宇和島の歴史



 「古事記」には、 伊邪那岐命(イザナギノミコト)と、伊邪那美命(イザナミノミコト)がまず淡路島を生み、次に伊予の二名島(四国)を生んだが、「この
島は、身一つにして面四つあり。面ごとに名あり。故に伊予国は愛比賣(えひめ)という。」とあります。
 皇統十二代の景行朝以降に伊予は大和朝廷の治下に入りました。宇和津彦神の名が史書に登場するのは、延喜元年(901)に藤原時平らが編纂し
た「三代実録」の仁和元年(885)2月10日の項の「伊予国正六位上徳威神。鳴門神宇和津彦神並、従五位下」が初出です。
 宇和津彦神社は、もとは宇和町にあったと思われます。宇和津彦神社は古来より一宮様(いっくさま)と呼ばれており、宇和郡全体の総鎮守であったと
思われます。
 十世紀の初めに、西の藤原純友と東の平将門が反乱を起こし、成立期の藤原氏の摂関政治を脅かしました(承平・天慶の乱)。 藤原純友は伊予国
府(今治市桜井)に赴任しました。当初は瀬戸内海の海賊討伐に功を見せましたが、解任後も帰京することなく、1千の兵船と4千名の配下を従えて海
賊となり、後に日振島を本拠地として貢租をも略奪したのです。
 嘉禎2年(1236)宇和郡は西園寺氏の所領となりました。京都の西園寺氏は入封することなく代官を派遣して支配を図りましたが、在地の守護地頭が
台頭して不在支配は困難でありました。
 京都の西園寺氏は代々鎌倉幕府の太政大臣を務めてきたのですが、建武の新政に対し兄の公宗と弟の公良は意見が分かれました。兄は新政権に
反対して滅ぼされ、弟は、新政崩壊後の暦応3年(1340)までには南伊予に走り、伊予西園寺氏を樹立したのです。
 西園寺氏は、宇和町松葉城(黒瀬城)を本拠地として宇和全郡の支配を図りましたが、旗下の諸豪を統制できませんでした。旗下には15の勇将が居
ました。御荘殿(城辺)、津島殿(岩松)、板島殿(板島)、魚成殿(魚成)、野村殿(野村)、法華津殿(法華津)、有馬殿(戸雁)、萩森殿(八幡浜)、などで
す。
 これらの諸将は、いわば農民・漁民の束ねというべき位置におり、中央政権では考えられないような牧歌的なものでした。貧しい生活ながら支配は緩
やかで、人情は温和だったと伝えられています。
 16世紀半ばには、豊後の大友義鎮が肥後・筑前を制したのちに伊予に侵入し、西園寺公広はこれに和しました。次いで土佐の長宗我部の影響下に
入ったのですが、豊臣秀吉の四国征伐(1585年)により、伊予は秀吉の武将の小早川隆景の領地とされたのです。その後領内整理がなされて、宇和
島と大洲の計16万石は戸田勝隆が領しました。西園寺公広は九島に隠居し法華津氏も九州に去りました。戸田氏の苛政・検地の強行に百姓一揆が続
発し、これを西園寺残党の差し金と邪推した戸田氏によって旧臣は惨殺され、板島西園寺氏も滅亡しました。次に藤堂氏が代官として入った後に、冨田
正信が入り、改易後に再び藤堂氏が入ったのです。
 わずか30年の間に5代の領主の変更があり、田畑は荒廃し人心も荒んで牧歌的政治が永く続いた後に、伊達秀宗は元和元年(1615)30歳の時に
宇和島10万石を領して入部したのです。
 当時の民百姓は、畳、雨戸、床板、天井のない、屋根と丸太だけの家に住み、土間に筵を敷いた貧しい生活で、しばしば領主に刃向い、日本でも有数
の一揆の頻度があったのです。このような伊達宇和島の草創期に和霊騒動は起きたのです。
 1564年、伊達輝宗(20歳)は最上義光の妹・義姫(16歳)を正室に迎え、父・伊達晴宗から家督を継承しました。 山家清兵衛公頼は最上家に仕えてい
て、輝宗と義姫の婚姻の折、お付き方として伊達家に仕官したのです。1567年義姫(19歳)が嫡男伊達政宗(梵天丸)を生みます。
 伊達政宗には13歳の折に、福島三春の田村家より11歳の愛姫(めごひめ)が輿入れをしましたが、子宝に恵まれず、東奔西走する政宗に同行して
いた側室のお新造の方(吉岡局・よしおかのつぼね)が、移住の途中で天正19年(1591)9月に出産したのが、宇和島藩祖の伊達秀宗なのです。
 秀宗は秀吉の願いにより4歳で秀吉の養子となり、聚楽第で元服し、秀頼とは義兄弟として育ち、何不自由なく少年時代を送ったのですが、関ヶ原の
戦いの直前には石田三成側の人質となり、その後は徳川家康のもとへ政宗の證人として出されました。当時は長男が家督相続することが原則であった
のですが、政宗は家康をおもんばかってか、豊臣の影響の強い長男秀宗を退けて、正室の子で八歳年下の次男忠宗を仙台藩の二代跡目としたので
す。
 秀宗は、家康の命により四家老の一人彦根の井伊直政(井伊直親の子で幼名虎松)の娘と婚姻し、長男宗實をもうけていましたが将来の見通しもなく
