永遠の旋律 (いき楓 さん)



いつものヒルダとの練習が一段落つく。それぞれ楽器や楽譜を片付けながら来週の練習日の打ち合わせをする。その時に、ヒルダは言い出しにくそうに切り出した。
「そのう、アルベルト。もう一日、練習日を増やすことはできるかしら?」
「増やす?」
「そうなの。もう一日、時間を空けてもらうことはできない?」
相手はまだギムナジウムに通う生徒だ。音楽大学への入学を予定しているとはいえ、本来自分がやるべきソロに加えて練習量を増やして学校の勉強の負担になってはいけないだろう。
「僕は構わないけど」
アルベルトは鞄に楽譜を詰め込みながら答えた。そんなに練習しなくちゃいけないほど自分たちのアンサンブルは上手く行っていないのだろうかと悩んだり、ヒルダと会える日が多くなるのを歓迎したり複雑な心境で。
「よかった!ありがとう、助かるわ」
ヒルダはアルベルトの手を取り素直に喜びを表現した。そういう真似がアルベルトには出来ない。手をはなしたヒルダは自分の鞄から楽譜を取り出す。
「はい、これなんだけど」
差し出された楽譜を見てアルベルトは目を丸くした。
「トリオ?」
「ええ、ブラームスのピアノトリオ1番」
トリオということはもう一人加わることになる。一体、どういうことで自分がヒルダと見知らぬチェリストと組むのだろう。
「室内楽でもやるの?」
「ええ。大学の音楽祭に出ることになってるんだけど、ピアニストの都合が悪くなっちゃって」
「え、大学の音楽祭」
アルベルトはびっくりした。
「だって僕は音大の学生じゃないよ」
そんなところに出てもいいのかと焦る。ヒルダはにこっとした。
「ここの教授に師事してるし、入学予定なんでしょう?大丈夫よ」
そんなお墨付きを貰ってもアルベルトは落ち着かない。それに、あまたいる学生を差し置いて自分が大学の音楽祭に出ていいものかどうか。
「そうと決まれば早速チェリストに会いましょう。ピアニストの参加を心待ちにしているのよ」
ヒルダは練習後にアルベルトとチェリストの顔合わせを予定していた。彼女との練習が始まって以来、通っている馴染みのカフェで待ち合わせているのだという。
「今度、二人でゆっくり会いましょう。今日の埋め合わせはするから」
練習後のいわばデートに第三者が加わることをアルベルトが不満に思っているだろうとヒルダは考えてなだめるように背伸びをして恋人の頬に掠めるようなキスを落とす。
アルベルトが不意打ちに面食らっている間にヒルダはさっさと廊下に出てドアを開け彼を招いていた。

