2 秦氏と渡来文化−農耕文化と稲荷信仰、そして八幡神社
(1)秦氏の渡来−5世紀(古墳時代)
■ 秦氏は、朝鮮半島から渡来してきた人々の集団なかでも日本全国に影響をもっており、その中心は京都の山城(山背)の地域であった。
秦氏は5世紀に、まず北九州に渡来し力をつけ、その後京都山城を拠点に、その財力をもって平城京から平安京への遷都のときには大きな影響を及ぼしたと伝えられている。このように秦氏は早くから渡来文化の中心にたっていた。
■ 朝鮮半島からの渡来の波は、大きく分けて、@紀元前2世紀〜3世紀、A5世紀、B5世紀後半〜6世紀、C7世紀後半の四波に分けられるといわれている。
秦氏が渡来した5世紀といえば、日本はまだ古墳時代であった。ようやく国家体制の形成期に入った段階で、当時の朝鮮半島からの渡来人は、日本に高い技術や文化を伝えた。とくに秦氏は、農耕・土木技術・製鉄・養蚕・機織(はたおり)・紙すきなど、先進文化を広げ、日本社会の発展に大きな役割を果たした。
■ 秦氏を起源とする地域は全国的に広がっていて、神奈川県の秦野市、高知県の幡多郡などが知られている。また、幡多郷と書く地名は、三河国渥美郡(幡多郷)、近江国長下郡(幡多郷)、紀伊国安諦郡(幡陀郷)、肥後国天草郡(波多郷)などがある。
武蔵國や関東近辺にも多く、埼玉には男衾郡(現寄居町・嵐山町・小川町を中心とした地域)に幡々郷(幡多郷)があり、幡羅郡(現熊谷市・深谷市・妻沼町)には幡羅郷(現原郷)があった。東京にも幡ケ谷(渋谷区)がある。また、かつて武蔵國に属し、今の神奈川県にあった都筑郡には幡屋郷(現横浜市)があった。
■ なお、秦氏の祖先は中国の「秦の始皇帝」という伝承があるが、それは間違いで、現在では3世紀に朝鮮半島南部で栄えた加羅・加耶の国から渡ってきたことが明らかにされている。
少し古い文献だが、『やさしい熊谷の歴史』(1973年・昭和48年発行)を見ると、「秦という村がありましたが、これは中国の王族の秦氏の子孫がむかし居住していたことを示します」とある。「中国の王族の秦氏の子孫」というのは間違いだが、少なくともこの地域に「秦という村」があって、古代に渡来氏族秦氏の活躍で拓かれたところだということは、明らかにしていると思う。
(2)秦氏(はた)と漢氏(あや)
●秦氏について
■ 秦氏の渡来について、「秦氏の先祖、弓月君が120県の人々を引きつれて日本に渡ってきた」と『日本書紀』にかかれている。これは伝承上の記録だろうが、この時代に秦氏族の大規模な集団的渡来があったことをあらわしているものと考える。
■ そして、山城(京都)と近江(滋賀)を本拠地にして各地に広がった。映画村のある京都の太秦(うずまさ)は、秦氏の本家の居住地であった。その近くに聖徳太子につかえた秦河勝(はたのかわかつ)が建てた広隆寺がある。(603年、秦氏の氏寺で、太秦寺、秦公寺とも呼ばれる)
■ 秦氏に従ってきた人々は、「秦部」や「秦人」呼ばれた。朝鮮半島の進んだ技術を用いて農地をひらき、またたく間に経済力をつけてその人口をふやしていった。(古代の人口の3分の1から4分の1は、秦氏やあとで述べる漢氏を中心とする渡来系の人々だったとする説まである)
■ 「はた」や「あや」ではじまる地名は全国的にみられるが、これは渡来系有力豪族の秦氏と漢氏によってつけられたものが多い。
例えば、神奈川県の秦野市は、古代には幡多郷と呼ばれて秦氏が拓いた土地。周辺は平野が広がっていたので、「はた」に「の」がついたといわれているが本来の意味は秦氏族が拓いたところ。波田、羽田、波多、幡などの地名は全国に広く分布している。波多川、波多田、波多原などの地名は、いずれも秦氏の流れをひく人が居住することからできた。畑中、畑田、大畠、畠山、高畠など、「はた」に「畑」や「畠」があてられることも多い。
