涙の決意
同じ宿に逗留した仲間は、首を傾げていた。
そもそも、こうして陸に上がるときは、半数ほどの人間が船から下り、さらに、適当に分かれて宿に泊まる。陸によっては隠れ家もあるが、世界中に用意しているわけではないから、市井の宿に泊まることも皆無ではない。さらに追われたときに、一所に留まるのは危険が多いから、それぞれ別に逗留し、かつ、それぞれの居場所を知るようにしている。
今回、あるじと共に休んだ彼等は、ため息ばかりついているあるじを眺めては、めいめいに視線を送る。
「キャプテン」
ようやく意を決した一人が声をかけたが、呼ばれた方は気のない返事をしただけ。ゆるい沈黙が流れる。
自分でも、本当に驚いているのだが、少なからずショックだったらしい。面と向かって海賊になれないと言った。言われた直後は納得して、気障に振る舞って帰ってきたのだが、時間が経つほどに落ち込んでくる。
とどのつまりは、振られた、ということに衝撃をうけたらしい。
街の女がみな振り返るこのオレが。
誘えばほぼ成功するこのオレが。
海賊の総領であるこのオレが。
思えば思うほど虚しくなってくるもので、それで考えるのをやめることにした。
「今は海賊になれない……か」
「は?」
ようやく口を開いたと思えば意味の分からない独り言だった。そのあるじはこちらを一瞥してまたため息をつく。
「振られた」
消沈している理由をなんとなく察して、仲間はふっと吹き出す。
「おかしいか?」
「男前が振られたと聞きゃ、醜男は嬉しいもんでさ」
あるじは舌打ちをする。その姿をがははと笑い、カップを煽った。
「今が駄目ならいつがいいんで」
「なに?」
仲間の問いに眉をあげる。
「いや、変わった断り文句だなと。」
隣の仲間に目配せすると、彼も同じように頷いた。
「ですよね。のちのちならいいみたいじゃないすか。その言い方。」
晴天の霹靂よろしく、意表を突かれた。言われたときは『なれない』という言葉にだけ重きを置いていたが、思えば確かにおかしい断りである。
「馬鹿だ」
そう言って立ち上がり、あるじは外へ出て行った。残された仲間は肩をすくめる。
「振られてねえのか。つまらねえ。」
まだ崩れた天候のまま、夜は明けている。あれから風も強くなって、深層の姫がとても外に出られる環境ではなかった。それでも彼は、アイズと名乗った男は、アニエスと出会った場所へ来た。やはり人通りはなく、閑散としている。海は荒れ、鈍色の波が押し寄せている。油断していると彼でさえ波にのまれそうで、素人の娘がぼちぼち歩いていることなどまずない。
それでも待った。彼女と自分がここで会いたいと言ったから。
アニエスは窓から月を眺めていた。嵐が去って、今夜は晴れている。月はほぼ満月に移りつつあり、辺りは明るかった。しかしこの明るさもじきになくなる。西のそらに輝く月は、殆ど湖面にさしかかっていた。
じわりと影が陰に呑まれていく。その瞬間を、アニエスは椅子に腰掛けて待った。夜半、こんなふうに座っているとまた怒られるのだろう。夜更かしは美容の大敵だと。しかし外にも出られない、城の中をあるくことも制限され、心が健康でいられるはずがなかった。こうして座っているのも、せめてもの反抗だ。自分が綺麗でなくなれば、嫁ぐこともなくなるかも知れない。
また、街に戻って暮らせるかもしれない。
そう考えると涙が出そうになった。街に戻るなど、ここしばらく考えたこともなかった。もう諦めていたのに。きっと彼に会ったからだ。アニエスは項垂れる。いっそ会わなかったらよかった、そんな事も考えてしまう。
空は晴れたから、きっと彼はもう出航してしまった。もう二度と会えないだろう。自分は他国に嫁ぎ、檻の中の人生を送る。
何度目かのため息をついた。窓の外の風景はがらりと変わって暗くなっている。いつの間にか月の入りを過ぎていたらしい。
みゃあ、と、小さな声で猫が鳴いた。ベッドで眠っていた猫は、何を思ったのか起きあがり柱の方へ向かう。何時までも眠らないアニエスに、とうとうばあやが様子を見に来たのかも知れない。
「ばあや、もう眠るから」
影の方向に声をかける。暗い部屋で、白い猫だけが浮き上がって見える。その猫がふと持ち上がり消えた。はじめは柱の上に昇ったのだと思ったがそうではない。猫は抱かれながら、アニエスの傍までやってくる。
「……アイズ」
