飛鳥 -なぞの石造物(奈良・明日香)飛
飛鳥の野辺を歩いていると不思議と気分が落ち着いてくる。故郷(ふるさと)に帰ったときの、あの気分である。その飛鳥にはなぞの石造物が多い。だれが、いつ、何のためにつくったのか、はっきりしたことはわからないが、野原に、古道の脇に、古墳の近くに、寺の中に、ひっそりとたたずんでいる。
飛鳥時代は、わが国が本格的な国家の建設に向かって大きく踏み出す時代である。やがて日本も統一した国家としてのしくみを確立し、平城京から平安京へと発展していくことになる。
この時代に大きな役割を果たしたのが渡来人・渡来文化であった。日本の古代国家が確立する過程で渡来人・渡来文化が果たした役割をだれも否定することはできない。飛鳥を歩いてみると、そのことがよくわかる。
この飛鳥につくられた石造物は、こうした時代の暮らしや信仰に結びつくものと思われるが、いまもって大きななぞに包まれている。その一部を訪ねて歩いてみた。(2001年11月・2002年8月)
猿石(さるいし)@
●明日香村平田(7世紀)
飛鳥駅の北、吉備姫墓のすぐそばに、四体の「猿石」がある。猿石は、平安時代の『今昔物語』、鎌倉時代の『古今著聞集』に登場する。その独特の姿と表情は何とも表現しようのない野性味を感じさせる。
写真の猿石の背面は、牙をむき、たてがみをなびかせて威嚇する怪獣が刻まれているという(ここが吉備姫の墓になっていて、柵があるため背後の写真がとれないのが残念)。ここにある他の二体にも背面にうずくまる人物や女性が刻まれているという。鬼の俎(まないた)
●明日香村野口(7世紀後半)
人食い鬼が旅人をつかまえて、俎板で料理、食べたあと雪隠(次の写真)で用を足したというのが、この遺跡の奇妙な名前の由来になっている。鬼の俎のすぐ下、道路をはさんで鬼の雪隠がある。伝説は別として、この二つを組み合わせると、「俎」は古墳の石室の底部、「雪隠」は側壁と天井にあたり、これを組み合わせれば、花崗岩製の立派な石室になる。もとは古墳で地盤が崩れて石室の上部が落下してしまったのかもしれないといわれている。
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鬼の雪隠(せっちん)
●明日香村野口(7世紀後半)
横穴式石室がどうして切り離されてしまったのか。この二つの石造物は、「俎」は道をはさんでガケの上にあり、「雪隠」はそのガケの下にある。
どのようにして古墳の墳丘が壊され、中の石室が放置されてしまったのか、いまもってなぞである。台風か地震によって地盤がずれてしまったのかもしれない。それにしても、この丘陵は古墳の形には見えないが……。亀石(かめいし)@
●明日香村平田(7世紀)
何とも不思議で、ユーモラスな石造物である。それも、丘の道の畑の脇に無造作にたたずんでいるのである。花崗岩の巨大な自然石に、亀の顔に似た彫刻が施されているが、岩のように大きな石である。
何のためにつくられたか今もって定かでないが、条里の境界線を示すなどさまざまな議論がある。松本清張氏は、古代ペルシャの宗教ゾロアスター教と結びつける説を唱えたが?
亀石A
亀石に関する不思議な伝説がある。
亀石は、以前は北向き、次に東に向いた。そして今は南に向いているが、西に向いたとき、大和一円に大洪水が押し寄せるという恐ろしい伝説がある。
本当に動いているかどうかはわからない。
それにしても「亀石」といわれているが、はたして「カメ」なのか。似ているようでもあるが「サル」の顔かもしれない。
酒船石(さかふねいし)@
●明日香村飛鳥(7世紀)
酒船石は、長さ5・3m、幅2・3mの花崗岩の上部表面に、数個の丸い窪みとそれらを結ぶ細い溝が掘り込まれている。
酒船石のある場所は、飛鳥寺の東南、伝板葺宮跡地のすぐ東の小高い丘にある。周辺から「車石」と呼ばれる溝を設けた石が多数発見されていることから、庭園に水を引く施設の一部ではないかといわれている。![]()
酒船石A
しかし、庭園の一部としては見たところ小さすぎる。酒造りに使われたといういい伝えもあるがよくわからない。
写真では手前半分がノミで切り取られているが、男女二人が横たわった姿を図案化したようにも見える。切り取られたと思われる片割はどうしたのだろうか。
亀型石造物@
長さ約2・4m、幅2mの大きさがあり、小判型の石造りの箱から流れ出た水が、亀の鼻をとおり尻尾から出て行くしくみになっている。
誰が、いつ、何のためにつくったか、今もってわかっていない。
写真右手の方向の小高い丘に、酒船石がある。二面石(にめんいし)
聖徳太子によって建立されたという橘寺の一隅に二面石がある。高さ1mほどの石の左右に人間の顔が彫られていて、人の心の善悪二相を表したものとされている。
橘寺と特に関係があるとは思えず、これもまた渡来人・渡来文化の残した石造物かもしれない。
石舞台古墳@
●明日香村島の庄(7世紀はじめ)
石舞台古墳は、飛鳥を象徴する巨大な古墳遺跡である。この場に立ってみてこんなに圧倒される巨石遺跡を見たのは初めてだ。もとの姿は、棺をおさめる横穴式石室で、大きな墳丘におおわれていたのだという。
『日本書紀』には、蘇我馬子(626年没)の墓だと記されているが、現在もその考え方が支配的だ。
石舞台古墳A
石舞台古墳のもっとも大きい石は重さ72トンもある。写真で見るように、巨石を三段に積み上げた玄室は、長さ7・5m、幅3・4m、高さ7・7mもある。周辺の発掘調査で、墳丘は一辺50mの方形墓で、幅8・4mの濠に囲まれていたことが確認されている。
●明日香村 案内図
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