熱帯夜
この国では珍しく、気温の下がらない夜だった。もうそろそろ日付も変わる頃なのに、空気の熱は一向に下がらず、夕暮れ頃、季節外れに降った雨はそれなりの量で、涼しくなるかとの期待を見事に砕くような湿気をもたらした。
「…あつい。」
ゆっくりと床から起きあがると、傍らのカップへ手を伸ばす。
すっかりぬるくなった薄荷茶は、それでも幾ばくかの涼味を口の中に残す。
午後からこっち、まったく動かない部屋の空気にも滅入ってくる。
温んだ床に再び頭を落とす。ベッドの柔らかさがもたらす熱に耐えきれず床に転がっているが室温の下がる気配はない。
とてもこのままで眠れそうにはない。
教員の間は、何せホグワーツが北にあるからこんな暑さとは無縁で助かった。
翻って今年はこれで2日目である。
開け放した窓から庭をみると、幽かに木々が揺れ初めていた。かろうじて風はあるらしい。
だが、どうやら風向きのために、部屋へ入ってこないのだ。
窓の位置がちょうど反対になるシリウスの部屋へ逃げ込むことに決め、床から立ち上がった。
「おきてるかい?…ああ、やっぱりこっちの部屋は風が入る。」
長年の収監と逃亡生活で、体力がかなり落ちて暑さに弱くなったシリウスは、思ったとおり窓を全開にして、ベッドに伸びている。シャワーを浴びたときのままだろう、タオルを腰に巻いただけで麻のシーツに俯せていた。
「ひどいねぇ、この湿気は。…薄荷茶飲むかい?」
「…ああ…ありがとう。」
リーマスの声に反応して頭をもぞもぞと動かした。
あまりだるそうな声に、ちょっと気の毒になる。
「あ、起きなくて良いよ、ここに置くから。すこし、いてもいいかな?
私の部屋はまったく風が動かないんだ。」
頭が再びシーツに沈み込み、うなずく。
イスを窓際に運んで、カップを窓枠に置く。
小さい部屋だから結局はベッドに足がくっつく。
シーツの上で、熱量を閉じ込めた身体は、まだ骨格が浮きあがるほど痩せている。
かつての彼を知るものには予想もつかなかったほど変わってしまった肉体。
学生時代、散々もっと食えとしかられたリーマスだったが、今の彼に比べれば、自分のほうが未だ肉付きが良い、とため息をつく。
しかし、およそ、生きている人間のものとしては不健康と称される状態なのに、その正確に組み立てられた標本のような骨格が、それでも美しいと思えるのが不思議だ。
そして、くっきりと浮き出た背骨と肩甲骨を見て、今の彼なら、本当に空を飛べそうだ、と思う。
かつて見た、マグルの大聖堂の天井に描かれた天使達は、分厚い肉体に不釣り合いに小さい翼をつけていた。マグルの画家達はなぜあんな翼で飛べると考えたのかとても不思議だった。
「翼に魔法がかかっているのか?」
「いや、浮遊術をかけているんじゃないか?翼は飾りで。」
「翼が飾りというのはあたっている。」
勝手に意見を取り交わすジェームズとシリウスに、リリーが苦笑しながらも律儀に解説していた。
「天使は物理的な重さを持たないとされる存在なんだけど、彼らの図像をイメージとして安定させるために、空を飛ぶという比喩から連想される「翼」を描かせたのだって、書かれていた。」
自分達のマグル学のレポートのために、ロンドンの案内をかってでたリリーはそう説明していた。
しかし分厚い身体と小さい羽は、むしろ視覚的な不安定さと、性を持たないとされる存在でありながら男性的な肉体で描かれる事も手伝って奇妙にグロテスクだった。
あれに比べれば、今のシリウスの身体は腕も肩もかろかろとしていて、あの翼でも充分飛べそうだった。
ああ、それでも、『天使』の象徴するものと『彼』とはあまりに違いすぎて、自分の取留めの無い思考がおかしくなる。
くすくす云う声が聞こえて目を上げる。
「なんか、楽しそうだな…?」
「ああ、ごめん。でも、自分より先にへたる君を見るのが初めてだから。」
「…人が苦しんでいると喜ぶ奴がたまにいるが、お前が?」
「自分の方が丈夫で何かして上げられる方が気分はいいものだね?」
そういって、シリウスの髪をそっとなでる。
痛んだ部分を相当切り落としたが、以前のような艶のある黒はまだ戻らない。
完全に戻るのは時間がかかりそうだった。
「まだ湿ってるね。…ああ、風がほっとする。」
前髪を掻き上げられると、額に風が当たって熱を持ち去る。
それが心地よくて、シリウスはリーマスの手をそのままにしていた。
互いになにも云わずただ風に撫でられるままで。
開け放した窓からはさっきより幾分冷たくなった風が良く吹き込んでくるようになった。
眼差しが窓からの風を追う。
それに気づいたリーマスが話しかける。
「朝になったら、湖までいってみないか?水が冷たくて気持ちがいい。」
「…泳ぐつもりなら、睡眠を取らないと…。」
「歩くだけだよ。緑色のきれいな石が拾えるよ。」
「…?」
この男は相変わらずいきなり、子供のようなことを言い出す、とシリウスは考えた。
しかし、思考は再び拡散し始めている。
ゆっくりとリーマスの声が遠ざかる。
「陽に透かすと金色になってね…」
小さな笑い声が、眠りの方へ自分を送り出す。
寝入ったシリウスを見て、リーマスは風邪を引くとまずいなと思う。
薄いシーツを戸棚から取り出して、彼の上にかける。
羽織ったシャツの首もとを窓からの風が撫でる。
それから、良く磨かれた床に寝っ転がった。風が身体を撫でる。
ああ、やっぱりこのほうが気持ち良い、とつぶやいて目を閉じる。
頭上から幽かに聞こえてくるシリウスの寝息が、リーマスの目蓋も重くしていく。
湖には人がいないし、人のままでも問題は無いだろう。
でも、パッドフットのほうが喜びそうだ…などど考えながら。
翌朝、肌寒さに目覚めたシリウスは、友人がシーツもナシに床に転がっているのを見て仰天した。
安らかな寝息を立てる彼にひとまず安堵し、自分が蹴落としたのかとしばらく悩み、とりあえず、そおっと彼の身体を自分のベッドに入れ替えて、朝食の仕度をしに部屋を出た。
つぶやき
熱帯夜:日本の気象用語だけど多分、英語には熱帯夜はないと思う・・・