京都で悶々と過ごしていました。
 慶長十九年(1614)方広寺大仏殿の「国家安康」の銘に家康がクレームを付けたことに端を発した「大阪冬の陣」があり、秀宗は父政宗と出陣し少年
期を義兄弟として過ごした豊臣秀頼に弓を向けたのです。
 この大坂冬の陣に対する政宗の勲功と秀宗の忠義への褒賞の名目で、伊予の国宇和郡十万石が秀宗に新封されました。これは素早く時世を読み徳
川に就いたと言うことだけでなく、北で強大な勢力を持っていた伊達政宗に対する恐怖感から、家康が秀宗を政争の渦に巻き込み、人質として西に置い
たと言う見方もできます。元和元年(1620)秀宗は宇和島10万石の藩主として入城しました。
 政宗は秀宗を不憫に思ってか六万両の大金を持たせ、侍大将に譜代の桜田玄蕃を付し、総奉行には父の婚姻に際し、母方の最上家からお付きの方
として仕官し、その有能さを評価していた山家清兵衛を登用し、五十七駒を中心とする家臣団を付けたのです。
 豊臣時代には、父とはいえ政宗も、秀吉の養子となった息子秀宗の前にはぬかづかねばならなかった関わりが一変して、辺地の十万石大名にされた
秀宗には、仙台六十二万石が約束されている八才年下の本妻の子忠宗に妬みがあったと思われます。
 秀宗には豊臣家が滅びさえしなかったら、自分が六十二万石を継ぐのは当然と言う自負がありました。
 秀宗が入部してわずか五年後の元和六年(一六二〇)に起きた和霊騒動や秀宗死去直前の明暦三年(1657)の政宗五男の宗純への吉田三万石分
藩、また、万治三年(一六六〇)から寛文十一年(1671)まで続いた伊達騒動は一つの深層海流と考えられるのです。和霊騒動は政宗と秀宗の間の愛
憎にこそ事件の発端があり、宇和島側での伊達家公的藩史や記録からの伊達騒動抹殺がそれを物語っています。
 和霊騒動の頃は、歴代領主の下級家臣が居残っており、周辺の郡部には西園寺十五将の流れをくむ旧家・豪族が隠然たる勢力を有していました。そ
れまでの戸田氏、冨田氏の暴政に泣き、度重なる一揆をも武力で鎮圧されてきた百姓たちには、武家政治への深い怨みがあり、これまで各地の農民を
束ねてきた西園寺系の豪族たちは、中央から派遣されてくる領主や家臣たちに対する根強い不信感が定着していたのです。
 秀宗が入部した元和元年(1615)に、大阪夏の陣で豊臣家が滅亡しました。家康はその翌年に没しましたが、幕府は「一国一城令」「武家諸法度」を
定め、幕府による全国支配がこの年に確立したのです。
 このように、荷の重い時期に秀宗の宇和島藩は入部し、その直後に総奉行の山家清兵衛が変死したのです。
 当時、宇和島藩は疲弊のどん底にあり、その建て直しに清兵衛は尽力しました。領民の税を免除し、家臣達の録を下げたことで、領民には慕われまし
たが家臣達には反感をかったのです。
 伝承では、入部に際し借用した六万両の返済を巡り藩論が分裂し、入部三年後から山家の主張した案のとおり毎年三万石を政宗没まで22年間仙台
に返済し続けたことが判っています。藩政は悪化し領民からの厳しい取り立てを主張する家老に対し、善政を敷いた清兵衛が対立し、清兵衛殺害に至
ったということです。
 秀宗は家老の告げた清兵衛の不正会計を疑い山家の殺害を許可したというのが真実であると思われます。卑劣な悪家老一味は元和6年6月29日の
深夜、丸の内の山家邸を襲いました。蒸し暑い、雨の降る晩に蚊帳の四隅の吊り手を切って、息子3人、娘と娘婿(塩谷匠)その子2名の8名の命を奪
いました。9歳の美濃姫は邸内の井戸に投げ込まれたのです。妻と母親と二人の娘は檜皮ヶ寮(伊方屋仁兵衛の別邸)に避難させていましたが、松野町
吉野生に逃れる途中で娘二人は斬り殺されました。妻と母親は日振島の清家久左衛門によって仙台に逃されました。仙台には宇和島に来る折、残して
きた長男喜兵衛がいたのです。
 清兵衛の霊は藩政を乱す悪玉どもに祟って、彼らを次々と変死させました。
 他方で、和霊神社の祭神として祀られた清兵衛をあがめる民には、多くの霊験をもたらしたとされます。しかし和霊騒動は、藩内での清兵衛派と玄蕃
派の権力闘抗争と切り詰めては、理解できない部分が多すぎます。当時の仙台藩と宇和島藩の間柄を考えれば、政宗と秀宗の間の愛憎にこそ事件の
発端があったので、公的藩史や記録類からこの事件の抹殺という事後処理があったと思われるのです。
 宇和島地方の文化風土の特色は、中世以来350年間の西園寺氏の時世と、その後250年間続く伊達氏の時世の接合にあります。江戸や仙台のよ
うにゼロ地点からの城造りと違って、宇和島城下には歴代領主の家臣が残っており、周辺の郡部には西園寺十五将の流れをくむ豪族が隠然たる勢力
を有していたのです。
