行徳の古い町並み紹介〜行徳街道伊勢宿から本行徳付近

徳や妙典には寺社だけでなく大変美しい昔ながらの町並みが所々に残っています。

かつては「行徳千軒寺百軒」といわれ、10軒でひとつの寺を養うほどの経済力があり、寺町という町名を残すほど栄えていた。神社も一町内に一社の割で十五社あるというその上、海辺で適度に湿度のある風土が漆塗りによく、神仏具の製造が盛んだった。(観音札所のある町 行徳・浦安より)

その昔、成田山の参詣や塩をはじめとした海上輸送で栄えた(今も十分栄えている!!)町並みをとくとご覧ください。

 

【江戸名所図会:行徳船場】


行徳は古くから塩の産地として知られ、この塩を江戸に運ぶために開発された航路も、やがては人や物資の輸送に使われるようになった。この航路の独占権を得たのが本行徳村で寛永9年(1632年)にこの場所へ船着場を設け、新河岸とよんだ。この航路へ就航した船数は当初16隻であったが寛文11年には53隻となり嘉永年間(1848〜54)には62隻に増えた。
これらの船は明け六つ(午前6時)から暮れ六つ(午後6時)まで江戸小網町からここ行徳新河岸の間を往復したので行徳船と名づけられ、その間3皇8丁(12.6キロ)という長い距離を渡し船のように就航したところから、長渡船ともいわれた。
行徳船を利用した人達には、松尾芭蕉、十返舎一九、小林一茶、渡辺崋山、大原幽学など歴史上、または文学史上に著名な人物も多く、特に文化、分政(1804〜30)の頃からは、行徳を訪れる文人墨客や、当時ますます盛んになってきた成田山参詣の講中(信者の仲間)たちによって、船着場は非常に賑わいを極めたのである。
今に残るこの常夜燈は文化9年(1812年)江戸日本橋西河岸と蔵屋敷の成田山講中が、航路の安全を祈願して新勝寺へ奉納したものである。
高さ約4.5メートル、現在の位置は堤防の構築のため、多少移動はしているが、かつて繁栄した時代の新河岸の面影をとどめる唯一のものである。
(下記地図6)

 

【常夜燈】市川市指定重要有形文化財(昭和35年10月7日指定)立て札より

【古い町並み】


【行徳駅前交差点】

【浅子神輿】
後藤神輿、中台神輿と行徳地域には
伝統の神輿製作所があります。

【後藤神輿】

【笹屋うどん跡看板】

立て札より

本行徳の笹屋は江戸時代にうどん
屋として繁盛した店でした。
船着場付近に位置していたため立ち
寄る旅人も多く、紀行文などにも記
されています。


【笹屋うどん外観】
笹屋のうどんは石橋山の合戦に破れた源頼朝が
安房に渡る途中に行徳に流れ着いたときに
食べたとも言われているが、実際、
行徳に流れ着くことはほぼありえないようです。
(あくまでも伝説の中の話のようです。)

【行徳街道田中邸】
二階堂医院の看板は建物とは関係ありません。
(念のため)


【2001.10.14
五ケ町祭の時の田中邸前】


【行徳街道本行徳付近芭蕉句碑】

【昔の船着場付近の旧江戸川】
左の煙突は王子製紙江戸川工場です。

【ついに行徳橋に到達】