葛飾・柴又の「寅さん埴輪」(東京・葛飾)




「寅さん」と「さくら」 - 奈良時代にもいた?                      


  2年ほど前、2001年8月3日の朝日新聞(夕刊)に、葛飾区の柴又八幡神社境内の古墳から、寅さん似の埴輪が発掘されたというニュースが報道された。
  「おいちゃん そりゃほんとうかい」(朝日新聞)と驚いたが、葛飾区でしらべたところ、約1300年前の奈良時代に、葛飾・柴又に「とら」と「さくら」という名前のつく人々が住んでいたらしいということがわかった。この発掘のもようは「発掘された日本列島2002」(2002年〜2003年・各地の博物館で展示)でも大きくとりあげられた。今年2月(2003年)に、この寅さん似の埴輪を府中郷土の森博物館で見る機会があり、久しぶりに葛飾・柴又を訪ねてみた。

  柴又八幡神社境内の古墳が造られた時代、日本は国家の形成期にあった。当時日本は律令時代にあって、全国に國・郡・郷(里)がおかれ、中央集権体制を強化していくために戸籍制度をつくって、人々を強制的に土地に縛りつけ、厳しい税金の徴収が行われた。
  そのころ今の葛飾地域は下総國に属していたが、奈良・東大寺の正倉院に保存されている「下総國葛飾郡大嶋郷」の戸籍(721年・養老5年)から、「孔王部 刀良」(あなほべ とら)と「孔王部 佐久良売」(あなほべ さくらめ)と読める名前が記載されている戸籍が見つかったということである。

 下総國大嶋郷は今の葛飾区柴又、江戸川区小岩などの地域にあたるが、当時柴又には42戸、370人が暮らしていたという。戸籍にはほとんどの人が「孔王部」という姓を名乗っていて、名前は「刀良」が7人、「佐久良売」が2人いた。
  それぞれ「とら」と「さくら(め)」と読めることから、映画「男はつらいよ」の山田洋次監督は、「なんたる偶然かと苦笑したものですが、寅さんと同じ帽子をかぶった珍しい埴輪が発掘され、顔つきがどことなく似ている上に、その日は渥美清さんの命日だったことを知って驚きました。ぼくは霊魂なんて信じない人間ですが、はるか昔、万葉の時代に生きていたトラさんという強烈な個性の持ち主が寅さんを主人公にした映画を作らせたのかも知れませんね。もしかして!」(寅さん記念館展示)とその驚きを語っている。
(写真は寅さん記念館にて)

 (注)「下総國葛飾郡大嶋郷」の戸籍について
 
実は、正倉院に保存されている下総國葛飾郡大嶋郷の戸籍については、江戸東京博物館に展示されていて、当ホームページ -- 『古代武蔵学事始め』の「武蔵国・幡羅郡 -幡羅郡の条里遺構」に収録しているので、参照してください。
  『「江戸東京博物館に、当時の下総國葛飾郡大嶋郷(現在の葛飾区・江戸川区・墨田区)の甲和里・仲村里 ・嶋俣(今の「柴又」)里の戸籍が展示されている。これは、正倉院文書(721年・養老5年)に残されたもので、大嶋郷の家ごとの構成員の名前・続柄・年齢などが書かれていて、当 時 の家族形態や租税徴収の仕組みがよくわかる』 


帽子をかぶった男性埴輪。眉毛と鼻はT字状につくり、目と口は横長にあけられていて、下総型といわれる埴輪の中では首が長めにつくられているという。首には「突帯」がかけられ、耳環と首飾りが飾られていて、帽子は鰐付で頭頂部には孔があいている。(葛飾郷土と天文の博物館)
  顔は面長に見えるが、「顔つきがどことなく似ている」(山田監督)寅さん似の埴輪である
発掘された状況から、頭部に「つぶし島田」が結われ耳環がついていた。耳には大きな「突帯」がかけられ、首から胸にかけて大粒のボタン状貼付で2列の玉がさがる首飾りをつけている。





寅さん埴輪と葛飾・柴又八幡神社


  寅さん埴輪が出土したのは、京成線の柴又駅のすぐ近くにある柴又八幡神社古墳。八幡神社は、駅からすぐ近くだが、帝釈天の方向に向かって左側、帝釈天に向かう仲見世とは反対側なので(京成線の線路の南)、あまり目につかないところにある。
  柴又八幡神社は古墳の上につくられた神社で、「古墳と神社」の関係を最もよくあらわしている神社である(当ホームページの『古代武蔵学事始め』参照)。ただし、この柴又八幡神社のように、社殿の下から古墳が発掘され、しかも見事な埴輪や馬具が出土したのは大変珍しい。
  柴又八幡神社は、古くから石組みなどが露呈していて、古墳ではないかと言われていたそうだ。1975年(昭和40年)の社殿改築の際に調査が行われ、埴輪片、馬具、石室の石材が確認された。その後本格的な調査が行われ、八幡神社の社殿そのものが古墳の上に建てられていることが明らかになった。現在はすべて埋め戻されていて、神社裏手に記念碑がつくられている。
  八幡神社古墳は横穴式石室と埴輪をともなう古墳時代後期の6世紀後半に築かれた古墳で、石室は将軍山古墳(埼玉県行田市)などと同じ房州石(房総半島の鋸山周辺)で築かれているという。出土した埴輪は下総型といわれているが、比べてみるとつくりが違っているということで、この古墳が下総國と武蔵國の境界線にあったことが注目されている。

葛飾・柴又八幡神社 神社裏手に建てられた古墳記念碑、「嶋俣塚」と書かれている。





帝釈天と矢切の渡し


 さて、柴又をたずねたらもちろん帝釈天を訪ねてみよう。
 京成・柴又駅をおりて、映画「男はつらいよ」でおなじみの帝釈天参道を5分も歩くと、帝釈天につく。山門を見上げながら映画のシーンを思い出し、重厚なつくりの建物をじっくり見てまわりたい。
 柴又帝釈天は、経栄山題経寺といい、1629年(寛永6年)、日忠上人の開山と伝えられ、本尊は日蓮上人が彫ったといわれる帝釈天の板物です。この板本尊は長い間行方不明になっていたそうですが、安永8年の本堂再建のときに発見されねこの日が庚申の日だったことから、その後、庚申の日を縁日に決めたそうです。
   帝釈天山門     矢切の渡し


 矢切の渡しは、江戸時代の初めにこの地域の農業用の運搬や日用品の購入、神社・お寺の参拝のために造られたもので、利根川水系の河川15ヶ所の渡しのひとつです。
 この渡しが有名になったのは、明治になって伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によってです。対岸(千葉県松戸市)に、この小説の文学碑が立っています。休日にもなると、柴又から渡しを使って野菊の墓の文学散歩を楽しむ人が大勢押しかけて、渡し舟を待つ列がつづきます。

 帝釈天の裏手、江戸川河川敷の内側に、寅さん記念館があります。寅さん記念館は、柴又公園と一体になったつくりになっていて、映画「男はつらいよ」の世界が13のコーナーに分けて紹介し、建物の中央の吹き抜けには、寅さん映画の全作品のロケ地が一目で見られる「こころのふるさとマップ」がおかれています。記念館のエレベーターで結ばれた公園の頂上からは帝釈天や江戸川の流れが一望できます。

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