「一人称の安全」「三人称の安全」〜「主観的事故報告書」は無駄か?〜
 
 事故や重大なインシデントが起きると、当事者に担当者(その部門の安全対策担当者)が聞き取りをおこない報告書が作成されます。 そして委員会の検討などを経て、現場にフィ―ドバックされます。 とはいっても、報告の内容が生のまま現場の職員などに公開される事はほとんどありません。 内容は一般化され、抽象化され、集められた多くの「統計の中の一つ」として 「○○の件に注意するように」とか「○○に事故がおきたので△△という対策をとった」「マニュアルの変更をした」となります。 少なくとも私の所属する病院ではこうです。
 たしかに患者さんや当事者のプライバシ―を保護しなければなりませんし、「無罰報告制[1]」ですから仕方のない部分もあります。
 しかし、こういう無味乾燥なフィ―ドバックでは「いつ」「どんなときに」「何が」「なぜ起きたのか?」という 「本当に知らせたいこと」がうすめられてしまい現場に伝わるころには何がなんだかわからなくなっている、と感じているのは私だけでしょうか? [2]

「主観的報告」の重要性
事故の当事者が「客観的事実の進展」と「関係なく?」述べたような主観的報告書は普通あまり重視されません。 場合によっては「言い訳」として扱われたり「嘘」とまでいわれてしまいます。 当事者もそれを知っていますし、「失敗した」「悪い事をした」と後悔していますから自ら進んで語ることはほとんどありません。
でも「おきてしまったこと」を当事者の眼から「主観的に語る」ということに意味はないのでしょうか?

「主観的に見る」ことでわかってくること、「客観的な記録」で失われるもの
他人の失敗を学びそこから何かを得ようとする場合に、現場にいる私達が知りたいのは誰に責任がある、などということではありません。 現場にいたその人がその時どんな事を考え、どんな気持ちでいたのか、という当事者から見た主観的な情報です。 なんといっても次にその現場にいるのは自分かもしれないのですから。
「ひとは自分の立場に置き換えてそれを実感できたときに初めて教訓となる」といいます。 ですから、「冷たく、正確に、客観的にかかれた報告書」「数字のデ―タ」よりもそれに付帯する 「生々しい」「はなし」とエラ―にいたる内面的な脈絡の記録こそが「報告書」を実感・臨場感をもったものにします。 そしてそれは「事故防止マニュアルの変更」などというのではなく人々の「記憶」にのこる事になります。
(もちろん客観像、全体像を知るために客観的な事故報告も必要な事はいうまでもありませんが)

聞き取り調査で当事者を批判・非難をしてはいけない
事故の調査をする側はもう結果が出ている(事故になってしまった)事を聞き取りしているわけです。 ある意味では「後知恵」をもって聞いています。(逆に当事者は「失敗をした」と負い目を感じているはずです) ですからこの時決して、批判したり、責任追及のような話しかたをしたりしてはいけません。 (またこれを機会に)「教えようとしたりすること[3]」も避けなければなりません。
「当事者の誤判断」は結果なのです。「なぜそう思ってしまったか?」「思わされてしまったのか?」 をできるだけ本人の言葉で語る、語らせることが必要なのです。
「何をどうかんがえたか?」「何故そう思って(思わされて)しまったのか?」を聞き漏らさないことがヒュ―マンエラ―調査の最大の目的です。
かといって、聞き取る側が当事者と同じ目線で相対していても、何がなんだかわからないままになってしまう事になりがちです。 場合によっては少し高い視点から「見守る(護る)」ということも含めて、当事者に語ってもらうための「手助け」が必要かもしれません。
 この連載の「調査心得」でご紹介した日本ヒュ―マンファクタ―研究所の石橋明氏によると座る位置や調査書類の 「見せ方」まで気を使う必要がある、ということでした。

海面にあらわれたエラ―と海面下にあるもの
調査チ−ム(や担当者)が表面に現れた「エラーや事故」を結果から評価し「客観性に富む報告書[4]」 をまとめることももちろん必要なのですが、海面下の氷の中にこそ教訓化すべき事が大きい可能性があります。 そしてそこにヒューマンエラー予防対策のヒントがあるような気がします。(下の図はそのイメ―ジを単純化してみました)。



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引用紹介と註解

[1]「ひどい怠慢や不注意」「明らかな規定違反」は別です。 J.Reasonのいう「正義の文化」との兼ね合いもいつも意識する必要があります。

[2]事故報告書やインシデントレポートの本家である航空会社でもこんな傾向があるようです。 「右手に論語、左手にヒューマンファクター」という本を御覧下さい。

[3]病院の現場ではありがちです。教える方も悪気があるわけではないと思いますが、話の途中でつい「教える」 とエラーに至る話の筋道が断たれてしまうことになりがちです。 例えば、話の途中で「あなた、それが違うでしょ!」などという「指導」が入ると当事者はそれ以上話ができなくなります。

[4]客観的事故報告書が大事、といってもなかなか「真実」が教訓化され知識化され記憶に残るようなレポートは出来ません。 とすると、少し発想を変えて「事故防止委員会(HF)としてこのケースから何を訴えたいのか」を、多少の脚色を加えわかりやすくした形の 「セミドキュメンタリー」をつくり安全教育に使用するなどと言うことも考えられます。 「正確さ」よりも「わかりやすさ」「記憶に残りやすさ」です。 私達が活動する目的は「正確な事故報告書の作成」にあるのではなく、「二度と同じ様な事故やインシデントをおこさない」ということなのですから。
 日本大学の押田先生によるとビデオで「寸劇」を作っている病院もあるということです。


 
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