市川市行徳の区画整理

                                                           河野 善福 記

市川市富浜3丁目に建てられた行徳土地区画整理組合の記念碑      河野撮影
 
 市川市における区画整理事業は、昭和12年から行われました。、葛南地区においては昭和39年に千鳥町の海岸埋め立て事業が開始され、
 都市計画道路の建設発表が行われたことや、昭和40年8月に地下鉄東西線の東陽町〜西船橋間の延長計画が発表された(開通は44年3月)
 ことに伴い、公共施設の整備改善を目標として、土地区画整理事業が計画されました。 なお、この頃から地盤沈下により池沼地が多くなったこ
 とも土地整理を急ぐ要件となりました。
  千葉県の新市街地造成は組合整理事業に依存するところが多く、葛南地区では8区に分かれて土地区画整理組合が設立されました。
 昭和41年8月に南行徳土地区画整理組合が設立されたことに呼応し、行徳北部土地区画整理組合が44年12月に、行徳南部が45年10月、
 行徳中部が46年12月に設立されています。行徳土地区画整理組合は、昭和43年6月に秋本久三郎氏を理事長として、主に土地所有農家が
 中心となって設立されました。 この行徳土地区画整理組合の場合は国・地方公共団体の所有地が15.7%、民有地が77.2%、で整理地の
 総面積は531,229u、総事業費は17億円でありました。 約7年の歳月を要して事業は完成し、昭和50年に組合は解散したのであります。
  行徳土地区画整理組合の場合は、宅地6%、畑6%、田63%だったとされています。大正時代の行徳は内匠堀のお陰で水田が500町歩も
 あって、東葛飾郡内第1位の米どころだったそうですが、区画整理直前には田ももちろんありましたが、一帯は沼地状の場所が多く、レンコン畑
 と葦の茂った草地や放任地が地域一帯ではたくさん見られました。
  行徳地区の旧住民は、旧江戸川に沿った一本道である行徳街道添いに、北西側は旧江戸川までの幅100m、東南側は権現道と言われた道
 までの200m位の間に北から南に長い町並みを造って住んでいました。 権現道というのは徳川家康が東金に鷹狩りに行く時通った道なのだそ
 うで、この道を越えると海側に民家は殆どありませんでした。



               上下ともに    Yahoo Japan    H24.10.31   の 地図です。 

      昭和40年以前には赤斜線地域に住宅(6%)があり、その他の地域は畑(6%)、田とレンコン畑(63%)残りは葦の茂った沼地でした。
      この行徳地域に現在は16万人が住んでいます。メトロ東西線はまだ無くて、右下の湾岸道路やJR京葉線はまだ海でした。



 
昭和43年暮 上の地図の〇レの位置から海側を見た建築中の行徳駅 と 現在の同場所


 
同日に海側から見た見た行徳駅。区画整理で埋め立てと道路がほぼ完成 と 現在の同場所

 
                  同日に駅の海側で、区画整理で田んぼや沼地の埋め立てと道路がほぼ完成 と 現在の同場所
  区画整理が始まるまでは、この行徳街道から権現道を越えて、さらに現在のバイパス(安藤病院の前の6号線)にあった内匠堀を越えて、東南
  の方向(現在の湾岸道路方向)に車で通れる橋は、湊新田から御猟場に行く道と、花火を上げていた胡録神社の周辺と、本行徳と関ヶ島の間
  を通って畑の中を行く道(人家から500m位離れた畑の中で豚など家畜を飼っていた人の家に行く道)の他には無かったと思います。
  内匠堀は4mほどの農業用水路ですが、リヤカー道はあっても自動車の重量に耐えるほどの頑強な橋は作られてなかったのでしょう。
  新浜の御猟場は明治26年の創設で、御猟場の海側には泥を突き固めた防潮堤があり、このラインと千鳥橋までが私の知る埋立て前の行徳
  でした。 この防潮堤をコンクリートの防潮堤に改修護岸工事をしたのは昭和26年と聞いています。
 
