行徳三十三ヶ所霊場巡り。神社巡り
令和5年4月2日
1番札所 徳願寺
徳願寺はもと普光院と呼んだ草庵で、浄土宗勝願寺の末寺でありました。
慶長15年(1610)徳川家康の帰依により、新たに堂宇が建立され、徳川の徳と勝願寺の願いをとって、
本尊の阿弥陀如来像は、源頼朝の室政子が、仏師運慶に命じて造られたものといわれ、徳川家康が二代将軍
本堂は安政三年(1856)火災により焼失、大正5年に再建されましたが、山門と鐘楼は共に安永4年の建築で本寺最古の建造物であります。
山門に安置する二王像等の彫刻物は、明治維新の際に葛飾八幡宮の別当寺であった法漸寺から移されたものであります。
山門の両脇に聖観音、阿弥陀如来、朱塗りの閻魔大王、恵比寿さまの像が並んでいます。
鐘楼にある鐘は二階にあり、一階で綱を引いて滑車によって鐘を搗きます。
他に境内には輪堂式経蔵や身代観音堂があり、本堂には湛慶作と伝える閻魔大王像が安置されています。
また、本寺には文化4年(1807)江戸深川の永代橋墜落による溺死者の供養塔や、宮本武蔵供養のため
薬師寺住職 高田好胤 書 萬民豊楽 天下安穏
明治4年(1871)印旛県庁が一時本寺に置かれたことがあり、さらに明治6年(1873)には行徳小学校が
3番札所 長松寺
長松寺は、臨済宗大徳寺派に属し、開基は小田原北条家家臣松原淡路守重之であり、天文年間(1532~1555)に渓山和尚により開山されました。
当時この辺りは塩場(しょば=塩田)であり、山号(塩場山)はこれに由来します。本尊は薬師如来であり、塩焼きの労働者たちの信仰を集めていたといわれます。
毎年八月に、大施餓鬼会が厳修されます。境内は緑豊かで、四季折々の草木を楽しめます。
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4番札所 自性院
自性院は、天正16年(1588)、法仙法師により開基された真言宗豊山派で、本尊は大日如来です。
行徳の総鎮守であった神明(豊受)神社の別当寺でした。
勝海舟がよき友熊谷伊助を偲んだ歌碑です。伊助は岩手県千厩の商家日野家の出身で、横浜開港を支えた貿易商の一人です。
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5番札所 大徳寺
大徳寺は、元和元年(1615)光誉上人快山直至和尚により建立された、東京芝の増上寺の直末です。
享保元年、増上寺第36世の祐天上人行脚の際に、命により鐘桜堂が建立され、近隣町村の時の鐘として信仰の的となりましたが、火災により寺宝,鐘、共に現在はありません。
水子地蔵尊、愛玩動物の墓石が建立され、毎月供養が行われています。
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7番札所 正源寺
文安元年(1444)の草創で正源上人の開基です。
本尊阿弥陀如来は行基菩薩の直作です。
正源上人逝いて百五拾有余年を経て、慶長年中に家康公入国の時、芝領の学僧源長上人がこの地を施化して、聖中山松寿院正源寺と号した寺で、開基以来本年は五百七拾九年となります。
鎮守開運弁財天女は智証大師感夢によって彫刻された一刀三札の直作であり、正源上人が当山の鎮護に祭ったと今に伝わるものですが、鎮守して以来御開帳した記録が残っていません。
御開帳するときは盲目になると言い伝えられ盲目弁天とも言われております。
このおまつりの日の二十三日におせがき会が行われております。
この寺には狩野派の作者の筆になる天井画や額があります。
8番札所 真言宗 豊山派 不動山 養福院
度重なる水害や放水路開削のため移転され、仏像や古い資料は流失してしまいました。
真言宗のご本尊は不門総徳の大日如来ですが、当山は不動山養福院と号しご本尊は不動明王です。
天文19年(1550)に建立。開基は重海法印。かっては東京江戸川区善養寺の末寺でした。
近世資料によれば、当寺のご本尊は阿弥陀如来になっていますが現在お本尊は不動明王です。
いつの時代に阿弥陀如来から不動明王に変わったのかは不詳のままです。
なお、堂内には阿弥陀如来も現存し安置しています。
通称 お不動さん
葛飾大師八十八カ所霊場、第八十七番札所。
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9・10番札所 雙輪寺 (稲荷木)
雙輪寺は、1431年の創建で龍厳寺と福王寺を合併したお寺です。
