解りやすい、第一次・第二次世界大戦

  河野 善福      
第一次世界大戦

 第一次世界大戦は、1914年(大正3年)からあしかけ5年間、主にヨーロッパが主戦場になった戦争です。1914年6月、ボスニアでオーストリアの皇太
子夫妻がセルビア人の秘密結社に暗殺されました。もともとこの地域はギリシャの正教のセルビア人、カトリック教徒のクロアチア人、回教徒の人など宗
教的に入り混じっており、紛争が絶えず、侵略に備えて対立関係にありました。
 皇太子を殺されたオーストリアは、7月8日ドイツの同意を得てセルビアに宣戦布告をしました。ロシアは同じスラブ系人だからという理由でセルビアを
支持しました。フランスはビスマルクが構築したドイツを脅威に思っていました。そこでドイツを牽制するためにロシア・イギリスと三国協商を結びました。
ドイツはロシアと戦うためにはまず背後のフランスを叩いておく必要が有り、フランスに宣戦布告しました。世界中に植民地を持っていた先進国では、本
国だけでなく植民地でも戦いが始まって、瞬く間に戦いが世界に広まったのです。
 ドイツ・オーストリア・オスマン帝国・ブルガリアからなる中央同盟国と、三国協商を形成していたイギリス・フランス・ロシアを中心とする連合国の戦いと
なったのです。日本、イタリア、アメリカも後に連合国側に立って参戦しました。足かけ5年にわたったこの戦争で900万人以上の兵士が戦死し1.800万人
が負傷しました。
 この戦争で敗戦したドイツは、戦勝国へ支払う賠償金で通貨が続落し、マルクは1兆分の1にまで続落しました。ドイツの領土の一部はポーランド、チェ
コスロヴァキア、リトアニアなどに組み込まれたのです。これらの領域で少数民族の立場に追いやられたドイツ系住民はその国の処遇に不満でした。
 戦争が終わった時に、アメリカのウイルソン大統領は、「国際紛争が起こった場合には、各国のリーダーが集まって話し合い、解決しない場合には世
界の共同軍が平和を維持する。」ことを提唱し、ロシアでは革命が起きて「階級や国境にとらわれない社会主義」が提唱されました。この二つのイデオロ
ギーは冷戦という形で後々まで尾を引くことになりました。

第二次世界大戦

 第一次世界大戦中、アメリカはヨーロッパに軍需物資を売りつけ、工業用品を輸出して利益を上げていました。戦後、ヨーロッパ諸国は戦争の出費に
疲弊していましたが、次第に復興を遂げていき豊かな国米国に輸出を始めました。
米国では国内品保護のために輸入品の間税を高くしました。当然相手国も輸入品の税金を高くしましたので、米国の輸出品が売れなくなり米国が不況
になったのです。
 1929年10月24日、ニューヨークの株式市場でゼネラルモータースの株価急落が引き金となり、株式の売りが殺到し、やがて世界の株価が大暴落とい
う世に言う大恐慌に発展しました。これがきっかけで世界中が不況になり、物がますます売れなくなったのです。
 ドイツは大戦の賠償金の支払いとマルクの引き下げで大不況でした。第一次大戦中に戦費を米国から借りていたイギリスもフランスも、ドイツからの賠
償金が入らなくて経済は疲弊していました。
 米国はニューディール政策、イギリス、フランスではブロック経済。ドイツ、イタリアではファシズムと各国が新政策を打ちだし、保護政策が強まってくる
のです。
 1939年、ドイツのヒットラーが率いるナチス党がポーランドに侵攻。ポーランドと同盟を結んでいたイギリス、フランスがドイツに宣戦布告をしました。
 2年間ほどはヨーロッパでの戦いでした。当時のアメリカには中立法と言う法律があり、参戦しませんでしたが、フランスがドイツに降伏し、イギリスが孤
立したので、1941年、武器貸与法という法律を作って、イギリス支援に乗り出したのです。
 当時の日本は日中戦争の真っただ中で、これを打破しようとドイツ・イタリアと三国同盟を結んだのです。イギリスの敵であるドイツ・イタリアと手を結
び、資源を求めて東南アジアに進出を始めた日本の動きに危機感を持ったアメリカは、1941年に「日本への石油輸出禁止」を決めたのです。日本は石
油がないと戦艦も飛行機も動かせません。米国と交渉を重ねたのですが、到底受け入れられない回答が来て交渉を打ち切り、1941年12月、真珠湾のア
メリカ海軍基地を攻撃し、太平洋戦争に突入したのです。
 三国同盟の取り決めで、アメリカが参戦してきたら、三国共同で戦うと言う約束があったのでドイツ・イタリアも米国に宣戦布告をしたのです。

