日枝神社(旧村社)



神社名:日枝神社(ひえじんじゃ)
鎮座地:群馬県桐生市梅田町一丁目481
旧山田郡梅田村大字上久方字御屋敷481
     電話 0277-22-0637
祭 神:大山咋命
配 神:菅原道真公 月夜美命 大雷命 天御中主命 大物主命 大国主命
境内社:三社
     栲機神社 祭神 降機千々姫命
      八幡宮  祭神  誉田別命
     八坂神社 祭神 建速須佐男命

桐生市史神社編由緒
 山田郡誌記載の「社伝由緒」によると次の通りである。
「勧請年月詳かならず。或はいう、延文五年の創立なりと云う。当家は桐生家の始祖桐生六郎忠利、治承四年足利又太郎に従い、宇治川先陣の功によりて当地を給り、入部の節かねて陣中の守護神として信仰厚かりし、近江国日吉神社の分霊を請いて祭祀す。是れ即ち当社の創始なり。其後六郎が末裔又六入道行阿国綱にいたり、観応元庚寅年要害の為め桐生檜テキ山城を築きし時、城中の守護神となし、神祠を建てて旗織二流を備え、神木として楠五本を献ず。これによって楠御殿山山王宮と称す。後延文五年国綱当社を檜テキ山の東方に遷し、大いにその面目を改む。国綱の孫三郎豊綱又当社を尊崇する事厚く、野州佐野より清蔵院と称する修験者を呼びよせ、社務並に神事に与らしめ桐生家の祈願所となす。是れより代々の城主相次いで崇敬厚く、天文年中大炊助祐綱の時に至り、領内七社の一として崇め奉れり。又永禄三年上杉謙信近衛竜山公を奉じて桐生城に入り、御屋形に御逗留の節、竜山公桐生の風光を賞して、八景の和歌を詠じて当社に奉献する等当時社運隆昌を極む。然るに元亀二年桐生家新田由良氏と水路を争い、天正元年三月十二日遂に由良氏の攻むる処となりて桐生氏玄に亡ぶ。この時当社は城下山王の木戸際に在りしをもって社頭俄に戦塵の巷と化せり。古記録、神宝等ことごとく兵火のためこれを失えり。是より社頭の荒廃甚だしく、後世山王の御林と称して僅かに小祠を存するのみなりしが、天和ニ年四月以降当所御給地となりし際、郷人協力して当社の再興を計り、旧社地に新殿を建て、又天正戦乱の節村内実相寺の境内に遷せしと云う。大神をも奉遷して上久方村五給の総鎮守と仰ぎ、やや神社の尊厳を復興せり。爾来元禄、宝永、享保と年次を追うて社殿の修理を加え、文政ニ年六月本殿、安政ニ年三月拝殿改築の功成りて維新に至り、明治五年村社となり、同時に旧山王権現の称を廃して日枝神社と改称す。
 又伝に云う。当社には古来相殿の神ニ座あり、社家の旧記に「祭神大山咋神相殿ニ座、木花開耶姫神、猿田彦命合せて三座」と見え、天保年中書写の祝詞文にも又三座の神号を列記せり。但し明治十二年調進の明細帳には、右相殿のニ座を載せず。然れども右相殿のニ神はもと当社の信仰上に起因せるを以て、聊か左にその由来を述べん。
 そもそも当社は中世両部習合の結果、浮屠氏山王権現と称し猿猴を以てその神使となす等、附会の説にもとずき、彼の猿猴は猿田彦神の御容貌に酷似せるより遂に相殿の神となし、後世婦女俗信の起因を成すにいたれり。又木花開耶姫神は天孫邇々芸命の妃神にましまして、その御子を産み給う時に当り、火中の産殿に入りて恙なく御平産ましませしとの古伝により後世産婦の守護神として是れ又相殿の神と仰ぎ、益々婦女の信仰を集めしが如し。口碑の云うる処に拠れば、当社は中古桐生家繁昌の時代にあたり、内室等の信仰、別けて厚かりしかば、社殿を御屋敷の地内に建てて朝暮日参に便せりと言い、殊に後世に至りては、御神木楠の枝葉を採って安産の霊符となし、是れを煎じて服用すれば、妊婦は乳を潤沢ならしむと言い、恰も神木の枝葉を以て霊薬の如くに尊信して、今猶諸方より来り乞うもの少しとせず。」
 明治四十二年一月十一日、上久方居館の無格社琴平神社と境内末社天満宮を合併、同年二月八日同字城ノ前無格社雷電命社を、次いで八月二日には字金沢の無格社出羽神社を合併した。

日枝神社参拝


この鳥居の額は琴平神社となっており合併の名残がある。
日枝神社は桐生城の守護神と伝えられている。



社殿へ向かうため石段を登る。



拝殿で参拝。



境内社は社殿右側に八阪神社が鎮座している。



境内社は本殿の左側に機神社と八幡神社。



本殿右側には織姫神社・琴平神社が鎮座している。



拝殿手前左側には手水舎。

境内施設



拝殿の前面右側に掲げた算額は著名で、研究者の来訪が絶えないとのこと。

桐生城跡日枝神社のクスノキ群
県指定の天然記念物である。
社殿の左手の四本の楠木で南北朝時代に桐生国綱が神木として献上したと伝えられる。