高潮や津波に悩まされた行徳は、大正3年から7年かけて160町歩(48万坪)の田畑を開削して放水路を作りました。
分断された行徳地区の北側に残ったお寺がこの雙輪寺です。
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11番札所 了極寺 (高谷)
了極寺は市川市高谷にある浄土宗の寺院です。山号は海中山です。
船橋の浄土宗・浄勝寺の末寺で1275年の創建とされ、海辺に建った古刹なので津波の度に仏像古文書を流出したと言います。 市川市の記録では開基は不詳ながら元禄4年(1691)の開基とされています。
仏具には葵の紋がついていますが徳川家との繋がりは不明です。
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12番札所 安養寺 (高谷)
安養寺は市川市高谷にある真言宗豊山派寺院です。海岸山高谷院と号します。創建は天文3年(1534)です。
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14番札所 法善寺 (しょばでら)
法善寺は、慶弔五年(1600)、大阪から来て塩焼を教えたという河本弥左衛門が出家し、宗玄和尚と名乗り創建した寺です。
当寺は行徳の製塩に深い関係があったことから、塩場寺(しょばでら)と呼ばれています。
本堂前の松の樹下を塩塚といい、そこに行徳の俳人たちが松尾芭蕉の百回忌を記念し、句碑を建立しました。
「うたがふな潮の華も浦の春」
境内の庭には四万十川の巨石と、豊臣秀吉が京都聚楽第に集めたものと同じ石が配された、四季折々の花木が彩を添えています。
本久寺
元亀三年(1572)日蓮宗中山法華経寺第十三世瑞雲院日暁上人の弟子、本乗院日能上人による御開創です。
詳しい由来などは、大正六年の大津波等により貴重な寺史の資料が失われてしまいました。
現在の本堂客殿は平成七年、日蓮宗立教開宗七百五十年慶讃報恩事業として改修建立されたものです。
当山で安置している祖師像は、今でこそ改修されてきれいになっていますが、これは、日蓮宗総本山身延山久遠寺第十一世行学院日朝上人の御自作です。
この日蓮聖人像は眼病守護の日蓮大菩薩として古くから当寺に言い伝えられております。
本堂内には日蓮聖人のご偉徳を偲んで、ご誕生からご入滅までの一代記を欄間にして掲げております。
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15番札所 浄閑寺 (本行徳)
当山は東京芝の浄土宗大本山増上寺の末寺です。現在、寺領地になっている土地には、元亀(1570~1573)年中より当地の武士某の信仰する観音堂があり、その添地であったところに、寛永三寅年(1626)、西蓮社鎮誉一公上人が開基されました。爾来、今日に至るまでには、火災・津波等災害に会うこと両三度の記録があり、大いに荒廃した時期もありましたが、よく檀信徒の協力により復興し、昭和63年には本堂をそれまでの木造から鉄筋コンクリート造りへと改築し現在に至っています。
門前に、「六地蔵」と、「南無阿弥陀仏」及び六面にそれぞれ「天道」「人道」『修羅』「畜生」「餓鬼」「地獄」が彫られた「六面塔」があります。これは、衆生が業によって生死を繰り返す六つの世界、すなわちすべての世界の諸精霊を供養し仏の加護を願うものであります。
また、行徳ではめずらしい寺領地としての参道があり、行徳街道より本堂向拝まで一筋の敷石でつなげられています。
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16・17番札所 教信寺 (本行徳)
開創は室町時代の元亀元年(1570)、圓蓮社寂誉順公上人によって開山されました。本尊は阿弥陀如来。宗祖は法然上人(1133~1212)です。
度重なる津波・震災の受難を経て、昭和20年1月の大空襲にて「信楽寺(しんぎょうじ)」の本堂・庫裡等諸堂宇すべてが壊滅し、昭和28年8月「教善寺」と合併し一字ずつとって「教信寺」と命名。多くの人々に慈悲と和の心を養って今日に至っています。
寺名のいわれは「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(自らを信じ人をして信ぜしむること、難が中に転た更に難し、大悲を伝えて普く化すれば、真成に仏恩を報ずるなり)という善導大師「往生礼讃」の文から名付けられたものであります。 〔 本堂と馬頭観音 〕
