伊予の宇和島

                                                         河野 善福

 太古の昔から宇和島付近の地形は、三陸沿岸や志摩半島にも見られるリアス式海岸で、起伏の激しい陸地が海に沈降したため、複雑な出入りと大小
の島が多く、平地が少なくて陸地は急斜面のま ま海に落ち込んでいる。現在の宇和島市街も周辺の丘の下までがほとんどが海であった。背後 の山の
土砂が崩れ、川水に流された土砂が長い年月をかけて扇状大地を作っていった。
 近年、北宇和島駅近くの田の中や伊吹町の畑から土器の破片や石の斧、石の矢じりなどの石器類、獣骨などが掘り出された。さらに三浦の無月から
も土器が発見され専門家の調査によって縄文時代のものとわかった。これらの出土品の発見により、宇和島近郊にも三千年以上の原始時代から我々
の祖先につ ながる人々がこの地に生活していたことが分かった。
 延喜元年(901)に藤原時平らが編纂した「三代実録」(平安中期の三人の天皇の編年 史)には、貞観8年11月の項に伊予国七郷を宇和と喜多に分
けたとあり、その内、宇和は石 野(伊波乃)、石城(伊波岐)、三間(美萬)、立間(多知萬)の四郷に分けたとある。
 承平元年(931年)、瀬戸内に横行する海賊を鎮圧するために伊予掾(いよのじょう)に任 命され、伊予国府(今治市桜井)に赴任した藤原純友が、当
初は瀬戸内海の海賊討伐に功を 見せたが、解任後も朝廷に対し反乱を起こし、その子重太丸と共に瀬戸 内海海賊の頭領となった。純友は日振島を
本拠地として千艘以上の兵船と四千名の配下を従 えて海賊となり、やがて瀬戸内海全域を荒らし貢租も略奪した。朝廷は純友追討使を差し向 け伊予
警固使の橘氏によって純友は討伐された。
 以降、平安時代の中期から、宇和郡は橘氏の子孫が土着して豪族となり、鎌倉時代まで橘 氏の統治が続いた。
 嘉禎二年(1236年)宇和郡は橘氏に代わって西園寺氏の荘園となり、南予地方の有力者として地方の豪族を統率したが旗下の諸豪を統制 できなかっ
た。永禄3年(1560年)、九州七ヶ国を率いた豊後の大友義鎭が軍兵三萬五千余騎で宇和島方面に押し寄せ、西園寺氏は大友に和した。
 天正3年(1575年)西園寺宣久が板島丸串城(宇和島城)の城主となったが、天正12年(1584年)には土佐の長宗我部氏に敗れ、西園寺氏支 配下の
諸城主は長宗我部氏に服従することとなった。
 慶長19年(1614年)30歳の伊達秀宗が宇和郡十万石を賜り翌元和元年(1615年)に入部 し、以降明治に至るまで伊達氏の統治が続いた。


300年位前の宇和島の地形 ……は昭和40年頃の海岸線 (宇和島市誌から)

 宇和島は川が短いので、河川から流入する土砂により有史以前からの沖積地で沼地化したところが多く、17世紀ころから新田開発が進み、須賀浦新
田(藤江)、樺埼新田、富提新田と現在の市街地となった場所が造成されていった。


朝日町、弁天町、寿町が造成され、築地、朝日運河がまだ造成されていないので、明治末期と考えられる。


大正15年の宇和島


 宇和島は優れた港であったが、土砂の流入により湾内が浅くなることが悩みであった。 周辺物資の集積地として良港を維持するために、明治以降浚
渫場所として新田の拡幅が続き、泉屋新田(朝日町、寿町、弁天町、築地)が完成したのは大正末であった。 
 大正10年、八幡村と宇和島町が合併し宇和島市が誕生した。丸穂村は大正6年に宇和島町に編入したばかりだった。市の最大の懸案は須賀川の土
砂が堆積し内港に船が出入りできなくなることであった。須賀川の付け替えは住吉山を削岩し玉ヶ月に放流することとなったが、和霊神社前にあった北
陽花街の移転問題が最大課題となった。全ての料亭に高額の補償金を支払い新たに造成したばかりの泉谷新田(築地)に移転させたかったが、一部に
反対する業者がおり、市長は最終的に残ることを希望する業者には北陽に残ることを認めた。したがって花街は北陽と築地に別れた。須賀川は昭和5
年から2年6か月の工期で大浦側に付け替えられた。


須賀川は和霊神社の上流から内港に流れていた。藤江沖には船溜りがあったので開削は容易だった。


大正初期、旧須賀川の船大工町あたり。左赤丸キリン館(映画館)


