3 古代の幡羅郡とその地域


(1)熊谷市・深谷市・妻沼町に広がる幡羅郡


古代から続いた幡羅郡

幡羅郡は、7世紀に郡が置かれてから、1896年(明治29年)に大里郡がつくられるまで続いた。それまでの幡羅郡は、熊谷市から深谷市、それに妻沼町を含む地域で構成されていた。
 
この地域の特徴は、荒川と利根川にはさまれたところで、広大な関東平野にあり、多くの古墳や式内社(平安時代前期までにできた古い神社で延喜式神名帳にのっている神社)、条理遺構(律令時代の土地制度)が残る農業地帯である。

幡羅郡は、『和名抄』で「原」と注し、『延喜式』も「はら」としている。江戸中期から「はたら」と呼ばれた。

幡羅郡が置かれた時期は不明だが、多賀城出土の木簡に「武蔵国幡羅郡米五斗……大同四年十二月(809年)とあるから、この時代幡羅郡は、東北の遠い地域まで米を送るような力をもっていたものとみえる。
(多賀城…奈良時代、東北地方に対する律令制支配の拠点として、今の宮城県多賀城市市川に築かれた城柵)

幡羅郡は、上秦郷(かみつはた)・下秦郷(しもつはた)・広沢郷(ひろさわ)・荏原郷(えばら)・幡羅郷(はら)・那珂郷(なか)・霜見郷(しもみ)・余戸郷(あまるべ)の8つの郷からなり、郡衙(郡役所)は幡羅郷に置かれていたと推定されている。このなかで、上秦郷・下秦郷・幡羅郷はその地名から明らかなように渡来系の人々を中心にした地域であったと考えられる


秦氏が活躍したところ

上秦郷・下秦郷・幡羅郷について、今の行政区にあてはめると次のようになる。いろんな説があるが『新編埼玉県史』を中心に整理してみた。

@上秦郷…妻沼町南部から熊谷市の上奈良の周辺一帯。式内社奈良神社がある。
A下秦郷熊谷市の下奈良・上中条から肥塚にわたる地域。条里坪付を示す「中条」の地名がある。
B幡羅郷…深谷市の原郷を中心とする一帯。郡衙(郡役所)があったと推定されるところで、式内社楡山神社がある。古墳時代から律令期にかけての集落跡がある。

※写真は、深谷市原郷の「木の本古墳群」(2号墳)



(2)秦氏の渡来と幡羅郡−地名や遺跡からの検証


稲荷神社=秦氏の稲荷信仰(妻沼町)


稲荷信仰は秦氏が起こしたものだが、『妻沼町史』は、妻沼町にある「古い神社の大部分が、五穀を司る倉稲魂(うかのみたま)をまつる稲荷神社」だと述べている。
  『妻沼町史』によると、@高岡稲荷大明神(白髪神社)が711年(和銅4年)、A稲荷台神社が782年(延歴元年)、B赤子稲荷が784年(延歴3年)、C太田稲荷が841年(承和8年)、D間々田稲荷が874年(貞観16年)、E八ツ口稲荷が994年(正歴5年)、F男沼稲荷が1053年〜(天喜年間)、G弥藤吾稲荷が1114年(永久2年)の8社をあげている。
  そして、「この地方の家庭における氏神のほとんどが稲荷様を祭っている」と、稲荷信仰の広がりを紹介している。


白髪神社=渡来人がまつった神社

埼玉県神社庁の『埼玉の神社』(1992年=平成4年発行)には、「奈良期、当地一帯に入植した渡来人は、この大我井の森(聖天山のあるところ)に白髪神社を祀った」とあり、渡来人の足跡についてふれている。

「奈良」の地名と別府条里(熊谷)

「なら」は古代朝鮮語で「国」を表し、平城京の奈良に通じる地名。この時代、先進文化と技術をもって北武蔵の開拓をすすめた人々がつけた地名で、奈良神社もその人々がまつった神社と思われる。

そして、秦氏族は進んだ土木技術をもって、熊谷から深谷、妻沼に至る広大な条里地割をすすめ、稲作の発展をつくり出した。おそらく、妻沼町と同じく熊谷市、深谷市にも、稲荷信仰が大きく広がっているのではないだろうか。


「原」の地名と氏姓(深谷)

原郷は「原の郷」と呼ばれたが、もとは郷名の「幡羅郷」と呼ばれた。今も原郷の近くには「幡羅町」(はたら)がある。また、古代に榛沢郡と呼ばれた、深谷市外との境界線には、南北に「唐沢川」(加羅国のカラ)が流れている。

原郷には「原」姓が多く、これもまた「幡羅」だったと思われる。土地の人の話では「今では少なくなったが、昔はこの辺一帯みんな〔原〕といっていた」そうだ。本家といわれる原家が2軒あって、「いろんな行事は別だが、冠婚葬祭は必ず一緒にやる」と話していた。
※写真は、屋敷内に「木の本古墳群」(3号墳)がある、深谷市原郷の原さん宅。



(3)渡来系氏族と武蔵武士の起こり


その後、時代は移り、律令政治の崩壊と荘園の発展によって、武蔵國に派遣された役人や地方豪族から武士団が生まれ、社会は大きく揺れ動く時代を迎える。この推進力になったのが、武蔵國に渡来した人々だったと思われる。(『古代武蔵学事始め』の主題と外れるが、武蔵武士の発生の中心地が北武蔵、とくに荒川流域一帯にあるようなのでつけ加えておきたい

「武蔵武士」という場合、坂東8平氏と武蔵7党を総称して呼ぶらしい。
 「武蔵7党」は、●横山党(大里郡と埼玉郡北部が中心、武蔵国一円に分布)、●猪俣党(児玉郡から大里郡)、●野与党(埼玉郡)、●村山党(入間郡)、●児玉党(児玉郡、入間郡)、●丹党(児玉郡、秩父郡から入間郡)、●西党(多摩郡)を指すが、野与党に代えて、●私市党(きさい)(埼玉郡から大里郡)を入れることもあるそうだ。このように、武蔵7党のうち六つまでが北武蔵にある。
  この他、坂東8平氏の流れをくむ秩父党が秩父から入間郡にいて、秩父氏・畠山氏・河越氏・江戸氏などの武士集団がある。また、これらの棟梁に属さない豪族で、熊谷氏などもいた。いずれも、北武蔵を中心に活躍した武士集団である。

それぞれの集団に含まれる豪族(武士の棟梁)の氏名ははぶくが、渡来人に関係するものとして、丹党の「高麗氏」、村山党の「金子氏」、猪俣党「男衾氏」、西党の「狛江氏」などが渡来系氏族である(きちんとしらべていないが、この他にも多くの渡来系氏族がいると思う)。
  また、今回調査した幡羅郡の関係でいえば、熊谷地方を中心に「別府氏」「奈良氏」「中条氏」など、幡羅郡の豪族が横山党で活躍している。

武蔵武士は、源頼朝が鎌倉に武士政権をつくるときに協力し、やがて所領を与えられて全国(西国)に散らばっていった。そして、その後の武家政治の土台をつくる役割を果たした。

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