてきた。しばらくのち、声を上げる。 『まさか、エリッサかい?』 『ええ』 『なんてことだ。久しぶりだな!』  従兄は大股に近づいててきて、その手を取った。その眼には、以前感じたような冷たい光はないように思われた。 『そうか。まあ、君にとっては半兄弟だしなあ』  エドワードは手を離すと、椅子に弾みをつけて座った。 『わお、上手そうなパンケーキがある』 『あ、食べてください、良かったら。冷めてますけど。今、お茶を入れますから』  ありさは思わず、かすかな笑みを浮かべた。 『ありがたい! じゃあ、いただきます。朝、食べる暇がなかったんだ』 『でも、あなたはわたしに会いたくないと思っていました』  パンケーキをほおばる従兄にお茶を出しながら、ありさはつとめて軽い調子で言ってみた。 『ん、どうして?』 『二年くらい前、あなたとミリセントに聞いてみたいことがあって、伯母さんにメールで頼んでもらったんですが、あなたから返事が来なかったので。それとも、お仕事が忙しかったのか、とも思ったんですが』 『ああ』エドワードはお茶を飲むと、顔を上げた。 『たぶんそのメール、僕は読んでないと思う』 『え?』 『いつ、母に頼んだんだっけ?』 『たしか、二年前の秋に』 『間違いない。読んでないよ』 『え、そうなんですか?』 『ああ、僕はそのころ、実家ともめててね。メールは全部無視してたから。開きもせずにごみ箱に放り込んでいたころだ』 『え、そうなんですか?』  何となく、拍子抜けしたような気分を感じた。 『結果的に君を無視したような形になったのなら、申し訳ない。まあ、君に積極的に会ったかな、というと、正直あの時期に応じられたかどうかは、わからないけどね』  エドワードはパンケーキを食べ終え、『ごちそうさま。おいしかったよ』と、ありさに皿を返した。そのまま視線を、床の上にうずくまる犬に注ぐ。 『あいかわらず、あいつは食べないんだな』  そして視線をめぐらせて、マーロン氏を見た。 『スティーヴ叔父さんも、やつれてしまっているし。まあ、無理はないけれど』 『わたしの妹が死んだときも、義母は一か月くらい飲まず食わずになってしまって、病院に行ってしまったから――マーロンさんのことは、心配なんだけれど』  ありさも母の夫を見た。マーロン氏は弱々し気な微笑を浮かべるだけだ。 『君の妹?』 『ええ』従兄はたぶん、知らないのだろう――そう思い至ったありさは、再び簡単に桃香のことを話した。 『わぉ』エドワードは小さな声を上げた。 『なんて巡り合わせだ。君もつくづく……不運だね』 『不運なのは、わたしではないと思うわ』ありさは小さく首を振る。 『たしかにそうだ』  従兄は少し考えこむような表情になった後、問いかけてきた。 『それで、二年前に、僕に会って聞きたかったことって、何?』 『ええ』  ありさはちらっとマーロン氏の顔を見た。エドワードも同じように見る。  氏は再び弱々しい笑みを浮かべた。 『かまわないよ。私を気にしないで、話すといい』  ありさは小さく頷き、話し始めた。『わたしが母と、あなたたち一家のキャンプに行って、迷子になった時のことをききたかったの』 『ああ、あの時ね。あれも大騒動になったなあ。あの後、怒られたのなんのって』 『ごめんなさい』ありさは頭を下げた。 『まあ、いいさ。君を邪魔者扱いして、ついてくるかなんて気にしなかった僕たちが悪いんだからさ。あの時は、そうは思えなかったけれど』 『あなたもやっぱり、わたしが嫌いだった?』 『嫌い、だったかもな、あの頃は。でも、“も”ってことは、他にもいるのかい』 『ええ。わたし、ミリセントには話を聞くことができたから』 『ああ! まあ、ミリーなら不思議じゃないな』  エドワードは頭を振り、肩をすくめた。 『ええ、うっとおしかったし、楽しい旅行に、わたしがついてくるのが嫌だったって。少しレイシスト的なことも言われたわ』 『まあ、僕もその時には、近い気持ちがあったことは否定しない。世間知らずだし、がきだったんだよ、僕たちも。ミリーは今も、そうかもしれないが』  エドワードは言葉を着ると、ありさを正面から見つめてきた。 『で、ミリーに会って、だいたい君の疑問はわかったのかい?』 『ええ。ただ――』ありさは言葉を切った。 『ただ、“願いの泉”の話は本当なのか、それはあなたに聞いてみないとわからないな、とは思ったの。ミリセントは、あなたの出まかせでしょって言っていたけれど』 『ああ……』従兄は眉を寄せ、天井に視線をやった。 『今はたぶんそんなものはないってわかるけど、あの時は結構信じていたかもしれないな』 『誰かに聞いた話なの? それとも、どこかで読んだ話?』 『うーん』  エドワードは頭に手をやり、小さくかきむしった後、視線を向けてきた。 『小さいころにさ、夢で見たんだ』 『夢?』 『ああ。いつ頃からだか覚えていないが、時々森にいる夢を見ていたんだ。周りは結構木が茂ってるんだけれど、広場みたいに、空が丸く抜けてて、ぽっかりした空間にいて、上から光が降り注いでくる。真ん中に、白い岩があって、そこから水があふれだしていた。僕はたぶん、ウサギを追いかけてそこに来ているんだな、って自覚があって、そいつが目の前にいるんだ。薄緑色のウサギ』 『変わった色ね』 『まあ、そうだな。おまけにそのウサギがしゃべるんだ。何を言っているかはわからないけれど――でも僕は、ああこれはきっと願いの泉なんだなって、納得してる。で、たぶん場所は時々キャンプに行く場所、アザーサイド・フォーレストなんだろうって。そんな夢を時々見てたから、もし行けたら本当にあるのか見てみたい、って思っていたんだ。でも間違いなく迷うだろうから、やめたんだけどね』 『そうなのね』 『でもさ、その夢には落ちがあったんだ。君の迷子騒動があった次の日、夢を見たんだ。同じ夢なんだけど、そのウサギが言った言葉が、今度は聞き取れた。違う、これは命の泉だ、って。それ以来、その夢を見なくなった』 『そうなの――不思議ね』 『ああ。それで後から気になって、ハイスクールの頃、母に聞いてみたことがあるんだ。僕は小さいころ、森で迷子になったことがあるかって。もしかしたら、その時の記憶が夢に出てきたんじゃないかって気がしてさ』 『そう――それで?』 『ある、って言われた。僕が三歳くらいの頃に。初めてあの森にキャンプに行った時、父と僕と、叔父――父の弟けれど、と三人で森に散歩に行ったらしい。母はミリーがまだ赤ん坊だったから、テントにいたらしいけれど。で、二人が目を離した間に、僕がひょっこりいなくなって、あちこち探して、やっと見つかったらしい。でも、まったく覚えていなんだなあ』 『そうなの――』ありさは頷き、そして続けた。 『そうしたら、わたしと同じようなのね。わたしも子供のころから、時々森で迷う夢を見たの。あなたやミリセントに聞いてみたかったことも、そのことだった。その夢は、本当の記憶に基づいたものなのかしら、って。彼女に会って話を聞いて、ほぼ事実なんだってわかって、納得したのよ』 『そうなのか。まあ、トラウマだったんだろうな、お互いに』  エドワードは、ひょいと唇の端をゆがめて笑った。 『でも僕は、森に悪い印象はなかったんだ。いや、好きだった。だから、こんな仕事についたんだしね』 『そしてあなたがジェイの捜索をすることになったなんて、偶然ね』 『この辺りも、うちの基地の範囲内だしね。スティーヴ叔父さんのことも間接的に知っていたから、ジェイのことも、まあ、会ったことはないけど、従弟だし。志願して、班に入れてもらったんだ。それにしても……本当に不思議だったな』  従兄は頭を振り、視線を犬の上にやった。 『あのニックという犬を見つけたのは、仲間の一人だったけれど、最初は一緒だと思ったらしいんだ。ほら、一緒にいなくなったわけだし、子供に寄り添って暖を取って、凍死を免れるとか、時々ある話だから。