Chapter.18「『疲労』を科学する」
序の1 「大事故は夜明け前におこる」
 現代社会の悪名高い産業事故、例えば スリーマイル島原発事故 インド・ボバール化学工場爆発事故 チェルノブイリ原発事故 エクソンオイルタンカー座礁事故 がみな真夜中に起こったのは偶然でしょうか?
 いずれも担当者が極度に疲労している時間帯の事故でした。

 また スペースシャトルチャレンジャーの打ち上げを決断したのは 20時間も働きつづけたあと、たった2時間仮眠しただけのNASAの高官でした。
NASAの予算獲得や大統領演説とタイミングを合わせるという(政治的)「必要があった」ため、 「O―リング」製造メーカー技術責任者からの打ち上げ延期要請を 「とるにたらないこと」「技術者から経営者に帽子を取り替えろ」と無視してしまったのです (この事故はヒューマンファクターだけでなく、技術倫理や社会心理学・組織文化の側からも分析されています。中災防新書などを参考にしてください)。
序の2 眠らない社会・・・・・・そして24時間続く医療行為
 医療事故の背景の一つに「24時間続く医療行為」があげられています。 しかしこれは医療界だけの問題ではないのです。

 わたしたちの社会は、昼と夜という自然のリズムに支配されていた社会から、 ノンストップのテクノロジーに駆動された社会へとかえられてしまっています。  テクノロジーがもたらす快適さと便利さの恩恵を受け、一日のいつだろうと、当然のごとくテレビのスイッチを入れ、 地球の反対側にいる同僚からメールを受け、コンビニで食べ物を買い、何千キロもの距離を移動させてくれる飛行機にのりこみます。  そして我々は24時間いつ終わるともない治療(医療)行為をつづけています。

 けれども、わたしたちの身体はそんな暮らしに合わせてデザインされたわけではないのです。
その結果、睡眠不足に陥り、疲労がたまる。疲労が著積された状態になると、どれほど誠心誠意がんばろうと思っても、 どれほど安全上の予防措置をとってみても、身体(脳)がいうことをきいてくれないという事態に陥ります。
 ファイナル・アプローチでこっくりしてしまうパイロットや、コントロール・ルームで寝てしまう原発オペレーター、  手術室で助手が立ったままうとうとしてしまったり、午前3時に当直の仮眠室で出した指示を翌朝どうしても思い出せなかったりする場合だってあり得ます。 (私の場合、よくあります。いまのところそう大きな間違いはいないのですが・・・・)

序の3 人間のスペック
 この問題の核心にあるのは、人間の作り上げた文明が求めるものと、人間の脳や身体そのものが求めるものが、 根本的にくいちがっているという事実であるといわれています。

 何百万年もかけて作りあげられた人間の身体は進化の頂点にあります。 細胞と化学反応、構造と組織、筋肉と骨格が有機的にからみあった繊細な有機体、それが人間なのです。 しかし人間の身体は、わたしたち自身がとっくに忘れてしまったような古めかしい仕様書(スペック)に沿って作られているということなのです。


 そもそも人間という動物の行動範囲は、日中は狩りをし、 夜は眠り、日の出から日の入りまでにせいぜい数十キロくらいしか移動しないもの、 のはずです。
にもかかわらず、現代のわれわれは、四六時中働いたり遊んだり、ジェット機で地球の裏側へひと飛びしたり、 頭が覚醒していない早朝から、 生死にかかわる決定を下したりすることを強いられています。

 人間の生体リズム(特にサーカディアンリズム)にさからって作り上げられてしまった社会は、「必要以上」に「疲労」が蓄積するシステムになっています。 産業界はこれをどう解決して行こうとしているのでしょうか。私達がそこから学ぶものはないのでしょうか?

