北武蔵・幡羅郡と渡来文化
− 埼玉県 熊谷 ・ 深谷 ・ 妻沼 −




 1 北武蔵・幡羅郡を訪ねて


(1)熊谷市・深谷市・妻沼町と幡羅郡


『古代武蔵学事始め』の旅は、新羅郡(新座郡)、高麗郡についてしらべた後、武蔵と相模の渡来文化の足跡を訪ねて、神奈川県の大磯から高座郡に行ってみた。
 そのため、まわり道をしてしてしまったが、今回は北武蔵の幡羅郡(はら)をしらべてみることにした。北武蔵の幡羅郡は、新羅郡・高麗郡と同じく、その名のとおり渡来文化を色濃く残しているところである。(幡羅(はら)郡は江戸時代以降「はたら」と呼ばれるようになった)

ところが、しらべ始めてみて高麗郡(715年設置)や新羅郡(758年設置)とちがって、幡羅郡ついてまとまった文献がほとんどないことがわかった。
 この地域も渡来人が中心になって拓かれたことはまちがいないが、渡来文化や渡来人の活躍について整理された報告があまりないようだ。

例によって、『熊谷市史』『深谷市史』『妻沼町史』など、関係する自治体史の古代の部についてしらべてみたが、一般的な記述はあるものの、残念ながら幡羅郡や渡来文化についての報告はほとんどみられなかった。
 そこで、熊谷市・深谷市・妻沼町を歩いて、渡来文化の足跡を訪ねてみることにした。
 
※写真は、木の本古墳群(深谷市)近くに広がるねぎ畑。





(2)渡来系氏族秦氏が拓いたところ


北武蔵(今の埼玉県)には、武蔵國にあった21の郡のうち3分の1にあたる15の郡があった。そのなかでも、幡羅郡のあった荒川流域の北側は早くから開けた地域である。
 多摩郡と同じ広さの地域に、幡羅・男衾・榛沢・大里・那珂・賀美・児玉の7つの郡が集中している。これは、古くは武蔵國が東山道に属していていた影響で、隣国の上野(群馬県)・下野(茨城県)とともに、早くから文化が発達し、稲作や養蚕・機織などがさかんで、人口も多かったものと思われる。

北武蔵、特に荒川の流域一帯は、古くから渡来人が多数定着した地域である。奈良時代の北武蔵の人口は約10万人で、そのなかで半数以上の人口が男衾郡・幡羅郡・榛沢郡・児玉郡など埼玉県北西部に住んでいたといわれている。(金井塚良一氏)

幡羅郡は、高麗郡や新羅郡のように郡が置かれた年代は文献上確認できないが、7世紀後半には武蔵国の設置にともなって郡が置かれたのではないか。

幡羅郡はその名が示すように、朝鮮半島から渡来した秦氏(新羅系)が中心になって拓かれたところである。秦氏の渡来は5世紀の半頃といわれるから、7世紀に武蔵國が置かれる以前から、この地方には渡来文化がやってきたようだ。この地域には、深谷市の「原郷」や「唐沢川」(唐は古代朝鮮半島南部のカラ=加羅)、「幡羅(ハタラ)町」、熊谷市の上奈良・下奈良、奈良神社など、いたるところに渡来文化のなごりをとどめる地名が残っている。
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