うずくまっている犬の下にいるのかと思って、退かそうとしてみたけれど、なかなか動かせなくて、仲間と三人がかりで吊り上げたけれど、何もなかった。その周りも、もちろんくまなく探したけれど、何も出てこなくて。でもそれからきっかり五日たって、犬が見つかったまったく同じ場所に、子供が倒れていたんだ。それまでに何回となくそこを見て、何もなかった場所に。スティーヴ叔父さんは、ジェイが長い間さまよったんだろうかって嘆いていたけど、うちの班長が――ああ、遭難救助では、結構ベテランなんだ――さまよったのなら木や石の切り傷とか、雨に濡れた形跡や汚れがあるはずなんだけれど、まったくないから、そんなはずはないって言うんだ。印象的には、犬と子供が同じ場所にいて、五日間の時間をおいて別々に出てきた、そんな感じだって。まあ、そんなはずはないだろうって言っていたけどね』 『そうね……』  ありさは頷きながら、再び桃香のことを考え、だぶらせていた。 『誰かに連れ去られたということは、ないんだろうか』  マーロン氏がそこで、激しい調子で二人の間に入ってきた。 『それも考えていたんだ。誰かが――誰かがジェイを連れ去って、ニックだけを置き去りにして逃げたということは、ないだろうか。警察にも一度訴えてみたが、取り合ってもらえなかった』 『うーん、でもたしかに警察もその可能性も一応考えて、調べてみたらしいですけれど』  エドワードは頬をかきながら、義理の叔父に目をやっていた。 『でも、ジェイに抵抗したような跡は一切なかったらしいし、誰かほかの人を見かけたという目撃情報も、なかったらしいんです。それにあの犬もね、もし小さな主人が連れ去られようとしたら、守ろうとすると思うんですよね。でも、それも形跡がないっていうことで。僕よりもたぶん警察の方がそのあたりは詳しいと思うから、また警察に呼ばれたら、その話をもう少し突っ込んで説明してもらうといいですよ。でもその可能性は、本当にあまりないらしいです』 『そうだな……ありがとう』  マーロン氏の眼から、一瞬だけ現われた激した色が消えたように思えた。氏は再びテーブルに目を落とした。 『でも……』  エドワードは何かを言いかけ、ためらったようなそぶりを見せた後、言葉を続けた。 『これは本当に関係ないのかもしれないけれど……ジェイの経緯と納得がいかないことを、僕の妻に話した時、彼女が言っていたんだ。(その子は呼ばれたのかも)って』  まったく同じことを、ジェイが言っていた。桃香のことを話した時に。ありさの背に、軽い戦慄めいたものが走った。そのことを従兄に告げた後、聞いた。 『あなたの奥さんが、そう言っていたの? あなたは結婚しているの?』 『ああ。結婚して二年目になるよ』エドワードは頷いたのち、話し始めた。 『大学で知り合ったんだ。彼女はネイティヴ・アメリカンの血を引いていて、だから結婚するという話になった時、親ともめた。うちの親も、なんだかんだレイシスト気味だからね。アリスン叔母さんだけでたくさん、なんてことも言われた。それで頭に来て、しばらく絶縁していたんだ。母のメールを無視していたのは、この時期だね』 『そうなのね』  ありさはかすかに微笑んだ。その妹と違って、異なる人種の血に従兄が嫌悪を示さなくなったのは、彼自身その異なる血の女性を、妻に選んだからなのだろうか。いや、もともと彼にはその偏見が薄かったから、そういう結果になったのかもしれないが。  従兄の妻が言ったという言葉と、ジェイのそれがこだまのように同じであることをエドワードに告げると、彼は眉根を寄せ、何か言いかけた。その時、再びドアがノックされた。扉の向こうには、法服を着た司祭が立っていた。 『埋葬の時間か』エドワードも立ち上がり、ありさを見た。 『話は後にしよう。そうだ。一度、うちに来ないか? 妻にも話してみたいんだ』 『ええ。あなたたちが良ければ』  ありさは頷き、立ち上がった。そして再び従兄に問うた。 『伯父さん伯母さんたちは、埋葬にはいらっしゃるの?』 『いや、そもそも近親者は来なくていいって、スティーヴ叔父さんが言うしね。僕は捜索にかかわったから、親戚代表、兼、レンジャー代表で来ているんだけれど。それと、君か。半分だけだけれど、血のつながった姉だね』 『今、親戚の連中に、あれこれ言われたくはないんだよ』  マーロン氏がぼんやりとした調子で、呟くように言った。  簡単な祈りと儀式の後、ジェイを入れた小さな棺は、庭の片隅に埋められた。その上に墓標代わりに、ハシバミの苗が植えられた。立ち会ったのはマーロン氏、ありさとエドワード、この教区の司祭と、木の苗を持ってきてくれた、一家と付き合いがあるという農夫の五人だけだった。そして、白いむく犬と。ニックも棺が運び出された時、起き上がってついてきたのだ。  司祭と農夫が帰ってしまった後も、マーロン氏は墓前に座り込み、そこに植えられた木の芽を見つめているようだった。ありさとエドワードが中に入るよう促そうと近づいても、その場を動かなかった。やがて氏は地面を両手で叩き、そして突っ伏した。怒号のような号泣が響き渡った。そして、ニックの悲しげな遠吠えと。  ありさは再び言葉を失い、ただその場に立って見つめていた。 『ありがとう。君たちに見送ってもらって、ジェイも喜んでいるだろう』  家の中に戻ってきたマーロン氏は、ありさとエドワードに向き直り、告げた。しわがれたような声だった。 『わたしも、来られて良かったです』  ありさも目を潤ませたまま、答えた。 『でも、叔父さん。アリソン叔母さんのお墓とは違う場所にしたんですね。この家の敷地で、樹木墓というのは』  エドワードがそう問いかける。 『ああ。ジェイが言っていたんだ。去年の秋だったかな。もしぼくが死んだら、この庭に埋めて、その上に木を植えて、と。私は笑って答えたんだがな。縁起でもない。私におまえの弔いをさせる気か。おまえこそ、私を看取ってくれないと困ると』  マーロン氏は言葉を止め、天井を仰いでしばらく黙った。 『ジェイは普通の子供ではないから、私の命ある限り見守って、私が逝った後も生きていけるように、いろいろと教えていくつもりだった……』  沈黙が流れた。ありさは言葉が見つからなかったし、エドワードもそうなのだろう。マーロン氏は大きく鼻をすすり上げ、袖でぐいっと目をぬぐうと、続けた。 『でも、あの子の表情は、真剣だった。あの子はいつも、本気でしかものを言わない。だから私は答えた。そうだな、人生に絶対はないから、もしそんなことがあったら困るけれど、仮にそうなったら、きっとそうしてやる。でも、おまえはお母さんのそばにいなくていいのか? と。そうしたら、ジェイは答えた。うん、あそこにママの身体は眠っているけれど、身体だけだから。ぼくはここが好きなんだ、と。それで私は言った。わかった。何の木がいい? そうしたらあの子はしばらく考えて、答えていた。ハシバミがいいと』  再び長い沈黙の後、マーロン氏は二人にうつろな眼差しを向けた。 『来てくれて、ありがとう』 『ええ、来られて良かったです。僕はもう、帰りますね。あ、そうだ、エリッサ。君はいつ帰るんだい?』 『わたしは、まだ決めていないけれど……』  大学はまだ学期中で、昨日今日と講義を休んできている。できれば早いうちに戻りたいが、マーロン氏と、そして犬のニックも含めて、このままの状態で残しておいて大丈夫だろうか――。 『これから、私が君を大学まで送っていこう。君もそう長い間、休んでいるわけにはいかないだろうから』  マーロン氏は微かに首を振り、そう告げた。 『ありがとうございます。でも大丈夫ですか?』  思わず、そう言葉が出た。 『ありがとう、心配してくれて。だが、我々のことは、もう気にしてくれなくても平気だよ。アリソンもおらず、ジェイもいなくなった今、私は君にとって、もう他人だ』 『でも、母と縁のあった方です、あなたは』  ありさは首を振った。