 度重なる一揆を武力で鎮圧された百姓や、農民を束ねてきた西園寺系の豪族たちは、中央から派遣されてくる領主や家臣に根強い怨みがありまし
た。
 このような時期に事件は起きました。善政を敷いた総奉行の山家清兵衛一族が卑劣な悪家老一味に闇討ちにされて変死し、後の和霊神社の祭神とし
て祀られさまざまな霊験が流布されました。清兵衛の霊は藩政を乱す悪玉どもに祟って彼らを次々に変死させ、祭神をあがめる民には多くの霊験をもた
らしたというのです。
 ですが、爆発的な和霊信仰の拡大は、清兵衛の善政への追慕、異様な死に方への同情、悪玉一味への怒り、清兵衛を見殺しにした藩主への反発、
後に不明を悟った藩主による藩ぐるみの崇敬があったとしても理解しがたいものがあります。
 この時代においては、親兄弟でも気を許すことは出来ず、親族に裏切られ、旧臣に背かれたり、だましもしました。宇和島においても豊臣氏治下で、最
初の領主戸田勝隆は、一揆の糸引く者と邪推して旧家豪族九百余人を惨殺し、九島に隠居していた西園寺公広をだまし討ちにして、西園寺氏を滅亡さ
せています。領民には西園寺氏滅亡に至る大規模な惨殺劇が記憶に残っており、清兵衛と一族の死は特異なものでは無かったはずです。公的な藩史
類から記録が抹殺され、和霊さまのことは調べることさえタブーとされてきたのはなぜなのか、なぜ爆発的な和霊信仰は生まれたのでしょうか。
 江戸中期からの和霊伝承の流れには、「神威の恐れはみだりに拝見を免さず」の箱書きがある藩の秘書「和霊宮御霊験記」の類や、小説、浄瑠璃、
歌舞伎、講談本の類。伝承、由来書の類があります。
 小説では、末広鉄腸の「政治小説 南海の激浪」、三好南桃の「和霊祭神歴史小説 山家清兵衛」(昭和十三年)、研究書では門多栄男の「和霊神社
祭神 山家清兵衛公頼公」(大正十年)、諸説の紹介書では大内茂編「山家清兵衛公傳」(昭和8年)などがあります。
 清兵衛切腹説を導入した伊達家の「鶴鳴餘韻」や、祭神に疑義を呈示した久保盛丸の「南予史」(大正4年)、秀宗公の命による暗殺説とした吉田繁の
講演録「南予時事新聞」(昭和7年)があります。
 伝承の類では、「和霊明神事跡」「山家家古文書」「桜田氏古文書」「和霊宮御社記」「和霊祠記録」「和霊大明神縁起略」「御由来敬白」などがありま
す。
 戦後では、高橋公六、三好栄、景浦稚桃、青野春水、松本麟一、山口常助、秋田忠俊、三好昌文、佐々木正興、南条多摩夫、谷有二らの研究記録が
あります。
 郷土史界における和霊さま研究は、周囲からの偏見や、伊達家や和霊神社が堅持してきたタブーへの挑戦を伴っていたので、知り得た史実や大胆な
推論をそのまま発表出来る環境ではなかったのです。
 安政元年(1854)生まれの宇和島藩士鈴村譲は、穂積陳重らとともに藩内五神童に数えられたのですが、朝礼暮改の藩閥政治に肯ぜず、国事犯とし
て入獄、出獄後台湾で宮司を勤めました、彼が多くの宇和島周辺に関する著作を残しています。彼が著した「和霊神社祭神事跡」には、初めて仙台側に
残された史料も紹介していたのですが、宇和島は空襲に遭い和霊神社も伊達図書館も焼失したので、鈴村が引用した貴重な史料を見ることはできませ
ん。
 愛媛新聞が、昭和二十九年に「イヨ史談40年」という連載記事の第3回目に、兵頭賢一の研究資料を預かった景浦稚桃の協力記事として「山家清兵
衛が悪代官を懲らしめたため、悪家老桜田玄蕃一味に蚊帳の中で殺された」という説は後世のデッチあげで有ると掲載しました。つまり、清兵衛が死ん
で11年後の、秀宗の正室亀姫の三回忌法要の際に、正眼院で読経中に突然大花瓶が倒れ、礼拝していた桜田玄蕃の頭上に落ちて不慮の死を遂げた
のですが、これを口さがない領民たちが「山家さまの怨霊に祟られたのだ」と噂をし、逆にさかのぼって「本当は玄蕃が山家公頼を暗殺した」という架空
劇が造られたのだとしています。
 兵頭の説では、家老の中で玄蕃(軍事担当)と公頼(内政担当)は仙台からの借金の返済方法をめぐり対立し、藩士の減俸案が通ったため、公頼は農
民の支持を集めたが士分の怨みを買った。この対立が元和6年の大阪城修築の際に爆発し、意見が合わぬと、「ご普請終了まで大阪に留まれ」との秀
宗の命に反して帰国した公頼が秀宗に切腹を命じられ、三子と共に自らの命を絶った」農民の同情は公頼に集まり、玄蕃は恨まれた。と書かれていま
す。
 兵頭賢一は明治5年(1872)岩松村の庄屋の生まれ、教職について後、大正12年より二十三年余は伊達図書館長を勤め、一般人が読めない伊達家
に残された膨大な古文書、記録類を調べたのですが山家事件については殆んど記していません。誰よりも史実を詳しく知りながら、言えない書けないこ