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18・19番札所 徳蔵寺 (関ヶ島)
天正三年(1575)に建立された真言宗の寺院。毎月二十八日には不動堂で護摩が行われ、八月二十八日には縁日が開かれました。
当山には享保十六年(1731)の弘法大師、興教大師像をはじめ密教独特の仏像・仏画・曼荼羅、また、中世根来版などの密教聖教、鉄眼版一切経等を所蔵しますが、度重なる津波等により歴史的資料は乏しいです。
境内の宝篋印塔(安永3年・1774)には関ヶ島の別称「六軒」が刻まれている。また、「関ヶ島村十九夜講」で使われていた鉦(天明元年・1781)が保管されており、この十九夜講との関わりか女性の供養のために建てられた如意輪観音の石仏が多くあります。
昭和31年(1956)には、関が島の宝性寺を合併。同寺から移された境内の常夜灯(天保二年・1831)および本堂安置の不動明王厨子(天保六年・1835)には、かつて行徳街道にあった旅籠十二軒の内の一つ「淡雪楼」の名が見えます。なお、常夜灯には安政の大地震の様子が記されています。
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13・20番札所 清岸寺 (伊勢宿)
清岸寺は慶弔15年(1610)行誉忠残上人によって開山されました。
往昔の当寺院境内地は荒蕪不毛の地で、妖怪化生の出る様なところでありました。
同市内源心寺二世の行誉忠残上人はこれを憂え、弟子である浄土宗総本山知恩院住職然誉了鑑上人に諮り、知恩院末の念仏道場一宇として建立したと伝えられています。
第23世諦誉恭裕上人は太平洋戦争後の荒廃した世相にあって出世に霊験あらたかな「出世不動尊」を開眼しました。
海辺の行徳らしく、ここには魚藍観音があります。
清岸寺は13番札所 法泉寺(1570開創)を兼務しています。
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21番札所 光林寺 (押切)
光林寺は、中世末期の天文年間(1532~1554)の創建と伝えられていますが、江戸期の寛政三年(1791)八月六日の大津波や、大正三年の大津波などたびたび被害にあい、過去帳並びに古文書類が流失し、詳細な沿革は不明です。
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22番札所 法伝寺 (湊)
法伝寺は、天文二十二年(1553)観竜上人によって創建された浄土宗大本山増上寺の末寺です。
平成14年(2002)に建立された本堂正面には、大本山増上寺第八十七世成田有恒台下による山号額、観音堂正面には大本山清浄華院第八十世大田秀三台下による扁額が掲げられています。
境内には、明徳尋常小学校記念碑や閻魔大王、奪衣婆の石像などがあります
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23番札所 円明院 (湊)
永禄三年(1560)真言僧侶覚巌和尚によって創建されたと伝えられております。
再度の火災や津波被害などにより、境内のほとんどの建物が失われましたが、山門と半鐘のみ現存しております。
山門は元文三年(1738)に再建されましたが、平成四年に大改修修繕工事のため解体修理を行いました。行徳地区において年代の明確な建造物では最古のものであります。
半鐘は天命八年(1788)に宥海和尚により造られたもので、当時の地名「下総國本湊村」、當山の名称「水奏密山 園明教院」と銘記されております。
現在の本堂は、昭和五十六年に再建されました。
山門左手にある弁財天は年代作者は不明ですが、古い江戸地図には「葛飾三弁天・本湊村 弁財天」と記されております。
本堂手前左手にある行徳子育て地蔵尊は、當山十八世、現在の住職が子供たちの無病息災、交通安全などを祈願し、昭和五十二年(1977)に建立したものです。
山門右手にある六地蔵尊は、當山の筆頭総代矢島伝一氏が平成十一年(1999)に建立されたものです。
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24番札所 善照寺 (湊)
寛永二年(1625)覚誉潮髄上人によって開かれました。地元名士である青山四郎兵衛正貞が父の菩提を弔うために資金を提供して建立しました。
東京芝増上寺の末寺であり、寺号「善照寺」は増上寺第十四世桑誉了的大僧正より、山号は青山家の姓にちなんで「青暘山」を増上寺第二十三世遵誉貴屋大僧正より賜りました。