『お願いですから、これからはご自分のために生きてください。ご自分を労わってあげてください。ジェイもそう願っているはずです。ニックもね……』  ありさは犬のところに行って腕を回し、その毛皮に顔を押し付けた。 『お願いだから、元気を出して。ごはんを食べて、生きてね』  マーロン氏がありさの継母瑤子のように精神を病み、やつれてしまうことも、忠実なニックがエサも食べず、悲しみのあまり死んでしまうことも、恐ろしかった。涙が流れた。  ニックが首をもたげ、ありさの頬をなめた。ありさはその頭を撫でた。 『僕も彼女と同じ意見です、叔父さん。今は辛いかもしれませんが……と、月並みなことしか言えないですが』  エドワードも静かな口調で、そう言い足している。 『……ありがとう』  マーロン氏の眼に、かすかな感謝の色が浮かんだ。 『じゃあ、僕は帰ります。そうだ、エリッサ。牧師さんが見えて、そのままになっていたけれど――もし君が気になるのなら、あの時言ったように、僕の家に来ないかい。僕も君の話を聞いて興味を覚えたから、彼女に詳しい話を聞いてみたいんだ。君も良かったら、一緒に』 『ありがとう。もしよかったら、伺いたいです』  ありさは頷いた。ネイティヴ・アメリカンの血を引くというエドワードの妻が、ジェイの話を聞いて言っていたこと『その子は呼ばれたのね』――その言葉はかつて弟が、妹の失踪と死について言っていたものと同じだったことが、気にかかっていたのはたしかだったからだ。弟が知っていた何かを、もしかしたら従兄の妻も知っているのかも――そう思えた。 『それなら、今から家に来るかい? その方が楽だ。リーナは――ああ、妻だけれど――驚くだろうけれど、歓待してくれるだろう』 『ええ。でも今から行くと、帰りは夕方にかかってしまいそうだけど、御迷惑じゃないですか?』 『それなら……私もぜひ一緒に行かせてくれ』  マーロン氏が、そこでそう言い出した。『君の奥さんには負担かもしれないが、私も聞いてみたい。ジェイが逝ってしまった真相が、少しでもわかるなら……』 『うーん、彼女が真相を知っているわけじゃないと思いますが』  エドワードは少し当惑したような表情になった。『妻が言うのは、古い伝承なんだと思いますよ。だからその真偽も含めて、あまり真剣にとらえられると、困るんですが』 『それは、わかっているつもりだよ。ただ、エリッサが君の家に行くなら、私も一緒に行って、帰りは私の車でここに戻ってきたらいい、そう考えたんだ。そうすれば、君もエリッサを送る心配はないし、彼女にはもう一晩ここで泊まってもらって、明日の朝、私が大学へ送っていけばいい。午後からの講義には、間に合うだろう』 『ああ、それはそうですね』 『すみません、ありがとうございます』  ありさは二人に感謝のまなざしを向けた。  従兄エドワードの家は、かつて彼ら一家と一緒に行ったキャンプ地の近くにある、小さな村にあった。マーロン氏が住んでいる場所よりはにぎやかだが、村の住人は千人もいないだろう。三ベッドルームの、比較的こじんまりした家だった。  従兄の妻マルセリーナ・リチャードソンは比較的小柄で痩せていて、肌の色は浅黒く、長い黒髪を赤い紐で後ろに束ねていた。白いニットに赤い花柄のスカート、エプロンをつけているが、そのお腹は丸く膨らんでいる。 『おめでたなんですね』  従兄に紹介され、お互いに挨拶を交わし、急に来たことを詫びた後、ありさは聞いた。 『五月に生まれる予定なんです』  従兄の妻は、微かに顔をほころばせる。 『おめでとうございます』  ありさは言い、マーロン氏も同じ言葉を繰り返していた。  逝く命と来る命――不思議な思いがしたが、それはきっと氏も同じだろう。いや、彼にとっては、ほろ苦いかもしれない。そう言えば、桃香を亡くした後、継母が『妊婦を見るのがつらい。憎らしい!』と、父に訴えていたことを思い出した。ありさは廊下で、その言葉を漏れ聞いただけだが。同じように彼女はその義理の娘に対しても、呪詛の言葉を幾度となく繰り返していた。自分の娘が死んだのに、他の子は無事で生きているというその事実に、耐えられなかったのだろう。    従兄の家のリビングで、従兄の妻がいれてくれたお茶を飲みながら、いくつもの慣例的な言葉が繰り返された。ジェイへの鎮魂の言葉、氏への慰め、こちらからは、急に来てしまったことへの詫びなど。そしてエドワードが切り出した。 『実はさ、リーナ。二人がここへ来たのは、ほら、僕が従弟の事件について君に話した時、君が言っていたことなんだ。“その子は呼ばれた”って。それをエリッサに話したら、ジェイも同じことを言っていたって聞いて――君はあの時、言っていたよね。子供のころ、お祖母ちゃんから聞いた話だって。君の母方のお祖母さんは、さらにそのお祖父さんから聞いたとかいう――僕もあの時聞いてみようかと思っていたけれど、疲れていたし眠かったから、そのままになってしまった。それで、それは何なのかなって、彼らも興味を持ったようなんだ』 『ああ』  従兄の妻は微笑み、小さく首を振った後、ありさとマーロン氏に目を向けた。 『わたしも完全に理解しているわけではないし、よくある民間伝承の一つだと思いますが、興味がおありになるなら』  彼女の平たく赤い唇から洩れる声は、深みがあって低い。流れる小川のせせらぎを思い起こさせるような声だった。彼女は細い指で紅茶のカップを持ち上げ、一口飲むと、再びテーブルに置いて話し始めた。 『どこから話したらいいか、わからないけれど――わたしの母は、双子だったんです。母の家族はアメリカ、ワイオミングの北部で育って、二人は野原や林の中で、いつも一緒に遊んでいたそうです。クマやヒョウなども出るので、決して森の中には入ってはいけないと言われていたらしいですが、四歳と六歳年上の、二人の兄が監督役になって。それで、母たちが六歳の頃、二人は林の中で半日ほど、迷子になってしまったらしいんです』 『迷子だらけだな』エドワードはそう呟いた後、苦笑して三人を見た。 『すまない。つい、言ってしまったよ』 『いいのよ』その妻は小さく肩をすくめると、話を続けた。 『二人は発見された後、今までどこにいたのかと問う祖父母に告げたそうです。母の方は、よく覚えていない。迷っていた記憶と、何か鹿のような生き物に出会った記憶がある、と。でも母の姉は言っていたらしいです。違う、鹿じゃない。あれは妖精。それに呼ばれて、引き寄せられてしまった。でもそれ以上は言えない、と。祖母は顔色を変えて、母の双子の姉に告げたそうです。今度呼ばれても、決して行ってはいけない。あなたは選ばれてしまった、と』 『選ばれた?』ありさは思わず反復した。  マルセリーナは頷き、再び紅茶を一口飲むと、話し始めた。 『母の姉はそれから一年後、いつものように林でみなと遊んでいる時に、突然失踪してしまいました。そして三日後、林に続く奥の森の中で、遺体で見つかりました。その身体に傷はなくて、もちろん獣に食われたような痕跡もなく、きれいだったそうです。死因は低体温症と言われて――ジェイ君と同じですね。その時、祖母は涙を流しながら、言ったそうです。守護精様(エヴァ―グリーン)に呼ばれたら、逃れられないのね、と』 『エヴァ―グリーン……?』  三人ともが、そう反復した。 『母はその時不思議に思ったそうですが、なにぶん小さかったし、姉の死に衝撃も受けていたので、その時にはそれが何なのか、聞かなかったそうです。その後、母の一家はカナダのこの地方に来て、母はイタリア系住民である父と結婚し、二人の兄が生まれ、わたしが生まれました。そしてわたしは七歳の時、ハイキングに行った先で迷子になったんです。その時の経験を母に話したら、母は青くなり、わたしを連れて、祖母の家に行きました。それで彼女に、あの時の話の、詳しいことを教えてほしい。この子は大丈夫なのか、と訴えたのです』  従兄の妻はふっと息をつき、少し黙った後、再び話し始めた。 