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府立郷土資料館(山城町上狛)
南山城地域を対象に、この地域の考古・民俗・歴史の各分野にわたって郷土資料の調査・研究・保存・展示している。開設は、1983年(昭和57年)。
常設展示や特別企画展示をはじめ、文化財講座や小中学生対象の体験歴史教室など開催している。
山城町は、1956年(昭和31年)に上狛村・棚倉村・高麗村が合併してつくられた。 |
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講演=『古代の日朝交流と京都』
史跡ツアーに先立って、京都産業大学文学部・井上満郎教授による講演があった。
京都盆地を中心に広がっていった渡来氏族−秦氏の活躍を中心に、日本の国家が確立する過程で、渡来人・渡来文化の果たした役割について、豊富な資料にもとづく講演があった。
講演終了後、参加者で府立郷土資料館の館内見学。 |
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高麗(こま)寺跡の見学(山城町上狛)
京都府における最古の寺院跡の一つで、飛鳥時代から平安時代にかけてあった寺院。古代寺院のほとんどが廃寺になっている中で、「高麗寺」と名称が特定できる貴重な古代寺跡である。
この日の史跡ツアーのときにも、参加した人が布目瓦の破片を見つけたりして、1300年も前の往時をしのぶことができた。 |
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高麗寺跡
当時は、朝鮮半島からの渡来人の活躍がめざましく、この地域には高句麗からの渡来文化が伝えられた。
高麗寺は高句麗系渡来人・狛氏によって建立されたものといわれている。この地域は、古くは「大狛郷」といわれ、今も上狛・下狛の地名が残っている。高麗寺跡は1934年(昭和9年)、山城町の上狛に住む中津川さんが発見した。
※埼玉県には「高麗郷」(日高市)、東京の多摩には「狛江市」があり、ここもまた高麗氏が渡来して開いたところである。 |
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高麗寺の塔跡
塔跡…12・8uの瓦積基壇を有し、中央に心礎。心礎には表面に円柱穴、側面に舎利孔を持つ、全国でも唯一の形式。(舎利孔=写真の左側、側面に孔を穿ってある)
金堂跡…塔跡の西8mに南北13・3m、東西17mの瓦積基壇を持つ。
講堂跡…金堂跡北側に建てられていて、2個の礎石が残っている。(説明は井上教授) |
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泉橋(せんきょう)寺(山城町上狛)
741年(天平13年)、僧行基が木津川(泉川)に橋をかけ、その供養をするために堂を建立した。橋寺とも言う。
行基が5畿内(山城・大和・摂津・河内・和泉)に造営した49院の一つと伝えられている。 |
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泉端寺の五輪塔
重要文化財。高さ2・4m、花崗岩でつくられていて、室町時代の初期に製作されたものと推定されている。
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椿井大塚山古墳(山城町椿井)
3世紀末から4世紀はじめの築造と考えられていて、全長約180m、南山城随一の大規模な前方後円墳。
平地につくられた古墳と違って、丘陵末端に西向きに築かれていて、丘陵を整形して前方後円墳の形につくられている。
後円部をJR奈良線が南北に縦断していて、墳丘の中央部が切断されているのが大変残念。 |
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大塚山古墳墳丘の説明会
椿井大塚古墳からは、中国の魏の時代に邪馬台国の女王卑弥呼に与えられたという三角縁神獣鏡が30数面出土し、「邪馬台国畿内設」の最大の根拠になっている。
魏志倭人伝によると「銅鏡100枚を与えられた」とされていて、大塚古墳から出土した三角縁神獣鏡が、関東から九州に至る地域に広がっていて、この頃、大和を中心に権力の支配関係が確立していたという説があるが、どうだろうか。 |
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大塚山古墳から山城盆地を西にのぞむ
大塚山古墳から西をのぞむ−墳丘のすぐ下、足元をJR奈良線が右から左に(南に向かって)走っている。その向こう、住宅が立ち並んでいるところが古墳の前方部にあたる。
墳丘から西に向かって眺めると、古墳の前方部のその先に、条里制が残る山城盆地が開け、木津川が流れている。 |
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蟹満(かにまん)寺(山城町綺田)
綺幡寺・蟹幡寺・紙幡寺・加波多寺ともいわれ、白鳳期の末期(680年前後)に建立されたものといわれている。いずれも「幡」(秦)の名称が想定されるのが面白い。
この地は古くは「蟹幡(かむはた)郷」と呼ばれていたが、蟹満寺が山城国・太秦(うずまさ)の広隆寺の末寺になっていたこともあり、高句麗系とは別に渡来人秦氏が開いたところである。
地名の綺田(かばた)は蟹幡(かむはた)の変化したものと思われる。 |
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蟹の恩返し(蟹満寺の縁起)
観音菩薩を信仰する慈悲深い娘が、蛇に求愛されて困っているところ、以前に助けた蟹の恩返しによって危難を免れるという説話が寺の起源であるとされている。
この寺の縁起について、松本清張氏は「カムハタ(蟹幡)がカニマン(蟹満)に変化し、そこから蟹の恩返しの逸話が生まれ、それが観音信仰に結びついたのではないか」と言っている。 |
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蟹満寺の釈迦如来坐像(国宝)
現在の本堂は、1759年(宝暦9年)に建築されたものだが、建物はこの大きな坐像に比べて大変小さい。何度か焼失して建て替えたものと思われる。
国宝に指定されている釈迦如来坐像は、白鳳期につくられたもので大変古いものだが、一説には高麗寺から現在地に移されたものだという「伝来説」もある。 |