真珠湾攻撃

 1941年(昭和16年)12月8日、日本軍はハワイ島の真珠湾を奇襲攻撃しました。真珠湾のアメリカ海軍基地は1908年(明治41年)に設置され、日本の
海軍にとって脅威となっていました。
 それまでの日本海軍は対米戦となった時には、日本近海で潜水艦と航空機を用いて、艦隊決戦を行うと言う考え方でした。一方で、1939年(昭和14
年)に連合艦隊司令長官に就任した山本五十六は、米国に長期滞在した経験から、開戦と同時に航空機攻撃で一挙に決着を付けるべきだと昭和3年
の時点で、提唱していました。
 山本司令長官は、昭和16年1月、第十一航空艦隊参謀長の大西瀧治郎にハワイ奇襲の立案を命じています。大西は第1航空戦隊参謀の源田実に作
戦計画立案を命じました。第十一航空艦隊参謀長大西瀧治郎と第一航空艦隊参謀長草鹿龍之介は、石油資源獲得のために、アメリカの植民地のフィ
リピン方面に集中するべきとしてハワイ奇襲作戦に反対しましたが、山本は両者を説得し、自らを連合艦隊司令長官から機動部隊司令長官に格下げし
て、陣頭指揮をとりました。
 11月1日、東條英機内閣は大本営政府連絡会議において、12月8日を日米開戦予定日と決定しました。
 日本海軍は攻撃に備えて真珠湾を調査するため、スパイとして吉川猛夫をハワイの領事館員として送り込みました。吉川は真珠湾が一望できる別荘
地に住み、アメリカ軍艦艇の動向を日々調査しました。鈴木英はアメリカ行商船の最終便になった大洋丸に乗り込み、攻撃部隊の予定進路で気象条件
などを調べ、吉川の情報とともに詳報を日本に持ち帰りました。
 攻撃計画は、敵艦隊の他に広く工場や油槽施設を攻撃する計画もありましたが、水上艦艇に集中して確実を徹底する方が、米国の進攻能力を奪える
との結論に達しました。
 日本の艦隊は、鹿児島県での訓練を終えて大分県の佐伯湾に集結し、最終演習の後、11月18日に択捉島の単冠湾へ向け出港しました。奇襲成立
のためには隠密行動が必要でしたが、事前に過去10年間に太平洋を横断した船舶の航路と種類を調べ、その時期には北緯40度以北を航行した船舶
が皆無であることを知り、困難な北方航路が採用されたのです。
 南雲機動部隊は11月26日にハワイへ向けて、択捉島の単冠湾を出港しました。
 真珠湾は、湾の入り口が300mほどと狭く、水深も10m以下で浅かったので、潜水艦攻撃も艦砲射撃も難しく、「金城鉄壁の海軍基地」と言われていま
した。米国内では、早くから航空機による攻撃の危険性を認識した発言もありましたが、大西洋の戦局に関心が向けられ航空哨戒は疎かでした。
 11月27日、ホノルルでハワイ駐屯のアメリカ陸海軍の幕僚が、オワフ島防衛について協議しましたが、日本軍がハワイまで来ることは無いとの予測で
した。会議が終わった後に、陸海軍省から、日米交渉が破局に至ったとの連絡と、日本軍が近日中に戦争行為を起こす可能性が高いので警戒を怠ら
ないようにとの指示がありましたが、日本軍はフィリピン、タイ、マレー半島方面に上陸作戦を行うのではないかとの予測が大方であったので、キンメル
太平洋艦隊司令長官は、これを重く受け止めず、翌日空母エンタープライズに海兵隊兵士と戦闘機を載せて南洋方面に向けて出港させています。12月
4日には空母レキシントンが重巡洋艦3隻と駆逐艦を護衛に引き連れてミッドウェイに向けて出港したので、空母は真珠湾内にはいませんでした。
 12月2日、大本営は機動部隊に対して「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の暗号電文を発信しました。ニイタカヤマは日本軍占領下の台湾の山で、12月8
日に決行せよとの暗号でした。戦争回避となり攻撃中止の場合の電文は「トネガワクダレ」が準備されていました。
 対米宣戦布告は真珠湾攻撃の30分以上前に行うことが御前会議で決まっていました。
 12月6日にパープル暗号により、東京からワシントンの日本大使館に「帝国政府ノ対米通牒覚書」が送信されました。米国への宣戦布告の文書です。
パープル暗号は米側ですでに解読されており、電信を傍受した米軍諜報部は、翻訳文をルーズーベルト大統領に夕方には渡しています。開戦の通告と