この章では人間と疲労について考えてみます。

1.  疲労とは
 「疲労とは」という問題を評価することはなかなか難しいようです。
それは個人差が大きく、原因が複雑多分岐であり、生活習慣の違いが大きく、判定手段も「一面的」だからです。

「疲労」は研究者によると以下のように定義されます。
 ・ 身体的あるいは精神的負荷を連続して与えられたときにみられる一時的な身体的・精神的パフォーマンスの質的・量的低下である
 ・ “痛み”や“発熱”と同じ3つの生体アラームである
 ・ 「疲労」と「疲労感」はことなる


 筋肉疲労は合理的に定義された概念ですがここで考えるのは、 「脳の疲労」つまり物事を考えられなくなり 注意力が散漫になってうたた寝をするような状態のことです。
疲労すると眠くなるばかりではなく具体的に次のような兆候・症状があらわれます。
(NASA)
 ・ 反応時間が遅くなる
 ・ 注意力の減少(低下)
 ・ 忘れやすい
 ・ 決断力の低下
 ・ 無関心
 ・ 無気力
 ・ 居眠り
 ・ 何かに執着する
 ・ 会話の減少など

 そして「疲労」と「疲労感」の違いもあり、疲労している本人はこの兆候の発生を認識する能力が落ちてしまいます(疲れを自覚できない)。  「身体的・精神的負荷」はもちろん疲労の原因ですが、もっとも大きな影響を与える要因は「睡眠不足」と「サーカデイアンリズム」です。

2.  疲労の判定
 「脳の「疲労の程度」を眼に見えるようなかたちで測定することは難しいのですが 「覚醒のレベル」は測定可能な手段がいくつかあります。
ここでは“フリッカーテスト”をとりあげて能力の低下を考えてみます。

*フリッカーテストとは ・・・疲労測定法の一つ。光を遮光(しゃこう)板の回転により点滅させ,回転速度を上げてちらつき(フリッカー)が見えるか見えないかの境目における毎秒回転数(フリッカー値)を測定し、 フリッカー値が小さいほど疲労度が高い、と判定するもの。
    つまりフリッカーテストは

    「疲労」を大脳皮質で感じる
     ⇒大脳皮質の活動が低下
      ⇒知覚の低下
       ⇒光のちらつきを判別できなくなる
        ⇒フリッカー値が低下する
ということで疲労の程度(パフォーマンス)を数値化しようというものです。
 その他の測定法として、
  ATMT法や、音声の分析や「ゆらぎ」からリアルタイムの分析が研究中です。

 疲労の実際の推定
    疲労シミュレーション(FAST/SAFTE:これについては別の章で解説します)
3.  サーカディアンリズムの知識  〜夜間勤務はサーカディアンリズムに逆っている〜
 人間には「体内の働きの、一定の周期を持った変化」があります。 これを“生体リズム”と呼んでいます。

 「疲労」が人間の脳の活動レベルを低下させることは実感としても理解できますが、生体リズムもまたそれに影響を与えます
 この代表的な例として、睡眠のリズムがあります。深い眠りのノンレム睡眠と 眼球が動き浅い眠りのレム睡眠を90分サイクルで繰り返すものです。
 これは最近流行りの睡眠時無呼吸症候群や睡眠障害などにも関与しています。これを“ウルトラデイアンリズム”といい、 このほかに約一日(25時間)のリズムを持った“サーカディアンリズム”といわれるものがあります。
その中には「覚醒レベルの変動」「眠気の変動」「(深部)体温変動」「血圧やホルモンの変動」などがふくまれます。

4.  「魔の時間」がある
 覚醒度
フリッカー値を24時間記録してみると図のような日内変動がみられます。大きく低下しているのは午前3時から5時と、もう一つ午後2時から4時の間にも小さな低下があります。この二つの「低下」が問題になります。これは覚醒度が低下しているのです。
フリッカー値日内変動
 眠気
MSLTという、「ベッドに入ってから眠るまでの時間が短いほど眠気が強い」、 という仮説にもとづいた眠気の測定法があります。これで24時間の眠気の変動をみると、深夜4-5時にはベッドにはいって数分で眠ってしまうという最も眠気の強い時間帯があり、 午後の1時から4時までの間にも昼食と関係なく眠気があることがわかります。 突然引き込まれるような眠気のようです。
 覚醒度の低下(フリッカー値の低下)と「エラー」
右の図はフリッカーテストの日内変動(疲労)と居眠り事故、信号見落とし事故との関係を調べたものです。上段は フリッカーテストの日内変動、中段は 東名高速での1年間の居眠り事故の発生時刻別を示したもの、下段は 旧国鉄の信号見落とし(違反)事故の発生時間帯です。旧国鉄で35年にわたって安全人間工学を提唱した橋本邦衛先生のデータです。 フリッカー値が低下する「魔の時間」に信号の見落とし事故が頻発しています。そして午後にも小さなピークがあることがわかります 。