「君が参加してくれるんだね。ありがとう」
引き合わされたチェリストは彼らが待ち合わせ場所に現れると立ち上がって迎えた。アルベルトは、その自分より大柄で逞しい青年を見上げて差し出された手を握り返す。
フランツ・ベッケルトと名乗るチェリストとヒルダは室内楽の授業で知り合ったらしい。フランツは容姿も整っているし男らしく落ち着きもありにこやかな笑みを絶やさず、同性のアルベルトから見ても好ましい青年だった。楽しそうに語り合うヒルダとフランツの姿に、もしかしたら自分よりフランツのほうがずっとヒルダに相応しいのではないかと思ってしまう。フランツと比べるといかにも自分は見た目も言うこともやることも子供っぽいような気がする。
ビールとワインの並ぶテーブルで相変わらずアルベルトはケーキを前に置かれて腐っていた。
そんなアルベルトの様子に気付いたフランツは苦笑まじりに言う。
「ビールでも飲むかい?」
「彼の明日の科目にはアルコールより糖分の補給の方が必要よ」
ヒルダがやんわりとアルコールを禁止した。ギムナジウムの生徒を二日酔いなどにさせたらアルベルトの両親に伴奏をさせるのを断られるだろう。ヒルダは大学に入るまではアルベルトにそれなりの気を使うつもりだった。子ども扱いをするとふくれられてもだ。
「ほんとに助かったよ。前のピアニストには自分の勉強が忙しくなってきたからって断られてね」
「留学するらしいわよ、彼。ここでだって十分勉強できると思うんだけど」
「で、ヒルダが伴奏をお願いしている君に頼んでみてくれるってことになって」
その割にはこっちが断ることなど考えていない様子で楽譜を渡したよな、とアルベルトは思っている。
「その音楽祭っていつなんです?」
「年明けよ」
「えっ!」
あと三ヶ月ほどだ。
「無理だ、二人で合わせるのだって何ヶ月もかかったのに」
「一人増えるし、人前で演奏するんだし?」
フランツはアルベルトの言葉を引き取った。アルベルトは黙って小さく頷く。
「あのねえ。やってみる前から出来ないなんて言わないの。不可能なことなんて世の中にそうないのよ」
「だって、やってみてから僕じゃ無理だったら時間の無駄でしょ。だから」
ヒルダではなくフランツに他を当たってみてくれと言ってみる。
「時間の無駄なんかじゃないわよ。私とあなたはもう気心知れたデュオじゃない。あなたの体調とか考えていることなんて、音を聴けばわかるわよ」
へえ、そうなの?とアルベルトは軽く目を瞠る。
「あら、私の考えていることは音でわからないの?」
「・・・怒っている時はわかるよ」
「どう思うフランツ!男の子ってどうしてこうなのかしら。いつも私が怒っているみたいじゃない」
「確かに怒っている時の音はすぐわかるよ、ヒルダ」
「まあいいわ。そしてフランツと私もずっと気心の知れたアンサンブルをやってきたのよ。だからあなたとフランツもすぐにお互いを理解できるはずだわ」
この中では最年少のピアニストが胸にちくっと小さな痛みを覚えているらしいのを微笑ましく横目で見ながらフランツは率直なヒルダの物言いにこの子も大変だなあとそっと思う。
「君たちの演奏は僕も知ってる。オーディション通過おめでとう。あのクロイツェルはすごかったよね」
「ありがとう。あれは会心の出来だったと思うわ。ほら、ケーキを残しちゃ駄目よアルベルト」
「アルベルトの独奏だって知ってるよ。一回、小ホールで練習してたことがあったろ。僕も観客の一人だったんだ」
「何それ。あら、私それ知らないわよ」
「オーディションを聴いて君が伴奏もすることを知って是非僕も伴奏して欲しいと思ったらまだうちの学生じゃなかったんだって?なんとかヒルダに口を利いてもらおうと思って頼んでたんだよ」
「本当はね、あなたの学校のさわりになるといけないと思ってたんだけど。このままじゃ私たちのトリオが立ち消えになっちゃうから」
大学にとっても今後の音楽界にとっても大きな損失よ、とヒルダはでかい口を叩いた。
「でも自信がないな。僕この曲知らないし」
ぱらぱらと楽譜を眺めているアルベルトに二人は顔を見合わせた。
「レコード貸そうか?」
「ええ、借りようかな」
「そうだ!来週の演奏会にちょうどこの曲があるのよ!聴きに行く?練習のあとになるけど」
この調子だと予習をしておかないととんだ恥をかくだろう。アルベルトは頷いて演奏会までに譜面をある程度頭に入れておこうと思った。

翌週、二人の練習後に二人はホールに立ち寄る。安い学生席に陣取って開演を待つ。アルベルトはフランツは来ないのかと、周囲を見回した。
「あの人は来ないの」
「そういえば見かけないわね。気になるの?」
「別に」
フランツがこの演奏会で彼らと同席しないのがちょっと嬉しいらしいアルベルトにヒルダは苦笑する。もちろんフランツが彼らに気を使っているのはわかりきっている。
「私たちが演奏する版を使うからよく聴いておいてね」
アルベルトが頷く。この曲は作曲者によって初稿と改訂の二つの版がある。今日の演奏と彼らは改訂版を使うのだ。ピアノの短い序奏に乗ってチェロの旋律が流れ出す。ヴァイオリンが加わって音量が増していく。
小編成にもかかわらず、三つの楽器の展開する深い音色と朗々たる響きに引き込まれる。三つの楽器で奏される歌のようだ。アルベルトは主にピアノ奏者の指の動きと二つの弦楽器奏者への注意の払い方に注目しながら家で譜読みしている旋律にそって時折指を動かす。
「聴きやすい曲でしょう。弾いてみると決してそうじゃないんだけどね」
「ロマン派の真骨頂みたいな曲だね」
「ブラームスが20歳頃に作曲した曲よ。何年もたってから本人が手を加えたんだけど、今の私たちとあまり変わらない歳よね」
それを言うとモーツァルトなんてずっと小さい頃から作曲をやってる、と思いながらアルベルトはヒルダを送りながら考えた。
「大器晩成って言葉もあるし。人の才能なんていつ開花するかわからないわね。そもそも才能があるのかどうか」
「少なくとも僕には作曲の才能はないよ」
ヒルダは私もよ、と肩をすくめた。楽器を習っても誰もがそれを物にできるわけではない。そう思うとまだ私にも望みがあるのかな、とヒルダは笑った。
「じゃあ、今日は遅いからこれで。合わせるのが楽しみね」
「おやすみ」
アルベルトはヒルダにキスして彼女がアパートに入っていくのを見つめた。