 
      後方が行徳駅                                      


 自宅から見えるのは第7中学と地下鉄高架線のみ地下鉄東西線は、区画整理が始まる前の昭和42年頃から、まだ一帯に人家の無い田んぼの中に高架線の橋脚だけが並ぶ工事が始まりました。
 やがて、人家の無い田んぼと畑の中に鉄道高架線と駅だけがぽつんと出来て、東西線が開通したのは昭和44年3月です。 前年の昭和43年か
 ら行徳地区でも区画整理事業が始まっています。上の写真2枚はまだ埋め立て前で道路だけが出来た昭和43年冬の風景です。左の写真は行徳
 駅を 東南側(海側)から写しています。 右側の写真は線路の北西側から海側を写しています。 東西線の高架線路の手前に見える建物は、昭和
 37年に田んぼの中にぽつんと造られた第七中学校です。 中学校の裏の葦が生えた一帯ではへらぶながよく釣れていて、東京から釣りに来る人
 が結構居ました。 まだバイパスが無くて2間ほどのドブ川(内匠堀)で、なまずと雷魚が居たころです。もちろん区民センターもありません。
  私がこの地に家を建てたときは、まだ東西線の工事が始まる前で、線路が何処を通るのか判って居なくて、駅の建設場所も発表されていません
 でした。 本行徳の浅子神輿屋さんのご主人鈴木徳平氏は「第15代浅子周慶」として、関東では名の知られた神輿屋さんでしたが、副業で行徳に
 1軒しかなかった不動産業を兼業していて、「東海不動産」という店を真向かいに出して居ました。この不動産屋さんが初めて畑の埋め立てと分譲を
 手がけたという分譲地を私は購入しました。その分譲地は旧街道からは300mくらい、旧街道沿の住宅地からは200mほど離れたレンコン畑の中
 にありました。 分譲地には私が第1号で家を建てることとなり、建築申請を建築設計士に依頼したところ、「道路の認可が下りていないので家は建
 てられない」と言うことでした。見た目には4m幅の側溝も付いた道路が完成しているのですが、「道路として認めてもらう」申請が必要だということも
 知らない不動屋さんでした。私が雇った建築設計士が道路承認手続きを代行することになりました。 ところがもう一つ、問題になりました、分譲地
 はレンコン畑の一部を盛り土して造成したので、手前にはどぶ川が横切っており、橋を渡った先にある分譲地は3辺が1.5mほど低い水田のまま
 でした。 四周がすべて低いのです。橋を渡って分譲地の真ん中を通した道は終点が水田でしたので、行き止まりの道でした。誰も知らなかったの
 ですが、道路の認可を取るには、道は通り抜け出来ないと認可されないと判ったのです。 鈴木社長は分譲売却済みの右側宅地の裏側部分を道
 路にして側溝を並べ、道路の形にして、臨時の道を一周させて道路申請をし、それで認可が下りた後すぐに臨時の道路を元の宅地に戻したのです
 が、業者でも宅地の分譲方法を知らない時代でした。(分譲地内の道は全部舗装されていない私有地でしたが、宅地内に造った道路を宅地に戻す
 手続きはどのようにしたのでしょうか?。たぶん分譲宅地の登記的には何も変えないで、道路の認可は見た目の道路形で認可されて、偽の道路は
 取り払われたのだと思います。)
  私の家は現在のバイパス(当時はあの広い道路は無くて、内匠堀と言われた幅4m位の用水路と、用水路に沿って農道があっただけです。 この
 用水路には、なまずと雷魚がいました)よりは北側なのですが、旧集落からは離れて家を建てたので、電気も水道も引けず、壁土は小川の水で塗り
 、電気は家の完成後1ヶ月ほど経てやっと入りました。 田んぼの中の一軒家に水道は入居と同時に入ったのですが、電気の無かった約1ヶ月は
 ローソクと懐中電灯で生活をしました。 家のすぐ裏の田んぼに夏はカエルが多く、夜は鳴き声が重なってグァングァン・グアングアンと聞こえていま
 したし、日中は白鷺が裏の田一帯に下りていました。
  内匠堀というのは、1620年頃、狩野浄天という人と浦安に住んでいた田中内匠と言う人が許可を得て、設計監督をし、現在の本八幡のほうから
 浦安まで農業用水路を作り、行徳地区で米が作れるようにしたという農業用水路の名前です。湿潤地で耕作に適さなかった沼地のような行徳浦安
 地区を水田地にした水路です。浦安まで続いているバイパスはこの水路があったところです。