『祖母はわたしに聞きました。おまえはどのくらい覚えている? と。わたしは、あまり覚えていませんでした。光のようなものと、そして緑の小鹿のような生き物がいたような気がする、それだけしか言えませんでした。祖母はほっとしたような顔をして、告げました。大丈夫。おまえは選ばれていない、と。母もほっとしたようで、そして改めて聞いていたんです。その選ばれるとか、選ばれないとか、どういうことなのか、と。そうしたら、祖母が話してくれたんです。それは祖母のお祖父さんから聞いた、たぶん代々伝わっている古い伝承だと。伝承なので、本当かどうかはわからないですが、祖母は信じていたようです』  そしてマルセリーナは小さく笑った。 『この現代に、神話の類のような迷信だと、きっとほとんどの人は言うでしょうけれど。でも祖母が言うには、この自然界のすべてのものには、それを守る精霊のようなものがいる。大地の力、火の力、風の力、水の力、そして植物の力も。この地球上に植物が伸びて育っていく力を守る精霊、それがエヴァ―グリーン――永遠の緑と呼ばれるもの。でも近年、少しずつ植物の生命力は弱くなっていき、精霊様は失われていく力を補うために、“みどりの人”の持つ力を借りようとする』 『みどりの人――?』  ありさは思わず反復した。そうだ、いつか友人たちが――キャスだっけ、ボニーだっけ――言っていた。植物を育てるのが上手い人を、“みどりの人”と呼ぶと。祖母も、妹も、そして弟ジェイも“みどりの人”だったと思ったことも。  従兄の妻はありさに目を向け、その表情から心を読み取ったように、頷いた。 『そう。植物と心を通じ合わせることができる人――その力を、精霊様は欲しがるそうです。それで、自然の好きな子供たちを森に引き込んで、試していく。その子が十分な力を持っているかどうか。祖母の話が本当ならば、わたしたちはみな、試されたのかもしれません。そんな風にも感じます。母も、母の双子の姉も、わたしも、エディーも、ありささんも、ありささんの妹さんも、ジェイ君も』  彼女、マルセリーナはありさのことをエリッサと呼ばず、日本語的な発音でありさと呼んだ。そのことも含めて、その言葉に、ありさは小さな衝撃を感じた。 『それで、君の母と君と僕とエリッサがはずれで、君の母のお姉さんとエリッサの妹さんとジェイが、当たり――てことかい?』  問いかけた夫に目を向け、マルセリーナは微かに頷いた。 『祖母が言うには、その記憶を持っているかどうか、知っているけれど語らない感じか、何も知らないか、そして“それ”が何に見えるか――色は緑を帯びて見えるから、それはともかく、小動物や普通の人に見えたら大丈夫。でも、この世のものではないものに見えたら、それは“選ばれた”ということ――祖母は、そう言っていたわ。あなたはウサギ、わたしは小鹿、母も鹿。でも母の双子の姉は妖精と言っていた。ジェイ君には何に見えたのかは――』 『ユニコーンだ。翼の生えた――』  そこで、マーロン氏が息を吐き出すように告げた。ありさもスケッチブックに描かれた絵を思い出した。それでは、わたしはいったい、あそこで何を見たのだろう――?  脳裏に夢がよみがえってきた。そうだ――男の子だ。緑の眼に緑の服の、男の子。人形との印象がダブったのか、そのままの男の子だ。金髪で、その背に翼はない、普通の子。 『君は何に見えたんだい、エリッサ。ああ、覚えていないんだっけ』  問いかけた従兄に対し、ありさは首を振って答えた。 『いいえ、今思い出したわ。男の子。普通の』 『そう言えばアリソンも、昔森の中で迷ったと言っていたな。でも彼女が何を見たのか、聞くことはなかった。彼女は助かったのだから、普通のものだったのだろうか』  マーロン氏がうめくように言い、首を振った。 ――桃香は、何を見たのだろう。彼女の言う“みどりちゃん”は。それをきくことはできなかったが、なんとなくそれはやはり自分と同じ人で、ただ翼が生えていたりしたのかもしれない、そう思えた。何の根拠もないが。 『わたしが覚えているのは、これだけです。ああ、でももう一つ、祖母が言っていたことがあります。その“みどり”の血筋は伝承する傾向があるから、気をつけなさいと。わたしの母方の血、エディーやアリソンさんの血筋――ジェイ君やありささんもそうだけれど、ありささんの妹さんは――』 『わたしの祖母かもしれません。彼女も、植物が大好きな人でした』  ありさはゆきのの姿を思い浮かべていた。日中よく庭で過ごし、植物に語りかけ、手入れしていた祖母。彼女もたしかに“みどりの人”だった。祖母の小さい頃の話など、聞いたことはなかったが、彼女も“試された”ことがあるのだろうか。それで、“選ばれなかった”のだろうか。それとも、行かなかったのだろうか。 『怖いなあ。僕たちの子供は大丈夫だろうか』  エドワードが心配げな顔で、妻を見やった。妻の方は夫を見、お腹に手を当てる。 『そうね。二重に血を引いているわけだから』  彼女は微笑んだが、そこには隠せない不安の影があった。 『大丈夫。わたしも二重に血を受けているけれど、選ばれなかったですから』  ありさは思わず、そう告げていた。二人の表情も、微かに緩んだ。 『それにまあ、あくまでこれは言い伝えみたいなものだしね。本当にそうかはわからない』  エドワードが気を取り直したように言って、首を振った。 『そう。迷信のようなものだと思ってください』  彼の妻もかすかに微笑んで、そう言いたす。 『そうだな……でも、ありがとう、話してくれて。そう……呼ばれるものが何であれ、そこには我々には計り知れない、理由があるんだ。そう思うと、少しだけ気が楽になったような気がする』  マーロン氏はテーブルの上で両手を合わせ、二人に感謝のまなざしを投げていた。 『身重なのに急に押しかけて、話をさせて悪かったね。でも、ありがとう。子供が生まれたら、ぜひお祝いをさせてくれ』 『ありがとうございます。体調は悪くないので、大丈夫です』 『本当に、ありがとうございました』  ありさも従兄の妻に感謝を述べ、その手を握った。  その後ありさはマーロン氏の車で彼の家に戻り、パスタを入れたスープを作って食べた。氏は相変わらず食欲はないようで、犬のニックもドッグフードに手を付けないままだが。ありさは彼らを気にかけながら、屋根裏部屋の小さな客用寝室で眠った。  ありさは夢を見ていた。森の中にいるが、いつも見る“迷う夢”ではない。ここは、かつてマーロン氏とジェイとともに行った森の広場に、似ているような気がする。周りに、木々の葉が揺れている。  ありさは少し疲れを覚えて、倒木の上に腰を下ろした。すぐそばを、透明な小川が流れている。その小川の上を、誰かが渡ってきた。顔を上げると、そこには弟がいた。小川の流れの上に立っているのだが、その足は水に触れていない。水面の少し上にいるかのように見えた。彼はにっこり笑った。 『ありがとう、エリッサ』 『ジェイ!』ありさは弟に呼びかけた。 『そこにいるの? あなたなの? あなたは“呼ばれた”の?』  弟は微かに頷いたように見えた。そして、霞に溶けるように消えた。あとには圧倒的な、安らぎの感情のようなものが残った。  そこで目が覚めた。まだ外は薄暗いようだ。時計を確かめると、五時を過ぎたところだった。家の中は、静寂が支配しているようだ。ありさはいつしか、また眠った。  再び目が覚めた時には、部屋はすっかり明るくなっていた。階下から、物音がする。スープの匂いも漂ってくる。着替えて降りていくと、マーロン氏が台所で朝食を作っていた。 『起きたのかい? 家には驚くほど何もなくなっていたから、パンケーキくらいしか作れないが。でも、昨日君が作っておいてくれたスープがあるから、一緒に食べてくれ。今、コーヒーもいれるよ』 『ありがとうございます』  ありさは驚きを感じながら、椅子に座った。