組織の隙間、意識の隙間(2)
 
SAFETY BIRD BANGAI
或る病院でのケースを理解のために少しだけ脚色してあります。
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ケース「頸椎の手術 術後気道閉塞」

関係者:術者 整形外科医A(指導医、専門医)
麻酔は大学からの出張医B(麻酔科指導医)
手術室看護師C,D
病棟看護師E
当直医F(心臓外科医)

 頚椎の手術。術者は整形外科の専門医、指導医で15年目。手術室の看護師はいつもAの手術は遅くなること、予定がたびたび変更になることなどで不満があった。手術が"しらけた"感じで行われることがしばしばだった。
 その日は、予定外の出血で手術が長引いた。外回りの看護師Dは何か再出血が心配だった。Aの手術は出血が多いような気がする。術後だって腫れていることがある。

 やっと手術が終了したとき、大学からの出張麻酔科医Bがいった。
「大学ではC(頚椎)4以上の場合、念のため(気管内チューブの)抜管はICUで行っていますけど・・・・」
「いや、今日はそれより"下"だから大丈夫ですよ、抜いてください」とA。

 患者もほぼ覚醒しており気管内チューブは抜かれた。皆の目には呼吸はいつもの術後と変わらないように見えた。

手術室から病棟への申し送りも「いつもの通り」だった。ただ遅くなった原因として手術室看護師Cは「出血がありましたので」とだけ付け加えた。病棟では「いつもの通り」決められた時刻まで酸素投与の指示がありそれにしたがってカヌラで酸素が投与された。
ところが頸部の手術創内での出血は続いていたのだ。酸素は与えられてはいるが、息がしにくい。覚醒しているとはいっても術直後のこともあり自分からナースコールを押すことが出来なかったようだ。そのうちにわからなくなってしまった。
病棟の看護師がみまわりで発見したのは○○分後だった。

当直のFに整形外科病棟から電話。「今日の術患のSPO2が低いのですが・・」。かけつけたFが目にしたのは「Spo2が低い」などというものではなかった。頸部(くび)が腫れ、殆ど呼吸が止まっている(窒息)患者だった。急いで蘇生バッグを押し、気管内挿管の用意を指示したが、そんなことに日常的に慣れていない病棟なので、時間がかかる。しかし、とにかく挿管して集中治療室に運び人工呼吸器を装着した。
その後、CTで創部内の血腫が気管喉頭を圧迫していることが確認された。

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チーム行動

事故になってから、「私は出血が心配だった」「麻酔科医は"危ない"といった」などという証言がありました。ところが、"そのとき"にその意見を明瞭に主張したり、病棟への申送りでその点(懸念)を申し送ることはありませんでした。単に「出血があった」「手術が遅くなった」という(表面的) 客観的申し送りだけでした。手術室の看護師が出血の懸念を発言したり、麻酔医が頚椎手術のトラブル例を具体的に(大学では何故そうしているのか)説明したり、手術室看護師が病棟に対して「出血があったので〇〇に注意してみてくださいね」という具体的申送り(「状況認識の共有」とでも言うのでしょうか?)があれば、病棟でももう少し早く気道の圧迫を発見できたのかもしれません。

アサ−テイブになれなかった麻酔科医

麻酔科医は同じ手術ではないにしろ、頚部の手術やトラブルで術後の気道閉塞が決してまれではないことを知っていました。だから、心配したのです。ところが、麻酔科医の態度は「アサ−テイブ」とはいえませんでした。最後まで懸念を主張(advocacy)すべきだったにもかかわらず「アサ−テイブ」になれなかったのは、出張医であったこと、術者より年下であったこと、出身大学が違うこと、言葉で明確に説明できる「証拠」がなかったこと、「外科と麻酔科の関係」が考えられました。この関係は権威勾配(TAG)と一言でいえないところがあります。麻酔科医は一般的に主治医にならないため発言が遠慮がちになることがあるような気がします。言葉には出さなくとも「主治医は俺だ」「俺が責任をとるんだ」という外科医の態度・意識が影響しているかもしれません。

「誰も気がつかなかったこと」でなく「チ−ム」の中に危険に気がついていた人(少なくとも心配していた)が複数いたにもかかわらずこんな結果になってしまったのですから悔しいのです。しかし、術者の技術的問題と「頑なさ」にだけ原因を求めても「人」が変わればまた同じ事が起こるかもしれません。気がついていた麻酔科医や手術室看護師が懸念ををはっきりと主張できなかった,そしてそれを他のメンバーに伝えることがなかった、組織の雰囲気・業務の体制にもおおきな問題があります。

