赤城神社(旧村社)



赤城神社
鎮座地 桐生市川内町一丁目552
(旧山田郡川内村大字東小倉字上ノ山甲五五二)
祭神名  大穴牟遅神、倉稲魂命、大物主命、橘姫A叩

由緒
山田郡誌による一杜伝嘉一は下記の通りである。・創立の年月詳かならず。但し別当が伝によれぱ・往古一元久年中一藤原秀郷の奮原太郎成家の創立に係り、勢多郡赤城沼の明神嘉りし所貢成家は武勇にして弓馬の術に達し、正治二年の秋大番勤仕として上洛中、黒谷の夫一法然一に帰依し深く仏碧究め・勤番六年の後元久二年本国に帰り、小倉村に草庵を結びて、一向腰陀仏を念ず。泄にこれを小倉の上人と称昔・然ξ一の地山窪介在して鹿多く棲息するを以つて、竃作毛を害さるること蔭れ、讐撃てこ砦防ぎし窪・夫これを望て・上星町を耕さしめこれを鹿田と名ずけて鹿の餌芝宛てしめたりと云う。然れどもこの地圭吉水利に乏しく灌警隻欠き、少し-美に遇えぼ稲田ξξ亀裂して枯渇姦かれず。農竃しくこ芸葦この時に莞り成家即ち赤城の神に雨蕎りしかぼ、奮大塞り姦豊奪り。よりて鹿田台に大碧勧誇しても一て当所の鎮守と享。その後寛延年中上ノ山の地に遷座す。これ吉留氏の蕎代・別当差りて・その竃を預りしが・維新の際これを廃す。L杜n治奉村,に列し、後四士年古九日認可を得て、鴻差座の無格杜婁神簑びそ一末杜稲荷琴平婁合併した。萎神杜は上醤誌に記警砦轟神で蕃の勧請、当村の地主神であξ桐生との境妻山走、視生側旨本武尊、小倉側は橘姫命嘉一ていた。山上今も小石碧とどめてい毛四杜殿、境域本殿流造聞口一間奥行一間第一工早各説一一八一
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祭事
春祭四月一日八坂祭七月十八日
秋祭十月十七日
境内杜
熊野杜(伊井再尊)、道神杜(猿田彦命)、摩多利神杜(大己費命)、八坂杜(須佐之鳴尊)、白滝杜(構機千ヵ姫
命、白滝姫)、(八坂杜、白滝杜は山田郡誌になし、明細書による。)

補記
境内には金石文の残るものが少な.い。石燈籠の銘文はていねいに磨りつぶされて判読困難であるが、わずかに宝暦六年と読める。末杜摩多利神は神前石階の下に建つ小桐がそれである。

赤城神社参拝