言うことは判りましたが、攻撃先の具体的なヒントは書かれていませんでした。午後1時に覚書を米国のハル国務長官に渡した後はすべての暗号機を
破壊せよとあったので、この時間が攻撃開始だろうとは想定できましたが、ワシントン時間の午後1時が、ハワイ時間の午前7時30分で有ることを思いつ
くものは居ませんでした。
 ハワイにも情報を発信しようとしましたが、陸軍の無線機が故障していて手間取り、商用無線を通じて送信された警報が陸軍司令長官ショートのところ
に届いたのは、攻撃が終わった数時間後でそれも自転車に乗った少年によるものでした。
12月7日、伊号潜水艦隊から特殊潜航艇が発進しました。特殊潜航艇(甲標的)による魚雷攻撃は、真珠湾攻撃とは関係なく進められていた作戦でし
た。搭乗員の生還が難しいことから三度も却下されましたが、さらなる改良を条件に開戦時に伊号潜水艦に積載されていたのです。
 日本の総指揮官は、南雲忠一第一航空艦隊司令長官です。
 攻撃に参加した艦艇は、航空母艦(第一航空戦隊・赤城・加賀、第二航空戦隊・飛龍・蒼龍、第五航空戦隊・瑞鶴・翔鶴)、これへの搭載機は399機(零
戦120機・九九艦爆135機・九七艦攻144機)、第三戦隊・戦艦(比叡・霧島)、第八戦隊・重巡洋艦(利根・筑摩)、第一水雷戦隊・軽巡洋艦(阿武隈)、第
一七駆逐隊・駆逐艦(谷風・浦風・浜風・磯風)第一八駆逐隊・駆逐艦(陽炎・不知火・霞・秋雲・霰)、第二潜水隊・潜水艦(伊19・伊21・伊23)、第一補
給隊・タンカー(極東丸 健洋丸 国洋丸 神国丸)、第二補給隊・タンカー(東邦丸 東栄丸 日本丸)、特殊潜航艇(甲標的5隻)でした。
 真珠湾内に居た米国の太平洋艦隊は、司令長官ハズバンド・キンメル大将で、戦艦は8隻(カリフォルニア・メリーランド・テネシー・アリゾナ・オクラホ
マ・ウエストバージニア・ペンシルベニア・ネバダ)、重巡2隻(ニューオーリンズ、サンフランシスコ)、軽巡6隻(デトロイト、ホノルル、セントルイス、ヘレナ、
ローリー、フェニックス)、駆逐艦30隻、その他48隻でした。
 航空母艦は直前に出撃していて湾内にはおらず、航空機はカタリナ哨戒機14機と基地の航空機399機でした。
 12月8日、日本時間午前1時30分、日本海軍機動部隊から、第一波空中攻撃隊として艦戦45機が敵機との戦いを、艦爆54機は航空基地破壊を、艦攻
50機が戦艦を、雷装の40機が戦艦および空母を目標として計189機が発進しました。
 日本時間の12月8日は、ハワイの現地時間で12月7日、日曜日の朝でした。当時ハワイにはレーダーが6ヶ所有り、午前4時から7時の3時間だけ操作
されていました。7時の撤収作業の矢先、レーダーに50機を超える大編隊をみた新米の2等兵が、センターに電話をしましたが、この日は日曜日で管制
官が休んでおり、レーダーの訓練中の航空隊の陸軍中尉が一人で応対しました。彼はこの日友軍機12機が飛来することや、2隻の空母が航行中であ
ることを知っていて、これらの事が機密事項であったのでレーダー係に「気にするな」と言ってしまいました。
 朝7時49分(日本時間8日午前2時49分)、第一波の空中攻撃隊が真珠湾上空に到達し、攻撃隊総指揮官の淵田海軍中佐が各機に対して「全軍突撃」
を意味する信号(ト・ト・ト……のト連送)発信を命じました。つづいて、淵田中佐は旗艦赤城に「トラ・トラ・トラ」(ワレ奇襲ニ成功セリ)を意味する暗号略号
を発信しました。
 日本側の損害は、未帰還機29機、損傷機74機、戦死55名です。ほかに特殊潜航艇は5隻すべてが帰還せず9名戦死、1名が大戦最初の捕虜になり
ました。
 米国側の損害は、戦艦沈没3隻・大破着底2隻・小破3隻、軽巡洋艦大破2隻・小破1隻、駆逐艦大破2隻・中破1隻、標的艦ほか沈没2隻・小破2隻、航
空機破壊188機・損傷155機、戦死2,413名(民間人68名含む)でした。但し、終戦までにアリゾナとオクラホマと、もう1隻を除く船は航路の邪魔になったこ
とや、被害が軽微だったので引き上げられ、修理をして後日戦闘に参加しています。

