体温

 冷たい雨と水気を吸って重たくなったローブに辟易しながらぬかるんだ道を歩く。駅から半時ほど歩く道は、天気さえよければそれなりに心を和ませる風景だが、今日は単調な銀と灰色の濃淡が浮かんでいるだけだった。
 しかし、秘密を抱えながら目立たない程度に生活し、人の間にまぎれるものにとっては大都市に隣接し、他人にある程度寛容な中程度の街と、さほど開かれていない農村地域のモザイク状に入り組んだこの地理は、人付合いさえ気を付ければ、居心地もよく、危険も少ない。
 田舎の大きな屋敷ならともかく、農村地域は、ある程度生活空間が広いにもかかわらず、異変や異質なものの混入には敏感だし、大都市は秘密を保つ空間を人目につかずに確保するのは至難だったから、いきおいリーマスはこういう地域を選んで一時の居を構えることが多かった。幼かった時分も、成人してからも。
 『檻』としての機能を必要とするため、住まいとする家の作りは大抵似たり寄ったりになる。それでも愛着の湧くほど一箇所に長く住む事も少なく、親と暮らしていた当時ならともかく、独立してからの『家』はリーマスにとって特に慕わしい空間ではなかった。


 しかし、今現在は少し事情が違った。
 銀灰色の風景の向こう、あの古くて頑丈な家のドアの向こうには自分を待っている手がある。
 未だ自分の病の意味を理解していなかった頃、薄暗い地下室の角で寒さに震えながら、長い夜の明けるのを待っていた。
暗闇に怯え、泣いても叩いても、朝にならなければそのドアは開かないのだ、と理解してからも、重たいドアが開いて柔らかくて暖かい手が彼を抱きしめ頭を撫でてくれるのを待っていた。
自分がずっと幼かった頃。

 自分に触れてくるヒトの手。
 人狼の自分を恐れず抱きしめてくれる手。
 今はそれがドアの向こうにある。その事実が、氷雨の匂いの中、リーマスの疲れた足取りを一時軽いものにした。


 リーマスが帰宅し、今のドアをあけたとき、シリウスは待ち疲れた風情でソファに横たわっていた。
 足音やドアの開閉音にも反応はない。
 多分、彼はこの数日の一人の夜を、夢を見ることを拒否して過ごしたのだ。
 ここへ来た当初、彼は物音に酷く敏感だった。
 追われる身としては当然なのかもしれないが、傷つき弱ってしまった身体、記憶や悪夢とともに、それも酷く彼の精神を苛んでいたことは見て取れた

 それが今は自分の足音に怯えない。そのことに安堵する。
 寝顔を覗き込むと、幼いと言ってもいいような表情に、リーマスの口元にも笑みが浮かぶ。
 軽く握りこまれた指の爪は少し歪んでいて、おそらくこれは治らないだろうが、シャツから伸びる痩せた手首に在った深い傷跡はこの数ヶ月でかなり癒えた。
 ソファの下に落ちた雑誌を拾い、身体を丸めて眠るシリウスに毛布をかける。
 シリウスはいまだに一人で眠るとき、身体を丸くしている。
 生き物が無意識に自分を守ろうとする姿勢。
 子供のようにぐっすりと眠っているのに、その姿が彼に植え付けられた『傷』を見せつけている。彼がその傷を消すには長い時間が掛かるだろう。

 それでも生きている身体はその傷を癒していく。
 傷ついた精神もいつか癒されるだろうか。
 生きているなら。
 いまだ癒えない彼の傷を見るたび、哀しい。
 過去の彼の晴れやかさ、無疵の輝きを自分はとても愛していたから。
 少しづつ癒されていく彼の傷跡を見るたび泣きたくなるほど嬉しい。
 彼は生きている。
 ここで、自分の傍らで彼は生きて存在している。
 シリウスが幸せな状態だとは思えなかったが、自分は充分過ぎるほど幸せを噛締めている、と思った。

 かけがえの無い友人、十数年前すべて失ったのだと思った人々。
 永久に手の届かないものになったと思った存在が、たとえ帰ってきたのがただ一人であっても、再び声を交わし、触れ、同じ時間を共有できる事の喜びは曇らない。