とが多くて、兵頭にとって和霊騒動の経緯は伊達家のみならず、旧藩中にとっても公表をはばかられる一大汚点であったのではないでしょうか。兵頭が
発表出来なかった「研究資料」は今となってはどこにも無いし、「悪家老桜田玄蕃が山家清兵衛を蚊帳の中で暗殺した」との伝承の方が圧倒的に信じら
れているのです。
 昭和54年8月、愛媛新聞に「山家清兵衛暗殺は、実は上意討ち」との記事が出ました。仙台四代藩主伊達綱村から宇和島二代藩主伊達宗利宛ての
「真相を伝える書状」が紹介されました。書状には「秀宗公山家清兵衛と申者御成敗」とあり、民間伝承である、「桜田一味による私恨の闇討ち説」、「伊
達家が仙台山家家の書簡を引いて唱えている成敗としての切腹説」、「秀宗の黙許による暗殺説」、をくつがえしました。
 山家清兵衛事件は、宇和島にとっても、仙台にとっても藩として秘匿すべきことであり、代々藩主や神尾家など側近にのみ史実が伝えられてきたこと。
「伊達文化保存会」の蔵の中からこの書状が発見されたことで、第五代藩主村候が処分したと伝えられる藩史「開かずの厘」が残存している可能性がで
てきました。
 秀宗が成敗したということは、上意によって科人を殺したと言うことで、「手討ち」か、「切腹申付」か、「処分の決まる前に自ら切腹」か、「斬殺された」
か、は判りません。切腹申付けは、斬殺より軽く、士分としての名誉ある処罰であり、切腹場、介錯人を含め厳格な作法があります。当時の処分は、大
名でも自分成敗は禁止されており、清兵衛など大身の家来の処分は、幕府への届け出が必要であったのです。「切腹申付け」という成敗なれば、幕府に
も仙台にも公然と届け出ればよく、藩史類から抹殺する必要はないはずです。当人の他に子供三名、隣家の父子三名、家来まで殉難している本件を伊
達家の「鶴鳴餘韻」のいう切腹説は詭弁としか言えません。
 理由も公開できぬ形で、上命により多数の人々が非業の死を遂げたから、領民の同情を集めた。伊達家にとっても後から考えると後ろめたいものが
あったところに、身辺に次々と災難があったので清兵衛の祟りと考えて、藩主が率先して霊を祀った。と考えるのが公正な判断では無いでしょうか。
 宇和島の伊達家で清兵衛の一件を不名誉なことと隠さざるを得なかったと考えれば、仙台山家家でも一族の処分を闇討ちや惨殺ではなく、誇りある切
腹と世々言い伝えたと言うことが考えられます。公然たる成敗として切腹を申付けたのなら、秀宗の父、政宗が遺族に「忠死なり」と称えて黄金十両を賜
ったというエピソードが成り立たないのです。
 「上意討ち」書状の発信人,仙台四代藩主の伊達綱村は、父の綱宗が不行跡を理由に隠居させられ、二歳で藩主になりました。十三歳の時に「伊達騒
動」(老中酒井雅楽守の邸で原田甲斐が伊達安芸を殺害)がありました。受信人の宇和島二代伊達宗利は兄二人の没後に世子となるのですが、仙台
伊達騒動の黒幕伊達兵部を後ろだてとした義弟の宗純に三万石を吉田藩として譲ったのです。(この経緯は不明成るも二人は三十年も口を利かなかっ
たといいます)
 和霊信仰がますます隆盛を極める中で、祭神の山家清兵衛が祀られるに至った背景の和霊騒動について、藩史類から記録は抹殺され、伝承や憶測
が推測で伝わっていきました。
 初代藩主秀宗の長男宗實は三十三歳で没、藩主代行をながく勤めた次男宗時も三十九歳で亡くなり、その年に和霊神社が建立されました。その他の
子も菊21歳、満3歳、鶴松18歳、徳松3ヶ月、竹松6歳、清15歳、岩松1歳と早世がつづいたのです。二代宗利の七男六女は、信州真田家に嫁いだ長女
豊姫のみが長寿で、兵助3歳、多尾3歳、六松3歳、鉄千代10歳、金十郎3歳、冨之助15歳、栄之助8ヶ月、光33歳、千代之助1歳、佐知9歳、賢9歳と早世
が続きました。なにかの「祟り」ではないか、と考えたどり着いたのが山家清兵衛だったのです。
 ですが、この傾向は和霊神社祭祀が始まった後も続き、三代宗贇の六男八女のうち十一人は五歳以下で死亡しました。他に頼るものがなかったから
か、五代村候は自ら和霊信仰拡大、清兵衛の護国神化に参画し、寛政六年(1794)の没までの六十年間に、御供所、随身門、回廊などを建立していっ
たのです。
 和霊さまは、当初の領民一般が畏れ敬う祟り神から変身して、宇和島藩にとっての護国神となりました。宇和島南高校の教諭の傍ら、「近代史文庫宇
和島研究会」の代表を勤め、「伊達文庫保存会」がご所蔵している膨大な資料をもっとも深く探究でき、「綱村書簡」をいち早く読むことが出来たはずの
三好昌文が、「秀宗の密命を帯びたと考えられる玄蕃一味の数人が山家邸を襲い・・・」の表現に止め、「なぜ玄蕃派が下手人とされているのか、どんな
理由で清兵衛が秀宗の不興を買ったのか」を書けなかった事情は分かりません。