戦艦アリゾナ号

 戦艦アリゾナ号は、12月7日の日本軍の攻撃により、火薬庫が第爆発し沈没しました。乗員1177名の内1102名が死亡し、昨年も200体ほどの遺骨が引
き上げられましたが、70年経った今もまだ250体ほどが艦内に残っています。
 真珠湾では、全ての船舶の係留時には、すぐに出港できるように船首を沖に向けて係留されていました。そのまま沈んだアリゾナの艦橋や砲塔など海
面上の構造物はすべて取り払われて、艦上にはクロスする形で純白の記念館が十字架を意味するように建造されています。海面には今も絶え間なく油
が浮上し、丸く光る輪を広げていて、死者の涙と言われています。
      
               戦艦アリゾナ記念館                                戦艦ミズーリ号

戦艦ミズーリ号

1944年1月進水の戦艦ミズーリ号は、全長270m、53.000トンの戦艦です。アメリカ合衆国24番目の州に因み命名されました。その大砲は50口径で、40.
6cm砲が9門、50kgの火薬を2袋詰めて発射すると砲弾は37km飛んだと言います。第二次大戦中は硫黄島攻略や沖縄攻撃に参加しました。この大戦
中に日本軍のゼロ戦が2機、特攻作戦でミズーリ号に体当たりしました。