前の連載にも書きましたが「コンフリクト」(意見の対立)があるほうが"良いチ−ム"のことが多いのです。コンフリクトを嫌い、これを回避したことでチ−ムとしての機能は失われてしまいました。(連載の「コンフリクトは・・・」を読んでみてください)

好き嫌いのヒューマンファクター

実は、この術者の整形外科医は手術室との間にトラブルをかかえていました。「好き嫌いで業務上の行動が影響される」などというととんでもないと非難されそうですが、私たちは聖人でもなければ神様でもありません。どんな職場でも必ずあります。たとえば「どうしても○○さんとはウマが合わない」とか,「本当は見るのも嫌だ」という感情です。ここで「そんなことはいけない。我慢しなさい」ということが言いたいのではありません。ただ、そういう自分の好き嫌いの感情が時として「バイアス」となることがあることを知りなさい、ということなのです(「聞こうとしなければ聞こえない」「見ようとしなければ見えない」という「注意」の限界が如実に現れるとおもいます。

相手を好きになる必要はまったくなく、むやみに相手を「信頼」する必要などもちろんありません。ただ、ものごとが正しく推移しているかどうかを見る必要があります。だれがやっているか?でなく、そこで何がおきているか?なのです。
逆に、仲が良すぎるのもルールが曖昧になるといった問題を起こすことがあります(「嫌われたくない」「好かれたい」という感情も強すぎると判断を狂わせます)。

また逆に「あの人には何を言っても・・・」といつも思われていると、当事者自身はチームで仕事をしているつもりでいても、「チーム」として成り立っていないことがあります。

確かに「完成された?(あるいは老化した)」組織はチーム、職種、個人のテリトリーも明確で業務の流れに無駄はないかのようにみえます。仕事は効率的で、時間も短くてすみます。しかし、その境界で何かが起きたとき、この例のようにその隙間が広がってしまっていることにあらためて気がつくことがあるのです。

「隙間」を広げないために

 困ったときにだけ「意識の隙間を作らないように」と指導してもそんなことはできません。日常的に組織(チーム)として境界領域の重なりをあえて作っておくことも必要です。
@「自分たちの専門枠と意識している分野」の少し外側の知識をもつ
A人間関係の範囲を「直角上下」の仲間内から「斜め上下」の自分たちを取り巻く分野の人たちとの関係をつくる
Bタイミングよく「下」が「上」に、「他分野のひと」が「専門家」にエラーの指摘や懸念を表現することは困難なこと、を知る(アサーショントレーニングなど)
C自分の仕事の「一つ上のミッション」をいつも考えること
 こういう努力をつづけると「情報(知識・経験)と状況認識の共有」という安全文化の基礎をつくることができるような気がします。


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緊急時の指針・チームトレ−ニングの欠如

 蘇生にしろ何にしろ緊急時の「処置」に関してはそれぞれのレベルで教育されていたはずです。しかし考えてみると教育されていた「処置」というのは、「心臓マッサ−ジは100 回/分のぺ−ス」とか「○○という薬を使って」とかいう「医学的知識」に偏っています。また明らかに「定型的」な場合の教育といえます。おまけに「時間軸」もあまりありません。「助けを呼ぶ」とか「人を集める」、「そのときのリ−ダ−は誰で、それが無理なときは・・・」「リ−ダ−を代わる」などということも含めた「チ−ム行動」に関しては何も具体的に教育されていません。ごく限られたケ−スで集中治療室などで担当医がくるまで指示をだしたりしているのは、(役目としてのリ−ダ−ではなく)経験のある看護師でした。

 当院の「事故がおきたら(事故発生時マニュアル)」も「患者の回復に全力を・・・」「必要に応じて他科の応援を・・・」などと記載があるだけです(当時自分が提案しておいて、いまさら批判するのもおかしいのですが)。

必要なチ−ムトレ−ニング

 今回のような事故に限らず、エラ−や事故を想定したチ−ムトレ−ニングが必要だといわれています。

 日常の仕事の中ではコミュニケ−ションは比較的の余裕があります。「言い直したり」「ほかのドキュメントで確認・修正」などという冗長性もあります。ところがエラ−や事故を起こしたような場面(そしてそれに気がついた時)では、精神的動揺と(たとえトレ−ニングでも)タイムプレッシャ−が加わり、チ−ム行動の限界が如実に表れると考えられます。