ピアノから出る第一楽章にほっと安堵する。
曲の出始めだから緊張はするが、他の楽器と同時に出たりするのは第一音を鳴らすだけで緊張する。弦楽器奏者の合図は見落とせないしこちらもサインを送らなくてはいけない。ピアノ奏者は前にいる弦楽器奏者の動きを見ることができるが二人の弦楽器奏者はずっと後ろを向いているわけにいかないから自分の意思を動作と気配で悟らせなくてはならない。
ということは自分がこの曲をよくわかっていないと駄目だということだ。
譜面的には音も外さないし、楽譜の指示通りに弾いてはいるが、まだまだ表現がしきれない。自分のものにしていない証拠だ。
弦二本の音の絡みは美しい。同族の楽器だから音色的に調和が取れるのは当然だがこの二本の体位的な旋律にピアノが入るとどうしても異質な気がする。手を止めてヴァイオリンとチェロの音色を聴いてみる。
ぞくぞくするような美しさだ。以前、ヒルダが言った「気の合ったアンサンブル」仲間というのは本当なのだろう。
そういうアルベルトは一人で旋律と伴奏をこなして弦二本の音に広がりを加えていることに気付いていない。
休憩でヒルダが席を外している間、残された男二人は会話もなく自分のパートをさらっていた。アルベルトはチェロの豊かな音に自分の練習をやめて聴き入る。元々、キンキンした高音楽器よりこういう低音楽器の方が好きだ。だから、ヴァイオリンもどちらかというと低音域の音に魅力を感じている。
「チェロが好きかい?」
フランツが笑いを含んだ目でアルベルトを振り返った。
「え。ええ」
「僕は、このトリオで組んでたピアニストに伴奏を頼んでたんだ。今は奴が忙しくなったんでコンビ解消さ」
「はあ」
「君にお願いしてもいいかな」
「そうですね、余裕があったら」
「そうだな。元々君はソロ向きなんだろうし。第一ヒルダが優先かな」
アルベルトがうっすら赤くなったのを横目にフランツはバッハを奏でる。
「・・・いい音ですね」
「ありがと。楽器ってのはね、女と同じだよ」
「はあ?」
「男次第で女は変わるだろ。それと同じだってこと。奏者次第でどんな鳴り方にもなる」
「・・・」
「弦楽器の形を見てごらん。女性の曲線に似てるだろ」
フランツはチェロを掲げて見せた。
「特にチェロなんて大きさといい構えといい、女性を抱いてるみたいだろ」
アルベルトの反応を見ながら楽器を構える。あっけにとられているアルベルトにフランツが呆れ気味だ。
「弾いてみる?ヒルダだと思ってさ」
どういう想像をしたのか真っ赤になったアルベルトにフランツは笑い出した。
「悪い悪い。てっきりこんな冗談を言っても平気なくらい大人になってると思ってたんだけどな」
クラウスやギュンターに免疫をつけられていると思っていたのだ。
「ヒルダさ、すごく綺麗になったんだぜ。誰のせいかと思ってたんだが、君なら許そうかな」
その時ヒルダが戻ってきた。くすくす笑っているフランツと鍵盤を睨んだまま顔も上げないアルベルトに首を傾げたが時間が惜しい。さっさと練習を再開する。
「ねえアルベルト!何を気の抜けた音出してるのよ」
ヒルダが楽器を下ろして叱り付けた。自分がからかったせいだとわかっているフランツは気の毒そうに、それでも笑顔のままだ。
「いいわ、ちょっと休んで聴いてなさいよ」
ヒルダとフランツは二人で弾き始めた。息の合った二人にアルベルトはさっきまでの動揺を忘れた。ぴったりとすいつくようなユニゾンの動き。重なり合った音は本来の音量より豊かに聞こえる。弦がオブリガートを担当し本来ピアノが旋律を奏でる場所でアルベルトは入った。弦の調和を乱さないように、しかし主張して。
ヒルダとフランツは目を合わせ、自分たちの呼吸に上手く合わせているアルベルトに軽く頷き続きを弾く。ちょっと彼らのアンサンブルがそれらしくなってきた瞬間だった。