ここ真珠湾では、すべての戦艦が出撃体制をとって沖合に向かって係留されているのですが、湾岸戦争に従軍したのを最期に二度と出撃しない船とし
て、現在は湾奥に向かって係留されて記念館として展示されています。
 戦争の始まりを表すアリゾナ号が沖合に向かって沈んでおり、ミズーリ号は戦争の終わりを表すように湾奥に向かって係留されているのです。
米国が日本に開国を迫った黒船の寄港地である浦賀沖と同じく、日本軍敗戦の降伏文書の調印もこのミズーリ号の甲板で、浦賀沖で行なわれたという
のも皮肉な巡り合わせです。
第二次大戦中に、日本兵の乗ったゼロ戦がミズーリ号の左舷に突入した。その際に機体の半分が甲板上に残って炎上した。そこに焼死体があった。ウ
イリアム・キャラハン艦長は、反対する者もあったが、「敵兵でも死んだら敵ではない。国のために命をささげた勇士である。これは艦長の意志である。
丁寧に葬ってやりたい。」と館内放送をして、隊員手造りの日の丸に包み、礼砲5発を打ち上げて全員敬礼のうちに水葬が行われました。
その日、ミズーリ号に突入したゼロ戦は2機おり、1機は艦へ到達直前に撃ち落とされており、どちらの死体だったかは不明なのです。
       
            左)右側の横になっているのが砲弾、左に立っている薬きょうの中の布袋に入ったものが50kg火薬。
            右) ゼロ戦兵士の水葬の様子。
 
陸軍航空隊 特攻作戦

 真珠湾への奇襲攻撃が成功した当時、東南アジアのほとんどの国は、西欧列強の植民地でした。守備隊の人数も少なかったので、日本軍は短期間
に守備隊に勝利し、東南アジアへ進出しました。
 しかし、1943年9月8日のイタリア降伏に続き、45年5月にはドイツが降伏したので、連合軍は日本軍への攻撃に集中できました。
陸軍航空隊による特攻作戦は、米軍の主力が沖縄の南西にある慶良間諸島に上陸した1945年(昭和20年)から始まりました。特攻作戦は、重さ250kg
の爆弾を装着した戦闘機で、敵の艦船に体当たりして、艦船を撃破しようという作戦で、パイロットは必ず死ぬという必死作戦でした。
 特攻作戦は、九州の各地のほか、当時は日本が統治していた台湾からも出撃しておりますが、特攻戦死者1036名のうち439名は、本土最南端の飛行
基地であった知覧飛行場から出撃しています。
   
海軍の大型戦艦

 1934(昭和9年)12月、日本は軍艦の建造を自粛していた海軍軍縮条約から離脱し、軍艦の建造を始めました。三菱重工長崎造船所建造の戦艦は、
霧島、日向、土佐、高尾に次いで5艘目ですが、従前の艦は4万トン以下ですので、武蔵の建造のためにはドックの拡張のみでなく、技術的にも研究が
必要でした。
 戦艦武蔵は、1938.年3月起工、40年11月進水、排水量65.000トン、全長263m、42年8月就航の大型戦艦でした。1943年(昭和18年)1月に大和から連
合艦隊旗艦の座を譲り受け、連合艦隊旗艦になった最後の戦艦であり、太平洋戦争期間中に一番長く連合艦隊旗艦を務めた艦でもあります。しかし、
トラック諸島の停泊地から動くことは殆んど有りませんでした。連合艦隊司令長官山本五十六の遺骨を携えて帰国し、6月24日に天皇陛下が巡幸に乗
船。
 44年2月に陸軍上陸部隊と5.000トンの物資を積んで横須賀を出港、西カロリン諸島のパラオに着きましたた。パラオで米潜水艦タニーの雷撃を受けて
浸水しましたが帰国し、航空機対応の装備に改造して、大和と共にマリアナ沖海戦に参加しました。大和と武蔵は機動部隊の前方に配置され、空母艦
隊の盾としたかったのですが、米攻撃部隊は戦艦部隊をやり過ごして、大鳳、翔鶴、飛鷹の主力空母3艘を撃沈しました。
 武蔵は44年10月24日、レイテ沖に置いて4つの空母群を持つ米第38部隊と交戦し、6次の空襲を受けて撃沈しました。

