4 古墳遺跡と式内社@−深谷


(1)古墳遺跡と式内社(延喜式内神社)


延喜式による式内社

「式内社」とは、『延喜式』神名帳(えんぎしきじんみょうちょう)に登載されていた神社のことで、10世紀前半、平安時代に『延喜式』編纂段階で官社として認定された神社をいう。

式内社は官社制の形骸化とともに中世にはその実態は失われたが、名称自体は一種の社格として残り、今日でもかつて式内社であったとされる神社は重要視される傾向がある。その数は全国に広がり、2,861社あった


武蔵國と幡羅郡の式内社

『延喜式』神名帳には、武蔵国には式内社が44座あると記載されているが、前玉(さきたま)神社は2座の祭神を祀っているので、実際は43社あった。

このうち幡羅郡には「白髪(しらがみ)神社」「田中(たなか)神社」「楡山(にれやま)神社」「奈良(ならの)神社」の4社がある。(ちなみに、これまでみてきた新羅郡、高麗郡には延喜式内の神社はな
い)

古墳遺跡と式内社の関係

『武蔵の古社』(菱沼 勇著)によると、「式内社のほとんどが…古墳ときわめて密接な関係をもっている」として、
@ 境内に古墳のあるもの13社(幡羅郡では白髪神社・楡山神社)、
A 神社の付近に古墳があるもの27社(幡羅郡では田中神社・奈良神社)
であわせて40社となり、式内社43社のうち「ほとんどが古墳遺跡と何らかの関係がる」としている。

そして、
@のグループの境内にる古墳は前方後円墳が多く、この地方の豪族が神社を最初にまつったと思われること、
Aに属する式内社のうちには、「帰化人またはその子孫よってまつられたと推定される」、
と述べている。

古代の神社のもとの形は、朝鮮半島の新羅から来たものという説がある。靖国神社を頂点とした、明治以降の天皇制軍国主義の主柱としての国家神道は別にして、渡来人と神社の結びつきには興味深いものがる。
  こうしたことから古代の幡羅郡にあった延喜式内の神社を訪ねてみた。



(2)楡山神社と「木の本古墳群」(深谷市原郷)


深谷の古墳遺跡−幡羅郡の郡衙(郡役所)があった幡羅郷

■ 『深谷市史』によると、深谷市にある古墳は7〜8世紀にかけての古墳時代終わりのものが中心で、小型の円墳が数多く点在しているという。
  古墳が最も多く集中しているのは、幡羅郡の郡衙(郡役所)があったと推定される深谷市の原郷である。ここには木の本古墳群と呼ばれる古墳群がある。また、原郷の近くの「上敷免古墳群」からは、馬埴輪・冠や帽子をかぶった男子埴輪・髪を結った女子埴輪などが出土している(東京国立博物館所蔵)。そして、「上野台遺跡」からは、埴輪の窯跡(登り窯)が5基発見されている。


木の本古墳群

木の本古墳群は、西に利根川の支流の唐沢川、北に同じく福川が流れ、その内側の「櫛挽が原の台地」に点在している。かつては「四十人塚」と呼ばれ、多くの円墳群があったそうだが、今では16基が残るのみで、うち11基が市の指定史跡になっている。
  木の本古墳群の中ほど、福川の権現堂橋の南に式内社の楡山神社がある。楡山神社の境内にも本殿裏に古墳の跡が残っていたというが、今では確認できない。。

木の本古墳群は、楡山神社を中心に東西に三つの古墳群があって、そのひとつ原郷の原浩さん宅(この地区の本家にあたるらしい)の屋敷内に木の本古墳群3号墳がある。径19m、高さは2.35mで完全な形で残っている。円墳上には原家の氏神さまがまつってある。

近くで農作業をしていた原さん(この方は分家といっていた)の話では、今では少なくなったが「昔はこの辺一帯みんな〔原〕といっていた」そうだ。
  地名の幡羅郷が原郷になったように、このあたりの氏姓も幡羅(ハラまたはハタラ=秦)が「原」に変化したものと思われる。
 
古墳跡はこの周辺に4基保存されている。
 (写真右…原さんの敷地内にある「木の本古墳群」3号分)

深谷中央病院近くのひのみ塚古墳からは、箱式石棺と直刀、成年男子の頭骨が出土している。(『深谷市史』に詳しい)

ひのみ塚古墳は、道路沿い(深谷妻沼線127号線)が半分削られていて、そこには深谷市の原郷城西会議所(地域集会所)が建っている。うまく保存することはできなかったのだろうか。円墳上には小さな祠がある。
(写真右…ひのみ塚古墳=道路沿いの集会所の裏から撮影)






※ひのみ塚古墳、楡山神社JR高崎線深谷駅北口下車、深谷の市街地から東北約2.5`楡山神社。ひのみ塚古墳は、深谷中央病院を目標に深谷妻沼線(127号線)に沿って約1.8`。楡山神社はひのみ塚古墳から約500mくらい。楡山神社から原家の木の本古墳まではさらに約1.1`。


(3)楡山(にれやま)神社−幡羅郡の総鎮守


幡羅郡式内社四座のひとつ。楡山神社はむかしから、幡羅郡の総社、総鎮守といわれてきた。境内にある楡の木の古木は樹齢約600年で、大ニレと呼ばれ、県指定天然記念物になっている。

楡山神社の本殿裏の古墳跡は、現在では石槨の一部と思われる石材が残っているだけで、古墳の形はない。
 当社の記録では、「むかし本殿の後方にひとつの塚あり、塚には洞穴があって、里人はその周囲を不入の地となし、もしこれを犯す者あるときは、災厄がかかる」といわれていたそうだ。

この地方の中心になっていた渡来系豪族の墓があって、その場所に神社が建てられたのかも知れない。





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