本堂内に札所が始められた元禄三年(1690)当時の千手観音像が安置されています。
境内入口に配置された五智如来は、善照寺の大檀那である青山氏が、先祖代々諸霊の供養のために万治元年(1658)に建立したものです。
本堂正面の山号額は「葛飾記」の編纂者である青山文豹によるものであります。
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25番札所 源心寺 (香取)
源心寺開山は、徳川家康の帰依を得た浄土宗芝増上寺の中興観智国師です。国師の父は北条氏照之家臣として、八王子城で戦死した由木左衛門尉利重です。
当時、同じ八王子城で戦死した狩野一庵の子、新右衛門(浄天)は、行徳に来住し観智国師の教化に服して私財を喜捨し、慶長十六年(1611)に堂宇が建立されました。
右衛門は荒れ地の開発を行い田畑を開墾し、村人に耕作を勧めましたが、このころ当代島の開発にあたっていた田中内匠と協力し、鎌ヶ谷の囃水を水源にして南西に流れる大柏川から水路をとり、八幡の東部から行徳、南行徳を経て浦安に流れる大灌漑用水路の開削にあたりました。
この水路は内匠堀(たくみぼり)、または浄天堀(じょうてんぼり)と言われ、市川から浦安にかけての新田開発に、なくてはならぬたいせつな用水路となったのです。
現在の本堂は、平成十二年(2000)に再建されたものです。
境内にある不動尊は、霊験あらたかなるイボ取り不動として、往古より近郷近在に知られています。
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26番札所 了善寺 (相之川)
応仁二年(1468)、吉田佐太郎(慈縁)が、浄土真宗宗祖の親鸞聖人より八代目の蓮如上人に帰依し建立しました。
佐太郎より八代前の吉田源五左衛門が、下総の鎌田に住す頃、関東常陸から京都に帰る親鸞聖人がしばらく滞在されました。
その後、聖人が帰洛を思い立ち、名残を惜しむ源五左衛門等に自らの影像を刻みお残しになったといわれています。
(その御影は現在香川県の善通寺観音堂に御安置されています)
山門を通り正面の御堂に親鸞聖人御逗留の際、袈裟を掛けられたという「袈裟掛けの松」があります。
毎年十一月七日に親鸞聖人も遺徳をしのび「報恩講」が勤修されています。
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27番札所 新井寺 (新井)
当山は、元和二年(1616)能山鷹芸大和尚が開創された行徳・浦安地区唯一の曹洞宗寺院です。
ご本山は、大本山永平寺(福井県)・大本山総持寺(神奈川県)です。
釈迦牟尼仏をご本尊とし、「南無釈迦牟尼仏」とお唱えします。ご本尊は、宝成寺(船橋市)で、宝成寺の第二世の
境内には、火の用心・火防の守護神「秋葉三尺坊大権現」をおまつりしたご真殿があり、「秋葉山」の関東の本山に
毎年十一月十八日には、火防祈願の大祭(秋葉の火祭り)が行われ、近隣の秋葉信仰の講社や檀信徒や篤信者
津波などの災害に見舞われることが多かったこの地域の人々を救うために、新井寺の四世慈潭珠悦大和尚が、元
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28番札所 延命寺 (新井)
延命寺は慶長元年(1596)に建立されました。正式には真言宗豊山派宝珠山地蔵院延命寺と言います。東京の小岩の「善養寺の末寺と言われています。
本尊は、金剛界大日如来で現在の本尊は、昭和五十六年(1981)に建立されたものであります。
「ねね塚」と呼ばれる地蔵があります。下総生実の藩主森川半弥の家臣、久三郎とネネが駆け落ちし、女人禁制の江戸川を渡ろうとしましたが、幕吏に捕らえられ見せしめのため男女両人と船頭二人とその女房の五人が、江戸の今井
これを憐れんだ当時の村人たちは、後世に弔うため、現在の新井水門付近に石地蔵を建立して弔いました。
この石地蔵は「首切り地蔵」と呼ばれ、寛政七年(1793)当時の住職が同場所に石地蔵を再建立しましたが、その後も頭部が落ち延命寺に移されました。
現在の「首切り地蔵」は、昭和に再建立されたものです。
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29番札所 善福寺 (当代島)
善福寺は、新義真言宗に属する寺で、明暦三年(1656)に興教大師の法孫栄祐が開基したといわれ、本尊は阿
山号は東海山で境内には昭和初期の海難事故者を祀る六地蔵や、内匠掘りで有名な田