 昭和三十年刊の「和霊神社祭神の由来」は宇和島市産業課と宇和島観光協会が発行した津村寿夫の著です。津村はこの書で「清兵衛は藩士の減俸
により年々の仙台への三万石返済を、誰にも相談せずに事を運んだ。そのことが藩士の反発を生んだ」としました。さらに「秀宗に清兵衛を中傷したの
は玄蕃一派だが、それを許可したのは秀宗である。しかし、秀宗は冤罪が判明したのち、良心に悩み、罪ほろぼしとして和霊神社を建立したと言うのは
誤りで、和霊神社の建立は二代宗利である」と言っています。
 三佳昌文、山口常助、佐々木正興らが参加して著した。「宇和島の自然と文化」には、「幕命による大阪城石垣工事に山家は侍大将の桜田玄蕃と共
に従事した」、「この間に公頼に対する反対派が生まれ、その讒言により、刺客が公頼邸を襲い暗殺した」、「公頼の死後に関係者の災難・大地震・大洪
水・飢餓天災が続き御霊の祟りとされた」としています。
 徳川幕府は、統一国家を形成し各地に大名を配置しました。このことは、各藩にとっては一国の支配者の交代であり、特に宇和島藩にとっては農兵団
が割拠する土俗的共同体の上に、近世国家の家臣団が配属された形となったのです。
 秀宗は政宗より付された五十七騎に加え、大阪で召し抱えた家臣や船頭衆、部屋住みの付侍や小姓などを引き連れて一度も訪ねたことのない宇和
島に入城したのです。着城後に旧冨田家臣や五か月遅れて下着した桑折らの一行を合わせて家臣団を形成しました。秀宗入城時に役人が藤堂新七郎
から受け継いだ地には、天守閣、35の櫓、20の番所、250軒の侍屋敷、田畑は17郷273ヶ村で102.154石とあります。
 当時藤堂家には、給知侍200人程、扶持切米名侍480人程、惣足軽750人程、小人持続之者60人程、足軽以下1200人程、合計2700人程がい
たようですが、秀宗は1000人程の体制であったようなので、新規召し抱えの恩恵に預かったものは少なかったようです。この難事業に秀宗は、政宗の
アドバイスどおり、政務・仕置きの重役45人を置きました。内政の総奉行山家清兵衛が(1000石)、侍大将桜田玄蕃が(1750石)、秀宗の後見役桑折左
衛門は(7000石)としました。
( 注、1石は米150kgですが、武士の給金はそこから農民の生活費、村の経費など差し引き40%の約60kgが武士の取り高となりました。60kgは1俵で
現在の価値にして10〜15万円ほどです。下級武士の給金は40石くらいだったようですが、お役料が別に50俵ほどあったようです。300年後に宇和島
藩主伊達宗城に見いだされ、上士格で召し抱えられた大村益次郎が100石取りだったようです。)
 
 従来の和霊伝説だけでは、清兵衛が神に祀られて広汎な信仰が生まれたとは考えられません。このような権力闘争はどこにでもあります。それは昔も
今も同じです。江戸時代のお家騒動記を見れば類例にことかかないのです。なぜか、多くの「和霊宮由来」も「霊験記」もこれが事実だ、正しい伝承だと
主張するのですが、出所を示さないのです。殺された清兵衛に肩入れするのは自然な感情であると言い、玄蕃が悪玉となっていることに疑問は持たな
い。権力闘争説も、民衆の判官びいき説も、異様な殺され方説も、清兵衛の善政への追慕説もそれらすべてを合算しても和霊信仰の原因とは考えられ
ないのです。
 明治初年の「宇和島藩経済史」によると、宇和郡169.512人のうち、農(漁)民89.5%、町人2.5%、士卒4%、その他4%です。表石十万石ながら作穀は
参万八千石、その三分の一は未進でした。清兵衛が年貢を七公三民から六公四民に減じたと史家は激賞するのですが、江戸期の全国平均は四公六
民です。たかだか五年間の総奉行であり、清兵衛が漁業政策を改善したとの資料もありません。清兵衛の死後に民衆が神と崇めるほどの善政とは言え
ません。
 史書類には、清兵衛側の峯金三郎ら近親の切腹や蒸発には触れていないし、秀宗が事件後には冤罪であったと認めていながら清兵衛処罰の理由も
明かさず、刺客とされているものへの処罰も行われていないのです。事件後に山家家は断絶したが、桜田三家は保護され繁栄しているのです。
 寛永九年(1632)の桜田玄蕃変死以降、玄蕃悪玉論へ微妙にすり替えられています。
 和霊神社の成り立ちは次の様なもので有ったと思われます。
1、山家事件ののち、藩民の公頼への同情心と、秀宗への怨みが拡大した。
2、秀宗の信認厚かった神尾が苦慮し、人心を鎮めようと密かに檜皮森(現城北中学の裏手の山)に小祠を祀り児玉明神と称したところ、参詣者が日に
日に増えた。
3、事件後三十三年の承応二年(1653)伊達宗時の発案で伊達宗利と神尾が同地に和霊神社を正式の神社として建立した。