  
  この広大な土地の埋め立ては僅か2年くらいで、あっという間に埋め立てられました。 ダンプカーで土を運んだのではなく、どうしてそんなに早く
 埋め立てが終了したと思いますか?。 答えは遠浅の東京湾です。 行徳と浦安の土地は江戸川が何万年もかかって、上流の土砂を運んできて
 出来た三角州です。 沖合いに向かって引き潮になれば1kmくらいは歩けるような遠浅の海でした。 だからアサリの養殖や海苔の養殖がこの地
 の漁業だったのです。 沖合いにコンクリートの塀を造って、その外側の海に強力な掃除機の親分をだんべ船に乗せて浮かべ、移動しながら海底
 の水と砂を吸い取ってパイプで埋立地に送るのです。 パイプの先端を移動しながら放水すれば、海水は海に戻って砂が埋立地に残るのです。
 広大な障害物が何もない埋め立て広場に、縦横自由に後から道や公園を造るのですから整理された街路が造れました。 埋め立ての終わった場
 所にゴルフボールを沢山持って行って、ゴルフの練習を何度もしましたが約2割は白い貝殻でした。 何万年もの間に死んだ貝の貝殻だけが残っ
 ているのでしょう。 直径10cm位の貝殻なのですが、機械で吸い込まれる時に砕けるのでしょう、完全な形で残っているものは探したけれども一
 個もなく、大きいものでも半分くらいに割れていました。 アサリよりは大きく、ハマグリではなく、名前の知らない貝の貝殻が真っ白に変色していて、
 それが2割以上も有ると、後でゴルフボールを捜すのが大変でした。 ですから行徳の土地は表層部は機械で撒いた砂地ですが、10m下も自然
 に堆積した砂地ということになるのでしょう。 地震で地盤が揺れると水が地表に出てくると言われています。


 
 上の写真は区画整理の終わった昭和50年頃のものです。 中央が行徳駅ですが、この頃になっても、埋め立てが終わり道路が出来て居るのに
 建物は殆ど建っていません。 実は区画整理と言うのは自分が出した土地を自分がそのまま使えるわけではないのです。 道路とか公園・学校用
 地などの公共用地分が減るだけでなく、この事業を行うための費用を捻出するために売却する土地も必要なので、各人に戻ってくる土地は75%
 位になるのです。 ですから事業が終わって組合が換地処分するまでは、ここが自分の土地であるという権利が無くて、家屋が建たなかったのです。 
 駅から700mも離れている私の家からも、間にビルが建たなかったので5年間位は行徳駅が見えていました。地下鉄南行徳駅が出来たのは昭和
 55年(1981年)で、開業したのは56年3月です。
  この行徳の区画整理事業は、申請直後から田中角栄総理の提唱した「列島改造論」の影響で国内の景気が好況を向かえ、金の余った大企業が
 国内の土地の購入競争に走ったために地価が高騰し、事業費をまかなうための売却地が予想を大きく外れる高額で売却されました。組合の解散
 時には残金のあることが許されないとのことで、行徳土地区画整理組合の場合は、当初は予定に入っていなかった公共工事を追加で行ったのみ
 でなく、組合員の家族をバス3台に分けて伊豆まで慰安旅行を行い、収入金を使いきって解散しました。
 
 
  上の写真は昭和50年頃の行徳駅の周辺です。 ポニーのビルと大和銀行(現りそな銀行)のビルを建築中です。
  一番上に載せた「区画整理の碑」はこの区画整理事業を記念して、富浜3丁目の行徳中央公園に行徳土地区画整理組合が建てたもので、
  150名余の組合員の氏名が刻まれています。 行徳土地区画整理組合が設立された昭和43年頃の土地の所有者は、若者は少なく、殆ど
  の人が当時の家長の老人であったために、碑に名を刻まれた多くの方がもう鬼籍に入られています。 現在の住民の祖父とか父親の名前
  が大半になっています。 四国で育った私が東京に働きに出て、縁あって20歳代で区画整理前の行徳に家を建てることとなって、この地で
  区画整理事業に参加することとなったために、まだ若かった私が碑に名前を刻まれることになったのです。健在者の一人として、私はこの事
  業の組合員の一人として、事業に参加できたことを生涯の思い出として語り継ぎ、今後も行徳の発展を見守りたいと思っています。 


             市川市富浜3丁目に建てられた行徳土地区画整理組合の記念碑の組合員名簿      河野撮影

    南行徳地区と妙典地区の区画整理事業は終結解散が遅れ、住民の居住も遅れたために、地下鉄駅の建設も遅れて、南行徳駅が開設
    されたのが昭和56年(1981年)、妙典駅が開設されたのは平成12年(2000年)です。



  昭和56年、市川市役所発行の地図。 まだ妙典や行徳の海岸部は区画整理が終わっていなくて、京葉線が工事中、湾岸道路は未着工です。
       
     参考文献   市川市行徳土地区画整理組合編 「行徳土地区画整理のあゆみ」
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