現れたのは、二度と会わないと、今し方思ったばかりの相手だった。再度城に忍んできたというのに、相変わらず人を食ったような笑みを浮かべている。猫は心得たように彼の肩に昇った。
「来てくれないから、またここに来てしまった。」
非難の言葉も優しかった。座ったままのアニエスの前で、肩にのる猫に気を使いながら、男は笑ってそれだけ言って、ずっと立っている。アニエスの行動を待っているようだ。
「もう会えないと思っていた。」
「オレはそう思わなかった。会いたかった。」
「……私も会いたかった。」
あの日、図書室に居たことが皆に分かってしまい、外にも出してもらえなくなっていた。軟禁状態の中で、何度、外に出てアイズと会う夢を見ただろう。
「海賊になりたい?」
声が掠れているのは、きっと部屋の外にいる人間に聞こえないようにするためなのだろう。小さな声は聞き取りにくいが、聞き直す訳にもいかない。お互い、全てを拾うように、耳をそばだてた。
アニエスは頷く。
「なりたいの」
小さな頃から、ずっと海に憧れていた。王宮に来る前、基本の生活は母親と二人だったが、周りの人にも支えられ、楽しい毎日だった。アニエスは将来、自分は船乗りになるのだと信じていた。数は少ないが皆無ではない。女の漁師だっている。アニエスは自分の船に乗り、朝港を出て、漁をする、そんな想像を糧に毎日暮らしていた。
だが突然、王宮から使いが現れ、アニエスだけが連れて行かれた。長い名前を与えられて、呼ばれ慣れた名前を聞くこともなくなり、会ったこともない人たちが兄弟なのだと言われた。豪奢な服もきらびやかな髪飾りも、何もかもがアニエスにとっては枷でしかなく、侍女から羨望の眼差しを受けるのも辛かった。こんな生活が楽しいなど思ったことはない。代われるものなら喜んで代わってあげたい。
ばあやだけが味方で、彼女の計らいで時々街に出ることができた。降りて一番に帰った実家には誰も居なかった。母親は他国に追放されたらしい。それでようやく、自分の道がもう最後まで決められたのだと、何もかも諦めた。
「オレがアニエスを攫えば、アニエスは海賊になれる。」
アイズの言葉にアニエスは首を振る。髪が揺れ、頬を撫でた。光もささないこの部屋で、亜麻色の髪は精彩を欠いている。
「だめ」
自分が居なくなれば、この国は滅びる。父親に泣いて懇願され、アニエスは他国へ嫁ぐことを了承した。
項垂れたままのアニエスに、影が落ちる。見上げるとアイズは、アニエスのかけている椅子の肘掛けを両手で掴んでいた。覆い被さるようにアニエスに対峙している。彼の肩の猫は、同じようにアニエスを見つめていた。
「自分の父親と同じくらいの歳のじじいに輿入れなんて、狂気の沙汰だ。」
耳元で囁かれて、アニエスは一瞬たじろいだ。体を緊張させて目を閉じる。
「しかも8番目の側室だと。正妃を入れれば13番目。末娘で妾腹とはいえ、一国の姫が安く売られるもんだな。」
アニエスは首を振る。それ以上言うな、という意思表示なのだが、アイズは知りながらも続けた。
「ロリコンじじいの玩具にされた挙げ句に介護でもさせる気だろう? アニエス、あんたはこんな茶番の婚姻を受け入れる安っぽい人間なのか?」
アニエスは顔を覆う。人形のように首を振り続け、アイズの言葉を否定し続けた。
「私が行かないと、この国の皆が死んでしまうの。」
輿入れには莫大な結納金がつくという。文字通り売られるのだ。アニエスは自分の運命を嘆いたが、王に泣かれて、どうしようもなかった。街にはもう母親はいないが、世話をやいてくれた人たちがいる。彼等を見捨てることはできなかった。
「私が嫁いだら、お金がもらえるの。そのお金で、国民が生きていくことができるって……」
父親に言い含められた。一国の王が、大人の男が泣いて娘に頼むと頭をさげたのだ。自分の父親だと思うと、無視することなどできなかった。
「……馬鹿だな」
アイズはアニエスの耳に、言葉をこぼす。突き放したような言葉だが、感情が込められていた。
「結納金ごときはした金で、本当に国民全員が潤うと思ったのか?」
アニエスは、顔を覆ったまま動かない。
「最悪国が滅んでも民は生きていける。むしろ、何もしない国は民に滅ぼされる。平民は馬鹿じゃない。自分を虐げる国に従う義理など何もないからな。」
それよりと、アイズは言葉を続ける。