 自分は友人を取り戻せたのだ、と。

 身じろぎしたシリウスがゆっくり自分のほうを向いた。
「…ああ、帰ったのか、」
「ただいま。」
「お帰り、」
 シリウスの手が上がって、自分の頬に触れた。
 シリウスの指から伝わる体熱は普段より幾分高めで心地よい。

 唐突に身体の内側が膨れ上がるような感覚を自覚した。
 うまく言葉にならない強くて複雑な感情。
 途惑ううちに、思いがけず彼の顔が間近にあってひるんだ。
 軽く唇が触れる。
「…なんだ、ずいぶん冷たくなってる。」
 雨に濡れたから、そういえばいい筈なのに、喉元まで出かかった言葉を飲みこんだ。
 突然狼狽し、沈黙したリーマスをどう思ったのか、シリウスの腕が伸びて彼の身体を閉じ込 めようとする。それはもはやあたりまえになってしまった、慣れた所作だったが、それに答える事も出来ず、逃げる事も出来なかった。

 シリウスが彼に望んだ新たな関係は、特に問題を引き起こすものでは無かった。

 そう、問題は無かったはずだ。

 自分はこの関係を一過性のものと考えていた。
 シリウスの精神状態がある程度安定(もしくは回復)すれば解消されるだろうと。
 その認識に変化は無い、が、その意味を唐突に理解した。
 自分たちはまた『友人』に戻る。
 キスも、自分に触れるこの手も、離れていく。

 問題は無いはずだ。
 何を考えているんだ、私は。
 問題も答えも十分理解しているのに感情が押さえられない
 顔が酷く強張っていることを感じた。
 不審に思ったのか、シリウスが宥めるように肩を抱きしめてきた。
 耳に落とされた彼の問いには答えを返せなかった。
 リーマスは自分の中で生じた感情がまったく沈静化できない事に気が付いて恐慌状態になる。

 息をするように自分を制御できる事。
 自分の肉体も精神も常に自分に制御下に置く事。
 それはリーマスにとって、この『世界』に生きようとする自分を信用するための最後の砦だった。
 この『世界』に身を置く、と決めたとき、自らに課した戒め。
 シリウスの手が、小さな子どもを宥めるようにそおっと髪を撫でながらもう一度耳元で繰り返す。
 冷静にならなくては、と思う側から、制御が出来ていない。
 思考は同じ所を回るばかりでさっぱり要領を得ない。

 薄暗い地下室の角で寒さに震えながら、長い夜の明けるのを待っている。
 重たいドアが開いて柔らかくて暖かい手が彼を抱きしめ頭を撫でてくれるのを待っている。
 あれから、ずいぶん遠くへ来たと思っていたのに。

 自分に触れてくるヒトの手。
 人狼の自分を恐れず抱きしめてくれる手。
 まるで、子供じゃないか。
 笑いたかったが、出てきたのは笑い声でなく苦鳴のようにも聞こえる吐息だった。
 彼がずっと側にいるとは、考えなかった。
 実際、彼は友人を取り戻せたのだと認識することで充分に幸福だと感じていた。
 それだけで充分だった。
 充分だったはずだ。
 皮膚の内側を限界まで満たした感情が眼から溢れ出す。
 心細さに立ちすくむ自分の愚かさをを哀れんで。
 これから自分が向き合うであろう感情を恐れて。
 一度押し開けられた感情の扉は自身の手で押し戻すことも出来ず、リーマスの内側で、醜い嵐はまだ吹き荒れていた。



 自分は失うことを知っている。

 自分を恐れず抱きしめてくれる手。

 自分の内側にあるものを、考えないように。

 自分に触れてくるヒトの手。

 人狼の自分を恐れず抱きしめてくれる手。

 それを当たり前としないように。


 その手は何時か消えるモノだから。





’03.09.27








つぶやき

 先生は一時的な関係だと思ってました。理由は、シリウスの『恋人』が半年以上同一人物であった事は無いから(身も蓋も…)。『帰納法』と言う奴です。すごい説得力です。でも『恋人』じゃないならこんなふうに触れてもらえなくなるんだな、と思い至ってすごく哀しくなってます



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