マーロン氏の顔は相変わらずやつれているが、その眼には少し生気が戻ってきたように思えた。 『少し元気になられたようで、嬉しいです』 『私がここで自暴自棄になっても、あの子は喜ばない』  マーロン氏はスープのカップとパンケーキの皿をありさの前に置き、自分の分も同様に並べた。インスタントだが、コーヒーもいれてくれた。そして椅子に座り、続けた。 『昨夜、ジェイの夢を見たんだ』 『マーロンさんもですか?』思わずそう返した。 『君もかい?』 『ええ』 『あの子は、なんて言っていた?』 『ありがとうって』 『そうか――』マーロン氏の眼は潤んだ。 『私には、こう言ったんだ。パパ、ごめん。でもぼくはずっと、そばにいるよ』  氏はそう言うと、どこか機械的な動作で、パンケーキとスープを口に運んだ。 『あの子に、心配させるわけにはいかない。私たちは、これからも生きていかなければならないんだ。ジェイはもういないが、あの子の木がある。たしかにあの子は、そうして私たちのそばにいてくれるのかもしれない』 『そうですね――』  ありさは頷いた。氏が継母と同じ道をたどらなかったことに、心からほっとしていた。リビングスペースの方で物音が聞こえたので振り向くと、ニックが起き上がり、皿の上のドッグフードを食べている。 『いい子ね!』  思わず声を出して近づき、そっとその毛に触れると、ニックはしっぽを振った。その眼にも、光が戻ってきたように感じる。犬も夢を見るなら、ジェイはニックのところにもいったのだろうか――そんな思いを感じた。  再び大学に戻るために庭に出ると、庭の隅に植えられた小さなハシバミの木が目に入ってきた。ジェイの墓の上に植えられた木。あの子の木――今は小さな若木だけれど、これから弟の身体を糧にして、大きく育っていくのだろう。ありさの脳裏に、立派な大木に成長した木の姿が浮かんだ。風に葉をそよがせ、青い空を背景に立つ木が。  常盤家の庭に植えてある、楓の木を思い出した。あれは、ありさの木だ。彼女が常盤家に引き取られた時、祖母ゆきのが植えてくれた。「本当なら、生まれた時に植えるものだけれど」祖母はそう言っていた。妹が生まれた時には、桃の木が植えられた。父や叔父や、祖父たちのものもある。  生まれた時に植えられ、その成長とともに大きくなっていく樹。それは、自分の分身のようなものかもしれない。そして庭の桃の花が咲くたびに、妹の分身もまた生きているような気がしていた。それは、命の木。  今この庭には、弟が世を去った時に植えられた木がある。これは“命を継ぐ木”なのかもしれない。本来は、弟自身が育つ代わりなのだと思うと、それは今の桃香の木にも似ているかもしれない。  どうしてジェイはハシバミにしたのだろう。そう言えば、シンデレラの原作、魔法使いのおばあさんが出てこないお話では、お願いをするのはハシバミの木だった。母の墓の上に植えられた、小さな木の枝が育ったものだ。シンデレラの亡き母の依り代であり、天界と通じるもの――ジェイがシンデレラのもとの話を知っていたかは、わからないから、本当の理由は知ることができないのだろうが。  弟の墓に手を合わせると、ありさはマーロン氏の車に乗り込んだ。隣りの座席には、白いむく犬が座っている。去年の夏と同じように。でも、弟はもういない。  車の窓を開けると、流れ込んでくる三月の風は冷たかった。ありさは小さなハンドルを回して窓を閉め、小さくなっていく家を振り返った。もうここに来ることは、ほとんどないのかもしれない。マーロン氏はたしかに母と縁のあった人だが、その母も、弟もいない今では。一筋、涙が流れた。    その年の夏、継母瑤子が死んだ。そのことを、ありさは叔父である健の手紙で知った。父はメールで知らせようとしたようだが、「こういうことをメールで済ませるのはどうかと思う。兄さんが書かないなら、俺が手紙を書いておく」と、叔父が父に言ったらしい。健叔父は一年ほど前に、単身赴任先の大阪から、埼玉の自宅に帰ってきていた。  叔父の手紙によると、瑤子は入院先の、療養病棟のベッドの上で冷たくなっていたらしい。ここ数年はほとんど鎮静状態で、いつも半分まどろんでいるような感じだったらしいが、その朝巡回に来た看護婦によって、まったく動かなくなっているのが発見されたという。夜のうちに亡くなったらしく、死因を知るために解剖された結果、脳内出血によるものと診断されたという。 ――継母は、この結末を望んでいたのだろうか。桃香を失って以来、彼女は生きる力をなくしたように見えた。ありさを憎むことで、ようやくその気力に火をつけていた状態だったのだろう。  ジェイが夢に現れてマーロン氏やニックを元気づけたように、桃香は継母に“会いに”いかなかったのだろうか。いいや――あの子は、ありさには来てくれた。『お姉ちゃん、ごめんね。わたしは大丈夫』そんなことを、告げてくれた。桃香は、継母も母として慕っていた。『ママって、ちょっとうるさいけど、わたしのこと好きだからだよね』とも言っていたっけ。そう――あの子は、優しい子だった。本当に、純粋な心を持っていた。もう一人のありさの兄弟である、ジェイのように。 “純粋さ”――それが、“選ばれる”ことの基準なのだろうか。ふと、そんな思いがよぎった。だから“子供”しか、呼ばれないのかもしれない。選ばれなかった人は、きっとその思いの中に、少しでも雑念が入ってしまっていたから――悪いものではないが、“雑味”、微かな濁り、灰汁のようなもの。それは人間として、たぶん誰でも持っているものなのかもしれない。それを超越した子だけが、呼ばれていくのだろうか。  同時に、別の思いも感じた。継母の絶望が深すぎて、桃香の思いが届かなかったのかもしれない。桃香は瑤子のすべてだったから。もし桃香が今も生きていたら、きっと継母も全く違う生活を送れていたはずだ。桃香は瑤子の干渉に抵抗はするだろうが、優しいあの子のことだから、きっと正面切って怒ることはないだろうし、瑤子も満足して家庭生活を送っていただろう。ありさも逃げるようにカナダに来ることは、なかっただろうが。あのまま日本にいたら、自分はどんな大学生活を送っていたのだろうか――  継母も犠牲者なのだ。もっとも愛するものを、奪い去られたのだから。ありさは手紙をたたみ、机の引き出しに入れた。継母のための涙が、初めてその頬を滑り落ちていった。  緑の葉の上に、柔らかな水が降り注ぐ。陽の光が、その小さな無数の水粒に反射して、微かな金色に輝く。その様子を、庭の石に腰かけて眺めていた。 「しばらく雨が降らないかったから、みんなのどが渇いていたのでしょうね」  水撒き用のホースを止め、片づけてから、ゆきのが隣に座った。 「木も草もお花も、よろこんでいるのかなあ」  ありさは水滴の光るバラの茂みを眺め、ついでスノーポールの鉢に目を移す。 「そうよ。ああ、お水だ。うれしいって」 「どうやって、うれしいって思ってるって、わかるの?」  動物たちなら、感情があると理解できるのだが。幼稚園で飼育しているウサギや、時々迷い込んでくる猫を見ていても。でも、木や草花には、わかりやすい表情はないように思えた。枯れて元気がなくなると、それははっきりわかるが。植物は、自分からは動かない。ただ植えられたその場所で、だんだんと大きくなっていくだけ。やがて花が咲いて、種ができて、草花はそのまま枯れてしまうことも多い。ひまわりも、朝顔も、ポピーも、チューリップも。でもバラやサクラソウのように、枯れないものもある。木はもっと長い時間をかけて育っていく。それはありさにもわかっているが、でもどの植物も、風が吹いたり、何かが引っ張ったりして揺れることはあるけれど、自分からは動けないし、目に見える表情というものもない。祖母が言うように、もし植物が何かを感じているとしても、それを自分から表すことができないなら、不自由ではないかしら――そんなふうにも思えた。 「幼稚園はどう? ありさちゃん」 「うん……あんまり楽しくない」 「そうなの。