「結納金を使うのはこの王族だけだ。租税がうまくいかないから、他国からもらおうって話だろ。自分の娘を差し出したくないから、認知していなかった妾腹から適当に、綺麗所を選んだだけだ。アニエス、それがあんただ。」
涙など流せる。タダだから。いくらだって流すだろう。それで遊ぶ金が入るなら、いくらだって泣く。
アイズはアニエスを待ちながら、市井で噂を集めていた。王国の事情も、アニエスの秘密も、それは至る所にまがい物と一緒にちりばめられていたが、彼にとってそれを集積し真実だけをつみ取る作業は造作もない。
「……」
「え」
掠れた声は聞き取れなかった。アイズがアニエスの口元に耳を寄せると、小さな嗚咽と共に、震える声がする。
「そう、……やっぱりそう」
アイズが黙ると、アニエスはぽつぽつと話し始めた。
「おかしいと思っていたの。いくらなんでも一国を潤すほど、お金がもらえるわけがないって。でも、お父様はこれで安心、安心だ、ありがとう、……ありがとうって言うの。街に降りても、誰も、何も言わないの。私が嫁ぐことは知っているのに、だれも嬉しそうじゃないの。……文句ばかり。おかしいの。おかしいと思って、侍女に話を聞いても、何も教えてくれない。……知りたくて、本を読もうとしたら、怒られるの。……おかしい。おかしいの。」
「アニエス」
アイズはアニエスの頭を引き寄せた。アニエスは抵抗せず、アイズの胸に縋って泣く。
「私はやっぱり、お父様にとって駒でしかなかったの?」
アイズの腕を、力一杯握り、アニエスは顔をあげた。涙で濡れた頬に亜麻色の髪が付いている。それにかまいもせず、アニエスは青い瞳を開き、逼迫した形相を向けている。
「アイズのお父様もそうなの? 皆は? お父様は、子供のことを愛してくれないの?」
「アニ……」
「泣いたのも嘘なの? ……父様は、私の幸せとか、やりたいこととか、どうでもいいの? ……父様は」
聞きたくない。アイズは無理矢理アニエスの口を塞ぐ。
この慟哭を聞かせてやりたいと思った。
アニエスは、金のために愛のない結婚を嘆いている訳でもなく、自分の自由がなくなることを嘆いているのでもない。
父親の愛情がないことだけを、こんなにも悲しんでいる。
胸の中で、アニエスの嗚咽は少しずつ小さくなっていった。
「落ち着いた?」
アニエスは頷く。腕の束縛をゆるめると、まだ泣いてはいたが、言うとおり息をついていた。
「アニエス」
泣きはらした顔を、ゆっくり呼ばれた方へ向ける。アイズは、ごく傍にいた。
「もう一度言う。オレに攫われないか?」
海賊になれと言っている訳ではない。しかしこの利己的な結婚から逃がすことはできる。
ぼんやりした顔のまま、アニエスはしばらく考えているようだが、やがてゆっくりかぶりをふった。
「ここに居ても、どうにもならない。オレと来い」
一瞬、その言葉に反応したように、アニエスの瞳が輝いた。生気の戻った瞳を覗き込む。
「アニエス」
「だめ」
アイズは顔を蹙める。
「何に義理立てする気なんだ? あんたの…」
父親は、と続けようとして、止める。今先ほどそれで彼女が泣いていたのに、余りにも無神経だと思ったからだ、が、アニエスに通じたようで、アイズに向けて自嘲的な笑みをこぼす。
「お父様は、もういい。……もういいの。」
本当は、もう気が付いていたから、と無理に笑うのが痛々しい。ならばアイズにはさらに分からなかった。だったら何故来ない、という問いに、アニエスはじっとアイズを見据える。
「だって、そういう略奪はアイズに似合わないもの。」
アイズは瞠目した。
「あなたは、こんなことはしない。でしょう?」
言葉を返せない。そんなふうに、くぎをさされるとは思わなかった。
清廉に生きてきた訳ではない。しかし、確かに、自分の信念を貫いて生きてきた。父親のように、正義だけを追う日に、見返りを求めずに突き進む生き方に矛盾を限界をやるせなさを感じ、くさった時期もあったが、逸れずに今まで来た。
そしてそれを曲げてもいいと思える女に出会った。
それなのに。
その女が、自分の生き様を理解してくれているとは。
出会って間もない彼女が。
「それに私、海賊になりたいの。」
漁師でもいいんだけど、といいながら、ようやくアニエスは穏やかに笑った。
「あなたに攫われるのじゃ、だめなの。自分から仲間になりたいの。」
アニエスは、背に回されたままのアイズの腕に自分の腕を添える。
「アイズ。私にその機会と資格を頂戴。」