4、参詣者が引きも切らず、社地も狭かったので、神尾が願主となり明暦二年(1656)向山(現城北中学の場所)に遷移した。
5、寛文七年(1667)に桜田玄蕃の実子、数馬親茂が願主となり、神社の有った森安の地(現城北中学の正門前)に移転した。
6、四代村年の命で、享保二十年(1735)に鎌江城跡に移転し現在に至る。
 人口過疎で、収穫に乏しい辺境の地であり、民族も信仰も弱い状態で、中央と直結する神社がなかった宇和地帯に、入部してきた伊達家が山王権現
を城内の鎮守とし、一ノ宮の宇和津彦神社の祭礼を奨励し、兵庫県の西宮から豊漁の神として恵美須神社を勧請したが、民衆信仰は人神を祀った和
霊神社に集まり漁業神、護国神として崇敬を集めたので、藩主の意向が通ずることはなく、藩主自らが藩と領民の信仰上の共存を図ったのです。
 藩史類には私人としての山家清兵衛の生涯とは別の、総奉行としての公人清兵衛の事跡は殆んど残されていません。「伊達家御歴代事記」に明らか
にされているのは、元和元年に宇和島入城に際し、秀宗が政務は諸事旧法に従って行うように命じたこと。元和三年に清兵衛が政宗と掛け合って、入
部時の借金返済に、翌四年から毎年宇和島十万石のうちの三万石を送ることを清兵衛が主張し決定したこと。元和五年に幕府より大阪城石垣工事の
内示があり、担当者たちが上阪したこと。六年秋に修築工事が終了し、帰宇した桜田玄蕃が秀宗に誉められて拝領物を賜ったこと位です。
 政宗は貸金を理由に、宇和島藩よりの三万石の永久分離と直轄支配を目論んだ形跡があります。これに対し、清兵衛は速やかな支払いを切り札に、
高齢の政宗の存命中の三万石献上で話をまとめたと推測できます。秀宗は寛永十三年の政宗死去まで22年間支払続けた三万石を、愛妾の子ながら
溺愛した宗純に吉田藩として分知させています。
 清兵衛が主張した、武士減俸による三万石返済案は意見が対立して結論が出ず、領民への税率アップで決定を見たが、領民が一揆寸前の勢いとな
ったので、清兵衛案だけで決定された。
 幕府は元和五年に関西諸侯に大阪城修繕工事を命じた。宇和島藩は玉造り口から大手門までの石垣工事の担当となった。工事は秀宗の命で山家
清兵衛が交代制の三組を定めた。一番衆桜田玄蕃等、二番衆山家清兵衛等、三番衆粟野勝右衛門等、まず粟野組から百日交代でことに当たることと
したのです。
 宇和島藩は、政宗に三万石の隠居料を支払って、実質七万石のところへ十万石相当の工事を課され、倉を空にして費用を大阪に送り、藩士の禄で人
夫分を振り当てました。大阪で資金が底をついた清兵衛と玄蕃は連名で「予算外に巨額の出費を要するので、米千石と銀若干の送付を願う」と書を送っ
たのですが、秀宗は三月一日付けで「工事は入念に落ち度なくやれ。米も大豆も送ってしまって、当地では秋まで扶持米もなく、両人知ってのように銀子
もない。何とか集めた銀子十貫目を送る。その上に銀子が居るのなら両人が京都で才覚せよ。当地に何の在庫も無いことを両人共に知りながら銀子な
どを送れと言う分別が理解できない」と答えています。
 三月十日付けの書で秀宗は、「両名は工事費不足を訴えて追加資金を請うが、記録類を見ると送ったはずの扶持米も記帳されておらず、帳簿の尻も
合わぬとは何事か」と告げています。一方で玄蕃には「工事を巡って清兵衛との間にいろいろ行き違いがあって済まなかった」と、書き送っているので
す。
 着々と工事進行の報告を粟野より受けた秀宗は、「先だっての算用どおり手元には銀子も扶持米もない、江戸屋敷にも頼んでいるが、資金が底をつ
いたら両人が切手にて借入せよ。藩の初めての一大事のご普請であるから工事終了まで大阪にとどまれ」と命じたのです。
 ところが、清兵衛は藩主の命に反して五月上旬に単身で帰国し、清算書を示して「石の手配も終わり工事のめどはついたので、今後は米銀はいらな
い」と秀宗に報告しました。その前に玄蕃より追加米の請求が届いていたので、不審を抱いた秀宗は清兵衛の清算書を付して玄蕃を叱責し事実報告を
求めたのです。
 桜田玄蕃叱責後わずか九日後に、秀宗は桜田宛てに「君子豹変した」書を送っています。「一、銀子入用なれば仙台に話しているので借りればよい。
 一、藤兵衛(清兵衛の腹心)がいつ逃げるか分からないので早々召し取り、近日使わせる者に引き渡されたい。油断なきよう申付ける」となっていま
す。
 五月十日に清兵衛の言を信じて秀宗が書いた、玄蕃への財政上の叱責書が到着後に、急遽無断帰国をした清兵衛を、何もなかったかのように不問
にした秀宗が、その九日後に藤兵衛を取り逃がすなと玄蕃に厳命しているのは腑におちません。
 大阪の玄蕃からは、石垣の修復工事は大略終わったと報告され、秀宗は満足して六月六日に「石垣が見事に出来たとのこと大慶に存ずる。お奉行衆