 戦艦大和は、日本海軍が呉海軍工廠で1937年11月から秘密裡に建造した大型戦艦で、1940年8月に進水。41年12月から就役しています。史上最大
の排水量69.000トン、全長263m、乗員3.000名でした。46cm主砲3基9門、15cm3連装12門、12cm連装高角砲12基、3連装機銃52基などを備えており、
完成後も最高軍事機密でありました。42年2月に連合艦隊の旗艦になって、6月のミッドウエイ作戦が初出撃でした。その後マリアナ沖海戦、レイテ沖海
戦に参加し、45年4月沖縄方面に出撃時に、アメリカ軍機動部隊の猛攻撃を受けて沈没しました。

本土大空襲

 1941年、日米開戦の直前にアメリカ政府はボーイング社にB29を250機発注しています。真珠湾攻撃があった翌年1942年には、国内の飛行機メーカー
各社に1600機の生産を命じています。
 ドイツ軍がロンドンに焼夷弾爆撃を行うと、米空軍は焼夷弾の開発に踏み切りました。日本の都市が殆んど木造住宅で、しかも過密であるので大火災
が起きやすい。と言うのが主な理由でした。当初は空母搭載機により、第一目標工業地域、第二目標市街地で爆撃が行われました。初空襲は1944年
11月だったのですが、たいした戦果は挙げられませんでした。
 1944年6月からのマリアナ諸島の戦いに勝利したアメリカ軍は、7月にサイパン島を、8月にグアムを占領し、テニアン島にハゴイ飛行場とウエストフィー
ルド飛行場、グアムにアンダーセン空軍基地、サイパンにコンロ井飛行場を建設しました。B-29の生産も終えて、日本本土がすべて爆撃できるようにな
りました。
 全国の主要都市が爆撃されたのですが、東京だけで106回の空襲を受けました。中でも1945年3月10日未明の空襲は死者10万人以上、罹災者100万
人を超える大空襲となりました。B29約300機(基地を出撃したのは325機、東京まで来襲したのは279機)が高度2千メートルの低空で侵入し焼夷弾33万
発を投下したのです。

原子爆弾の投下

 1945年8月6日、人類史上初の核爆弾による攻撃が行われました。8月2日、マリアナ諸島テニアン島の第509混成軍団にグアム島の第20航空司令部
から、野戦命令13号が発令されました。内容は、第20航空軍は8月6日に日本の目標を攻撃する。攻撃時刻の4時間前から6時間後までは選ばれた目標
に対して50マイル以内に入ってはいけない。とし、第一目標は広島市街地、第二目標は小倉市、第三目標は長崎市。と言うものでした。
 8月4日広島上空を飛んだ観測用機から『明日の広島の天候は良好』と報告がありました。
 翌5日、司令部から作戦命令が発令されました。ポール・ディベッツ陸軍大佐が搭乗員に出撃命令を出しました。
6日、0時30分ころ気象観測機3機がテニアン島から広島、小倉、長崎に向けて飛び立ちました。エノラ・ゲイ(機長の母親の名を付けた)は6日午前1時45
分核爆弾リトル・ボーイを搭載して離陸しました。2分後に記録を行う観測機、さらに2分後に写真撮影気が飛び立ちました。
 広島上空で投下された原子爆弾で、爆心地から500メートル以内での被爆者は98から99パーセントが死亡し、500メートルから1キロメートル以内での
被爆者では、約90パーセントが死亡しました。12月までの被爆死亡者は、9万人ないし12万人と推定されています。

