患者誤認のヒューマンファクター
 
患者はいつも「次は自分だ」と待っている
 「期待感は判断を不正確にする」という言葉がCRMにあったことを覚えていますか?
 あの1977年テネリフエの事故でも、時間が遅れ、焦っている機長に対して管制官からの「OK,○○までの飛行を許可する。 離陸滑走は追って(雑音)する」という無線の「OK、許可・・・」を離陸滑走許可と(自分が望んだように)「聞き」、滑走を始めてしまったのでした。
「期待感」や「タイムプレッシャー」が「聞き違え」を誘発してしまうのは、パイロットだけではありません。患者さんも私達もまた同じなのです。

 「○○さん」と呼ばれて「(本当は自分が呼ばれたのではなくとも)はーい」と待ちくたびれた患者さんが診察室に入ってくることだってあります。 患者さんが待たされていたときには、私達も忙しいときです。 「○○さん」と思いこんだ私達は、「思いこんだ道筋に合致するように」「○▲さん」の話を「聞いて」いきます。 このときベテランであるほど多少前回と印象が違っても「あれっ?」と思って名前を確認するというより、「つじつま」を合わせた解釈をしてしまいがちです。

直接の診療ではないのですが「家族」を完全にとり違えて「病状説明」をしてしまったことがあります。 集中治療室の待合室で待っているはずだったご家族にAさんの説明をしようと「Aさん(のご家族)」とインターフォンから呼びかけたところ、 部屋に入ってきたのはBさんのご家族数人。そうとは知らずにしばらく話しをしていたところ、トントンとドアがノックされ「Aですが・・」と。 びっくりして平謝りにあやまったのですが、聞くところによるとBさんのご家族のほうが早くから主治医からの連絡を受け、待ちくたびれていたということでした。

患者はいつも「はい」と答える
    〜患者はとっさに「No」とは言えないものだ〜
 聞き方にもよりますが、医療従事者から(特に医者から)「○○さんは△▲でしたよね」「さあ、この前にお話した××をしますね」 などといわれると「あれあれ?!と思いながらもとっさに「NO!」 とはなかなか言えないものです。 まして、通常の状態でない場合や急がされている場合(相手が急いで見えるような場合)はなおさらです。 そして一度「はっ、はい」と答え、話が進んでしまうと「なにか変だな」と感じても患者さんの側から 「それ、わたしのことではないのではありませんか?」と話を戻すことは以外と難しいのです。

「患者との間にあるTAG」: もう一つの疑問はこの時何故Bさんのご家族はそのまま(Aさんに関する説明を)聞いていたのでしょうか? 本当は「何か変だ」と感じていたのではないでしょうか。 にもかかわらず、こうなってしまう理由は患者と医療従事者の間にもTAGがあり、時間をかけなければ(時には時間をかけても) なかなか聞きたいことも聞けない、言いたいことも言えない関係にあるのかもしれません。 この原因は、「医療従事者間でアサーテイブになれない理由」と同じようなことだと思います。 つまり、医療従事者との間にある「権威勾配(みたいなもの)」「知識の勾配」「なんか変だと思うけど、 先生が言うのだからただしいのだろう」「こんな事聞くのは恥ずかしい」「忙しそうだし」などです。これは医師に対してだけでなく、 相手が看護師でも、ソーシャルワーカーなど事務系の担当者に対してでも同じだと言います。

呼びかけた方は患者確認のつもりでも・・・・・
 こんなことで起きてしまったのが有名な患者とり違え手術でした。 前投薬[1]をうたれていたような場合はなおさらです。 「○○さんおはようございます」と呼びかけた方は患者確認のつもりであっても、患者さんから見ると、 そんな重要な判断をしている作業とは思えません(このとき、言った看護婦さんもそんな重要な判断行為をしている、 という意識はなかったのでしょう)。 目の前の若い看護婦さんが微笑みながら自分に向かって声をかけただけです。 反応としてはとりあえず「はい」「お・は・よ・う・・ございます」となってしまいます。 片方が「確認作業」として発した言葉も「それとして」相手に伝わらなければコミュニケーションが成立しないのです。 カルテが逆だった事に加えてこんな事が引き金となって「chain of events」がはじまってしまったのです。

院内で発生した例1
  「山田さーん、お入り下さーい」・・・・・
  患者が違っていたまま検査(非侵襲的)をしてしまった(やく○○分)
  ところが、違った

院内で発生した例2
  「田中さん、採血しますね・・・」
  「え!?はい・・」と田中さん(腕を出す)。
  でも、採血の指示はでていなかった。患者さんも何がなんだかわからないうちに採血されてしまった。

Y大学病院手術室例
  「山田さんです」(病棟看護婦A:誤認したまま伝えた)
  「山田さん、おはようございます」(手術室看護婦B:元気に)
  「お・は・よ・う、ご・ざ・い・ま・・」(患者田中さん:前投薬)
  そのまま別の手術室へいき、違う手術をされてしまった

対策はいろいろ考えられましたが・・・・
患者誤認に対する対策はたくさん考えられました。
そのひとつひとつは勿論効果があることに間違いはないのですが・・・

でも、何か疑問が残るのです。
ひとつは誤認発見事故の経緯です。
「名前がおかしい」とか「データが・・」とか(そのころはなかったでしょうが) 「バーコードが・・」などということでなく、その日、患者さんと接触した三十何番目かの職員である 「もと主治医」の「顔が違う!」ではなかったのでしょうか?