善福寺所蔵の宝篋印塔は文化財に指定されています。
行徳・善福寺の宝篋印塔(ほうきょういんとう)
宝篋印塔とは、主に中世以降に建てられた石塔の一形式で、「宝篋印陀羅尼」の経文を内部に納めた印塔です。
この宝篋印塔は、善福寺が創建された明暦二年(1656)からちょうど百年目にあたる宝暦六年(1756)に建てられました。この塔には、近くに住む人の名前だけでなく、塔を作った石工や塔の建立に尽力した人物の名前が刻まれています。
平成元年(1989)、塔の内部から「宝篋印陀羅尼」が刻まれた銅板のほか、宝暦五年の「宝篋塔多宝塔建立勧化帳」、「寄付金帳」などの古文書類、和紙に包まれた三本の歯などが発見されました。
それらによると、この塔を供養、礼拝すれば長い間積もった罪科が消滅するなどの建立趣旨や、近隣の村人たちがお金を出し合って、この塔を建てたということが分かります。
行徳・押切 あかね塚
徳川家康の命により、行徳・押切辺りでは製塩が行われ村は栄えていた。押切の船着き場には製塩に使う燃料の薪が上総から定期的に運ばれていた。これらの船の船頭や人夫の中には停泊中に、江戸吉原まで遊びに行く者もおり、そのうちの船頭の一人が「かね」という遊女と親しくなり、夫婦約束をするまでになった。
「かね」は年季(吉原では遊女の年期は10年、27歳まで)が明けるとすぐに押切に来て、上総から荷を運んでくる船頭に会える日を楽しみに待った。
しかし、船頭はいつになっても現れず、「かね」は貯えも使い果たしてこの地で亡くなった。これを聞いた吉原の遊女たち百余人が「かね」の純情にうたれ、わずかばかりのお金を出し合って供養のための碑を建てた。
村人たちもこの薄幸な「かね」なために、花や線香を供えて供養した。
この語り伝えられ供養してきた先祖の人達の心を後世に残そうと、地元有志によって「行徳おかね塚の由来」を書いた碑が押切の「権現道」のわきに建てられている。
(この碑の建立場所までは、我が家から200mほどしか離れていない)
行徳・内匠十兵衛の墓
田中十兵衛は、天正・文禄(1573~1595)頃に生まれた人で、俗に内匠十兵衛と言われ、江戸小岩村から当代島村に移住し、同村の開墾主と言われました。
十兵衛は常に公益を第一に善行に富んだ人で、村人の信望が厚く特に土木技術に優れていたと伝えられています。
昔、当代島村から八幡村(現市川市)にかけては、土地が低いためにたびたび水害が起き、稲の生育には適さない場所でした。このような状況を解決するために、十兵衛は元和六年(1620)に欠真間村源心寺(現市川市)の大檀那狩野浄天(新右衛門)とともに、幕府の許可を得て、高所の囃子水(現鎌ヶ谷市)から真間川を経て、低地の当代島まで、灌漑と排水を備えた水路を開削しました。
この水路は、開削した内匠十兵衛、浄天の名をとって「内匠堀」「浄天堀」と呼ぶようになりました。
墓碑は、十兵衛の死後不明でしたが、後年村人によって発見され、その功績を後世に伝えるため、善福寺に建立されたといわれています。
私がこの地に来た60年前には、内匠堀のおかげで上流より水が運ばれ、広大なレンコン畑などの農業が営まれていました。この内匠堀は地域の区画整理などの開発によって、現在では行徳・浦安バイパスに姿を変えています。
行徳・日枝神社
当神社は相之川の里の鎮守として、万治二年(1659)創建と伝えられています。
社中に宝暦七年(1757)再建の記録があります。
明治六年村社に列せられ、明治十六年に改築されました。
御祭神大山咋神は大国主神 大年神 と共に須佐之男神子孫にあたる神で国土守護を司どります。
地域の発展とともに、その神の守護地での御神徳があるのを以って、南行徳の相之川を開拓の中心と定め、直ちに大山咋神を産土神に奉るためにお遷しいたしました。
御事跡により農業守護・殖産・商業繁栄の神として地域の信仰を集めました。
終戦と共に村社という社格は廃止されましたが、宗教法人として人々の尊信を集め今日に至っております。
行徳・香取神社
当神社は、千葉県香取市にある下総の国一の宮を勧請した社です。祭神は経律主命で推定六百余年前に建立された。
江戸時代から、欠真間・香取・湊新田・湊を合わせた四ヵ村の鎮守様として崇められている神社です。
秋の豊作を祝って、三年に一度約四百キロ余りの重さがある立派な神社神輿を巡行します。
早朝より神社神輿を先頭に数十基の神輿が集合し、神事(御霊入れ)を行い、当神社より各自治会に渡御され巡行する。
神社神輿を当神社に宮入れを行い大祭を終了する。