ベッドに寝そべりながら楽譜をめくる。レコードはかけていない。頭の中の、自分たちの音だけを追う。
アルベルトはこの曲を、敬愛するシューマン夫妻とロベルトの死後未亡人のクララを慕うブラームスの姿を描いていると考えてみることにした。いささか三文小説風だが、これだけロマンティシズムあふれるメロディーだ。そういう物語を付随してみるのもいいだろう。二つの弦楽器がシューマン夫妻、ピアノがブラームス。
実際にはヒルダの恋人は自分だと信じているのだけれど、完璧な男に思えるフランツの出現で自分の知らないヒルダの世界を垣間見たような気がして少々へこみ気味だった。そういう心境で与えられたこの曲をお似合いに見えるヒルダとフランツと、彼らにちょっと戸惑っている自分に置き換える。こんな解釈をするのは邪道だとわかっているが、そうするとこの曲が不器用な自分の、好きな人々への、特にヒルダへの愛情を表現した曲に思えてくる。甘くも切なくも聴こえる。
そう解釈するのが今の自分には一番相応しいような気がした。
ブラームスは一生クララとは友人として振舞ったのだろうか。もしこれが自分がこういう立場だったら。クララがヒルダだったら。とても出来そうにもない、と楽譜を閉じて枕に顔を埋めた。
最近、自分のソロの練習よりよっぽどトリオの練習をしているような気がする。一人で世界を構築するのも楽しいが、誰かと一緒に音楽を作り上げるのがこんなに楽しいとは思わなかったのだ。多少気を揉むことがあったとしても。合わせる楽器が増えれば増えるほど難しいのだろうが室内楽もいいと思い始めている。
とにかく本番までの、期限がはっきりしているアンサンブルだ。それまで頑張ればいいとアルベルトは思った。

本番の舞台袖で、演奏会用の装いに身を包んでいるヒルダをまぶしそうに見つめているアルベルトが突っ立っている。開いた胸元と同じように露出度の高い背中が白い。フランツは燕尾服。時々無精ひげを蓄えていた彼は今日はさっぱりとしている。
「馬子にも衣装って言うんだ」
フランツを指してギュンターがアルベルトに囁く。今日はピアノ伴奏の譜めくり役をやってくれることになっている。
「聞こえてるぞ」
フランツが苦笑いしながらギュンターに注意した。そういうギュンターはおとなしいスーツ姿。アルベルトも通学に使っているスーツにネクタイだ。誰かの服を借りようかとの話もあったのだが、まだ大学生ではないしまあいいだろうということにしたのだ。
「ちょっとじっとして」
ヒルダがアルベルトのネクタイを直してやる。ついで髪も撫で付けてやった。
「これでいいわ。さあ、本番よ」
「じゃあ行こうか」
弦の二人が楽器を手にステージ脇に移動する。ギュンターがアルベルトの背中を軽く叩く。
「行って来い。ヒルダに見惚れるんじゃないぞ」
迷惑そうなアルベルトの顔を盗み見ながらヒルダはフランツに笑いかけた。
「大丈夫。彼本番に強いから」
「信頼してるんだね。あの子、君の大切な人なんだろ」
「ええ。とっても大切な。子ども扱いすると怒るわよ、彼」
ヒルダは微笑んだ。これからの演奏はきっといいものになるだろう。出来ればこれからもアルベルトには室内楽もやって欲しい。
ずっとアルベルトとアンサンブルをやりたいと思っているヒルダは、その日々があまり長く続かないことをまだ知らなかった。


いき楓さんのサイトDer vierte Platzのカウンターが77777に近い…との噂を某所で聞きつけ、隠れアルヒル(姉さん女房)ファンとしては密かに77777を狙っていました(笑)。もうそろそろかな?とウロウロしていたら、ラッキーなことに踏ませていただき、小躍りした私は取り急ぎ携帯カメラでトップページを撮影して、いき楓さんに証拠写真を突きつけた挙句、お話を書いて〜と無理におねだりしたのであります(実はカウンターが不調で?他にも踏んだ方がいらしたのです)。

にもかかわらず、快く書いて下さったいき楓さんには、本当に感謝いたします。お願いしたお題は「アルヒル+チェリストでブラームスのピアノトリオ第一番」でした。さすがクラシック好きないき楓さんだけあって、CDをお持ちだったのか?何度も何度も聴いて下さり、想像を膨らませて私の留守中に早々と書き上げて下さいました。しかも、私好みに…、ありがたい限りです。

ご本人の解説によりますと、ここでのアルベルトとヒルダはすでに恋人同士になっていますがまだまだ日が浅い…という設定になっているそうです。お話の最後にあります「その日々があまり長く続かない…」の後日談を知っているだけに、タイトルの「永遠の旋律」とブラームスのその曲とが見事にダブリ、切なく悲しくも美しく、感動を大きくしてくれます。ブラームスをBGMに、音読してみましょう(笑)。

いき楓さん、ありがとうございました。