もう言葉は、不自由しないでしょう? それでも?」 「うん。でもちょっと、遅かったみたい」 「そう。残念ね」祖母の笑みは、慰めるように見えた。 「でも、大丈夫よ、ありさちゃん。いつかはきっと、楽しくなる時が来るわ」 「そうかなぁ」 「そうよ。時間はかかるかもしれない。でもきっと、自分の居場所を見つけることができると思うの」 「自分の居場所って?」 「ここにいると、落ち着くなぁと思える場所よ」 「ああ、それならある!」ありさはにっこり笑った。 「どこ?」 「このお庭、お祖母ちゃんのそば」 「まあ」ゆきのは嬉しそうな笑顔になった。 「ありがとうね、ありさちゃん。じゃあ、じょうろで水撒きを手伝ってくれる?」 「うん」  陽だまりと、飛び散る水。柔らかい緑――。  場面が転換した。ここは森の中だ。何度も夢に見た、あの森。ジ・アザーサイド・フォーレスト。広場の、湧き水のそば。その横に、男の子が座っていた。緑の服に緑の眼、金髪――抱いている人形が、現実になったような。その子は、緑色の眼でありさを見た。一回、二回と瞬きをした。 「こんにちは」ありさは驚いたが、そう言葉をかけた。  その子は表情を動かすことなく、ただじっと見てくるだけだった。 「あなたは、だあれ?」  それでも、ありさは問いかけた。 「あなたも、ここで迷子になったの?」  その子は相変わらず、何も言わない。瞬きだけしている。 「ねえ――」  少し焦れてきて、その方向に踏み出そうとした時、周りの風景が揺れた。広場の周りに生えている木々が、まるで意思を持ったように大きく振り動くような気がした。足元の草も、渦を巻いているような感じだ。濃い緑と、草色と、茶色の渦――。  そこで、ありさは目覚めた。ベッドの上に起き上がる。となりには、夫がまだ寝ている。反対の壁際に寄せた二段ベッドで寝ている子供たちの、柔らかい寝息も聞こえる。ゴールデンウィークが明けたばかりの、五月の陽が、カーテンの隙間から差し込んでいた。  カナダで異父弟ジェイを見送ってから、十一年がたっていた。あの時以来、母の夫であるスティーヴ・マーロン氏の家を訪れたことはないが、年に数回、手紙のやり取りが続いている。従兄のエドワードとも、それからは会っていないが、彼ともまた年に数回、メールをやり取りしていた。 「俺、来週日本に戻るんだ」  弟を失ってから二か月後の六月、ありさは御森陽斗からそう告げられた。 「そうなの?」  ありさは小さな驚きと、寂しさを覚えた。そうだ。陽斗は交換留学生だから、ここにいるのは一年。最初にそう言っていたことを思い出した。 「常盤さんは、来年卒業?」 「ええ」 「卒業したら、どうするんだい? こっちで仕事を見つけて働く? それとも、日本に帰る?」 「まだ決めてないわ」  卒業後の進路は、まだ白紙だった。継母はもういないのだから、日本に戻って就職してもいいのだが、日本の大学を出ていないから、帰ったら一から求職を始めなければならない。ここでずっと暮らすことも、また選択肢の一つではある。 「常盤さん……いや、ありさ!」  陽斗は顔を朱に染め、両手を伸ばしてありさの手を取った。 「もう一回言うよ。俺は、君が好きだ。だから、このままにはしたくない。いつまでも友達なんて、いやだ。ここを卒業したら、日本に戻ってくれ。それが無理なら、俺が大学を出てから、こっちに来て働く。どっちにしても……俺と付き合ってくれ! ちゃんと恋人として」  このころには、彼のことを頼もしい友人とみなすようになっていた。異父弟の騒動の間、つかず離れず寄り添ってくれた陽斗に、慰められてもいた。恋愛感情がどういうものなのか、あまり考えたこともなかったが、この時、ありさは戸惑いと同時に嬉しさの感情も覚えた。我知らず、頬が染まった。 「いいわ」  ありさはしばらく沈黙してから、頷いた。 「わお!」  陽斗の声は、歓喜に満ちていた。彼は両手で抱きしめてきた。そして二人は、キスを交わした。キャンパスの隅の方ではあるが、他の人がいないわけではない。しかし、こちらではそれほど珍しくはない光景なのだろう。 「でも、どっちにしても、しばらくは遠距離ね」  しばらくのち、ありさはそう切り出した。 「そうだなあ。一年か、二年か。君がこっちに残るなら二年、来てくれるなら一年――でも、負けないぞ。会いに行くのはきついけど、ビデオチャットもあるし」 「そうね。今は便利になっているものね。マーロンさんみたいに浮世離れするなら、別だけれど」ありさはくすっと笑った。 「でも、待つのはできるだけ短い方が良いから、来年ここを出たら、日本に戻るわ。向こうで仕事を見つけることにする」  北米の文化の方が自分の気質に合っているような気はするものの、しかしここでも完全に根をおろし切れていない自分を感じていた。日本人の父と、カナダ人の母を持った自分の、どっちにも完全には振り切れない定めなのかもしれない。それでも、こうして陽斗と付き合うと決めたからには、父のルーツ側に一歩踏み込んでみよう。 「本当!?」  陽斗は再び、歓喜の表情で声を上げていた。  それから一年間、二人はビデオチャットやメールを交わし、翌年の夏、大学を卒業したありさは、カナダをあとにした。四年ぶりの日本だった。幸い、仕事はすぐに見つかった。契約社員だが、外資系の企業で働きはじめて二年が過ぎた頃、陽斗と結婚した。結婚後もフルタイムで働き、最初の子供を身ごもって半年後、いったん専業主婦となった。  長女瑠璃を生んだ一年半後から、ありさは在宅で翻訳の仕事を始めた。以前いた会社からのオファーで、育児の合間にも無理なくできる量にしてもらった。その分、もらえるお金もさほど多くなく、陽斗の扶養範囲内で収まる程度ではあるが、少しだけ金銭的余裕が持てた。瑠璃が生まれた三年半後に次女陽葵(ひなた)が生まれ、ますます忙しくなったが、それは幸福な日々だった。    ありさはベッドから起き出し、身支度を済ませると、洗濯機を回しながら、朝食の準備を始めた。まず夫を起こし、その三十分後に子供たちを起こす。夫が出勤し、この四月から小学生になった瑠璃を集団登校の集合場所まで送り、ついで幼稚園の年少さんとして入園したばかりの陽葵を、幼稚園の送迎バスに乗せる。送迎場所では他の子の母親たちが、固まっておしゃべりしているが、ありさはいつも軽く挨拶をするだけで、その場をあとにする。それは、上の娘である瑠璃が幼稚園に通っていた時から、そうだった。「御森さんはお高く留まっている」「孤高の人ね」などと陰で言われていることは薄々察してはいるが、気にしないように努めていた。自宅のあるマンションのエレベータを上がり、掃除機をかける。洗濯物と朝食の後片付けは、夫と子供たちの支度の合間にすませてあった。そして食卓の上にパソコンを置き、作業を始めた。陽葵がようやく幼稚園に上がってくれたので、まとまって作業ができそうだ――。  昨夜見た夢を思い出したのは、子供たちを寝かしつけた後、陽斗とともにテレビを見ている時だった。夜のドキュメンタリー番組で、砂漠化が進みつつある世界、というテーマだ。かつて緑豊かな地だった場所が、今や不毛の砂漠と化している――そんな場所が、世界でいくつも出現しているという。 ――物言わぬ植物たちの反乱――ふとそんな思いが脳裏をかすめた。いや、彼らは人間に蹂躙され続けた結果、力を失ったのかもしれない。そんなことを考えた時、十年前の話が再び思い出された。『みどりの力が弱まった時、守護精はその失われていく力を補うために、“みどりの人”の力を借りようとする』――でも、これだけひどく失われていく力では、いったいどれだけの補充を必要とするのだろう。そう考えた時、背筋に悪寒に似たものが走った。  彼らの住まいはマンションだから、ベランダに育てている花やハーブの鉢くらいしか、植物はない。瑠璃も陽葵も喜んで水撒きをし、何度も覗いているが、それは幼稚園でいろいろな草花を育てているためだろう。