「アニエスには驚かされてばかりだ」
素直に思ったまままを告げると、アニエスは小さく笑んだ。
「それは私が深層のお嬢様だと思っていたからじゃないの? 私は本当はおてんばなのよ。」
「それはそうだ」
「……今のは否定するところなのに」
それから闇のなかで、二人は寄り添いながら、ひそひそと話を続ける。アイズの背中の猫だけがそれを聞いていたが、異論は無いようだった。
「大胆だな。それに危険。」
「この先、海賊になるのなら、このくらいの危険はつきものでしょう?」
アイズは苦笑して頷く。
「じゃあ、あの場所で」
「待っていて」
「ああ」
しばらく二人は見つめ合っていた。何もかも捨て、新しい道に進むことを決心したアニエス。アイズは彼女の海に似た青い瞳を見つめた。漠然と見える未来、きっと彼女は、一生自分の隣に居てくれるのではないか。そんな想いが込められて注がれる視線を受けきれず、アニエスは視線を降ろす。赤くなった彼女の耳にアイズが口を寄せる。
「いいよ」
アニエスが顔を上げると、アイズは笑っていた。
「どうして何も言っていないのに分かるの」
「何も言わないから、かな?」
アイズとアニエスは頬を寄せ合い、口付けを交わす。
「名前……」
「仲間になったら教える。知りたいのなら、必ず生きてオレの元に来るんだ。」
国中が喪に服している。先日婚約の済んだ王の娘が、庭を散策中に崖から転落して海に落ちた。遺体はあがらず、王女の着ていたドレスが打ち上げられた。末の王女は魔物に食べられたのだろうという結論になり、葬儀が行われた。簡素な葬儀に、民は侮蔑の言葉を投げかける。自分たちが楽をするためにわざわざ市井の娘を生け贄に差し出す直前、娘が死んだ。娘には悪いが罰があたったのだ。いや、娘が嘆いて自ら死を選んだのだ。街では様々な噂が飛び交ったが、城壁の向こうにそれが届いたかどうかは定かではない。
そんな噂を聞きながら、男は港の、桟橋の先に立っている。凪に近い海を見ながら、誰かを待っているようだった。
「誰を待っているの?」
後方から問われ、男は振り返る。待っていた声を聞き、答を告げようとして、絶句した。
「……あ」
指さした先に、亜麻色の髪の人物が立っていた。
「ほわんほわんが!」
「何よ、それは」
立っていたのはアニエスだ。街の、漁師見習いの少年と同じような格好をしている。着慣れているように見えるのは、もともとそんな生活をしていたからで、さらに違和感がないのは、その髪が短くなっていることにもあろう。背中の中程まであった髪をさっくりと切ってしまっている。
「この方が楽でいいのよ」
「勿体ない。ほわんほわん、好きだったのに。また伸びるだろうけど。」
「……これは駄目?」
海賊なら、あの髪は邪魔だとおもったんだけど、と、ごにょごにょ口を濁し始めたアニエスに、男はようやく微笑んだ。それを認め、アニエスも笑う。
「形から入るタチなのか」
「そうかも。楽しくて仕方がない。」
アニエスの笑顔を、まるでまぶしいものを見るように、男は目を細める。その手を引いて、自分の腕に抱きしめる。
「ミィは?」
「ばあやが、……隠居して、一緒に連れて帰ってくれるって……」
腕に抱かれ、とたんに挙動がおかしくなる、そんなアニエスの頬をとって上を向かせる。やや強引に口付けると、若干の抵抗があったが、男にとってはどうってことない。
「……し、衆道だって、思われる」
「別に、オレは全然構わない、それに」
嫌がるアニエスに、ほおずりまでして、男は嬉しそうに笑った。
「アニエスはハゲにしても可愛い女の子にしか見えない」
そんなことはない、という言葉も飲み込んで、嬉々として唇を寄せてくる彼に、アニエスはあくまで抵抗し続けた。
「みんな見てる」
「だから?」
にやついた相手に、アニエスもとうとう諦めた。肩を抱かれて促される。
「行こう。皆に紹介する。」
「船に乗るの?」
「ああ。皆待っているからな。」
肩を組んだまま、きらきらと目を輝かせ、アニエスは隣の男を見上げた。
「教えて、名前」
褐色の髪を風に靡かせている、自分の未来の扉を開けてくれた彼に、アニエスはずっと知りたかった問いを投げかけた。
「アイ」
真っ青な海と空を背に、男は太い笑みを浮かべ歩む。
「シャークアイだ」
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