「甲冑(かっちゅう)が兵士を殺す」
もう一つは対策の弱み、限界を考えてみる必要があります。 確かに効果はあるのでしょうが、いろいろな器具・機械を利用した対策はあくまでも「バックアップ」だ、 ということが忘れ去られてしまっているような気がします。
 ベッドに寝ている患者さんの顔も見ずに、ベッドに「ピッ」、点滴に「ピッ」、持ち歩いている機械に「ピッ」。 「眼が二つあり、耳も二つ、口がひとつ、ハナもひとつ、バーコードの番号が・・あっ、消えている。 残念ながらあなたを○○さんとは認められません。もう一度、最初からやり直して下さい」などということはないのでしょうか?
 「患者誤認事故」防止に様々な対策が打ち出されました。 確かに一つ一つは効果がある事に間違いはないでしょう。 しかし、機械への過度な依存とReasonがいう「甲冑(かっちゅう)が兵士を殺す」みたいなことにならないでしょうか (実際、ある大学病院では、あの事故の後、早速バーコードリーダーをはじめとした機械化を導入したそうです。 しかし、それに伴う新たなエラーが発生していると言います。これについては別項)

患者誤認の背景要因に在院日数短縮化?
 横浜の事故も、当院の場合でも(誤認ではありませんが)、その患者さんだけに入院してすぐの手術が設定されていた、というわけではなかったようです。 在院日数の短縮化が経営上からも迫られると、いわゆる患者の出入りが多くなります。 そのため(治療行為に伴うものとは別に)入退院に伴う仕事の負担、 その多くは「医療」にあまり関係のない(と言ってしまうと怒られるのですが)書類やらが増えます。 それも含めて例えば10年前と比べると看護師の業務の半分くらいが書類(記録)仕事になっていて、 「患者のそばで」ということが減っているという報告があります。 これは医師も同じ[2]だと思います。
 「業務の分担」なのでしょうが、自分が全く知らない患者さん2人を手術室に運んでいって、 もし二つのカルテを渡すときにたまたま違ったら、もうそのまま、何の疑いもなく申し送ってしまうことになります。 「患者搬送のルールの問題」、「患者確認のルール」、「疑問を持ったときの発言や確認法」、 という方向から患者誤認手術が問題になりましたし、この連載でも特に後者の視点から何度かとりあげました。 確かにそのとおりなのです。
しかし、そういったエラーが発生する背景に私達の行っている「医療」が変わってきていることがあるような気がするのです。

 昨年、当院でおきた誤嚥-窒息事故でも(「safety bird」 LAN版に再掲)同じような背景要因があります。 他院から依頼された患者さんについて「○○の骨折」などと言う「医学的」申し送りはされたのですが、 その患者の性格やら食事のとりかただとかは何も理解されていないまま、翌日、手術になりました。 高齢にもかかわらず手術は無事終わりました。しかし、その翌朝、誤嚥-窒息→蘇生→多臓器不全・死亡という結果になってしまいました。

雑談的コミュニケーションがやはり必要
 この2件に共通するのは、(病気以外の)本人への人間的理解や性格、癖(特に危ないこと、「変」なこと)を知るとかいう、 どちらかというと「雑談的コミュニケーション」によって得られる「知識」「情報」がないまま 「治療スケジュール」だけが始まってしまったことが大きな要因だったとは考えられないでしょうか?

 そこでは医療上の治療の対象としてベルトコンベアの上に流れてくる患者さんを「手早く処理すること」 が政府からも(経営環境がしめつけられている)経営者からも期待されて(強いられて?)います。 「患者をよく知る」などという「昔の」「冗長性」は「無駄なこと」[3]として最大限カットされます。 どんな患者さんでも「パスになんとか乗せよう」とする思考法になります。 また末端の職員まで、「うちは平均在院日数○日」とそれ自体が何かすばらしいことをしているかのように誇らしげに院外で語るような風潮まであります。

 そんな隙間にこの二つの事故が発生したと考えてしまうのは私だけでしょうか?
 大きな病院の大きな事故[4]、しかし私達(のような小さな病院)にも共通することは沢山あります。 やはり、事故の教訓は「しゃぶりつくさなければならない」(或る機長)のです。

 いかがでしたでしょうか?この連載に対するご意見、ご批判。ご教示をお願いいたします。 またこんなテーマなら俺の(わたしの)ほうが・・・と思われました方、リレー連載をお願いいたします。



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註解

[1]  最近の麻酔科医はあまり前投薬を使わなくなっているようです。

[2]  研修指定病院が特に大変なようです。

[3]  「きちんとしたパスやマニュアルでこんな事は防ぐべきだ」「防ぐことが出来る」と反論されそうですが、 「冗長性」というのは別の角度からの「防御の壁」といえます。 だらだらと不必要な入院は嫌いですが、かといって「"効率化"と称して高速道路でスピードを落とさずに車間距離を少なくさせる」 ような政策は現場のあちこちでリスクを抱え込むことになっています。ベッドあたりの看護師や医療従事者少なさ(EUの半分)も背景にあります。

[4]  工学の分野(「失敗学」)からもこの事故が分析されました。そして「知識化」として次のようなことがあげられています。
1. 間違いが重なって大失敗を引き起こす。
2. 多忙はミスの元凶となる。
3. 医師への盲信は不可。患者自身は対応不可であり、家族などしか対応できない。
4. 分業化はコミュニケーションミスを引き起こす。
5.人はおかしいと思っても意外と物事を進めてしまう。おかしいと思ったら、確認することが不可欠である。


 
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