私たちの場合「心停止」や「呼吸停止」などのCPRに関した「勉強会」「実習」は行われるのですが、スタッフ間でのコミュニケ−ションをも考えたチ−ムトレ−ニングとして行われることはあまりないような気がします。個々の技術や知識の「学習」だけです。(ACLSやBLSのトレ−ニング・セミナ−でさえチ−ムとしての評価でなく個々人の知識(あるいは技術)の評価だと思います。参加した経験がないので違うかもしれませんが)

最新のシミュレ−タ−を備えた施設が最近いくつかできていますが、いまのところ「テクニック」を学ぶところではあっても「チ−ムトレ−ニング」やその評価をするところではほとんどないようです(ある施設でそれができる、そうです。近日中に見学予定)。
航空界ではシミュレ−タ−を用いた日常の技術訓練のほかにLOFTとよばれるline orientedの訓練を利用したチ−ムとしてのHFトレ−ニングがあります。記録ビデオを視聴しながら(操縦技能以外の点で)お互いの行動・態度を振り返る訓練です。私たちの場合、一部の大学や大メ−カ−のように高価なシミュレ−タ−を各自の施設で持つことは不可能ですので、蘇生のマネキンでCPRの実習の一部に組み込むとか、実際に救急室の患者さん搬入時とその後落ち着くまでをビデオで記録し、あとで視聴するなどということでも効果がありそうです。技術的な問題の検討もありますが、そのときの「会話のやりとり」「うごき」(などのノンテクニカルスキル)を再現し反省することに意味があると思います。

どこかのゲ−ムソフトメ−カ−が日本が誇るPS3、DSなどのゲ−ム機対応の「ゲ−ム」を作ってくれると"それなりに高くても"売れると思うのですが・・・協力する医療従事者もたくさんいると思うのですが。

当事者はパニックになる
どんなベテランでも心の中は「フェイズ4」


 最後にアクシデントが起こった時に、僕が「当事者」だったらこんな気持ちになるだろう、という例えです。(こんな「術者」 の気持ちを落ち着かせながら、「皆が協力するぞ!」という態度を表しながら事を運ぶ必要があるのです)
「どうしたんだ!いったいなんだ!」
「あのときの○○が悪かったのだろうか?▲▲だろうか?
(頭の中はグチャグチャで過去ばかり考える)」
「どうしよう。こんなこと患者さんや家族に説明していなかった・・・・・」
「もし、死んでしまったらどうしよう。何て言おう」
「なんでうまくいかないんだ。くそー!」
「何で誰も助けてくれないんだ!誰か声を出してくれ!」

 いかがでしたでしょうか?ある病院で実際に起こった出来事を、わかりやすくするために(情報として確認できないことを)補って「例」としたものです。
 この連載に、ご意見、ご批判、ご教示をお願いいたします。



注 
「そのとき」、一歩前に踏み出すことができるかどうかは、組織の文化、雰囲気の影響がいちばん大きいとおもいます。先輩がよい態度だと 後輩も自然に・・・
個人にばかり「そのとき(他のテリトリーのことまで)がんばれ」と意識高揚をうたってもだめです。
しかし「個人」も「専門家として」そこにいる理由、「なにを持って社会的に存在できているのか」をいつも考える必要があります。そして、いつもの自分の業務よりもひとつ上の眼(俯瞰?)で判断してみることも必要です。
医療事故といってもいろいろなレベルのことがあります。「高いレベル」のことはここではとりあげていません。ほとんどのことは僕レベルの「後知恵」でも「何であんなこと」というレベルの問題です。
いつまでも創生期とおなじように「俺が俺が」という気持ちがあれば「隙間」など考えなくてよいのですが(そのかわりコンフリクトも多い)、体制が整ってしまうと人間は組織(グループ)の内側を向くようになります。そのほうが「専門性」はアップするし、評価も高くなるからです。しかし、逆に安全組織で名高い3Mなどが「5%ルール」などとして専門以外の眼を養わせていることの意味をかんがえることも必要と思います。
「フェイズ4」は橋本邦衛教授の意識レベルの分類です。





 
 
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