もご機嫌良いとのことで大いに満足している」と逆に玄蕃を誉めています。
 ことは大阪城石垣工事の会計問題から派生した家臣間の対立ではなく、別の深因に基づいて周到に準備された藩ぐるみの山家派粛清劇だと思われ
ます。秀宗と清兵衛の対立が主軸とすれば、最初から清兵衛の側に勝ち目はありません。清兵衛は藩創政の功労者で仁政を推進し、大所高所の観点
から主君を諌めたが、何らかの理由で秀宗の不興を買い、大阪滞在中に宇和島での外堀はすべて埋められていたのです。無断帰国までしての会計疑
惑への身の潔白証明と、藩主の覚醒への最後の説得もむなしく、清兵衛派の頭目として追い詰められて殺害されたと考えられるのです。
 清兵衛が普通に切腹し、あるいは上命に従って易々と成敗されたのであれば、御霊信仰としての爆発的な拡大はありえなかったはずです。無残な殺さ
れ方自体は同情を集めたとしても信仰にはなりません。和霊信仰の基礎となったのは、死んでも成仏しえぬ清兵衛等の怨霊への鎮魂であり、「理不尽な
死」にあります。三万石返済の評定にも、大阪城修築工事にも、清兵衛等が粛清されねばならないほどの原因とは考えられないのです。
 清兵衛の追放は、秀宗が自らの意志で進めたことであり、玄蕃等に役割があったとしても、それは脇役です。秀宗と清兵衛の対立が真因であり、だか
ら藩史からの抹殺となるのです。
 清兵衛の奥方と母親は事件のあった前日から邸を離れており、難を逃れて九州へ渡り、そこから仙台藩へ保護を求めた事で事件は発覚していき、秀
宗から政宗への連絡は形式的な物であったかも知れませんが、政宗は飛脚の報告や、桑折左衛門の復命書からもほぼ正確な全容をつかんでおり、清
兵衛の長男喜兵衛には、わが子秀宗の不明を詫びて善処を約し、清兵衛の忠節をたたえて供養料を下賜したと言われています。当然の如く政宗は怒
り心頭となり、実の父が子の改易を幕府に願い出るという前代未聞のお家騒動となったのです。
 伊達宗城(だてむねなり)は、宇和島藩8代藩主で、大身旗本・山口直勝の次男です。父直勝は宇和島藩5代藩主、伊達村候の次男で山口家の養嗣
子となった人物です。宗城は文政元年(1818)江戸に生まれ、文政12年(1829)男子に恵まれない藩主宗紀の養子となったのです。
 幕府から追われ江戸で潜伏していた高野長英を招き、更に長州より村田蔵六を招いて、軍制の近代化に着手しました。幕末には福井藩主・松平春
嶽、土佐藩主・山内容堂、薩摩藩主・島津斉彬とも交流を持ち「四賢侯」と謳われた人物です。安政5年(1858年)に大老に就いた井伊直弼と将軍継嗣問
題で真っ向から対立、13代将軍・徳川家定が病弱で嗣子が無かったため、宗城ほか四賢侯や水戸藩主・徳川斉昭らは次期将軍に一橋慶喜を推してい
ました。一方、直弼は紀州藩主・徳川慶福を推しました。井伊直弼が大老強権を発動し慶福が14代将軍・家茂となり、一橋派は排除されました。いわゆ
る安政の大獄です。これにより宗城は春嶽・斉昭らとともに隠居謹慎を命じられました。
 慶応2年(1866年)、イギリス公使ハリー・パークスが宇和島を訪れた際、お忍びで同艦を訪問、閲兵式に続き純和風の宴で接待し、宇和島を離れる際
には藩の旗印と英国国旗を交換しています。アーネスト・サトウが宇和島訪問の際には、日本の将来について、天皇を中心とした連邦国家にすべしとい
う意見交換をするなど、外国人とも積極的に交流しています。


 
 児島 惟謙(こじま いけん)は、天保8年(1837)生、宇和島藩士の金子惟彬の次男として出生、幼くして生母と生別、造酒屋で奉公したりするなど安楽
ではなかった。
慶応元年(1865)長崎に赴いて坂本龍馬・五代友厚らと親交を結んだ。後に脱藩して京都に潜伏し勤王派として戊辰戦争にも参戦した。明治24年に大審
院長に就任した。5月、訪日中のロシア皇太子に警備中の巡査津田三蔵が切りつけて負傷する事件があった。大国を恐れて、津田の行為は大逆罪に
当たるとする裁判官が多かったが、児島は刑法の定める通り謀殺未遂罪を適用し、司法権の政治からの独立を守り「護法の神様」と高く評価された。後
に貴族院議員、衆議院議員となった。

 大村益次郎、山口県の村医の長男。シーボルトの弟子の梅田幽斎に医学や蘭学を学んだ。嘉永6年(1853)、ペリー提督率いる黒船が来航するなど、
蘭学者の知識が求められ、宇和島藩主宗城の要請で宇和島に出仕し、西洋兵学・蘭学の講義と翻訳を手がけた。宇和島城北部に樺崎砲台を築いた。
後に長崎へ赴いて軍艦製造の研究を行い、城主の命令で提灯屋が外輪船を作った時(国内第一号は薩摩)にこれを指導した。後に村田蔵六と改名し
ている。