今年瑠璃が入学した小学校でも、生活科や理科の授業の一環として、畑や花壇があるという。「わたし、花壇係になったの!」と、四月に瑠璃が嬉しそうに言っていたっけ。 「どうしたの?」  思わずため息が漏れたのだろう。陽斗が顔を向け、そう問いかけてきた。 「ううん。なんでもない」  ありさは微かに笑顔を作り、首を振った。 「そう」陽斗は缶チューハイを一口飲むと、テレビに目をやり、言葉を継いだ。 「緑豊かな土地がなくなった、ってので、思い出したな。常盤の家」 「そうね。砂漠にはなっていないけれど」  ありさは答えながら、小さな痛みを覚えた。常盤の実家は、今はない。インドネシアから中国を経て、六年前にようやく帰国した父が、売り払ってしまったからだ。父は赴任先で結婚し、新しい妻と二人で住むために、都心に近いマンションへ引っ越した。家を売って得た金は、一部はそのマンションに、三分の一は叔父夫妻に渡った。祖母が亡くなった時、土地の五分の二を健が相続していたためだ。  祖母や桃香が愛した庭の木々は、もうない。花壇の花も、バラの茂みもなくなってしまった。「まだ生きている人の木を切るのは、反対だな」健叔父は父にそう言ったらしいが、父は「いや、そんなのは迷信さ。第一、植え替える場所がないじゃないか」と、譲らなかったらしい。それでも健叔父は父と市に交渉し、ありさと桃香の木だけは、近くにある公園の隅に移植されることになった。今もその二本の木は、そこで生きているという。そのことに、ありさは限りなくほっとし、叔父に感謝していた。自分の木はともかく、桃香の木がまだ生きていることに、大きな救いを感じた。  今、常盤の家があった場所は、六件分のタウンハウスになっている。その小さな庭には、住民たちが置いた鉢植えが、かろうじてあるばかりだ。かつて父が「森のようだ」と言っていた先祖代々の木々たちは、なくなってしまった。  去年父が亡くなった時、かつて家に来てくれていた植木師の下村さんの言葉が、頭をかすめたことがある。「ある程度育った木を切る時には、それなりの敬意が必要だ。酒と塩でお清めして、感謝とお詫びを伝えないと、祟ることがあると、師匠に聞いたもんだ。まあ、迷信なんだろうがね」――父は夜中に心臓発作を起こして倒れ、気づいた現在の妻が救急車を呼んだが、病院に着いてすぐに息を引き取ったという。自らの象徴を切ってしまったせいだろうか――バカげているとは思っても、そんな思いが掠めるのを止められなかった。葬儀に参列した健叔父に、思わずそのことを漏らし、「叔父さんは大丈夫か、気になる」と、言ってしまったりもした。叔父は寂し気な笑みを漏らし、答えたものだ。 「大丈夫だと思うな。俺は一応、お清めとお別れをしたから」  もともと父が再婚してからは、父の現在の妻に遠慮を感じて、その家に遊びに行ったことはなかった。二回ほど、外で父と一緒に食事をしただけだ。その父が亡くなった後、彼の妻は住んでいる家を売り、国に帰ったようだ。 “実家”と言う概念は、ありさが結婚した時からすでにほとんどなかったけれど、今家も父もなくなって、完全に消失したように思える。お清めが効いたのか、健叔父夫妻は今も健在だが、会う機会は多くない。子供たちへのお祝いをいつも贈ってくれるので、礼状に写真を添えて、その都度送っているが。  さらにもう一つ、緑が消えた場所がある。“淵が森”だ。桃香が命を落としたその森は、今は切り払われて、マンションが建っている。森の中にあったという祠は、工事をしてみたら発見されなかったらしいが、数件の死亡事故が相次いだため、マンションの屋上に小さな神社を立てているという。これは三年前、仕事でたまたまその付近に来た陽斗が、足を伸ばして訪れてみての、発見だった。その話を夫から聞いた時、実家がなくなった時とは違う、畏怖に似た痛みを感じたものだ。 「これ見て、ふと思ったんだけどさ」  陽斗は缶チューハイを口に運んだ後、テーブルの上に置いて言葉を継いだ。 「ありさの弟さんがカナダで亡くなった時に、従兄の奥さんって人から聞いたって話」 「え?」ありさは驚いて、夫の顔を見た。 「“みどりの守り人”の話?」 「そう、それ。あれがもし本当なら、こんだけ自然がガンガンなくなってく今は、相当の数の助けがいるんだろうなって」 「そうね……ちょうどわたしも、同じことを思っていたわ」 「そうなんだ……でもさ」 「なに?」 「“みどりの人”って、そう数いないだろうから、止めきれないんじゃないかなって思う。それで、みどりを愛する人は助けに使われて、いなくなって、残るのは、どうでもいいと思ってるか、そんなこと知るか、ってやつばかりになったら、本格的に地球がやばいことになるかもしれないなって」 「怖いわね」ありさは思わず身震いをした。 「なんかそう考えると、あれかな。胡散臭い宗教とかで言われる、空中携挙――聞いたころ、ある?」 「ああ、大学時代に信じている人がいるとかなんかで、少しだけ話題になったことがあったわ。たしか、滅びの中から、神が良き人だけを救い上げるという話でしょう?」 「そう。あれ自体は、選民思想がきつくて、俺は嫌いだけどさ。でもその“みどりの人”がいなくなった後、地球が滅びたら――まあ、災害とかでさ。実際、いろいろ異常気象とか起きてるわけだし――その人たちは、そこから救い出された人ってことになったするのかな、って、チラッと思ったんだ」  陽斗は少し、きまり悪そうな苦笑を浮かべた。 「ああ、しょうもない考えさ。なんでこんなことを思ったのか、わからないくらいだ。それに、その守護精伝説とやらも、本当に迷信か、都市伝説の類だろうけどさ」  陽斗はチューハイを飲み干し、再び苦笑した。 「でも、君は気にしてるんじゃないか、ありさ。ここに決めるのも、近所に森のない場所って、すごくこだわってたし」 「根拠のない話だってことは、わかってはいてもね。それこそ父の、“木の祟り”と同じで。でも、なんとなく怖かったのよ」  彼らの住まいは、かつて住んでいた埼玉から東京を挟んで離れた神奈川の、比較的都市部にある。周りに森がないところを選んだのは、漠然とした恐れを感じていたからだ。 『みどりの血筋は遺伝するから、気をつけて』――従兄エドワードの妻、マルセリーナが言っていた言葉が、頭の中から消せなかった。もし子供が生まれて、その子が桃香やジェイと同じ道をたどってしまったら――その恐れは、実際に瑠璃と陽葵が生まれて、耐えがたい現実的な恐怖となっている。そうかもしれない。そうでないかもしれない。どっちにしろ根拠はない話だし――そうは思っても、二人の娘たちを愛しく思うほどに、心配も大きくなっていくのだ。  一年前、従兄エドワードからメールが来た。 “Grace Anne is gone”――彼はそう伝えてきていた。  従兄夫妻には、三人の子供がいた。あの時お腹にいた、長子マリア・ローザ、第二子グレース・アン、末っ子のマーティン・レオン。三年前に上の二人が迷子になり、上の子と下の子で、異なる反応を見せた。彼らは下の娘、グレース・アンが“選ばれて”しまったと知り、都市部に引っ越しを試みたらしい。森には子供たちを近づかせないようにし、それから一年ほどは平穏に過ぎていたが、朝起きてみたら、娘がいなくなっていたという。彼女の遺体は三日後、公園の木の下で発見されたらしい。死因は低体温症――ジェイの時と同じだ。しかし、彼の場合と同じように、それまでに何度その場所を探しても、彼女はいなかったという。死後二四時間以上はたっている状態で、しかし八時間前の目撃情報でも何もなかったという場所で見つかったのは、事件性があるかもしれない――桃香の時の同じように、向こうの警察も動いたようだが、結局何も発見できず、“事件性はなし”ということで収まったらしい。  従兄が書いてきたその顛末を読みながら、ありさは身体が震えてくるのを止められなかった。