築地に移転した花柳界。この料亭街の隣りの区画に戦後親戚が住んだのでこの街区は私の遊び場だった。


須賀川付け替え後の船大工町・朝日町。


昭和6年、須賀川を大浦湾放流へ付け替えの終わった宇和島市。

  来村川右岸の小笠原新田は1800年代初頭に造成され、左岸の日振新田(当時は九島村の一部であった、藩主が日振島の庄屋に命じて造成したの
でこう呼ばれた)は1750年頃に造成された。土砂の流入により湾内が浅くなることが悩みであった宇和島の残る大河は来村川のみとなった。 外洋に
流れを変える案も出たが費用がかさみ実現しなかった。明治以降の内港も浚渫工事に伴い新田の拡幅が続き、泉屋新田(朝日町、寿町、弁天町、築
地)が完成したのは大正末であった。 
  昭和初期の宇和島の主要産業は養蚕と絹の製糸であったが、人造絹糸(人絹)が発明されて急激に衰退した。市はその打開策として軍への需要が
増していた洋式帆布の製織工場として急成長していた「近江帆布工場」の誘致にのりだした。当時の日振新田坂下津は伊達家が所有しており、九島村
の一部だった。市はこの地を買収し埋め立てを開始した。一方で九島村もこれを機に合併機運が進展し昭和9年に全村宇和島市と合併となった。
 近江帆布宇和島工場は契約の2年後、昭和11年に5万2千坪の用地で操業を開始した、従業員は千人を超えたが昭和16年に政府の要請で操業を停
止した。昭和 19 年 3 月 に、海軍の要請によって近 江帆布宇和島工場は接収され「松山海軍航空隊宇和島分遣隊」として予科練となった。 
 4月には松山海軍航空隊から6ヶ月の訓練を終えた1800名が転属してきた。ここには航空隊と言ったが訓練飛行機はなく、操縦以外の航法、通信、
銃撃などの訓練を受け、肉体を鍛えることに重点が置かれた。彼らは2か月ほどの訓練で各地の航空隊に向かった。
 予科練は昭和 20 年 7 月 15 日解隊され、戦後空襲を免れた予科練跡の建物は宇和島中学校、宇和島商業学校、鶴島小学校として2年間ほど使用
された。その後は畑や廃墟として残されてい たが、昭和 42 年に宇和島市が買収し産業団地の拠点として整備され、大型貨物船の接岸可能岸壁が作
られた。

昭和21年の宇和島市。城山下の内港埋め立て前。

 現在柳新町・桜新町と呼ばれている内港は、昭和24年に市の復興計画により埋め立てられた。下の写真は翌25年3月昭和天皇が四国巡幸の途中に
宇和島に立ち寄った時のもので、埋め立てはまだ完了していなくて、中ほどが低く見える。正面に見える建物は「丸劇」という映画館でのちにス-パーマー
ケットになった。この年11月には市制30周年の祝賀行事が盛大に行われた。 ♪ お殿様から僕らの腕に、晴れて帰った天守閣、すべて世紀は新しく、
若い宇和島、ああ新緑の木々の色、・・・・・祝え市制30年♪。学校で全員が唄った記憶がある。


丸劇前埋立地での天皇巡幸

   
昭和30年頃の追手通り、木屋旅館前の柳                   内港の渡し場

 昭和35年頃までは追手通りの木屋旅館の前に大きな柳の木があって、バスの通行の邪魔になっていたし、現在の市役所と東校を結ぶ通りには渡し
舟があった。ここに橋がかかるまでは市民の主要な足であった。


昭和45年頃の市内。渡し場に橋が架かっている。


昭和55頃の市内。内港が埋め立てられて市役所が完成している。

  内港が埋め立てられて、昭和51年には市庁舎が完成している。


平成25年9月九島大橋完成。



 宇和島道路が平成27年に開通し、市役所沖がさらに埋め立てられた。そこにはきさいや広場が作られて市民の憩いの場所ともなっている。
 朝日運河が埋め立てられ、樺埼沖と築地がつながった。大浦の海も半分になった。


   〔参考文献〕
  南 予 史              久保 盛丸著
  兎の耳 もう一つの伊達騒動   神津 陽 著
  板 島 橋              木下 博民著
  宇和島市誌      宇和島市誌編さん委員会
  宇和島港の「みなと文化」     山口隆史 著
  宇和島市に関連するホームページ


許可を得ないで掲載した写真があります。掲載に支障がある写真がありましたら著作権等
のある方も誠に申し訳けありませんが、掲示板からお知らせください。 削除いたします。

トップに戻る