大村は高杉、伊東博文らと幕府との全面戦争を画策し、1600人の満16歳から25歳までの農商階級の兵士を再編した。大政奉還後、新政府軍の軍防事
務局で近代国軍の基礎を造った。
戊辰戦争での功績により永世禄1500石を賜り、木戸孝允、大久保利通と並び、新政府の幹部となった。
大村は、京都三条の旅館で会食中、元長州藩士の刺客に襲われ死去したが、後の国民皆兵となる徴兵制度を残した。

穂積 陳重(ほづみ のぶしげ)家は、宇和島藩伊達家が仙台より分家する以前からの、伊達家譜代の家臣であった。イギリス留学時代に法理学及びイ
ギリス法を研究し、その後、ドイツへ転学して、ドイツ法を研究した。日本初の法学博士となり、日本国民法成立にかかわった。
東京帝国大学法学部長を勤め、英吉利法律学校(中央大学の前身)の創立にも係わった。後に枢密院議長を務めた。
長男の穂積重遠は「日本家族法の父」といわれ、東大教授・法学部長、最高裁判所判事を歴任した。重遠の妻の歌子は、渋沢栄一の長女である。
死後のエピソードとして、出身地の宇和島市で銅像の建立の話が持ち上がったが、「老生は銅像にて仰がるるより万人の渡らるる橋となりたし」との生前
の言葉から、改築中の本開橋を「穂積橋」と命名することにして、市内の辰野川にかかる橋の名前としてその名が残っている。

楠本イネ、母の瀧(お滝)は商家の生まれであったが実家が没落し、長崎の出島で遊女となり、シーボルトのお抱えとなった。彼との間に私生児として生
まれたのがイネである。当時は稀な混血児であったので差別を受けて育った。父シーボルトは、国禁である日本地図や日本国に関するオランダ語翻訳
資料の国外持ち出しが発覚し国外追放となった。日蘭修好通商条約によって追放処分が取り消され、再来日した父シーボルトと長崎で再会し西洋医学
を学んだ。イネは、シーボルトから医学を学んだ卯之町(愛媛)の町医者二宮敬作から医学の基礎を学び、岡山の石井宗謙から産科を学び、宇和島在
住の村田蔵六(後の大村益次郎)からはオランダ語を学んだ。イネは岡山の石井宗謙に師事した帰りの船中で宗謙に強姦されて妊娠、生まれた娘が高
子である。
イネは宇和島藩主伊達宗城から厚遇された。それまでの「朱本イネ」から「楠本」に改名したのも宗城の命によるもの。福沢諭吉の口添えにより宮内庁
御用掛となり、明治天皇の女官の出産に立ち会った。
明治8年に医術開業試験制度が始まったが、当初は女性に受験資格がなかった。日本最初の産科医と言われるが医師免許は持っていない。

楠本 高子(くすもと たかこ)、フォン・シーボルトと、長崎出島の芸者お滝との間に生まれた私生児が楠本イネで、イネが医学の勉強に行った岡山から
の帰途、船中で師石井宗謙に強姦されて生まれた娘が高子。母の師・二宮敬作(伊予国卯之町開業医)の縁により宇和島藩の奥女中として奉公を始め
る。藩主宗城が早くから海外に目を向けていたので、外国図書の翻訳などを手伝った。宇和島藩内の医師と結婚するが先立たれ、産婦人科を学ぶ。母
と同様船中で医師・片桐重明に犯され周三を生む。

大和田建樹(おおわだたてき)、安政4年伊予国宇和島の藩士・大和田水雲の子として生まれる。藩校の明倫館に入学の後、広島外国語学校に入学、
上京して交詢社の書記となった後、東京大学の書記となる。明治33年『鉄道唱歌』全5部作発表。唱歌・軍歌多数を残した。

高野長英(たかのちょうえい)文化元年(1804)岩手・奥州水沢の生まれ。当時の道徳ばかりの朱子学より、西洋から入ってきたばかりの、機械を発明し
たり病気を治したりする蘭学に興味を持ち、長崎でシーボルトが開いた鳴滝塾に入門し蘭学を学んだ。江戸に出て町医者・蘭学者として生計を始めた。
 当時日本の近海に列強の船が散見されるようになり、長英だけでなく多くの蘭学者が、江戸幕府の異国船打払令を批判し開国を説いた。
この動きを南町奉行鳥井耀蔵が怒り、長英をはじめ蘭学者は次々と逮捕された。蘭学者渡辺崋山は獄中自死。長英は牢屋版の少年に火事を起こさせ
その隙に逃亡。追手を逃れて四国・宇和島に到達した。そこには鳴滝塾の同門・二宮敬作がいた。
長英は開明的な藩主・伊達宗城の庇護のもと、海岸線防衛に関するオランダ書を翻訳した。
やがて、諸外国が軍艦を派遣し開国を迫ったので、宇和島藩も幕府の要請受け、海岸防備のための砲台建設に着手することとなった。藩主宗城は幕
府に追われる長英に設計を命じた。設計後、工事にかかったものの、宇和島にも幕府の追手が迫った。長英は変名して江戸に帰ったが幕府に見つかり
撲殺された。逃亡生活は6年に及んだ。砲台はその翌年嘉永3年に宇和島藩初の砲台として久良に完成した。


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