 8月6日に広島への原爆投下作戦で観測機を操縦したチャールズ・スウイーニ―少佐は、エノラゲイの機長であったポール・ティベッツ大佐から、再び核
爆弾攻撃を行うので指揮を執れと命令されました。第一目標は小倉、第二目標は長崎でした。9日午前9時40分、ボックスカーは小倉上空に達しました
が、霞(前日空襲の煙もあった)のために目視による投下目標確認に失敗し、別ルートからの繰り返しにも失敗しました。再度3度目を行いましたがこれ
も失敗し、燃料の余裕がなくなったので別系統に切り替えたこと、日本軍戦闘機が緊急発進したことが確認されたこと、日本軍高射砲の対空攻撃が激し
くなったので、第二目標である長崎に向かいました。
 長崎に向かった観測機からは「長崎上空好天、しかし徐々に雲量増加」と報告がありましたが、時間が経過していましたので、高度2.000mあたりは80
〜90%の積雲で覆われていました。スウイーニ―少佐には目視投下が出来ないときは、原爆は太平洋に投下するようにと命令されていましたが、雲の
切れ目から一瞬だけ眼下に市街が見られ、ファットマンが投下されました。
 長崎市中心部から3kmほど離れていたことと、奥の山による遮蔽があったことから被害は広島より少なくすんだのです。

日本の降伏

 昭和20年戦況不利の中、4月に成立した鈴木内閣の外務大臣東郷茂徳は、翌年4月には期限が切れるとはいえ、日ソ中立条約が有効であったソビエ
ト社会主義共和国連邦を仲介として和平交渉を行なおうとしました。5月の最高戦争指導者会議ではソ連の参戦防止・中立確保のために交渉を行うこと
を合意しました。
 6月22日の御前会議で天皇陛下はこれに同意しました。7月12日天皇は近衛文麿を特使に任命し、モスクワの日本大使館を通じて特使派遣と和平斡
旋の依頼を伝えることになりました。しかし、ソ連は2月のヤルタ会談で、ヨーロッパ戦勝記念日(5月8日)から3か月以内に対日宣戦することで合意して
おり、日本政府の依頼を受ける気はありませんでした。ソ連が日本に宣戦布告する動きはヨーロッパ駐在武官から届いていましたが、軽視される結果と
なりました。
 ソ連は8月9日、満州国に突入し対日参戦をしてきました。8月14日、御前会議において鈴木貫太郎首相が昭和天皇に判断を仰ぎ、ポツダム宣言の受
諾を最終決定しました。ポツダム宣言はその第13条で「日本国軍隊の無条件降伏」が定められていましたので、これの受諾は日本が降伏することを意
味し、その夜、詔書が作成されました。
 天皇が詔書を朗読しレコード盤に録音しましたが、陸軍の一部に徹底抗戦を唱え、包装用の録音盤を奪取しようとする動きがあったが失敗に終わりま
した。5月15日正午から録音盤によりラジオ放送され国民に終戦が知らされました。
 第二次世界大戦による日本人の死者数は軍人230万人、一般人80万人程です。日本が統治していた朝鮮の軍人22万人、一般人2万人。台湾の軍人
18万人、一般人3万人が無くなりました。

ソ連への抑留

 8月9日、ソ連軍175万人が日ソ中立条約を破棄して、国境を越えて満州国に侵攻してきました。終戦時に満州国には、軍人を除き約166万人の邦人が
居ました。日本軍は主力を南方戦線に移しており、残りも戦線縮小のため朝鮮方面に移動中でした。武装解除された軍人のみでなく一般男子も含めて
約60万人が野外労働のためにソ連に抑留されました。
 侵攻してきたソ連兵は略奪暴行、殺戮を繰り返し、逃亡中に足手まといとなった子女を中国人に売ったり、泣き叫ぶ我が子を殺したり、ソ連兵に辱め
を受けたくないと集団自決をした人たちもいました。ソ連軍の侵攻による民間人の死亡者は176.000人に達しました。
 戦後満州に抑留された人のうち、死者は25万4千人、行方不明・推定死亡者は9万3千名で、事実上、約34万人の日本人が苛酷な労働と栄養失調で死
亡しました。
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