7 幡羅郡の条里遺構


(1)条里制とは


渡来系の人々は、中国や朝鮮半島で発達した高い技術と文化をわが国に伝えたが、とりわけ武蔵國の開発と稲作の発展に大きな役割を果たした。

大宝律令(701年)による中央集権的律令政治が確立するなかで、条里制が取り入れられ、武蔵國でも土地の区画整理が進められた。この区画整理には、秦氏をはじめ渡来人の土木技術が大いに発揮された。
 条里制とは土地の地割制度で、碁盤の目のように土地を区切って、区画された最小単位を「坪」と呼んだ。

地割の方法は、まず土地を6町(654m)四方に区画し、その一区画を「里」とよんだ。里はさらに1町ごとに区切って36区画にわけ、そのひとつを「坪」と呼び、田地などの単位とした。
  そして、区画された地割の横を「条」、縦を「里」とよび、北から南へ一条、二条……、西から東へ一里、二里と数えた。(熊谷市の中条、妻沼町の市の坪などの地名はその名残)

1坪の土地は1町歩(約1f)で、1町歩をさらに10に分割してそのひとつを1反とした。1反歩を6間×60間(または2間×30間)に地割し、広さは360歩に分けられた。1歩は6尺四方(3.3u)となる。(現在の1坪)



(2)熊谷・深谷・妻沼に残る条里遺構


■ 『埼玉県史』によると、県内には「神流川が形成した緩い傾斜の扇状地」と「荒川扇状地の端部広がる」地形ががあるという。

■ 荒川扇状地の方格地割は、深谷市・熊谷市・妻沼町・南河原村・行田市・大里村にわたって広がっているが、それには三つのパターンがあって、
@ひとつは、古代の幡羅郡だった、深谷市の東部から熊谷市の北西部、妻沼町に広がる地域で、とくに熊谷市の西別府・東別府によく残っているので、別府条里とよばれる地域、
A二つ目は、南河原村から熊谷市の東南部、行田市に広がる地域で、埼玉郡に属していたところ、
B三つ目は、大里郡にある小規模な地割に分けられている。

■ 幡羅郡の条里遺構は、1976年(昭和51年)から始まった総合パイロット事業(土地区画整理事業)の影響で、道路や田のあぜ道など条里遺構は消え去ってしまっているが、現在、東別府に「条里再現の碑」が建っている。
  また、熊谷市の中条(ちゅうじょう)、妻沼町の市の坪などの地名が残されていて、かつてこの地域に条里制がしかれていたことを示している。
(写真は東別府の「条里再現の碑」)




(3)古代の条里制と人々の暮らし


この土地制度は、全国の豪族や地元民が所有していた私有地をいったん中央の大和政権が取り上げ、これを口分田とし、満6歳を超えた男子には2反、女子にはその3分の2、奴婢には3分の1を基準として割り当て、収穫の3%を田租(でんそ)として徴税することを目的につくられた。つまり、人々を土地にしばりつけ、税金をとりたてるための搾取制度であった。

「江戸東京博物館」に、当時の下総國葛飾郡大嶋郷の甲和里・仲村里・嶋俣里(現在の葛飾区・江戸川区・墨田区)の戸籍が展示されている。
  これは、正倉院文書(721年・養老5年)に残されたもので、大嶋郷の家ごとの構成員の名前・続柄・年齢などが書かれていて、当時の家族形態や租税徴収の仕組みがよくわかる。

律令政治の税制には、こうした田地にかかる「租」と、人頭にかかる「調」「庸」など、いわゆる租・庸・調・出挙・贄があり、人々は労役、兵役、調庸などの義務を負わされ、働き盛りの男子が労役・兵役にとられて大変苦しんだ。

条里制は人々に対する徴税機構の一環だったが、あまりにも過酷な搾取のため、農民は土地を逃げ出したり、反乱がおきたりして、全国的には完成せずして中止されたようである。
(写真…稲作とともに広がるねぎ畑=別府条里)

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