※フリッカー値の日内変動と逆相関であることに注目する必要があります。
 コックピット内での居眠りの有無とその発生時間を自己申告で調査したものもあります。さらに「居眠り」まで至らなくとも脳波ではアルファ波が多く出現しマイクロスリープの発生が観察されるそうです。マイクロスリープとは本人に自覚がない、短時間の微小睡眠のことです。 アメリカ大陸を西に向かって飛行してきたB747がクルーが三人とも眠り込んでしまいロサンゼルスを越えて飛んでいってしまったという例 まであります。この時間帯の操作ミスが明らかに多いことも指摘されています 。 この場合の体内時計は現地の時間でなくパイロットの自宅(飛行機の基地)の時計に一致しています。
24時間社会となっている現代では、長時間労働による「疲労」「睡眠不足」に加えて、サーカデアイアンリズムによる「魔の時間帯」がさらにエラーや事故の可能性を増していることがわかります。

5.  睡眠と疲労    「当直明け(ず)」の医師は「酔っ払い運転」状態
 「疲労」は誰もが合意できる客観的評価をするのは難しく、「労務上」の問題として取り上げられたりするため 「科学的」「実践的」に扱われてきませんでした。
 また本人の(間違った?)プロ意識や間違った責任感があると疲労の自己申告(認識)も難しいものです。「俺はプロだ。これくらいで疲れたなんて言ってられない」とか  「給料もらっているんだから」とか、「いつもやっている仕事だ(だからできる)」と本人がまじめなほど考えてしまいがちです。

 「疲労によるパフォーマンスの低下」を「アルコールの血中濃度」(酔っ払い状態?)にたとえた報告が」あります。

連続夜勤は泥酔状態と同様の判断力
 1997年に南オーストラリア大学・Drew Dawson博士らが、眠気による認知的パフォーマンスの低下を、 血中アルコール濃度に換算して評価する「アルコール中毒法」で調査した結果以下のことが解りました。(NATURE | VOL 388 | 17 JULY 1997)

夜勤開始後17時間(午前3時)⇒血中アルコール濃度0.05%と同じパフォーマンス

夜勤開始後24時間(午前8時)⇒血中アルコール濃度0.11%と同じパフォーマンス


 血中アルコール濃度0.05%はほろ酔いと言われる濃度(日本の酒気帯び運転の血中アルコール濃度は0.03%)だそうです。
つまり、すでに午前3時の段階で、酩酊状態で夜勤ということになります。これでは、リスクが高くなるのも当然です。

 さらにこの実験では朝起床して8:00から実験がはじまっていますが、シフトワーカーの場合、半数は最初のナイトシフトにはいる前日に睡眠をとっていないことが知られています。
つまり、シフトワーカーは働き始める前にすでに自覚はなくとも「疲れて」いる可能性があります。 人間は社会的にも生理的にもそう都合よく睡眠をとることはできません。
ですから、実際はこの実験のデータよりさらに深刻なはずです。

*例えば、日勤―当直―日勤(計32時間勤務)をした医師の判断力は血中アルコール濃度約0.1%に相当する、といいます。これは「酔っ払い運転」レベルです。
こういう「名医」に手術をしてもらったり、治療方針を考えてもらうことに不安はありませんか?
 このあと、この医師が自ら運転して帰宅するとしたら、危険なのは病院にいるあなただけではありません 。

*「3-4時間/日の超過労働は冠疾患リスクが1.6倍になる」という報告があります。
(http://www.ncbi.nlm.nih.gov/pubmed/20460389) 自分自身も危険なのです。

参考資料
http://homepage3.nifty.com/akira_ehara/bunken1.html
http://plaza.rakuten.co.jp/sionasroom/7002
http://www.iatss.or.jp/pdf/review/35/35-1-02.pdf
 
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