夫にその話をすると、陽斗も一瞬顔を曇らせ、「うーん」とうなったが、すぐに気を取り直したように言ったものだ。 「まあ、今のところ瑠璃もひなも無事だし、気にしすぎても仕方のないな。従兄さんは気の毒だったけど」 「そうね」とありさは頷き、祈ることしかできなかったが。    六月の休日、二人の娘たちを遊園地に連れて行った後、夕食を取っていたファミリーレストランで、陽斗は切り出した。 「今年の夏休みは、どこへ行きたい? 海? それとも……」 「山がいいなぁ」瑠璃が、そう切り出した。 「山、はどうだろうなぁ。ひなが登るの、大変じゃないかな」 「平気だもん」陽葵は不満そうに頬を膨らませている。 「でもね、やっぱりやめておきましょ、山は。まだ早いわ」  ありさは内心ひやりとするものを感じながら、首を振った。 「えー」瑠璃は納得いかなげに、声を上げている。 「なんで山が良いんだい、瑠璃は?」 「木が、たくさんあるところがいいの。それに、星が見たい」 「ひなは?」 「同じ」妹の方も、スプーンを口にくわえながら頷いている。  陽葵は瑠璃の言うことに、ほぼ無条件に従っているのが常だから、姉につられているだけだろうが――木が見たい、それは以前、桃香が言っていたことと同じだ。もちろん、娘が妹と同じ運命をたどると、決まっているわけじゃない。瑠璃や陽葵が“みどりの人”であるかどうか、わからない。第一、その“守護精伝説”が本当かどうかなんて、わからないことだ。妹も弟も、従兄の子も、単なる偶然が重なっただけかもしれない。  瑠璃が小さいころから、ささやかな夏休み旅行に、毎年行っていた。でも行先は海やリゾートパークばかりで、意図的に木の多いところは避けてきた。心の中に潜む、その恐れのために。 「よし、今年はじゃあ、高原のペンションへ行こう」  陽斗が意を決したように、そう告げた。娘たちが、歓声を上げる。 「ちょっと待って……」思わず、そう抗議の声が出た。 「そこまで気にしたって、しょうがないよ。いずれ小学校で、森林公園への遠足や林間学校もあるだろうし……それも休ませるつもり、君は?」  たしかにそう言われると、返す言葉がない。それは得体のしれない、迷信じみた恐れにすぎないのだ。それで学校行事を休ませるのは、愚かな母と言えるかもしれない。自分も瑤子を笑えはしない。とんだ過保護だ。 「それに、もしなにもなかったら、安心できるだろう? 僕らも気をつけて、迷子にさせなければいいんだ」 「そうね」  ありさは頷いた。確かに陽斗の言うことは正しいだろう。自分は根拠のない恐れを、必要以上に気にしているのかもしれない――。  その夏、車で二時間ほどの高原のペンションに、一家で出かけた。御森家に自家用車はないが、カーシェアリングを利用している。陽斗の運転で、二泊三日の小旅行だ。ペンションで体験教室に参加したり、牧場で遊んだりしたが、ハイキングには行かなかった。ペンションの周りには林が多かったが、瑠璃も陽葵も迷子になることなく、大いに楽しんだようだ。帰りの車の中で、ありさはほっと安堵の息をついた。陽斗は「ほら、大丈夫だったろ?」と、笑っていた。  翌年の夏も、娘たちの強い希望で、同じペンションに出かけた。今年は思い切って、短い距離のハイキングにも行った。娘たちは迷子になることもなく、一日目、二日目は去年と同じように、楽しく、何事もなく過ぎた。しかし三日目の朝、ありさは娘たちのベッドが空っぽなことに気づき、全身の血が凍るのを感じた。 「陽斗! 瑠璃とひながいない!」  思わず大声を上げて、夫を揺り起こした。 「え?」  陽斗も起き上がり、部屋を見回している。 「外へ出たのかもしれない。君は中を見て。食堂やホールを。俺は外を見てみる」  しかし娘たちは見つからず、家の中に入ってきた陽斗にありさが合流し、オーナーに子供たちがいなくなったと告げた。 「そりゃ、大変だ!」オーナーは声を上げた後、続けた。 「でも、子供たちが早起きして、この辺で遊んでいることは、割と珍しくないですよ。男の子たちは、虫とりなんてしていてね。お嬢ちゃんたちも、早く目が覚めたんで、遊びに行ったんじゃないですか?」 「この辺は、探したんですが……」 「じゃあ、ちょっと遠くへ行ってしまったんでしょうかね。探して見ましょうか」  そう言って窓の外に目をやったオーナーは、笑顔を浮かべていた。 「いや、お嬢ちゃんたち、そこにいますよ」 「え?」  食堂の大きな窓の向こうは、広場のようなスペースになっていて、昼間は子供たちが遊んでいたりする場所だ。そこに一本だけ生えている大きな木の下に、瑠璃と陽葵が座り込んでいた。  声にならない声を上げ、ありさは食堂の窓を開けようとした。 「ちょっと、そこから出ないでください、奥さん」  オーナーに笑いながら注意され、ありさはペンションの玄関を抜けて、広場に回り込んだ。陽斗も、後から続いてくる。 「瑠璃、ひな! どこへ行ってたの!?」  娘たちのもとへ駆け寄り、声を上げるありさを、瑠璃も陽葵もどこか焦点があっていないような眼で見た。一瞬で、その眼に光が戻った。 「ごめんなさい、ママ、パパ」  瑠璃が肩まで伸ばした、少し茶色がかった髪を振り、口を開いた。 「ごめんなさい、ママ、パパ」  陽葵も大きな茶色の目をくりくりさせて、姉と同じ言葉を口にする。この子の髪も、姉と同じような長さと色だ。二人とも普段、ありさが髪を結んでやるのだが、今はまだ肩にたらし、その髪が朝日を浴びて、少し金色がかった輝きを放っている。パジャマの上からおそろいで買ったピンクのパーカーを羽織り、二人とも、素足の上に靴を履いていた。 「どこへ行っていたの、二人とも」 「朝のお散歩」瑠璃がそう答え、 「うん」と、陽葵も頷く。 「わたしたちが起きてから、行ってよ。勝手に行かないで」  思わずそう言った後、ありさは瑠璃の表情を見、背中に冷たい悪寒が走った。娘は、妹と同じ表情を浮かべている。「みどりちゃんって、誰?」と聞いた時の、桃香の顔。 「正直に言って、瑠璃! 本当に、お散歩に行っていただけなの? 林の中に入っていって、迷子になったりしてないの?!」  ありさは思わず娘の両腕を取り、揺さぶっていた。 「ママ、すごい!」  しかし、そう声を上げたのは、陽葵だ。瑠璃は妹を見て、「しっ」と小さく言い、母に取られていた腕を折り曲げて、唇の前に人差し指を立てた。陽葵も、「あ、そうか」と笑っている。 「やめてよ!」  思わず、そう声が出た。全身の力が、抜けるのを感じた。二人とも“選ばれた”?――そんなはずはない。単なる偶然だ。本当に二人とも、朝早く目が覚めたので、内緒の冒険に出ただけだ。怒られるのが嫌だから、秘密、と言っているだけだ――そう必死に、自らに言い聞かせるしかなかった。  みどりの笛吹きよ――お願いだから、娘たちを連れて行かないで。陽斗が言ったように、たとえ世界中の“みどりの人”の力を借りても、残った人の方が圧倒的に多いなら、やはりその力は失われていくだろう。お願いだから、娘たちを生贄にしないで――。  陽斗も、ありさの思いを悟ったのだろう。彼は妻のそばに膝をつき、声をかけた。 「気にするなよ、偶然だ――」 「そう思いたいわ、本当に――」  ありさはそう答えるしかなかった。 「あと、気をつけよう。できるだけ」 「そうね」  ありさは頷く。そうだ、それしかできない。もう、ここへは来ない。山にも、高原にも、森にも、娘たちを近づけない――。  風が吹いて、頭上の木が揺れた。こすれあう葉の音が、まるで小さな笑い声のように響いた。それは桃香の、ジェイの声――? 呼ばないで、お願いだから――。  葉っぱが二枚、ひらりとありさの膝の上に落ちてきた。瑠璃が手を伸ばし、二枚ともとって、一枚を妹に渡す。二人は顔を見合わせ、笑みを浮かべた。それは、桃香の笑みだ。  吹き抜ける風の音が、笛の音に聞こえた。                  〜〜 完 〜〜