■ 最近(2002年3月〜4月)、所用で大坂の池田市(阪急電鉄宝塚線)に行く機会があったが、ここも秦氏が拓いたところで、畑(「はた」…最近まで秦と呼ばれていたという)、秦野、呉服橋、呉羽神社などその名残を示す地名が残り、呉織(くれはとり)・漢織(あやはとり)の物語が伝えられている。
●漢氏について
■ 秦氏の渡来と同じころ、同じく朝鮮半島の加耶から渡ってきたといわれている(漢氏もまた、中国の後漢の子孫という話があるがこれも間違い)。
■ 漢氏も多くの渡来系の中小豪族を従えていたが、東漢氏(やまとのあや)と西漢氏(かわちのあや)にわかれた。東漢氏は、古代飛鳥の高市郡に住み、蘇我氏と結び当時の大和王権と結びつき、その政治に大きな影響を与えた。西漢氏はいまの羽曳野市を本拠としてたが、土着の中流豪族として発展した。このあたりは「河内飛鳥」(近つ飛鳥)とよばれている。
(3)秦氏と稲荷信仰、八幡神社
●秦氏と伏見稲荷
■ 日本全国でもっとも多くまつられている神社が稲荷神社で、正式の稲荷神社の数はおよそ3万2,000社もあるという(二番目に多いのは、これもまた秦氏と関係のある八幡宮だそうだ)。デパートの屋上にあったり、町工場の片隅にある「お稲荷さん」を含めると何十万社になるかわからない。(写真は京都伏見稲荷大社)
■ 稲荷神社は、渡来系氏族・秦氏の稲荷信仰によって全国に広がった。
京都の伏見稲荷の起源について、伏見稲荷大社の宮司さんが「『山城国風土記』の逸文に〔秦中家ノ忌寸等の遠祖・伊呂具秦公の的にして射た餅が白鳥と化して飛び翔けり、その留まった山の峰に“稲”が生じた奇端によって、イナリという社名になった〕とある」と、秦氏の稲荷信仰の起源を述べている。(『日本神社総覧』)
■ 秦氏は渡来後、各地に勢力を広げ、田畑を開発して全国に広まっていった。『山城国風土記』によると、「稲荷」はもともと「稲生」(いねなり)で、農耕神をまつった神社として、稲作文化の発展とともに全国に広まっていった。
■ 「神社に狛犬(高麗犬)」というのが普通だが、稲荷神社にはキツネが座っている。これまであまり考えてもみなかったが、渡来人・秦氏の稲荷信仰にあったようだ。
あとでみる武蔵國の幡羅郡、現埼玉県妻沼町の稲荷信仰の広がりは、この地方へ渡来した秦氏の活躍を証明しているのではないだろうか。(『妻沼町史』…妻沼町には700年代〜1100年代にまつられた古い稲荷神社が8社もあるという)
■ 稲荷神のつかいをキツネとする考えは、もとはキツネが稲荷神そのものだったそうで、秦氏は日本に渡来した5世紀以降、稲荷神を農耕神として稲荷神社をまつるようになった。
●秦氏と宇佐神宮
■ 全国に多くみられる神社のなかで、八幡宮は武芸の神とされて武芸の信仰をあつめて広がったが、稲荷神社に次いで2番目に多く、全国に2万5,000社もあるという。
■ 八幡宮のもとは、北部九州の航海民がまつった海神で、新羅系秦氏に起源があるといわれている。大分にある宇佐八幡宮の祭神は、「応神天皇」(八幡大菩薩)、「神功皇后」(大帯姫命)、多紀理比売命・多峡津比売命・市杵島比売命ということになっている。
この比売神は宗像三神と呼ばれる宗像の航海民がまつった神で、この人々が大分の宇佐に移って、宇佐の神の名で宗像三神を祭ったのだそうだ。後になって、『古事記』『日本書紀』がつくられるときなって、「神功皇后の三韓遠征」の話が取り入れられ、宇佐神宮となり、「朝廷」(天皇家)と結びつくようになった。
■ このように、大和政権が確立する過程で「朝廷」との結びつきが強まり、宇佐八幡宮を手厚くまつるようになった。
その一方では、奥州遠征で源氏の勢力を高めた源義家が、石清水八幡宮で元服して八幡太郎と名のったといわれていて、八幡宮は源氏の守り神となり、武芸の神と考えられるようになった。そして、源頼朝は鎌倉幕府を開くとき、鶴岡八幡宮の大掛かりな社殿を築いたが、このことをきっかけに全国の武家が八幡宮を祭るようになった。
■ 宇佐八幡宮はこのような歴史をもっているようだが、いつのまにか秦氏との関係は忘れられ、天皇をまつる神社として有名になったものだろう。